目次
マッカーサー・ライン :第二次世界大戦後の日本を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部の文書SCAPIN第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって決められた日本漁船の活動可能領域
1945年(昭和20年)
 8月15日 - 終戦
 9月2日 - GHQの指示がない限り、漁船を含む船舶の一切の移動が禁じられた
 9月14日 - 木造船だけは日本の沿岸12海里以内での操業が許可された
 9月27日 - 日本の漁獲水域を指定(北緯45度東経145度から北緯45度30分東経145度、歯舞諸島を避けて東経150度、北緯26度東経150度、北緯26度東経123度、北緯32度東経125度、対馬を経て北緯40度東経135度、北緯45度東経140度を結ぶ線内)
 11月30日 - 小笠原諸島周辺での捕鯨が許可された
1946年(昭和21年)
 3月22日 - 日本の行政区域を対馬、種子島、伊豆諸島までに限る(南西諸島と小笠原諸島の分離)
1949年(昭和24年)
 9月21日 - 日本の漁獲域を東へ拡張(北緯40度東経165度、北緯40度東経180度、北緯24度東経180度、北緯24度東経165度の線内)
  1950年(昭和25年)
 5月12日 - 日本の漁獲水域を南へ拡大(北緯24度東経123度、赤道の東経135度、赤道の東経180度、北緯24度東経180度を結ぶ線内)
1951年(昭和26年)
 7月19日 - 韓国、米国にサンフランシスコ講和条約でのマッカーサーラインの継続を要求
 8月10日 - 米国、ラスク書簡にて韓国に回答、サンフランシスコ講和条約発効後はマッカーサーラインは有効ではない
 9月8日 - サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)署名される(条約発効は1952年4月28日)
1952年(昭和27年)
 1月18日 - 韓国が海洋主権宣言に基づき一方的に李承晩ラインを設定
 4月25日 - マッカーサーライン廃止
李承晩ライン は、 1952年 (昭和27年) 1月18日 韓国 初代 大統領 李承晩 が大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を公表することにより独断で設定した韓国と周辺国との間の水域区分と資源と主権主張のための海洋境界線である。
同年2月8日、李承晩政府が、この境界線を設定した主目的は日韓両国間の平和維持にあると発表し、「平和線(평화선)」と宣言した。
同月12日 、アメリカは、韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告したが、韓国政府はこれを無視した。
韓国はこの境界線に基づき 日韓基本条約 が結ばれるまでの13年の間で日本の漁船233隻を拿捕し、漁師2,791人を拘束した。この人数は外務省の答弁で用いられた数だが、1968年の『日韓漁業対策運動史』によると拿捕漁船は328隻、抑留船員3,929人 、44人が死傷したとされている。 後に韓国政府は日本政府に対し、抑留者の返還と引き換えに 日本の刑務所 で常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として 収監 されている韓国人 受刑者 釈放 を要求した。 日本政府 はこれを飲み、在日韓国人犯罪者472人を放免し、日本での永住許可を与えた。
李承晩ラインは、建国されたばかりの韓国が 海洋資源 の独占を目的としたものであり、サンフランシスコ平和条約の発効によって廃止されることが目前に迫っていた マッカーサー・ライン の代わりに独断で 公海 上に突如設定した 排他的経済水域 である。
日本の主権回復に伴いマッカーサーラインの消滅が確実となり、以前からマッカーサー・ラインの存続を希望していた韓国により設定された。これにより、日本側は多くの 人権侵害 内政干渉 を受けた。
この海域内での 漁業 は、韓国 以外の 漁船 は行えないものとし、これに違反したとされた漁船(主として 日本国籍 、ほか 中華人民共和国 国籍)は韓国側によって 臨検 拿捕 接収 、銃撃を受けるなどした。銃撃により乗組員が殺害される事件も起こっている( 第一大邦丸事件 など)。同様の日本漁船の拿捕事件は、李承晩ライン宣言前(マッカーサーライン廃止前)にも5件発生していたことがGHQの公文書に記録されている。その1例が1948年5月14日に発生した瑞穂丸拿捕事件である。
李承晩ラインに対し日米両国は「 国際法 上の慣例を無視した措置」として強く抗議したが、当時は サンフランシスコ平和条約 発効3か月前で、日本の 主権 回復 しておらず、また日本の 海上自衛隊 や、その前身である 海上警備隊 警備隊 も存在していなかった。
日韓基本条約 締結の際の 日韓漁業協定 の成立( 1965年 昭和 40年〉)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな 食料 と30人がおけ1杯の で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。 共産主義 者だとわかると抑留期間も数年間におよんだ。
日本弁護士連合会 は、「凡そ、1国の 領海 は、3 海里 を限度とすることは国際法上の慣行であり、公海内に於ける魚族其他一切の資源は人類共同の 福祉 の為めに全世界に解放せらるべきである。然るに、韓国大統領は、これを封鎖して、平和的漁船を拿捕し、漁民を拉致し且つ刑事犯人として処罰するが如きは国際正義に悖る行為である。よって、本委員会は、 正義 平和 の名において、茲に韓国の反省と漁船、漁民の即時解放を求め、以って、相倚り相助け東亜の再建に貢献することを期待する。」といった内容を含む「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」を満場一致で議決して 人権 擁護の抗議運動を全国で展開した。
一方で、韓国側は李承晩ラインの存在を日本側に知らしめるため、また李承晩ライン付近で拿捕した日本漁船の乗組員に関する情報を伝える目的で、国際放送『自由大韓の声』に日本語放送の実施を命じた。これが現在の KBSワールド ・ラジオ韓国の始まりである。
李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は 韓国政府 の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、苦慮しつつも、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた 在日韓国・朝鮮人 472人を放免し、日本国内に自由に解放し 在留特別許可 を与えた。
第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域は マッカーサー・ライン によって大きく制限されたものであったが、 1951年 2月7日 に「吉田・ダレス書簡」が発表され、サンフランシスコ講和条約の発効による日本の主権回復後にマッカーサー・ラインが撤廃されることが確実となった。
2月16日 、金龍周韓国駐日代表部公使は林炳稷 外務部長官 に宛て「もしマッカーサー・ラインが撤廃されたならば彼ら日本漁業者たちの行為は露骨化して公然と韓国の漁場を攪乱するので、韓国の水産資源を必然的に枯渇させ 韓国の経済 に及ぼす損失は莫大なものと思われる」とし、早急な対策を要望した。
4月3日 、韓国政府は対日漁業協定委員会を発足させ、同月11日、同委員会は第2回会議にて3段階の対日漁業政策を決定した。
・第1段階:マッカーサーに対し、韓国外務部から、マッカーサー・ラインを今後も永存続させるという要請を行う。
・第2段階:日本の侵略を防ぐために、マッカーサー・ラインを存続させる項目を 日本国との平和条約 に入れるよう強力に推進する。
・第3段階:マッカーサー・ライン撤廃を想定して、総司令部と漁業協定を締結し有利な条件を技術的に定める。またその交渉はマッカーサー・ライン撤廃前にするのが有利である。
その第2段階に沿い、 4月17日 、同委員会から 張勉 国務総理 に対し行われた「対日講和条約草案に関する意見具申」では、この問題は「政治的経済的事項に属することは第二次的な問題で、実は韓国のひいては極東の 安全保障 に属する」とされマッカーサー・ライン存続を対日講和条約草案の第4章「安全保障」に挿入することが求められていた。
4月26日 、韓国政府は ジョン・フォスター・ダレス 国務長官 顧問宛に要望書を提出。しかしマッカーサー・ラインの存続の要望は、上記の意見具申の内容とは異なり、 対日講和条約 の第4章「安全保障」ではなく第5章「政治および経済条項」に組み込まれており、安全保障の観点から行われたものではなかった。韓国政府はその後も 7月9日 に書簡と直接要請によって、 7月19日 に直接要請によって、 8月2日 に書簡によって、アメリカに対しマッカーサー・ライン存続の条項を 講和条約 に挿入するよう要求したが、これらもすべて安全保障の観点からのものではなかった。
また 7月19日 の要望書では日本の在 朝鮮半島 資産 の韓国政府および アメリカ軍政庁 への移管、 竹島 波浪島 を韓国領とすることも要求していた。 8月10日 、これらの要望に対しアメリカは「 ラスク書簡 」にて回答。在朝鮮半島の日本資産の移管についてのみを認め、その他の韓国政府からの要求を拒否した。
「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年 9月8日 日本国との平和条約 は調印された。翌 1952年 4月28日 に条約が発効される手筈となっており、この発効と同時にマッカーサー・ラインは廃止される予定となっていた。しかし、サンフランシスコ講和条約の発効3ヶ月前の 1月18日 朝鮮戦争 下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わるものとして「李承晩ライン」の宣言を行った。これに対し日米両政府は非難の声を挙げたが、日韓間に 国交 がないことから、その解決には長い道のりを要することとなった。
李承晩ラインの設定はサンフランシスコ平和条約に反したものであるが前述のとおり韓国はこれに調印していない。しかし、韓国は同条約起草時に要望を アメリカ政府 に述べることが可能な立場であり、実際に一部の要求(在朝鮮半島における日本資産の韓国政府および 在韓米軍 による接収)はサンフランシスコ条約に採用されている。マッカーサー・ライン継続、竹島の領有などの韓国の要望が却下されているのは前述の通りである。
韓国の主張とアメリカ等の抗議
韓国は1952年1月27日に李承晩宣言韓国政府声明を発表し李承晩ラインを国際法において確立されたものであると主張したが、アメリカの ラスク書簡 によりマッカーサーラインの継続が拒否された。韓国政府は60海里に及ぶ漁業独占権を接続水域として整理しているが、当時のアメリカ、イギリスが主張する接続水域は12海里(22km)であり、フランスは20kmであった。また、接続水域とは、関税や検疫のために限定された管轄権を行使できる水域を示しており、漁業独占のための水域ではなかった。李承晩の宣言を受けて、2月11日にアメリカ政府は公海上での行政権行使に対する懸念を示す口上書をもって抗議を行った。また、6月11日には 中華民国 が、翌1953年1月12日にはイギリスが抗議を行った。
更に、 1954年 に作成された米国機密文書・ ヴァン・フリート特命報告書 によれば、アメリカ政府は 竹島問題 をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの一方的な宣言が違法であることを韓国政府に伝達している。
問題解決への道のり
問題解決には長い年月を要した。その原因は、
・日韓両国に正式な国交がなかった。
・国交正常化交渉は賠償請求権を巡って紛糾し、遅々として進まなかった。
・アメリカが二国間問題であるとの立場を取り積極的に介入しなかった。
である。
冷戦 初期の中、日本と韓国は共にアメリカの庇護下で 反共主義 自由主義 )を旨とする 西側諸国 に属していた。しかしながら、 李承晩 1910年 日韓併合 以来一貫した 反日 民族独立運動 家であり、 1948年 7月20日 に正式に成立した韓国の初代大統領として常に強硬な対日 外交 を行っていた。それでも李承晩ラインを発表した直後の 1952年 (昭和27年)2月から日本の 保守 政権と韓国の李承晩政権とは国交樹立を目指した交渉を開始した。李承晩政権の強硬な反日姿勢のため両国間の溝は大きく、交渉はしばしば中断した。両国政府間の共同声明などにより韓国側は拿捕した日本人漁民の釈放に応じはしたものの、李承晩ライン自体は存続させ続け、 1960年 (昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いていた。
1963年 (昭和38年) 10月15日 、李承晩退陣後の政治的混乱を収拾した 朴正煕 が大統領に就任した。彼は 工業化 を進めることで国を富ませ、民族の悲願である 南北統一 を促進することを考えた。そのためには 資本 と技術が必要と考えた。しかし、 大韓帝国 時代と同様、 朝鮮戦争 後の荒廃した韓国には国際的信用力がなかったため資本を集めることが難しく、どこからどう調達するかが悩みの種であった。朴正煕大統領が目をつけたのが日本である。そのために 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (日韓基本条約)の締結を急いだ。一方、日本政府も戦後処理の一環として韓国との国交回復は重要な外交テーマであり、李承晩ラインを撤廃させて安全操業の確保実現を求める西日本の漁民からの要望も受けていた。朴正煕政権は、竹島の領有権についての紛争を棚上げにすることで日韓基本条約の締結がなしえると判断したところで、その関係協定の一つである日韓漁業協定を締結した。この日韓漁業協定が締結された 1965年 (昭和40年) 6月22日 以降、相矛盾する李承晩ラインは自動的に無効・廃止とされた。
ご批判,ご指摘を歓迎します 掲示板  新規投稿  してくだされば幸いです.言論封殺勢力に抗する決意新たに! inserted by FC2 system