目次
日中戦争に従軍した西山源次郎氏
 昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを殺害したとされ、いまだに犠牲者数や存否をめぐって論争が続く南京事件。中国側が「30万人」と主張する犠牲者数は、日本国内では支持する有識者はほとんどいないものの、国を挙げた中国側の執拗な取り組みによって30万人説が国際的に一人歩きしている側面もある。
 しかし、南京攻略戦から78年を経て、新たに明らかになった元将校の日記や手紙からは規律に満ちた日本軍の様相が浮かび上がる。歳月の長さを感じさせる黄ばんだ手帳や、封書の束、モノクロ写真…ざっと50点以上。いずれも約80年前に上海、南京攻略戦を皮切りに日中戦争を戦った陸軍少尉、西山源次郎さんが残した貴重な記録だ。源次郎さんが手帳に鉛筆でつづった文章からは、昭和12年初冬、当時の中華民国の首都、南京の攻略に向かう日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくるようだ。源次郎さんは、慶應大を卒業後、帝国生命に勤務していた昭和12年9月に召集された。
 この年の7月、日中戦争が勃発しており、源次郎さんは陸軍第114師団歩兵第115連隊の小隊長として中国大陸に向かった。
同年12月10日から始まった南京総攻撃の様子が、源次郎さんの日記に鉛筆書きで簡潔に記されている。
毎日十里余り歩いて、毎朝腰が上がらない。
 南京が近くなったので毎日、遊軍機は飛び、攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった。
 道がよければ二日か三日で来られる距離と思うに、悪路のため二十日もかかり兵の苦労たるや何とも言いようもなく、泥んこで休憩する場所もなく立ちっ放し。 体中どろどろで土の付いていないのは眼だけで、顔をなでると泥が手に一杯取れるほど、正に泥の兵隊であった。
 南京南方六里の秣陵関に到着した。
 南京城は火災を起こして紅く夜空を染め、砲声も聞こえる。
 秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、多くの将兵が収容されていた。
 第三大隊だけで三百名が戦死傷した。
 西山隊も早く第一線に行け、南京もまもなく落ちるだろうと言われ、猛進を続け、吾々のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。
 ここからクリークを渡ると、城壁まで三百米、城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊も十二日夜城壁をよじ登って突入した。
 残敵掃討をするが、城内は火災と銃声で声も聞こえない。
 夜中になって銃声も止み、民家で休憩する。
 南京城は周囲十二里、汽車の線路もありその巨大さに驚くとともに、随分馬鹿げたものを作ったものと呆れる。
 支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥く、死体も数十ありたり。
 17日午前九時半集合、正午南門を発する予定…十時には早くも出発。
 南京城では千円もするような毛筆を見つけた者や、銀狐や時計、双眼鏡、拳銃、首飾り等々金目の物を大分見つけた者もあるやうです。
 残幣を何万円も見つけた者があって、将校はいちいち取り締まらなければならないので、困ったことだ。
 当時、南京城内にいた住民らは、欧米人らでつくる国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。
 だが、多くは貧しい人々ばかりで、裕福な住民らは早々に南京を脱出している。
 日本軍が富裕層の家から高級品を略奪したとする意見があるが、中国軍の仕業との見方もある。
 源次郎さんの記述について、邦夫さんは
 「陥落直後の城内の掃討作戦中に目にした様子だろう」と推測した上で、
 「文面からは、部下の略奪を嘆いているのではなく、部下から発見の報告を受け、父はすべてに対応しなければならず困っていたのでしょう。こうした状況からも規律が守られていたことがうかがえる」と語る。
 さらに、家の中は中国軍により《書籍や家宝となるやうなものが沢山荒し放題あらされて或いは踏み荒らされ》といった状況で、《惜しいと思いました》と無念さを記している。
  中国側は「日本軍は南京城内で住民を殺し、ほかの地域でも残虐行為を行った」と主張するが、その後山東省や北京近郊などの戦線で任務に就いた源次郎さんが妻にあてた私信からは、日本兵と住民の異なる関係が浮かび上がる。
 手紙では、中国人の匪賊と住民の戦闘が絶えず、住民が殺されたり、子供が誘拐されたりする悲惨な出来事が繰り返されているとし、
 《いくら日本軍が討伐しても、三年や五年で尽きるものではない。支那では兵隊は良くない人間ばかりなので、日本軍も同じように考えられているのです。兵隊は悪いことをするものという考えがあるからすぐ逃げる。支那の兵隊と一緒にみられてはかなわないね》と訴えている。
 だが、日本兵に対する住民の見方は徐々に変化する。
 《最近部落での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》
 《支那兵は毎日食い物をもらいに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です》
 「日中戦争時の日本軍の残虐性を示す」とされてきた当時の写真が、その後の検証で匪賊や中国側によるものと判明したケースもある。中国大陸であったとされる「蛮行」は、果たして日本軍による行為だったのだろうか。
 戦後、源次郎さんは郷里に戻って中学校教員として家族を養った。邦夫さんらには戦場での話をしなかった。戦時中はひげを生やし、いかつい風貌だったが、家族には終始穏やかな態度で接していた。
 「父が話したかったことは、残された日記や手紙にすべて収まっている。父らの世代が戦時中のことを語らないのは、言えば自己弁護になるし、語ることを潔しとしない世代だったからではないか」
 邦夫さんは父の足跡を伝えようと、日記や手紙などを本にまとめ、子供や孫、親類に配った。
防衛大学校に4期生として入校した邦夫さんが、防大の講義やその後の自衛隊生活で常に求められたのは規律だったという。
 「強い軍隊ほど規律の保持が徹底される。逆に軍紀が厳粛だからこそ、戦場という場で能力が発揮できる」と実感を込めて語る邦夫さん。
 戦後、突如として現れた「南京大虐殺」説に対して疑念をぬぐえず、悔しさをつのらせる。
 「もし当時、虐殺といった不当行為を目撃していれば、父は真実を日記や手紙に書き残していただろう。日記からはそんなことはうかがえない。物理的に30万人を虐殺するのは無理なのに、戦後の大きな風潮のうねりの中で歴史の歪曲に染まってしまった」
 勝者が敗者を裁き、勝者が主張する虚構と欺瞞に満ちた歴史観がまかり通る戦後の国際社会。
歴史の真実を明らかにすることは、源次郎さんら多くの日本軍将兵らとともに日本の名誉を回復することにほかならない。
南京入城朝日記事

 《毎日十里(約40キロ)余り歩いて、毎朝腰が上がらない。(中略)南京が近くなったので毎日、友軍機は飛び、攻略戦に早く参加すべく兵の士気があがった》
 古い手帳につづられた文面から、昭和12年初冬、当時の中華民国の首都、南京攻略に向かう日本軍将兵らの息づかいが聞こえてくる。
 「父が南京攻略戦に参加したと知っていたら、聞きたいこともあったんですが」。関東在住の西山邦夫(78)が、父、源次郎の遺品を手に語った。源次郎は平成5年、87歳で死去。18年に母も亡くなり遺品を整理中、源次郎の日記や作戦図などを見つけた。
 陸軍少尉だった源次郎は、帝国生命(現朝日生命保険)に勤務していた昭和12年9月に召集され、陸軍第114師団歩兵第115連隊の小隊長として南京攻略戦に加わった。
 同年12月10日に始まった南京総攻撃。作戦行動中のためか、当時の日記は同月13日までの出来事が日々1~2行、鉛筆で簡潔に記されているだけだ。後に当時の様子を詳細な手記にまとめており、その文面は戦闘の激しさを伝えている。
 《南京南方六里(約24キロ)の秣陵関に到着した。南京城は火災を起こして紅(あか)く夜空を染め、砲声も聞こえる。秣陵関を出発すると、野戦病院が仮設されており、多くの将兵が収容されていた。第三大隊だけで三百名が戦死傷した》
 源次郎らは南京城の南側にある雨花門から迫る。《猛進を続け、吾々(われわれ)のいた壕にも敵弾が盛んに飛んでくる。ここからクリークを渡ると、城壁まで三百米(メートル)、城壁の高さは二十米あり、千二百発の砲弾で城壁を崩し、西山隊も十二日夜城壁をよじ登って突入した》
 広告「晴れ」と記されたこの日、雨花門周辺の警備を担当していた源次郎は、部下を率いて城壁上を移動。《支那兵の弾薬、迫撃砲弾など夥(おびただし)く、死体も数十ありたり》という状況だった。大隊長からは部隊の団結とともに、規律の維持を徹底するよう訓示があったという。
 翌17日。《午前九時半集合、正午南門を発する予定するに、十時には早くも出発》。次の任務地に向かうため南京城を離れた。
 西山自身、航空自衛隊で空将補まで務めた経験から、父が残したこの記述に着目する。「師団ならば万単位、連隊でも何千人単位で編成される。部隊が迅速な行動ができたのは、高い士気と規律を維持していたからに違いない」
 源次郎はその後、山東省や北京周辺などの戦線に赴き、戦地から妻にたびたび手紙を送っている。南京事件の犠牲者「30万人」説を唱える中国は日本軍がほかの地域でも残虐行為を行ったとするが、これらの手紙からは、中国の主張と大きく異なる日本兵と住民の関係が浮かび上がる。
 《最近部落での評判が大分いいのです。示威行軍に行っても皆出迎えてくれるほどなのです。日本軍は税金も取らないし、品物も買ってくれると…》
 《支那兵は毎日食い物をもらいに来る。応じなければ銃殺されることもある。税金はむやみに取る。出さなければ女や子供を人質に取る。こんなやり方をするのだから嫌われるのも当たり前です》
 南京攻略戦「日記」生々しく 兵の記述に「大虐殺」片鱗なし
 手紙には、地域の役人や住民に食事へ招待されたという記載もある。源次郎が、現地の子供たちと一緒に納まった写真も残っている。
 戦後、中学校教員として家族を養った源次郎は、西山らには戦場での話をしなかった。戦時中はひげを生やし、いかつい風貌だったが、終始穏やかな態度だったという。
 「父が話したかったことは、残された日記や手紙に全て収まっている。父らの世代が戦時中のことを語らないのは、話せば自己弁護になるし、語ることを潔しとしない世代だったからではないか」
 戦後、東京裁判で戦勝国による追及が始まるなかで現れた「南京大虐殺」説に、西山は疑念をぬぐえず、悔しさを募らせる。「父の日記からはその形跡はうかがえない。物理的に30万人を虐殺するのは無理だ。戦後の大きな風潮のうねりの中で、歴史の歪曲(わいきょく)に染まってしまった」
 南京事件 昭和12(1937)年12月、当時の中華民国の首都だった南京陥落後、旧日本軍の占領下で起きたとされる事件。犠牲者数について中国側は「30万人」と主張する。日本では近年の研究で誇大との見方が定着している。「事件」というほどの出来事はなかったとの意見もある。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」との見解を示している。
 一部が崩れた城門、ロバにまたがりほほ笑む中国人の少年、整然とした街頭の人波…。セピア色の数々の写真に、70年以上前の南京などの様子が克明に写し出されていた。
 「日中戦争に従軍した父が持ち帰ったものです」
 関西在住の元海寿祐(51)が説明する。父、寿一(よしかず)=平成2年に72歳で死去=は昭和14年春に出征した。写真の多くは裏に記された日付から、同年11月初旬に負傷して帰還する前に滞在した南京から持ち帰ったとみられる。
 「南京城内ロータリー」と裏書きされた写真には、整然とした街角が多くの人でにぎわう様子が写っていた。「十月二十八日」と記された写真には、寝そべる水牛とほほ笑む3人の少年や、中国服を着た7人の若い娘が並んでポーズをとっている様子が写っている。いずれも穏やかな日常風景といったおもむきだ。
 「父は南京で買い物するのが楽しかったと話していました。だから南京事件はあり得ないとも」
 写真を見つめ、元海は語る。
 「写っている人たちの表情を見ても、父が言うようにこの2年前に大虐殺があったなんて、とても考えられない」
 「日本軍が30万人を虐殺した」と中国側が主張する南京事件。戦後の東京裁判判決では数々の残虐行為があったと認定された。
 「日本軍は南京占領直後から1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした」「兵役年齢の男性約2万人を、機関銃と銃剣で殺害した」
 昭和12年12月10日に始まった南京総攻撃のさなか、城内に残った住民らは、欧米人らの国際委員会が設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んだ。南京陥落後、民間人に偽装して安全区に潜伏する隠れ戦闘員「便衣兵」が日本軍の脅威となった。便衣兵は武器を隠し持って次々と日本兵を襲ったとされる。中国戦において、日本軍は南京だけでなく各地で便衣兵に悩まされた。
 元海は、寿一から便衣兵と遭遇したときのことも聞かされた。
 戦地で寿一が怪しいと感じた男を呼び止めると、背中を向けて突然走り出しながらわきの下から銃口を向けた。一緒にいた仲間が撃たれて負傷。男は便衣兵だった。寿一は「銃の使い方をみれば、平服を着ていても住民とは違う。便衣兵に対しては、こちらも命がけだった」と語ったという。
 寿一は便衣兵の見分け方も話していた。農民らと、軍帽をかぶっていた便衣兵には日焼けの仕方に違いがある▽農民は手に豆があるが、便衣兵の手のひらは柔らかく、銃器を構えたときにできるタコがあった▽軍靴を履いた便衣兵には、共通した靴擦れがあった-。
 便衣兵を見つけ出す日本軍の基準に疑義を呈する意見もある。ただ、元海はこう証言する。
 「父は『戦場の現実は悲惨なものだが、南京大虐殺といわれるようなことをやればすぐ情報が広まり、(将兵は)処分されるはずだ』と訴えていました」
 「右翼媒体からの取材は受け付けません」。江蘇省南京市にある「南京大虐殺記念館」に取材を何度も申し込んだところ、担当者は最後に電話口でこう言って拒絶した。
 それもそのはずだ。インターネットで記念館の公式サイトを開くと、「南京各界は日本の右翼メディアが大虐殺を否定したことに抗議」との2月28日配信の国営新華社通信の記事が掲載され、「産経新聞」が名指しされた。新華社電は記念館の館長・朱成山のコメントで締めくくっている。
 「反ファシズム戦勝利70周年に際し、もしも日本の老兵が良心をごまかして自ら南京で犯した罪を隠し、日本で一定の影響力のある『産経新聞』がかような言論を重ね、歴史に対する反動を再び暴露するなら、全世界の平和を愛する人は警戒せねばならぬ」
 3月のある寒い日、一般参観者として南京市内にある記念館を訪れた。記念館を含む南京での取材にあたって、日本の外務省関係者から細心の注意を払うよう求められた。平成24(2012)年には記念館で日本人記者が参観者らに囲まれて殴る蹴るの暴行を受けた事件もあったからだ。
 1冊10元(約200円)で購入した日本語版の紹介パンフレットによると、昭和60(1985)年8月15日に開館した記念館の敷地面積は約7万4千平方メートル、建物の総面積は2万5千平方メートル。「全国愛国主義教育模範基地」に指定されている。
 12(1937)年に旧日本軍が引き起こしたとされる「南京事件」をめぐって、中国は「30万人が犠牲になった」と主張する。記念館には「300000」との数字が壁面など随所に掲げられている。
 当時の写真や新聞記事をすべて共産党政権側の解釈で説明し、残虐な虐殺現場のシーンをジオラマで表現している。旧日本兵から接収した銃や装備品なども展示してある。
 「愛国主義教育模範基地」として、南京市内はもとより江蘇省内など周辺地域の小中学校や高校の児童・生徒、地方政府や国有企業などの団体参観客が引きも切らず訪れる。
 唯一、関係するものは、習が式典で除幕した「国家公祭鼎」(台座を除く高さ約1・65メートル)のみ。それも習が訪問したことを示すだけの記念碑という。「反ファシズム戦勝利70周年」を意識した展示も見かけなかった。
 これについて、南京問題に詳しい日中関係筋は「権力集中を進める習が中心となって70周年の行事を行っているので、南京が反日で突出しないよう北京に気兼ねしているのではないか」と述べ、中国国内の政治事情が影響していると解説する。
 「南京大虐殺記念館」には看過できない展示も少なくない。中国が「南京大虐殺」の証拠として掲げる数々の展示のうち、例えば、「日本兵」とされる人物が、ひざまずいて後ろ手に縛られた中国人とみられる男の首を刀で斬ろうと構えている「斬首前」の写真。
 この写真では、人物によって影の方向が一致しなかったり、後ろにいる兵士の靴の向きが不自然だったりして、専門家の間で「証拠写真」として信頼性に疑問符がついている。
 高さ2メートル近い大型写真パネルに中国語で「殺中国人取楽」とあり、横に日本語で「楽しみとして中国人を殺す」と書かれている。
 全館を通じ、案内板は中国語、英語のほか、あえて日本語を加え、日本人の訪問者も意識した演出がなされている。
 向井敏明と野田毅の両少尉が競ったという「百人斬り」の新聞記事も大型パネルに引き伸ばされて展示されている。
 さらに「南京の老人が空襲で被害を受けた子供を抱えている」と説明された2メートルほどの高さの写真。これは昭和13(1938)年に米ライフ誌に掲載された横長の写真から左右の人物を排除して、中央の老人と子供だけを大きく引き伸ばしたパネルだ。元の写真では老人のすぐ右側を中国人の男と少女が普通に歩いており、左側には中国兵とみられる男があわてる様子もなく、腕組みをしながら老人をみている。
 あえてトリミングし、センセーショナルに見える部分だけを利用して、意図的な説明を加えてパネルにした可能性もある。
 そうしてみれば、中国側が「日本軍による非道な中国人虐殺行為の鉄証(動かぬ証拠)だ」と主張する写真の展示も、どこまでが日本と関係があり、どこからが無関係なのか、容易には証明できそうもない。「さらし首や「暴行され乱暴された中国人女性」「幼児の死体」など記念館の展示内容は凄惨(せいさん)を極める。
 また、「日本軍は残虐な暴行を隠すために死体にガソリンをかけて焼き払ったり、船で揚子江の真ん中まで運び、川の中に放り込んだりして、10万体あまりの死体を処分した」などとの説明で、川岸に打ち寄せられた多数の死体の写真なども大きく展示している。
 日中関係筋は、「中国側は正しく検証されていなくとも、いずれの展示写真も疑う余地がない、覆せないとする観念先行の状態に陥っている」と話す。
 こうした残忍な写真の連続で参観者の感情に訴えた後、昭和12(1937)年当時、南京に在住していた欧米人らが急(きゅう)遽(きょ)設置した「南京安全区国際委員会」を紹介する大きなスペースが広がる。
 難民収容所で9千人あまりの中国人女性や子供を保護したという米国人女性宣教師ボートリンが、日本軍に立ち向かっている姿の銅像には「母親の鳥が小鳥やヒヨコを守ろうと羽を広げた」と説明がつけられている。米国人牧師や独大手企業シーメンス駐在員らの銅像も並ぶ。
 欧米人が一致団結して日本軍から「安全区」で救った中国人の数は20万人にものぼったとしている。あえてドイツも加えることで、非難の矛先を日本にのみ向けているのかもしれない。
 「南京大虐殺記念館」とは別に、南京市内には「南京抗日航空烈士記念館」もある。そこには慰霊碑があり、「抗日戦時に蘇(ソ連)、美(米国)、韓(韓国)などの国の多数のパイロットや高射砲兵らが、中国空軍とともに空からも侵略した日本と戦って犠牲になった」と説明してある。当時、存在しなかった「韓国」を加えるなど、中韓連携をアピールするねらいも透けて見える。
 「南京大虐殺記念館」の展示に戻るが、安全区の先に、日本で聞き取り調査を行ったという「南京加害者の元日本軍兵士の告白」コーナーがあり、さらに「史学研究」を行った功労者として、サングラスをかけた元朝日新聞記者、本多勝一の写真も登場する。
 「日本人自らがすべてを認めた南京事件」との強い印象を参観者に与え、中国側の主張にわずかでも異論を唱える相手はみな「右翼」と決めつける構図に仕立て上げている。
 江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」の正面広場で昨年12月13日の国家級追悼式典に習近平国家主席が除幕式を行った「国家公祭鼎」を見る参観者ら。記念館の壁面などに中国が主張する被害者数「300000」が随所にみられる=2015年3月
 江蘇省南京市の「南京大虐殺記念館」の正面広場で昨年12月13日の国家級追悼式典に習近平国家主席が除幕式を行った「国家公祭鼎」を見る参観者ら。記念館の壁面などに中国が主張する被害者数「300000」が随所にみられる=2015年3月
 「南京大虐殺記念館」には看過できない展示も少なくない。中国が「南京大虐殺」の証拠として掲げる数々の展示のうち、例えば、「日本兵」とされる人物が、ひざまずいて後ろ手に縛られた中国人とみられる男の首を刀で斬ろうと構えている「斬首前」の写真。
 この写真では、人物によって影の方向が一致しなかったり、後ろにいる兵士の靴の向きが不自然だったりして、専門家の間で「証拠写真」として信頼性に疑問符がついている。
 高さ2メートル近い大型写真パネルに中国語で「殺中国人取楽」とあり、横に日本語で「楽しみとして中国人を殺す」と書かれている。
 全館を通じ、案内板は中国語、英語のほか、あえて日本語を加え、日本人の訪問者も意識した演出がなされている。
 向井敏明と野田毅の両少尉が競ったという「百人斬り」の新聞記事も大型パネルに引き伸ばされて展示されている。
 さらに「南京の老人が空襲で被害を受けた子供を抱えている」と説明された2メートルほどの高さの写真。これは昭和13(1938)年に米ライフ誌に掲載された横長の写真から左右の人物を排除して、中央の老人と子供だけを大きく引き伸ばしたパネルだ。元の写真では老人のすぐ右側を中国人の男と少女が普通に歩いており、左側には中国兵とみられる男があわてる様子もなく、腕組みをしながら老人をみている。
 あえてトリミングし、センセーショナルに見える部分だけを利用して、意図的な説明を加えてパネルにした可能性もある。
 そうしてみれば、中国側が「日本軍による非道な中国人虐殺行為の鉄証(動かぬ証拠)だ」と主張する写真の展示も、どこまでが日本と関係があり、どこからが無関係なのか、容易には証明できそうもない。「さらし首」や「暴行され乱暴された中国人女性」「幼児の死体」など記念館の展示内容は凄惨(せいさん)を極める。
 また、「日本軍は残虐な暴行を隠すために死体にガソリンをかけて焼き払ったり、船で揚子江の真ん中まで運び、川の中に放り込んだりして、10万体あまりの死体を処分した」などとの説明で、川岸に打ち寄せられた多数の死体の写真なども大きく展示している。
 日中関係筋は、「中国側は正しく検証されていなくとも、いずれの展示写真も疑う余地がない、覆せないとする観念先行の状態に陥っている」と話す。
 こうした残忍な写真の連続で参観者の感情に訴えた後、昭和12(1937)年当時、南京に在住していた欧米人らが急遽(きゅうきょ)設置した「南京安全区国際委員会」を紹介する大きなスペースが広がる。
 難民収容所で9000人あまりの中国人女性や子供を保護したという米国人女性宣教師ボートリンが、日本軍に立ち向かっている姿の銅像には「母親の鳥が小鳥やヒヨコを守ろうと羽を広げた」と説明がつけられている。米国人牧師や独大手企業シーメンス駐在員らの銅像も並ぶ。
 欧米人が一致団結して日本軍から「安全区」で救った中国人の数は20万人にものぼったとしている。あえてドイツも加えることで、非難の矛先を日本にのみ向けているのかもしれない。
 「南京大虐殺記念館」とは別に、南京市内には「南京抗日航空烈士記念館」もある。そこには慰霊碑があり、「抗日戦時に蘇(ソ連)、美(米国)、韓(韓国)などの国の多数のパイロットや高射砲兵らが、中国空軍とともに空からも侵略した日本と戦って犠牲になった」と説明してある。当時、存在しなかった「韓国」を加えるなど、中韓連携をアピールするねらいも透けて見える。
 「南京大虐殺記念館」の展示に戻るが、安全区の先に、日本で聞き取り調査を行ったという「南京加害者の元日本軍兵士の告白」コーナーがあり、さらに「史学研究」を行った功労者として、サングラスをかけた元朝日新聞記者、本多勝一の写真も登場する。
 「日本人自らがすべてを認めた南京事件」との強い印象を参観者に与え、中国側の主張にわずかでも異論を唱える相手はみな「右翼」と決めつける構図に仕立て上げている。
 1937年にあったとされる「南京事件」の発生から77年目にあたった2014年。節目の年でもなければ、日本政府要人が「南京事件」を否定するような発言をしたわけでもない。にもかかわらず中国当局は突然、「南京事件」をアピールし始めた。
 この年の3月、国家主席、習近平が訪問先のドイツで「南京大虐殺の死者は30万人」と発言した。6月には中国政府が南京事件に関する資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録申請した。そして12月、国を挙げての国家追悼式典が行われた。
 「これまで一度もやらなかったことをなぜいまやるのか」
 追悼式典を疑問視する中国人も少なくなかった。
 独立系シンクタンクに所属する日本問題の研究者は次のように説明する。
 「中国当局が歴史問題をアピールし、日本批判を強めるときは、ほとんど国内の政治状況が不安定なときだ。日本に対する態度は共産党内の『保守派』と『改革派』を見分ける重要な指針だ。日本批判は両派の主導権争いに使われることが多い」
 1972年の日中国交正常化以降、中国当局の対日政策は共産党内の勢力変化に伴って「友好」と「批判」で揺れ動くとされる。それに合わせて、南京問題を研究する学者らも「メディアに引っ張りだこ」になったり、冷や飯を食わされたりしている。(
 2014年は共産党内で権力闘争が激しい一年だった。大物政治家の前中央軍事委員会副主席、徐才厚と、前政治局常務委員、周永康が相次いで失脚した。国家追悼日の記念式典が行われた約1週間後には前国家主席、胡錦濤の側近、党中央統一戦線部長の令計画の失脚が発表された。
 日本との関係を重視していた胡錦濤と比べて、保守派と軍を支持基盤とする習派は、日本に対する態度が厳しいといわれる。習派は南京問題をアピールすることで、国民の反日感情をあおり、胡派との権力闘争を有利に進めようとしている可能性がある。
 中国では年々、「南京事件」の犠牲者を追悼する行事の規模が大きくなっている。全国の小中学生に対し愛国主義教育の一環として、「南京大虐殺」を教えることも義務づけている。
 しかし、発生から40年以上もの間、「南京事件」は中国でほとんど話題にならなかった。
 1980年代半ばまで、江蘇省の小中学生たちは日本の「お盆」にあたる春の清明節に、国民党との内戦で死亡した共産党員らを祭る「烈士霊園」を訪れていたという。
 「南京大虐殺記念館」が建設されるきっかけとなったのは82年に共産党中央が全国各省市に出した「日本の中国侵略の記念館を建設せよ」との通達だった。最高実力者、トウ(=登におおざと)小平による指示だという。
 表向きには日本国内で満州国に関する記念碑が建てられたことへの対抗措置といわれているが、上海で建設されていた宝山製鉄所の建設をめぐって生じたトラブルが大きな原因だと指摘されている。
 宝山製鉄所は中国の国家プロジェクトとして、新日本製鉄の協力の下、78年に着工した。このプロジェクトは山崎豊子の長編小説『大地の子』の舞台になるなど日中協力の象徴的存在だった。
 トラブルの背景には、共産党内の権力構造の変化があったとされる。共産党の内部事情に詳しい中国人学者によると、70年代末に当時の最高指導者、華国鋒主導による重工業を中心とした近代化路線が進められ、新日鉄や三菱重工などの日本企業に対し高額なプラントが多数発注された。だが、中国の外貨準備不足もあって度々代金の支払いに問題が生じた。
 その後、トウが権力中枢に返り咲くと、華の経済路線を「洋躍進」(外国崇拝の盲進主義)と否定し、農業と軽工業を重視する経済政策に切り替えた。
 それに伴い、建設中だった宝山製鉄所プロジェクトの延期を決め、日本企業に対して契約中止を一方的に通告した。日本企業が中国側に多額な損害賠償を求めていることを知ったトウは「日本人は経済動物だ」と激怒したという。
 「トウにしてみれば、中国が対日戦争賠償を放棄したのに、このぐらいのことで日本から賠償を求められたのは心外だったようだ」と中国人学者は分析する。
 ちょうどその頃、トウがこれまでほとんど口にしなかった「歴史問題」を言い出すようになった。日本のメディアが「教科書検定問題」を大きく報じたことを受け、トウは「全国で抗日記念館をつくれ」との指示も出した。
 中国国内で日本批判キャンペーンを展開することで華国鋒路線を否定し、契約を一方的にキャンセルした自身の行為を正当化する狙いがあったとみられる。
 日本との歴史問題が中国共産党内で政争の具として利用された例はほかにもある。昭和60(1985)年、首相、中曽根康弘が靖国神社を参拝したことに中国が反発し、日中関係が悪化したが、日本批判を主導したのは共産党内の保守派で、日本との関係を重視する総書記、胡耀邦を追い落とすことが本当の狙いだったといわれる。
 「(胡の)失脚を避けるために翌年の参拝を控えた」と中曽根がのちに回顧したが、その配慮が奏功することなく、胡は1987年に失脚した。
 2005年春には、「日本の国連安保理事会入りに反対する」との理由で、中国で全国規模の反日デモが発生した。共産党関係者によれば、そのときは江沢民が軍事委員会主席のポストを胡錦濤に渡した直後で、政局は不安定だった。
 中国国内の政権が安定したときは、日本国内の動きに対して比較的冷静に対応する。平成8(1996)年に首相、橋本龍太郎が靖国神社を参拝したときや、14(2002)年に日本政府が尖閣諸島(沖縄県石垣市)の民有地を借り上げたときなど、中国は厳しい反応を見せなかった。
 中国が歴史問題を振りかざして日本を批判するときはほとんどの場合、中国の国内の都合によるものなのだ。
 習政権による反腐敗キャンペーンに伴い党内抗争が熾烈(しれつ)さを増す中で、今年は戦後70周年にもあたるため、日本への「歴史戦」は沈静化するどころかさらに激化しそうだ。
「南京事件」(1937年)を世界に広め、極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(38年出版)の著者、オーストラリア人記者のハロルド・ティンパリー。その正体は、日中戦争勃発後の39年に中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者だったことが、台北市にある国民党の党史館に残る史料で明らかになった。
 ティンパリーはいつの時点で国民党のエージェントになったのか。
 米コーネル大図書館の史料からは、ティンパリーが日中戦争初期の段階から、宣伝工作に関与していた実態が浮かぶ。
 史料は1930~40年代にかけて、米海軍の情報将校や武官として上海や重慶に駐在したジェームズ・M・マクヒューがまとめた。
 国民政府が37年11月に漢口(湖北省)に移転する前、ティンパリーは、中国・国民政府のトップである蒋介石夫妻の私的顧問だった同じオーストラリア人ジャーナリストのウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するよう勧誘された。
 いったんは断ったが、国民政府側に宣伝工作の監督や調整への関与を自ら働きかけ、国民政府の元財政部長、宋子文から月額1000ドルを受け取ることで合意した。
 国際宣伝処長だった曽虚白は、自伝で次のように記している。
 「われわれは漢口で秘密裏にティンパリーと長時間協議し国際宣伝処の初期の海外宣伝計画を決定した…目下の国際宣伝では中国人は絶対に顔を出すべきでなく、国際友人を探して代弁者になってもらわなければならないと決めた」
 ティンパリーは38年6月、『戦争とは何か』を英国で出版した。同書の執筆の経緯はどうだったのか。曽は自伝で次のように記した。「手始めに、金を使ってティンパリーに依頼し、南京大虐殺の目撃記録として本を書いてもらい発行することを決めた」
 曽の述懐の通りであれば同書は第三者の外国人ジャーナリストとしての客観的立場からではなく、国際宣伝処の意向を受けて執筆されたことになる。
 これに対して、一部の中国人学者らは約50年が経過した段階での、曽の回想の信憑性を疑問視する。学者らは南京の公文書館にあるとされる史料などを根拠に、「ティンパリーが書き上げた原稿を国際宣伝処が買い取って発行した」と主張する。
 もっとも、米コーネル大所蔵のマクヒュー報告書が示したように、ティンパリーは同書執筆前の段階で、すでに中立的ではなかったことは明白だ。
 台北にある国民党の党史館が所蔵する「極機密」の印が押された史料「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」には、「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、オーストラリア人記者、ハロルド・ティンパリー著の『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(1938年出版)の中国語版名が記載されている。
 中国語版の序文を書いた文化人の郭沫若は、日中戦争勃発にあわせ、中国共産党や国際共産主義運動組織コミンテルンの支援で亡命先の日本から極秘帰国し宣伝を行っている。
 国際宣伝処は同書を反日世論工作のための「宣伝本」として位置づけ、中国語版『外人目睹中之日軍暴行』を出した。他にもニューヨーク、日本、コペンハーゲン、パリでもそれぞれの言語で出版された。英米版は12万冊出版されたという。
 同書は「南京大虐殺をいち早く世界に広めた本」(南京大虐殺記念館長の朱成山)だといわれ、連合国による戦犯裁判にも影響を与えたと指摘されている。
 国民政府が開いた南京軍事法廷の複数の判決書には『戦争とは何か』が登場する。
 特に「百人斬り」を実行したとして訴追された向井敏明、野田毅の両少尉に対する裁判では、ティンパリーによる脚色や中国語訳版における事実の書き換えが影響し、死刑判決が下ったことが立命館大特任教授、北村稔の研究で明らかになっている。
 同書は旧日本兵による放火、強姦ごうかん、殺人といった数々の暴虐行為を記すが、伝聞も多く含まれる。
 「4万近くの非武装の人間が南京城内や城門付近で殺され、うち約30パーセントは兵隊になったことのない人々だ…少なくとも中国中央部の戦闘だけで中国軍の死傷者は30万人に上り、ほぼ同数の民間人の死傷者が発生した」
 これらはティンパリーが南京で自ら見聞きした内容ではなく、自身は当時、上海にいた。執筆材料としたのは、南京にとどまっていた匿名の欧米人や南京安全区国際委員会の報告で、それらをまとめ、「編著」の形をとった。後に分担執筆者の一人と判明した米国人、マイナー・ベイツは国民政府の「顧問」でもあった。
 日中戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月)勃発後、中国・国民政府のトップ蒋介石は国際宣伝の強化を図った。同年11月に設置された国際宣伝処は翌年2月に国民党中央宣伝部に移管されたが、実態は蒋の直属組織だった。宣伝の狙いは国際世論を味方につけ日本を孤立させること。
 対外宣伝工作を取り仕切ったのは、米ミズーリ大でジャーナリズムを専攻後、米国の新聞社で記者として経験を積み、上海で英字紙の編集長を務めた経歴を持つ董顕光。蒋の英語教師を務めたこともあり、蒋の信頼が厚い人物だった。
 「一切の宣伝の痕跡を消し去り、外国人を利用して各国での宣伝工作を推進する」
 中央宣伝部副部長に起用された董はこの方針に基づき、それまでのキャリアの中で培った人脈を駆使して、中国に同情的、あるいは中国を支持する外国人記者を国際宣伝処で雇った。
 国際宣伝処は外国特派員が中国内で発信する電報を検閲し、中国に不利な情報の流出を防ぐ一方、ロンドン、ニューヨーク、パリをはじめ各国の主要都市に支部を設け、中国に有利なニュースを現地で発信した。
 ティンパリーは董が大きな信頼を寄せた外国人記者の一人だった。董は自著の中で、ティンパリーをこう紹介した。
 「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」
 ティンパリーは国際宣伝処の英米支部の開設に大きく貢献し、1938年7月には国際宣伝処の顧問に就任、9月にはマンチェスター・ガーディアンを辞職した。その後の活動は党史館にある秘密文書「中央宣伝部半年中心工作計画」に示された通り、国際宣伝処の対外宣伝工作のキーパーソンとなった。
 台北の史料館、国史館に所蔵されている蒋介石の日記などをまとめた『事略稿本』によると、ティンパリーは41年5月13日、蒋介石に面会し、夫人の姉である宋慶齢が「(対日)抗戦に役立っていない」と、蒋に苦言を呈した。それほどティンパリーが重用されていたことがうかがえる。
 宣伝工作の「責任者」として、国民党と蜜月関係にあったティンパリーだったが、やがて仲たがいしていく。
 董は自伝で、ティンパリーが専用のクルーザーや車を要求するなど高慢な態度を取るようになったと批判した。ティンパリーは41年後半以降、同処との関係が悪化、徐々に「宣伝工作の戦線」から姿を消す。
 英字メディアを舞台とした中国の「宣伝戦」はいまも変わらない。
 最近では、3月20日付の英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)=電子版=が、「中国の慰安婦」と題する長文の記事を掲載した。1942年に16歳で慰安婦にされたという山西省の女性(88)が、日本兵が自宅に押し入ってきたときの記憶を振り返るとともに、日本政府を相手取って起こした謝罪・賠償訴訟も棄却され、中国政府の支援もなく精神的なトラウマを抱えて生きているという仕立てだ。
 中国人慰安婦の数を「20万人」としているが、根拠は「中国人学者の推計」とあるのみだ。
 この女性は国営新華社通信(英文)も昨年9月に配信した記事で取り上げていた。中国にいる元慰安婦や関係者が自由に外国メディアからの取材に応じることはないとみられる。
 米紙ウォールストリート・ジャーナル(WSJ)も昨年6月、『中国人慰安婦』を出版した中国人教授に取材した。この教授は「歴史と未来のために、旧日本軍が敵国の女性や市民を言葉にならないほど残忍に扱ったという点を指摘することも重要だ」と、執筆の動機を語っている。
 慰安婦というと韓国のイメージが強く、中国人慰安婦には焦点はあたってこなかった。しかし、昨年6月、中国は慰安婦に関する資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)記憶遺産に登録申請した。今後の展開をにらみ、欧米メディアを巻き込んだ宣伝戦が始まっている。
〔池田祥子,岡部伸,河崎真澄,田北真樹子,田中靖人,原川貴郎,矢板明夫〕

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