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 1941年9月、日本は日中戦争を行ないつつ対米戦争に踏み切るという、勝ち目のない二方面作戦を選択した。これは陸軍の強硬派だけが主張し、実行したためであるという説明が幅を利かせている。
 戦後日本では、軍部の強硬派が満州事変など次々に既成事実を作って日本を戦争に引きずり込んだ、というストーリーを歴史上の事実として教育してきた。
 戦前はテレビは無く、雑誌とラジオはあったがマスコミといえば新聞が中心であった。マスコミ=新聞と言っても過言ではない。その新聞社がいかに日本を戦争の方向に誘導したか、日本人がとにかく戦争で物事を解決するように煽動したか。
 私や私よりは少し年上の団塊の世代の人々は、いわゆる戦後教育において、戦前の新聞社は軍部の弾圧を受けた被害者だと教えられてきた。学校で近代近現代史の授業は受けられなくても小説や映画やテレビドラマを通じて、戦前の新聞社はいかに軍部の弾圧に対して抵抗したかという英雄的ストーリーを叩きこまれてきた。それは大嘘である。
 確かに昭和十八年以降敗戦が決定的になった頃、その事実を隠した大本営発表(nhkを率いる近衛文麿公や朝日新聞関係者が実施)に対し一部抵抗した記者がいたのは事実だ。だが、抵抗の事実はほとんどそれだけである。それ以前まさに、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変からの一連の日中戦争そして日米開戦まで、「日本は戦争すべきだ」と常に国民を煽り続けたのが新聞社であった。これが歴史上の真実である。
 特に朝日新聞社は、満州事変が始まると戦争推進派の評論家などを動員し全国で講演会や戦地報告会を多数開催した。またテレビ以前の映像メディアとして「ニュース映画」というものがあったが、朝日のカメラマンが現地で撮影してきた事変のニュース映画も全国で多数公開された。
 昔は普通の映画館に隣接して全国各地に「ニュース映画専門館」があったことを、団塊の世代ならかろうじて覚えているだろう。もちろん、これらの朝日のキャンペーンは、この戦争が正義の戦いであるから、国民は軍部の方針を支持するように訴えたものである。
 それだけではまだ不充分だと朝日は戦意高揚のための「国民歌謡」の歌詞を全国から公募した。しかし応募作の中には朝日の意に沿うような作品がなかったのだろう。結局朝日新聞記者の作品を当選作としプロの作曲家に作曲を依頼し完成したのが『満州行進曲』である。これは大ヒットし親しみやすい曲調からお座敷などでも盛んに歌われた(戦後作られた「反戦映画」にはこうしたシーンはほとんど出てこない)。
 世の中には新聞を読まない人、ニュース映画を見ることができない人もたくさんいたが、そういう人々にこの歌は「戦争することが正しい」と教えた。その結果日本に「満州を維持することが絶対の正義である」という強固な世論が形成された。
 軍部がいかに宣伝に努めたところでそんなことは不可能である。やはり、「広報のプロ」である朝日が徹底的なキャンペーンを行なったからこそ、そうした世論が結成された。それゆえ軍部は議会を無視して突っ走るなどの「横暴」を貫くことができたし、東條(英機)首相も「英霊に申し訳ないから撤兵できない」と、天皇を頂点とする和平派の理性的な判断を突っぱねることができた。
 新聞が、特に朝日が軍部以上の「戦犯」であるという意味がこれでおわかりだろう。
 朝日新聞社にとって極めて幸いなことに、戦後の極東軍事裁判(東京裁判)によって東條らは「a級戦犯」とされたが朝日にはそれほどの「お咎め」はなかった。そこで朝日は「a級戦犯である極悪人東條英機らに弾圧されたわれわれも被害者である」という世論作りをこっそりと始めた。
 たとえばその手口として「反戦映画」に「新聞社も被害者」というニュアンスを盛り込むというのがある。「よく言うよ」とはこのことだが、特に団塊の世代の読者たちはずっと騙され続けてきた。いやひょっとして、今も騙されている人がいるのではないか。身近にそういう人がいたら、是非この一文を読ませてあげてください(笑)。
 「新聞の売れゆきがぐんとふえた」(朝日新聞社史 明治編、1995年)という日露戦争の報道は、人々に連帯感をもたらした。それは、できたての近代国家をまとめるべく明治憲法で示された天皇の「臣民」としてというよりも、初の総力戦に臨む運命共同体である「国民」としてのものだった。
 そんな連帯感を生んだ報道とは、どんなものだったのか。朝日新聞の特派員・弓削田秋江は、日露戦争において、そして日本陸軍にとって最初の大規模戦闘となった1904年の遼陽会戦に従軍した。ロシア軍の陣地「首山」を抑えた際の記事に、こんな一節がある。
「同胞は屍を戦場に曝したり」
 日本の軍隊の忠勇をさも誇気に鮮かなる旭旗が首山の中腹に樹てられし時の如何に嬉しかりしよ。然れども此国旗を此山に樹てんが為め二千余の同胞は屍を戦場に曝したり。昨日まではさしも要害堅固なりし敵の陣地に日章旗の勇ましく飜へるを見ては歓極まって幾度か泣かんとし路の傍、畑の中、敵を睨んで突進せし最期の面影を其儘に残しつつ累々として脚下に横はる屍を見ては「アア親もあるべし、妻子もあるべし」との感先起こり、情迫りて胸は裂けんばかり塞がりぬ(1904年9月22日、東京朝日新聞)
 朝日新聞社史はこの記事を、当時の東京朝日新聞の社論を率いた主筆・池辺三山が絶賛した、ということでここまで紹介している。弓削田はそのすぐ後で、こうも書いた。
 「而して余はしみじみ思ひぬ。戦後満州解放の暁、万一にも甘き汁を列強に吸はれ、日本の国民が指を咥へて外人の背後に立つが如きとあらば、それこそ戦死者の忠魂は永遠に瞑目するの機なからめ」
 遼陽も満洲(中国東北部)の一角だった。日本にすれば、日露戦争は南下するロシアから満州を「解放」する戦いだった。
 開戦から7カ月、弓削田が満州で同胞の死を悼んでいた頃、歌人・与謝野晶子は日露戦争に出征した弟を思い「君死にたまふことなかれ」と詠んだ詩を発表した。
 「すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね」と軍の頂点にある明治天皇にも触れた。評論家の大町桂月は「日本国民として、許すべからざる悪口」と批判。とげとげしい空気が社会を覆う。
 そこから戦いが終わるまでさらに一年、日本側の戦死者は陸軍中心に約8万4千人にのぼった。犠牲に見合わない「屈辱講和」への反発が、「国民」による空前の暴動、1905年9月の日比谷焼き打ち事件へとつながった。
 日比谷公園から皇居外苑、京橋、銀座へ。暴動の現場を、明治の思想に詳しい作家の関川夏央さん(69)と巡ってきた。築地の朝日新聞東京本社にたどり着き、そこでも問いを重ねるうち、かつてこの会社にいた二葉亭四迷(1864~1909)の話が出た。
 「あの重厚な 二葉亭四迷が勝った勝ったと喜んだ (注) んだよ」と関川さんは言った。
 日本近代小説の先駆けとされる言文一致体の「浮雲」を書いた四迷は、ロシア文学に造詣が深かった。1904年に大阪朝日新聞に入り、東京でロシアの事情や新聞翻訳の記事を書いていた。
 関川さんが触れたのは、1905年5月末の日本海海戦の時の四迷の高揚ぶりだ。日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊による戦いには、日本海の制海権、日露戦争の帰趨、ひいては近代国家・日本の命運がかかっていた。
 銀座の東京朝日新聞本社で「大勝利」を知り、牛込の知人宅に「とうとうやつたよ」と駆け込んできたという四迷の様子を、小説家の伊藤整が「日本文壇史 10」(1971年、講談社)で書いている。
 二葉亭は言った。
 「まだ十分分らんが、勝利は確実だ。五隻か六隻は沈めたらう。昨夜はまんじりともしなかった。今朝も早くから飛び出して今まで社に詰めてゐた。結局はまだ分からんが、電報が来る度毎に勝利の獲物が次第に殖えるから愉快でたまらん。社では小使給仕までが有頂天だ。号外はもう刷れてるんだが、海軍省が沈黙してゐるから、出すことが出来んで焦りじりしている」
  そして二葉亭は、「かうしちやおられん。これからまた社へ行く。大勝利だ。今度こそロス(※藤田注 バルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督)の息の根を留めた」と言ってまた帰って行った。その顔には海軍の軍令部長か何かのやうな誇らしい表情が漲ってゐた。
  戦争の具体的な経過やロシア側の実力については誰にも負けない深い知識を持ってゐて、簡単に勝利に酔ふことに警告を発していた二葉亭も、この時はその話の中の「給仕小使」のやうに有頂天になってゐた。
 8月10日、アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まると、朝日新聞社は、日露講和を妨害して露西亜帝国内の敗戦革命勢力を援護射撃する為、民衆扇動者を暗躍させるとともに、9月1日付けの紙面に「天皇陛下に和議の破棄を命じたまはんことを請ひ奉る」旨のプロパガンダを掲載し、ソヴィエト革命を容易にすべく、天皇の権威を利用しようとした。そして、 日比谷焼き打ち暴動 を起こし、多くの警察官を襲わせて治安を悪化させた。
 ちなみに伊藤整はこのエピソードに続けて、四迷と、先ほどの従軍記者・弓削田秋江の意外な接点に触れている。四迷は東京朝日新聞主筆・池辺の勧めで1906年から連載小説「其面影」を書くが、20年近く前の「浮雲」以来となる小説執筆を渋る四迷を説得したのが、帰国していた弓削田だった。
 弓削田は四迷の家を訪ね、政治と文学が両立するかという議論を4時間あまり続けた。結局「其面影」では曖昧になったが、もとの四迷の構想はこうだったという。
 「彼は日露戦争のあとで、表面には出ないが社会の大きな問題となってゐた戦争未亡人のことを小説に描いて見たら、と考へてゐたのであつた。日本海海戦のときあんなに勝利に熱狂してゐた彼は、戦後になると、その犠牲者たちのことが心にかかるやうになってゐた」
 四迷は3年後に肺結核で亡くなる。
(注)勝った勝ったと喜んだとき、彼の脳裏にある勝利者は、日本軍ではなく  共産革命の同志 товарищ  だったのだ。
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