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(2014年08月08日執筆)
朝日新聞の「リベラル」が戦争を主導した
この機会に、朝日新聞の誤報や捏造の歴史をおさらいしておこう。特に彼らが重要な役割を果たしたのが、第二次大戦だ。秘密保護法キャンペーンのときは「治安維持法で新聞の自由が奪われた」と書いていたが、これは嘘である。治安維持法が朝日に適用されたことは一度もない。
大阪朝日社説(1931年10月1日)は「満州に独立国の生まれ出ることについては、歓迎こそすれ反対すべき理由はない」と書き、従軍記者の報道で大きく部数を伸ばした。
このあと朝日は、戦線拡大に慎重な陸軍首脳より先鋭的になり、青年将校を煽動したのだ。日米戦争をあおって「鬼畜米英」というスローガンをつくったのもアサヒグラフである。
その一つの原因は、朝日が 革新派 の新聞だったことにある。緒方竹虎以下、笠信太郎や古垣鉄郎などのスター記者はみんな「リベラル」で、社会主義に親近感をもち、日本を計画経済にすべきだと考えていた。これは陸軍統制派の国家社会主義に近く、それを通じて近衛文麿との関係が強くなった。
近衛も新聞を味方につけたかったので朝日に情報をリークし、朝日は「一国一党型新党で日本を革新すべきだ」という論調をとるようになる。これが大政翼賛会になり、緒方は「新体制」の幹部になった。このあと朝日は社論を「新体制支持」と決め、国家総動員体制の支柱になった。
このような新体制の理論的支柱になったのが、笠の『日本経済の再編成』にみられる統制経済の思想である。そこでは資本と経営を分離し、経営者が計画的に会社を経営し、新聞は天下国家の立場から国策を論じるものとされた。
このように資本主義を否定する思想が、陸軍に利用された。戦前のリベラルが結果的には近衛の総動員体制に合流して戦争に協力した歴史を、丸山眞男は「重臣リベラリズムの限界」と呼んだ。国家の経済介入を肯定するリベラリズムは、総動員体制と親和性が強く、「空気」に弱かったのだ。
戦前の朝日新聞の脱線の原因は、治安維持法でも利益誘導でもない。
1928(昭和3)年7月、 コミンテルン第6回大会で説かれた 共産主義的教条 (1.革命を成功させるため軍隊に 進んで入隊 し国家を 内部から崩壊 せしめる力を得て 自国政府の敗北 を導く。2.ブルジョア的 合法性に依存せず 、公然たる組織以外の 秘密機関 を到るところに作り、 犠牲を厭わず 、あらゆる 詐術謀略 を用い、ブルジョア陣営内の 不和に乗じ て革命を達成する)によって、大本営発表を報道し続けたのだ。慰安婦報道でも原子力報道でも、リベラルな「革新」の側に立とうとする朝日の姿勢は戦前と同じだ。
(2014年09月19日執筆)
二・二六事件も、青年将校が純粋な動機で起こしたクーデタである。途上国で起こるクーデタは軍の中の主導権争いで、将軍クラスが指導者だが、二・二六の首謀者 磯部浅一は一等主計、村中孝次や安藤輝三は歩兵大尉という下士官の 下剋上 だった。この背景には、張作霖爆殺事件や五・一五事件で、軍の指揮系統を無視してテロをやった青年将校の「動機は正しい」と、おとがめなしになった背景があった。
近代国家を統合する力は広い意味のナショナリズムだが、日本のようにネーション(国民)の意識の希薄な国で、国家を統合することはむずかしい。それを明治維新では「現人神」という神の代用品を使い、キリスト教の代わりに儒教の尊皇思想を利用して国家意識をつくる離れ業に成功した。
この「国体」には中身がなく、何とでも入れ替えのきくものだった。ここで国民を統合するのは、キリスト教やマルクス主義のような体系的な教義ではなく、「万世一系」の天皇家への祖先信仰だった。日本人を死に駆り立てたのはナショナリズムではなく、家族意識にもとづく 心情倫理 なのだ。
それを利用したのが北一輝で、彼はレーニン的な社会主義を実現する梃子として天皇を利用した。彼の強い影響を受け、皇道派青年将校が起こしたのが二・二六事件だと思われているが、その主流は北一輝の『日本改造法案大綱』を実現しようとする「改造主義者」だったという。
しかし彼らの計画には、致命的な穴があった。天皇を名実ともに主権者とする運動では、最終的には「御聖断を仰ぐ」必要があるので、天皇が拒否権を発動したら挫折することは必然だった。
その意味で青年将校に似ているのは、「アジアとの和解」や「女性の尊厳」などの無内容な心情倫理を掲げ、現状を否定する以外の目的をもたない朝日新聞である。そして彼らは、いまだに「誤報はあったが動機は正しかった」と主張している。
(2014年09月20日執筆)
筒井清忠氏によれば、青年将校には天皇親政をめざす 天皇主義者 と北一輝の『日本改造法案大綱』を実現しようとする 改造主義者 がいて、磯部などのリーダーの多くは後者だったという。北一輝の理論の中身はレーニンとほとんど同じだから、二・二六事件は一種の社会主義革命だった。
ただ北一輝の独創性は、社会民主党のように革命を議会でやろうとするのではなく、天皇を使ってやろうと考えたことだ。もちろん北一輝が武器をもってクーデタを指導したわけではないので、彼が死刑になったのは暗黒裁判だが、彼が青年将校に理論的支柱を与えたことは間違いない。彼もそれを認めて、死刑を受け入れた。
ここに歴史の皮肉がある。青年将校は二・二六事件では敗れたが、北一輝の精神は革新官僚に受け継がれ、普通選挙や公的年金など北一輝の提案した政策が実現された。つまり 天皇+社会主義 という青年将校の構想は、近衛文麿の戦時体制に受け継がれたのだ。その中心になったのが、緒方竹虎など 朝日新聞 の革新派だった。
つまり「暴走する軍部を新聞が止められなかった」という神話とは逆に、青年将校の志を受け継いで対外的膨張主義を主導したのは、統制経済を志向するリベラル派だった。国家総動員体制は、大恐慌に対応するための社会主義体制であり、朝日新聞は単なるマスコミではなく、その中核だったのである。
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