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第42代内閣総理大臣 鈴木貫太郎は、戦前のクーデター「二・二六事件」で瀕死の重傷を負いながらも生き残り、77歳で内閣総理大臣に就任し、大東亜戦争を終結に導きました。
彼は、1868年1月18日(慶応3年)、現在の堺市で生を受けます。父親は関宿藩士で代官を務めており、明治維新においては幕府方に属した家柄でした。明治維新後は、現在の千葉県野田市に移り住み、わんぱくな少年時代を送ります。実はこの男、「二・二六事件」で命を取り留めた以外にも何度も生命の危機を経験しており、この頃にも馬に蹴られたり、河に落ちたりと正に九死に一生を得る子供時代を送っていたようです。そんな少年も逞しく成長し、軍人を目指して海軍兵学校に入学することになります。そして4年後の1898年(明治31年)には日清戦争に従軍し、初陣を果たすのでした。その後は海軍に入隊を果たし、会津藩士の娘と結婚し身を固めます。ちなみに海軍入隊後も、航海中に海に落ちるなど、危機一髪体質は変わらずであったといいます。そんな中、日本はロシアとの間で外交上の緊張を高めて行きます。しかしこのころの貫太郎は、やや軍隊での生活に嫌気が差し始めていたと言います。当時の日本の軍隊は、明治維新で官軍側に付いた薩摩・長州出身の者たちが地位を独占し、貫太郎や妻のように幕府側に付いた家柄の者たちは冷遇されていました。このまま軍に残っても、出世の見込みはないのでは・・・そんな思いに駆られる貫太郎に、父親から手紙が届きます。「日露関係が緊迫してきた、今こそ国家のためにご奉公せよ」この手紙を見て、貫太郎は一念発起し、日露戦争に突入して行きます。日露戦争において貫太郎は、装甲巡洋艦 春日の副長に抜擢され大いに活躍を果たします。その戦いぶりは部下から、「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」と評される程であり、3隻もの敵艦に魚雷を命中させるという戦功を上げるのでした。
こうした活躍から海軍次官、海軍大将と次々出世を遂げていき、遂には1924年(大正13年)には連合艦隊司令長官そして海軍軍令部長にまで出世を果たします。もはや海軍のトップにまで登り詰めた貫太郎はこの時、56歳になっておりました。そんな貫太郎の下に、思いもよらないオファーが届きます。それは昭和天皇とその皇太后より、侍従長になって欲しいという依頼でした。当時の人間にとってこれほど名誉なことはありませんからこの役を引き受けることになりますが、軍隊しか知らない貫太郎はかなり困惑していたといいます。しかしながら、長年海軍と言う組織の中で培った経験や判断力、そして豊富な知識に加え、その人柄が評価され、ある時は天皇陛下の良き話し相手として、またある時は宮中でのブレーンとして活躍を遂げるのでした。1936年(昭和11年)、二・二六事件が起こります。国家主義の青年将校たちがクーデターを企み、要人の暗殺という暴挙に出たのです。この時の標的に貫太郎も名も入っており、アメリカ大使館で会食を済ませ、自宅に着いたところを武装した将校たちに襲われてしまいます。突然押し入って来た彼らは発砲し、太腿、胸、頭に三発の銃弾を受けた貫太郎は血まみれで倒れこみます。その様子を見た妻は、将校の前に立ちはだかり、とどめを刺さないよう懇願します。この願いに将校は軍刀を収め、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と語り、去って行きます。その後、病院に運ばれた貫太郎は一度心停止の状態に陥りますが、見事に蘇生し、不死身の男の真骨頂を見せるのでした。そして時は流れ、1941年(昭和16年)日本は大東亜戦争へと突入して行きます。開戦当初こそ、勝利を収めていた日本軍でしたが、次第に戦況は悪化していき、ついには本土への空襲も激化して行きます。1945年(昭和20年)頃には、既に日本の敗北は決定的なものとなっていましたが、政府内部では未だ降伏を認めず、本土決戦に臨もうとする気運が渦巻いていました。
これに心を痛めた昭和天皇は戦争を早期に終結させるべく、77歳となった貫太郎に次期総理大臣となるよう打診します。既に高齢であったこともある上、この重要な局面での総理抜擢に、流石の貫太郎も「とんでもない話だ。お断りする」と辞退しますが、天皇陛下は「鈴木の心境はよくわかる。しかし、この重大なときにあたって、もうほかに人はいない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」と懇願します。この言葉を聞き、ついに貫太郎も折れ、4月7日、歴代最高齢の総理大臣に就任しました。以降、貫太郎はあらゆる手段を用いて、戦争の早期終結を目指し奔走を始めます。これをお読みになった方の中には、総理大臣なのだから簡単に戦争を終わらせることが出来るのでは?とお思いの方も多いと思いますが、事はそれ程単純ではありませんでした。本土決戦に備え、国内には未だ10万近い陸軍の兵力が残っており、不用意に降伏を宣言すれば、クーデターが勃発してしまう恐れがあったのです。当時は相当の混乱期でしたから、例え陸軍のトップがこれを抑えようとしても、クーデターを思い止まらせることは非常に困難な状況にあったとも言われています。そんな危機を何度も回避しながら、長崎の原爆投下の翌日、8月10日に連合軍から突き付けられたポツダム宣言に対する対応を協議するべく、御前会議が開催されます。議論は2時間以上にも渡りますが、結論が出ず、固着状態に陥りますが、ここで貫太郎が立ち上がります。降伏するか、否かを天皇陛下に判断して頂こうというのだ。実は天皇陛下が直に政治判断を下すということは、この時代でも異例中の異例なことであり、貫太郎であったからこそ出来た決断ということが出来るでしょう。
そして天皇陛下は「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と降伏する旨の意思を明らかにするのでした。しかしながら、これでもまだ降伏には至りません。次は降伏条件について、何を受け入れ、何を拒否するかたの協議が残されているのです。もし降伏したことにより、天皇陛下を中心とする日本の国体が破壊されることがあれば、陸軍によるクーデターは不可避となり、国家の滅亡という最悪のシナリオに進む可能性さえあったのです。そこで8月14日、再び御前会議が招集されました。この会議では、無条件降伏を唱える鈴木貫太郎派と、それを認めない阿南惟幾陸軍大臣派の議論が続きます。そして話し合いは平行線のまま、再び天皇陛下の聖断を仰ぐことになります。天皇陛下は鈴木貫太郎の意見に賛成とのご判断をされ、8月14日正午、日本の無条件降伏が決定されたのでした。戦後は生まれ育った千葉にて農業に従事し、1948年(昭和23年)4月17日、81歳でその波乱の生涯を閉じた貫太郎最後の言葉は大きな声での「永遠の平和、永遠の平和」という二言であったと伝わります。死後、荼毘に伏された貫太郎の遺骨には、二・二六事件で打ち込まれた弾丸が混ざっており、この弾丸は今でも野田市にある鈴木貫太郎記念館に展示されています。
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