目次
昭和7年(1932)5月にコミンテルンで決定された「日本における情勢と日本共産党の任務に関する方針書(テーゼ)」の通称。
「赤旗」1932年7月10日特別号に発表された。日本からは片山潜、野坂参三、山本懸蔵らが参加して討議された。
内容の概略は以下の通り。
•日本は強盗的帝国主義であり、現に帝国主義的強盗戦争を行っている。
•日本独占資本主義は絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義であり、軍事的冒険主義である。
•日本国内には封建制の強大な遺物、農民に対する半封建的搾取方法が認められる。
•日本はフランスとともにソビエトに対する出征の発頭人としての役割を引き受け、反ソ計画を持っている。
戦前日本の支配体制を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。
そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。
また、反天皇制に加え、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制の実現なども柱としており、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」をスローガンとした。
さらに、日本の中国侵略について、純粋に侵略を非難する立場ではなく、米国との軍事的衝突を避けるために帝国主義間戦争への反対を唱えたことも特徴である。
同時に、コミンテルンが当時とっていた、社会民主主義とファシズムを同列におく社会ファシズム論の立場をとり、社民勢力との闘争を特別に強調した。また、日本における革命的決戦が切迫しているという情勢評価をおこなった。
伊藤晃の研究によれば、この32年テーゼの作成にはスターリンの意図が強く働いたとされる。32年テーゼには、フランスと日本という「二個の帝国主義的憲兵」の同盟が、ソ連を攻撃すると書かれており、
谷沢永一は、スターリンの日本への恐怖が、32年テーゼの動機となり、また、大正11年1月の「日本における共産主義者の任務」から32年テーゼにいたる日本に関するテーゼの連発は、
他国の共産主義勢力へのテーゼとの比較からみて多量であり、コミンテルンにとって日本問題は最優先課題とされていたとしている。
このように日本を罵る文章が書かれているだけの、誰からも相手にされない単なる罵倒に過ぎなかったが、これを日本の共産主義者、左翼、進歩的文化人は聖書のごとく崇めた。そして、驚くことに彼らは今でもこれを信奉している。
これが日本の歴史を歪めた最大の作用で、いまも日本を呪縛し続けている。
当時の日本共産党というのはコミンテルンの日本支部だった。スターリンが出した指令というのは各国に行くわけだが、自国の歴史を闇黒化させるような指令は、日本以外の共産党には出していない。
これが徹底した自虐史観の醸成のもととなった。スターリンは日露戦争の敗北がよほど悔しかったらしく、そのルサンチマンを日本歴史の闇黒化とそれによる日本民族の弱体化という手段で晴らそうとした。
国際共産主義の拡張という美名のもと、当時の知識人や労働運動家はそれに乗せられて自国の歴史破壊をやったわけだ。
なんとか持ちこたえていたものが、大東亜戦争の敗戦ですべてひっくり返された。
混乱の中であす革命が起きるかもしれない、粛清されるかもしれない、そういう恐れが日本の知識人や学者に「32年テーゼ」の枠の中でしか発言させない、ものを書かせないようにした。
さらにこれに連合国のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが重なって、いわば二重の拘束を日本人は受けることになった。これが日本の戦後の精神史に一番大きなダメージを与えた。
これについての詳しい説明は以下のホームページが参考になります。
22年テーゼ(1922年)
大正11年(1922)7月、「コミンテルンの日本支部」として日本共産党が発足したとき、日本革命のための綱領素案が作られた。それが「22年テーゼ」といわれているものである。
項目は次の通りである。
•天皇制の廃止
•貴族院の廃止
•現在の軍隊、警察、憲兵、秘密警察の廃止
•労働者の武装
•朝鮮、支那、台湾、樺太からの軍隊の撤退
•天皇および大地主の土地の没収とその国有化
一瞥しただけで、まったく日本の現実を見ていないものであるかわかる。これらのことが貧弱な一組織である共産党にできるわけがない。しかも、当時は、天皇および皇族に対する罪は死刑だった。それなのにコミンテルンは、こんな綱領を押し付けてきたわけだ。
コミンテルン(ソ連)の意図は「天皇打倒」などが実現したら、ソ連がそれに代わって日本を支配することだった。ソ連自身は軍隊も警察も拡大しながら、日本にはそれらの解体を求めているわけだから、自分たちの軍隊・警察が日本に乗り込んでくるつもりだったのは明白である。
この発想法は現在の支那(中華人民共和国)とまったく同じである。支那は毎年10%以上の幅でどんどん軍拡を続けながら、日本に対してはことあるごとに「軍国主義復活の兆しが見える」とほざいているのだから、コミンテルンとまったく同じパターンである。
27年テーゼ(1927年) 1927年(昭和2)、モスクワのコミンテルンから日本共産党に届いた指令。そこにははっきりと「天皇制の廃止」がうたわれていた。
以下のようなテーゼが送られてきた。
「天皇は大土地所有者であるだけでなく、多くの株式会社および企業連合の極めて富裕な株主である。最後、天皇はまた、資本金一億円の彼自身の銀行を持っている」
「天皇制の廃止」
「天皇、地主、政府および寺社の領地の没収」
このような日本の実情を無視した極めて攻撃的なテーゼが送られてくると、初期の大物党員たちは日本共産党を脱退していった。
ロシア革命のとき、レーニン以下の共産党員は、ロマノフ王朝の皇族全員、さらには皇帝の乗っていた愛馬まで殺した。
そんなことを日本の天皇や皇族に対してやれというのか、これではとても付き合いきれない、と日本共産党を去っていったのだ。
それでも共産党を離れなかったのは、よほど日本に怨みのある人、宮本顕治、徳田球一らや、朝鮮系の共産党員だった。
1927年(昭和2)、当時の共産党幹部たちはコミンテルンから呼び出され、雁首をそろえてモスクワ入りした。モスクワに行ってみたら自分たちの理論を完膚なきまでに批判された。
いつ殺されるかわからない雰囲気だったため、彼らは怖くて何も反論できなかった。当時のソ連は平気で人を殺しまくっていたのだ。
モスクワから「27年テーゼ」をもらった日本共産党は、それまでのインテリ中心の運動から労働者、農民を巻き込んだ闘争へと路線をシフトさせている。
それと共に武装化が進み、党の幹部達は全員拳銃をもって警官に抵抗するようになった。そして共産主義者による官憲殺傷事件が多発した。
日本国を恐怖した共産主義大国ソ連
昭和7年(1932年)4月に、国際共産党組織(コミンテルン)から日本共産党へ宛て一通の“運動方針書”が届けられた。
これは後に「32年テーゼ」と呼ばれる、約1万字程度の日共に対する“扇動文書”的ものである。コミンテルンは世界各国の共産党組織の頂点に君臨する組織であり、スターリンの(ソ連の)意思(利益)を色濃く反映したものである。
日共に届けられた「32年テーゼ」には反共産主義を貫く日本国を徹底的に罵倒する言葉が並べ立てられていた。主なところでは・・・
(1)日本は強盗的帝国主義であり、現に帝国主義的強盗戦争を行っている。
(2)日本独占資本主義は絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義であり、軍事的冒険主義である。
(3)日本国内には封建制の強大な遺物、農民に対する半封建的搾取方法が認められる。
(4)日本は仏国とともにソビエトに対する出征の発頭人としての役割を引き受け、反ソ計画を持っている。
などの一見難解な社会科学用語が並べられているが、実は大した意味を含むものではなく「封建的」や「軍事的」という言葉を連呼して日本糾弾色を出しているに過ぎない。
そしてその目的は極左勢力による日本国内の政治的、治安的混乱を扇動し、日本国の国力低下を招き、国民の国家に対する絶望感と不信感を煽り、最終的には共産主義革命を引き起こすことだった。
多くの正常な国民はこんな荒唐無稽な「出鱈目話し」など気にも掛けてはいなかった。しかし熱心な共産党員や一部の文化人がこれを「神のお告げ」のごとく信仰し、一字一句残さず暗記していたと言います。
コミンテルンからの「激励文」は彼等にとってまさに「お守り」であり「教典」であり「免罪符」だったのである。
では何故コミンテルンはそうまでして日本国の弱体化に躍起になったのか?そこには様々は要素があるが、比較的大きな要因と思われるのは「日本国への恐怖心と復讐心」である。ロシアは有史以来無敵を誇る常勝国家であった。
ナポレオンを初めて撃退したのもロシア。かのビスマルクでさえロシアとだけは戦わない、と固く誓っていた。ロシア帝国は常に敵を撃破し、また敵を恐怖におとしめるに足る国力と勢力を保持してきた。そう、日本国と戦うまでは。
栄光に満ちたロシアの歴史に初めて黒星を付けた日本国。この敗戦はロシアにとって衝撃的なものだった。以来ロシア人の中には日本国に対する敵愾心と復讐心と恐怖心が根強く刷り込まれるに至った。
日本国を日本人を苦しめ滅ぼし溜飲を下げんと虎視眈々と狙っていた者もあったことでしょう。そして昭和20年8月にそのことが証明される。「日本降伏」が確定的になったのを見極めたソ連は日ソ中立条約を無視して宣戦布告を発する。
そして日本国がポツダム宣言を受諾した8月15日以後も戦闘行為を停止せず、怨念にとり憑かれた様に日本軍を追い詰めてゆく。さらにはポツダム宣言をまったく無視した北方領土への侵攻。
挙げ句には「戦争終結」の事実を無視し、日本兵を“捕虜”として極寒のシベリアへ抑留。長きに渡り述べ57万数千人を強制労働に従事させ、結果として推定で5万数千人が生きて祖国の地を踏むこと叶わなかった。
栄光のロシアの歴史を汚した日本人に復讐するのは今ぞ、相手が日本人であれば条約も終戦も関係ない。そんな思い無くして果たしてこれほど狡猾で残虐で傍若無人な国家的行為を行えるであろうか?答えは否である。
そのような事実を見れば、「32年テーゼ」がもたらされた昭和7年当時ソ連(ロシア)がいかに、隆盛を極める日本国に対して敵愾心と恐怖心を持っていたか理解できる。
さらにコミンテルンが「日本弱体化・共産化」に異常な感心を寄せていた証拠がもう一つある。それはコミンテルンが各国の共産党に対して発した各種文書の数である。
コミンテルンは当然世界中の共産党に向けて多くの“文書”を送っているが、その多くはごく短い“檄文”やセレモニーなどでの“挨拶文”であった。 いかにコミンテルンといえども、世界のどの先進国共産党に対してもその国の社会を論議の対象としたり具体的運動方針を指示することはなかった。
しかし日本に向けられた「32年テーゼ」ただ一つは異様な内容である。前述の通り「32年テーゼ」は徹頭徹尾「日本下卑」であり「下等悪辣国家日 本」を連呼するものである。さらにその数が問題となる。「コミンテルン資料集」におさめられている過去コミンテルンが発した“テーゼ”と思しき物(日本宛 以外)を数えてみると以下のようになる。
〇イタリア宛/1924.7.8/7ページ〇ドイツ宛/(日付なし)/3ページ〇ペルー宛/1930.3/11ページ〇中国宛/1930.6/9ページ〇中国宛/1931.7/17ページ〇ラテン・アメリカ宛/1929.3/17ページ
以上である。
コミンテルンが存続した間に各国共産党あるいは共産勢力に対して送られたテーゼと“思われる”ものはたったこれだけなのである。しかもその内容もほとんどが檄文であった。
イタリア、ドイツへはファシズムとの闘争を促し、ペルーへは党結成を希望する書簡です。混迷深まる中国へは現段階での助言に止めている。それに対して日本へはどうだったか。
初めて日共へ向けてテーゼが発っせられた大正11年1月30日から「32年テーゼ」が出される昭和7年4月までの間に、実に15通に渡り内容の濃い文書が発せられている。
このことはコミンテルンの当時最大の目的がまだまだ弱小組織であった日本共産党へ対する徹底的なテコ入れにあり、さらに言えば“日本弱体化”こそが共産主義ソ連の国是であったということである。
そして皮肉なことに、「32年テーゼ」の効果はまるで「ソ連の怨念」のごとく現代日本にも暗澹と広がっている。戦後の共産主義勢力の台頭と無秩序にくり返された極左過激派によるテロ事件や騒擾事件は、現代日本の左傾思想蔓延の確かな土壌となっている。
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
inserted by FC2 system