索引
  国民新聞 」の ライバル紙 に扇動された人々による空前の暴動。それが1905年の日比谷焼き打ち事件だった。
  9月5日、東京・日比谷公園での「国民大会」で日露戦争講和への反対を訴えた群衆は、皇居の二重橋前へ行進し、警官隊とぶつかりながら、鍛冶橋通りを京橋・銀座へ向かった。
作家・関川夏央さんと暴動の跡をたどる
 群衆は日比谷公園から皇居外苑、京橋、新富座、銀座へと向かった
 東京駅から新橋にかけてのその辺りを、明治の思想に詳しい作家の関川夏央さん(69)と巡る。
 当時は東京駅はなく、新橋から鉄道は伸びていない。まだ瓦葺きの和風建築が多い大通りに、ちょっと背の高い洋風建築も目立ってきた。そんな繁華街を路面電車が走り始めた頃だ。
 関川さんが言った。
 「初の国家的総力戦に近い日露戦争の渦中から『国民』が現れ、見返りへの期待を高めた。日比谷焼き打ち事件は、そんな国民の主人公意識と被害者意識の表れだった」
  銀座通りの路面電車。「東京風景」(1911年)より
 明治に元号が変わって38年。統治者となった天皇の「臣民」に対し、明治23年施行の大日本帝国憲法で兵役や納税が明記され、明治27~28年の日清戦争、それに次ぐ明治37~38年の日露戦争で負担がのしかかっていた。
 国立公文書館アジア歴史資料センターによると、日露戦争での日本側死者は約8万4千人で、日清戦争の約10倍。今にすれば約2兆6千億円にあたる戦費で政府は財政難となり、所得税の増税に加え、タバコや塩を専売制にして歳入増加を図った。
 「臣民」には選挙権が与えられたが、25歳以上の男子に限られ納税額も条件となり、有権者は人口の数%に過ぎなかった。「主人公意識と被害者意識」を高揚させて現れた「国民」たちは、何を起こしたか。
 治安面の教訓として、「極秘」の判が押された後年の政府の内部報告「所謂日比谷焼打事件の概況」(1939年、内務省)が生々しく伝えている。
  ・群衆は「国民のお通りだ。電車は停止し乗客は下車しろ。ちょっとでも動けば電車を踏み破るぞ」と言い、十数台の電車を立ち往生させた。
・国民大会後に演説大会を予定する新富座の南北数百メートルに群衆があふれた。京橋署長が解散を命じると群衆は激高し、警官隊と格闘し捕縛される者も出た。一部は内相官邸や国民新聞社の方へ向かった。
・講和条約を支持した国民新聞社に群衆が押し寄せ、「露探(ロシアのスパイ)新聞を叩き潰せ」と投石を始めた。京橋署が騎馬警官を出動させ、国民新聞社員が抜刀するなどして負傷者が数名出た。
・内相官邸の塀には、講和交渉で責任者だった外相小村寿太郎や仲介した米大統領ルーズベルトがさらし首となる絵の貼り紙がされ、群衆は興奮した。正門を突破しようとした群衆は仕込み杖などを持ち、抜刀した警官隊との渡り合いで負傷者が数十名出た。
 暴動は事件名となった「焼き打ち」、つまり都心各地での連続放火へエスカレートした。明治天皇による戒厳令で軍隊が出動した翌日にようやく収束する。
 1939年の政府の内部報告に戻る。「日比谷事件といえば交番所焼き打ちと同義に解される」ほど、交番の被害が多かった。浅草、下谷、神田、京橋、日本橋、新宿で襲われ、焼失219カ所、破壊45カ所。日比谷や四谷ではさらに路面電車が、浅草では教会が焼かれた。
徳富蘇峰 (とくとみ そほう)
1863.3.14(文久3.1.25)~ 1957.11.2(昭和32)
明治・大正・昭和期の出版人、
歴史評論家、政治家、言論界の重鎮

埋葬場所: 6区 1種 8側 13番
 1873年(M6)熊本洋学校に入学。年少のため退学するが、1875年父の言に従い再入学。1876年熊本洋学校閉鎖にともない、上京して東京英和学校(第一高等学校の前身)に通学するが満足せず、京都の新島襄に感化し同志社英学校に入学。1880年同志社卒業直前に退学し、熊本に戻る。1882年大江義塾を開き、父が漢学を、蘇峰は英学・歴史・経済・政治学等を教えた。1885年『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を私刊し文壇の注目を集める。1886年『将来之日本』を田口卯吉の経済雑誌社より刊行、その好評により、大江義塾を閉鎖して一家をあげて上京。
 1887.2.15(M20)民友社を設立し、雑誌『国民之友』を創刊。当時の総合雑誌として政治・経済・外交その他の時事問題を論じる一方、文学作品の掲載にも力を入れ、明治期の文学者たちの発表の場ともなった。これに伴い、1888年朝比奈知泉・森田思軒と共に主唱した文筆家集団「文学会」を月1回主催。坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴。矢野龍渓など多彩な顔ぶれであった(1891年春頃まで続く)。1890年『 国民新聞 』を発刊し、社長兼主筆として、平民主義を掲げ藩閥政治を批判し、明治中期のオピニオンリーダーとして活躍した。1891年『国民叢書』(M24.5~T2.8)、1892年『家庭雑誌』を発刊。1894年日清戦争では国民新聞社は戦況を総力取材した。1895年三国干渉を機に軍備の必要を唱え、富国強兵、国家主義を唱道。1896.5.20~翌.6.28 新聞事業視察のため深井英五と欧米漫遊に出帆。ロシアではトルストイを訪ね友好的な時を過ごした。1897年帰国後、8.26松方内閣の内務省勅任参事官に就任(~1898.12.27)。今までは進歩的平民主義の立場の執筆活動であったが、この就任により変節漢と非難される。
 1898年『国民之友』『家庭雑誌』『欧米極東』の3雑誌を『国民新聞』に併合する。1902年国語調査委員会の委員に任命される。'05日露戦争講和条約を支持し、それに反対する民衆によって国民新聞社は焼き討ちにあう(詳しくは松井茂【日比谷焼打事件】)。'07日露戦後の朝鮮・満州・中国を視察旅行。帰国後、国民新聞の社会面の充実を期し、新聞の大衆化・通俗化をはかる。'10寺内正毅の要請により『京城日報』の監督の任に就く。以後、'18(T7)まで年2~5回ソウルに赴く。
 '11.8.24桂太郎の推薦で貴族院議員に勅任される。'13.2.10(T2)桂太郎の新政党を支持した国民新聞社は、「憲政擁護・桂内閣排撃国民運動」(「桂の御用新聞」と非難を浴びる)によって2回目の焼き討ちにあう。この焼き討ちで発行部数は23万部から3割減少する。10月、桂の死後政界から離れ、一立言者としての本題に立ち返り『時務一家言』を発刊した。'15.11.3大隈内閣の新聞人叙勲で勲3等瑞宝章。'17中国視察旅行にて張作霖らと会見。
 '18『近世日本国民史』第1巻「織田氏時代」を起稿(大正7年56歳の時から着手し、昭和27年90歳の時、100巻の大著を完成)。'21.12.8二十余年住んだ青山邸宅地500坪を提供し、「平民大学」など社会教育の場とするため財団法人青山会館の設立を発表('25.4.3開館式挙行)。'22『国民新聞』夕刊の発行を始める。'23.6.12『近世日本国民史』10巻で帝国学士院より恩賜賞を授与される。同年.9.1 関東大震災で国民新聞社は被害を被る。再建資金で苦慮。'26宮内御進講控として出仕。国民新聞社社屋完成し移転、国民新聞社財政再建のため、根津嘉一郎(15-1-2-10)の出資を仰ぎ、国民新聞社を株式会社として経営を委ねた。'28(S3)宮中にて「神皇正統記の一節に就て」を進講。同年勲2等瑞宝章。'29共同経営者との不和から国民新聞社を退社。『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』の社賓となる(~'45)。'30.2.11蘇峰会発足(本部は青山会館で全国40支部)。'31大日本国史会が発足し会長。'37帝国芸術院会員。'39『昭和国民読本』が50万部を突破し祝賀会が東京日日新聞社主催で開かれる。'40.6.29『近世日本国民史』の連載が1万回に達する。
 '41皇室中心の国家主義思想は、第2次大戦下の言論・思想界の中心で、東条首相を訪問し新聞統合問題について意見を具申する。'42「大日本文学報告会」「大日本言論報国会」が創立されるや会長に就任。この年『宣戦の大詔』を刊行。'43.4.29文化勲章を受章。同じ受賞者にビタミンを発見した鈴木梅太郎(10-1-7-8)や後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹らがいた。
 '45.8.15玉音放送を山中湖畔双宜荘で聴き、毎日新聞社社賓、大日本言論報告会会長の辞任を表明。『近世日本国民史』の執筆を第97巻で中止。A級戦犯容疑者に指名され、熱海の晩晴草堂に蟄居。'46持病のため自宅拘禁となる。貴族院議員、帝国学士院会員、帝国芸術院会員の辞表及び勲2等、文化勲章の返上の手続きをし、一切の公職を辞退。'47.3.18東京裁判法廷に提出した「法廷供述書」が却下される。同年.9.1、戦犯容疑者自宅拘禁が解除され、21か月ぶりに晩晴草堂の門を開く。'48妻の静子が永眠(享年82歳)。自らの戒名「百敗院泡沫頑蘇居士」と誌し、墓標に「侍五百年之後」と題した。'51『近世日本国民史』第98巻に着稿。'52公職追放解除。同年.4.20『近世日本国民史』100巻完成。熱海の晩晴草堂で逝去。享年94歳。絶筆「一片の丹心渾べて吾を忘る」(辞世の句)。遺言により赤坂の霊南坂教会に於いて小崎道雄(8-1-7-1)牧師によりキリスト教式の葬儀が行われた。
蘇峰の墓の右側に並んで自然石「淇水先生墓」。これは蘇峰の父親である徳富一敬の墓石である。更に徳富一敬の墓石の右側に同じ大きさの墓石が三基並ぶ。左から「淇水先生室久子墓」(徳富久子)、「海軍少佐徳富太多雄墓 / 室美佐尾」(蘇峰の長男)、「徳富萬熊之墓」(蘇峰の次男)。墓所右手側に二基。徳富久子らの墓石と同じ大きさ「徳富武雄之墓」(蘇峰の4男)、小さな自然石「徳富忠三郎之墓」(蘇峰の3男で早死)。墓所左手側に一基。徳富久子らの墓石と同じ大きさ「徳富孝之墓」(蘇峰の次女の孝子)。
【徳富家】
 徳富家は代々、肥後国葦北郡水俣郷・津奈木郷の惣庄屋兼代官を務めた豪農で、蘇峰はその第9代当主である。父の徳富一敬は横井小楠の高弟。姉は基督教指導者の湯浅治郎(7-1-15)に嫁いだ社会事業家の湯浅初子(7-1-15)、弟に小説家の徳富蘆花。教育者の竹崎順子は伯母、横井小楠に嫁いだ横井つせ子や教育者の矢島楫子(3-1-1-20)は叔母にあたる。海老名弾正の妻となった海老名美屋(共に12-1-7-18)はいとこ。女性解放運動家の久布白落実は姪。
 1884年(M17)蘇峰が22歳の時に静子(1863年~1948年 同墓)を妻として迎える。4男6女を儲けた。長男の太多雄(1890年-1931.9.9 同墓)は軍人の道を歩み、海軍少佐、42歳で没す。次男の萬熊(1892年~1924.9.16 同墓)は蘇峰の後継者として期待されていたが、チフスのため33歳の若さで逝去。6女の鶴子(1906年~2007.9.10)は『二人の父・蘆花と蘇峰』を共著し、矢野家に嫁ぐ。4男の武雄(1909年~1960年 同墓)は考古学者。太多雄の次男で孫の徳富剛二郎(1924年-2006.8.21)は宮崎大学名誉教授の獣医学者で、「蘇峰会」常務理事を務めた。
 弟の徳富蘆花(健次郎)とは、次第に不仲となり、1903年(M36)蘆花が兄への「告別の辞」を発表する。 以後、長い間疎遠となっていたが、1927年(S2)蘆花が伊香保で病床に就いた際に再会し和解をした。蘆花は「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという。
【多磨霊園に眠る人物と徳富蘇峰】
 徳富蘇峰は多くの著名人と関わりを持ってきたが、ここでは特筆するに値する多磨霊園に眠る著名人を紹介する。
 まず、著名人の墓石や碑石の筆を多く関わっている。墓石の筆として、姉の 湯浅初子 (7-1-15)、部下であった 結城禮一郎 (9-1-20-19)、政治家の 馬場鍈一 (10-1-7-12)、南胃腸病院長の 南 大曹 (10-1-2)、キリスト教関連で 山室軍平 悦子 (15-1-11-1)。碑石では、血液循環療法始祖の 小山善太郎 (5-1-1-5)碑の「天地一指」の篆額、7区に建つ碑石「 軍刀報国 」の題額。
 次に徳富蘇峰の歩みで特筆する人物を紹介する。蘇峰が熊本洋学校の学生時代である1876年、生徒35名(熊本バンド)が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名し、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約した。その署名した生徒に蘇峰はじめ、 浮田和民 (4-1-25)、 海老名弾正 (12-1-7-18)、 金森通倫 (15-1-13)らがいた。地元で開いた大江義塾での教え子に 渡瀬常吉 (23-2-27)がいる。1902年(M35)蘇峰の民友社より出版された 村岡素一郎 (7-1-9)著作の『史疑 徳川家康事蹟』は今の時代でもミステリアスで興味をそそられる。「国民新聞」の建て直しにバックアップし社長を引き受けた 根津嘉一郎 (初代 15-1-2-10)。感化事業の父と称された 留岡幸助 (13-1-18-1)は、'31巣鴨の家庭学校本校にて奉教50年を祝う感謝の会で、蘇峰と会談中に脳溢血で倒れた。また、ここでは取り上げないが、明治・大正期に活躍したほとんどの文豪とは深く関わっていたと推察する。
【徳富蘇峰記念館】
  1969年(S44)蘇峰の13回忌の5月、塩崎彦市(号:静峰)によって、その邸宅に建設された。塩崎は早くより蘇峰を敬慕し、戦前・戦中・戦後を秘書として身辺に侍し、蘇峰の逝去に至るまで苦楽を共にした。その誠意に対し、蘇峰は、書簡・蔵書・揮毫・原稿・その他遺品の多数を塩崎に託した。塩崎はこれらを自ら蒐集していた資料と合わせ保存、公開することにより、蘇峰の永きに亘る偉業と精神が、新しい青年たちによって研究されることを願った。'78(S53)塩崎の死後、遺族はその遺志を継承し、徳富蘇峰記念館塩崎財団を設立、神奈川県で17番目の博物館として引き続き公開していくことになった。蘇峰堂の梅林も同地で楽しむことができる。蘇峰も春秋の佳日には来遊したという。
住所:神奈川県中郡二宮町二宮605
開館日:月・水・金曜日
開館時間:10:00‐16:00
入館料:大人500円 / 中・高生200円
最寄駅:JR二宮駅(東海道線)
松井 茂 (まつい しげる)
1866.9.27(慶応2)~ 1945.9.9(昭和20)
明治・大正・昭和期の内務官僚(警察消防)、知事
埋葬場所: 12区 1種 17側
 広島県広島市猿楽町出身。士族の松井有隣(同墓)の長男として生まれる。1893(M26)東京帝国大学法科大学独法科卒業。卒業後も法科大学研究科にて専ら警察法を研究。同年内務省に入省し、警視庁試補となる。
  1895四谷警察署長、ついで香川県警察部長、警保局警務課長、警視庁第二部長兼任内務書記官、兼任で消防署長、警視総監官房主事などを経て、1905警視庁第一部長となり日比谷焼打事件の鎮圧の指揮をとる。この間、1900道路取締規程作成より道路交通法の左側通行を導入。1901から渡米し、警察・消防を視察。これにより、救助はしご車の輸入、救急自動車の導入に尽力。1907韓国総監府理事官、韓国警務局長、統監府参与官を歴任。植民地警察機構の整備をはかり対韓政策に尽力。1910韓国政府より勲一等に叙せられ八卦章賜与。同年法学博士。
 石原健三(1-1-2)の後を継ぎ、1911.5.16(M44)第14代静岡県知事に就任〔任期:1911.5.16~1913.3.3(M44~T2)、在任:1年10ヶ月〕。静岡県知事時代は、元来の学究肌から、管内を視察するに当たっては、研究熱心に微細な点までおろそかにしなかったという。1913.3.3(T2)山本内閣成立後、石原健三の後を継ぎ、第16代愛知県知事を任ぜられた〔任期:1913.3.3~1919.4.18、在任:6年1ヶ月〕。後任知事は宮尾瞬次(8-1-17-2)。
 1918警察講習所創設に携わり、翌年所長に就任、警察官の訓育の指導を行う。1920勲一等瑞宝章授章。1924警察講習所の顧問。1934(S9)貴族院議員。その後は、大礼使事務官、警察協会副会長、消防協会副会長、警察共済組合審査会議長、中央社会事業協会理事、社団法人赤十字社理事、皇民会長、国民精神総動員中央連盟理事、大日本警防協会副会長、内務省防空局参与など、多くの要職に就く。
 警察法の立法に努め、日本に於ける警察と消防行政の基礎を築いた戦前の代表的な警察・消防官僚である。主な著書に、『日本警察要論』『欧米警察視察談』『警察の本領』『各国警察制度』『各国警察制度沿革史』『自治と警察』『独逸消防の近況と所感』『警察の根本問題』『国民消防』『警察読本』『消防精神』がある。正4位。享年80歳。築地本願寺で警察消防葬が営まれた。
*正面墓石は2基。右が「松井茂 妻貞之墓」。左が「松井家之墓」。墓所左側は墓誌が建ち、戒名は長生院殿釈警堂淡水居士。墓所右側には松井茂の碑が建つ。この碑は松井茂先生自傳刊行會の委員長である丸山鶴吉が碑文を書し、昭和二十七年九月九日と刻む(没七年後に建之されたことになる。なお、この年に『松井茂自傳』が刊行された)。碑文は松井茂の略歴が刻む。
【日比谷焼打事件】
 1905.9.5(M38)東京日比谷公園で河野広中、大竹貫一、小川平吉らの主催で日露講和条約破棄・戦争継続・政府弾該のスローガンで開かれようとした講和反対国民大会が政府の弾圧で解散させられるや、群衆は内相官邸、警視庁、警察、国民新聞社、交番等を襲撃し、事件は大阪、神戸、名古屋、横浜等へも波及した。政府は軍隊を出動させて2000人を捕えてこれを鎮圧した。ポーツマス講和条約の貧しい結果をみて日露戦争の犠牲となった国民の不満が爆発したものであった。この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上、うち有罪87名。
 国民は日清戦争の勝利により、戦勝国は多額の賠償金を獲得できるという認識があり、日露戦争後のポーツマス条約でもそれを期待していたが、結果は樺太の南半分の割譲、日本の大韓帝国に対する指導権の優位、賠償金なしでの調印に対して反発したものである。しかし、実際は、東郷平八郎(7-特-1-1)のバルチック艦隊撃破などの勝利とは裏腹に、日本には戦争を継続するだけの余力はなく早期解決が真実であった。ロシア側も血の日曜日事件など革命運動が激化しており戦争継続が困難であった。実は日本にとってロシアの内紛は救いであったほどである。
 なお、日露戦争の戦場は全て満州南部と朝鮮半島北部であり、ロシア領内は日本に攻撃されていない。日本側の全権交渉人としての小村寿太郎の判断と決断は、後に国民にも評価されることとなった。
  大正7(1918)年7月、富山の漁師の主婦による米店襲撃が発生。
  これを機に鈴木商店などが米の買占めを噂され、マスコミによりその元凶と盛んに報道される最中、同年8月12日、全国に飛び火した米騒動の嵐が鈴木商店を襲った。折しも金子直吉は、日米船鉄交換協約の折衝のため、モリス大使との会談に向かう上京の車中で本店焼打ちの報を受けた。鈴木商店躍進の象徴であった鈴木商店本店(旧みかどホテル)は灰塵と化していた。
 鈴木商店、神戸新聞社を焼き払った群衆は、鈴木商店社員寮、日本樟脳事務所、神戸製鋼所の米蔵、兵神館等々を次々に焼打ちし、周辺民家、酒屋、米屋を襲撃・略奪。お家さん・よねが住んでいる須磨の別荘をも襲う動きがあった。折しも播磨造船所の土木作業に携わっていた大本組創業者・大本百松の身を挺した働きで、無事難を逃れることができた。これ以降、鈴木商店と大本組の絆はますます強まったという。
  日頃から金子は、頑なに「鈴木は何も悪いことをしているわけではない。鈴木が潔白であることは眼のある人なら知っている。」と一切の弁明をしなかった。この年の12月になってようやく被害当事者・鈴木の立場から、永井幸太郎による「米価問題と鈴木商店」と題する論文が出された。作家・城山三郎の代表作の一つ「鼠」は、神戸の米騒動を題材にして、丹念な取材により永年にわたって不当な評価を受けてきた鈴木商店の汚名を雪いだ労作といわれている。
 絶頂期にあった鈴木商店は、米取引にも活発に乗り出しており、外米輸入を積極的に行い、ラングーン・サイゴン米の他に朝鮮米の輸入による米価調整を政府に具申したほどであった。

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