目次
1919年 パリ講和会議で日本が人種的差別撤廃提案を行う
人種的差別撤廃提案とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
1918年11月11日、ドイツは連合国に降伏し第一次世界大戦は終結した。翌年1月に開かれたパリ平和会議において世界の主要国の首脳が集まり、戦後処理および国際連盟を含め新たな国際体制構築について話し合われた。
2月13日国際連盟委員会において、わが国の全権の牧野伸顕は連盟規約第21条の「宗教に関する規定」に次の条項を加えることを提案した。「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速(すみやか)に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す。」いわゆる「人種的差別撤廃提案」を行った。
わが国の提案は会議で紛糾し、結局連盟規約第21条自体が削除され、全権の牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べて次の機会を待つこととなったのだが、わが国のこの提案は海外でも報道され様々な反響を呼んだ。
4月11日に国際連盟委員会の最終の会議が開かれ、牧野伸顕は連盟規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す」との文言を盛り込むという修正案を提案した。議長であったウィルソン米大統領は、提案そのものを取り下げるようわが国に勧告したが、牧野は採決を要求した。
議長を除く16名が投票を行い、フランス、イタリア、中国など計11名が賛成し、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対した。
過半数の賛同を得たものの、議長のウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言し、牧野は多数決で決すべきではないかと詰め寄ったのだが、ウィルソンは「このような重大な議題については、全会一致で決すべきである。」と答えて譲らなかったという。
牧野は最後に「今晩の自分の陳述および賛否の数は議事録に記載してもらいたい」と述べて、ウィルソンもそれを了解したという流れだ。
イギリスは修正案には賛成の意向だったが、移民政策が拘束されてしまうと反発するオーストラリアと南アフリカ連邦の意向を無視できず、結局反対に回った。特に白豪主義を採るオーストラリアは内政干渉であるとして強く反対し、続いてアメリカも自国のアジア系移民排斥運動と黒人問題を抱えて躊躇した。実際、ブラジルを除き、賛成国は概して移民を送り出す側である。
レジナルド カーニー「20世紀の日本人―アメリカ黒人の日本人観 1900‐1945」五月書房1995
「どのような不都合が生じたとしても、人種平等を訴え続けることは、必ずアメリカ黒人の利益につながると、ジェイムズ・ウェルドン・ジョンソンは考えた。『おそらく世界で最も有望な、有色人種の期待の星』、それが日本であるという確信。日本はすべての有色人種に利益をもたらすという確信があったのだ。それは、たとえひとつでも、有色人種の国家が世界の列強の仲間入りをすれば、あらゆる有色人種の扱いが根本的に変わるだろうという、彼の強い信念によるものだった。
ポール・ゴードン・ローレンの書籍『国家と人種偏見』 大蔵 雄之助 (翻訳) TBSブリタニカ(阪急コミュニケーションズ) 1995
米国黒人が大きく期待していたパリ講和会議における日本の「人種差別撤廃提案」が、賛成多数であったにもかかわらず、議長裁定(米国大統領ウッドロウ・ウィルソン)により法案が成立しなかったことに失望して全米各地で紛争が起こったことがポール・ゴードン・ローレンの『国家と人種偏見』という本に書かれている。
「アメリカでも暴力的な反応があった。人種平等や民族自決の原則を講和会議が支持しなかったことにいらだち、あからさまに不法で差別的な政策を前にして自国の政府が意図的に無作為であったことに怒って、アメリカの多数の黒人が完全な市民権を要求することを決意した。この決意は特に黒人帰還兵の間で強かった。彼らの民主主義十字軍としての戦争参加は、祖国でももう少し民主主義を、という当然の夢をふくらませた。…その一方で、復活したクー・クラックス・クラン*の会員のような反対派の連中は、平等の要求などは絶対に許さないと決意しており、『生まれながらの白人キリスト教徒はアメリカ国家と白人の優位を維持するために団結して統一行動をとる』という計画を公然と発表した。
この相容れない態度が1919年の暑い長い夏に、剝きだしの暴動となって爆発した。6月から10月まで、アメリカの多くの都市のなかでも、シカゴ、ノックスヴィル、オマハ、それに首都ワシントンで大規模な人種暴動が発生した。リンチ・放火・鞭打ち、身の毛のよだつテロ行為、それから『人種戦争』と呼ぶのにふさわしい破壊。当局は秩序回復のために、警察、陸軍部隊、州兵を動員した。暴動が終わってみると、100人以上が死亡、数万人が負傷、数千ドルに及ぶ被害があった。ジョン・ホープ・フランクリンは次のように書いた。パリ講和会議の差別の政治と外交に続いたこの『赤い夏』は『全土をかってない人種闘争という大変な時代に追い込んだ。』彼が目撃した暴力は国内の一部の地区にとどまらず、北部・南部・東部・西部…『白人と黒人が一緒に生活を営んでいるところならばどこでも発生した』」(『国家と人種偏見』p.151-152)」
3月にエジプトで暴動が起こり、4月に起こったインドのパンジャブ地方で反乱では、イギリスの将軍が非武装のインド人群衆に発砲して死者400人、負傷者1000人が出たという。同じ月にパレスティナでも流血の惨事があり5月にはイギリスはアフガニスタンで戦争に突入し、トルコとは一触即発の状態となったという。
全米黒人新聞協会が発表したコメント
第一次世界大戦が終結した大正8(1919)年、 第一次大戦の惨禍を再び繰り返す事がない為に「国際連盟」を創設しようという「パリ講和会議」が行われました。
この時、米国の黒人達が最大の注目したのが日本です。 日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという、その時点では正に画期的な提案をかかげて、 戦勝国の一員そてい講和会議に出席しています。
この講和会議に出席する日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄りました。 本来ならば、パリに向かうなら、インド洋を回るルートが早道です。けれど、日本の使節団は、あえて別ルートで米国をまわったのです。
これには理由があって、 人種差別撤廃を図りたい日本の使節団は、 講和会議の議長役となる米国のウィルソン大統領に、あらかじめ根回しをして人種差別撤廃への協力を求めようとしたからです。
ですから、この日本の訪米は、 長年人種差別と戦ってきた米国の黒人社会が大絶賛しています。 「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、 黒人社会の指導者4人は、日本の使節団に「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」事に尽力してほしい、という嘆願書まで渡しているのです。
「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、 最大の敬意を払うものである。」これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。 人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、 有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、 人種平等への旗手と見なしていたのです。
当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、 二人が黒人だった事について、やはり黒人紙の「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。
「殆どの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、 日系人の病院がどの人種にも、 門戸を開放している事は本当に喜ばしい限りである。 同じ人種の医者に診てもらう事ができる安心を患者は得ることができるのだから。」
そもそも日本人というのは、 人種差別という概念を持ち合わせていません。 誰であれ、親しく真面目に接してくれるなら、 胸襟を開いて友となる。それが日本人です。
1923年の関東大震災では、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまり我々黒人こそが、 同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書します。
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた。 「たしかに我々は貧しい。しかし、 今、お金を出さなくていつ出すというのか。」
同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していきます。
万国黒人地位改善協会は、 「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。
「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、 A・L・ジャクソンは、長い間白人達の専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、 飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、 震災で大きな打撃を受けた事により、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。
なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからだといいます。
1919年 ネブラスカ州オハマで、白人によるリンチで焼死したアフリカ系アメリカ人(ウィル・ブラウン)を囲んで記念撮影する白人
1919年のアメリカで、自国政府代表のウッドロウ・ウィルソン大統領がパリ講和会議で『人種的差別撤廃提案』に反対した事に対し、多くの都市で人種暴動が勃発し、100人以上が死亡、数万人が負傷する人種闘争が起きた。
多くの暴動では、白人犠牲者よりアフリカ系アメリカ人の犠牲者が大きく上回っている。

・5月10日 チャールストン サウスカロライナ州、シルヴェスター ジョージア州
・5月29日 パトナム郡 ジョージア州
・5月31日 モンティ ミシシッピ
・6月13日 ニューロンドン コネチカット、メンフィス テネシー州
・6月27日 アナポリス メリーランド州、メーコン ミシシッピ
・7月3日 ビスビー アリゾナ州
・7月5日 スクラントン ペンシルベニア州
・7月6日 ダブリン ジョージア州
・7月7日 フィラデルフィア ペンシルベニア州
・7月8日 コーツビル ペンシルベニア州
・7月9日 タスカルーサ アラバマ州
・7月10日 ロングビュー テキサス州
・7月11日 ボルチモア メリーランド州
・7月15日 ポートアーサー テキサス州
・7月19日 ワシントンD.C.
・7月21日 ノーフォーク バージニア州
・7月23日 ニューオーリンズ ルイジアナ州、ダービー ペンシルベニア州
・7月26日 ホブソンシティー アラバマ州
・7月27日 シカゴ イリノイ州
・7月28日 ニューベリー サウスカロライナ州
・7月31日 ブルーミントン イリノイ州、シラキュース ニューヨーク、フィラデルフィア ペンシルベニア州
・8月4日 ハティスバーグ ミシシッピ
・8月6日 テクサーカナ テキサス州
・8月21日 ニューヨーク市 ニューヨーク州
・8月29日 オクマルギ川 ジョージア州
・8月30日 ノックスビル テネシー州
・9月28日 オマハ ネブラスカ州
・10月1日 エレイン アーカンソー州

An African American man was stoned to death by whites during the Chicago Race Riot of 1919.
1919年7月27日シカゴでの人種間暴動。ボート遊びをしていた黒人少年が白人専用ビーチに入ってしまい、白人から石を投げつけられて亡くなったことが暴動の発端となった。
アメリカでは、1857年に最高裁判決で、「差別をしても憲法違反にならない」、「黒人は市民ではなく、奴隷であり、憲法は白人のためのみにあるものであり、黒人は、白人より劣等な人種である」とはっきりと宣言している。その後の歴史はまさに、リンチと暴動と、暗殺の歴史である。特に、武器が民間人にも容易に手に入るアメリカにおいては、白人が集団で黒人をリンチし、むちで叩くとか、家を壊す、火をつける、ひどい場合には、電柱につるして銃で蜂の巣にするような事が公然と行われた。1908年(スプリングフィールド)の暴動では、黒人、白人あわせて2百人が拘留されたが、「白人で処罰された者は、一人もいなかった」。
 パリ講和会議が行われたのと同じ1919年には、シカゴで大規模な暴動が起きている。原因は、ミシガン湖畔で、「白人しか遊泳が許されていない水泳場に、無断で泳いで行った黒人青年が溺死した」事が発端であった。暴動によって街は無法地帯と化し、双方に多数の犠牲者が出た。家を焼かれたり壊されたりした黒人の数は、1000人を超え、同じ年に、アーカンソー、ネブラスカ、テネシー、テキサス、コロンビア特別区でも同様の暴動が起きている。ややさかのぼるが、1905年には、カリフォルニアで「日本人排斥運動」が起きている。
 これが、日本が「人種差別撤廃」を打ち出した当時、これを否定したアメリカ国内の偽らざる状況である。
大正8年(1919)9月15日付けの大阪朝日新聞の記事
全米国の危機
ボストン大暴動の影響
紐育特電十一日発
ボストンに於ける十一日午後の形勢にては暴動は容易に鎮定の見込なく更に二名の死亡者を出せり知事は十一日陸海軍長官に向い州兵のみにては秩序維持に不足なるにより正規兵を直に派遣さるべき旨の電報を発せり警官罷業の原因は警官労働者組合の組織を市長に請求して拒絶されしにあれば若し此同盟罷業が成功せんか由々敷大事なり此点に関して上院議員マイアース氏は上院に於て警告の演説をなして曰く議会が即時行動を開始して此運動の鎮定に力めざれば合衆国内の五十都市に於ける警官は一団となりて組合を組織し更に進んで米国労働組合連合団体と連合すべく次いで来るべきものは軍隊の組織ならずとせず斯の如くんば遂に次期大統領選挙までには米国の過激派政府の出現を見るに至るべしとマイアース氏は次に来る二十二日より開始せらるべき鋼鉄工場労働者の全国的同盟罷業を警告し此次は鉄道従業員の総罷業あるべく更に石炭坑夫の罷業起らんと言明せりマサチュセッツ州知事クーリッジ氏は陸軍卿及び海軍卿に向ってボストン地方の危急に備えんが為め連邦兵及び海兵を用意ありたき旨要求したり(国際ボストン十一日発)
依然たる無政府状態
ボストンの暴動以来十二日朝まで軍隊に打たれ死亡せし者七人に達せり軍隊の警備あるに拘らず掠奪は到る処に行われ無政府状態は依然たり若し労働者の同情的総同盟罷業が開始されんか全く手を下し難きに至るべしと憂慮され居れり十一日夜労働組合は同盟罷業を為すべきや否やを相談せしが其結果は未だ発表されずイヴニング、サン紙ボストン来電は総同盟罷業は延期するに決せりと報じ居れるも確ならず若し然らんには暴動だけは軍隊の力により日ならずして収まるならんと予期さる新聞の論調は華盛頓、市俄古に於ける黒人暴動の時と同様無見識にて曩にシアトルに発生してウィンベッグに移りリヴァーノールに飛火し更にボストンに後戻りせる暴動は次には何処に伝染すべきか憂慮に堪えずと論じ居れるのみ(紐育特電十一日発)
1919年 イギリスから独立を求めたエジプト革命 
1918年11月11日、ヨーロッパにおいて、第一次世界大戦が終結すると、サアド・ザクルールを代表とする反植民地活動家は、エジプトに駐在していたレジナルド・ウィンゲート高等弁務官に対して、イギリスによるエジプト支配の終了とパリで開催される講和会議には、エジプト人も出席できるように要請した。しばらくして、独立を求める運動が組織されるようになり、市中を埋め尽くすようになった。ただし、この運動は暴力を伴うものではなく、市民的不服従の性格を帯びていた 。ザクルールとワフド党は、エジプト中の町、村を訪れ、エジプトが完全に独立を達成するための請願書の署名を集めていった。イギリスは、ワフド党の支持を見るにつけ、社会的な不安を感じるようになり、1919年3月には、ザクルールとそのほか2人の指導者を逮捕し、マルタへ流した。
1919年3月8日、ザクルールの逮捕・マルタへの流罪を起因とする形で、エジプトで革命が勃発した。4月までの数週間の間、エジプトの随所でデモンストレーションとストライキが起きた。デモやストライキには、学生、公務員、商人、農民、労働者、イスラームやコプト教といった宗教の枠を超える形での宗教指導者、さらに、女性が参加した。エジプトにおけるデモやストライキは日常生活を停止させ、また、少しずつ、暴力性を帯びていくようになった。イギリスの軍事施設、公共施設にまで攻撃対象が広がっていった。イギリスは、エジプト情勢を鑑み、1922年2月22日、エジプトは独立を達成した。
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
inserted by FC2 system