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月刊誌「WiLL」9月号に、「週刊朝日」元編集長の 川村二郎 さんがこんな朝日体験を書かれていた(メディア時評「朝日新聞は『君が代』に謝罪しろ」)。「 国旗・国歌 法」ができる1999年のことだという。その頃、朝日には「日の丸」と「君が代」に反対する有名人の意見が来る日も来る日も載り、川村さんは社外の知人から「紙面の作り方がどうかしていませんか」と言われて、「グーの音も出ない」でいた。
そんな或る日、「海外の大会で、『君が代』が始まると、席を立つ観客が多い」という、Y編集委員の署名記事が載った。その記事なら私も覚えている。川村さんは「あれって、本当かよ」とY編集委員に聞いた。海外でのスポーツ大会はテレビでよく見るのに、そんなシーンは見たことがなかったからだ。時評は、こう続く。
「すると、こういう答えが返ってきた。『ウソですよ。だけど、今の社内の空気を考えたら、ああいうふうに書いておく方がいいんですよ』。あまりのことに、言葉を失った」
編集委員は、朝日の顔である。
「ショックだった」と川村さんは記す。
Y編集委員の話に比べると救われるが、私にもこんなことがあった。リクルート事件を追っていた1988年、朝日が 宮沢喜一 蔵相にも未公開株が渡っていたと特報した。
当時、私は「週刊朝日」編集部にいた(川村さんは副編集長の一人)。同僚が蔵相の緊急会見を取材し、誌面にねじこんだ。私は「それにしてもよく数えたな」と、同僚である後輩をねぎらった。会見で何を訊かれても、宮沢氏は「ノーコメント」で通し、その数13度に及んだと記事にあったからだ。
彼は頭を掻いて照れた。「ウソに決まってんじゃないすか。死刑台の段数ですよ」「エッ、13回はウソ! 実際は?」「7、8回ですかねぇ」。鳥肌が立ちそうだった。
その宮沢氏が首相となり、1992年1月に訪韓して 盧泰愚 (ノテウ)大統領との首脳会談に臨んだ。その直前、朝日は1面トップで、慰安施設に軍が関与していたことを示す資料が見つかったと伝えた。
議題にはなかった慰安婦問題が急浮上し、韓国大統領府の発表によれば、首相は大統領に「反省」と「謝罪」を8回繰り返した。謝罪の回数を公表するとは心ないことをと思ったが、ひょっとすると大統領府は日本で話題を呼んだ、「週刊朝日」製の“13回のノーコメント”を参考にしたのかもしれない。いずれにしても、「13回」では宮沢氏に申し訳ないことをした。
■私が書かなかった記事
もっとも、人のことなど言えた義理でない。ウソは書かなかったが、「世間や社内の空気」を忖度(そんたく)し、追おうともしなかった事柄が一方ならずある。
90年代半ば、元朝鮮総連活動家の知人が友人に会わせてくれようとした件もそうだった。その頃、日朝間で何か問題があると、朝鮮学校に通う女生徒の制服チマチョゴリがナイフで切られる事件が続いていた。或る時、知人が吹っ切れたように話し始めた。
「あんなことはもうやめないといけませんよ。自分の娘を使っての自作自演なんです。娘の親は総連で私の隣にいた男です。北で何かあると、その男の娘らの服が切られる。朝日にしか載らないが、書いている記者も私は知っている。ゆうべ友人に電話しました。『娘さんがかわいそうだ』と。彼は『やめる』と約束しました。会いますか?」
「いや、結構です」と即答した。掲載をめぐって衝突すれば社を辞めることになるのも見えている。動悸(どうき)は続いたが、悲しすぎる素材で、書かないことに対する自分の中での抵抗は幸い薄かった。それから20余年。その間、日朝の間には拉致という途方もない事件が明るみに出たが、朝鮮学校女生徒の制服が切られるという記事は見ずに済んでいる。
1970年代の後半、月刊誌の「文藝春秋」などで 関嘉彦 ・都立大学(現・首都大学東京)名誉教授と激しい防衛論争を闘わせ話題を呼んだ 森嶋通夫 ロンドン大学教授には、氏の本音の防衛観を訊いてみるべきだった。
国際状況の変化を説いて、防衛力の増強を唱道する関氏に対し、森嶋氏は「ソ連が攻めてきたら、白旗と赤旗を掲げて降伏したらいい」と、平和の絶対と非武装を頑として譲らなかった。森嶋氏の割切りと舌鋒(ぜっぽう)で、論争は盛り上がり、1979年の「文藝春秋読者賞」に選ばれた。
その森嶋氏が一時帰国の合間に来社し講演した。90年前後だったと思う。森嶋氏はアメリカの好戦性を力説した。必ず中国を侵略するという。「その時は、われわれも、銃を執り、中国人民とともに、闘うのです!」。それは絶叫とも言える咆哮(ほうこう)だった。
200人を超す社員が聴いていたが、私だけでなく、誰からも質問は出なかった。関・森嶋論争に固唾(かたず)を飲んだ読書人のためにも、森嶋氏に「週刊朝日」や「月刊Asahi」への寄稿を願い出るべきだったと今も悔やんでいる。
■先輩の好記事に違和感
初任地の富山で、3年生記者の先輩と五箇山に路線バスの開通を取材に行った話は、拙著(『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』)に書いた。この先輩との出会いが新聞というものを考えるきっかけになった。
今や 世界遺産 の秘境・五箇山だが、バス路線の誕生は私が富山に赴いた71年春だった。簡易舗装を終えた山道を縫い、たどりついた平村(当時。今は南砺市の一部)の村舎前広場は1号バスがいつ姿を現わすかと待つ老若男女の村人で沸き立っていた。が、先輩記者は広場でその名を聞き出した元高校教師の家にすぐ向かった。
元教師は幸い在宅で、先輩は元教師に山道の舗装やバスの開通が何百年と続いた集落の崩壊をもたらさないかと尋ねた。元教師は「まったく同じことを考えていた」と言い、自らの懸念を語った。
翌朝、富山版に載った先輩の記事は異彩を放ち、他紙の記者を悔しがらせた。低開発国援助が住民の自立を妨げているとは時に指摘されることで、先輩の記事は一理あった。ただ私には、あんなに喜んでいた村人の姿が記事には薄いことに違和感があった。文化大革命で沸き立つ中国で、“声なき声”を拾うのとは違う気がした。
その先輩が数年後退社した。拙著では組合をめぐるごたごたが原因のように書いた。拙著を読んだ先輩から私信があった。退社は別の理由と記され、医学雑誌でその理由を述べた1文が付されていた(彼は医者になった)。
そこには、在社中(朝日新聞綱領の「不偏不党」「公正中正」に制約され)常に物事のアウトサイダーでいなければならなかったことの苦悩が綴られ、生涯を捧げるに値しないとの結論に至った旨、記されていた。
彼の退社理由を初めて知り、私は40数年前に読んだ『新聞亡国論』(自由選書)のなかの1章を突然思い出した。「週刊朝日」を100万部雑誌にした 扇谷正造 さんが、或る新聞社の北陸地方の支局で起きた出来事を記すなかで、“若い記者たちが物事の第三者でいることに疑問を持ち始めている、それには理もある”といったことを確かお書きだった。探すと、〈新聞記事以前の問題〉という題で載っていた。
北陸での出来事はこんな話である。或る新聞社の北陸の支局で、1年生記者が「あした代休を取りたい」と支局長に言い、認められた。その翌日、大学構内でゲバ合戦が起きているとの通報に、支局員が駆けつけると、何と、覆面学生の先頭にいるのが代休で休んだ1年生記者だった。支局員たちは合間を見て後輩を隊列から引き出し、支局に連れ帰った。支局長が「綱領違反だ」と叱ると、新人は答えた。「ああ、あんなのナンセンス」
もしやこの新人が先輩の彼ではないかと思ったのである。思い切って電話した。「ええ、ボクです。扇谷さんの文章には誇張があるけどね」支局では、誰1人、1度としてこの件を話さなかったため、私は扇谷さんの書く「北陸地方の支局」がいま自分の居る所であることも、「1年生記者」が断然優秀な先輩の彼であることも全く知らずにいた。
■「言論の自由」の2重基準
いま思えば、朝日は、この先輩記者のような、つまり理想社会をつくるために私は書くといった感じの同僚が多数派だったように感じる。敬愛する先輩の1人、長谷川熙さんは『崩壊 朝日新聞』(ワック)の中で、大義優先のそうした考えはマルクス主義に由来すると書いている。私の見方は違う。要は富山の先輩同様、社の綱領はあっても、アウトサイダーで居たくないということなのだと思う。
以前、船橋市西図書館の司書が利用者の要望で買った100余冊の本を廃棄していたことがあった。西部邁、西尾幹二、 渡部昇一 といった、いわゆる右派の方々の本が棚から抜かれ処分されていた。産経の大きな記事で知ったのだが、読売、毎日など各紙が追いかけるなか、朝日も小さな記事を千葉版に載せた。気乗りしなかったのだろう、嫌々書いた感じの記事だった。
櫻井よしこ さんや 上坂冬子 さんの講演会が市民グループの反対で流れるというニュースも読売や産経で知ることが多い。慌てて朝日をひっくり返すと形ばかりの記事が見つかる。全国版には載っていないこともある。 上野千鶴子 さんらいわゆる左派系の人々の講演会やサイン会に横やりが入った時の、言論の自由を掲げた怒りの紙面とはまったく違う。
ただ、こうした紙面が読者には支持されてきた。文化勲章を受章した作家の 丸谷才一 さん、経済学者で京大名誉教授の 伊東光晴 さんはともに近しくさせていただいた方々だが、朝日を論じた鼎談で、丸谷さんが「自民党内閣のいろんな偏向、危険、それを何とか抑えながら今日の無事な日本を作ったのは朝日新聞の抑止力だったのではないか」と言えば、伊東さんも「その点は賛成ですね」とお受けになっている(『 丸谷才一 と16人の東京ジャーナリズム大批判』青土社)。
畢竟(ひっきょう)、「週刊朝日」で 石堂淑朗 さんの連載が始まれば、「石堂に書かせるのなら、購読を止める」との葉書が社長室経由で届き、「月刊Asahi」の作家解読鼎談で 山本七平 さんや 曽野綾子 さんが取り上げられれば「朝日らしくない」と抗議が何通も来た。
社の綱領に背くことがなければ、編集長が自由に作れる「週刊朝日」などと違い、新聞は朝日の大義といったものに信倚(しんい)するコアな読者によって支えられ、作られている面がある。
2014年8月、朝日は 吉田清治 氏に関連する慰安婦報道を取り消した。裏付けられなかったからだ。ただ、定年退職して7年になる私の元にも、「取り消しは不要。右翼に屈するな」という“激励”電話が2本あった。高校の古い同窓会名簿に私の勤務先として朝日新聞の名が出ており、それを見ての電話だったが、大企業の元幹部氏2人は「朝日が頼り」と言い、取り消しは安倍政権からの圧力と思い込んでいる様子だった。書きにくいが、 櫻井よしこ さんや西部邁氏には表現の自由など与えたくないというのが、コアな朝日読者の空気と思える。
都内の私大で「取材学」という授業を持っている。毎朝、新聞を手に取るという学生が5、6年前は数人いた。ここ2年はいない。 NHK 放送文化研究所が2月に公表した「2015年 国民生活時間調査」によると、10代の平日の新聞閲読時間は平均1分(20代30代は3分)だ。私の学生が特に新聞を読まないというわけではない。
構内の大学博物館に取材に出たりもするが、授業では、折々のニュースを素材に、ほぼ毎週、自分が記者なら、どう取材するか、書かせる。畳の上の水練だ。マスコミ志望者はゼロで、迷惑だろうが、彼らの取材構想案は面白く、勉強になる。
一昨年6月の都議会で、女性議員が妊娠や出産に悩む女性に対する支援策を都に質している時、「お前が早く結婚しろ」などのヤジが飛び、海外でも話題になった件などは、2週連続で構想案を出し合った。
8割がたの構想は新聞がその後作る記事や社説を先取りする形のものだったが、取材先の1人に 田中真紀子 議員(当時、民主党)の名を書いてきた学生がいた。
理由を訊くと、「安倍さん(現首相)が子どもを育てやすい社会を作ると言った時、田中議員が『種なしカボチャが何を言うやら……』と述べたという記事を週刊誌で読んだ記憶がある。本当にそう言ったのなら、今、その発言をどう考えるか。また、都議会のヤジについてどう思うかを聞く」と答えた。
動画サイトのユーチューブで、ヤジが飛ぶシーンを見たと話す女学生の意見もユニークだった。「ひどいヤジだと思いますが、質問は女性都議が自分で用意したのでしょうか。棒読みで、気持ちが伝わってこなかった。議員の質問がもっと真剣なものだったら、ヤジも飛ばしにくかったと思う」というのだ。なるほどと感心した。
今年の授業でも、トランプ、ヒラリーの米大統領候補に日本の学生記者として質問したり、 舛添要一 都知事(当時)に進退を問うたりしたが、取材方法も質問の筋も悪くなかった。
ヘイトスピーチ対策法ができた時の授業では、「在日韓国・朝鮮人は死ね!」「日本から出ていけ!」とかいった暴言を認める意見はなかったが、大半の学生が「なぜ、そうした発言をするのか知りたい」と述べていた。いわゆるヘイトスピーチを繰り返すデモ隊とアンチデモ隊の双方の参加者に、それぞれ考えを語ってもらい、記事にするとも書いていた。誰にでも考えつく取材案だが、どの新聞もまだ試みていないのも事実だ。
■ジャーナリストとブンヤ
朝日新聞綱領が定める「不偏不党」「公正中正」に縛られて、本当に書きたいことが書けないと、先輩は社を去った。その綱領を改めて読み、肩透かしを食った。
「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」(第3項)とはあっても、綱領に「事実」という語は一切なかったからだ。『事実とは何か』といった書物で説かれることは、「事実」をいくら重ねても「真実」は見えないということに尽きる。「真実や「本質」」は「事実」を超えたところに在るという。
日本には、社会や歴史の「真実」を読者に伝えようとするいわゆるジャーナリストと、「事実」をできるだけ正確に伝えたいと願っているブンヤと、2種類の記者がいる。思うに、辞めた先輩もその1人だが、朝日には前者型が多い。
朝日新聞綱領が「事実」の語を避け、「真実」という語を使っていることには、恐らく深い意味がある。私は遺憾ながら、それを解く事実を持ち合わせていない。(永栄 潔)
『ブンヤ暮らし三十六年 回想の朝日新聞』の著者・永栄潔氏が、最朝日新聞綱領に「真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す」とは言っても、「事実」という語は一切ないと指摘する。
日本には、社会や歴史の「真実」を読者に伝えようとするいわゆるジャーナリストと、「事実」をできるだけ正確に伝えたいと願っているブンヤと、二種類の記者がいる。
思うに、…朝日には前者型が多い。
(『こんな朝日新聞に誰がした?』長谷川熙、永栄潔・著/ワック)対談の相手は、同じく朝日OBの長谷川熙氏で、その発言に、朝日にもこんな硬骨漢の「ブンヤ」がいたのか、と驚かされた。
取材時間が限られた新聞記事では、事実の誤りはどうしても避けられず、長谷川氏はその都度、訂正を出してきたが、それが出来なかったケースが二つあるという。
一つはある事実の年月日が取材相手の記憶違いで間違っていたこと、もう一つは長谷川氏自身の確認不足で、自殺したある県庁役人のその時点の肩書きが違っていたこと。
前者は過ちが分かったのが記事掲載からだいぶ経っていたこと、後者は、副編集長からその程度の違いなら、と訂正が見送られたのだが、長谷川氏は今にいたるも、その間違いについて苦しい思いが消えないという。
「虚報を裏付けも取らずに紙面に載せ続け」これほどの職人気質のブンヤ長谷川氏にとって、平成26(2014)年8月5日の朝日新聞朝刊の「従軍慰安婦」記事取消しは、どうにも許せない事だったようだ。
こう断言する。
内外に深刻な影響を及ぼしてきたその虚報を、そもそも裏付けも取らずに紙面に載せ続け、その報道に各方面から疑問が高まってからも長く放置してきたことに一言の詫びもなく、問題は、長年にわたり報じてきた官憲の強制連行ではなく、慰安婦が存在したというそのことであると話をすり替え、開き直っていたのである。
この威張り返った、そして物事をごまかす態度に愕然(がくぜん)とた。
…この8月5日をもって最終的に新聞の実質は終わった、崩壊した、と感じた。
(『崩壊 朝日新聞』長谷川熙・著/ワック)しかし「大地震が発生するのも、それを引き起こす歪(ひず)みが地殻に蓄積しているから」で、その「長年の歪み」を解明するために丹念に事実を追ったのが著書『崩壊 朝日新聞』である。
氏はそこから朝日の本質をあぶり出していく。
「ただの一度たりと現地での裏付けを取ろうともせず」「従軍慰安婦」問題の発端は「慰安婦強制連行」の「動員指揮官」だったという吉田清治の証言だ。
その内容は陸軍の西部軍司令部から出された命令書によって山口県労務報告会が朝鮮・済州島で慰安婦狩りをしたというものだが、おかしな点がいくつもあった。
…西部軍司令部が、その内容がなんであろうと山口県労務報国会という軍組織でない文民の団体に命令を出す権限はない。
しかも、朝鮮内のことは朝鮮総督府が行ない、山口県労務報国会ごときがそこへ出て行って勝手なことはできない。
(同上)こうした疑問を現代史研究家・秦郁彦氏や、韓国・朝鮮研究家の西岡力氏が提起した。
秦氏が現地調査をして、その証言に重大な疑いを投げかけたが、それを無視して朝日は吉田証言を取り上げ続けた。
それにしても秦、西岡らが不審に思うのは、戦時中のことであろうとかくも異常な事件があったというなら、日本の目の前の土地なのだから、なぜすぐにでもチームなり、一人でも現場に取材に行かなかったのか、ということだ。
また、秦によれば、朝日新聞社の記者は、この関係では、2014年8月5日付の検証記事の作成に関連した取材、相談をしにくるまで、かって誰ひとりとして秦に接触してこなかったという。
秦は現地調査をしたその当人なのに、である。
(同上)「何より事実を追求するという記者のイロハがこの新聞社から消滅していたのだ」という口吻(こうふん)からは、氏のブンヤ魂から来る怒りが伝わってくる。
そもそも吉田証言が出た当初に現地で「事実」の裏付け調査をしておけば、こんな大誤報は起こらなかった。
事実を無視して、「旧日本軍=悪」という「真実」(と朝日新聞が思い込んでいること)を世間に広めようとした所から、何十年にもわたる欠陥報道が発生してしまったのである。
「記者としての変化を知らしめられ、おののいたのである」長谷川氏は松井やよりも俎上(そじょう)にあげる。
『日本軍性奴隷を裁く女性国際戦犯法廷』の仕掛け人である。
この「法廷」とは、昭和天皇以下、計10名を「戦犯」として挙げ、「死人に口なし」の上に、弁護士もつけずに、一方的に糾弾するという、模擬裁判にもなっていない茶番劇だった。
この松井やよりが実は朝日新聞での長谷川氏の同期で、かつては長谷川氏が産業公害を、松井が農薬害・食品安全問題を追及していた。
その頃は二人揃って事実の発掘と報道を懸命に行っていた。
しかし、長谷川氏が週刊誌『アエラ』編集部に移り、1991年頃、対米英開戦50周年の取材でマレー半島の山奥を訪れた時に、松井の「記者としての変化を知らしめられ、おののいた」(同上)。
当時、松井はシンガポールに駐在しており、戦時中にマレーシア山中で起こった日本軍の「民衆虐殺」について、さかんに記事を書いていた。
そして日本兵が放り投げた赤ん坊を銃剣で刺した、という話まで、繰り返し朝日の記事にしていた。
「虐殺は日本軍がやったことにしておきなさい」確かに、この地域ではまとまって遺骸が発見されている。
事実、日本軍がマラヤ共産党の華人抗日ゲリラが集まった所を急襲して殺害しているが、戦後も華人ゲリラが日本軍に協力したマレー人民衆を相当数、殺害し、マレー人側もその仕返しをしている。
さらに再支配を始めたイギリス側も、反英戦に入った共産ゲリラを多数、討伐した。
それまで、その辺の二、三の屋内での取材で私は、あちこちでまとまって発見された遺骸がなぜ全て日本軍がやったと言えるのか、との旨の質問をしたが、そう伝わっている、そう聞かされている、あるいはそれを子供の時に体験した式の、判で押したような答えしか返されず、全てが日本軍による「民衆虐殺」であることを裏付ける具体的な根拠、証拠は聞かされなかった。
(同上)その後、取材を終えた長谷川氏に、「聞いて欲しいと言わんばかりの風情」で中年の華人女性が話しかけてきた。
「シンガポールにいるという日本の朝日新聞の女性の記者が、虐殺は日本軍がやったことにしておきなさい、かまわない、と言ったんです」そして、その女性記者の名前を「マツイ」と述べた。
(同上)長谷川氏は松井やよりが告発していた「民衆虐殺」の遺骸については、氏の知る限り、「いかなる法医学上、考古学上の調査も一切なされていない」という事実を確認した。
その結果、自身の『アエラ』記事では、この虐殺問題については、一切扱わない事とし、「松井やよりとは正反対の対処となった」。
松井やよりは定年退職後に、上述の「法廷」を発案し、推進するのだが、これは検事がアメリカ、韓国、北朝鮮などから50名、被害証言者つまり元慰安婦が9カ国から64名と大がかりなものだった。
これだけの規模の「法廷」を支える経費は、どこから得られたのか、関係者は「趣旨に賛同した人たちの寄付による」というだけで、収支の明細は明らかにされていない。
さらに、関係者によると、松井やよりは「法廷」の準備のために北朝鮮にも行っているという。
核開発も日本人拉致事件も明白になっていた時点で、北朝鮮とどのような話し合いをしたのかも一切不明である。
長谷川氏は得られた事実からここまでしか語らないが、そこから先は誰でも容易に一つの推論に辿り着く。
中ソの人民大虐殺という「事実」を報道しない朝日1988(昭和63)年、長谷川氏は『アエラ』の取材で、白ロシアの首都ミンスクを訪れた。
1937年から40年にかけてのスターリン時代、当局が一定数の「人民の敵」を処刑したと報告するために、ある区域に住んでいる住民全員を郊外の森に連行して虐殺したのだった。
林には、遺骸を埋め込んだ大きな穴の窪みが見渡す限り点在していて、私がある窪みを踏んだら、「そこはまだ遺骸が埋まっているかも」と言われ、飛び退いた。
…ミンスクの松林での、足下の遺骸を通してマルクス主義社会の狂気、非道は直に体感した。
そのときの私は、コートをまとっていても震えた。
(同上)人口811万人の小国カンボジアでも、200万人に上る大虐殺がなされたとされているが、その直前に朝日新聞の元プノンペン特派員だった和田俊(たかし、故人)は、こう報じている。
政府権力の委讓も、平穏のうちに行われたようだ。
敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。
…カンボジア人の融通自在の行動様式からみて、革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。
(同上)ソ連や中国を含め、これまでの共産主義国家での人民虐殺の犠牲者数は総計1億人近いと推定されている。
そういう「事実」は、朝日の唱える「真実」には都合が悪いので報じられない。
私は、朝日新聞社のソ連、中華人民共和国に関する報道で一番欠けているのは、この両国で発生した途方もない人民大虐殺、テロの報道、究明であると考えている。
それに比すればある時期の戦争に伴う日本の「加害」を声高に批判しながらも、中ソのことに関しては声が消えるこの新聞社は、両国のこの大犯罪の、少なくとも道義的には共犯者とみなされるべきではないのか。
(同上)ゾルゲ事件で朝日新聞社員も逮捕されていた長谷川氏は、さらに歴史を遡って、ゾルゲ事件にもメスを入れている。
元朝日新聞記者の尾崎秀實が政府内の情報を、ソ連スパイ・リヒャルト・ゾルゲに渡していた事件である。
尾崎はすでに朝日新聞を退職していたが、実は朝日新聞東京本社政治経済部長の田中慎次郎と同部員・磯野清も逮捕されている。
検事側の情報では、陸軍担当だった磯野は、作戦計画の機密を田中経由で尾崎に流し、この情報を受けた蒋介石軍が待ち伏せして、日本軍に大損害を与えたという。
この大敗により、日本軍は国民政府軍を包囲殲滅できず、蒋介石はさらに中国大陸の奥地に逃げて、戦線膠着を招いた。
尾崎はあくまで日本軍と国民政府軍を戦い続けさせて、共倒れにさせ、中国共産党に漁夫の利を与えようとしたのである。
尾崎は死刑となったが、田中、磯野は釈放された。
二人を公判に付したら、陸軍の機密漏洩も表に出るので、それを恐れたのだろう、と長谷川氏は推測している。
いずれにせよ尾崎秀実は朝日新聞の中の異分子ではなく、戦前から朝日社内にはびこっていた共産主義の「大義」を信ずるシンパの一員だったようだ。
「『大義』の機関紙はアジびらである」長谷川氏は、さらに多くの事例を辿りつつ、朝日の体質をこう断ずる。
…事実の追求から離れ、陰に陽にマルクス主義の思考にくるまり、従って前出の条件反射(JOG注:「日本軍=悪」というような思考停止の条件反射)も起こしやすく、世の中、物事を見る視野が非常に狭くなってしまっている…こうした精神環境は安易に、一種の集団心理とも思える「大義」なるものを生み出し、それを担ぎ出す。
(同上)…こういう「大義」好きはもう新聞ではないと私は考える。
「大義」の機関紙を私は新聞とは呼ばない。
なぜなら、「大義」の正体を暴くのが新聞と思っているからだ。
「大義」の機関紙はアジびらである。
(同上)「事実」を追う「ブンヤ」は常に自分が間違っているかも知れない、と謙虚に構える。
一方、「ジャーナリスト」は「大義」や「真実」を大衆に教えるべく、都合の悪い事実は隠し、都合の良いものは事実かどうかもよく調べずに報道する。
長谷川氏は持ち前のブンヤ魂をフルに発揮して、朝日の歴史を丹念に辿りながら、朝日は新聞ではなく、「大義」の機関紙、すなわち「アジびら」である、という結論を下しているのである。(伊勢雅臣)
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