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神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人物伝記(6-039)
報知新聞 昭和12年6月3日
近衛公の横顔
"新日本のホープ"青年新宰相

世が世なら衣冠束帯、長袴…千切れた拍子木みたいな笏持って"アア麿は腹がひもじい、芋粥が食いたい!"と青空眺めて歎じたであろうに、時よ、時節よ!…五摂家筆頭の近衛家御曹子、文麿公は総理の大命拝して恋女房、イヤ奥方の千代子夫人(毛利高範子の次女、本年四十二歳)から『まあ大臣なんてお役いやでござアますわ』と昭和八年、アメリカ帰りの公爵が時の拓相に推された時には、敢然抗議を受けた事もあったのに、ああそれなのに、それなのに…日本の花柳界の奇麗処に一番人気のある変り種が現在何と!双葉山と近衛公で、伝研宮川博士の一言で万事O・K—その身卑賎の我々でさえ出そうで出ないアレの出た後は至極明朗で爽快だ、ましてや動きそうもなかった時代の大物!それがついに出たのだから重苦しい日本の空気の中にもここしばらく近衛時代の花が咲き続けようというもの…
処で『痩躯鶴の如し』という言葉がある、それが銀座の舗道をさっ爽と歩く粋も甘いもかみ分けた粋公子—本年僅か四十七歳、あくまでも二十世紀型の総理大臣ですゾ—にピッタリあてはまる言葉で、身長五尺九寸五分で体重十八貫五百…その身長を五分だけかくして
冗、冗談じゃない、僕はかっきり五尺九寸しかないよ
と妙な縁起をかつぐ処がモダーン貴公子随一の特徴でもあるので…その辺から糸車の糸をほどいて彼の横顔を描き上げよう!
東京市麹町区永田町の一角、白あの議事堂を間近に見て政界の惑星近衛公爵家と、実業界の惑星小林一三氏邸とが背中合せなのも皮肉だが、その狭い小路に黄色な遊覧自動車がとまってバス・ガールがわめいている—
そもそも近衛家と申しまするのは大織冠藤原鎌足公十八世の卸孫藤原基実公が近衛の家名を畏き辺りより賜わって創設遊ばした五摂家筆頭の貴いお屋敷で、当主文麿公は近衛家二十四代目に当らせられ、今を時めく貴族院議長を初め宗秩寮審議官、麝香間祗候、国際文化振興会長、印度支那協会長、シァム協会長等々…それはそれは沢山の肩書をお持ち遊ばされ、御親戚にもまた叔母君泰子姫が将軍様徳川家達公にお嫁づき遊ばして徳川家と御親戚なのを初め名前だけ申上げましても大山公爵家、前田侯爵家、筑波侯爵家、清岡子爵家、平松子爵家、毛利子爵家、黒田男爵家…
とアアくたびれる…バス・ガールならずともいちいち名前を読み上げることは心臓の弱い筆者にとっては至難の業なので、何のことはない、日本の華族全部を動員した方が手ッ取早い名門で、これだけは確かだ—彼が太織冠藤原鎌足の四十二代目曾孫に当ること!そしてこんなお偉ら方を"我等の親父"に戴いたのであるから代議士諸君も今少しお行儀をよくしないと眼がつぶれますゾ、何せ半世紀前まではお顔をおがむだけでも眼がつぶれた程なのだから、しかし話しを戻そう—
大正三年の春である—桜花らん漫と咲き乱れる京都帝大の玄関先痩身痩躯の帝大生が学生監といい争っている…
『どうしても駄目だ、願書の締切日から三日も経っているじゃないか』
『何度お願いしても?』
『勿論—』
『じゃ私も河上肇博士の社会科学が聞きたくて遥々東京帝大から転校して来たんだ、それを無情に追い帰すならヨシ私も男だ、死んでもここから動かないから—』
と玄関先へデッカと据えた信玄袋!その上へ腰を下して学生監をグッとにらんだので
まあ、待て、待て、君!
とスッカリあわてた学生監、信玄袋戦術が功を奏して東京帝大哲学科から京都帝大法学部へ転校を許されたがその青年が、文麿公であった事は勿論の事、それからの大学生・文麿は河上博士の講義にばかり出席し
主義と目的のため放逐される位人間と生れてむしろ痛快ではないか
と博士がクロポトキンを讚えれば
そこだ、先生!
と青年・文麿は卓子をたたいて叫んだ…
貴公子と社会主義!その妙な組合せには誰しもが不審を抱くであろうが、それにはまたそれで事情があった—
三代目貴族院議長として時めいた先代篤麿公が日露戦争の真最中ポックリ死んで文麿公が僅か十四歳で家名を嗣いだ時近衛家には一銭の金もなくて借金だけがあった、五摂家の筆頭もクソもなかった、そして文麿公が家宝の軸物を持って債務者をおとずれ借金の棒引を頼んでも
何んや、貧乏公卿!貸した現金にゃ現金で返さんかい
と罵られ子供心にも悲しくて京都の町を雨にぬれつつさまよった事も幾度か…だからこそこの貴公子の胸にも限りなき社会への反抗心が芽生え、学習院時代には『小煩い爺奴!』と乃木将軍を罵ってトルストイに心酔し、一高の文科時代には山本有三氏や菊池寛氏等と野球ばかりに熱中し、東京帝大から京都帝大へ移っては当時勃興し始めた社会主義に関心を持ち始めたのは当然だ
そしてそれから半年後だ、彼が西園寺公をおとずれた時、名家の御曹子とあって上座にすえ『閣下々々』を連発されたのに憤慨し
二度とこんな親爺に会いに来るもんか、クソ狸爺!
と席を蹴って帰った人間・近衛の有名な逸話もまたその精だ…
しかし彼を社会主義から解放し、正しい日本貴族の精神へ復帰せしめたのも園公ではなかったか—可愛い子には旅をさせろだ、園公と近衛家の関係は先代篤麿公時代に始まるものであるが、大正七年のパリ講和会議に文麿公(大学卒業の翌年)を随行せしめたのを手初めに、貴族院時代の文麿公を研究会の領袖水野直子に預けてみにくい政界の表裏を研究させたのも公正会の公達達と貴院の浄化を叫んで火曜会を組織せしめたのも所詮は園公の『可愛い子には旅をさせろ』の恩情からではなかったか—
そしてその政界修業があったればこそ三十年続いた徳川公の後を受け五代目貴院議長として天晴れ名レフリー振りを示す事も出来たので…正しい日本貴族の精神に返った彼は我等より一段高所に立って今まで何をして来たか?
読書、読書、三度重ねて読書だ、
そしてある新聞記者が彼をおとずれた時、彼の机上にはいわく高橋亀吉著の『資本主義末期の研究』猪俣津南雄著の『現代日本研究』今中次麿著の『独裁政治叢書』等々…
そして一時は社会主義にすら向わうとした彼の情熱があらゆる知識を求めて、その周囲に交遊と数えられた人々が蝋山政道に芦田均、高橋亀吉に今中次麿、さながら思想界の大御所の感があって宇垣氏の組閣本部で名をあげた林弥三吉中将をも再三自邸へ招いて説を聞いた程だ
生物の嫌いな彼、刺身も食べず好物のイチゴさえ百度に沸騰させた熱湯のさまし水で洗わねば食べない程の彼!
しかし何といっても鎌足以来千二百年の伝統が凝結した貴族精神の権化、近衛公だ、ゴルフ、テニス、水泳、野球と数えられる多趣味も所詮は彼が教養と英国流紳士の器用さでさばく貴族の余技に過ぎないので、人間・近衛は全く無趣味だ—無趣味であるが故に彼が読書にあいた時、鎌倉山の別荘で請願巡査加藤君の愛娘ゆき江さん(五つ)をヒョイと肩車にかつぎ、江の島の見える坂道をプラプラ歩きながら時折りは
君恋し…
とそれこそ調子はずれのドラ声で時代放れのした流行歌の一節が飛出すこともあったのだ
流行歌を口ずさむ宰相—何と微笑ましい光景ではないか、そして鎌倉山の別荘についてはこんな秘話もあるのだ—
延寿太夫、田中絹代、松永和風の住んでいる鎌倉山!そこにある彼の別荘は藤原義江氏邸と松本丞治氏邸のモダンと豪壮の間にはさまれたそれこそちゃちな、長身の彼がウッカリ背のびでもしようものなら忽ち壁を突き破りそうな小さな平屋で鎌倉山に住んだ因果さよ—彼が決して承知しない揮毫がこの世にタッタ一枚、鎌倉山村当局者に強奪されて、アアなんと、八幡様の御神体になっているのだ!そしてこの四月だ、どこか貴族的な強情さのある彼が、生れて初めて手放しで泣いた事件が起きた—
彼の一番愛していた加藤請願巡査(三二)が警部補試験にパスした当日、突然アスピリン中毒で死んだのだ、彼は船員上りで、剣道四段、鎌倉署切ってのモダン巡査で、モダン貴公子とモダン味相照らし、彼の口ぐせが
ああ、ウチの大将が総理になったら、総理になったら…
だから彼の一家が近衛別邸を引払う時、彼の愛娘ゆき江さん(五つ)のオカッパを撫でつつ
お前とも最早遊ぶ機会がなくなった
と豪毅不屈な貴公子もワッと手放しで泣き、大命を拝したきのう、晴れの参内を前に
せめてこの姿を一度だけでも加藤に見せてやりたかった…
と歎息を漏らして家人に語ったそうだ…
とまれ"新日本最後の切札"が登場した、颯爽と夏風ついて待つ事久しかった登場、健在であれ、近衛丸!…(脇山康之助)
データ作成:2010.6 神戸大学附属図書館
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