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1995年に、大阪市東住吉区で起きた放火殺人事件をご存じだろうか?
当時、この事件は保険金目的で自宅に放火して小学6年の女児(当時11才)を殺害したとして、その母親の青木恵子さん(51)、内縁の夫であった朴龍晧さん(49)は殺人罪と建築物放火の罪で無期懲役を言い渡されていた。
しかし、2015年10月月23日に大阪高裁(米山正明裁判長)は検察側の即時抗告を退け、再審開始を認める決定をした。
2人は20年ぶりに釈放となったのだ。
1995年は阪神・淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件などが起きた年。
それと同時に日本中で”鬼母”として世間で騒がれたのが、元被告である青木恵子さんであった。
この事件は、子殺しだけではなく保険金や二人の借金が関わっていたとされていた。
当時、なぜ小学生の娘に1500万円もの生命保険がかけられていたのか?ということや二人に200万円の借金があったことから”保険金目当ての連れ子殺し”と言われていた。
実際に逮捕直後に二人は計画的な放火殺人であったと認め、「共謀して車の燃料タンクのガソリンを駐車場の床に散布しライダーで点火した」と供述していた。
しかし、後日、供述を翻し、2人は「警察に強要された」と。
「警察による拷問や娘への性的虐待の事実を突きつけられ、自責の念から嘘を供述した」と否認したのだった。
前述でも記載したように、朴龍晧さんは小学生だった娘への「性的虐待」をしたことを支援者宛ての文書の中で認めている。
朴さんからのメッセージ
「十年以上経っても、火事から子供を救助できずに死なせてしまった重い自責の念と性的虐待をした重い自責の念とが心に取り憑いていて、心が裂ける程激しく締め付けられます。」 以下略
これらの動機や状況から当時2人は容疑者として捕まったわけである。
なぜ2人は釈放されたのか。
それは、殺害方法とされていた放火の実現可能性が否定されたからだ。
米山裁判長は火災現場の車と同系統の車の給油口からガソリンが漏れた事例があったと指摘。
現場の車は満タンで、タンク内の圧力が上昇するなど給油口からあふれやすい条件にあり、給油キャップは閉まっていなかったとして、「ガソリンが漏れ、風呂釜の種火に引火して自然発火した可能性が十分認められる」と述べた。
弁護側、検察側それぞれが実施した発火の再現実験で、ガソリンをまいている途中に引火して激しく燃えた点にも言及。朴受刑者が捜査段階で「ガソリンをまいて火を付けた」とした自白について、「実現可能性が乏しく、客観的状況と合わない」と信用性を否定した。
結果、「自白は不自然」と判断し、再審開始を決定した。
そして、二人は2015年10日26日
20年ぶりに釈放された。
スーツ姿の朴さんは午後2時すぎ、弁護士とともに大分刑務所から現れた。「自由の身にしてくださり本当に感無量。20年ぶりなので、まるで遠い外国の地に立っているようで、まだ現実感がない。夢のようで景色が輝いて見える」と一言一言をかみしめるようにして話した。
20年間を振り返り、「ずっと心がピンと張り詰めていたので、今もそれをひきずっている」と涙をこらえるような表情を見せた。「少しずつ解放感を実感すると思うが、また次の闘いが待っているので、しっかりと心を整えたい」と述べた。
青木さんも和歌山刑務所前で報道陣に対応。亡くなった娘めぐみさん=当時(11)=が好きだったという黄色のカーディガンと髪留めを身に着け、涙ぐみながら「やっと当たり前の世界に戻れた」と語った。
「娘が青空のどこかから私を見て『ママ良かったね』と言っている声が聞こえる。ずっと見守ってくれてありがとうと伝えたい」と声を振り絞った。24日の長男の誕生日を祝えなかったことについては、「夜に泣いた。20年分の誕生日を祝ってあげたい」と述べた。
2人は1995年、青木さんの長女を保険金目的で殺害したとして殺人罪などに問われ、最高裁で無期懲役が確定。しかし、大阪高裁が23日、大阪地裁に続いて再審開始を認める決定をした。刑の執行も26日午後2時に停止すると決めた。
舞鶴高1女子殺害事件
2008年5月6日、高校1年の女子高生が夜に自宅を出た後、行方が途絶えた。
家族が捜索願を出すも、翌5月8日午前8時45分頃に雑木林で女子高生は遺体として発見された。
死因は失血死で死亡時刻は5月7日未明とされる。バールのようなもので女子高生の顔や頭など数回殴って殺害した上、遺体に土や枯れ葉をかけて隠していた。
・浮上した男
5月7日未明に女子高生と黒い服を着て自転車を押す男性が一緒に現場に向かう府道を歩いているのが複数の防犯カメラの記録に残っていた。
聞き込みを続けた結果、現場近くに住む男性が容疑者として浮上。
この男は5月6日夜から7日未明に市内の飲食店二店を自転車で訪れ、帰途のコースと時間帯が女子高生が通過したものと重なり、防犯カメラに映った「自転車の男」と体格で同一人物とみて矛盾しないとの鑑定結果も出て、さらに、当日は黒い服を着ていたことも判明した。
・男を逮捕
2009年4月7日、男は殺人事件による殺人罪と死体遺棄罪で逮捕。
・隠蔽工作と過去の犯罪歴
男は殺人事件直後に事件の日に着ていた黒い服を捨てていたり、所有する複数の自転車の色が事件直後に塗り替えられて、また凶器と見られるバールを数年前から持っていたが事件直後に無くなるなど数々の不可解な点があった。
1973年9月に男(当時25歳)は内縁の妻との別れ話から内縁妻とその兄を殺害。さらに、住人の女性2人を人質に立て篭もった事件で懲役16年の有罪判決を受けた。
出所後、1991年9月に路上で女性を強制わいせつしようとした強制わいせつ罪や傷害罪で懲役5年の有罪判決を受けた経歴が明らかになった。
・一審では死刑求刑に無期懲役判決
2010年12月21日、23回の公判前整理手続を経た上で、初公判が京都地裁で開かれた。状況証拠の積み重ねだけで、直接の物証がない事件としても注目が集まった。
2011年5月18日、京都地裁は防犯カメラの画像からの女子高生と一緒にいたことを認定し、未公表の遺留品の供述に捜査上の問題はないとして証拠能力を認め、無期懲役判決を下した。
・二審で逆転無罪
2012年12月12日、大阪高裁は京都地裁の無期懲役判決を破棄し、逆転無罪の判決を言い渡した。
2014年7月10日、最高裁判所は検察側の上告を棄却し、これにより二審の無罪判決が確定した。
・無罪確定から4ヶ月後、殺人未遂事件を起こす
大阪府警は5日、大阪市北区で女性を刺したとして、殺人未遂容疑で、舞鶴高1女子殺害事件で逮捕・起訴され無罪判決が確定した無職、中勝美元被告(66)を現行犯逮捕しました。
元被告は舞鶴の事件で無罪が確定した僅か約4ヶ月後の2014年11月5日に大阪市北区で知人女性を刺したとして殺人未遂で現行犯逮捕された。
2016年3月14日、大阪地裁は男に対して殺人未遂や強制わいせつ致傷などで懲役16年の判決を下した。
・「あれは俺がやった」
拘置所で男と同じ部屋になった男性は、
「オレがあいつに『本当はどうなんだ、やったのか』って聞いたんだ。最初は否定していたけど、あるとき『本当はオレが殺ったんや。ほんまは殺っとんねん。オレはあの子に顔見られたからな。(凶器の)バールを埋めたのは警察が捜索した場所とは山ひとつ違う場所やから、捜しても絶対わからんよ。それに(DNA鑑定しても)何も出てこん』とね。小声で話したんだよ。同じ房のもう1人も聞いとった。やっぱりなと思ったね」
男は2016年7月、大阪医療刑務所で病死した。
エセ冤罪ヒーロー、小野悦男。通称ねずみ男。 1968年から1974年にかけて、千葉県、埼玉県、東京都の首都圏で多発した連続女性暴行殺人事件。
1人暮らしの女性が深夜、強姦された上で殺害されるというものであった。被害者の大半は20代で、現場に残されていた加害者とされる血液型はO型の事件が多く、殺害方法は暴行焼殺9件に暴行穴埋め2件と手口に類似点があったため、同一犯によるものという見方が強かった。
・男を逮捕
1974年9月12日、茨城県行方郡北浦村生まれの元建設作業員、小野悦男(当時37歳)が窃盗容疑で千葉県警松戸警察署に逮捕され、連続焼殺事件への関与を追及された。
・犯罪歴
窃盗・詐欺・住居侵入・傷害・常習累犯窃盗などによる8回の前科と合計13年間の服役歴を持ち、その中にアパート専門の放火が数回あり、強姦しようとした過去も存在。
現場付近の地理に小野が明るく、犯人の血液型がO型とされたが、この男の血液型もO型であった。
・無期懲役から逆転無罪
裁判では、1986年の一審判決で無期懲役となったものの、1991年の二審判決では捜査機関による自白の強要が問題視され、連続殺人については無罪となった。
小野はただちに釈放され、冤罪のヒーローと呼ばれるようになった。
・5年後に同じような手口で殺人事件を犯す
無罪判決から5年後の1996年1月9日、足立区の駐車場で布団に包まれた女性の首なし焼死体が発見された。
小野悦男【でっちあげ】(絶版本)小野は、支援団体を得て無罪を勝ち取ったのだが、出所後、同棲していた女性を殺害して、また刑務所に逆戻りした。
1999年2月9日、小野に対して殺人罪で有罪とし、無期懲役が確定した。
1984年1月10日、札幌市豊平区の小学4年生・城丸君が行方不明となった。
城丸君事件。限りなく黒に近いグレーの女、K・K。
城丸秀徳君(当時9歳)は自宅にかかってきた電話を受け、「ワタナベさんのお母さんが僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言っている」と言って、家を出ていった。
家族によると、電話は女性の声で、たまたま城丸君が電話をとり、そのまま話し続けた。他の家族はリヴィングにいたという。なお、家族の中で「ワタナベ」という姓の人物に親しい間柄のある人はいなかった。訳のわからないことを行っていた城丸君に対して、母親は心配になり、小学校6年の兄に「一緒に行ってやって」と頼んだが、兄は城丸君を見失ってしまった。
・浮上したK子
事件当日、近くの小学生がK子という女のアパートの階段を、城丸君が上っていくのを見たと証言した。
その夜には近所の人が、K子が大きな段ボール箱を抱えて出ていくのを見ている。
K子は城丸君の訪問を認めたが「付き合いはない、近辺の家と間違えたらしく、すぐ帰った」と答えた。K子はそれから3週間後に引っ越していった。
K子のアパートは城丸君方と100mほどしか離れていなかった。この時、K子は700万円以上の負債を抱えており、そのうち636万円の返済を迫られていた。
事件から2年後の86年5月、K子はWさんと結婚。翌年末、突然の火災で母家が焼け、この男性は焼死している。
Wさんには1億9千万円の生命保険がかけられており、階下で寝ていたK子は預金通帳と生命保険関係の書類一式を入れたカバンを持って隣家に助けを求めていた。
・その家の納屋から発見した城丸君の遺骨
88年6月、Wさんの弟が延焼をまぬがれた納屋の整理をしていると、ポリ袋に入れられた骨片を見つけ、警察に届け出た。
鑑定した結果、この骨片は火葬された子供の骨と判明。城丸君のものである可能性が高いとして、K子から事情をきいたが、「そんな骨は知らない」と言うだけだった。
98年11月、DNA鑑定で遺骨は城丸君のものと断定。同月15日、K子が逮捕される。
K子は黙秘を続けた。

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