索引
  天安門事件後、日本政府は中国孤立化の回避を訴え、西側の首脳として初めて海部俊樹首相が訪中するなど、中国の国際社会への復帰を手助けした側面がある。中国は現在、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺に連日のように公船を航行させるなど挑発行為を続けているが、当時の為政者はこうした日中関係の姿を、どこまで予測しただろうか。
 天安門事件後、政府は欧米に先駆けて対中制裁を解除し、当時の天皇陛下の訪中を実現させた。中国の銭其琛元副首相は、日本が西側の経済制裁を打破する際の「最もよい突破口」となったとし、「天皇がこの時期に訪中したことは、西側の対中制裁を打破するうえで、積極的な作用を発揮した」(『銭其琛回顧録』)と明かしている。
 日中関係はその後、旧民主党の野田佳彦政権による尖閣諸島の国有化を機に冷え込んだ。しかし、今の安倍晋三政権は、昨年の中国の李克強首相と安倍首相による相互訪問を経て「完全に正常な軌道へと戻った」(安倍首相の施政方針演説)とみなしている。
 両政府は今年5月に「日中軍縮・不拡散協議」を8年ぶりに北京で開くなど、各レベルで対話を活発化させている。今月28、29日に大阪で開く20カ国・地域(G20)首脳会議(サミット)には、中国の習近平国家主席が就任後、初めて来日する。
 安倍首相は首脳の往来を通じ、両国関係を「新たな段階へと押し上げていく」考えだ。政府・与党内には早くも、習氏を国賓として再び招くことを模索する動きすらある。
 しかし、明らかに逆行する中国側の動きがある。
 昨年10月に安倍首相が訪中した際、両政府は東シナ海を「平和・協力・友好の海」とする決意を改めて確認した。しかし尖閣周辺では今月3日、中国海警局の公船が53日連続で確認され、尖閣諸島を国有化して以降、最長の連続日数を更新している。
 中国が日本との関係改善を望む背景には、米国との貿易対立の激化もあるとみられ、米国民主党が政権を執って米中関係が改善すれば、中国が対日姿勢を再び変える可能性は大きい。
  平成元年の事件と言えば、「昭和天皇崩御」(1/7)、「天安門事件」(6/4)、「ベルリンの壁崩壊」(11/9)が思い浮かぶ。
 「平成」が始まったときの首相は竹下登である。
 竹下内閣のハイライトは、4月1日に行われた消費税の導入であった。
 当時の日本経済は上り調子で、3%の負担増を難なく消化したものの、国民生活にとっては日々の精算に1円玉が登場する煩わしさが非常に不評であった。
 しかし、それ以上に問題だったのはリクルート事件である。
 有力政治家が軒並み、リクルート社から未公開株をもらっていたという事実に世論は激高した。
 バブル時代の当時は株長者が続出しており、政治家の「濡れ手に粟」への国民の怒りはまことに深かったのだ。
 深刻な「政治不信」の結果、内閣支持率はなんと7%にまで低下する(朝日新聞、4/26-27)。
 竹下首相は辞意表明するが、後継者選びは難航する。
 自民党は当初、金権腐敗と無縁な伊東正義総務会長の擁立を目指したものの、ご当人は「本の表紙だけ替えてもダメだ」の名文句とともに固辞してしまう。
 迷走の末、宇野宗佑外務大臣の擁立が固まったのは5月末になってからである。
 そして6月2日金曜日に宇野内閣は組閣する。
 ところがその翌日夜に北京で大事件が起きてしまう。
 土曜日の夜、というよりも日付が変わった6月4日未明に事件は発生した。
 フジテレビの平井文夫・上席解説委員が、[ 平成プロファイル忘れられない取材「俺、殺される」 ]の中でこの時の天安門広場での実体験を描いている。
 普通は30年もたつと、「事件」は「歴史」になり、評価もほぼ定まってくるものだ。
 ところが天安門事件は、犠牲者の数さえはっきりしない。
 中国の公式発表では319人。
 しかし当時の英国大使は、「少なくとも1万人」と本国に打電したという。
 事件の中身も単純ではない。
 一般的な理解では、「学生たちの民主化運動が、武力で鎮圧された流血の惨事」であろう。
 ただしウィキペディアの「六四天安門事件」(A4で13ページもある)を軽くなぞるだけでも、そんなに単純な話ではないことが分かってくる。
1.当初は確かに、民主化を求める学生運動であった。
 4月15日に民主化支持者であった胡耀邦元総書記が急死し、その追悼集会が行われたことが発端となった。
 やがて北京の学生たちは天安門広場で座り込みを始め、4月21日には10万人規模に膨れ上がる。
 まだ文化大革命の記憶が鮮明に残っていた当時、共産党の長老たちが震え上がったことは想像に難くない。
2.急速に参加者が増えたのは、当時の改革開放路線によって物価が上昇し、それに対する大衆の抗議運動という面もあったからだろう。
 地方から天安門広場に人々が集まるようになり、デモ隊が50万人近くに膨れ上がると、いよいよ公安による統制も効かなくなってしまう。
3.国際情勢の影響も無視できない。
 ソ連の改革(ペレストロイカ)を進めていたゴルバチョフ書記長が、5月15日に北京を訪問する。
 しかし北京は混乱の極みであり、多くの公式行事が中止に追い込まれる。
 そしてデモ隊は、改革の旗手としてゴルバチョフを称賛した。
 中国共産党のメンツは丸つぶれとなった。
4.共産党内の路線対立も、事件に影を落としている。
 当時の政治局常務委員は5人。
 趙紫陽総書記は運動に同情的で、ハンガーストライキ中の学生を見舞っている。
 保守派の李鵬首相は強硬論の筆頭。
 後の3人は胡啓立、喬石、姚依林。
 戒厳令の布告をめぐって、5人の意見は賛成2、反対2、中立1で見事に割れた。
 最終決定を下したのは、事実上の最高権力者であった鄧小平中央軍事委員会主席であった。
 こうしてみると、事件のより詳しい検証を求めたくなる。
 例えば、民衆側は決して非武装で無抵抗だったわけではなく、鉄パイプや火炎瓶などで戦闘の用意をしていた。
 軍隊側がやむを得ず反撃した面もあるわけで、こういう点はしばしば西側メディアが無視してしまうところであろう。
 また、当時の中国には放水や催涙弾などを使う機動隊のような組織がなく、軍を投入せざるを得なかった、その後は日本の機動隊を研究した、との証言もある。
  ところが中国共産党が選んだのは、「天安門事件」を徹底的に隠蔽することであった。
 例えば中国国内では、ネット上で「6月4日」という言葉を検索してもヒットせず、その代わりに「5月35日」(31日+4日)とか、「VIIV」(ローマ数字の6と4)とか、「8の2乗」(8×8=64)いった隠語が使われているという。
 さらに今週のThe Economist誌の中国コラム”Chaguan”は、"Many Chinese know little about the bloodshed in Beijing 30 years ago"(30年後の北京では、あの流血を知らない人が多くなっている)との記事を載せている3。
 もっとも、ネットやSNS上から「ロクヨン」の痕跡を完全に消し去ることは至難の業で、「天安門がらみの記事を消すためには20代かそこらの若者を多数雇わねばならず、まず(彼らに)何があったのかを教えなければならない」という皮肉な状況を描いている。
 そしてまた党の高官たちは、国の安定と繁栄を守るためには内戦を避けて党の統一を守らねばならず、いわば苦渋の選択で抗議活動を粉砕したと以前は語ったものだが、今日では「力を行使したお陰で中国は成功した」と語るようになっているという。
 つまり30年かけて、天安門事件が「トラウマ」から「成功体験」に昇華したことになる。
 しかし、それが巧妙な情報統制の結果ということであれば、「そんなことがいつまで持続できるのだろう」と疑問に思えてくる。
 確かに世代的なギャップはあるだろう。
 日本人で言えば、1972年のあさま山荘事件について、40歳以下の世代はもうほとんど知らないだろう。
 しかし、それはもう評価が定まった事件であるから、知らなくてもさほど問題はない。
 ときには事件が映画化されることもあるし、ウィキペディアなどを参照すればもちろん全容を知ることもできる。
 しかるに天安門事件は「総括されていない」。
 おそらくは共産党内部でも、どう扱うべきかのコンセンサスがない。
 だからこそ困っているのであろう。
 となれば、1989年6月4日に起きたことをエンドレスでごまかし続けなければならない。
 特に問題なのは台湾と香港の存在だ。
 台湾は完全に民主化している。
 中国共産党としては国民の手前、「民主主義なんてどうせ上手くいかない」と言わなければならない。
 おそらく全力を挙げて、フェイクニュースなどを流して台湾総統選挙を妨害するだろう。
 その上で、米国のような分極化と政治の機能不全が起きればまことに結構であろう。
 ただし台湾側はそのことを百も承知で、「民主主義こそが台湾の安全保障」だと考えている。
 香港はさらに悩ましい。
 「一国二制度」とはいえ、一度は民主化していた地域を本土に取り込んだために、これを何とかして非民主化しなければならない。
 ところが香港では、毎年6月4日が訪れるたびに天安門事件の追悼集会が行われる。
 おそらくは30周年のみならず、50周年も100周年もやるだろう。
 中国共産党はいつか逃げ切れなくなって、「歴史を鑑とする」日が来ると思うのだが。
・ 事件後の日本の対応は正しかったのか
 さて、ここから先は、月刊『東亜』6月号特集「1989年の分水嶺」の中にある、「天安門事件とその後の中国の急速な台頭を振り返って」という鼎談を手掛かりに、天安門事件後の国際情勢と日本の対応を振り返ってみたい(池田維・霞山会理事長×星博人・霞山会常任理事×濱本良一・国際教養大学教授)。
 天安門事件が起きた翌月には、フランスでG7サミットが行われている。
 1989年は「フランス革命200周年」であり、ちょうどパリ祭まっただなかの7月14日、パリ郊外のアルシュにおいてサミットが始まった。
 議長を務めたミッテラン大統領は、「自由や人権を弾圧する国に未来はない」と中国を激しく非難した。
 当時の7カ国の中で、もっとも中国寄りだったのは日本である。
 サミットに出席した宇野首相は、「中国を孤立させてはいけない」と欧米を説得する側だった。
 日本が中国側に立った理由は、「毛沢東時代の閉鎖主義に戻ってもらっては困る」からである。
 当時は、鄧小平の改革開放路線が始まって、まだ10年目くらいであったのだ。
 欧米諸国も、その方が世界から見てより好ましい、という考え方に最終的には同意した。
 G7コミュニケ内容を中国に伝える役目は日本に託された。
 外務省は当時、中国大使館の公使だった唐家セン氏を呼んで内容を通告した。
 中国政府の反応は、内政干渉は受け入れられないが、日本の対応は評価する、というものであった。
 思えば1980年代の日本政治は、竹下派「経世会」の全盛時代であり、田中角栄首相以来の中国との太いパイプがあった。
 そして日本全体でも対中感情はまだ良かったし、財界人の中にも対中贖罪意識を持った人が少なくなかったのである。
 日本政治は2000年の森喜朗内閣から「清和会」中心の時代となり、小泉純一郎首相、安倍晋三首相の下で、外交政策は「親中」から「親米」に切り替わっていく。
 しかしその間には、90年代後半の日中関係の悪化があったのだな、と思い当たる。
 天安門事件の発生後、中国に進出していた日本企業も大変だった。
 最初は家族を日本に返し、それから駐在員も帰国した。
 そのためにJALとANAが特別機を飛ばした。
 個人的には当時の日商岩井で、北京駐在員だった同期のK君が「自宅に流れ弾が飛び込んできた」と青ざめた表情で帰国したことを記憶している。
 最後まで北京に残ったのは、松下電器と丸紅の2社だった。
 松下電器の場合は、鄧小平が大阪の松下幸之助翁を訪ねて、直々に中国進出を要請した経緯があったからだろう。
 また当時、丸紅の社員は仕事がないからゴルフばかりしていたところ、李鵬首相がわざわざゴルフ場を訪ねてきて、感謝の意を表してくれたという。
 中国政府要人と日本企業の力関係を考えるうえで、今ではちょっと考えられないエピソードである。
 日本政府は天安門事件に対する経済制裁として、ODAの新規案件を凍結する。
 ただし1年半後には再開している。
 「アジアにはライバルが居ない」と思っていた当時、日本政府も企業も、中国に対してはかなり優しかったのである。
・ 1992年の天皇訪中をどう考えるべきなのか
 1989年時点の対応はさておいて、日中関係を考えるうえで評価が悩ましいのは1992年の天皇訪中である。
 この年の夏にアジア局長に着任した池田維氏は、オーラル・ヒストリーの中で当時の政策決定の状況を以下のように説明している。
◦ 当時の雰囲気から言えば、政治家は外務省の意見を尊重するし、外務省は政治レベルの人たちに必要な情報をすべて報告し、両者の意思疎通はきわめてスムーズでした。
◦ 天皇訪中について散歩両論の有識者たちを5、6人ずつ総理官邸招いて、何回かに分けて意見を聞くという作業を行いました。
 宮沢総理も何度かその会合に出席しました。
◦ 反対論者の中には、日本の天皇は中国に2000年間足を踏み入れたことはない、だから慎重でなければならない、という至極もっともな指摘もありました。
 それらも十分勘案したうえで、(天皇訪中を)日本政府が最終的に決定したのです。
◦ 天皇陛下の外国訪問は憲法上、一般に広く親善、友好のために行われるもので、特定の政治・外交目的を持つものではありません。
 とはいっても、第2次大戦が天皇の名のもとに行われた以上、特定国への天皇の訪問が特別の重みと重要性を持つものと受け止められることは当然のことです。
 1992年の訪中自体はつつがなく行われたものの、江沢民体制は1995年頃から全国200か所程度の抗日記念館を作り、目に見えた形で反日教育を始める。
 また、1998年の江沢民訪日の際には、宮中晩餐会で「日本人は歴史の教訓を忘れるな」と歴史問題をぶり返すことになった。
 日本人の対中不信感は、この辺りから一気に強まることになる。
 しかも銭其シン外交部長は2003年に回顧録の中で、「天安門事件での経済制裁解除を目指して、天皇訪中を利用した」と暴露している。
 これでは日本を騙してやった、と言っているようなもので、非礼極まりない。
 また、過去の戦争に対する陛下の「お言葉」の値打ちを減じさせることにもなってしまう。
 1992年に天皇訪中に同行した池田氏は、後にオランダ大使となる。
 2000年に天皇陛下がオランダを公式訪問された際に、今度は現地で接遇することとなった。
 その際に、「ところで私の中国訪問はよかったと思いますか」と尋ねられたとのことである。
 8年前の訪中のことを気にされていた、ということであれば、その意味はまことに重い。
 こうして30年前の事件から日中関係をたどってみると、中国側がとてつもない長期戦略であったのか、それとも日本側が隙だらけであったのか、あるいはその両方なのか――とりあえず「政治は三流」であってはならない、というのが結論と言えるだろう。
天安門事件から 30 周年を伝える The Economist 誌のコラム
 天安門広場の抗議者を、軍が残虐に一掃してから30年が過ぎた。
 もみ消しのために公安は検閲し、逮捕し、投獄する。
 時とともに、抑圧作業は官僚的な効率性を帯び始めた。
 直近の事例では、4月4日に成都の活動家が3年半の刑期を受けている。
 罪状は、「戦車の前に立つ抗議者」というお馴染みの写真を白酒の瓶に貼ったこと。
 あの写真はもちろん、天安門事件への言及は中国では政治的タブーである。
 毎年6月4日が近づくたびに、家族を軍に殺された人々は監視下に置かれ、あるいは強制的に町の外に連れ出される。
 ネットやSNSにおけるもみ消し工作は悩みの種だ。
 天安門がらみの記事を消すためには20代かそこらの若者を多数雇わねばならず、まず何があったのかを教えなければならない。
 かかる無知は以前なら考えられなかった。
 数千ならずとも数百人が殺された。
 数万人が「反革命暴動」に係わったかどで逮捕された。
 容疑者は家から、職場から、通りから連れ去られた。
 「我らは真実を求める」という横断幕を手に行進した者は皆、無事ではなかった。
 再教育へ、投獄へ、あるいは国外逃亡へ。
 そして何百万人もがそれを目撃した。
 1989年当時の総書記、趙紫陽は軍事出動に反対して失脚した。
 彼は抗議者たちを愛国的と呼び、開かれた政府、反腐敗行為、自由の順守といった要求を支持した。
 2005年に死去するまで自宅に軟禁されたが、1997年には書簡で「人々は忘れない」と警告している。
 しかし忘却は進んだ。
 親たちは子どもが政治に関心を持つと碌なことがない、と考えた。
 党幹部は、何事もなく記念日が過ぎるように、海外も事件を忘れてくれるように祈っている。
 以前は国の安定と繁栄のためだったと言い、今日ではあのお陰で成功したのだと言う。
 西側諸国がそれを疑問視することに、党の高官たちは腹を立てている。
 宗教信者、フェミニスト、環境主義者や左翼学生などの独立志向を、西側が刺激していると。
 自分たちの支配は自国民に受け止められている、ウイグル地区で行われているイスラム教徒の再教育やハイテク監視も、それはテロリズムを防ぐために必要なコストなのだと力説する。
 しかし国民の支持がどの程度なのかはわからない。
 中国はあまりに秘密主義で、経済成長への満足を合理的な同意と見誤るべきではない。
 共産党の統制的な手法は、西側が拠って立つ普遍的理念への挑戦だ。
 いくらトランプ大統領が居ても、このことは変わらない。
 中国もリッチになれば自由を求めるはずだ、とは外国側の傲慢な誤りだった。
 しかし反対者の声は、問題が中国の人々ではなく指導者にあることを教えてくれる。
 党は一部の市民が反対していることに感謝すべきだ。
 改革派と保守派による党内不一致も、いつまでも検閲が終わらないことも。
 世界が恐れるのは、国民の支持を受けた統一中国なのである。

天安門で座り込みを始めた学生を前に記念写真を撮る余裕がまだある平井記者
  平成元年(1989年)になった時、僕はまだ29歳だった。
 その年の1月に昭和天皇が崩御するまで、社会部記者として1年半近く、ずっと皇居に張り付いて心身ともに消耗し、春に、外信部に次期海外特派員含みで、異動したものの、気が抜けたようで、何もやる気がしなかった。
 そこに起きたのが天安門事件だった。
 政治改革に失敗し、失脚した胡耀邦元総書記が心筋梗塞で急死し、怒った学生たちが天安門広場で座り込みを始めたのだ。ソ連ではすでにゴルバチョフが登場しており、民主化の波は中国にも来たのか、と思い部長に志願してすぐに北京に飛んだ。
  そして6月4日を迎えた。
 当時の取材メモを見ると、その2-3日前から不穏な空気で、人民解放軍は天安門を囲むようにジリジリと四方から迫り、武力鎮圧は時間の問題と見られていた。
 その日の夕方、僕はいつものように天安門広場に行きパトロールした。
 夜になって広場の外から銃声が聞こえるようになった。
 広場に入ってきた警察の装甲車のハッチを開け、学生が火炎瓶を投げいれて燃やすなど、騒乱状態になった。
  そして午前2時になった時、突然、広場の先にある中南海(共産党本部がある昔の紫禁城)の塀の上に、人民解放軍の兵士数十人がすくっと立ち上がり、こちらに向けて軽機関銃・カラシニコフをパンパンと撃ちはじめた。
 はじめ何かの間違いかと思った。と言うか現実を認識できなかった。
 でも周りの人が叫びながら逃げ惑うのを見て初めて「あ、俺殺される」とわかり、慌てて逃げ出した。
  ごみ箱の陰に隠れたりしながら、半泣きで北京飯店というホテルに向かって逃げた。
 吐きそうになり、何度もえづいた。
  天安門が炎に包まれていた
途中気づくと、持っていた衛星携帯電話が鳴っている。
 出ると東京の外信部で、「大丈夫ですか!」と叫んでいる。
 「大丈夫じゃないよ!」と叫び返すと、「でも電話リポートやってください」と言う。
 「いやそんなこと言われても、人民解放軍がカラシニコフをパンパン撃ってるんだよ!俺早く逃げたいんだよ!中南海の塀にいきなり兵隊が立ってさ、こっちに撃ちやがったんだよ。倒れてる人もいたよ」
 みたいなことをしばらくしゃべって、逃げた。
  この電話リポートというか半泣きのしゃべりは、その夜の「オールナイトフジ」という当時の人気番組にカットインされ、そのVTRから戻ったスタジオはシーンとしてどうしようもなかった、と同期のバラエティのディレクターが後に言っていた。
 吐き気と共に、びろうな話だが、本当にウンチが漏れるかと思った。
 おなかをスーッと下がっていった。
 死の恐怖というストレスは人間の消化器官を機能不全にしてしまうのだ。
 あの時のカラシニコフのパンパンという乾いた奇妙に軽快な音、はいまだに夢に出てくる。
 子供の頃に遊んだかんしゃく玉の音と似ているのだ。
 花火大会なんかで時々ビクッとすることがある。
 中国共産党は事件による死者が319人と発表しているが、その後の報道を見る限り千人単位の人が犠牲になったのは明らかだ。
世界が大きく動いた1989年
その後、北京から帰国して30歳になった。
 そしてその年の暮れの12月に、僕はチェコのプラハに飛んだ。
 ルーマニアのブカレストにも行った。
 東欧では、ドミノ倒しのように民主化が進んだのだ。
 お前の38年の記者人生で、最も記憶に残る取材を3つ挙げろ、と言われたら、「天安門事件、東欧革命、昭和天皇崩御」と答えるだろう。
 3つとも1989年にいっぺんに起きた。たぶん人生で最もよく働いた1年だった。翌1990年、僕は念願かなって米国ワシントン支局勤務となり、その後、湾岸戦争を取材することになる。
  社会主義が破たんし、東西冷戦も終わった。
 そして地域紛争、宗教対立の時代になった。
 世界の新秩序ができたのだ。
 でも中国だけは変わらなかった。
 政治改革は全く進まず、習近平になってさらに共産党一党支配が強化された。
 ただ、経済の自由化は、中国を経済大国にしただけでなく、軍事大国にも変えてしまった。
 平成の30年間、世界はそれまでの常識をすべてリセットして生まれ変わったのに、中国だけは同じ姿のまま、ひたすら巨大化し続けている。
  その日は一睡もせず、夜が明けたので、北京飯店から出て、天安門広場に偵察に行った。
 驚いたことに、広場中央に学生達が築いていたバリケードというか、砦がきれいサッパリなくなっていた。
 あの学生達の民主化にかけた情熱が跡形もなく消えている。
 呆然と立ち尽くしていると、すぐそばでお爺さんが自転車の荷台に箱を置き、卵を売っている。
 昨日までは警官、兵士、学生でごった返し、商売どころではなかったのに、バリケードがなくなったらもう商売か、と思わず笑ってしまった。
 「七人の侍」という映画のラストシーンを思い出した。
 戦いの翌朝、お百姓さん達は、歌を歌いながら、何もなかったかのように賑やかに田植えをしている。それを見た志村喬が「勝ったのは百姓だ」と呟く。
  天安門事件後、欧米各国が激しい非難を続ける中、日本だけは制裁を解除し、その後天皇訪中を実現させるなど、中国に気を使い続けたが、逆に中国は経済、軍事で巨大になるのと同時に反日を強めていく。
 しかしトランプの登場で事態は不思議な展開をした。
 巨大になりすぎた中国を米国は敵とみなしたのだ。
 米中関係の悪化と共に、中国は今度は急速に日本への接近を始めたのだ。
 今回の安倍訪中は日中新時代のスタートとなるだろう。
 もちろん日本が中国への警戒心を解くことはない。
 ただ30年ぶりに世界は再び新秩序作りに動きだしているのかもしれない。
(執筆:フジテレビ 解説委員 平井文夫 2018年10月26日)
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