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  〔社説〕東京五輪の年に 旗を振る、って何だろう  2020年1月11日 5時00分  は、問いかけから始まります。
 あなたはこれまで旗を振ったことがあるだろうか。
 運動会の応援やスポーツ観戦、あるいはイベントやデモに参加したとき……。
 いったい旗とは何か。米国では、星条旗をこう表現するそうだ。「あなたの信じるすべてのものになりうるだろう」
 今年は東京五輪が開かれる年である。多くの人が多くの旗を掲げる機会がありそうだ。メダルを胸に旗を誇らしげに見上げる人もいるに違いない。
 そんな年の始まりに、少しだけ考えてみたい。そもそも人はなぜ、旗を手にするのか。
 そして、「(スポーツ観戦に『旭日旗』を持ち込むことについて)「快く思わない人たちがいることがわかっている旗を意図的に振る行為に、『政治的主張』はないといえるのだろうか」と、「日の丸」と「旭日旗」を否定します。
 前回子年(12年前)には、五星紅旗振る人々を絶賛してたにもかかわらずっ
 「日の丸」に対しても、複雑な感情を抱く人々がいる。
 戦後75年が過ぎても、そうした人々から見れば、日の丸を掲げる行為そのものが、侵略戦争の暗い記憶を呼び起こすものにほかならない。
 東京五輪で旭日旗を振るのを禁止すべきだ…。最近、韓国の人々からは、そんな声も伝えられる。旭日旗は旧日本陸海軍の旗であり、いまも海上自衛隊の自衛艦旗である。
 日本政府は「(旭日旗が)政治的主張だとか軍国主義の象徴だという指摘は全く当たらない」と反発している。
 そう簡単に言い切れるものだろうか。
 昨年のラグビーW杯の観客席でも一部で旭日旗が振られた。わざわざ国際競技の場に持ち込む人の目的は何だろう。快く思わない人たちがいることがわかっている旗を意図的に振る行為に、「政治的主張」はないといえるのだろうか。
 旗がまとう背景や、使う人の意図によって旗は色々な意味を映す。受け止める人次第で見え方が正反対になることもある。
朝日社説は「旗の数だけ、それぞれの思いがあっていい」と結ばれています。
 なぜ、旗を掲げるのか。五輪を前に一人ひとりが立ち止まり、自由に考えてみるのはどうだろう。歴史を学ぶ、他者を尊重する、平和の尊さを発信する。旗の数だけ、それぞれの思いがあっていい。
少し旭日旗について。
その歴史も含めて確認しておきます。
旭日旗、実は色々種類があるのですが、正統派としては、旧大日本帝国海軍の「軍艦旗」であります。
旭から伸びる線の数が16本なので「16条旭日旗」と言われています。
で、この大日本帝国海軍軍艦旗は、戦後2つの軍と一つの民間組織に継承されます。
まず旧海軍軍艦旗の「16条旭日旗」をそのまま継承したのが海上自衛隊の「自衛艦旗」であります。
で、陸自では「八条旭日旗」が採用されています。
民間団体では、朝日新聞が旭日旗に「朝」の漢字を施して戦前より、この21世紀に至るも、威風堂々、社旗として掲げております(苦笑)、変形八条旭日旗です。
この社旗を有する朝日新聞が、社説にて旭日旗を批判する、なんだかなあ「近親憎悪」的展開なのであります。
そもそも「旗」の起源はどこから来ているのでしょうか。
当ブログには旗の起源に関する正確な知識はありませんが、想像するにおそらく古代から洋の東西を問わず戦さのときの敵・味方の区別に使用されてきたことに由来するのではないでしょうか。
そもそも旗の役割は、ある価値観(ときに部族、ときに民族、ときに宗教、ときに国家、ときにイデオロギー)に基づく味方集団の象徴的な印・記号としての役目だったのでしょう。
ある人間集団を特徴付け、その集団の内なるモノと外なるモノ、敵・味方を区別するための閉鎖的側面を「旗」自体が有しているのでしょう。
作家、城山三郎氏の次の詩は、まさにそのような旗の持つ「閉鎖性」を喝破しています。
「旗」
旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も
ひとみなひとり ひとりには ひとつの命
…後略
「支店長の曲り角」城山三郎著より
ここでは「国旗」も「社旗」も「運動という名の旗」もすべて否定されています。
具体的に例えば、「旭日旗」も「朝日新聞社旗」も「あか旗」もと言い換えるとまたおしかりいただきそうですが…
旗を掲げるという行為には、ある種の集団を記号化した旗のもつ宿命的属性としてのその閉鎖性を指摘することは間違ってはいないでしょう。
では、国旗を否定する城山は左翼なのかといえば、それは間違いで、左翼・右翼のイデオロギー的なカテゴリーではくくれない、次元の違う考え、あえてカテゴライズするとすれば、アナーキストといえましょう。
アナーキズムつまり無政府主義は、「未来に於て国家の存在することを否認する」だけでなく、あらゆるヒエラルキーと呼ばれるような階統的な秩序に対して反対する概念です。
無権力ないし無支配を追求し人間個々が階級を持たず自由であるべきとの考えであるアナーキズムは、平等を追求するという意味では左翼思想と親和性はあるのですが、城山の詩にもあるように「運動という名の旗」も否定している点で、共産主義とは一線を期しています。
群れるな、群れたらそこには必然的にくだらない階級が生まれてしまう、強烈な個人主義が根底にあるわけです、それがアナーキーな人々の主張の特徴です。
旭日旗を振ることが政治的メッセージを意味するとの理不尽な論説を堂々と社説に掲げる朝日新聞です。
その乱暴な社説で海上自衛隊の16条旭日旗を否定するとするならばです。
筋論として同じ旭日旗系である自らの社旗を降ろさなければなりません。
もしかして旭の射す数で、8本は良い旭日旗で16本は悪い旭日旗である(苦笑)とか思っているのでしょうか?

 あなたはこれまで旗を振ったことがあるだろうか。
 運動会の応援やスポーツ観戦、あるいはイベントやデモに参加したとき…。
 いったい旗とは何か。米国では、星条旗をこう表現するそうだ。「あなたの信じるすべてのものになりうるだろう」
 今年は東京五輪が開かれる年である。多くの人が多くの旗を掲げる機会がありそうだ。メダルを胸に旗を誇らしげに見上げる人もいるに違いない。
 そんな年の始まりに、少しだけ考えてみたい。そもそも人はなぜ、旗を手にするのか。
 人類に代わって「猿」が支配する世界を描いたSF映画「続・猿の惑星」(1970年)には、2種類の旗が登場する。
 ゴリラの兵たちが行軍で掲げるピンクと黒の旗と、平和デモをするチンパンジーたちが手にしていた白い旗だ。
 ゴリラの将軍は叫ぶ。
 「我々軍人の聖なる義務は武力でかの地を占領し、我々の旗を掲げることだ」
 もちろん現実には「猿」や動物が旗を掲げるようなことはない。それは人間だけの特別な行為なのだから。
 人はいつから旗を使い始めたのか。諸説あるようだが、紀元前11世紀ごろの中国、周の時代が始まりとも言われる。最古とされる旗は白色で、やはり軍を動かす際に使われたらしい。
 起源がどうあれ、旗は集団のシンボルとされてきた。
 近年では、宗主国の権威の象徴として植民地支配に利用され、それに対抗する動きにも使われた。モザンビークの国旗には自動小銃カラシニコフが描かれている。独立闘争をたたえ、「あらゆる手段で国を守る」との決意の表れだという。
 集団の歴史が込められた旗は団結のパワーとなり、その掲揚が巨大な興奮を与えてきた。
 一方で、見る人が代われば、それは激しい憎悪の対象にもなりうる。例えば2001年の米同時多発テロの直後、自由の象徴として米国各地にあふれた星条旗。その同じ旗が、米軍の攻撃で多くの市民が死傷したアフガニスタンなどでは暴力と理不尽さのシンボルとされた。
 特定の集団への憎しみが高まれば、旗は集団の代わりに辱められ、燃やされる。
 米国では1980年代、星条旗を焼いた男性が逮捕されたが、最高裁で無罪になった。判決は、この男性の行動も、憲法が定める「言論の自由」にあたるとした。
 「私は自由を大切に思う。旗を燃やす自由でさえ、その権利を誇りに思う」。いまは亡き米歌手のジョニー・キャッシュは、ヒット曲「みすぼらしい星条旗」を歌う際、そう観客に語りかけたそうだ。
 「日の丸」に対しても、複雑な感情を抱く人々がいる。
 戦後75年が過ぎても、そうした人々から見れば、日の丸を掲げる行為そのものが、侵略戦争の暗い記憶を呼び起こすものにほかならない。
 東京五輪で旭日旗を振るのを禁止すべきだ…。最近、韓国の人々からは、そんな声も伝えられる。旭日旗は旧日本陸海軍の旗であり、いまも海上自衛隊の自衛艦旗である。
 日本政府は「旭日旗が政治的主張だとか軍国主義の象徴だという指摘は全く当たらない」と反発している。
 そう簡単に言い切れるものだろうか。
 昨年のラグビーW杯の観客席でも一部で旭日旗が振られた。わざわざ国際競技の場に持ち込む人の目的は何だろう。快く思わない人たちがいることがわかっている旗を意図的に振る行為に、「政治的主張」はないといえるのだろうか。
 旗がまとう背景や、使う人の意図によって旗は色々な意味を映す。受け止める人次第で見え方が正反対になることもある。
 ニューヨークの国連本部に行くと、ずらりと並んだ国旗の列に圧倒される。地球上には何と多くの国家があるのかということを旗の存在が教えてくれる。
 国だけではない。多様な枠組みでの組織や集団、もっと言えば、様々な主張や考え方も旗は代表している。
 例えばレインボーフラッグに込められた意味は、平和や愛、性的少数者の権利保護など。英諜報機関MI6は近年、この旗を本部に掲げた。あらゆる人材を歓迎するとのメッセージと受け止められたそうだ。
 五輪で旗を掲揚するのも、分断や対立をあおる目的ではないはずだ。東京五輪での行動計画には「共生社会の実現をめざす」とある。国別対抗が注目されがちな五輪だが、他者を認める機会としても意識したい。
 なぜ、旗を掲げるのか。五輪を前に一人ひとりが立ち止まり、自由に考えてみるのはどうだろう。歴史を学ぶ、他者を尊重する、平和の尊さを発信する。旗の数だけ、それぞれの思いがあっていい。

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