震災名(政権)・概要 人的被害 建物被害 特徴 震災以後 備考
関東
(山本権兵衛・立憲政友会)
1923年9月1日。相模湾北西部を震源とする海溝型地震で、マグニチュードは7.9。影響範囲は、北関東を除き関東地方の広範囲に 190万人が被災し、死者・行方不明者は10.5万人(推定) 約11万棟が全壊し、21万余棟が全焼 死者の約87%が火事に巻き込まれた「焼死」。地震が昼食時に発生し、強風で煽られた炎が燃え広がった 避難生活を強いられた人も多かったが、当時のメディアは新聞しかなく、即時的情報を入手することが難しかった。震災後にラジオ放送が始まった際には、急速に普及したと言われている 「通信・交通手段が遮断され、伝聞情報に頼らざるを得ない状態が続き、デマが拡散されたことにより、朝鮮人が大虐殺される痛ましい事件も発生した」旨のプロパガンダが横行
阪神淡路
(村山富市・自社さ)
1995年1月17日。兵庫県淡路市。明石海峡の深さ16km。を震源とする直下型地震で、マグニチュードは7.3。震度7が初めて適用された。影響範囲は兵庫県南部。液状化した面積は約10平方㌖ 死者・行方不明者は6437人 約10.5万棟が全壊し、7千余棟が全焼 死者の約83%が倒壊した建物の下敷きになる等して「圧死」。地震が早朝に発生したので、就寝中の者が多く、火の使用が少なかったのと風が穏やかだったことが重なって「焼死」は全体の13%弱に留まった 初動対応の遅れが指摘され、官邸における緊急参集チーム設置等の初動体制が整備された。建築物の耐震改修促進法が制定された。当時は震災で住宅を失った者であっても私有財産に公費を投じるという考えはなかったが、これに対して公的補償を望む声が多数あり、被災者生活再建支援法が制定された 被災状況・安否情報に関するインターネット活用が活発化。全国から140万人のボランティアが駆けつけた。亀岡断層辺りで震度7の余震が起こるという噂が流れて、亀岡市周辺のスーパーで商品の買い集め騒動が起こった
東日本
(菅直人・民主党)
2011年3月11日。三陸沖の深さ24kmを震源とする海溝型地震で、マグニチュードは9.0。日本国内観測史上最大。影響範囲は、東北地方および関東地方の広範囲に及んでいる。液状化した面積は約42平方㌖ 死者・行方不明者は、2万人以上。戦後、死者・行方不明者が1万人を超える自然災害は、このときまで無かった 12万9391棟が全壊 死者の約90%は津波に吞み込まれた「溺死」。津波後、菅直人首相(民主党)は、自衛隊出動を止めたり、米軍の助けを断ことわった。ベントや海水注入をするなと命令しただけでなく、福島第一原子力発電所を視察して災害対応を妨害した。その後、原子炉のメルトダウンが発生。国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7と評価されたのは、チェルノブイリ原発と福島第一原発に係る事象 民主党政権は、「爆発したのは東京電力が怠慢だったから」だとマスコミに説明させた。自民党が行なった悪い政治の影響が出たようにも、マスコミに説明させた。原子力発電所は危険なものだから無くさなければならないと菅直人は主張した。「要請」という責任逃れの言葉を使って、中部電力浜岡原子力発電所の運転をとめさせた。それから、全国の原子力発電所の運転がとまるように誘導した。そうすれば、原子力発電技術者たちが日本で仕事できなくなり、中国や韓国や北朝鮮からの誘いに応じて、原子力発電技術を日本の敵国に伝えることができるということだ。更に、原発に代わる発電源として、太陽光や風力等を利用する発電所の建設を推奨し、税金を投入して中国製設備の輸入を促進した カメラ付き携帯電話やスマートフォンが普及している時代だったこともあり、被災地の状況が詳細に記録され、インターネット上等に上げられた。電話がつながらない時間帯が長く続いた為、SNS等のインターネットを活用したコミュニケーションが注目された。日本で圧倒的なシェアを誇るLINEも東日本大震災を契機につくられたと言われている
inserted by FC2 system