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8月20日、霧の深い早朝であった。突如ソ連艦隊が現われ、真岡の町に艦砲射撃を開始した。町は紅蓮の炎に包まれ、戦場と化した。この時、第一班の交換嬢たち9人は局にいた。緊急を告げる電話の回線、避難経路の指示、多くの人々の生命を守るため、彼女たちは職場を離れなかった。局の窓から迫るソ連兵の姿が見えた。路上の親子が銃火を浴びた。もはやこれまでだった。班長はたった一本残った回線に、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と叫ぶと静かにプラグを引き抜いた」(映画「氷雪の門」パンフレットより)
氷雪の門パンフ
「真岡というのは樺太西海岸にある地名で、この映画は、最後まで通信連絡をとり、若い命をなげうった真岡郵便局の電話交換手の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。
8月8日に突如として対日宣戦布告したソ連は、9日には南樺太に侵入し、戦車を先頭に南下を続け次々と町を占領していく。8月15日の終戦の日になってもソ連は攻撃の手を緩めず、日本軍が何度も「国際法違反だ」と停戦を申し入れても「負けた国に国際法などない」と拒否され、兵器を捨てた無抵抗の兵士は銃殺される。
そして8月20日早朝、真岡の沿岸に突如ソ連艦隊が現われ、艦砲射撃を開始。上陸したソ連兵は町の角々で機銃掃射を浴びせ、一般住民を見境無く撃ち殺して、町は戦場と化していく…
樺太には40万人以上の日本人がいたが、映画のパンフレットによると「終戦の混乱期に10万人余の同胞を失った」とある。「九人の乙女」の話は聞いたことがあるが、樺太でこんなに深刻な被害があったことは映画を見て初めて知った。
当時のことを調べると、8月22日にはソ連軍は樺太から引揚者を乗せた船までも潜水艦で攻撃して二隻沈没させ、一隻を大破させ1708人が亡くなっている。
どうやら映画よりも現実の方がはるかに酷かったらしいのだが、非戦闘員を虐殺した明らかな国際法違反の史実がなぜ世に知られていないのであろう。ソ連軍の攻撃は樺太全土が占領される8月25日まで続いたとのことだ。
映画「氷雪の門」は昭和49年に完成し公開直前にソ連の圧力により葬り去られて、ずっと公開されなかった映画であるが、最近になってDVDが作られて各地で細々と上映会が開かれているようだ。私はインターネットで購入して鑑賞したが、見ていて何度も涙が出て止まらなかった。
興味のある人は、この映画の助監督であった新城卓氏のHPからDVDを購入することができる。
http://www.shinjo-office.com/hyosetsu.html しかし、新城卓氏が語っているように、映画よりも悲惨な現実があった。次のサイトを読めば、樺太の日本人がどのような目にあったかがわかるし、この映画の上映ができなかった新城氏の無念さがひしひしと伝わってくる。
http://sakurakaido.kt.fc2.com/shinjo.htm
たとえ、通史から消されたものであっても、長く語り継がれるべき史実があるのだと思う。
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映画の題名である「氷雪の門」は昭和38年に北海道稚内市稚内公園に建てられた、樺太で亡くなった方の慰霊碑の名前である。同じ公園内にこの映画の主人公である「九人の乙女の碑」も建てられている。一度行ってみたいものである。
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占領軍の検閲は原爆を批判した新聞社の処分から始まった

昭和20年(1945)8月6日、米国は人類史上初の 原子爆弾 広島 に投下し、20万人以上の罪のない市民が虐殺された。
原爆ドーム
8月8日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦を布告し、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島の侵略を開始した。
翌8月9日には米国は 長崎 に2発目の 原爆 を投下し、ここでも7万人以上の命が奪われ、この日に御前会議が開かれて、昭和天皇の聖断によって戦争終結が決まり、8月14日にわが国はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日に昭和天皇による「終戦の詔書」が発表されて、戦闘行為を停止させた。
学生時代、太平洋戦争の終戦前後の歴史を学んだ時に、我が国に 原爆 が投下されたことは、早く戦争を終結させるためにやむを得なかったと説明されたのだが、釈然としなかった記憶がある。
原爆死没者慰霊碑
また、 広島 市の平和記念公園にある「 原爆 死没者慰霊碑」には「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」と刻まれているのだが、この言葉にも強い違和感を禁じ得なかった。
その違和感は、「 原爆 を落とした側に罪はないのか」という漠とした思いから生じたものだったのだが、最近になって原爆を道徳的に批判することが、占領期における GHQ 検閲 により排除されていたことを知った。
このブログで何度か紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』によると、そもそも占領軍の 検閲 は、原爆投下を批判した新聞社を処分することからはじまっているという。
「占領軍の 検閲 第一号となつたのは、 広島 長崎 のかうした悲劇に対する、日本人の抗議の声であつた。九月十四日、同盟通信社は二日間の業務停止処分を命じられたが、その理由の一つになつたのが、『この爆弾は…野蛮人でなければとても使えなかった兵器である』といふ報道だつた。続いて九月十八日、朝日新聞も二日間の発行停止を命じられたが、その理由となつたのも鳩山一郎の次のやうな談話であつた。
『「正義は力なり」を標榜する米國である以上、 原子爆弾 の使用や無辜(むこ)の國民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の國際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであろう。(九月十五日付『朝日新聞』)』」(『抹殺された大東亜戦争』p.409-410)
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このような、原爆投下を批判する論調は我が国だけでなされたのではなかった。当事者である米国でも時を同じくして現れ始めた。勝岡氏の著書p.410-411から、いくつか引用してみる。
「アメリカ合衆国は本日、野蛮、悪名、残虐の新しい主役となった。バターンの死の行進、ブーヘンバルトやダッハウの強制収容所…はどれも、われわれアメリカ合衆国の国民が 原子爆弾 を投下して世界中を陥れた恐怖に比較すれば、ティー・パーティのようにささやかなものに過ぎない」(原爆投下当日『タイム』誌に寄せられた投書)
「我々はこの罪を認めなければならない。10万人以上の老若男女に向けて恐ろしい武器を使い、あたかも致死量を超えたガス室に送り込むかのように窒息させ焼き尽くしたのだから。」(1945年11月23日付『ユナイテッド・ステーツ・ニュース』誌社説)
広島 長崎 への原爆投下は倫理的に弁護の余地はない…我々は神の法においても、そして日本国民に対しても取り返しのつかない罪を犯した。」(1946年3月6日付キリスト教会連邦協議会報告書)
このようなアメリカ国内の自責と贖罪の声は占領軍の 検閲 により遮断され、日本人の耳に届くことはなかったようだが、日本国内においても、わが国民が原爆を批判することは厳しく 検閲 されたようなのである。
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三鷹にある国際基督教大学(ICU)はアメリカのキリスト教徒が、我が国に原爆を落としたことの「反省と懺悔の念の現われ」として戦後設立されたのだそうだが、その設立の経緯すら日本国民には知らされなかった。このICUの初代学長に就任した湯浅八郎氏の講演の下線部分は、占領軍により削除されてしまった。
「私は、アメリカにおりました時、幾多の人々から、アメリカが日本の廣島、 長崎 に對して 原子爆弾 を投下したことについての、自責と謙虚から出た誠實のこもる告白を聞いたのであります、あるいは…アメリカのキリスト教會では、今度の戰爭に對する責任から、たゞ一つ日本に捧げようとする特別なる贈りものとして、キリスト教綜合大學の設立が話題にのぼっておりますのも、これはアメリカのキリスト教徒の良心的な反省と懺悔の念の現われであるのであります。」(『 同盟講演時報』第19・720号)
勝岡氏は続けて、アメリカがどういう方法をとってアメリカが非道な行為を行った事実を日本人に忘れさせたかを書いている。これは重要な指摘である。
「…次には占領軍は、南京やマニラで日本人の『虐殺』行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺せんとする挙に出たのである。
その典型的な事例が、有名な永井隆の『 長崎 の鐘』である。この書物は、カトリック教徒でもあった医師の永井が、 長崎 における自らの被爆体験を綴ったものであるが、長崎の原爆とは何の関係もない『マニラの悲劇』といふ百三十頁にも及ぶ連合軍総司令官諜報課提供の『特別付録』との抱き合わせで出版することを余儀なくされた。
占領軍の手になつた同付録序文はかう述べてゐる。
『…マニラ市民に加えられたこのような残虐非道な行為は、…野蛮人にもまさる蛮行だといえよう。(中略)或る一人の男が突然暴れだして、路上に行き會う誰彼を見境なしに殺して廻ったとしたら、警官は彼を摑 (つかま) えなくてはならない。これが、日本がアメリカと全世界に課した宿題であり、この無差別な殺傷行為を止め、戰爭を終結させるために、アメリカと全世界とが 原子爆弾 を使用せざるを得なかった所以(ゆえん)である。(中略) 日本が一九三七年盧溝橋において、また一九四一年真珠湾の謀略的奇襲において開始した戦いは、ついに日本自身にかえって、廣島、長崎両市の完全破壊をもつて終わったのである』」(『抹殺された大東亜戦争』p.411-412)
長崎の鐘
永井隆の『長崎の鐘』は当時のベストセラーになった書物で、今では「青空文庫」で誰でも読むことができる。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/50659_42787.html
この作品の中でアメリカを倫理的に批判するような文章はどこにもなく、長崎医科大での被爆体験、救護活動や長崎市内の被害状況などが科学者の目で淡々と書き綴られ、最後にキリスト教徒である永井は「ねがわくばこの浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ」と世界の平和を祈るのだが、この作品に連合軍の諜報課がよけいな『特別付録』をつけた意図は明らかであろう。
この『特別付録』で書かれている「マニラ大虐殺事件」とは、1944年に日本軍がマニラで米軍と戦った際に山下奉文将軍はマニラを非武装地域としルソン島北部に撤退しようとしたが、海軍はマニラ死守を主張しマニラに立てこもり、その為マニラは市民を巻き添えとした戦場なって、市街戦で死んだ現地人が10万人いたと非難された事件である。この際に日本軍は玉砕しているので事実の確認の仕様がないが、日本人が虐殺したとする証言は日本人の殺し方とは考えられない方法で殺しており、またアメリカ軍も共産ゲリラと戦った際に多数のゲリラを殺戮したことは間違いがなく、アメリカが日本軍に罪を擦り付けた可能性もあり真相は闇の中だ。今はほとんど話題にあがらないことからしても、真実性はかなり薄いと思われる。
この付録に限らず、その後何度も繰り返しマスコミなどで日本軍の「悪行」があったことが伝えられ、教科書にも載せられて、一部の事件は日本人の常識となってしまっている。
占領軍が日本人に押し付けようとした歴史は、戦勝国が正しく日本人が一方的に悪いという類のものだが、実際はそんな単純なものでなかったことはこのブログで何度か書いてきたのでここでは繰り返さない。
日本人による「虐殺」行為を捏造・強調することで、自らの贖罪意識を相殺するとの考えについては、占領軍にこんな発言が残されている。占領軍の 検閲 を担当していたPPB(出版・演芸・放送)課長のスポールディングは、1949年2月10日付でこのように述べたという。
「ナガサキ・ヒロシマはマニラや南京で行った日本人の残虐行為と、たとえそれ以上でないにせよ、ちょうど同じくらい悪く、彼らの罪と相殺されるものである」(モニカ・ブラウ『検閲1945-1949―禁じられた原爆報道』)
この発言は、日本に『自虐史観』を拡げることがアメリカの国益にかなう事であると言っているのと同じようなものなのだが、これが彼らの本音なのであろう。 彼らのとんでもない罪を薄めるために日本はもっと悪かったという歴史を広めようとし、今は中国や韓国を使ってわが国にさらに圧力をかけて、『自虐史観』を日本国民に定着させようとしているのではないのか。
占領軍による検閲は、昭和20年9月からはじまり、占領軍にとって不都合な記述は、たとえ真実であっても、徹底的に排除された。次のURLに新聞雑誌などに適用された「 プレスコード 」の全項目が書かれているが、アメリカ・ロシア・イギリス・朝鮮・中国など戦勝国への批判は許されず、占領軍が日本国憲法を起草したことに言及することも許されなかったのだ。
http://www.tanken.com/kenetu.html
占領軍による検閲は昭和24年10月に終わっていることになっているのだが、いまだにテレビや新聞では「 プレスコード 」が生きているかのようで、原爆を批判するような主張をテレビや新聞で遭遇することはほとんどないと言って良いくらいだ。
そのことは日本だけの問題ではなく、原爆を落とした国であるアメリカにおいても、自由な言論が許されている訳ではないようだ。
スミソニアン国立宇宙博物館
1995年にスミソニアン国立宇宙博物館が終戦50周年を記念して 広島 に原爆を展示した「エノラ・ゲイ展」を計画したが、博物館が用意した展示台本や写真などが、政治的圧力によって展示を禁止されてしまった。
勝岡氏の前掲書に、オリジナルの展示台本『葬られた原爆展』を出版にこぎつけたフィリップ・ノビーレ氏が、その顛末を暴露した文章が引用されている。
「米国国立スミソニアン協会は、検閲行為に加担している。(中略)協会の基金引き上げをにおわせる威嚇が再三にわたって米国議会からあったため、スミソニアン協会会長I・マイケル・ヘイマンは…厄介な展示台本の発行を停止し、悲惨な映像と被爆品を展示から撤去するよう命令した。(中略)ビル・クリントン大統領は、4月に行われた記者会見の席上、トルーマンの原爆投下決定を是認する表明を行った。(中略)米国政府からの批判にさらされて3ヵ月、5月にハーウィット館長は辞任した。」(『抹殺された大東亜戦争』p.414-415)
その展示台本にはこのような日本人の手記もあったのだが、これらの文章は今我々が読んでも結構ショッキングな内容だ。しかし、世界で歴史上唯一原爆の被害を体験したわが国は、決してこのような真実を風化させてはならないのだと思う。
「私は道路で馬車を引いている人の死骸を見ましたが、その人は依然として立っていて、髪は針金のように逆立っていました。 (長崎・黒川ひで)
たくさんの生徒の目玉が飛び出ていた。彼女たちの口は爆風で引き裂かれたままで、顔は焼け爛れ、…来ているものは体から焼け落ち、…その光景はまさに地獄だった。( 広島 第一高女校長・宮川造六)
人々の皮膚はくろこげであった。髪も焼かれてなくなり、前から見ているのか後ろから見ているのかも分からない状態だった。腕を前に出して垂らし、皮膚は、腕だけでなく顔からも体からも垂れ下がっていた。…まるで歩く幽霊のようだった。(広島・八百屋店主)」
戦後50年もたった時点のアメリカにおいてすら、広島や長崎の真実を伝えようとすると、とんでもない圧力がかかってきて、展示が出来なかったという真実は忘れるべきではないが、わが国における言論弾圧はもっとひどかったと言わざるを得ない。占領期の検閲や焚書で、原爆問題ばかりではなく戦勝国批判につながる史実や論調の多くが封印され、占領期が終了してからも内外の圧力を出版社やマスコミなどにかける手法で、実質的に「 プレスコード 」が維持され、今もマスコミから戦勝国の犯罪行為を追及する姿勢は皆無に近い。
マスコミや出版社からすれば、内外の圧力のために番組をカットさせられたり、出版停止を余儀なくされるリスクを小さくしたいと考えることは経営として当然のことである。
だから、占領期の「 プレスコード 」に抵触する史実や思想は、マスコミ・出版社の「自主規制」により、戦後の長きにわたり排除されてきたのだろう。
そのために戦争の真実が風化してしまって、わが国には戦勝国にとって都合の良い歴史ばかりが広まり、原爆に関しては「戦争を終結させるためにやむを得なかった」という話しか聞こえてこなくなってしまった事は誠に残念なことである。この考え方では、原爆などの大量破壊兵器が廃絶されることはありえないのだ。
一瞬にして数十万人の無辜の民の生命を奪う兵器の使用は国際法違反であり、こんな兵器を使って自国の国益を追求しようとする国は「野蛮な国である」と、声を大にして叫び続けるべきではないのか。そのことを世界に発信し続けてこそ、国益実現のために原爆などの大量殺戮兵器を使うことを全世界で禁止することにつながっていくのだと思うし、そうすることが、世界で唯一原爆の被害者となったわが国の使命であると思うのだ。
日本人にとっては 原子爆弾 の記憶はつらい思い出を伴うものだが、過去の犠牲者の為にも、また未来の子孫のためにも、決して風化させることがあってはならない。

占守島の自衛戦を決断した樋口中将を戦犯にせよとのソ連の要求を米国が拒否した理由

前回の記事で、千島列島最北の 占守島 (しゅむしゅとう)で日本軍とソ連軍との激戦があり、日本軍が良く戦ったことを書いた。
占守島 守備隊には停戦命令は出ていたが、ソ連軍の一方的な奇襲の報告を受けて、第五方面軍司令部の 樋口季一郎 中将が自衛のための戦いを決断し、ソ連軍を撃破した。日本側の死傷者600名に対してソ連軍は3000名以上の死傷者が出たとされ、日本軍が優勢であったのだが、その後日本政府の弱腰な対応で 占守島 守備隊は8月21日に停戦に追い込まれ、8月23日にソ連軍に武装解除されることとなった。
それでもこの千島列島最北の 占守島 で、7日間ソ連の第2極東方面軍を足止めにさせた意義は大きかった。ソ連軍が北北海道占領をあきらめたのは、トルーマンアメリカ大統領がソ連による北北海道占領に反対したこともあるが、日本軍がこの 占守島 と南樺太で抗戦しソ連の第1極東方面軍の侵攻を遅らせたことが大きかったのだと思う。もし、日本軍がソ連軍の侵略に無抵抗で、アメリカの先遣隊が来る前に北海道の占領が進んでいたとしたら、わが国も朝鮮半島と同様に国土を分割され、共産国家が誕生した可能性が高かったと思うのだ。
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ソ連にとって、 占守島 の戦いによる日本軍の抵抗の強さは想定外のものであったことは間違いがないだろう。当時のソ連政府機関紙イズベスチヤは「8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べ、この自衛の戦いを決意した第五方面軍司令部の 樋口季一郎 中将について、スターリンは「戦犯であるのでソ連に引き渡してもらいたい」と連合軍司令部に申し入れている。よほど、スターリンは樋口中将が憎かったに違いない。
しかし、マッカーサーはソ連の要求を拒否し、樋口の身柄を保護した。マッカーサーの背後には米国国防総省があり、それを動かしたのはニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会であったらしいのだ。では、なぜ ユダヤ人 組織が樋口中将の救出に動いたのだろうか。
第2次世界大戦中に、ナチスドイツによる迫害から逃れて難民となった多くの ユダヤ人 を救出した話は、リトアニア駐在官であった杉原千畝(すぎはらちうね)が有名だ。杉原はポーランドなどからリトアニアに逃れてきた ユダヤ人 に対し、外務省の訓令に反して大量のビザを発給して、6000人にものぼる避難民の命を救ったとされている。
杉浦千畝
この杉原の「命のビザ」の話はテレビでも何度か紹介され、新聞にも良く出てくるのだが、同様な事は杉浦千畝よりも2年以上前に 樋口季一郎 が実行していたのだ。しかも、樋口の時は、 ユダヤ人 の迫害問題に対するわが国の方針が定まる前に自己の責任において決断したものであり、もっと注目されても良い話だと思う。
私が 樋口季一郎 の話を知ったのはソ連の対日参戦のことを調べた時の副産物なのだが、今回は 樋口季一郎 のことを書くことにしたい。
1933年にドイツでナチス政権が誕生して以来、大量のユダヤ難民が発生した。当時はユダヤ難民を受け入れる国は少なく、英米でさえ入国を制限していた時代であった。
樋口季一郎 は陸軍士官学校から陸軍大学校を経て高級軍人となってからは主に満州、ロシア、ポーランドの駐在武官などを歴任し、昭和10年(1935)8月に満州国ハルビンに赴任している。
アブラハムカウフマン
そして昭和12年(1937)の12月に、ハルビンのユダヤ協会の会長であった カウフマン博士 が樋口に面会を求めてきた。
カウフマン博士 が樋口を訪ねた目的は、ナチスドイツの暴挙を世界に訴えるため、 ハルピン で極東 ユダヤ人 大会の開催を許可してほしいというものであった。
樋口は ハルピン の前にドイツに駐在した経験があり、 ユダヤ人 の境遇に深く同情していたことから、これを即決し許可する。
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そして12月26日に第一回極東ユダヤ人大会が開かれ、樋口は来賓として招かれて、このような素晴らしいスピーチを行ったという。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm
「諸君、ユダヤ人諸君は、お気の毒にも世界何れの場所においても『祖国なる土』を持たぬ。如何に無能なる少数民族も、いやしくも民族たる限り、何ほどかの土を持っている。
ユダヤ人はその科学、芸術、産業の分野において他の如何なる民族に比し、劣ることなき才能と天分を持っていることは歴史がそれを立証している。然るに文明の花、文化の香り高かるべき20世紀の今日、世界の一隅おいて、キシネフのポグロム(迫害)が行われ、ユダヤに対する追及又は追放を見つつあることは人道主義の名において、また人類の一人として私は衷心悲しむものである。
ある一国は、好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。それを何処へ追放せんとするか。追放せんとするならば、その行先を明示しあらかじめそれを準備すべきである。
当然の処置を講ぜずしての追放は、刃を加えざる虐殺に等しい。私は個人として心からかかる行為をにくむ。ユダヤ追放の前に彼らに土地すなわち祖国を与えよ。」
「ある国」というのは、ドイツであることは言うまでもない。
ユダヤ人を好ましからざる分子として、行先も明示せず、その準備もせずして追放することは、虐殺にも等しいことであると、樋口は同盟国ドイツを強く批判したのである。
この演説が終わると集まったユダヤ人たちから歓声が起こり、万雷の拍手を浴びたと言われている。
しかし、この樋口の演説は国内外に大きな波紋を引き起こし、同盟国であるドイツを批難したことについて、関東軍司令部からも強く批判され、その懲罰問題が決着しない内に「 オトポール事件 」という事件が起こった。
オトポール事件 」とはどんな事件であったのか、次のURLやWikipediaなどの記事を参考に、簡単に纏めておく。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h11_1/jog086.html
昭和13年(1938)3月8日、ナチスの迫害を逃れるためにドイツを脱出したユダヤ人難民が、ソ連と満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅まで辿りついたものの、満州国の外交部が入国の許可を渋ったために足止めにされていた。
オトポール地図
カウフマン博士 から極寒の地オトポールの惨状を知らされた樋口は、手記でこのように回想しているという。
「満州国はピタッと門戸を閉鎖した。
ユダヤ人たちは、わずかばかりの荷物と小額の旅費を持って野営的生活をしながらオトポール駅に屯ろしている。
もし満州国が入国を拒否する場合、彼ら(ユダヤ難民)の進退は極めて重大と見るべきである。ポーランドも、ロシアも彼らの通過を許している。
しかるに『五族協和』をモットーとする、『万民安居楽業』を呼号する満州国の態度は不可思議千万である。これは日本の圧迫によるか、ドイツの要求に基づくか、はたまたそれは満州国独自の見解でもあるのか 」
当時わが国はドイツと同盟関係にあり、下手に動けばドイツを刺戟し外交問題に発展する可能性があった。また、満州国外務部を差し置いてユダヤ人を受け入れることを樋口が決断することは、明らかな越権行為に当たる。
とはいいながら、ユダヤ人の亡命を阻止すれば、これから多くのユダヤ難民が寒さと飢えで命を落とすことになる。そもそも満州国は「五族協和」を旗印にして建国した国ではないか。
樋口はカウフマンにこう告げたという。
「博士! 難民の件は承知した。誰が何と言おうと、私が引き受けました。博士は難民の受け入れ準備にかかってほしい。」
カウフマンは樋口の前で声を上げて泣いた。
それから樋口の行動は早かった。彼は大連の満鉄本社の松岡総裁に連絡をつけて交渉し、列車を動かしたのだ。
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その2日後の3月12日、ユダヤ人難民を乗せた列車が ハルピン 駅に到着する。担架を持った救護班が真先に車内に飛び込み、病人が次々に担架で運び出され、ホームは痩せこけた難民たちで一杯になったという。誰彼となく抱擁し、泣き崩れる難民たち。 カウフマン博士 は、涙でぬれた顔をぬぐおうともせず、難民たちに声をかけていたという。
凍死者十数名、病人二十数名ですんだのは不幸中の幸いであった。もし樋口の判断がもう一日遅れれば、もっと悲惨な結果になったと言われている。 
樋口の行為は、当然のことながらドイツとの外交問題に発展した。
ドイツのリッベントロップ外相はオットー駐日大使を通じて次のような抗議文を送ってきたという。
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「今や日独の国交はいよいよ親善を加え、両民族の握手提携、日に濃厚を加えつつあることは欣快とするところである。
然るに聞くところによれば、ハルビンにおいて日本陸軍の某少将が、ドイツの国策を批判し誹謗しつつありと。もし然りとすれば日独国交に及ぼす影響少なからんと信ず。
請う。速やかに善処ありたし。」
と、暗に樋口の処分を求めてきた。
東条英機
樋口は関東軍司令部に呼ばれて、当時参謀長であった 東条英機 をこう説得したという。
「私はドイツの国策が自国内部に留まる限り、何ら批判せぬであろう。またすることは失当である。しかし自国の間題を自国のみで解決し得ず、他国に迷感を及ぼす場合は、当然迷惑を受けた国家または国民の批判の対象となるべきである。
もしドイツの国策なるものが、オトポールにおいて被追放ユダヤ民族を進退両難に陥れることにあったとすれば、それは恐るべき人道上のであるとすれば、これまた驚くべき間題である。
私は日独間の国交の親善を希望するが、日本はドイツの属国でなく、満州国また日本の属国にあらざるを信ずるが故に、私の私的忠告による満州国外交の正当なる働きに関連し、私を追及するドイツ、日本外務省、本陸軍省の態度に大なる疑問を持つものである。」
そして、東條に対してこう言い放ったと言われている。
「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることを正しいと思われますか」
要するに樋口は、日本国も満州国もドイツの属国ではないのであるから、独立国として主体的に判断すべきであり、非人道的なドイツの国策に協力する理由はないと東條に述べて了承を得たのである。
その後樋口はこの事件の責任を問われるどころか、樋口は参謀本部第2部長に栄転となる。
樋口が ハルピン を去る日、 ハルピン 駅頭は2千人近い見送りの群衆が詰めかけて、樋口が駅頭に立つといっせいに万歳の声が湧きあがったという。
どれだけのユダヤ人が樋口の決断によって助かったかについては諸説あるが、この時の列車に乗っていた難民は100人から200人程度だったと言われている。その後、ソ連から満州経由で亡命したユダヤ人をすべて含めると、2万人程度ではないかというのが多数説になっているが、正確な統計があるわけではないのでよくわからない。
長い話になったが、樋口がソ連から戦犯にされようとした時に、樋口を救おうとユダヤ人組織が動いてマッカーサーが樋口の助命に動いたのは、 オトポール事件 で多くのユダヤ人の命を救った樋口を援けようと、世界ユダヤ協会がアメリカに働きかけたからなのである。
余談だが、多くの書物やブログでは、樋口季一郎はイスラエル建国功労者として、樋口の部下の安江とともに「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に「偉大なる人道主義者 ゼネラル・ヒグチ」と名前が刻印され、その功績が永く顕彰されることになったと書かれているが、これはどうやら誤りであるようだ。
指揮官の決断
『指揮官の決断』(文春新書)の著者である早坂隆氏は、実際にイスラエルに行って「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」を確認に行っておられる。
早坂氏によると「ゴールデン・ブック」というのはJNF(ユダヤ民族基金)という組織に対する献金記録簿で、樋口の名前は第6巻4026番目に記載されているのだそうだ。そこには「偉大なる人道主義者」という文字はない。
ここに記載されることがユダヤ社会において特別に功績が顕彰されたことを意味するものではないのだそうで、極東ユダヤ人協会がJNFに寄付をして、樋口とカウフマンと安江の名前を刻んだというのが真相のようだ。(『指揮官の決断』早坂隆p.155-161を参考)
オトポール事件 の9か月後に、わが国は「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を策定している。
この原文及び口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/seigi/seiginohito2.htm
この要綱を素直に読めばわかると思うが、必ずしも人道主義で貫かれたものではなく、早い話が、技術や資金力など、ユダヤ人で利用できるものは利用しようという魂胆が垣間見えている。
この要綱を読めば読むほど、人道主義を貫いた樋口の行為が一段と輝いて見える。杉浦千畝の「命のビザ」の物語も良く似た話だが、樋口の2年以上も後の出来事である。
こういう史実を知ると、なぜわが国において、杉原の話は知られても樋口の話は広められなかっただろうかと、誰しも疑問に思うだろう。
よくよく考えると、第二次大戦時の日本軍人のいい話が、マスコミなどでほとんど伝えられていないことに気が付く。
樋口季一郎の話は彼が軍人であったので封印された一方、外交官である杉浦千畝が外務省の訓令に反してビザを発行した話ばかりが讃えられてきたことに、どこか世論誘導の臭いを感じるのは私ばかりではないだろう。
原爆投下やシベリア抑留という過去に例のない戦争犯罪に手を染めたアメリカおよびソ連にとっては、日本軍がよほど邪悪な存在でなければ、彼らの犯罪行為を正当化するストーリーを描くことができないのだ。もし、日本軍人に世界から尊敬される人物が何人も存在しては、アメリカやソ連の戦争犯罪をいつまでも封印することは難しくなってしまうということは、少し考えれば誰でもわかることだろう。
なぜ戦勝国が、戦後我が国に対して厳しい検閲をし、言論弾圧や焚書を行ない、その後も内外の圧力を使って言論をコントロールしようとする理由はそのあたりにあるのではないだろうか。
第二次世界大戦が終戦して67年にもなるが、未だにわが国は、戦勝国にとって都合の良い歴史を押し付けられたままである。
戦勝国が、戦後日本人を洗脳するために、どれだけわが国の歴史を封印してきたかをもっと知るべきであろう。その歴史を日本人が取り戻さない限り、この洗脳を解くことは難しいと思うのだ。
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