索引
明治24年(1891年) 〔5月11日〕 大津事件
明治25年(1892年) 〔9月11日〕 ウィッテ 、ロシアの大蔵大臣に就任
明治26年(1893年) 〔2月14日〕アメリカ、ハワイ併合条約に調印
明治27年(1894年) 〔2月15日〕 甲午農民戦争 勃発
         〔5月31日〕 東学党 指導の農民軍、 全州 占領
         〔6月2日〕 清国 の朝鮮出兵に対し、日本も朝鮮派兵を閣議決定
         〔8月1日〕日本、 清国 宣戦布告 ( 日清戦争 勃発)
明治28年(1895年) 〔4月17日〕 日清講和条約 調印 三国干渉
         〔5月10日〕 遼東半島 還付
         〔6月8日〕日露通商航海条約調印
         〔10月8日〕 閔妃(びんひ)暗殺事件
         〔2月〕 陸奥宗光 「蹇蹇録(けんけんろく)」 脱稿
明治29年(1896年) 〔2月11日〕朝鮮国国王の高宗、ロシア公使館に逃げ込む、朝鮮に親露政権成立
         〔5月14日〕 小村・ウェーバー協定
         〔6月3日〕 李・ロバノフ密約
         〔6月9日〕 山県・ロバノフ協定
         〔9月18日〕 伊藤博文 、日露協定の交渉のため出国
明治30年(1897年) 〔8月24日〕 陸奥宗光 の死去(享年54歳)
         〔10月12日〕朝鮮国、大韓帝国に国号を改称
明治31年(1898年) 〔3月6日〕ドイツ、 清国 から 膠州湾 租借 権、膠済鉄道敷設権、鉱山採掘権を獲得
         〔3月27日〕ロシア、 清国 から 大連 旅順 租借 権と、南満州における鉄道敷設権を獲得
         〔4月25日〕 西・ローゼン協定
         〔9月21日〕戊戌(ぼじゅつ)政変
明治32年(1899年) 3月〕中国山東省で義和団が蜂起
         〔9月6日〕アメリカ国務長官ジョン・ヘイの門戸開放宣言
明治33年(1900年) 〔6月20日〕 北清事変 (義和団、北京の各国領事館を包囲)
明治34年(1901年) 〔9月7日〕 清国 、義和団最終議定書に調印
         〔10月8日〕 林董 (はやし・ただす)駐英公使、イギリスと同盟交渉開始
         〔12月2日〕 伊藤博文 、ロシア外相と日露協定について交渉を開始
         〔12月6日〕 伊藤博文 、日露協定を先決とし、 日英同盟 締結の延期を 桂首相 に勧告する
         〔12月23日〕 伊藤博文 、ロシア外相に日露協定交渉打ち切りを通告
明治35年(1902年) 〔1月30日〕第1回 日英同盟 協約が、ロンドンで調印される
         〔4月21日〕 桂太郎 首相・ 小村寿太郎 外相・ 伊藤博文 山県有朋 、京都で対ロシア方針を決定
         〔6月14日〕北京駐在の各国公使、 義和団事件 の賠償金についての配分議定書に調印
明治36年(1903年) 2月7日〕ロシア、中国東北部からの撤兵を中止
         〔5月〕ロシア軍、 鴨緑江 を越えて大韓帝国領内の龍嚴浦に、軍事根拠地の建設を開始
         〔7月23日〕 林董 駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める
         〔8月12日〕栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項提出、中国東北部・朝鮮半島に関する交渉開始
         〔8月29日〕 ウィッテ が大蔵大臣を辞任
         〔10月3日〕ロシア、日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出、 小村外相 ローゼン 駐日ロシア公使、交渉開始
         〔12月30日〕日本、戦争が勃発した際の 清国 ・大韓帝国に対する方針を閣議で決定
明治37年(1904年) 〔2月4日〕日本、対露開戦を決定(緊急 御前会議 )
         〔2月6日〕日本は、ロシアに 国交断絶 を通告
         〔2月8日〕日本陸軍 仁川 港に上陸、日本海軍 仁川 の沖にいたロシア艦隊を攻撃、日本海軍の駆逐隊 旅順 口を奇襲
         〔2月9日〕日本海軍、 仁川 の沖でロシア軍艦と交戦
         〔2月10日〕日本、ロシアに対し 宣戦布告 を行う 日露戦争勃発
         〔2月11日〕日本、 大本営 を宮中に設置
         〔2月17日〕日本、ロンドン市場での英貨公債募集を閣議決定
         〔2月23日〕 日韓議定書 調印
         〔2月24日〕第1次 旅順口閉塞(へいそく)作戦 同時期、日銀副総裁の 高橋是清 が外債募集のためロンドンに派遣される
         〔3月6日〕日本艦隊、 ウラジオストック 港を砲撃
         〔3月27日〕第2次 旅順口閉塞(へいそく)作戦、 広瀬武夫 少佐が戦死
         〔5月1日〕日本第1軍、 鴨緑江 を渡河して 九連城 を占領
         〔5月3日〕第3次 旅順口閉塞(へいそく)作戦
         〔5月25日〕日本軍とロシア軍、 金州 ・南山で交戦
         〔5月26日〕日本第2軍、 金州 ・南山を占領
         〔5月31日〕 乃木希典 中将、第3軍司令官に任命される
         〔6月〕 明石元二郎 大佐、大使館付武官として情報活動をはじめる
         〔6月15日〕日本第2軍、 得利寺 付近でロシア軍と交戦
         〔6月20日〕日本の満州軍総司令部が編成される、 総司令官は 大山巌 元帥、 総参謀長は 児玉源太郎 大将 参謀総長は 山県有朋 元帥 参謀次長は 長岡外史 中将
         〔6月23日〕日本艦隊、ロシア艦隊と 旅順 港外で交戦
         〔7月26日〕日本第3軍、 旅順 攻撃を開始
         〔8月10日〕 黄海海戦 (日本艦隊、ロシア 旅順 艦隊と交戦)
         〔8月14日〕 蔚山沖海戦 (日本艦隊、ロシアの ウラジオストック 艦隊と交戦)
         〔8月19日〕第1回 旅順 総攻撃(日本第3軍担当)
         〔8月22日〕第1次日韓協約の調印
         〔9月4日〕 遼陽会戦 (日本満州軍、 遼陽 を占領)
         〔9月19日〕第2回 旅順 総攻撃(日本第3軍担当)
         〔11月26日〕第3回 旅順 総攻撃(日本第3軍担当)
明治38年(1905年) 〔1月2日〕 旅順 の陥落
         〔1月5日〕 乃木 ステッセル の両将軍、 水師営 で会見
         〔1月22日〕 血の日曜日事件 (第1次ロシア革命勃発)
         〔3月10日〕 奉天会戦 (日本満州軍、 奉天 を占領)
         〔4月21日〕日本、講和条約大綱を閣議決定
         〔5月1日〕日本、 樺太 上陸作戦を準備(第13師団担当)
         〔5月27日〕 日本海海戦 (日本の 連合艦隊 、ロシアの バルチック艦隊 と交戦)
         〔6月1日〕日本の 高平公使 ルーズヴェルト大統領 に日露講和の斡旋を希望
         〔6月9日〕 ルーズヴェルト大統領 、正式に日露両国に講和を勧告
         〔7月3日〕 小村寿太郎 外相、 高平小五郎 駐米公使を講和全権委員に任命
         〔7月7日〕日本の第13師団、南樺太に上陸
         〔7月24日〕日本軍、北樺太に上陸を開始
         〔7月29日〕 桂-タフト覚書 の成立
         〔7月31日〕 樺太 のロシア軍が降伏
         〔8月10日〕アメリカの ポーツマス で、 日露講和会議 がはじまる
         〔8月12日〕第2回 日英同盟 協約調印
         〔9月5日〕 日露講和条約 調印、 その直後に 日比谷焼打事件
         〔9月6日〕東京市、および東京府の5郡に戒厳令
         〔10月15日〕 日露講和条約 の批准通告・発効
         〔10月16日〕日本、 日露講和条約 を公布、さらに平和回復の詔勅を下す
         〔11月17日〕第2次日韓協約調印
         〔2月21日〕第1次 桂太郎 内閣総辞職
         〔12月22日〕満州に関する日清条約調印
明治39年(1906年) 〔1月7日〕第1次西園寺公望内閣成立
         〔2月1日〕韓国に 統監府 設置、 初代統監は、 伊藤博文
         〔11月24日〕 南満州鉄道株式会社 設立
明治40年(1907年) 〔7月24日〕第3次日韓協約調印
         〔7月28日〕日露通商航海条約・漁業協約調印
         〔7月30日〕第1次 日露協約 調印
         〔9月21日〕 山県有朋 伊藤博文 大山巌 、公爵位を授与される(日露戦争の勲功)
明治41年(1908年) 〔7月4日〕第1次西園寺公望内閣総辞職
         〔7月14日〕第2次 桂太郎 内閣成立
明治42年(1909年) 〔9月4日〕日清間で 間島協約 調印
         〔10月26日〕 伊藤博文 が、ハルピン駅で暗殺される
明治43年(1910年) 〔7月4日〕第2次 日露協約 調印
 ロシア革命は、資本主義の発展の遅れたロシアの、皇帝専制政治の打倒から社会主義国家が建設されるまでの連続的な革命のことを指します。1905年の革命を第1次革命、1917年の革命を第2次革命と呼び、ロシアはそれまでとは別の統治体制に移行していきました。
 第1次革命は日露戦争のさなかの1905年に起こります。「血の日曜日事件」と呼ばれる民衆のデモ隊と軍の大規模な衝突が起こると、全国で農民の反乱が相次ぎます。その混乱を収めるため、皇帝は議会の設立の勅令を出し、立憲主義に移りました。さらに、信教、言論、集会、結社の自由など市民的自由を認める譲歩をしたことから、自由主義者と一部の社会主義者が革命勢力から離脱し、事態は鎮静化しました。
 社会主義革命を目指したリーダーたちは国外に脱出し再起の時期を探りましたが、第一次世界大戦が勃発すると、ロシア全土は愛国的熱狂に沸き、それにより内政の不満は解消されていきます。
 しかし、長引く戦争は国民生活に打撃を与え、しだいに皇帝は国民からの支持を失っていきました。
 そして第2次革命が起こります。1917年2月(ユリウス暦)に反戦と平和を訴える大規模なストライキと暴動が全国に広がり、軍隊にも大きな反乱が生じました。皇帝ニコライ2世は捕らえられ、ロマノフ朝が倒れたのです。これを「二月革命」といいます。
 政権を握ったのは自由主義的市民を中心とする臨時政府で、労働者と兵士はこれを支持しました。二月革命は民衆が団結した成果でした。
 その後、海外から社会主義者たちが帰国してくると、臨時政府に反対する「ボリシェヴィキ」と呼ばれる勢力が台頭してきます。彼らは臨時政府を倒して、自らが政権を奪取して、プロレタリア独裁を実現しようとしていました。
 レーニンが指揮したボリシェヴィキは、臨時政府と対立し、二月革命の結果に不満をもつ労働者からの支持を獲得します。また軍隊の一部が同調することによって闘争に勝利し、世界史上初の社会主義政権を樹立しました。これを「十月革命」と呼んでいます。
ロシア革命が起こった原因。日露戦争のまっただなかに勃発!  
 19世紀半ば、クリミア戦争での敗戦をきっかけに、ロシアは近代化を推し進めるため、農奴解放令をはじめとする「大改革」を始めます。
 工業化を進め、西欧の社会制度を導入しましたが、専制的な政府と自由を求める国民の対立は改善されることはありませんでした。資本主義の進展は、経済成長が活発化し貴族や資本家たちに恩恵をもたらす一方で、労働者と農民の生活水準は改善されなかったのです。
 1905年の第1次革命が起こった背景には、 日本の敗戦革命論者 による工作がありました。労働者の権利保障と労働条件改善、農民の権利拡大を求めて、立ち上がるよう扇動させたのです。
 労働者と農民が立ちあがったことに呼応して、自由主義者とブルジョワジーが自由を求めて加わり、全国規模の動乱になります。憲法の制定、国会の開設、政治的自由の保証、労働者の権利の制定などの要求に対し、皇帝は大幅に譲歩し、実行を約束しました。
 1917年の第2次革命のきっかけは、第一次世界大戦の戦費のため、国内の経済がインフレに陥り、生活物資がいきわたらないことで、民衆の怒りが爆発したことです。
 皇帝ニコライ2世は国民生活の窮状には関心が薄く、皇后や大臣たちに任せていました。国民の生活よりも、戦争に勝つことに力を注いでいたのです。
 国民生活の困窮には何ら手をうたず、戦争に没頭する皇帝に対し、食料を求めた暴動が起こります。それを契機に、全国で労働者とブルジョワジーが同時に専制権力に対して抗議運動を起こしました。この運動が激化し、第二次革命に進展していきます。
二月革命とは。「ソヴィエト」の結成、指導者レーニンの台頭。  
 1917年、国際婦人デーの2月23日の朝、首都ペトログラードの工場の数ヶ所で、女子労働者が食料を要求し一斉にストライキに突入します。これが「二月革命」の始まりでした。
 男子労働者もそれに続き、3日後には首都全体がストライキに入ります。さらに、鎮圧に向かった軍の部隊も反乱を起こして、労働者とともにストライキに合流しました。労働者・兵士の「ソヴィエト(評議会)」が結成し、団結したのです。
 国会は停止され、その代わりに国会の議長と各党代表たちは、ブルジョワジーの臨時政府を樹立し、皇帝の意向に関わりなく行動することを決めます。各省庁も接収しました。
 労働者と兵士のソヴィエトはブルジョワジーの臨時政府を認め、臨時政府は内閣を組織して皇帝に退位を求めました。皇帝ニコライ2世はこれを受け入れ、帝位を弟のミハイルに譲ることを表明。しかしミハイルがこれを拒否したため、300年に渡るロマノフ朝が幕を閉じたのです。
 臨時政府は、これまで制限されてきた政治的自由を実現させます。言論の自由、労働者の権利の保障、差別の撤廃、普通選挙の実施などを政府の活動の原則としました。
 しかしその一方で、「勝利に終わるまで戦争を遂行する」と表明し、ソヴィエトと対立していきます。
 4月になるとボリシェヴィキのレーニンが亡命先から帰国します。「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、臨時政府に対して不信任、非協力の立場を明確にし、戦争については継続の中止を訴えました。
 強引に戦争を続ける臨時政府は、内部でも分裂が生じ、しだいに国民のからの支持を失っていきます。
 ソヴィエト内部では「平和、土地、パン」を明確に唱えるボリシェヴィキが指示を得て、少数派から多数派へと変化していきました。
十月革命とは。ボリシェヴィキが多数派に。  
 臨時政府が信頼を失いつつあるなかで、ソヴィエト中心の臨時政府樹立を求める声が強くなっていきます。
 ソヴィエト内で力を持ちはじめたボリシェヴィキは、武装蜂起して臨時政府を打倒し一気に全権力を掌握するプランを練りあげました。ボリシェヴィキのトロツキーがソヴィエトの委員長になり、ソヴィエト防衛を掲げて軍事革命委員会を設置します。
 これに対し臨時政府は、軍事委員会に反撃を試みますが、10月23日、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛隊」が首都を制圧しました。
 翌25日、軍事委員会は声明を出し、臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したこと発表。その後ボリシェヴィキが樹立した臨時政府には他の社会主義勢の参加は拒まれ、ボリシェヴィキの単独政権が樹立されます。
 十月革命は反議会、反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事委員会による武装蜂起であり、クーデターでした。二月革命のような、熱狂した民衆が路上に溢れる光景はなかったのです。
ロシア革命の最期  
 ボリシェヴィキ政権により休戦協定が締結されると、戦争から離脱することができた兵士が故郷に帰ります。その大半は農民でした。ボリシェヴィキの支配は農村にまでは届いておらず、彼らはボリシェヴィキ政府に反対し、武力蜂起をしました。
 これに対して1918年1月、トロツキーは反ボリシェヴィキ軍に対抗するために、赤衛隊に代わる軍隊として赤軍を組織して軍事力を強化しました。
 しかし、かつてのロシア帝国の将軍たちが指揮する反ボリシェヴィキ軍に対し、急ごしらえの赤軍は思うように戦うことができません。しだいに押されるようになり、赤軍の勢力範囲はモスクワを中心とするロシア中央部の地域に包囲されてしまいます。
 一方でロシア革命が再び起こることを恐れたイギリス、フランスをはじめとした列強各国も、軍隊を派遣します。反ボリシェヴィキの連合国は、3月にはイギリス・フランス軍がフィンランドに近いムルマンスクに上陸、8月にはアメリカと日本が共同でシベリアに出兵しました。
 この内戦と干渉戦争は長期化し、しだいに農民たちはボリシェヴィキ側に傾いていきます。農民から食料を徴発する赤軍は嫌われていましたが、地主が再び力を持つよりはましだと考えるようになったからです。
 赤軍は明確な土地政策を示し、農民の支持を取り込むことに成功。反転攻勢に打って出て、1919年10には各地を占領していた反ボリシェヴィキ勢力は撤退を余儀なくされます。これ以降、大規模な戦闘はなくなり、1920年10月には内戦が終結します。
 内戦の最中、ソヴィエト政権は国内の秩序回復のため、警察の権力を強化し、「戦時共産主義」という経済政策に移行していました。チェカと呼ばれる警察権力は強化され、ボリシェヴィキの政敵を一掃する政治テロが平然とおこなわれるようになります。1918年7月には、監禁されていたニコライ2世とその家族を銃殺します。
 戦時共産主義は、農民から強制的に食料を供出させ、食料危機からの脱出を図ったものですが、農民から激しい反発を招きました。しかしチェカがそれを抑え込み、ロシア全土から自由な空気は薄れていきました。
ロシア革命の世界への影響  
 ロシア革命の影響が最初に見られたのは、ドイツの政治団体「スパルタクス団」の反乱です。
 1918年11月に起きたキール軍港での水兵たちの反乱を発端としたドイツ革命により、皇帝が退位し、ドイツ共和国が誕生しますが、その翌年、スパルタクス団を中心としたドイツ共産党が社会主義革命を起こそうと蜂起したのです。しかし革命は失敗し、指導者のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらは殺害されています。
 ドイツ以外にも、ロシア革命に影響を受けて、社会主義運動や独立運動、反帝国主義運動が起こりました。代表的なものとして、ハンガリーの社会主義革命(1919年)、エジプトの反英独立闘争(1919年)、インドのガンディーによるの反英不服従運動(1919年)、トルコ革命(1922年)などがあります。
 またロシアでの革命を世界へ波及させることを目的として、1919年3月に「コミンテルン」が結成され、各国で共産党の設立が相次ぎました。中国共産党の成立(1921年)、日本共産党の成立(1922年)、モンゴル人民共和国の成立(1924年)、インドシナ共産党の成立(1929年)が代表的な事例です。
ロシア革命とスターリン  
 革命以降のロシアについて語る際に欠かせないのが、ヨシフ・スターリンという人物です。
 1878年に生まれ、15歳のころから革命運動に参加しています。レーニン率いる十月革命にボリシェヴィキとして関わり、その後ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立にも深く携わりました。
 1924年にレーニンが亡くなると、トロツキーとの後継者争いに勝利。「一国社会主義論」を唱え、国の指導者として独裁体制を築いていくのです。
 彼のやり方に反対する者に対しては「大粛清」という摘発をし、政府軍人であろうとも処刑あるいは追放をしていきました。
 実は彼の本名はジュガシヴィリ。スターリンは「鋼鉄の人」を意味する筆名で、その名を体で表していた人物でした。
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