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昭和20年10月に再刊されたばかりの日本共産党の機関紙『赤旗』第一号の『人民に与う』という論文で、米占領軍を「解放軍」と賛美していた ことを書いた。そして翌年2月の第5回日本共産党大会では、この「解放軍」規定が敷衍化された「占領下平和革命論」が当面の党の綱領的方針として採択され ている。
その当時のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)にはソ連に繋がるスタッフが数多くいて、わが国を共産国化させるプログラムが裏で進行していたの だが、1948年9月には朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、翌1949年10月には毛沢東が中華人民共和国の成立 を宣言した。そして1950年2月には中ソ友好同盟条約が調印されて、いよいよ朝鮮半島全体の共産化が実行に移されようとしていた。
元日本共産党員の兵本達吉氏の著書『日本共産党の戦後秘史』に当時の興味深い新聞報道が紹介されている。
「それは、1950年2月15日付のパリ発、ニューヨーク・タイムズ特派員ザルツバーガー記者の特電と、同日付のワシントン発、APのハイタワー 記者の特電である。サザルツバーガー記者は、スターリンと毛沢東がモスクワで会談し、『中ソ友好同盟条約』を結んだこと、そしてその秘密のメモランダムを スクープした 。AP通信のハイタワー記者は、米政府筋の情報として、中ソ両首脳が、朝鮮半島ないしは台湾海峡での有事を視野に入れて、日本共産党を武装させる合意に達したと伝えている。
そして1950年3月、金日成が訪ソしてスターリンから南朝鮮への侵攻への同意を得た
。」(『日本共産党の戦後秘史』p.81-82)
日本共産党史に詳しい宮地健一氏のホームページによると、ソ連崩壊後に発掘されたソ連共産党秘密文書などでスターリンは日本共産党に対し、以下のような指令を出しているという。その内容は
「(1)表面は、 野坂参三を名指しにした占領下の平和革命論批判 であり、そこには、武装闘争指令文言はない。しかし、(2)その裏側の狙いは、 ソ連NKVD工作員野坂参三だけが判読できる暗号を含んでいた。その暗号内容とは、ソ連スパイ野坂にたいし、日本共産党を、朝鮮侵略戦争加担武装闘争路線へまるごと転換させよという指令だった。アメリカ占領軍も、この暗号内容を正確に読み取っていた 。」 朝鮮戦争の経緯と日本共産党への参戦指令と時期・期間
このような スターリンの指令のあと、さらに中国共産党も日本共産党の「占領下平和革命論」を批判した ことから、日本共産党は武装闘争に進むかどうかで意見が真っ二つに割れることとなる。
一方、マッカーサーは5月3日に、共産主義陣営による日本侵略に協力しているとして日本共産党の非合法化を示唆し、5月30日には皇居前広場において日本共産党指揮下の大衆と占領軍が衝突する事件がおきている( 人民広場事件 )。
そして6月6日に、マッカーサーは日本共産党中央委員24人の公職追放を指令し、その政治活動を禁止(レッドパージ)するなど、それまでのGHQの日本共産党に対する施策を急変させている。
そして 朝鮮半島では、6月25日に北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されて朝鮮戦争が始まり 、一方わが国では 7月には政府の出頭命令を拒否した9人の日本共産党幹部に対し逮捕状が出され、徳田球一、野坂参三らは中央委員会を解体し、意見の異なる宮本顕治ら7人の中央委員を排除して非合法活動に移行し、中国に亡命して9月に「北京機関」とよばれる機関を設立 し、日本には徳田らが指名した臨時中央指導部を残している。
翌年の昭和26年(1951)2月に党分裂のまま開催された 日本共産党第4回全国協議会(四全協)で、日本の暴力革命と朝鮮戦争下端武装闘争が決定 し、その後反徳田派の首領であった宮本顕治は、スターリンの圧力に屈して派を解散し、主流派に復党したことで日本共産党は統一を回復した。
そして 10月に開かれた第5回全国協議会(五全協)では、スターリン執筆の51年綱領と武装闘争方針が採択され、以後日本共産党は「軍事方針」と呼ばれる武装闘争路線を採ることとなり「山村工作隊」や「中核自衛隊」などの非公然組織が作られた のである。
Wikipediaに、五全協で発表された、『 われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない 』という文章の一部が紹介されている。
軍事組織の最も初歩的なまた基本的なもの、現在では中核自衛隊である。中核自衛隊は、工場や農村で国民が武器をとって自らを守り、敵を攻撃する一切の準備と行動を組織する戦闘的分子の軍事組織であり、日本における民兵である 。」 中核自衛隊
それから後日本共産党は、わが国の各地で列車を爆破したり、交番を焼き討ちしたり、警察官へのテロ行為を実行に移したのだが、このような共産主義国や共産主義者にとって都合の悪い歴史は、今の日本人にはほとんど知らされていないと言って良い。
次のURLに日本共産党がこの時期にどのような活動をしていたかを伝える朝日新聞と日本経済新聞の9本の記事の紙面画像が紹介されているのだが、 新聞の日付が明記されていないのが残念だ。いずれも1950年代前半の記事だと印されているが、これらの記事は日本共産党によるテロ事件のごく一部にすぎ ない。 日本共産党の過去の軍事闘争伝える朝日、日経新聞
次の『武闘の系譜』というサイトに日本共産党に関わる事件が約50件ほど記載されているが、これだけ多くの事件を起こしたことから、日本共産党は短期間で国民の支持を失うこととなる。 武闘の系譜
上記サイトで記されている事件に一通り目を通すと、在日朝鮮人が日本共産党と同様なテロ事件を多数起こしていることがわかる。その関連をいろいろ調べていくと、 在日朝鮮人が日本共産党と連携していた ことが見えてくる。
上記画像は昭和27年(1952)3月30日の読売新聞の記事だが、ここには怖ろしいことが書かれている。文中の「日共」は「日本共産党」、「祖防」は「祖国防衛隊」(在日朝鮮人団体)の略語である。
「… 北鮮政府主席金日成が、『在日朝鮮人は今後日共指揮下に行動すべし』との密令を出し …、その後共同闘争の建前をとったことは各地の日共関係暴力事件に朝鮮人が加わっていることからも明らかであり、『 われわれが入らねば日本革命の武装蜂起は日共党員、労働者のみでは成功しない』と自負している という。
 1月23日名古屋で行われた中部日本祖防隊長会議では『防衛隊は日共の新綱領を大衆に浸透させ、 日共のスローガンの下に行動し、在日朝鮮人60万は日本民主革命の先鋒たれ 』と決議、また昨年11月の長野における祖防委員会の席上では『 金日成は在日朝鮮人を敵陣地に降下させた落下傘部隊であると激励した 』と述べられたといわれる。
…人員は20代の青年約3万人からなっており、行動隊としてのテロの最先端分子、日共の中核自衛隊と同じように『祖防隊』などをもっているがこの『祖防隊』は中央総本隊、地方県本隊、支部支隊、分隊、班に分かれ、 日共の五全協の軍事方針に従い共闘を行なっている 。…」 祖国防衛隊
ジャーナリストの林 玲氏が「『日本共産党史』から消された『朝鮮総連』結成秘話」という興味深い論文を書いておられる。次のURLに引用されているが、重要な部分を紹介しよう。 「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話
戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた 。」
このように日本共産党には戦前から多数の朝鮮人が加わっていて、 終戦後に党が再建される際には、必要な資金の大半を当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供 し、昭和21年2月に開かれた第5回党大会当時の 党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だった という。
昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、その翌年に在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成されているのだが、この民戦は共産党の民俗対策部の指導下にあり、 在日朝鮮人は1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立たされる こととなる。
ではなぜ、在日朝鮮人は日本共産党の武装闘争に積極的に加わったのだろうか。
その点については林 玲氏は
「実は、 4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、<日本のなかの少数民族>と規定した のである。
  この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである 。」
と書いているのだが、この解説はわかりにくい。
わが国の政府では昭和22年(1947)5月の外国人登録令で在日朝鮮人は外国人と見做されるようになり、昭和27年(1952)4月に発効するサンフランシスコ講和条約と併せて外国人登録法が施行され、在日朝鮮人は日本国籍を有しないこととされた。
【保導連盟事件:韓国軍と警察による処刑を待つ政治犯】
外国人と見做されれば朝鮮半島に送還されることになるのだが、この半島は1950年6月以降、韓国と北朝鮮の間で主権を巡る戦場となっており、しかも 韓国の李承晩は反共主義者で、1950年6月に南朝鮮労働党関係者の処刑を命じ、韓国軍や韓国警察によって共産主義者の嫌疑をかけられた20万人から120万人に及ぶ民間人が裁判なしで虐殺されている 。( 保導連盟事件 )
また、その2年前の 1948年4月には、南北統一国家樹立を訴えるデモを行っていた済州島の島民に警察が発砲し島民6人が殺害されたことに反発して、南鮮労働党が島民 を中心とした武装蜂起を起こしたことから韓国本土から陸軍が派遣されることとなり、島の人口の2割にあたる6万人の住民が虐殺される事件も起きている 。( 済州島4.3事件 )
このような半島の情勢から多くの朝鮮人がわが国に密航してきたのだが、敗戦国であるわが国は武装が出来ず、一方朝鮮半島からの密航者は武装していたことから、密航船の検挙率は2割程度にすぎず、また韓国政府はわが国が摘発した朝鮮人密入国者の受け入れを拒否したという。
共産主義を奉じる在日朝鮮人の多くは、わが国で「外国人」とされて戦場の朝鮮半島に帰されるよりも、「日本の中の少数民族」とされて日本に残りながら、祖国の共産主義革命を支援しようと考えた。
彼等は日本共産党とともに、日本各地で韓国向けの輸送の妨害などを起こして北朝鮮が朝鮮半島で勝利することを導き、さらに日本の共産主義革命に協力し勝利に導けば、わが国で権力の一端を担うことも可能だと考えたのではないか。
【血のメーデー事件】
ではこの時期にどんなテロ事件が起きたのか。再び林氏の論文を引用する。
共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた
1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“ 血のメーデー事件 ”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、 メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙 した。
この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。 広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる
その年、大阪で起きた 吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった
こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。
一方、 日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった 。」.
このように日本共産党は在日朝鮮人とともに武装蜂起し、「火炎瓶闘争」と呼ばれる暴力革命闘争を実施し多数の警察官が死傷したのだが、1952年 に破壊活動防止法が施行されて、非合法闘争に対する当局の対策・取締まりが強化され、1953年に朝鮮戦争が停戦となり、日本共産党の徳田球一書記長も北 京で病死して、非合法活動は次第に下火となっていく。
その後 1955年1月1日に日本共産党は、ようやく機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」ことを表明する。それに伴い在日朝鮮人は路線を転換 することとなる。
林氏はこう記している。
「1 955年5月25日 、…民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱 した。
  同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定 することで、これを追認した。
  戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない
このように「朝鮮総連」は、もともとは日本共産党に所属していた在日朝鮮人が結成した団体なのだが、戦前から続いている日本共産党と在日朝鮮人と の深い関係が「朝鮮総連」が出来て消滅したのではなく、両者が「反日」で共闘している今は、その関係がむしろ強まっていると感じるのは私だけではないだろ う。
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