索引
 明治期のニュービジネスとしての広告代理店は、日刊新聞というマス媒体の出現によって誕生した。
 そして、 マス媒体としての日刊新聞もニュービジネスであったため、新聞社と広告代理店はその成長過程において密接な関係にあった。
 日刊新聞の前身は瓦版であり、江戸時代から存在していたが定期的なものではなかった。
 幕末から明治初期にかけて、主に外国人による定期的な新聞や雑誌が相次いで刊行されるようになったが、その大半は外国語によるもので、日本に居留する外国人が対象のものが主流で、日本人全体には馴染みのない存在だった。
 ただ、これらの刊行物に日本の商品やサービスの広告が外国語で掲載されるケースもあったが、これも外国人を対象としたもので、日本人にはほとんど無縁の存在だったものと思われる。
 これら外国人による外国語の新聞や雑誌の存在が文明開化の時代の日本に刺激を与え、日本人による日本人向けのマス媒体の出現を促したことは間違いないことで、外国のマス媒体の相次ぐ創刊が、日本の日刊新聞の創刊に大きな影響を与えたことは事実であろう。
 ところで、日本で最も早く創刊された日刊新聞は1870年(明治3年)12月に創刊された横浜新聞で、翌1871年(4月)横浜毎日新聞と改題され、さらに1879年には東京横浜毎日新聞と再改題、1886年には毎日新聞(現在の毎日新聞とは別)となる。
 この間、横浜から東京に本拠地を移動させ、1888年(沼間守一社長の時代)、広告代理店広告社(湯澤精司社主)を設立し、広告業務を広告代理店に依存する方針を採用した。
 その意味では沼間社長は後に述べる時事新報社を創立した福澤諭吉とともに、新聞発行者であるとともに、広告代理店との関連も深い人物といってよい。
 横浜新聞の創刊時の形態は2頁建てで、発行部数も少なく、広告件数も僅かだったが、日本初の活字印刷による発刊であることに注目される。
 同時に同新聞の発行が契機となって、以降1871年から日刊新聞の創刊ラッシュの時代を迎えることになる。
 ここで、1879年(明治12年)に大阪朝日新聞が創刊されるまでの主な新聞の創刊を順を追ってみてみたい。
 これは大阪朝日新聞の創刊によって、広告取次を業とする会社が大阪に出現したためである。
 ☆1871年新聞雑誌(曙新聞、東京曙新聞、東洋新報と改題)、京都新報(京都新聞と改題)、名古屋新聞(愛知新聞と改題)
 ☆1872年東京日日新聞(毎日電報と東京日日新聞が合併、東京日日新聞となり、大阪毎日新聞が経営を継承)、日新真事誌(イギリス人が経営していたが1875年廃刊)、郵便報知新聞(1884年報知新聞と改題)、公文通誌(1874年朝野新聞と改題)
 ☆1874年読売新聞
 ☆1875年平假名絵入新聞(東京絵入新聞と改題)、浪花新聞(大阪1877年廃刊)
 ☆1876年大阪日報(1882年日本立憲政党新聞に吸収されるが再び大阪日報に戻り、1888年大阪毎日新聞となる)、中外物価新報(中外商業新報、日本産業経済新聞、日本経済新聞と改題)、山形新聞、愛媛新聞
 ☆1877年京都日日新聞、大阪新聞(大阪日報に吸収される)、筑紫新聞(1880年福岡日日新聞と改題、九州日報と合併、西日本新聞となる)
 ☆1878年土陽新聞、大阪でっち新聞
 ☆1879年大阪朝日新聞
 10年足らずの間に約20の新聞が発行されたにもかかわらず、広告代理店が大阪に出現しなかったのは、広告主が直接新聞社に出向いていたためと思われる。
 また、初期の新聞は発行部数も少なかったこと、広告料金も安価なため広告取次で経営することがむずかしかったためと推定される。
 このように大阪では広告代理店は出現しなかったが、東京では新聞紙が10紙に満たなかった1873年に内外用達会社が、新聞紙が倍増した1878年に広告引札屋が、それぞれ東京銀座に創業している。
 内外用達会社の業務内容は明確になっていないが、広告取次が業務に含まれていたようだ。
 広告引札屋は広告関連業務をしていた会社で、新たに広告取次業務を加えたものとみられる。
 両社とも、時期尚早だったためか、その後は広告取次を中断したのではないか。
 いってみれば、広告取次業をはじめても事実上商売にはならなかったので、その後の消息がわからなくなったのであろう。
 もう1つは空気堂組という会社が、1890年に広告取次を業務とする自らの新聞広告を掲載したが、その文面のなかで10年前からはじめていると記載されていることから、1880年に広告取次を創業したと判断される。
 ただ、前2社同様、その後の消息はつかめていないので、実態は不明のままである。
 このように、東京には3社の広告取次が創業したが、大阪ではその間1社も創業しなかったのは、大阪が東京に比較して、新聞紙数が少なかったことが影響したものと思われる。
 大阪朝日新聞が創刊されたのは1879年1月であるが、大阪に創業した西京支局(太田権七)は京都西京新京極、北尾新聞舗は大阪心斎橋に所在したが、いずれも大阪朝日新聞の大手販売店の副業だった。
 大阪朝日新聞の読者から広告出稿を依頼された分を取次ぐ程度で、広告出稿件数も広告費も僅かだったといわれている。
 西京支局は販売は継続したが、広告取次はいつの間にか中止した。
 しかし、北尾新聞舗は細々と継続されていたようだ。
 この2社のほか、神戸に弘読社が創業したほか、鉄道広告専門の連雀社が存在したと記録されているが、いずれもその後の消息はわからない。
 このように、大阪でも初期の広告代理店は創業はしたものの、大成しないまま終わったのが実情といってよいようだ。
 時事新報が創刊されたのは1882年3月であるが、創立者の福澤諭吉は広告収入を考慮した新聞経営を計画していたこともあって、広告を増やすことに力を入れた。
 弘報堂が創業したのは1884年であるが、前年の1883年に福澤諭吉のすすめで、永田作右衛門(自由新聞社員)と中沢丙一(絵入朝野新聞社員)が、個人の資格で広告取次業務をはじめたことが知られている。
 この両氏は1888年に広益社を創業しているので、個人的な広告業務が成り立っていたのではないかと推測される。
 ただ、広益社は両氏のうち永田氏が1892年に東京朝日新聞のメディアレップとなったため、同年に解散してしまった。
 永田氏は広告取次業務に精通していたベテランとみられていたので、永田氏が在籍していれば広益社は存続していた可能性がある。
 江藤直純が福澤諭吉のすすめで、広告取次を主とする弘報堂を創業した1884年(明治17年)は大阪朝日新聞創刊以降5年が経過していて、その間、新聞紙の数も発行部数もかなり増加、従って広告量、広告費も増えていたので、努力次第では経営が成り立つと判断したためと思われる。
 とはいえ、新聞広告が一般社会に十分認知されていなかった時代だけに、弘報堂の経営はかなりきびしかったものと推測される。
 ただ、江藤の努力が実って経営が軌道にのるようになり、10年後には社員も10名になり、銀座に事務所を構えるまでに至った。
 この弘報堂の業績の好転が契機となって、1885年以降は広告取次業務を主とする広告代理店が相次いで創業することになる。
 1886年以降の主な広告代理店の創業状況を順を追ってみると以下の通りとなる。
 ☆1887年全国新聞広告取扱所(のちの鐘紡社長武藤山治)、名古屋通信社
 ☆1888年広告社(湯澤精司社主、毎日新聞が出資)、広益社(永田作右衛門、中沢丙一の共同業)、三成社(時事新報社社員坂田実、三宅豹三、岡崎郁次郎)、広目屋(秋田柳吉、のちチンドン屋を開業)、時事通信社(三井物産益田孝出資)、東京通信社、東京急報社
 ☆1889年出版社の金蘭社が広告代理店洋々社を買収、広告代理店を兼営、豊国通信社(谷口新造)、日本通信社
 ☆1890年新聞用達会社(矢野文雄郵便報知新聞社長出資)、萬年社(大阪、高木貞衛、林孫七、川口直七3者共同出資)、弘業社(与田利作)、正路喜社(池上市藏)、地方新聞協同倶楽部(地方新聞中心の広告業務が主力)、太平洋広告取扱社(アメリカ人経営の外国語専門の広告代理店)
 ☆1892年三星社(大阪、池田文太郎)
 ☆1893年金水堂(大阪、福井健造)
 ☆1894年勉強社(神戸、鳥井虎吉)
 ☆1895年京華社(京都、後川文藏)、博報堂(瀬木博尚)広告代理店は東京に出現した
 ☆1897年横浜通信社、日本広告塔
 ☆1898年介立社(川関治郎)
 ☆1899年倣蟻社(金子音次郎)
 ☆1901年日本広告(光永星郎)、電報通信社(1906年に日本電報通信社と改称)、電灯広告
 ☆1907年日本電報通信社が日本広告を合併、日本電報通信社(資本金26万円)、中外広告社(大阪、日浩社の業務継承)
 ☆1908年京浜広告社
 ☆1910年旭広告社(大阪、奥野幾次郎)
 ☆1911年川丈広告部(福岡)明治時代に創業、創立した広告代理店は以上の通りであるが、そのほとんどが新聞広告を主力とする会社である。
 しかし、明治末期になると、同じ新聞広告でも案内広告を専門とする会社が出現するようになる。
 その最初は1907年(明治40年)に、一般広告の取扱いから案内広告専門に転換した粕谷三芳社(伊藤正之輔)である。
 次いで1912年の吉川世民社(吉川守圀)、板橋日弘社(板橋寛助)の2社で、これらの3社が、新聞案内広告の草分けとして、大正期、昭和初期の案内広告全盛時代をリードすることになる。
 一方、新聞広告取扱いを主力とする広告代理店は新聞発行量の増加に伴い、広告量、広告費が増大したため、企業規模を拡大する会社が増えるようになった。
 主な会社をみると、1895年に京都に創業した京華社は、名古屋、東京、大阪、神戸へ拡大、当時にしては最大のネットワークを形成した。
 また、京都の日出新聞の経営にも乗り出すなど、広告代理店以外の事業にも進出した。
 また、電通は大阪、名古屋に、萬年社は大阪本社から東京、京都に、三星社は大阪本社から東京にそれぞれ進出した。
 電通は、明治時代は大阪、名古屋にとどまったが大正以降は全国にネットワークを拡大することになり、1912年(明治45年)東京銀座に本社ビルを完成させた。
 このほか1892年には電通のライバルとなる帝国通信社が、1888年創立の時事通信社と1890年創立の新聞用達会社が合併して設立された。
 このように有力会社の成長の半面、全国新聞広告取扱所が創立の翌年に廃業したほか、1892年には広益社が解散するなど、変動も激しかった。
 新聞の創刊ラッシュと新聞の発行部数の増大で、広告量、広告費が著しく上昇したことにより、広告代理店間の競争が激しさを増すようになってきたが、広告取扱業務を主とする業界だけに、競争の手段が広告料金のダンピングに集約されるようになった。
 この広告料金のダンピング競争は広告代理店にとっては死活問題に発展しかねないものだけに、これを防ぐための方法がとられるようになった。
 最初は1893年の「東京新聞広告取扱同盟」の結成で、東京の有力広告代理店である弘報堂、広告社、金蘭社、帝国通信社、正路喜社、広目屋の6社が加盟して、ダンピングの防止を図った。
 しかし、広告代理店だけの努力ではダンピング防止はむずかしいとみて、1897年に改めて、「東京新聞広告取次同盟会」を再結成、6社に加えて東京通信社、三成社が加盟した。
 そして、同盟会の趣旨を15の主要新聞社の広告責任者に伝達して、その承認を得ることになった。
 この2回目の同盟会は新聞社の協力を得たことにより、1回目よりは効果が高まったが、同盟会が新聞社からの信認を得たことによって、シンジケート化される傾向が高まり、同盟会に未加盟の広告代理店は新聞社との直接的な広告取引ができなくなり、未加盟社は同盟会のメンバーを通して取引するまでに発展したようだ。
 一方、大阪でも東京同様ダンピング問題には悩んでいたようで、1899年に有力な萬年社、三星社、勉強社、金水堂、日浩社、倣蟻社の6社が「広告同盟会」を結成した。
 大阪ではそれ以前から萬年社と三星社が「広告従業員懇談会」を開催して、広告料金のダンピング防止に努めていたが、なかなか効果がでなかったために「広告同盟会」の結成になったものと推測される。
 この「同盟会」は1916年には「水曜会」に発展して長期間継続する組織となった。
 この東京と大阪に同盟会が結成された時は、電通は存在していなかった。
 このため、電通(日本広告)が創立した1901年は同盟会が広告を取りまとめていた。
 結成時8社だった東京の「同盟会」は年月の経過で、メンバー間に優劣が生じ、電通創立時は8社のうち弘報堂、広告社、金蘭社、帝国通信社、正路喜社の5社が勢力を拡大した半面、三成社、東京通信社、広目屋は5社のシンジケートから除外されていたものとみられる。
 このため勢力を増した5社は新聞社に対する圧力をますます強くし、新聞社はこれら5社に対する割増マージンの増加を余儀なくされていた。
 電通の発足は後発だったため、広告主に対する喰い込みにはかなりの努力を必要とした。
 しかし、後発のハンディを克服して着実に広告売上げを伸ばしていったが、経営が黒字になったのは2年目からだったといわれている。
 当初からの広告出稿と通信料金を相殺する方法で、各新聞社との取引が可能だったこと、「健、根、信」をモットーとするねばり強い営業が効を奏して、日本電報通信社が日本広告(1901年創立)を合併した1907年には、同盟会の有力5社を上回るまでに急成長した。
 電通は1908年に創立7周年記念式典を開催し、関係者約1,000名を招待したが、この席で、各新聞社の代表者から電通の業績が最高であることが披露され、電通が東京ではトップの広告代理店になったことが、広告業界に知れ渡ることになった。
 ただ、どの新聞社の代表も金額を明示しなかったため、トップとなった電通の売上げがどの程度であったかはわからなかった。
 ここで、1904年に大阪毎日新聞社が広告増収策のために発行した「広告大福帳」1月号に掲載された東京の広告代理店の1903年(明治36年)の1カ月の売上げをみると、トップは弘報堂の1万円である。
 弘報堂は硬派広告主のウエイトが高く、決算月には決算報告書が公告掲載されるので2万円に達すると注釈されている。
 2番目が電通で5000円~6000円、3番目が正路喜社、金蘭社、帝国通信社の4000円~5000円、以下広目屋の3000円~4000円、三成社の2000円、弘業社の1000円、細井組の700円~800円と記せられている。
 有力社の1社の広告社がランクにないのは、業績が下り坂のためとみられているが真相は不明である。
 因みに唯一明治時代の売上げが明確になっている萬年社の1903年の年間売上げは22万8312円なので、月平均は約1万9000円となり、弘報堂の2倍近い売上げになっている。
 各広告代理店の売上げがはっきりしていないため、全体の広告売上げ規模を示すことができないが、萬朝報の記者だった幸徳秋水は1902年(明治35年)の日本の広告費を300万円と推定している。
 これによると東京の新聞広告収入が月7万円(年間84万円)、大阪の新聞広告収入が月3万円(年間36万円)、地方紙の合計が月10万円(年間120万円)、その他雑誌広告、屋外広告、SP広告などが年間60万円としている。
 これを裏付ける具体的な資料はないが、東京朝日新聞の1902年の年間広告収入が7万7429円(1903年の発行部数は7万4000部で、東京13紙の総発行部数の12.6%で、13紙中4位)なので、大雑把にみると秋水の推定とそう変りはない。
 大阪は大阪朝日新聞の広告収入が22万8177円(1902年)で、萬年社の大阪毎日新聞社の売上げなどからみて秋水の推定の範囲内とみられる。
 地方新聞はデータが全くないのでなんともいえないが、東京、大阪の裏付けからみてそう大きな差はないものとみられる。
 雑誌、屋外、SPなどは見当がつかないが、そう大きな誤差はないのではないか。
 もし、秋水の推定が正しいとすると、1900年の日本の、国家財政の一般会計歳入が2億9600万円なので、年は若干ずれるが、1902年の日本の広告費の一般歳入に占める比率はほぼ1%ということになる。
 広告取次を主とする広告代理店は弘報堂、三成社、広益社は福澤諭吉から、広告社は沼間守一から、新聞用達会社(のちの帝国通信社)は矢野文雄からそれぞれ支援されて創業し、それぞれ支援された新聞社の広告掲載を主力として成長した。
 福澤、沼間の両氏はアメリカの新聞社と広告会社の関係を熟知したことによって、日本で実行に移す努力をしたものであるが、大部分の広告代理店は間接的な関連は別として、直接新聞社との関連はなかった。
 また、広告代理店の発展も東京と大阪ではかなりの相違があった。
 東京は有力新聞社が10数社あったため、各社入り乱れた競争となり、特定の新聞社との深い関係に入った広告代理店が少なかったのに対し、大阪は萬年社が大阪毎日新聞の広告をほぼ独占する方法を採用したほか、大阪朝日新聞にも大きく喰い込むなど、大阪地区に於いて特異な存在となっていたこと。
 その反動で大阪朝日新聞は京華社、金水堂、三星社、勉強社、倣蟻社など多くの有力広告代理店と取引を余儀なくされた。
 また、有力広告代理店も大阪朝日新聞を主力としながら、地方新聞や、なかには東京に進出して東京の新聞との取引をするようになるなど、かなりの相違点がある。
 これは、大阪では大阪朝日新聞と大阪毎日新聞の2大新聞が激しい競争を展開していて、2社に匹敵する新聞社が育成されなかったことに大きな原因があったものと推定される。
 最後に、明治時代の新聞社と広告主の広告取引は、新聞社と広告主が直接取引するケースも少なくなかったようで、とくに大手広告主に多かったものとみられている。
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
inserted by FC2 system