目次
朝日報道の問題点
「(新聞人の責任とは)できるだけ均衡の取れた形で、その日その日の紙面に表現し、真実を伝達することである」「その均衡感覚の著しくちがった方面から見れば、あるいは偏向という批判をあびせたくなるのかもしれぬ。だが、その批判者には借問したい。なぜ、自分と違った他人の均衡の感覚が偏向であり、自分の感覚は偏向でないか、と。かりに、他人の持っている思想や考え方が、世間の多数から外れているとしても、それが偏向であるか否かは、永い歴史の審判する所である」
この文章は、1968年10月15日「新聞人の責任」という題で掲載された朝日新聞の社説である。戦後の朝日報道の問題点を考えるとき、真っ先に思い浮かぶのがこの文章だ。現在結論ははっきり出ている。朝日報道の主流は「長い歴史の審判」によって、偏向に他ならない。しかも朝日は、過ちを認め責任を引き受けることもなく口を拭ってきた。現在話題になっている慰安婦報道は、実はその一部にすぎない。
〖ソ連報道〗「平和共存」の美名のもと共産党独裁の代弁者に
ソ連・東欧の共産主義独裁体制が崩壊して既に20年以上が経過した。そこで崩れ去ったのは、言論の自由、平和、民主主義、人権――といった価値観を否定する独裁・全体主義体制だった。朝日新聞は戦後、こうした価値観の擁護を高く掲げてきた。であるならば、朝日にとってソ連共産党独裁体制は「敵」であり、肯定的に報じられるはずがなかったはずだ。ところが朝日は、こうした独裁体制を一貫して擁護していたのである。
確かに欧米を含め多くの左派・リベラル派知識人が、ソ連幻想に捕らわれた時代もあった。しかし、1953年のスターリン批判、56年のハンガリー動乱、68年のチェコ進駐、そして何よりもソルジェニーツィンの「収容所群島」の発行、サハロフ博士の民主化運動への弾圧などで、ソ連が自由と民主主義の敵であることは次第に明らかになっていた。そして、1979年12月24日のアフガニスタン侵略によって、その侵略性と軍事的覇権主義は明確になった。
1978年、アフガニスタンでは人民民主党による親ソ政権が成立したが、この政権はイスラム教や反ソ武装抵抗勢力により崩壊の直前まで追いつめられた。ソ連は親ソ政権を維持するために軍事介入し、当時のアミン大統領は処刑され、バブラク・カルマル政権が樹立された。この事件を朝日新聞は、12月29日社説「アフガン・クーデターとソ連」で次のように報じた。
「このカルマル政権は、ソ連の強力な支持の下に、誕生した可能性が強い」が「ソ連部隊が今度のクーデターにどの程度関与したのか、カルマル新政権がソ連のかいらい政権かどうかは、即断はできない。」「ソ連が真に『覇権主義』に反対ならば、必要最小限の援助要員以外、直ちに部隊を撤収し、アフガニスタンの運命は民族自決に任せる原則を貫徹してほしい」
ソ連がチェコ侵略以後、東側社会主義陣営を維持するために「各国の主権は制限されても構わない」というブレジネフ・ドクトリンを掲げていたことは当時すでに国際社会では常識だった。「ソ連が真に『覇権主義』に反対ならば」などとソ連を「平和勢力」としてかばい立てするその姿勢は、尾崎秀実以来の親ソの伝統ゆえか。
なお、アフガン侵攻に抗議して日本を含む世界各国がモスクワ・オリンピックをボイコットしたが、朝日新聞は断固としてオリンピック参加を唱え続けた。
このアフガニスタン侵略は、ソ連の正体を白日のもとに曝し、日本でも「ソ連脅威論」も生まれたのだが、朝日はなんと1980年11月28日から14回にわたって「ソ連は脅威か」というソ連徹底擁護の連載を掲載した。簡略すると、ソ連脅威論は根拠がなく、日本の軍事増強を企む防衛庁や一部勢力がソ連脅威論を煽っているだけであり、ソ連の軍事力は日本侵攻を果たす能力も意志もない――とする内容で、「ひたすらソ連を非人間的な悪ものに描き、恐怖をあおりたてるような論じ方は、世論や政策対応を誤らせる方向に導かないだろうか」(連載最終回)と結んでいる。
中国や北朝鮮の体制を批判する論者に朝日がしばしば投げかける言葉とそっくりである。このように中立を装いつつ独裁政権の悪を矮小化しようとする姿勢こそ、自由な社会を守る気概も、独裁体制下で呻吟する民衆への同情も共感もない西側の自称リベラル・平和主義言論の道徳的退廃なのだ。
さらに朝日は、1982年2月に社を挙げた訪ソ団を送り、チーホノフ首相との単独会見に成功するが、その時のインタビューと解説「ソ連首相と会見を終えて」(秦正流記者)は、今読めばまさに犯罪的なものである。
1980年からポーランドでは労働組合「連帯」による民主化運動が高まっていたが、81年12月、ヤルゼルスキ政権は戒厳令を敷きワレサをはじめとする「連帯」指導者を逮捕し、軍政を敷いていた。
朝日のインタビューで、チーホノフ首相は、欧米の「連帯」への支持を「主権国家であるポーランド人民共和国に粗暴な圧力を加えること」と非難し、「戒厳令は無政府状態、混乱、そして内戦からポーランドの社会を救った」と平然とうそぶいている。
ヤルゼルスキ政権の強硬策の背後にソ連の圧力があることは明らかだったが、朝日はチーホノフ首相の発言に何ら異を唱えていない。それどころか、「ソ連が今何にもまして緊急かつ重大な課題としているのは、緊張緩和(デタント)の復活である。つまり、軍拡競争を打ち止め(中略)軍縮への軌道修正を図ること」だと、まるで平和の使徒のようにソ連を見なし、「ソ連は革命以来65年(中略)今日のような巨大な工業力を作り上げ、それなりに国民生活をも向上させてきた大国だけあって、困難に耐える強さと自信を他のどの国よりももっている」と讃えたのである。
ところが、この後わずか9年でソ連が崩壊するや、朝日のソ連評価は180度転換する。1991年8月25日の社説はこう論じている。「『自由な共和国による揺るぎない連邦』スターリンの時代以来、ソ連の指導者は自国をこう讃えてきた。それは建前に過ぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGBなどの『鉄の腕』に締めあげられてきた。中央権力は民族の文化、言語を軽んじ、時にその抹殺さえはかった。抵抗する人たちは迫害した」
また翌26日社説「ソ連共産党の崩壊と新世界」では「74年にわたってソ連に君臨し、マルクス・レーニン主義の論理と価値観をもって世界に『挑戦』しつづけてきたソ連共産党がついに崩壊した」「1956年のハンガリー動乱、あるいは68年の『プラハの春』のとき、ペレストロイカの開始でやっと公に論じられた問題点の多くが、すでに指摘されていたのである」と述べている。
ではチェコやハンガリー同様、いや、直接的にはソ連崩壊や東欧民主化の先駆けとなったポーランドの「連帯」を誹謗するソ連首相談話を恭しく紹介し、しかもソ連体制は強く安泰だと予言した82年当時の報道は何だったのか。この点について、朝日はこれまでなんら反省していない。
ついでに朝日に提言しておきたい。現在、「民族の文化、言語を軽んじ、時にその抹殺さえはか」り、「抵抗する人たちは迫害」しているのは中国である。このような体制は必ず斃れることを、歴史の教訓として堂々と表明すべきだろう。
〖中国報道〗文革礼賛から四人組批判に「転向」
文化大革命とは、劉少奇ら経済改革派の台頭に脅威を感じた毛沢東が、青年たちを扇動し紅衛兵運動を全国的に展開、改革派を攻撃させて毛沢東派が権力を握るが、同時に紅衛兵の暴力的な行動で全土に大混乱が生じ、伝統文化の破壊、少数民族の虐殺、知識人への迫害などが相次ぐ。そして国家秩序を維持するために人民解放軍が出動し、数百万を超える犠牲者を出した内戦に近い混乱と悲劇の時代だった。
朝日新聞1966年5月2日社説は、この文化大革命を、中国で新たな特権階層が中農や知識層の中に現れてきたことへの第二革命と評価し「そこには、いわば『道徳国家』とも言うべきものを目指すと共に、中ソ論争の課題に答えようとする『世紀に挑む実験』といった意欲も感じられなくはないのである」と述べていた。これはソ連を資本主義国と妥協する修正主義国家とみなしていた中国政府の立場を反映し、しかも文革を実態とかけ離れた「道徳国家」とみなす礼賛記事に他ならない。だが、この時期の朝日には、冷静な分析も載っていた。1966年8月31日社説「中国の文化大革命への疑問」では、街頭で壁新聞を貼り、父親の世代を糾弾し、宗教施設や古い美術品などを惜しげもなく破壊しつつ毛主席万歳を叫ぶ紅衛兵を批判的に論じている。
「中国の模範的青年の目に、古いものとして映るものは皆打破してよろしい、という許可が下されたのだ。ここに、紅衛兵運動の本質がある」「(彼らは)毛沢東思想という共産主義思想で教育され(中略)それのみを信じる若者である」「群集心理は行き過ぎを生む。それは青少年の場合、とくにはげしい」「権力を持つ者の許可のもとに行われる革命――急激な改造――は、国家権力による強制の偽装にすぎぬのではないか」
この時点の紅衛兵批判として正確なものである。そして前半部では、この文革が中国共産党の「年老いた幹部」が青年を扇動して自分たちの政治目的を実現しようとしている面もあると明言していた。この社説子の分析が持続していれば、朝日はおそらく文革についてもっと適切な報道を行っただろう。しかし、このような冷静な視点はすぐに消え失せ、文革報道は当時の紅衛兵の壁新聞の内容を紹介するばかりになっていく。
実は過激な紅衛兵運動は、毛沢東自身にとっても邪魔者だった。67年初頭から、毛沢東は文革の行き過ぎを抑え、軍代表・革命幹部・革命大衆の〈三結合〉による〈革命委員会〉の全国結成という、党、軍が紅衛兵を管理する体制に方針転換する。その象徴が「解放軍に学べ」というスローガンだった。朝日新聞は早速このお先棒を担がされた。1967年4月20日に掲載されたのが「人民解放軍を見る」という、朝日記者を「たっぷり七時間半の体験入隊」させた上での記事であった。
この記事は、まず解放軍兵士が、抗日戦争や朝鮮戦争でも大活躍した話が紹介され、さらに「特に林彪同志の呼びかけで」共産党内の誤った思想を糾してきたこと、毛沢東思想の学習ぶりや「階級の無い解放軍では、兵士も幹部も区別なく、食事も一緒」であり、兵士は農作業に従事しつつ「自己改造」に努めている、この軍隊は「林彪国防相の『人民戦争の勝利万歳』の論文そのままの」姿だと絶賛されて記事は終わる。この礼賛記事の影で、紅衛兵は地方に追放され、しばしば解放軍と激突して双方に多くの死者を出していく。
そして、1969年3月に全面戦争一歩手前まで行った中ソ紛争の勃発は、毛沢東にソ連への対抗策としてアメリカや西側諸国への接近を決意させた。そして、朝日新聞は再びそれに従うかのように、日中国交回復を求める論調に向かう。1970年4月22日の1面に掲載された当時の広岡知男社長の署名記事「中国訪問を終えて」はその姿勢を明確に示したものだ。
ここで広岡は、中国の生活水準は、日本よりは低いが安定しており、高級官僚と労働者の間にも経済格差はほとんどなく「都市と農村、頭脳労働者と肉体労働者、農業と工業面の格差をなくすための運動が」広範囲で徹底的に行われていると文革を高く評価した。
当時中国は、日本は軍国主義が復活し、台湾、韓国、インドシナに侵略の意図を持っているという妄想的な主張をしていたが(現在、集団的自衛権成立後はまた同じことを言い始めた)これに対して広岡は「日本はそういう危険はあっても、まだ現実のものではない」と同意とも反論ともつかない反応をし、中国側の懸念の原因は「日本はまだ戦争の被害を受けた中国の人々への陳謝の形さえも取っていない」「日本と中国の間には、理論的にはまだ戦争終結の処理さえできていない」からだと、戦後処理及び緊張緩和の必要性のみを説いた。未だその犠牲者数は定かでない「文化大革命虐殺」の実情を見ようともせずに、朝日はこの後、本多勝一記者の「南京への道」を先頭に謝罪報道路線を歩み始める。しかし、文革の犠牲を軽視し、中国政府の発表を盲信したうえでの報道は、歴史の真実をゆがめるばかりだった。
こうして常に中国政府にすり寄ってきた朝日新聞は、文革時、他の報道機関が相次いで追放される中、ただ一社北京に支局を置き続けた。広岡社長は「報道の自由がなくても(中略)日本から記者を送るということに意味がある」と強弁した。1971年9月13日、林彪のクーデター未遂と亡命途中の墜落という「林彪事件」が起きると、複数のメデイアが林彪失脚の可能性を報じたにもかかわらず、72年に当の新華社通信が報じるまで朝日新聞は報じず、林彪健在を示唆するような報道さえした。中国政府自身が発表しなければ報じる必要はないし、中国政府が許さない報道は朝日も認めないという姿勢だった。
そして1972年の日中国交回復以後、76年に周恩来、毛沢東が相次いで死去、華国鋒政権になるや、文革派の生き残りだった「四人組」江青、張春橋、姚文元、王洪文は逮捕され、1980年11月に裁判にかけられた。朝日は早速11月17日解説記事「文革への幻想を否定」を載せ「文化大革命当時の武力闘争(武闘)のすさまじさは『内戦状態』だったと言われてきたが、起訴状で(中略)内モンゴル人民党事件では、三十四万六千人が迫害を受け、一万六千人を超える死者が出たとされているが、これなどは、まさしく内戦そのものといえる」「解放軍内部でも8万人が文革派から迫害を受け、千人を超える死亡者」が出ており、「文革が『赤裸々な権力闘争そのものであった』ことを証明」されたと報じた。
正直、この朝日の節操のない卑劣な報道姿勢に比べたら、裁判で完全黙秘を貫いた張春橋や、文革は正しいと叫び続けた江青の方が、自らの信念を曲げなかった点では立派だとすら思える。平然と4人組や文革を否定する記事を書いた記者の脳裏には、この裁判の10年前の、それも自社社長の一面記事の文革評価を思い出し、少しでも反省の念がわくことはなかったのか。朝日新聞は常に中国の権力者の側に立ち続けたと私が思う所以である。
しかし、ここまで忠節を尽くしたのだが、中国政府は当初の「日本軍国主義の復活」をあっさりとりさげ、日本は日米同盟を強化すべきだと平然と語るようになる。これも中国政府の対ソ戦略だった。その時期から、先述した朝日新聞のソ連擁護論が活発化するのだが、朝日新聞内部にて、中国派とソ連派の「権力闘争」がこの時期あったのかどうか、ぜひとも当時を知る方々の「歴史の検証」をお願いしたい。
〖北朝鮮報道〗拉致事件発覚後も世襲独裁政権を弁護
1959年12月に始まった北朝鮮帰国事業では、朝鮮総連の主導のもと、約9万3千人の在日朝鮮人及び日本人配偶者が北朝鮮に渡って行った。これには総連が北朝鮮を「地上の楽園」として宣伝した影響が大きいが、同時に朝日新聞から産経新聞まで、メデイアがこぞって帰国事業を支持したことも作用している。この点ではメデイアの責任は平等に存在する。ただし、その後、朝日新聞が韓国の朴正煕政権を軍国主義ファッショ政権と批判し、北朝鮮のテロや人権弾圧に目もくれなかったのは異常だった。
1968年、北朝鮮は武装ゲリラを朴正煕暗殺の為に韓国に送り込むというまさに国家テロを実行した。しかし、1971年9月27日、後藤基夫編集局長(当時)が北朝鮮を訪問し金日成と会見した時、この点についていっさい質問せず、「平和的統一を一番妨害しているのは南朝鮮の政治だ」「我々は『南侵』の方針をもってもいないし、したこともない」との金日成の言葉をそのまま記している。しかし、さすがの朝日も1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時の一面の見出しは「北鮮、韓国に宣戦布告」だったのだから、少しは疑問を呈してもよかったはずだ。この会見記の見出しは「ざっくばらんな対話」だが、正直相手の言うことをただただ黙って受け入れているだけである。一方、北朝鮮の侵略に対峙した朴正煕政権の立場を同じように無批判に紹介したことは一度もなかった。
さらに朝日は1980年9月に再び訪朝団を送り、全く同様の金日成の一方的な発言を掲載、さらに10月9日には猪狩章外報部次長の「生まじめな国づくり 北朝鮮の社会主義」で、北朝鮮の社会主義経済は成功している、「機械、技術の分野でも、自力優先だ。現在、トラックやトラクターの国産化に成功」しており「労働者は一週のうち六日間、毎日、労働八時間、学習八時間、休憩八時間で過ごしており、学習の時間に『われわれががんばるのは国のためだ』ということを学ぶ」とまで報じた。しかし、睡眠時間以外はすべて労働と学習というこの仕組みは、労働者の権利もへったくれもない洗脳教育と強制労働ではないか。「国のために働くべきだ」などと日本の政治家や言論人が口にしようものなら、国家主義だの保守反動だのと痛烈に批判するであろうに、北朝鮮の労働者が使えば平然と称揚する無神経さ。これこそ「人権無視」かつ中立性を失った偏向報道である。
そして1981年9月22日に掲載された「チュチェの国の後継者 金正日氏の素顔」では、共産主義体制で指導者が世襲されることにも何の疑いもみせず、最適任者がたまたま金正日だったという北朝鮮の公式発表を載せている。金正日の「素顔」とやらも「不屈の意志」「積極果敢な行動力」「速度戦、思想戦といった新しい指導方式や、『生活も抗日遊撃戦方式で』といったスローガンつくりに卓越したアイデアを見せている」「映画『花売る乙女』歌劇『血の海』などの制作責任者でもあり、大衆に親しまれる娯楽文化面の活躍が、彼と国民の間の距離を縮めることに大きく役立っている」とプロパガンダ一色である。北朝労働党か朝鮮総連の機関紙顔負けだ。こうしてデビューした金正日が「不屈の意志」で行ったのが、日本人拉致を含む国際テロ活動だったのだ。
1983年10月9日にビルマ(ミャンマー)のラングーン爆破事件が、87年11月29日には大韓航空機爆破事件が起きる。88年1月、韓国政府は実行犯金賢姫の供述をもとに、大韓航空機爆破は北朝鮮のテロであったことを発表した。実行犯本人自身が記者会見にて赤裸々にテロを認めたこともあり、朝日新聞も1月16日社説「航空テロの裏にひそむもの」で「彼女の発言は信頼性がかなり高い」「事実とすれば(北朝鮮の行為は)国際社会の常識を拒絶する排他的で極度に独善的な発想」「憎んでも憎みあるテロ」であり、ラングーン事件もその後のビルマ警察の捜査で北朝鮮工作員の犯行であることが分かった、と述べた。ここまではよい。しかしなぜか、結論部では「こうした事件の背景には、米ソ冷戦が生んだ朝鮮半島の分断と対立の歴史」があり「南北対立は、双方の利益に反し、アジアと世界の平和を損なう」「対立を深めないための努力は、まず南北両当事者に求められる」と雲行きが怪しくなる。こういう一般論で問題が解決するはずがないことを明らかにしたのがこれらの事件ではなかったか。この時点で(いや、現在でも)北朝鮮は、事件を韓国のでっち上げだと宣伝していた。テロ犯罪国と被害国において、まず最低限必要なのは犯罪国の謝罪だろう。それなくして、対立を深めないために双方が努力すべきだという綺麗ごとは、結果としては国家テロを相対化することに他ならない。
さらに社説は最終部で、金賢姫の偽造旅券が日本国籍だったことに触れ、これは主権国としてゆるがせにできない、我が国の捜査当局は解明に努力してほしいと結んだ。ところが、金賢姫自身の証言から李恩恵こと日本人拉致被害者田口八重子さんの件が明らかにされた後の1992年3月に訪朝した松下宗之編集局長らは、全くこの件について問い糾そうとしなかった。4月2日松下編集局長記事「北朝鮮・金日成主席と会見して」では「(15日の金日成誕生日には)世界の各国から、祝賀の代表がやってくる。北朝鮮をめぐる国際的関心が高まっていることを物語る」という言葉で始まり、金日成の政策を「原則は堅持しながら現実には柔軟に対応しようとの姿勢」とこの期に及んでも一定の評価を与えている。しかも、その評価の材料があまりにもひどい。「反共的立場の文鮮明氏を招いたり、キリスト教関係者を呼」んだりしていることを挙げ、「あってみたらそうした筋からの北朝鮮非難の動きが止まったという」。まともな宗教者が聞いたら怒るだろう。金日成一族を神と仰ぎ他宗教を迫害する北朝鮮に招かれ、多少の歓待を受けたくらいで「北朝鮮非難を止める」宗教者は確実に偽物である。朝日が統一教会の文鮮明と金日成の握手を好意的に報じたこの記事は、歴史的資料として残るかもしれない。
この後、元工作員安明進の証言により横田めぐみさんを含む日本人拉致事件が明らかになったが、朝日新聞は拉致を批判しつつも、対話と国交回復の重要性を説き続けた。朝日新聞1999年8月31日社説「『テポドン』一年の教訓」では、テポドン発射に象徴される北朝鮮の恫喝・瀬戸際外交を批判しつつも「日朝の国交正常化交渉には、日本人拉致疑惑をはじめ、障害がいくつもある。しかし、植民地支配の清算をすませる意味でも(中略)正常化交渉を急ぎ、緊張緩和に寄与することは、日本の国際的な責務」と結んだ。この「障害」という言葉は、被害者家族や支援団体「救う会」から激しい抗議を受けたが、問題なのは拉致被害者をまるで障害物にたとえた非道さだけではない。批判されるべきは拉致問題が解決できなくても国交正常化を優先すべきだという、被害者の人権も国家主権も無視した姿勢、自国民救出は国家の責務としては二次的なものだと考える倒錯した論理なのだ。
だからこそ朝日新聞は、小泉純一郎首相の第一次訪朝翌日の2002年9月18日社説「悲しい拉致の結末、変化促す正常化交渉を」においても、「国家が隣国の国民をゆえなく誘拐する行為は、テロ行為に等しく、とても許すことが出来ない」が、「(拉致問題を)理由に対北朝鮮制裁などで、正常化交渉の窓口を閉ざすべきではない。(中略)交渉に入るという首相の判断を、植民地支配に対する謝罪表明とともに支持する」と述べた。
百歩譲って、非道なテロ国家に対して妥協が必要な時はあるとしよう。しかし、言論機関が、北朝鮮のような独裁体制との国交を主張するというのは、それこそ自由や人権を重んじる(らしい)朝日新聞の立場からも逸脱だ。中国、ソ連に対する偏向報道は、形を変えて、北朝鮮独裁体制弁護の報道として継続したのだ。
〖PKO〗非現実的平和論でポル・ポト派を利する
朝日新聞は戦後全面講和を唱え、単独講和、日米安保条約に反対のスタンスをとった。しかしその安保反対と平和主義は「中立」の立場からのものではなく、現実には日本を防衛し民主主義の価値観を共有していたはずのアメリカには厳しく、中国、北朝鮮、ソ連等の側を擁護する偏向したものだったことは、これまで見てきた通りである。
そして、ベルリンの壁が崩壊し冷戦の終結を迎えると、朝日は憲法9条の理想が実現する世界平和の時代が来たと再び現実無視の夢想を唱えた。しかし、冷戦の終結は、逆に大国の重しを失った各地域における、むき出しの領土欲の表出、各民族紛争や宗教紛争が露呈する「熱戦」の始まりであった。そして、国際秩序の安定に日本も軍事面を含めて積極的に貢献せねばならないことを明らかにしたのがイラクのクウエート侵略と湾岸戦争だった。
しかし、この時も朝日新聞は自衛隊による国際貢献、特にカンボジアPKOに対し、「自衛隊の海外派兵は許されない」として断固反対の立場をとった。憲法9条擁護の立場をとるのはよい。しかし、9条擁護のために現実に目をふさぎ、国際貢献活動の必要性をゆがめて報じ、しかもその責任を取らないとなれば偏向報道である。
湾岸戦争以後、自民、民社、公明3党はPKO法案の成立をめざし、社会、共産、社民連は断固反対。しかし、国会の論戦を闘わせるのは当然だが、社会党他反対派が行ったのは徹底した「議事進行妨害」だった。1992年6月5日に参議院本会議に提出されたPKO協力法に対し、社会党らは徹底した牛歩戦術をとり、また問責決議案を連発、9日未明まで決議をずれ込ませた。抵抗戦術としてもやりすぎであり、国会議員がのろのろと歩み投票箱の前で足踏みをするような滑稽な姿勢は国際的に恥をさらしたのだが、朝日新聞は6月6日社説「PKO問題は終わっていない」にて「一国の針路を決めるような重要案件が混乱のうちに処理され、多数の国民に不信感を与える。やりきれない」と慨嘆した上で「冷戦が終わった現在、新しい時代にふさわしい柔軟な発想に基づく論議の土俵を設定する好機である。イデオロギー偏重の外交・防衛論議から抜け出すことが望ましい」と述べる。しかし、自衛隊を海外に派遣することはすべて悪だという硬直化した視点こそが「イデオロギー偏重」でなくてなんなのか。冷戦終結後の国際秩序において、自衛隊を如何に有効に活用するかという思考こそ、ただ自国を防衛すればいいという旧来の発想を乗り越えた「柔軟」で「新しい」ものではないか。
しかも、この時期はポル・ポト政権の虐殺と内戦によって疲弊しきったカンボジアに、やっと平和への希望が訪れていた。パリ和平協定に基づき、国連でUNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)が制定され、93年に民主的な選挙が予定されたが、実現のためには国際的な平和維持活動、つまりPKOが必要だった。しかし、民主化のために不可欠な活動にも朝日は反対の姿勢を示した。1993年5月3日社説「憲法論争に何が欠けているか」はまさにその典型である。
「第二次大戦を通じ『日本人は好戦的で侵略的』というイメージが広く流布された。確かに私たちは、秀吉時代の朝鮮侵略や、ほぼ十年ごとに戦争を繰り返してきた明治以降の数十年のように、『征』の歴史を持っている」。戦後の東京裁判史観を超えて、この社説はなんと豊臣秀吉まで遡る。明治以降戦争を繰り返してきたのは我が国だけではないし、アジアを征服し植民地化していたのは欧米である。また戦後の中国のチベットなどへの侵略はどうなったのか。「自衛隊の海外派兵に道を開くというのでは、表向き世界平和を説きつつ、わが国を『征』の国へと方向転換させたいだけではないか、と疑わざるをえない」「『軍事貢献に道を開く』ような改憲は、多数の国民の支持を得られないばかりか、外国からも決して賛同されまい。アジア諸国には、元々日本が軍事的な力を持つことへの警戒心が極めて強い」。 世界でPKOやPKFに参加している国家は沢山あるが、そのすべてが侵略国家であり外交的に孤立しているのだろうか。
そして同年4月8日に国連ボランテイアの中田厚仁氏が、5月4日に文民警察官二人が銃撃を受けて死亡する事件が起きると、早速5月5日社説「カンボジアの現状を直視せよ」にて「文民警察官は、PKO協力法に基づいて日本政府が派遣した人たちである。それが、活動中に攻撃を受けた(中略)政府の責任は重い」「停戦合意が大きく崩れつつある」と述べ、PKO協力法にいちゃもんをつけた。その後も朝日社説はポル・ポト派の選挙妨害の可能性を強調し、選挙直前の社説では「和平協定に盛られた理想が一つ又一つと裏切られ」「総選挙開始にあたっても未来への明るい展望を持ちえない」とまで書いた。
しかし、ポル・ポト派の選挙妨害は実際にはほとんどなく、投票は予定通り5月23日から28日にかけて無事行われた。中田厚仁氏の赴任していた地区では99%近い投票率を数え、投票箱には彼を悼む手紙も投じられた。カンボジア総選挙の失敗を予告するような社説や、PKOも文民警察官も撤退すべきだといった報道は、選挙に希望をつないでいたカンボジア民衆の思いとはかけ離れたものだった。
それでも朝日には何の反省もなかった。1993年5月28日社説「カンボジア再生の出発点に」では「カンボジアの制憲議会選挙の投票率は、九〇%に届きそうだ」「選挙に寄せたこの国の人たちの熱い期待を、ひしひしと感じ」ると、まるでこれまでの報道を無視したかのように選挙を評価し「平和と安定を希求する国民の期待を無にするようなことは、いずれの勢力もやってはならない」と述べた。しかしもし本当にそう思っているのなら、尊い犠牲を払うことを覚悟で、PKOや文民警察官の派遣を説くべきであったし、また彼らの活動の意義を正当に評価すべきなのに、あくまでPKOに疑問を呈する。「ポト派の武力という危険を前に、国連平和維持活動(PKO)協力法の枠を超えて、自衛隊による事実上の『巡回』や警護に踏み出した。(中略)法のなし崩し拡大を既成事実化することになる」。これは考えが逆である。当時の法案では充分に平和維持に貢献することは難しく、法改正が必要であることが確認されたのだ。事実、PKO法はその方向で改正されていく。
この後、自衛隊はゴラン高原、ボスニア、東チモールなどでPKOの任務に就く。しかし、国民に大きな反対運動が起きたという話も、アジア民衆が怒りの声を挙げたという話も聞かない。一定の軍事力なくしては平和が維持できない地域が存在するという世界の現実から目を背ける朝日新聞の姿勢は、結果として暴力をもって民主的な秩序や国際社会を脅かす勢力を利することになるのだ。
終わりに
本稿では朝日新聞の「偏向報道」において、現在では忘れられがちな時代の論考を中心に再考してきた。この他にも、伊藤律との架空会見報道、南京「大虐殺」に関する報道、教科書検定で「侵略」が「進出」に書き換えられたという誤報、サンゴ礁における自作自演の落書きなど、朝日には歴史的な誤報や偏向報道、虚報が数多くある。しかし、こうして朝日の戦後報道を振り返って感じるのは、第二次世界大戦は民主主義とファシズムの戦いであり、悪しき日本をふくむ後者が敗れ、正義の前者の勝利に終わったという歴史観を土台にしたものの見方や思想である。この歴史観が事実と異なり、日本国民として認めがたい本質的な錯誤と「反日偏向」が根付いていることは言うまでもない。
第二次世界大戦の最終局面では、ソ連が日本との中立条約に違反して参戦し、満州や朝鮮半島にいた日本人らに残酷な悲劇をもたらした。さらには60万人ともいわれる日本人をシベリアに抑留し、多数の死者を出した。まさに「強制連行」である。そしてソ連の満州・朝鮮半島制圧によって、中華人民共和国と北朝鮮というスターリン体制を模した全体主義・一党独裁体制が生まれたのである。これが「正義の民主主義国家」陣営が勝利した結果であろうはずがない。慰安婦を当時の時代状況を無視して強制連行された被害者とみなし、ひたすら日本の戦争責任を問うのは、この現実から日本国民の目をそらすための詐術である。
しかし、ソ連や中国、北朝鮮がいかに民主主義や人権の重視といった価値観とは相容れない体制であっても、前述の歪んだ歴史観を抱き続ける朝日にとっては「悪い日本を倒した国、日本の侵略戦争の被害者、日本の起こした戦争によって分断された悲劇の国家」だとして免罪できるのだ。そうして朝日が擁護した結果、中国共産党政権下の中国と国交を樹立した日本は経済援助を続け、現在のモンスターのような国家の出現を助けてしまった。北朝鮮による日本人拉致事件は長く封印され、総連の活動も野放しで金王朝の延命を助けてきた。しかもソ連がなくなっても中朝の独裁体制は生き残り、現在の東アジアの安保環境を極めて不安定なものにしている。そして日本がそれに対抗して国防体制を整備しようとしても、朝日は「悪しき日本の再来を招く」として阻止に全力をあげてきたのである。
朝日新聞という戦後の有力メディアが擁護する偏向報道が行われ、それが戦後の日本世論や政治にいかに悪影響を与えたかを考えるとき、朝日新聞の「戦後責任」の重さを私達は戦後のゆがみの中心として再確認しなければならない。
今、世界はロシアとウクライナの対立のように、露骨な力の論理が首をもたげてきている。中東の混迷、原理主義の勃興、民族主義や宗教対立の激化など、自由と民主主義の価値観が大きく揺さぶられ、アメリカの力の低下も伴い、東アジアでは中国の覇権主義の脅威が増していく中、戦後民主主義の限界を乗り越えて新たな「強く美しい民主主義」を確立するためにも、私達は朝日的言論を直視し否定しきらなければならないのだ。
三浦小太郎〔昭和35(1960)年、東京都生まれ。獨協学園高校卒業。「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」代表。著書に『嘘の人権 偽の平和』『収容所での覚醒 民主主義の堕落』(ともに高木書房)〕
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