国共合作
中華民国成立
1912年、清王朝は滅亡し、 中華民国(南京政府。フィリピンに続くアジアで2番目の共和国)ができた。
清王朝の重臣でありながら中華民国を作るのに協力した袁世凱は、北京軍(清王朝から引き継ぎ西洋方式で強化)の親分でもあり、実力者だったので、中華民国の大総統に就任した。そして、首都を北京に移した( 北京政府)。
約4年後、バラバラになっている中国各地を結束させる為には皇帝が必要だと考え、自分が皇帝になって、中華帝国を建国した。
しかし、中国人の多くが、皇帝を望まず、共和制を求めたので、外国政府も、袁世凱を応援しなくなった。帝政は3か月後に廃止され、共和制が復活した。袁世凱も、まもなく、病気になって死んだ。
袁世凱の部下(馮国璋、徐世昌、段祺瑞など)には中国をまとめる力が足りなかったので、各地の武装組織( 軍閥 )は政府の言うことをきかなくなっていった。
早稲田大学に留学して河上肇らの著作からマルクス思想を勉強した陳独秀や李大釗が中国に帰ってきた。陳独秀や李大釗は、外国の植民地政策と軍閥の封建的支配が民衆を苦しめていると思い、問題解決の為に革命を起こそうと、各地の活動家達と連絡を取り合っていた。
1919年1月、第一次世界大戦講和の国際会議がパリで開催された。第一次世界大戦後、実力のある列強は、イギリス、フランス、アメリカ、日本の4ヶ国になった。
各列強は、協調して国際政治を担う為、国際連盟を設立したが、その過程で「人種差別撤廃条項」を提案した日本は、植民地宗主国の列強に警戒された。アメリカは、イギリス、フランスと結束を強め、オブザーバー中華民国の発言を露骨に支持した。中国で布教していたプロテスタントの宣教師に「悪者・日本」のイメージを広めさせ、排日運動を煽った。
1919年10月10日、上海で 中国国民党が結成され、孫文が党総理に就任した。
1921年7月、上海に各地の活動家達が集まり 中国共産党を作った。
1924年1月20日、 中国共産党員が個人として国民党に加入するとういう形で、国民党と共産党が手を組んだ。
1925年に 孫文 (「中華民国建国の父」とも呼ばれる)が癌で死んだ後、 蒋介石 国民党軍 を広州(香港の近く)から北京に向かって進軍させた。
1927年4月6日、 満州を支配していた軍閥の親分 張作霖 共産党員 李大釗 らを内乱罪容疑で逮捕した。3週間後に李大釗らが処刑され、共産党は張作霖を恨んだ。
1927年7月、 国民党と仲が悪くなった共産党が各地で反乱を起こしたが、国民党軍によって静められた。
1928年5月、北京政府を倒そうとして山東省済南まで攻め上った国民党軍は、居留民を保護しようとする日本軍と衝突した。国民党軍は、日本軍との対決を避けて迂回し、北京に向かった。
張作霖爆殺
張作霖は、日本と良い関係を作っていた。
北京で国民党軍を迎え撃とうとしたが敗北し、6月3日、北京を脱出した。翌日、 瀋陽駅途中の鉄橋で突然乗っていた鉄道が爆発して張作霖は死んだ。
国民党軍は、6月8日、北京に入城し、同月15日に全国統一を宣言した。
張作霖の長男 張学良 は、張作霖爆殺事件の犯人が関東軍だと思い込まされて、日本に激怒した。
同年12月29日、満州で一斉に青天白日旗(中華民国旗)を掲げ、中華民国政府に従う意思を示した。
1931年9月18日、 南満州鉄道の線路が爆破された(柳条湖事件)。 治安回復の為、関東軍は満州全土の制圧に乗り出した。
1932年3月1日、 張学良に与しない有力者らが長春に集まって 満洲国 の建国を宣言し、愛新覚羅溥儀が満洲国執政に、鄭孝胥が国務院総理に就任した。
1933年3月27日、 国際連盟総会で、満州国の独立が否定され中国の統治権が承認された。これに反対する日本は、国際連盟に対して脱退を通告した。
1934年7月、国民党軍との戦いに負けた共産党軍は、西へ北へと逃げ惑い、西安市の西北、静寧県に辿り着いた。
1936年12月12日、共産党軍とにらみ合いを続ける国民党軍を励ます為、西安市に来た蔣介石を張学良が監禁して8項目(内戦停止、南京政府改組、政治犯釈放、民衆愛国運動解禁など)を要求した。蔣介石は、周恩来(元部下)、宋美齢(妻)らの説得を受け、8項目に合意して釈放された。追いつめられていた共産党は、張学良のおかげで生きながらえることができたのだった。
張学良は、軍法会議にかけられることを望み、蔣介石に同行、国民党の監視下に置かれた。
結果として、張作霖爆殺事件で得をしたのは、中国共産党だった。
1937年7月7日深夜、 北京近くの盧溝橋で、実弾を発砲する銃声が聞こえた。日本軍は演習で一切実弾を使わず、演習の実施をあらかじめ国民党軍に伝えていたので、その銃声は中国軍からの攻撃だと判断され、銃撃戦が始まったが、直ぐに、国民党と関東軍の間で停戦協定が結ばれ、銃撃戦は収まった(盧溝橋事件)。
盧溝橋周辺は、国民党や共産党、匪賊、馬賊などが入り乱れて混乱状態になっていた。停戦協定は守られず、各地で武力衝突が起こった。そして、国民党は、共産党と手を組んで、関東軍と戦うことになった。
結果として、盧溝橋事件で得をしたのは、中国共産党だった。
同月29日、 冀東防共中国自治政府配下の中国人保安部隊が自治政府主席を捕縛して謀反を起こし、日本軍部隊・特務機関を襲撃、日本人居留民223名を強姦等のうえ虐殺した(通州事件)。

そして、国民党と関東軍の対立は深まり、国民党と共産党の結束は強くなった。
結果として、通州事件で得をしたのは、中国共産党だった。
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