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ポリティカル・コレクトネス (略称ポリコレ)」の正体
  中国は独裁政治 で、 共産党員のエリートたち が国民を支配していることはだれでも知っている。
 共産主義の国々(昔のソ連、東ヨーロッパ諸国、北朝鮮等)では、例外なく、共産党員のエリートたちが独裁政治を行っている。共産主義思想は、国民を押さえつけて支配するのに、非常に便利な道具なのだ。「労働者が主人公」は、ウソの看板だ。
 1991年8月19日にソ連でクーデターが起こりかけたが、ロシア共和国大統領エリツィンが戦車の上からゼネストを呼びかけ、多くの人々がその呼びかけに応じたので、クーデターは失敗し、ソ連という国は無くなった。
 共産主義思想に賛成する人々も少なくなり、「労働者が主人公」というウソの看板は、ソ連やヨーロッパでは、降ろされていった。
 しかし、新しい看板「多文化主義的ポリコレ」が、アメリカで掲げられた。
 「労働者が主人公」と「多文化主義的ポリコレ」は、根っこが同じ、マルクス・エンゲルスの科学的社会主義から生まれて別れた双子だった。
 さかのぼって1917年10月、ロシア革命後にドイツのミュンヘンとベルリンで起きた革命騒ぎは、ドイツ軍に攻撃され静められた。
 1919年にはハンガリー・ブダペストで革命政権ができたが、これも数ヶ月でつぶされた。ハンガリー革命がつぶされたので、ルカーチ・ジェルジュは、ソ連に亡命して、革命が成功しない原因を考えた。その結論は、「人民の階級意識が目覚めないよう邪魔しているのは伝統文化・キリスト信仰だ。伝統文化・キリスト信仰を壊さなければ、革命はできない」ということだった。
 1923年、ルカーチはドイツ・フランクフルト大学の中で「マルクス主義研究所」を作った。「マルクス主義研究所」で研究する学者たちの集まりを「フランクフルト学派」という。
 フランクフルト学派のマックス・ホルクハイマ―は、労働者階級が革命を起こすという理論に代わる「批判理論」を発表した。暴力革命を起こすよりも、長い時間をかけて西欧文化(キリスト教精神)を少しづつ虫食む方が政権を倒しやすいと言い、文化や教育制度を変えさせることを重要視する理論だった。
 この学派のユダヤ人学者(M.ホルクハイマー、T.W.アドルノ、W.ベンヤミン、 H.マルクーゼ、E.フロム、ノイマン、J.ハーバーマス、シュミット等)は、ナチスの力が強くなるのを嫌がってアメリカに亡命し、コロンビヤ大学に助けてもらって、アメリカでフランクフルト学派を作った。フランクフルト学派が「マイノリティ」を重要視するのは、ユダヤ人が自分達を「少数派」だと感じていることが影響しているのではないかと言われている。
  フランクフルト学派は、マルクス主義と無関係のふりをしたので、アメリカでも思想が知識人に受け入れられて広まっていった。
 1926年、イタリア共産党書記長アントニオ・グラムシは、ムッソリーニ政権下で逮捕され、「獄中ノート」の中で「ヘゲモニー論」を書いた。「ヘゲモニー論」の内容は、「芸術、映画、演劇、教育、新聞、雑誌、ラジオなどを一つづつ手に入れて人々の考えを変えさせ、伝統文化・キリスト信仰への関心を無くさせれば、政権は自然に倒れて、革命側が権力者になることができる」というものだった。
 大事な点は、革命のために働く主力を「労働者階級」から「マイノリティ」に代えるということだ。「マイノリティ」とは、歴史的に反主流派とされる層、経済的に虐げられた人々だけでなく、 男性に対する女性 、多数民族に対する少数民族、一般市民に対する犯罪者など」だと主張したのだ。「犯罪者が悪いのではなく、犯罪をおこさせた社会が悪い。だから、加害者は逆に保護されるべきだ。被害者は安穏と暮らしてきた保守的な階級であり、保護すべき対象ではない。新世代の若者はみな疎外感にもがき苦しんでいるからこそ犯罪に走る。黒人、貧困者、世の中の敗者、脱落者こそ、革命を起こすことができる英雄なのだ」と。
 彼は、獄中で病気になって1937年に死んだ。
 第1次世界大戦の影響でヨーロッパの映画産業が衰退した後の1920年代、アメリカ映画業界は隆盛を享受したが、ハリウッドは、キリスト教的道徳に縛られない 背徳の都となって醜聞を賑わし ていた。
 1927年5月11日、映画業界は、批判をかわすとともに、労働争議の未然解決を図る目的で、 AMPAS (Academy of Motion Picture Arts and Sciences 映画芸術科学アカデミー)を設立した。
 会社側は、「映画における芸術と科学の発展」を目的に掲げるアカデミー賞を設けて、キリスト教的道徳観に沿う作品等を推奨しようと試みたが、スタッフや俳優らは、会社側の作品等選定に批判を浴びせるとともにボイコット等の手段を弄して主導権を奪いとった。
 各社はアカデミーへの支援を行わなくなり、これを機にアカデミーはアカデミー賞セレモニーの放送権をテレビ局に売ることで自立するようになった。
 1960年代以後の新左翼運動に大きな影響を与えたのは、フランクフルト学派のマルクーゼだ。マルクーゼは、「アメリカのような産業管理システムの中で生活している多数派の人々は『現実が当たり前』と感じるようになり、批判的に物事を考える力を失う。そのような人間は『一次元的人間』だ。少数派(はみ出し者やマイノリティなど)は、管理されていないので、『一次元的人間』にはならない」と「マイノリティ」に期待した。
 新左翼運動は、「ベトナム戦争反対」を掲げて、次のようなことをした。
◦ 南ベトナム政府とアメリカ軍を一方的に非難した。
◦ 「南ベトナム解放民族戦線」と名乗る反政府運動は、本当は、北ベトナム軍の軍人たちが攻撃を仕掛けているのだということを隠した。
◦ フランシーヌ・ルコントという女の人が焼身自殺した事件を脚色して反戦運動に結びつけた。
◦ 北ベトナム軍の主力が「解放を目指す民衆」であるかのようなウソの情報宣伝(プロパガンダ)映画を作成上映した。
◦ 革命歌「インターナショナル」を流行させた。
 これらが、全部、北ベトナム革命勢力を有利にする為のプロパガンダだったことは、南ベトナム国が滅びた後、徐々に、明らかになっていった。
 ポリコレは、マイノリティ(少数派)がマジョリティ(多数派)を憎むように仕向ける戦術だ。
 例えば、韓国で行われてきた歴史教育や宣伝は、昔の日本の軍隊が、朝鮮半島に住む女の子を性奴隷にしたり、朝鮮半島に住む人々を強制的に働かせたりしたという内容だったが、それは、ウソをもとにした物語を歴史的事実であるかのように脚色したものだった。その結果、韓国では、日本を敵と考え、北朝鮮と仲良くしたいと言う大統領が当選した。
 また、沖縄県では、ヤマトンチュウ(沖縄県民以外の日本人)がウチナンチュウ(沖縄県民)をバカにしたりいじめるたりする場面が多いウソの歴史をもとにした芝居を演じたり、アメリカ軍の兵隊たちが犯罪をしたと大げさに報道したりした。長い時間をかけて少しづつ虫食むようなやり方で「ポリコレ」を沖縄県民の心の底深くに埋め込む方法が成功したので、沖縄県ではアメリカ軍を敵視する県知事が当選した。
 台湾天然独や香港雨傘運動は、予期せぬ副作用だったが、報道しない自由で人々の目にふれぬよう覆い隠された陰で、中国共産党勢力のなりふり構わぬ弾圧が行われている。
 1970年にチャールズ・ライクが著した「緑色革命」の表紙には、「革命がやってきた。昔とは異なる革命が。起点となるのは個人であり文化であり、政治制度に影響を及ぼすのは最後のほんの一筆。成功のために暴力は要せず、暴力による鎮圧も成功しない。驚異の速さで広まり、すでに法律や組織、社会制度を変えつつある…新世代の革命が」との文章が記載されていた。
 グラムシ思想は、欧州コミュニズムと米国カウンターカルチャー運動に影響を与えたが、「緑色革命」も、その一例だ。
 こうした思想を大学時代に教えられると、その破壊的な傾向が、大学に残った学者にも報道機関や出版社に就職していったジャーナリストにも受け継がれていく。メディアが左翼に支配される所以だ。
 手段方法や看板が違っていても、マルクス主義者の各路線は、同じ目標=革命成就(主義思想で国民を押さえつけて支配する社会を作ること)を目指している。
 1848年に発表された「共産党宣言」に書かれている「人類平等」を素晴らしい考え方だと思った昔の人々は、「独裁」が、一時的な(資本主義社会が共産主義社会に代わる途中で必要とされる)ものだと思っていた。
 しかし、ソ連という国が無くなった後の「多文化主義者」は、「独裁」を最終的な目標と考えている。
 ハーバード大学などに居るポリコレ論者は「多文化主義者」であり、エリート層が大衆を支配する社会の実現という目標を隠して、マイノリティ層の支持を集め、マジョリティ層を念頭に置く発言を非難の的とすることに成功した。アメリカ大統領選挙でトランプ氏が当選したときは、まだ何も政策を実行に移さないうちから、暴動に近いデモ集会が頻発した。
 また、Affirmative Action(積極的差別是正)を普及させた。 従来の不十分な教育や貧困が原因で不利な立場に置かれている人々を、
positive discrimination (肯定的差別)で優遇して実質的公平さを実現しようという主張に基づく措置だ。
 これに異を唱えようものなら、忽ち、差別者として轟轟たる非難を浴びせ、社会的に抹殺する。
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