目次
五一五事件の教訓―大衆的情緒を操る新聞報道の影響
はじめに
昭和7年5月15日、コミンテルンの「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書(テーゼ)」決定とときを同じくして、海軍士官による首相殺害という五一五事件が生起したが、この事件の発生およびその後の状況をみれば、フォン・ゼークトの言葉を借りるまでもなく、「軍隊は国民がつくるものであり、軍隊の水準は国民の水準以上にはならない」という歴史の教訓が、また軍人のみが独走して太平洋戦争に至らしめたという、従来の軍人悪者説が間違いであったことが理解できるであろう。特に、なぜ五一五事件が生起し、また、いかに政治不信を抱く国民が被告に同情し、それが、その後の日本の暴走にいかに力を貸したか。すなわち、日本が国際的に孤立し、世界を敵として戦うに至った貰任の一端が軍人のみならず、政治家や販売部数拡大競争に走る新聞社、さらに、そのような政治家を選び、そのような新聞を購読し続けた国民に、総ての實任があったことが理解できるであろう。現在の混迷した政局をみるとき、今ほど戦争責任を軍部のみに課し続けてきたことが、いかに一面的であり不合理であるかを、体験的に理解できるのではないだろうか。以下、今日の政局と極めて類似した当時の政局と国民の政治不信、大衆的情緒を煽る新聞報道、そしてそれらが、その後の日本および日本海軍にもたらした影響などについて論じてみたい。
政争・政争、そして短命政権
当時の日本は底知れぬ不況に倒産があいつぎ、都市には失業者が溢れ、農村は疲弊し食にこと欠く窮状にあった。中国における反日運動の高まりなどの内外の問題に対し、現在の日本のように当時の日本も抜本的改革が必要であった。しかし、政治は動かず短命政権が続き汚職が絶えなかった。大正1年11月4口夜に原敬首相が東京駅の改札口付近で、右翼の少年によって刺殺された。原首相のあと首相に就任した高橋是清には、国際的には中国問題、国内的には膨張した財政と物価上昇に対処し、財政、行政、税制改革と物価安定、普通選挙問題や綱紀粛正の断行など差し迫った問題が山積していた。しかし、党内は高橋派と床次竹二郎の主導権争いで対立が収まらず、このため高橋内閣は組閣僅か半年後の大正11年6月には閣内不一致で辞職してしまった。
後任は加藤友三郎海相で、加藤首相はワシントン会議による海軍軍縮を断行した。しかし、加藤首相も健康を害して大正12年8月下旬には世を去り、次の大命は海軍大将山本権兵衛に下った。しかし、山本内閣はその成立直後に皇太子妃殿下の色盲問題や、皇太子殿下殺害未遂の「虎ノ門事件」などが発生して、総辞職に追い込まれ、大正13年1月7日には機密院議長の清浦奎吾が総理に指名された。これに対して政権を失った憲政会・政友会、それに革新倶楽部のいわゆる護憲3派が貴族院を基礎にした清浦内閣こそ、国民思想の悪化と階級闘争の激化を招いていると倒閣運動を繰り広げた。
そこへ1月末、立憲政友会総裁高橋是清、革新倶楽部総裁犬養毅、尾崎行雄などが乗り合わせた列車を転覆させようとした事件が発覚、第48議会はこの問題を巡って大混乱に陥り、清浦内閣はこの事件がもとで組閣1カ月後の1月31日に議会を解散してしまった。このため総選挙となったが、5月1日の選挙で護憲3派が大勝し、ここに「政党3派とも自ら政権を持ちたい。取りたい。自ら持てぬ。取れぬ場合にはむしろ3派以外のものに政権を渡すも、自派がこれに接近の機会さえ得られるならば結構である、我慢する。口には憲政の常道云々と唱え得るも意中にはこの(中間内闘という変道に廿んずる暗流(陸軍大臣字垣一成日記1」に廿んじる同床異夢の護憲3派連合内閣が誕生した。加藤高明総理は弱体連立内閣にもかかわらず、陸軍4個師団の削減を行うなど経費の節減に努め、第51議会では貴族院令の改定や行政整理関係の諸法案を成立させただけでなく、普通選挙法案を逝過させた。しかし、加藤首相も第51議会で施政方針演説を行った翌日に倒れ、大正15年1月28日には他界してしまった。このように、大正10年11月4日に原首相(第19代)が、昭和7年5月15日に犬養首相(第29代)が射殺される11年間弱に、11人の総理が誕生する短命内閣が続いたのであった
政界の連続的汚職事件

短命政権に加えて政財界の汚職事件も絶えなかった。大正15年から昭和2年にかけて、大阪市の松島遊郭移転問題で政友会幹事長の岩崎勲、憲政会の長老の箕浦勝人、政友本党常任委員長の高見之通など3大政党の巨頭6名が詐欺罪で起訴収監された。続いて帝都復興院内部の土地売買を巡る大がかりな贈収賄事件、鉄道省庁内外で汽車会社の贈収賄事件が明らかになった。さらに、大正15年3月には現在のロッキード事件や金丸事件にも相当するシベリア金塊事件が発覚した。議会で中野正剛は政友会総裁、元陸軍大臣田中義一がシペリア出兵の時に得た金塊を横領し、その一部を政友会総裁になるときに寄付した陸軍機密費問題を、陸軍中将石光真臣の建白書と元陸軍2等主計三瓶俊治の摘発書とともに緊急動議を提出した。中野の「田中義一総裁が政友会に登場してから、政友会の動静には常に金がついてまわる。金とともに壮土が動く。金を使い壮士を使い、ウソの宣伝をして政界を混乱することは今日の政友会のやり方だということは万人が認めている」と追求した中野演説が政界を震撼させた。しかし、政友会は国家よりも党利党略を優先し、国軍を正道に戻すことなく、逆に中野を葬り去ろうとしたのであった。すなわち3月11日に政友会は「議員中野正剛氏は、神聖なる議場において荒唐無稽の言辞を弄して国民の偽悪をかもし、軍隊の規律を撹乱し、士気を荒廃せしめ、露国共産主義者のヒソミにならいて国民と軍隊との離問を企てたる非行に対し、すべからく反省処決すぺし」との決議案を提出した。そのあと、国会は中野問題で荒れに荒れたが、結局、政友会は金権総裁田中義一を救うために、軍部を批判する中野議員を国体を破壊する共産主義者であり、乱臣賊子であるとの懲罰動議を採決したのであった。
このように政友会が「陸軍の威信」によって守られたことは、以後、陸軍の問題が議会では不可侵の聖域となったことを意味した。そして、陸軍の暴走がテロの季節が始まったのであった。昭和5年11月14日には、ロンドン条約に不満を持った右翼の愛国社員佐郷屋留雄により、浜口雄幸首相が射殺された。昭和6年3月および10月には、未然に発見されたが桜会によるクーデターが発覚した。桜会は「現今の社会層を見るに、高級為政者の背徳行為、政党の腐敗、大衆に無理解な資本家、華族、国家の将来を思はず。国民思想の頽廃を誘導する言論機関、農村の荒廃、失業、不景気、各種思想団体の進出、糜爛文化の躍進的台頭、学生の愛国心の欠如、官公吏の自已保存主義等々邦家の為寔に寒心に耐へざる事象の堆積なり。然るにこれを正道に導くべき重責を負ふ政権に、何ら之を解決すべき政策の見るぺきものなく、また一片の誠意の認めるべきものなし」との危機感から生まれたものであった。
翌昭和7年2月9日には民政党総務で、前蔵相の丼上準之助が血盟団員小沼正によって、また翌3月5日には三井合名会杜理事長の団琢磨が血盟団員菱沼五郎によって射殺される血盟団事件が起こった。この時に使われた拳銃は維新運動に燃え、「一人一殺」を井上日招に吹き込んだ古賀清志大尉が大連で購入したもので、藤井は海軍部内に王師会を組織していた、そして、この暗殺事件の2カ月後の5月15日に二二六事件の導火線ともいわれる五一五事件が起こったのであった。
五一五事件の衝撃
五一五事件は三上卓中尉など6名の海軍士官が中心となり、これに陸軍士官学校生徒11名、水戸愛郷塾などの「農民決死隊」8名が加わり、昭和7年5月15日に首相官邸などを襲撃して犬養毅首相を殺害し、牧野内務大臣官邸、政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃した。事件そのものは関係者も少なく、短時間に全員逮捕され、クーデターというよりは幼稚な単なるテロ事件であった。この事件の背景として戦後の史書の多くが、ロンドン海軍軍縮条約締結への反発、続く満州事変の勃発などによる軍部の台頭にあったと書かれている。これも一面の事実であろう。しかし、被告が訴えたものは「既成政党を殺せ。横暴極まる宮憲を懲戒せよ」との撤文が示す通り、動機は政治の腐敗であり、官僚と政治家や資本家との癒着に対する反発であり、さらにロシア革命の影響ではなかったか。
「刻下の祖国日本を直視せよ。政治、経済、外交、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや。党利に盲たる政党、之と結託して民衆の膏血を搾る財閥と、更に之を擁護して制圧日に長ずる官憲と、軟弱外交と堕落せる教育一腐敗せる軍部と悪化せる思想と、塗炭に苦しむ農民労働者階級と、而して群処する口舌の徒と。日本は今や斯の如き錯綜せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時期、今にして起たずんぱ、日本は減亡せんのみ。国民諸君よ 武器をとれ。今や邦家救済の道は唯一つ直接行動以外の何ものもない。国民よ、天皇の名において君側の癌を葬れ、国民の敵たる既成政党を殺せ。横暴極まる官憲を懲戒せよ」。
求刑に先立ち陸海軍および司法省は、昭和8年8月11日に3省の首脳会議を開き、厳罰の方針で臨むことで意見の一致を見た。しかし、事件の衝撃は法廷において被告や弁護人が述べた政治の矛盾や、国家改造論の要旨が連日新聞に報道され、国民各層に共感を呼び急進的国家主義運動を台頭させ、それが「襲撃」以上の効果を発揮した。新聞は「財閥の飽くなき私欲古賀中尉政党を罵倒」。「国家革新運動の精神を力強く語る」。「三上中尉、特権社会を痛撃し政党腐敗を憤る」。「革命歌に感動、悩める西川熱弁」、「飢える農民のため、橘法廷で泣く」などと、法廷での被告の陳述をセンセーショナルに報道した。
公判が進むに従って新聞は涙々の報道となり、世論は次第に熟狂的な同情へと変わった。しかし、このような流れの中、海軍が出した判決は死刑3名を含む厳しい求刑であった。すると、国民のほとんどが重すぎると求刑に怒り、論告求刑と同時にいっせいに判決批判の嵐が巻き起こった。8月19日には減刑嘆願の勲意を示すため9名のアルコール漬の小指が弁護団から提出された。9月14日には19歳の女性は国家のために事件を起こした被告が死刑とはと、電車に飛び込み自殺して減刑を訴えた。新聞は連日「時局に憤慨し首相官邸で切腹」、「被告の減刑願いに鮮血の小指9本」、「殺到の減刑嘆願6万を突破」、「7万の嘆願書中に尋常1年生5名」、「血書の減刑嘆願陸続6万通を越ゆ」と、熱狂的な減刑運動の盛り上がりを伝えた。8月19日には6万通であった減刑嘆願書が、海軍側被告の判決前日には、血書千通を含む115万通に達した。
事件発生1年後の昭和8年9月に陸軍が、11月に海軍が判決を下したが、報道機関による国家社会主義的情宣で拵えられた世論の影響で、判決は大きく変更された。首謀者は事件3カ月前に上海上空で戦死していた藤井済少佐とされ、他の者は禁固15年に軽減された。
おわりに
判決は国民情緒に後遺症を残し、青年将校たちに同種の行動を促す一因となった。「深く同憂者の決起に刺激せられ、益々国家革新の決意を固め、右目的達成の為には非常手段も亦敢へて辞すべきに非ず」と唱える二二六事を引き起こすなど、昭和動乱の導火線として国家改造思想に火を付け、若い陸海軍の士官や右翼を感奮させ、連鎖反応的に国家社会主義化を日本に生起させた。
一方、この事件が海軍に及ぼした影響は、海薫を政治から遠ざけ陸軍の独走を許したことであった。すなわち、公判中に減刑運動に触発されてクラス会などに論告反発の動きが活発化すると、横須貿鎮守府司令長官野村吉三郎中将は「統制を乱す勿れ」と訓示し、連合クラス会の開催を禁止した。続いて大角峯生海相も情勢を憂慮し、「神聖な軍法会議においては必ず公正なる裁断あるべきは論を待たざる所なり」「切に自重を求む」と訓示したが、さらに裁判終了後に海軍大臣岡田啓介大将からは軍人の政治介入を禁じ、全軍に「専心各自ノ本分ニ精励シ上下相信ジ軍規ノ粛正ニ全力ヲ傾クルヲ要ス」との指示を発した。また、海軍兵学校の全教官には「今次不祥事件ニ鑑ミ生徒精神教育上留意スベキ点並ニ改善スベキモノアラバ之ガ方策ニ関シ所見ヲ説述セヨ」との課題が課せられるなど、海軍は事件の再発防止に努めた。このためか、海軍ではその後このような事件は起きなかった。しかし、この事件の衝撃から、以後海軍の “Silent Navy” 教育が強化され、海軍を政治から遠ざけ、海軍の政治力を弱め、陸軍の独走を許す結果に繋がった。
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