目次
レーニン 敗戦革命論 は、「 共産主義 者は革命を成功させる為に進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導くべし」と説く。
三田村武夫『大東亜戦争と スターリン の謀略』p.38-42(抜粋)
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
帝国主義戦争が勃発した場合における 共産主義 者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に 共産主義 者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…
『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』…
共産主義 者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』『 共産主義 者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』
要するに「国家を内部崩壊させて共産革命に導く為の手段は問わない。非合法行為もかまわないし、真実を隠蔽しても良い」と言っているのだが、このような レーニン 思想がインテリ層や若い世代を中心に全世界に拡がっていった。日本でもマルクス・エンゲルスや レーニン などの書籍が飛ぶように売れていた。
上記コミンテルン第6回大会から4年後の昭和7年、青年将校らが首相官邸に乱入し犬養毅首相を殺害した五一五事件の 檄文 には、
「 … 国民諸君よ!
天皇の御名に於て君側の奸を屠れ! 国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ
而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用して朗らかな維新日本を建設せよ
民衆よ! 此の建設を念願しつつ先づ○○(不明)だ!
凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ 盛大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
吾等は日本の現象を哭(こく)して赤手世に魁(さきが)けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの
素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ
日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る
起て!    起つて真の日本を建設せよ!
昭和七年五月十五日    陸海軍青年将校」
と記されていた。右翼が、体制破壊の為、一般の労働者に蹶起を促すことはあり得ない。文言から、彼らがマルクスや レーニン の影響を受けていたことが読み取れる。彼らの入隊は、 レーニン 敗戦革命論 実践だったのではなかろうか。昭和20年8月14日深夜、陸軍将校らの一部は、近衛歩兵第二連隊を用いて皇居を占拠するとともに、近衛第一師団長森赳中将を殺害して師団長命令を偽造し、玉音放送(終戦の詔勅)のレコード盤を奪い取って終戦を阻止しようとした(宮城事件)。 大日本帝国憲法下の最高権力者である天皇陛下のご聖断に従わない彼らは右翼ではない。上官の命令に従った参加者もいたように思えるが、リーダー格は 共産主義 者で 敗戦革命論 を実践したと考えるしか、説明のしようがない。8月9日に対日宣戦布告し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始した ソ連 の軍隊が日本列島主要部分を占領するまで終戦にはさせないという意図が窺える。
日中戦争勃発時から開戦直前まで首相を務めた 近衛文麿 が終戦の年(昭和20年[1945])の2月に昭和天皇に上奏し、戦争の早期終結を唱えた『 近衛上奏文 』の中で近衛は我国の左翼分子が我が国を第二次世界大戦に突入させたことを明確に書いている。
「…翻(ひるがえ)つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動及び之を背後から操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存候。…
 抑も(そもそも)満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりし事今や明瞭なりと存候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。支那事変当時も『事変は永引くがよろし、事変解決せば国内革新はできなくなる』と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂(いわゆる)右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存候。…昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加へつつありと存候。かかる主張をなす者はいわゆる右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。…」
近衛文麿 は学生時代から社会主義思想に深く共鳴した人物で、昭和8年(1933)に「昭和研究会」という政治・経済・社会に関する研究会を発足させ、その中心メンバーが後に近衛のブレーンとして彼の内閣を支えることになったのだが、その中にはのちにゾルゲ事件の首謀者として昭和19年に絞首刑となった尾崎秀実や、左翼活動の嫌疑により治安維持法違反で検挙起訴された人物が少なからずいたのである。
そして第一次近衛内閣の時に日中戦争に引き摺り込まれて戦線を拡大し、第二次近衛内閣の時には日独伊三国同盟を締結し日ソ中立条約を結び、第三近衛内閣の時には日米交渉が不調に終わり政権を投げ出した。
近衛が政権を握っていた時代に実際に起こったことは、昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会における スターリン の演説内容とぴったりと符合するのだ。
スターリンの意図
「ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。…」
近衛は ソ連 が世界の共産化の為に工作を続け、軍部や官僚に多くの共産分子がいることに思い至り、この上奏文の中で「彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能はざりしは、全く不明の致す所」と書いて昭和天皇に謝罪し、このまま勝利の見込みのない戦いを継続することは共産主義者の思うつぼとなるので一日も早くこの戦争を終結させるべきであると述べている。この上奏文の全文は次のURLで読むことが出来る。
原文: 早期和平ニ付近衞公爵上奏文           読み下し: 昭和二十年二月十四日拝謁上奏
スターリン の戦略は、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛けて共産陣営に組み込むことだった。そして我国やアメリカの政権の中枢部に、 ソ連 と繋がる人物が多数送り込まれていたということは、今では多くの史料で確認できるのである。
こういう話をすると、すぐに『陰謀論』と一笑に付して思考停止する専門家が多いのだが、本当に怪しいのは、共産国にとって都合の悪い史実を一切語らず、中韓が捏造した物語を充分な検証もせずに「正しい」と声高に叫び続ける連中の方ではないのか。

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~ポツダム宣言4

1928年の コミンテルン 第6回大会で採択された決議内容
「帝国主義相互間の戦争に際し各国プロレタリアートの主要目的を次の通りとする。(1) 自国政府の失敗 (2) 戦争の反ブルジョワ的内乱戦への転化
…帝国主義戦争が勃発した場合における 共産主義 者の政治綱領は次の通り。(1) 自国政府の敗北を助長すること (2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること (3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に 共産主義 者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)
この考え方は レーニン が最初に考えた『 敗戦革命論 』と呼ばれるものだが、 共産主義 者に対して、「軍隊を内部から崩壊させ」「自国政府の敗北を助成」し、「戦争を通じて 共産主義 革命」を起こせ。その為に「進んで軍隊に入隊」せよと言っている。これだけでも恐ろしいことなのだが、さらに レーニン はこうも述べている。
「『政治闘争に於いては逃口上や嘘言も必要である』… 『 共産主義 者は、いかなる犠牲も辞さない覚悟がなければならない。――あらゆる種類の詐欺、手管、および策略を用いて非合法方法を活用し、真実をごまかしかつ隠蔽しても差し支えない。』…
『党はブルジョア陣営内の小競り合い、衝突、不和に乗じ、事情の如何によって、不意に急速に闘争形態を変えることが出来なければならない』
共産主義 者は、ブルジョア合法性に依存すべきではない。公然たる組織と並んで、革命の際非常に役立つ秘密の機関を到るところに作らねばならない。』」(同上書 p.41-42)
要するに、国家を内部崩壊させて革命を成功させる為にはその手段は問わないと言っているのだが、もしこのような考え方の者が我国の軍隊に多数入隊して主導権を握っていたと考えたら、次の謎を解くヒントが得られないだろうか。 (1) なぜ昭和の初期にテロ事件が多かったのか (2) なぜ宣戦布告がないままに日中戦争が全面戦争に発展したか (3) なぜ昭和天皇の『ポツダム宣言』受諾の御聖断に対して軍部の一部が強く抵抗したのか。
昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走は無関係だったのだろうか
昭和初期にマルクス・ レーニン の著作がバカ売れして、共産主義思想に共鳴した青年が多数いた。例えば、マルクスの『資本論』だけでも大正8年(1919)から昭和3年(1928)にかけて6社(緑葉社、経済社出版部、大鐙閣、新潮社、岩波書店、改造社)が出版している。また昭和3年(1928)から昭和10年(1935)にかけて改造社から全27巻の『マルクス・エンゲルス全集』が出版され、昭和2年(1927)から翌年にかけて白揚社から24篇の『 レーニン 叢書』が出版されている。こんなに多くの左翼思想の本が売れた昭和初期はどんな時代だったのだろうか。
神戸大学デジタルアーカイブ 』で、当時の経済記事や解説記事の検索を試みた。新聞の過去記事については戦後のGHQの検閲や焚書の対象にはならなかったので、当時の論調がそのまま残されていて、 その資料 にネットでアクセスできるのはありがたい。この「新聞記事文庫 簡易検索」を使ってたとえば「左傾」というキーワードで検索すると528件もの解説や記事にヒットする。
発行日順に並び替えて表題を読むだけでも、結構な情報を得ることが出来るが、この当時は学生や教員の左傾化が社会問題になっていて、政府や文部省がその対策に苦慮していたという記事がいくつもあるのに誰もが驚いてしまうだろう。
たとえば昭和7年(1932)1月15日の東京日日新聞の 学生の思想は何故左傾する という記事がある。
この記事では左傾化の原因について当時の社会情勢として
① 資本家と労働者との生活の甚しき懸隔及び農村の著しき疲弊
② 労働問題及び小作問題の激化
③ 中産階級の経済的顛落
④ 卒業後における就職の不安
⑤ 政界の腐敗
⑥ 政治並に政党に対する不満…などがあり、
このような現状を根本的に変革しようとしてマルクス・ レーニン の著作に飛び付き、思想界、学会、教育界もその流れにあったことが記されている。

そして、この記事が掲載された翌月である昭和7年(1932)の2月から3月にかけて、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨が相次いで暗殺される 血盟団事件 が起こった。この血盟団のメンバーは大半が20代の学生だ。
ついで5月には海軍の青年将校を中心とする一団が首相官邸に向かい犬養首相を暗殺する 五・一五事件 が起きている。 檄文 を読めば、共産主義的考え方の影響をかなり受けていることがわかる。

『ビルマの竪琴』の著者・ 竹山道雄 は昭和初期の状況をこう記している。
「インテリの間には左翼思想が風靡して、昭和の初めには『赤にあらずんば人にあらず』というふうだった。指導的な思想雑誌はこれによって占められていた。若い世代は完全に政治化した。しかしインテリは武器を持っていなかったから、その運動は弾圧されてしまった。あの風潮が兵営の厚い壁を浸透して、その中の武器を持っている人々に反映し、その型にしたがって変形したことは、むしろ自然だった。その人々は、もはや軍人としてではなく、政治家として行動した。すでに北一輝などの経典があって、国体に関する特別な観念を作り上げていて、国体と社会改造とは背馳するものではなかった。しかし、北一輝だけでは、うたがいもなく純真で忠誠な軍人をして、上官を批判し軍律を紊(みだ)り世論に迷い政治に関与させることは、できなかったに違いない。…いかに背後に陰謀的な旧式右翼がいたところで、それだけで若い軍人が『青年将校』となることはありえなかった。これを激発させたのは社会の機運だった。このことは、前の檄文*の内容が雄弁に語っている。

青年将校たちは軍人の子弟が多く、そうでない者もおおむね中産階級の出身で、自分は農民でも労働者でもなかった。それが政治化したのは、社会の不正を憎み苦しんでいる人々に同情する熱情からだった。インテリの動機とほぼ同じだった。ただ、インテリは天皇と祖国を否定したが、国防に任ずる将校たちは肯定した。ただし、彼らが肯定した天皇と国体は、既成現存の『天皇制』のそれではなかった。」(講談社学術文庫『昭和の精神史』p45-47)
では、「彼らが肯定した天皇と国体」とはどのようなものであったのか。
竹山氏は一人の青年将校を知っていた。その青年将校は職業軍人ではなく教師であったと書いているが、つねにブルジョアを激しく攻撃していたという。そしてその人物が思い描いていた『天皇制』とは、「国民の総意に上にたつ権力者で、何となくスターリンに似ているもののように思われた」(同上書p.48)と竹山氏は記している。
竹山氏の表現を借りると、青年将校たちは「天皇によって『天皇制』を仆(たお)そうとした」、「革新派の軍人が考えていた『国体』は、『天皇制』とはあべこべのものだった」ということだが、別の言い方をすると、その青年将校は、『天皇制』は認めても「天皇」というポストに就くべき人物は昭和天皇ではなく、スターリンのような人物を考えていたということなのだ。そのように考える青年将校がどの程度いたかについては、今となってはわからないが、先ほどの『 神戸大学デジタルアーカイブ 』で検索していくと、軍隊の中に共産主義が相当浸透していたことがわかる記事をいくつか見つけることが出来る。たとえば、 昭和3年(1928)4月14日の神戸又新日報の記事 だが「重要な某連隊に本年入隊した現役兵二名が今回の共産党事件に関係して居り、党員と気脈を通じて軍隊中の細胞組織を行わんとひそかに画策していたことが判明したので当局では大狼狽」したと書かれている。
また、昭和3年9月24日から6回に分けて中外商業新報に連載された、「赤化運動の経緯」という記事では、
「今後も共産主義に感染した学生及び労農党に属する有識壮年等が赤化運動の首謀者となっている。
…ここに最も注意すべきは兵営の内外から連絡を保って陰謀を企てた兵卒が、第四師団の軍法会議に廻された事実である。大阪におけるある秘密結社の如きは、軍隊の赤化に最も力を尽し、その手段すこぶる巧妙、運動者の一人久木某の如きは、軍事教官という綽名さえ持っていたということだ。
これ等赤化運動者が、個人として若しくは団体とし、ソウェート・ロシアと密接な関係を持っていたことは、これまで発表された宣伝の様式や運動の方法などを見た丈けでも、明々白々であるがなおロシア側の情報に照らし合せこると、洵に思い半ばに過ぐるものがある。」 などと書かれている。
さらにこの記事を読み続けていくと、ソビエトの赤化工作は西欧では失敗したが、東洋の日本では急激に浸透していることを書いている。そして、ソ連共産党年鑑に載っている第三インターナショナル( コミンテルン )規約第三条が引用されている。
「欧米諸国における階級闘争は今や殆ど内乱の状態となり、ブルジョア国の法律は、共産党員に対し、厳刑を科するに至りたるを以て、本党員たる者は、今後各地一斉に秘密結社を組織し決定的時機の到来に際し、革命運動の成功を期する為め、普段の努力を怠るべからず」。
またその第四条には
 「共産主義の宣伝は、極力軍隊に向って行うべし。特別の法律を以て宣伝を拘束する国においては、秘密手段に訴うべし。」
とあり、また5月24日付のソ連のプラウダ紙には、日本の共産主義者および陸海軍人に対し、「世界のブルジョア諸国は、支那に対する内政干渉より一転して領土侵略に移った。日本はその機先を制せんとして、早くも要害の地歩を占め、山東を満洲と同じくその植民地とする野心を暴露した。」
 「陸海軍人諸君よ、諸君は陸海軍両方面より、先ず反動勢力を打破し、而して支那を革命助成する為め、その内乱戦を国際戦に転換せしむるよう不断の努力を怠る勿れ」
 「日本の反革命的強盗に打撃を加うべき共産党機関現在なれ」などと煽動していることが書かれている。一部の軍人はソ連に繋がっていて、この規約の通りに動いていたのではなかったか。
このような記事は 神戸大学デジタルアーカイブ でまだまだ見つかると思うのだが、いくら共産主義に共鳴する軍人が多くいたとしても、軍隊の幹部クラスが共産主義に毒されていなければ、クーデターのようなことは不可能だ。しかし、いろいろ調べていくと軍のエリートにもソ連に繋がる者がいたようである。
赤化運動の経緯(1〜6)

共産主義に傾倒した陸軍参謀本部大佐がまとめた終戦工作原案を読む

種村佐孝 という人物についてWikipediaではこう解説されている。
「太平洋戦争(大東亜戦争)中、陸軍参謀本部戦争指導班長をつとめ、大本営の戦争指導にあたった。
戦争末期、対米降伏・和平交渉はアメリカの偽装であり、対米戦争の継続の為ソ連同盟論を主張、対ソ終戦工作に従事する。
戦後にシベリア抑留に遭い、モンゴルのウランバートルにあった『第7006俘虜収容所』にて、 共産主義 革命の為の特殊工作員として朝枝繁春、志位正二、瀬島龍三らとともに訓練を受ける。」
種村佐孝 種村大佐は、前回の記事で記した朝枝中佐、瀬島中佐とともに戦後シベリアに抑留されたのだが、1954年に日本からアメリカに亡命したKGB中佐・ラストボロフの証言によると、いずれもウランバートルで特殊工作員としての訓練を受けた11名の軍人メンバーのうちの1人だというのだ。
ところで上記URLの解説に志位正二という人物の名があるが、彼は関東軍隷下の第3方面軍情報参謀(陸軍少佐)で、現在日本共産党委員長である志位和夫の叔父にあたる人物だという。志位は、1948年にシベリアから帰国ののちGHQ参謀第2部(G2)の地理課に勤め、1951年以降G2在職のままKGBのエージェントとして雇われたのだが、1954年のラストボロフ亡命後に毎月ソ連からお金を受け取っていたことを本人が自主したことを付け加えておく。
ユーリー・ラストヴォロフ ソ連は終戦直前に対日参戦し、満州や樺太や千島だけでなく北海道の北半分をも占領する計画であったのだが、千島列島と樺太で日本軍の頑強な抵抗に遭った為に、北北海道の占領については失敗してしまう。
とは言いながら、ソ連は、そんなことで我国の共産国化を諦めるような国ではなかったのである。革命の為の日本人特殊工作員を養成する為に 種村佐孝 や瀬島隆三ら日本の軍人メンバーを集めてウランバートルで特殊教育を実施したわけだが、常識的に考えて、ソ連が選んだ11名については、ソ連が彼らのソ連に対する忠誠心を疑わなかったということであり、いずれも筋金入りの 共産主義 思想の持ち主であったことを意味する。
前回は朝枝繁春陸軍中佐のその異常なソ連傾倒ぶりを紹介したが、今回は 種村佐孝 陸軍大佐の文章を紹介したいと思う。このような文章を書く人物が、我国の対ソ終戦工作に従事していたということを念頭に置いて読んで頂きたいのだが、その前にこの文章が書かれるまでの我国の動きを概観しておく。
1945年(昭和20)2月にクリミヤ半島のヤルタ近郊で米英ソ3国による首脳会談が行われ、ドイツの分割統治や東欧諸国の戦後処理が取り決められ、米ソの間ではドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇について話し合われ、秘密協定が締結された(ヤルタ会談)。4月5日、ソ連は我国に対し一方的に「日ソ中立条約」の破棄を通告してきた(条約第3条に破棄通告後も条約の満期が到来する1946年4月24日までは効力が存続する旨の規定があったにも拘わらず)。小磯国昭内閣は総辞職し4月7日に鈴木貫太郎内閣が成立したが、当時の陸軍中枢部は、ソ連との関係改善を図るべき旨強く主張したという。
4月29日、陸軍参謀本部の 種村佐孝 大佐が陸軍上層部に提出した「今後の対『ソ』施策に対する意見」の冒頭部分は次の通り(原文は旧字旧カナだが、読みやすいよう新字新仮名で書き直す)。
「今さら申すべきにあらざるも、『ソ』連の」対日動向は、帝国の大東亜戦争遂行に致命的影響を及ぼしていることは、大東亜戦争開始前以来の戦争指導上の最大関心事であった。
而してこの『ソ』の対日動向を、大東亜戦争の終末まで中立的態度を維持せしめ得れば、戦争指導上満点である。
今日まで日『ソ』中立条約に依存して、帝国は日『ソ』間の関係を危なげながらも維持してきたのであるけれども、今や日『ソ』中立条約破棄通告を受け、かつ独(ドイツ)崩壊したる現状態においては、遺憾ながら日本独力により『ソ』の中立的態度を維持せしめ得べき何等の根拠も持っていない。」
と、当然のことから書き出している。そして
「作戦必勝の道なきところに戦勝の光明など存在しようがない。…どうしても作戦必勝の道なしとすれば、これが補助手段としての外交の道も存在しないと見るも過言ではあるまいか。
そこで熟々(つらつら)帝国現下の作戦の推移を考察する時、今後の対『ソ』」施策に殆んど期待を懸け得られない様な気がする。もし期待を懸けるとしたならば終戦方策としての対『ソ』交渉に転移すべきではないかとの考えが起って来るのも無理からぬ点である。」
と述べた後、我国はあくまで対英米戦争完遂の為にソ連と交渉すべきであるとし、ソ連には余程譲歩して条件呈示をしなければ、逆にソ連との戦争になる怖れもあるとしている。では、ソ連に対してどのような条件を出すべきだというのか。ここで種村大佐は驚くべきことを書いている。
「…換言すれば『ソ』側の言いなり放題になって眼をつぶる。日清戦争後に於ける遼東半島を還付した悲壮なる決心に立ち換ったならば、今日日本が満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り、明治御維新を昭和の御維新によって再建するの覚悟を以て、飽くまで日『ソ』戦を回避し、対米英戦争完遂に邁進しなくてはならない。…
…帝国としては、この肚を以て、日『ソ』戦争を絶対に回避すべきであって、そこまで肚を極めて対『ソ』交渉に移るべきである。移った以上『ソ』側の言い分を待って之に応ずるという態度に出づるべきである。我より進んで以上の諸条件を展開することの適当ならざるは外交駈引上から言っても当然考慮せられるべき点である。」
国民の為の大東亜戦争正統抄史79~80鈴木内閣の失策 」参照
同じ日付で『対ソ外交交渉要綱』という文書があり、これも 種村佐孝 大佐が書いている。
種村は「今後の対『ソ』施策に対する意見」にも書いていた通り、英米との戦争を貫徹する為に、ソ連に対して大譲歩して対ソ戦を回避するべきだと述べた後、我国がソ連に対して提案すべき腹案をこう書いている。
「二、対『ソ』交渉に当り我が方の提案すべき腹案要旨左の如し。
 米英の世界侵略、就中(なかんずく)東亜に於ける野望に対し、日『ソ』支は善隣友好互助提携相互不侵略の原則の下に強固に結合し以て相互の繁栄を図るを目的とし、帝国は『ソ』連邦に対し左記を確約す。
1、満洲国に於ける居住営業の自由。
2、支那に於ける『ソ』連勢力、特に延安政権の拡大強化。要すれば其の希望する地域より日本軍の撤退。
3、南方占拠地域に於ける戦後所望する権益の譲渡。
4、満洲国及外蒙共和国は、本施策に同調すること。
支那に於ける交渉の対象は延安政権とするも差支なきこと。これが為、要すれば国民政府を解消せしむ。」
少し補足すると、「延安政権」というのは中国共産党のことである。
なぜ、一戦も交えていないソ連に対して、我国は満州も東南アジアもモンゴルも差し出さねばならないのか。この辺りは、誰しも疑問を感じるところである。
それだけではない。種村大佐は、もしソ連が強硬に出てきた場合には、次の条件も容認すべきだと書いている。
「三、『ソ』にして、前項交渉に当り強硬に要求するに於ては、左記を容認することあり。
1、北鉄の譲渡
2、漁業条約の破棄
3、満洲国、満鉄、遼東半島、南樺太朝鮮等につきては解消若くは譲渡することあるも当時の情勢に依り之を定む。」
我国が開戦に追い込まれた「 ハル・ノート 」に於いて、我国が受け入れ難かった主な条項は、
① 中国本土及び仏領インドシナから一切の陸海軍兵力及び警察力を撤退させる。
② 重慶政府(蒋介石政権)以外のいかなる政権をも、軍事的、政治的に支持しない。(汪兆銘政府を見捨てよ)
③ 日独伊三国同盟条約の死文化
だったのだが、「 ハル・ノート 」の内容よりもはるかに過激な内容が、ソ連から要求されてもいないのに陸軍参謀本部から出てきたことをどう理解すればよいのか。種村大佐は「満州や遼東半島や南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨て、日清戦争前の態勢に立ち還り」というのだが、そもそも沖縄も北千島も、日清戦争前からの日本領なのである。我国の中枢部に相当程度ソ連の工作があったか、ソ連を理想国家と崇めていたメンバーが主導権を握っていないと、このような公文書が残されるはずがない。前回にも書いたが、この『対ソ外交交渉要綱』を書いた種村大佐は戦後日本共産党に入党しているのである。
7月12日に近衛文麿が我国の特使として、英米との「終戦仲介」を依頼すべくモスクワに派遣されることに決定したのだが、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を約束していたスターリンに会談を拒否されている。
戦後、インドネシアやベトナムなどで一部の日本軍兵士が残留してアジア諸国の独立戦争に身を投じ、戦勝国勢力を追い出して独立を果たしたのだが、近衛の交渉案でソ連に約束しようとした日本軍の現地残留と関係あるのだろうか。
スイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、『日本政府が 共産主義 者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAで明らかになっている。その電報の内容を2013年8月11日付の産経新聞の記事にこう記されている。
「…『国家を救う為、日本政府の重要メンバーの多くが日本の 共産主義 者たちに完全に降伏(魂を明け渡)している』と政権中枢が コミンテルン に汚染されていることを指摘。そのうえで、『あらゆる分野で行動することを認められている彼ら( 共産主義 者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めている』とした。
そして『日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に 共産主義 者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平工作を)提案している』と解説している。」
なぜ軍隊の中枢に共産主義者がいたかについては、1928年の コミンテルン 第6回大会で採択された決議内容を思い出してほしい。
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」
この考え方は レーニン が最初に考案したもので『 敗戦革命論 』と呼ばれているが、我国の軍隊にはこの決議通りに、革命を成功させる為に進んで軍隊に入隊し、国家を内部から崩壊せしめる力とし、自国政府の敗北を導こうと動いたと考えれば、軍隊に共産主義者が多数いたことは理解できる話である。
先程の産経新聞記事で書かれていた、中国国民政府の陸軍武官が米国から入手した『最高機密情報』は、我国で公開されている史料でその正しさが立証できるわけだが、こういう史実が日本人に広く知られると、戦勝国が広めた「日本だけが悪かった」とする歴史観が土台から崩れ始めて、「一番悪かったのは、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛けて共産主義陣営に組み込もうとしたソ連である」ということになるのではないか。
戦後の長きにわたり、左寄りの日教組やマスコミが多くの「ソ連などの共産主義国家にとって都合の悪い」史実に目を塞ぎ、「自虐史観」の固定化にこだわり続けてきたのは、我国だけを悪者にすることが共産主義国の悪事の歴史を隠す為に都合が良かったからなのだろう。しかしながら、ネット社会でマスコミの力が凋落している状況下で、史実に基づかない「自虐史観」は、我国であと何年も持たないのではないか。
先日「戦勝国による『歴史の書き換え』が始まった」たという記事で、ロシアが米国による広島、長崎への原子爆弾投下を「犯罪」として糾弾する動きを強めていることを書いたが、早速アメリカが動き出したようだ。
JBPRESSで古森義久氏の「中国の『抗日戦争勝利』式典に憤る米国の元政府高官…プロパガンダそのもの、米国と同盟国への政治的戦争と非難」という論文が掲載されている。
中国の「抗日戦争勝利」式典に憤る米国の元政府高官 古森氏によると、アメリカの外交専門誌『ザ・ディプロマット』(8/31号)に中国の安全保障の専門家であるランディ・シュライバー氏の『中国は自らの歴史問題を抱えている』と題する論文が掲載され、そこには中国の歴史改竄が批難されているという。

「同論文は『中国の歴史の扱いも精査されるべきだ』という見出しで、中国共産党政権が9月3日に開催する『抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年』記念式典を批判していた。同式典は『中国のプロパガンダそのものであり、中国が勝利した経緯の正確な描写が書けている。それは私達への侮辱であり、反対すべきだ。中国による歴史の改ざんを許容してはならない』という。」
そしてシュライバー氏はこう述べている。
「アジアの歴史認識については日本の態度だけが問題にされる。だが、政治目的の為に歴史を歪曲し、修正し、抹殺までしてしまう点で最悪の犯罪者は中国である。中国共産党は1931年から45年までの歴史を熱心に語るが、1949年から現在までの歴史は率直に語ろうとしない。」
アメリカと中露との『歴史戦』はこれだけで終わるはずがないだろう。何が嘘で何が真実かを立証する決定的資料はアメリカにかなりあると思われる。今後の動向に注目したいところである。
「大東亜共栄圏」の思想が広められた背景

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