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 「 日清製粉 令嬢と反日マスコミの結託」例

平成5年「美智子皇后のご希望で 昭和天皇が愛した皇居自然林が丸坊主」の記事を眼にするや,美智子さまは,朝食を中断し,対策チームを編成して対処にあたった.まさに鬼の形相だった
 美智子さまの考えた反撃方法は次のようなものだ.この記事の中には不正確な情報が含まれている.この点を指摘して,記事全体が「誤り」であるかのように声高に叫べば,自然林伐採も「誤り」であると皆受け取るに違いない,というのだ
 この不正確な情報とは,具体的には「紀宮さまのベルギーお見合い」というものだ.海外公務中には現地で様々な人と会食する.その会食のうちの一つが,間違って「お見合い」と受け取られ記事にされていた
 続いて問題となるのは「紀宮さまのベルギーお見合いが“誤りである”と誰が指摘するのか?」ということである.宮内庁側からこれを必死に主張したのであっては「何か隠そうとしているのか?」と怪しまれかねない.そこで美智子さまが考え出した妙案が「メディアに情報を意図的にリークして記事を書かせる」だ.結論的には 朝日新聞系列 に情報が流されることになり,その後 週刊朝日 が美智子さまを擁護する記事を連発するようになる
〔参考〕  「平成」を振返る
2018.10.24 07:00週刊朝日 
美智子さまが安倍首相を痛烈批判
 10月20日,皇后さまとして最後の誕生日を迎えた.この日,皇居・御所でのお茶会に招かれた末盛千枝子さんは,皇后さまとは20年にわたる親交を育んでいる絵本編集者である
 「しばらく体調を崩されておられましたから,お茶会でも,少し風邪気味のご様子でした.しかし,いつも通り,晴れやかな表情で振る舞っておられました」
 末盛さんが住む岩手県八幡平市の特産であるりんどうの花を女官に預けたところ,りんどうはすぐに御所に生けられた
 末盛さんは,美智子さまのこまやかな心遣いに気持ちが温まったと振り返る
 美智子さまが誕生日に公表した文書は,過去と比べ,より自身の心情や陛下とのやり取りなど私的な思いをつづった部分が多く,「ごく自然な印象を受けた」(元テレビ朝日の宮内庁担当記者の神田秀一さん)との感想を漏らす人も多い
  一方で公表直後から,安倍首相への痛烈な批判メッセージが隠されていたのではないか,とする「裏読み」が誕生日当日からメディアの間で話題になった
 記者たちが注目したのは,皇后さまが陛下にお叱りを受けた時のことを,「大変な瓜田に踏み入るところでした」と表現し,宮内庁が注釈で「君子行」の一節である「瓜田に履を納れず」と入れた部分だった
 「モリカケ問題で安倍首相が口にしていた『李下に冠を…』という一節を指したものではないか.退位を巡る宮内庁と安倍政権の一連のやり取りや政権の皇室への姿勢に対するメッセージではないかというものでした」(両陛下の知人)
 だが,皇后さまを知る人たちの多く,そうしたうわさをこう否定した
 「このお話は過去にも皇后さまよりうかがったことがあります.加えて,皇后さまや私の世代では,マクワウリはとても懐かしいものですから,思い出としてお話した以上の,深い意味はないと思います」(皇后さまの知人のひとり)
 他方,注目を集めたのが約60年前のご成婚と皇后としての覚悟を振り返った部分だった
 〈二十四歳の時,想像すら出来なかったこの道に招かれ,大きな不安の中で,ただ陛下の御自身のお立場に対するゆるぎない御覚悟に深く心を打たれ,おそばに上がりました〉
 そして,言葉少なに触れるにとどまったが,皇太子さまと雅子さまが築く新しい御代の安泰を祈った
 皇后さまの別の知人は,「皇后さまは,〈皇太子妃,皇后という立場を生きることは,私にとって決して易しいことではありませんでした〉といった感じで,皇室に生きる上での覚悟のお言葉を幾つもお使いです」
 と,皇太子ご夫妻へ向けて応援のメッセージのようにも感じた,と印象を漏らした
 両陛下は9月,西日本豪雨の被災地を自衛隊のヘリコプターで2回訪問している.この時期は天候が不安定で,何度も日程が変更された
 「出発の20分前に,予定が決まることもあるのね」
 皇后さまは,末盛さんにお見舞いの時の様子をこう話したという
 「陛下は84歳,皇后さまも同じ年におなりになった.77歳の私でも想像がつきません.常に,国の象徴として人々に寄り添うお覚悟に,ただ驚きました」
 天皇陛下も12月には天皇として最後の誕生日を迎える.どのようなメッセージを公表するのか,注目が集まっている
昭和9年(3月1日満洲国帝政実施,康徳と改元)
 6月25日 東洋拓殖,三井物産,三菱商事および内地製粉会社等で出資した「日満製粉株式会社」(本店ハルビン)が創立.日清製粉は,この「内地製粉会社等」の一つとして参加
 ※この年,館林,高崎,名古屋の3カ所で一部工場増設
昭和11年4月正田英三郎取締役,満州へ調査(日清製粉株式会社史)
 7月1日 京城府南大門通五ノ一に京城出張所設置
 7月7日 名古屋新工場落成 運転開始
 8月1日 朝鮮製粉株式会社創立(取締役会長正田貞一郎)
 8月 正田英三郎,再度,渡満し,満州国政府と関東軍を訪問(192~)(11月25日 日独防共協定成立)
 11月27日 役員会で満洲進出決定
 12月21日 第六十回株主総会(社長制を改めて会長制とし,社長の正田貞一郎が取締役会長に,常務取締役に正田英三郎就任 )
 12月26日 下関支店設置
昭和12年1月4日 野付牛(北海道北見)工場落成 運転開始
 2月 朝鮮製粉(株) 京城工場操業開始
 2月18日 満州に 康徳製粉股份有限公司創立(翌13年5月に康徳製粉(株)と改称)
 5月6日 取締役会長正田貞一郎,朝鮮満洲視察のため出発,6月1日帰国
 5月29日 本社事務所増築工事落成
 5月31日 国内工場の製粉機械一部を康徳製粉股份有限公司及び朝鮮製粉株式会社に譲渡
 (8月13日 上海事件起る )
 (11月6日 日独伊防共協定成立 )
 11月30日国内工場の製粉機械一部を康徳製粉股份有限公司及び朝鮮製粉株式会社に譲渡
 12月1日 愛国製粉株式会社と合併契約締結
 12月2日康徳製粉 新京工場 運転開始
 12月 朝鮮製粉(株) 鎮南浦工場完成,翌年から運転開始(南京陥落,中国臨時政府成立)
12月23日康徳製粉 牡丹江工場 試運転開始(国立国会図書館デジタルコレクション)
昭和13年1月7日 康徳製粉 四平街工場 (前年落成) 運転開始(同上)
 1月13日 常磐製粉株式会社と合併契約締結
 (1月16日 政府,「爾後国民政府を対手とせず」と対支声明 )
 (1月 支那における関税改正で小麦粉無税)
 3月16日 済南市東流水大干家橋に済南出張所設置
 3月25日 北京市永定門外に北京出張所設置
 (4月1日 国家総動員法公布 )
昭和14年7月15日 株式会社敷島屋製粉所と合併契約締結
 (9月3日 英仏,対独宣戦布告,第二次世界大戦始まる )
 10月13日 高浜製粉所買収
昭和15年(3月30日 南京政府成立 )
 8月 朝鮮殖産興業(株)設立 (販売部門)
 9月26日 台北市末広町に台北出張所開設
 (9月27日 日独伊三国同盟成立 )
 (10月12日 大政翼賛会発会式)
昭和16年1月朝鮮製粉(株) 海州工場完成(同上)
 8月 朝鮮酵母株式会社(日清製粉系のオリエンタル酵母の直系)設立(同上)
 (12月8日 わが国,米,英に宣戦)
昭和18年9~10月企業整備令により,鶴見工場を立川飛行機(株)の協力工場として「航空機鶴見航機工場」設立
昭和19年2月15日 高崎工場を転用し,航空機用硬化木材工場(高崎硬化材工場)設置
 3月16日 日清航空工業株式会社創立(当局の要請で,愛知航空(株)の協力工場として工場転用,社長は正田英三郎. 主として発動機のシリンダー,動弁腕,軸等を製作した)
  
  
※愛知航空(現愛知機械)は,戦闘機,偵察機等を製造した日産系の航空機メーカー.なお,1955年版の社史には,植民地での現地工場の写真も多数掲載されている
満州など旧植民地への経済進出については,資料が多く残されている三井や三菱などの大財閥を中心に研究が進んでおり,こうした巨大資本の経済活動と植民地の拡大や開戦との強い関連性が論じられている
 植民地への進出や戦争も,単純に政治家や軍人だけによって引き起こされるように考えがちだが,最近は,むしろそれによって利益が上がる集団のために引き起こされる,いわゆる経済面を重視する傾向が強まっている
 政治的意思決定がスポンサーの方を向いて行われるのは,今も昔も変わらない
 なかなか大陸から撤退できなかったのも,多くの日本企業の活動拠点があり,そこに従業員が生活し,すでに活発にお金が回っていたという現実を無視することはできない
 美智子さんの実家は財閥などとは比較にもならず,帝国主義下の日本を代表するような存在でもないので,上記のような実情をあまり知られずに済んでいる
 結婚以来,新聞や週刊誌でこの件を正面から大きく取り上げた記事は殆ど無いだろうと思う
 しかし祖父・正田貞一郎が創立メンバーの一人で,父も跡継ぎとして若くして役員という同族企業であり,中規模軽工業とはいえ,やっていることは同じだ
 雇われのサラリーマン社長ではなく,一族で大株主であり,祖父が経営の意思決定をしているわけだ
 実際,満州,朝鮮,台湾進出にともなって,工場や支店が増えてゆき,どんどん会社が成長しているのがよくわかる
 この時代,日本中どの企業も大陸に出ていくことで,景気が良くなったわけだ
 それから,あまりに生々しくて書き入れなかったが,昭和15年9月27日には,日清製粉も陸海軍に「航空研究資金」を「寄附」との名目で多額の献金を行っている
 平成4年,天皇皇后の強い希望による中国訪問が行われた
 「美智子様,植民地支配への贖罪のお気持ち」などというような見出しが躍っていたが,多少,こういう方面に詳しい知人は,
 「一体,どういうつもりでこんなしらじらしいこと書いてるんだろう?」と呆れ返った
 誰でも先祖に一人や二人,満州などで働いていた親戚がいるもので,こうした皇后実家の植民地進出を単純に批判しているわけではない
 しかし,マスコミが決して報じないのをいいことに,自分は何の関係もないかのように繰り返される皇后の同情的アピールは,見ていて不快極まりないものだ
 組織に属する勤め人が赴任するのとは違い,そこでの利益はストレートに一族の家産に直結していたというのに
 スポンサー企業である上に,いくら彼女が「タブー」な存在で書きにくいと言っても,ここまでくると,もはや意図的にだましているのと同じだ
 更に退位のあと,韓国に謝罪の訪問などとも言われている
 ならば,上記のような戦前の植民地進出をしっかり報道し,「朝鮮製粉」を周知させてから行くべきだと思う
財閥とは比較にならないとはいえ,一応,一族で要職を占めるオーナー会社の小資本家であったわけだから
眞子さま婚約スクープしたNHK記者は「陛下の体温を知る男」
 安倍政権を激震させた天皇の「生前退位のご意向」スクープから今回の眞子内親王婚約まで,いまや皇室報道は1人の NHK記者の独擅場といっていい.抜いたのは記者仲間から「陛下の体温を知る男」と呼ばれる社会部の橋口和人・宮内庁キャップである
 婚約の第一報を報じた5月16日の NHK『ニュース7』に登場し,「私は今月になって2度,小室さんと会ったんですが,非常にしっかりとした受け答えをする人で知的で温厚な好青年という印象を持ちました」と,婚約者の小室圭氏の人物像を解説していた
 他局や各紙の皇室記者が NHKニュースを見て「小室の家を探せ!」と慌てていた段階で,すでに2回も本人から話を聞いていたことからも,橋口氏がはるかに先行していたことがわかる
 昨年7月13日の生前退位スクープの際も,宮内庁幹部が否定する中,『ニュースウオッチ9』に出演して「天皇陛下が記者会見に近い形で,国内外にお気持ちを表明されることも検討されています」と“平成の玉音放送”を自信満々で予言し,その通りになった.どんな人物なのか
 「1991年入局で宮内庁担当のベテラン.とにかくキーパーソンを見つけ出すのが上手く,皇宮警察や皇族の主治医などに人脈が太い.愛子さまが誕生するときには,『内親王』と女の子であることを一番に報じた.紀子さまの悠仁親王ご懐妊も彼のスクープでした」( NHK社会部記者)
 とくに秋篠宮家に深く食い込んでおり,宮内庁職員より信頼が厚いともいわれる.そのため,抜かれっぱなしの他社の記者からは「橋口さんが小室さんにいち早く接触できたのは,秋篠宮家の意向を受けて人物評価を兼ねて会っていたんじゃないか」との見方までなされている
 内々に“皇室側”として婚約相手の“身体検査”の役目を担っていたといいたいわけである.次はどんな“スクープ”を放つのか
※週刊ポスト2017年6月2日号
    [懸念]
  1. NHKや朝日新聞社が異様なもちあげ方
  2. フォーダム大学がウェブサイトに 'fiance of princess Mako' と掲載し広告塔に
  3. 本当のスポンサーが誰か分からないお金で学費と生活費を
  4. 多額の税金を費やし護ってもらってるSPに敬意示さない
  5. 素行不良(女癖)
  6. 軽佻浮薄(海の王子)
  7. 恩を仇で返す行動(借金を贈与と主張)
  8. 侮辱や虐めで同級生を退学・引き籠りに
  9. 重要書類紛失を同僚のせいに
  10. 天皇家軽視(東宮門盗用)
  11. 倫理観欠如(代理人弁護士を通じて公表した文書の内容)
  12. 眞子さまの擁護姿勢 ⇒ 懸念者の神経逆撫で(借金踏み倒しは些事)


基督教的洗脳
 「あなたの名前はジミーです」
 「いいえ,私はプリンスです」
 「そうです.あなたは明仁親王です.けれども,このクラスではあなたの名前はジミーです」
 昭和21の授業は,こんなやり取りから始まった
 当時の宮内大臣・松平慶民は「明仁親王殿下のために,今までよりもっと広い世界の見える窓を開いていただきたい」と,夫人に依頼している
 英語の授業だけでなく,ヴァイニング夫人は陛下の家庭教師も務めた.後に「象徴天皇」となられる陛下の,心の「窓」を開いたのが夫人だった
 だが,当時の生徒たちにとっては,外国人教師との出会い自体,想像を超える体験だったという.陛下の同級生だった,小山敦司氏が明かす
 「女性の教師,それも外国人の先生ですから,びっくりしました.授業はすべて英語です.とくに,私は疎開していて1年遅れで入ったので,ヴァイニング先生の授業では,指されないよう顔を上げないで,『嵐』が過ぎるのを待っていましたね」
 米国ペンシルベニア州生まれのエリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニングは,敬虔なクエーカー教徒だった.クエーカー教はキリスト教の一派で「質素・誠実・平等」を旨とし,平和主義を掲げる.夫人は授業では,自らの信仰を押しつけないよう配慮していたというが,根底には,その精神が貫かれていた
 「先生は『人間はみんな平等』だと始終,おっしゃっていました.ほかの生徒たちにも英語名をつけ,殿下を『ジミー』と呼んだのも,平等の考えからだったと思います.優等生も劣等生も分け隔てなく可愛がっていました」
 こう振り返るのは,やはり同級生だった鈴木琢二氏だ.鈴木氏は,ヴァイニング夫人に叱られたことがある
 「夏休みをどう過ごしたか,5分くらいで発表したことがあったんです.私は,田舎に行って空気銃で小鳥を撃った話をしたんですが,『二度と小鳥をいじめてはなりません』と,こんこんと諭されました.クエーカー教徒は殺生をいちばん戒めるんです」
 徹底した平和主義だけでなく,陛下の心になにより刻まれた教えは「平等」の観念だった
 「馬術の対抗戦をやっていた学校のOBが『学習院のようないい馬がいないから,うちの学校は勝ったことがない』と陛下に申し上げたんです
 それを聞き,陛下はとても怒られました.『両方とも試合ではよそから調達した馬に乗っているんだから,公平じゃないか』と.これほど公平・平等を気にされるのも,ヴァイニング夫人の教えから来ているのでしょう」
 陛下の同級生の一人,明石元紹氏が,今の陛下からも感じられるヴァイニング夫人の教えについて語る
 「陛下は,お言葉の原稿などすべてご自身でお考えになります.夫人は,人はロボットではない,自分の意思を持ち,それに従い行動せよと語ってきた.陛下はそれを今も実践されています」
 昭和25年10月,帰国するヴァイニング夫人は学習院最後の授業で黒板にこう書いた
 「Think for yourself!」
 やはり陛下の同級生だった橋本明氏が振り返る
 「『自分で考える』.この言葉が,陛下の血肉になっていったのだと思います」
 全身全霊で「象徴天皇」の在り方を,ご自身の使命として考えてこられた陛下.その原点のひとつが,キリスト教の精神にあった
(週刊FLASH 2017年3月7日号)

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