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ポリコレ疲れ
 アメリカ大統領選挙結果で俄然注目されるようになった言葉が「ポリティカル・コレクトネス」。
 大統領選挙後、 静かなる田舎者達がアメリカを変えた日 ポリコレって何? リベラル達の非寛容さの偽善 等の論説がインターネット上に溢れた。
 
「political correctness」Google検索量は、2005年に上昇後、低下し、2015年夏に再上昇してるが、日本では2016年に急上昇
炎上騒ぎの例
 2016年5月「東大美女図鑑」に出演した学生が同席して各得意分野を教えるH.I.S企画は、批判を受けて、中止になった。
 他に、東京メトロの公式キャラクターである「駅乃みちか」のコラボ絵について批判が集まったケース、三重県志摩市の公認・海女キャラクター「碧志摩メグ」が公認取り消しとなったケース、
アイドルグループ欅坂46の衣装が「ナチスドイツの軍服と酷似している」との批判を浴びて、謝罪したケース等がある。
 これらの批判は、一括りに「ポリコレ」だと認識されていたが、セクハラと歴史認識欠如は、同列に論ずべきものではない。
 また、ポリティカル・コレクトネス認定が安易に為される傾向も問題だ。
 資生堂「インテグレート」企画CM(男性上司が高評価している女性部下に「それが顔に出ているうちはプロじゃない」と指導する場面)は、外見指導が批判を集めて中止となった。「二重抑圧(男性対女性、上司対部下)の表現は、資生堂の男女平等化路線(Women's Empowerment Principles 参加等)と矛盾する」が批判の内容だった。
「ポリコレ=きれいごと」という誤解
  相互理解で戦争を無くす 広島に於ける核兵器廃絶演説等の政治的きれいごと という主張は、「ポリコレ ≠ きれいごと」を理解できていない。
 きれいごとが理念や理想を模しているのに対して、ポリティカル・コレクトネスは真逆だ。
 「核兵器を根絶するべき」や「白人と黒人は同じバスに乗るべき」は、「きれいごと」か否かはともかく、それらは理念であり、ポリティカル・コレクトネスとは明確に区別すべきだ。
  「ポリコレ=正義」という誤解
 「 『ポリティカル・コレクトネス』って『政治的に正しい表現』と訳されるけど、 」や「 『ポリティカル・コレクトネス』に少しでも反論すると直ぐ叩かれることから、日本では『ポリコレ棒』と呼ばれるようになった 」は、「ポリティカル・コレクトネス=正義」を前提に論を展開しているが、ポリティカル・コレクトネスは、正義ではないどころか規範ですらない。
ポリティカル・コレクトネスの歩み
 ポリティカル・コレクトネスは、20世紀半ばまでスターリニズムの教義として使用された共産主義用語だった。
 1970年代、アメリカでは、ニューレフト運動が盛んになり、思想の潮流がマルクス主義からポストモダンへと移り変わっていった。マルチカルチュラリズム(多文化主義)とポリティカル・コレクトネスは、人種、ジェンダー、少数民族等の問題を考えるキーワードとして注目を集めた。
 1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、ポリティカル・コレクトネスを「セクシズムやレイシズム、憎悪を追い払う為に生まれたムーブメントが、特定の表現・トピック・ジェスチャーを追い払うだけのものに変質し、逆に新たな偏見を生んでいる」と批判した。この頃からポリティカル・コレクトネスは、新聞や雑誌などにも登場し始め、広く一般社会で使われるようになったが、未だに意味や用法は定まっていない。
社会的変化を齎す手段 」と「 目的としての多文化社会
 ノーマン・フェアクローは、ポリティカル・コレクトネスを「広範な社会的変化の契機となる文化的変化」を齎す手段として使用すべきだと提言している。
 これに対して、マーティン・E・スペンサーは、ポリティカル・コレクトネスによって表現される 多文化主義 が、アメリカ社会の新たなアイデンティティを構築する為の道徳的ムーブメントだと主張する。アイデンティティ・ポリティクスは、共産主義退潮後、左派的価値観の支柱となり、彼らの関心は、経済問題から多文化主義やポリティカル・コレクトネスへと移っていった(共産主義退潮は、1991年8月19日クーデターに際し、戦車の上からゼネストを呼びかけ抗戦したロシア共和国大統領エリツィンが成し遂げたソ連崩壊が契機)。
 ポリティカル・コレクトネス論者は、双方共、左派的イデオロギーに立脚しており、それを隠して普遍的理念のように説くのは傲慢の誹りを免れない。リベラリズムは、世俗主義に基づき、宗教的理念が世俗法よりも優先される人々の規範を無視しようとする。国家の一員としてのアイデンティティを無視してポリティカル・コレクトネスを普遍的規範のように振りかざす言動は、ナショナリストにとって許容し難いだろう。ポリティカル・コレクトネス論者は、こうした衝突に直面したとき、寛容さを失い、相手方を社会分断者として非難する行動に出る傾向がある。
「Black」概念の変化
 「黒人」の表現を「Black」から「African American」に言い換える動きが盛んになったことがある。しかし、既にアフリカにアイデンティティを感じていない者や中南米に奴隷として送られた後アメリカへ移民として渡ってきた者は、「African American」の呼称に違和感を感じ、自らを「Black」と呼称し、「The Black Power Salute」のように、ブラックという呼び名を積極的に掲げていくようになった。
 バラク・オバマは「黒人初の大統領」だが、彼の母親は米国出身の欧米系白人だ。「Black」から「African American」への呼称変更は客観性が欠けていたわけだ。
ポリティカル・コレクトネスは情宣活動
 2015年1月、イスラム過激派を揶揄する風刺画を描いた雑誌『シャルリー・エブド』のパリ本社に武装した犯人が押し入って12人を殺害した事件が報道されると、 私はシャルリー という合い言葉で連帯を示す運動が広がった。
 しかし、『シャルリー・エブド』誌がイスラム教のムハンマドを風刺した作品を掲載するばかりでなく、今年起きたイタリアの地震に際して、被災者をラザニアなどに見立てた風刺画を掲載するなど、度を過ぎた表現をおこなっていたことから、世界中で議論が巻き起こった。
 イランでは『シャルリー・エブド』誌の風刺画に対抗して、ホロコーストに関連した風刺画のコンテストが開催された。
 ホロコースト風刺を絶対悪として処罰しながらイスラム教侮蔑を軽視するポリティカル・コレクトネスが正義である筈がない。ポリティカル・コレクトネスが「コレクトネス」ではなく「政治的なコレクトネス」である所以だ。
ポリティカル・コレクトネスの特徴
  (1)議論封殺
 「差別的主張に対して一々丁寧に反論するのは社会コスト的に非効率だ」と説明して「事実を確認する如何なるアプローチも封じるべき」との主張を通す行為は、 イデオロギーによる社会学的知見の妨害 だ。
  (2)言論・表現の自由との抵触
 ホロコースト研究を、その非倫理性や異常性を糾弾することに限定すれば、真実を明らかにすることはできない。ナチスが為した事と為さなかった事を明らかにする過程で、場合によっては、ナチス擁護に見える説明があるかもしれないが、ナチス擁護に見える説明を非難することは、リベラリズムが掲げる「自由」の看板が偽りであることの証だ。
 マイクロアグレッション(差別・偏見とも解釈できるような微妙な言動)による被害者の救済が重要だとして、「ポリティカル・コレクトネス=言葉狩り」という意見を人民裁判的に有罪にする試みで、リベラリスト革命戦術の一端が露呈した。
  (3)異議申し立ての困難性
 個別の議論や審議をなるべく避けようとして生まれたのがポリティカル・コレクトネスだという主張は、異論を許さない不寛容さを正当化しようとするものだ。
「ポリコレ疲れ」を理解する
 ドナルド・トランプの勝利やBrexitは、ポリティカル・コレクトネスの欺瞞と危険性に人々が気付き始めた兆候だ。
 ネット上に溢れる「トランプ勝利はポリコレ疲れが要因」という声に対して、「ポリティカル・コレクトネスを理解しない人々は無知な差別主義者」と糾弾し続けるなら、「ポリコレ疲れ」が普遍的な現象になってしまうだろう。
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