目次
皇室関連虚報
「週刊文春」(平成30年7月26日号)の記事について
平成30年7月30日
週刊文春7月26日号の「小室さんは『夢追い人なの』~美智子さまのお嘆きと眞子さまのNY行き」と題する記事において,匿名の「知人」の話として,皇后さまが小室圭さんのことを「あの方は夢追い人なの。でもその夢は完成しない,不完全なもの」と語られるなど,様々に話されたとの記述があります。記事は,その背景について,8月から3年間の予定で小室さんが米国留学するとの報に「ご心配が募った」皇后さまが,小室さんの将来を憂えて知人に話したものと説明し,さらに,小説「星の王子さま」に出てくるエピソードまでを例にあげ,「知人」という人が伝える皇后さまのお言葉なるものを紹介しています。
眞子内親王殿下をめぐる週刊誌報道については,既に本年5月25日に宮内庁ホームページで,両陛下は,極力周囲の雑音から眞子さまを守り,静かな状況を保つ中で,眞子さまがご自分の考えを深められるよう首尾一貫して一切の発言を慎まれてこられたこと,また,眞子さまや秋篠宮両殿下の周辺で,皇后さまの名の下に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることに皇后さまのみならず陛下も深くお心を痛めておられることを説明しました。
記事は,このホームページにおける説明の一部を引用しつつも,「美智子さまのお嘆きの気持ちは,余りにも痛切だ。・・・『小室さん米国留学』の一報は,皇室の雰囲気を一変させるに余りあるものだった」として,「知人」の談話を通して,その後,皇后さまのお考えが変わったと報じています。
しかし,この問題に対する両陛下のご対応には,その後も全く変わりがありません。今も一貫して一切の発言を慎まれています。
なお,日頃から両陛下と親しく,そのお気持ちをよく知る本当の「知人」であれば,このような時に,敢えて両陛下のお気持ちに立ち入ろうとしたり,匿名の「知人」として外部に自分が推測した話をするようなことは到底考えられないことです。
宮内庁として,眞子さまや秋篠宮両殿下,お相手の方に静かに考える環境をお与えになることを最重要と判断され,沈黙に徹してこられた両陛下のお考えが再び無にされたことは遺憾であり,今回の記事によって読者のみならず,様々な形でこの問題に関係する人々にも誤解が生じないよう重ねて説明することにしました。
「サンデー毎日」(平成30年7月1日号)の記事について
平成30年7月18日
サンデー毎日7月1日号の「勁つよき声~美智子さまとその時代」と題する工藤美代子氏の連載(第3回後編)において,東宮妃殿下時代の皇后さまにお仕えした故牧野純子東宮女官長(以下「故女官長」という。)の友人の娘で,97歳になる「香子」という仮名の人物が,自分の母親又は故女官長から直接聞いたという話を基に,皇后さまと故女官長との間の不和を取り上げる記事が掲載されています。
筆者は,「一方的な見解だという批判もあるかもしれない」が,「それは承知の上で,私はオーラルヒストリーとして,純子が香子さんの母親に語った体験談を採集しておきたいと考えた」として,事実の存否やその客観性,正確性の確認なく記述を進めていますが,この談話では,実際になかったことが事実として語られていたり,当時の状況を取り違えて話されているなど,これを放置することは読者に大きな誤解を与えかねず,宮内庁として記事についての事実関係を説明することにします。
まず,ご成婚後の伊勢神宮参拝時の皇后さまのお洋服に関し,「スカートがパーッて広がっていて,針金がぐるぐる入っている・・・宝塚みたいなスカートをお召しになっていらした」とし,故女官長が「こうしたお洋服は伊勢神宮ではお召しにならないから,ちょっと針金を取らせていただくことにした」が,「妃殿下が針金をまた付け直していらしたんですって」との談話が記述されています。
しかし,この時,皇后さまがお召しのご参拝服に針金は入っていません。後年,ご処理の時に「覚え」として職員が残した絵型の付記からも明らかですが,何よりもこのことは,当時,このご参拝服が用意された経緯から言ってもあり得ないことです。
「香子さん」は,「なぜいろいろお洋服のことだって,高松さん(高松宮喜久子妃)とか,あるいは女官長などにお尋ねにならなかったのか。」と語り,当時,皇后さまがお召しものについて誰とも相談なさらなかったと言っています。御婚約内定当時,東宮職には4人の参与がおり,その中の紅一点が,明治,大正と宮中に務め,昭和24年に東宮職参与を拝命した松平信子氏(秩父宮勢津子妃の母上で元外交官夫人)でした。ご婚約中の皇后さまのお支度は,高松宮妃殿下等に一部が委ねられた他は,この東宮職で唯一の女性参与であった松平氏にすべて託され,件くだんのご参拝服も氏の指名したデザイナーが担当しています。なお,故女官長は,ご成婚直前ともいえる4月1日の拝命で,お支度には携わっていません。当時の皇后さまのお洋服は,その絵型がデザイナーから松平氏の手を経て,当時の香淳皇后付きの2人の女性御用掛(高木多都雄氏,河合りょう子氏)に回付され,このお二人は千代田区三番町の宮内庁分室における皇后さまの仮縫いにも立ち会っています。
このように,当時の皇后さまのお洋服の仕立ては,宮中の服装に関し,当時最も権威あるとされた人々の手を経て行われていたのですから,談話の内容は松平,高木,河合の3氏の責任を問うことになり,また,御結婚後10日に満たない妃殿下が,これから初めて神宮の参拝に臨まれようとする差し迫った時間に,針金を抜き取る云々というということがあったとすれば,それは香子さんが擁護しようとした故女官長の人格を却って傷つけかねないことになります。
また,談話の中に,故女官長の推薦で仕えることになった学習院出身の女官について,「ご注意を受けては,毎日帰ってきて泣いているんですって。見かねたお母様が『もう・・・娘は辞めさせていただきたい』っておば様(故女官長)に願い出たの。そうしたらおば様は,・・・『1年だけは我慢しなさい。何があっても我慢すれば,退職金が出るから』とおっしゃったそうよ」との記述があります。
談話に該当する女官は,ご成婚時に採用された3人の女官の1人ですが,この女官はその後26年,これまでの女官全員の中でも2番目に長い期間(他の2名は12年,17年)勤務し,皇后さまは,その間,2度の外国ご訪問,国内の数多くの式典や地方行啓にこの女官をお連れになっています。
また,「学習院出身の女官の方は他にもずいぶんお辞めになりました」との記述もありますが,故女官長の在職中に拝命したり,退職したりした学習院出身の女官は一人もありません。この女官の次に出仕した学習院出身者は,故女官長の後任の松村淑子,井上和子,濱本松子の3人の女官長で,いずれも務めを全うしています。皇后さまは,宮中生活のほとんどをこれらの学習院出身の女官長の支えを得て送られてきました。
さらに,談話として,当時の浩宮さまご誕生後,宮内庁病院をご退院になるときの様子を「おば様は,『絶対にお窓をお開けになってはいけません』って美智子さまに申し上げたの。大勢のカメラマンがいっせいにフラッシュを焚いたら新生児によくないとわかっていたから。でも,美智子さまはお開けになってしまって,ちょこっとこういうふうに赤ちゃんを見せるようになさったの。だから後から,おば様が窓を開けさせなかったって,すごく悪者に書かれました。」との記述があります。
この事件については,後に八木貞二元東宮侍従が,その頃東宮大夫であった鈴木菊男氏から聞き,記録したメモを基に,文藝春秋に次のような文章を寄稿しています。
「ご退院を巡り,当時宮内記者クラブと担当の黒木従達東宮侍従との間で一つの押し問答があった。ご退院の時に取材があることを前日に申し上げた時に,まだお生まれ早々なので,フラッシュだけはたかないでもらえないだろうか,という妃殿下のご要望がおありであったのである。記者クラブはこれを却下した。戸外ならともかく,車中は無理だというのである。当時のカメラの性能は,今とは随分違った。フラッシュも強く,まだボンというマグネシウムもたかれかねない時代である。・・・そうした中で,このフラッシュについてだけは,重ねてお頼みになり,黒木さんは再び交渉した。クラブの人々は,何とかして新宮様をお抱きの妃殿下のよいお写真を頂きたいし,一方妃殿下は,何とかしてこの強い光の衝撃から新宮様をお守りになりたかったのだろう。結果として,記者クラブから代案が出された。もしフラッシュをたかないのであれば,お車の窓を開け,発進をゆっくりとし,時間をかけて撮影させて頂きたい,というものである。妃殿下はこの代案を受け入れ,窓をお開けになった。窓を開くか,フラッシュをたくか,二つに一つを選ぶ中での選択であった。」
事実が基にあれば,それに対する様々な見方があって構いません。
しかし,今回の記事は,実際にあった事実を基にするのではなく,母親を介し,又は自らが伝聞したという「香子」さんの記憶だけを採録し,それを事実として筆者自身の「見方」を述べたものです。宮内庁としては,ご譲位を来年に控え,ご高齢のお体で最後のお務めを果たされている両陛下について,今更のように第三者の語る当時の噂話が十分な検証や当時の状況説明もなく世間に流布されることは放置すべきでないと考え,宮内庁ホームページで改めて当時の事実関係を説明すると共に,筆者及び出版社にこの内容を通知することにしました。
皇太子同妃両殿下御結婚満25年に際しての記者会見開催要望への対応について
平成30年6月22日
宮内庁東宮職
最近,一部週刊誌において,皇太子同妃両殿下の御結婚満25年に際しての宮内記者会からの記者会見開催に関する要望への対応について,事実に反する記事が掲載されていることから,宮内庁東宮職として,国民の皆様に正しい理解をお持ち頂くのが適当との観点から,以下のとおり経緯を説明致します。

宮内記者会より出された記者会見の要望については,東宮職として,皇太子同妃両殿下の御活動やお気持ちをできる限り国民の皆様にお伝えするのが望ましいとの観点から,その可能性について両殿下に御相談申し上げ,直前に至るまで真剣に検討してまいりました。
今回の記者会見開催に関する要望については,御結婚記念日の直前には「みどりの愛護」のつどい御臨席などのための滋賀県行啓やベトナム国国家主席同令夫人の国賓行事などがあり,また,御結婚満25年に際しての数々の関連行事も控えるなどお忙しい御日程の中で,最後までその可能性につき真剣な検討が行われました。最終的には,5月の諸行事を終えた後,その後の諸行事日程等を全体的に考慮した結果,妃殿下の御体調への影響などを勘案し,今回は,記者会見ではなく,宮内記者会からの質問を殿下・妃殿下がそれぞれお答えになるという「文書回答」をお受け頂くこととし,その旨を宮内記者会に連絡致しました。この間の事情は,東宮大夫定例記者会見で説明しております。
皇太子妃殿下には,引き続き御療養中ではありますが,努力と工夫を重ねられ,御体調に気をつけながら,公私にわたってできる限りのお務めを果たされようとしていらっしゃいます。また,皇太子殿下には,そうした妃殿下の御努力をお支えになってこられました。その結果,妃殿下には,公的な御活動を一つ一つ着実に積み重ねられ,御活動の幅が少しずつ広がってきておられます。一方で,これまでの東宮職医師団見解にもありますとおり,妃殿下には,引き続き御快復の途上にいらっしゃって,御体調には波がおありで,行事が続いた場合には,お疲れがお残りになることもあります。
「文書回答」という形は,妃殿下が御療養に入られる前の御結婚満10年に際して採った形と同じであり,御療養に入られた後の御結婚満20年に際しては,両殿下の御感想という形で両殿下のお気持ちを皆様にお伝えしておりますので,今回,妃殿下が病気御療養に入られてから初めて質問を受け,3問全てについて両殿下がそれぞれお考えを記される「文書回答」という形としたのは,現時点で採り得る最大限の対応でした。
したがって,最近の一部週刊誌,具体的には女性セブンと女性自身において,「ご夫妻の結婚記念日と,両陛下の『最後の被災地訪問』の日程が重なっていたことが本当の理由」であり,「16年ぶりに雅子さまの会見が開かれたとなれば,各メディアはその報道で一色になり,両陛下の地方公務への関心が低くなって」しまう,「皇室内には絶対的な序列が存在し」「両陛下の,しかも最後となる被災地訪問の“裏”で,会見を開くわけにはいかなかった」との記事や,「雅子様ご本人が,会見出席を断固として拒否されて」おり,その理由として,過去の記者会見が「批判的な報道につながったこともあり,雅子様にとっては“トラウマ”というほどの体験だった」といった記事が掲載されましたが,このようなことを考慮したことは一切ありません。
女性セブンの記事は,記者会見が開かれれば,両陛下の地方公務への関心が低くなる,それが記者会見を開かない理由だ,と論じていますが,仮に記者会見が行われたとしても,早朝から始まるその報道は,両陛下の福島県行幸啓より相当前の時間帯でした。両陛下の福島県行幸啓があるから記者会見を行わない,ということは検討したこともありません。このような記事は,両陛下の御公務に込められるお気持ちや日頃から両殿下を温かくお見守りくださっていることをないがしろにする失礼なものと言わざるを得ません。また,会見を開かなかった別の理由として,皇室内の序列を挙げて論じていますが,両陛下,両殿下,皇族殿下方の行事が,日程上重複することは従来からあることです。その意味で,序列は関係ありません。このように,事実に反する内容の記事を週刊誌に掲載するとともに,興味を煽るような見出しを掲げることによって,両陛下,両殿下の真摯なお気持ちを傷つけ,読者,さらには一般の人々に誤解を与えていることは,極めて遺憾であると考えます。
眞子内親王殿下に関する最近の週刊誌報道について
平成30年5月25日
宮内庁
眞子内親王殿下の納采の儀を始めとするご結婚関係儀式等の延期が発表されて以来,このことに関する両陛下,取り分け皇后さまのお考え,ご対応について様々な憶測がなされ,記事にされてきましたが,このことに関し,両陛下は当初より一貫して変わらぬ対応をしてこられました。
両陛下が第一に考えられたことは,これは眞子さまの内心に触れる事柄であり,何人といえども,恐らくはご両親殿下でさえ眞子さまのお考えを待つ以外おありでないということでした。そうした中,ご自分方として出来ることは,極力周囲の雑音から眞子さまを守り,静かな状況を保つ中で,眞子さまがご自分の考えを深められるよう助力なさるということでした。
そのため,これまで両陛下は共に首尾一貫このことに関し一切発言を慎まれてこられました。事実,宮内庁長官,次長を始めとする宮内庁幹部,側近である侍従長,女官長や侍従職の誰一人として,このことに関して両陛下のご感想を伺ったり,状況についてお尋ねを受けたことはありません。平素,両陛下のご相談に与あずかる参与,御用掛においても全く同様であります。
一部の週刊誌は,「侍従職関係者」,「宮内庁幹部」,「宮内庁関係者」等のコメントとして,皇后さまが様々な発言をなさっているかのように記していますが,先にも述べたとおり,両陛下は,当初より,細心の注意を払って固く沈黙を守り続けておられ,また,宮内庁職員はもとより,ご親族,ご友人,ご進講者等で,両陛下にこの問題について話題にするような人もこれまで皆無であったと伺っています。
かつて,皇居内のゴルフ場であった場所に両陛下の御所建設が計画された際,昭和天皇が愛された自然林を皇后さまが丸坊主にした等の報道がなされ,前後数ヶ月に及ぶ謂われない批判記事の連続により,皇后さまは何ヶ月も声を失われる事態に陥られました。因みに,新御所の建設場所は,当時の宮内庁長官の報告と進言を陛下がお受け入れになり,最終的に決定されたもので,皇后さまはこのご報告や決定の場に一度も同席しておられず,新御所の予定地についてお聞きになったことも,まして御覧になったこともありませんでした。
今また,皇后さまは,ご自分の名のもとに,両陛下としてあれ程までにお守りになろうとされた眞子さまや秋篠宮両殿下の周辺で,静かな熟考のために保たれるべき環境に思いも寄らない様々な雑音が立てられていることを驚き,悲しんでおられ,陛下もまたそのことに深くお心を痛めておられます。皇后さまは,これまでもご家族のどなたかが苦しい状況におありの時は必ず,それは家族全体の苦しみだからと言われ,心配しつつ見守ってこられました。
この度,早くより,眞子さまや秋篠宮両殿下,お相手の方に静かに考える環境を与えることを最重要と判断され,沈黙に徹してこられた両陛下のお考えが無にされたことは余りにも残念であり,宮内庁として,この問題に関するこれまでの両陛下のお考えとご対応をお伝えすることに致します。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/taio-h31-0121.pdf
毎日放送の放送法に基づく訂正放送への対応について
平成30年1月31日
宮内庁
毎日放送は,平成30年1月9日,TBS系列全国ネットで放映された「教えてもらう前と後」と題する番組において,天皇陛下が既にご成婚後の昭和38年10月に栃木県奥日光で撮影された皇后陛下のお写真を取り上げ,「ご・成・婚・前・に・陛下が撮影された美智子さまのお写真」と紹介し,その取り違いに重ね,撮影に至る経過として,「軽井沢での出会いからおよそ2か月。美智子さまは陛下から東京で開かれるテニス大会に招待され,・・・そこで,陛下から『美術展に出品する写真を撮らせてほしい』とお願いされた」とした上で,更に「陛下はこのお写真に意味深な『女ともだち』とのタイトルを付けて宮内庁文化祭美術展に出展された」とのあり得ない解説を加えています。
まず何よりも,番組で取り上げたお写真が,ご成婚後4年を経た昭和38年10月に陛下が当時第二子ご流産後の皇后陛下のご健康をご心配になり,奥日光の学習院光徳小屋にお連れになった時にご自分でご撮影になったお写真であることは,既に様々な雑誌でも取り上げられている公知の事実であり,番組における事実確認が極めて不十分であったことは遺憾であり,更にはこうした憶測や思い込みが先行して「美術展出展」,「意味深な『女ともだち』とのタイトル」等あり得ない解説が付され,その上に立って当日のゲストたちからの発言が行われました。
以上の点については,視聴者からの指摘に基づき,会社として,放送法に定める訂正放送を行うとして宮内庁に謝罪の申し入れがあり,その後の番組終了後に,前回の放送で写真説明に間違いがあったとして訂正のテロップが流されました。しかし,テレビで一度放映されたものに訂正を加えることは,その時々の視聴者も変わることでもあり,したがって宮内庁としては,改めて以後このような間違いを繰り返さぬよう番組制作者に求めると共に,せめて制作責任者より当日の司会者,番組解説者である皇室コメンテータの高清水氏及び当日のゲストコメンテータの諸氏に,このことにつき責任ある説明を行うよう要望しました。
なお,ご成婚前の宮内庁文化祭に,陛下が何であれ「女ともだち」などと題したお写真を出展なさった記録は勿論ありません。宮内庁文化祭は,宮内記者も自由に観賞できる行事であり,仮に,当時お若かったご成婚前の陛下が「女ともだち」と題する写真を出展されていたとすれば,お后問題への関心が最も高かったその頃,既にその時点で大きな社会的話題となったはずでありますが,そのような記録は見当たりません。
「週刊新潮」(平成29年12月14日号)の記事について
平成29年12月14日
宮内庁は,「週刊新潮」12月14日号33ページに掲載された記事について,週刊新潮編集部に下記の内容を伝え,抗議をしました。

「週刊新潮」12月14日号33ページにおいて,ある官邸関係者の打ち明け話として,
「最近耳にしたのが,陛下が華やいだ雰囲気で皇居を去りたいお気持ちを持っていらっしゃるということ。具体的には,一般参賀のような形で国民に対してメッセージを発し,そのうえでパレードをしたいと考えておられるようです。その一方で官邸は,粛々と外国の賓客も招かずに静かにやりたいという考えがあって,そこで宮内庁とせめぎ合いをしていると聞いています」
と掲載されています。
平成の即位のときは,お代替わりと即位の礼の間に喪の一年間があり,即位の礼が執り行われるまでに1年10ヶ月の長い期間がありました。今次御譲位に当たっては,御譲位のある年の内,しかも数ヶ月の後という短い期間の後に,新天皇の即位の礼が執り行われます。
そのようなことから,陛下は,法案が通った非常に早い時期から,譲位の儀式の方はできるだけ簡素になさりたいとのお考えをお持ちであり,とりわけ,外国賓客の招待については,新天皇の即位の礼にお招きすることの可能性を考えられ,御譲位の儀式にお招きするお気持ちはお持ちでない,また,一般参賀については,最近のヨーロッパ王室におけるお代替わりの行事において,例外なく王宮のバルコニーで新旧の国王による国民に対する挨拶が行われていたが,陛下におかれては,そのようなことをなさるお考えのないことを度々,我々に留意するようご注意を頂いていたところであります。パレードについての言及はこれまでありませんでしたが,以上のようなことから,華やかなものをお考えとはとても考えられないことです。
宮内庁としては,このような陛下のお気持ちについては,早くより,十分に承知しており,内閣官房に対しても,御譲位の行事については,外国賓客を招いたりすることなく,宮殿内において粛々と静かに行われたい旨を伝えていたところであります。
冒頭引用した記事に掲載されている陛下のお気持ちやお考えは,事実に全く反するものであり,これを陛下のお気持ちであるかのように報ずることは,国民に大きな誤解を与えるもので,極めて遺憾です。
ここに,正しい事実関係を明らかにし,誤解を正すとともに,抗議いたします。
「週刊文春」(平成28年1月21日号)の記事について(1)
英文へ
平成28年1月15日
宮内庁東宮職
宮内庁東宮職は,「週刊文春」1月21日号に掲載された「12月23日天皇誕生日の夜に「お呼び出し」 美智子さまが雅子さまを叱った!」と題する記事について,週刊文春編集部に下記の内容を伝え,厳重に抗議をしました。

同記事は,「千代田関係者」とされる人物の発言も引用しつつ,昨年12月23日の天皇誕生日の夜に催された「お祝御膳」のお食事終了後,美智子さまと雅子さまが別室に移られてお二人だけでお話をされたとした上で,そのやりとりなるものを克明に掲載しています。
皇太子同妃両殿下のお話によれば,当夜は,皆様おそろいでお食事を済まされた後,引き続きお居間にて皆様終始ご一緒にご歓談になり,その後,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下,黒田様ご夫妻が順次お帰りになったとのことです。
「お祝御膳」の後に皇后陛下と皇太子妃殿下が別室に移られてお二人だけでお話をされたとの事実は全くなく,また,同誌が掲載したような皇后陛下と皇太子妃殿下との間のやりとりも一切なされておらず,全くの事実無根であります。
このように,事実無根の内容を,あたかもそれが存在したかのように記事を構成し週刊誌に掲載するとともに,興味を煽るような見出しを掲げることによって,読者,さらには一般の人々に誤解を与えていることは,極めて遺憾であり,「週刊文春」編集部には,強く抗議するとともに,記事の即時撤回を求めました。
皇太子同妃両殿下には,両陛下より,日頃からお心遣いをいただき,温かくお見守りいただいていることに対し心より感謝されており,このような心ない報道が続けられることを遺憾に思っておられます。
Press Release
Regarding the Article in the January 21, 2016, Issue of the Shukan Bunshun (1)
January 15, 2016
Board of the Crown Prince’s Household
Imperial Household Agency
The Board of the Crown Prince’s Household of the Imperial Household Agency conveyed the following message and made a strong protest to the editorial department of the weekly magazine Shukan Bunshun with regard to the article titled “Empress Michiko ‘Summons’ and Scolds Crown Princess Masako on the Evening of December 23, the Emperor’s Birthday!”
The article alleges that, following the celebratory dinner held on the evening of December 23, 2015, His Majesty the Emperor’s birthday, Her Majesty Empress Michiko and Her Imperial Highness Crown Princess Masako moved to a separate room and had a private conversation. Quoting the words of a supposed Imperial Household staff, it goes on to give a detailed description of the interchange that supposedly took place.
According to Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Crown Princess, everyone had dinner together that evening, followed by conversation in the living room with everyone present, after which Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Princess, Prince and Princess Akishino, and Mr. and Mrs. Kuroda departed one after another.
There is no basis in fact to the claim that Her Majesty the Empress and Her Imperial Highness the Crown Princess moved to another room for a private talk following the celebratory dinner. The conversation described in the article between Her Majesty and Her Imperial Highness did not take place and, as such, it is a complete fabrication.
It is highly regrettable that readers, as well as the general public, have been misled by the magazine’s act of constructing an article around baseless content as if these events actually happened and publishing it with sensational headlines. We have lodged a strong protest with the editorial department of the Shukan Bunshun and demanded an immediate retraction of the article.
Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Princess are sincerely grateful to Their Majesties the Emperor and Empress for Their thoughtfulness and for always warmly watching over them and find it deplorable that insensitive stories such as this continue to be printed.
「週刊文春」(平成28年1月21日号)の記事について(2)
英文へ
平成28年1月15日
1月14日の朝刊で,「12月23日天皇誕生日の夜に「お呼び出し」 美智子さまが雅子さまを叱った! 宮中重大スクープ「東宮と共に人々の前に姿を見せるのが最善の道です。小和田家とは文化が違うのですから」(美智子さま)「心に刻みつけるようにいたします」(雅子さま)」という週刊文春の大きな広告をご覧になった天皇陛下は,侍従長に対し,このような広告は一つ一つ気に留めることはないが,自分の誕生日のこととされ,自分にはあり得ないこととしか思えないが,何があったのかとご下問になりました。とりまとめご説明したところ,非常に驚かれ,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下,黒田様ご夫妻を招かれた当夜,お祝御膳に引き続くお居間でのご団らんの間,皇后陛下は終始ご自身と一緒におられたので,皇后陛下と皇太子妃殿下がお食事が終わった後に別室に移られて話をされたというような状況は全く起こり得ないことであり,そのことは当夜同席した全員が承知のはずだと仰せになりました。同じ14日の午前中には,心配して東宮職に問い合わせた宮内庁長官に対し,皇太子殿下からも同様の主旨のお話がありました。翌15日には,長官とお会いになる機会のあった秋篠宮殿下からも,皇后陛下はこの夜終始一同の団らんの中にいらしたとのお話があり,更に,お帰りの時にも両陛下して皆様をお送りに立たれ,当然のこととして皇太子同妃両殿下が最初にお発ちになるのを他の皆様がご一緒にお見送りになったというお話しがありました。
記事によれば,お夕食後,皇后陛下は皇太子妃殿下とお二人で別室に移られてお話をされたとありますが,実際には,お夕食後からずっとお居間にて席を立たれずに皆様とお過ごしであり,陛下のお誕生日というおめでたい日の夜に,陛下や当日のお客様をお置きしてまで,皇太子妃殿下お一人を別室に呼ばれ,叱責云々という状況が成り立つ余地は全くありませんでした。
皇后陛下は,これまでも皇太子妃殿下を気づかわれ,自らには誤解を招きかねない多くの記事に対しても沈黙を保ってこられましたが,宮内庁として,今回の記事は皇后陛下のお言葉という形で表した具体的内容を伴ったものであり,非常に誤解を招く恐れが多いと考えられたことから,ここに当夜の事実をお伝えすることにしました。
Press Release
Regarding the Article in the January 21, 2016, Issue of the Shukan Bunshun (2)
January 15, 2016
Imperial Household Agency
On January 14, His Majesty the Emperor noticed a large advertisement for the weekly magazine Shukan Bunshun in the morning newspaper. It included the headlines, “Empress Michiko ‘Summons’ and Scolds Crown Princess Masako on the Evening of December 23, the Emperor’s Birthday! Imperial Family Exclusive: ‘Appearing in Public with the Crown Prince Is the Best Way Forward, the Culture Here Is Different from That of the Owada Family’ (Empress Michiko) ‘I Will Etch It into My Heart’ (Crown Princess Masako)” His Majesty commented to the Grand Chamberlain that, while there is no need to pay attention to each and every ad like this, as this conversation supposedly took place on His birthday, which He found to be inconceivable, He asked the Grand Chamberlain what the article was about. When the Grand Chamberlain gave a brief explanation, His Majesty was extremely surprised. He noted that on the evening in question, in which Their Majesties invited Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Princess, Prince and Princess Akishino, and Mr. and Mrs. Kuroda to the Imperial Residence for a celebratory dinner, Her Majesty was with Him the entire time as They enjoyed conversation in the living room following the dinner. His Majesty said that it simply would not have been possible in such a situation for Her Majesty and Her Imperial Highness the Crown Princess to move to another room and talk privately after dinner, as everyone present that evening must know. On the morning of the same day, a concerned Grand Steward of the Imperial Household Agency contacted the Board of the Crown Prince’s Household and received a similar explanation from His Imperial Highness the Crown Prince. On January 15 His Imperial Highness Prince Akishino, who had the opportunity to meet with the Grand Steward, likewise said that Her Majesty was a part of the conversation the entire evening. He also added that Their Majesties saw the departing guests off at the entrance hall and, as a matter of course, Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Princess left first and everyone else saw them off.
According to the article, Her Majesty moved to a separate room with Her Imperial Highness the Crown Princess after dinner and had a private conversation. In fact, Her Majesty remained seated in the living room the entire time after dinner as She spent the evening with everyone else. Under the circumstances, it would not have been possible for Her Majesty to call Her Imperial Highness alone to another room and reprove her, leaving the company of His Majesty and the evening’s guests, especially on the auspicious occasion of His Majesty’s birthday.
Her Majesty the Empress has always shown concern for Her Imperial Highness the Crown Princess. Until now Her Majesty has maintained Her silence even with regard to many articles that could invite misunderstanding about Herself. However, as the article in question contains specific content expressed in the form of Her Majesty’s words, the Imperial Household Agency thought the article was highly misleading and has decided to disclose the facts of the evening here.
「週刊文春(平成26年11月13日号)の記事について」の一部訂正について
平成27年12月1日
宮内庁は,平成26年11月13日付の当庁ホームページ「週刊文春(平成26年11月13日号)の記事について」と題する発表文の中で,同記事に記載された事実関係について説明し,2003年10月のメキシコ大統領を迎えた宮中晩餐の前席で,天皇陛下が,皇太子妃殿下を賓客に御紹介になることなく,秋篠宮殿下を御紹介になるというようなことは到底起こり得ないとの見解を示し,関係者に速やかに記事の訂正を求めたことを公表しました。
この時の当庁の見解に何ら変更はありません。
発表文にある秋篠宮殿下の御発言は,週刊文春がメキシコ大統領宮中晩餐において「大統領に対する紹介が,皇太子の次に並んでいた雅子妃を飛ばして,秋篠宮殿下に移ってしまったのだ」との友納氏の記事を掲載したことから,天皇陛下が国賓に皇族方お一人お一人を御紹介する場において,記事にあるような奇異な出来事がこれまでにあったのかをお伺いしたことに対し,殿下が,国賓をお迎えした際の陛下の皇族御紹介で何か手順と異なることを陛下がなさったという記憶は全くなく,万一にも皇太子妃殿下を飛ばして自分が紹介されそうになったら,必ずその場で陛下に申し上げたと思うと述べられたことを記載したものであります。
週刊文春の記事内容をそのままに受け取り,「雅子妃を飛ばして,秋篠宮殿下に移ってしまったのだ」との同誌の記事から,「当時皇太子妃殿下の次に控えておられた」と記載したことにより,実際には当日,秋篠宮殿下は愛知県お成りのため欠席されていましたが,秋篠宮殿下がメキシコ大統領の宮中晩餐におけるお話をされたような印象を与えたことは当庁の不手際でありました。
当時の発表文の中で,「念の為2003年10月にメキシコ大統領を国賓としてお迎えした際の宮中晩餐での御紹介の状況につき,当時皇太子妃殿下の次に控えておられた秋篠宮殿下に伺ったところ」との記載は,「念の為宮中晩餐で,出席されたすべての皇族方を天皇陛下が御紹介する場において,秋篠宮殿下が何か奇異に感じられたことがあったかを伺ったところ」と訂正します。
以上の経過を踏まえた平成26年11月13日号の週刊文春の記事についての事実関係と宮内庁の見解は下記の通りです。
なお,この点における当庁の事実関係の説明に一部誤解を与える点があったことは,週刊文春の関係者にも通知しています。

同記事は,「十一年前の「衝撃的な出来事」」との小見出しの下に,2003年10月,メキシコ大統領を迎えた宮中晩餐の前席で,大統領に対する天皇陛下の皇族御紹介が,「雅子妃を飛ばして,秋篠宮殿下に移ってしまった」ことから,「雅子妃が妃殿下としての自己の存在について,決定的に自信を喪失した」との趣旨のことを記しています。
しかしながら,以下に記すように,これまで踏襲されてきた皇族方の国賓に対する御紹介の段取りからして,「皇太子妃殿下を飛ばして」というようなことは到底起こり得ないことです。
宮中晩餐御出席のために宮殿南車寄に到着された国賓御夫妻をお出迎えになった両陛下は,国賓とご一緒に松風の間に入られます。間内では,皇太子同妃両殿下始め皇族方が,御身位の順に列立してお待ちになっておられ,天皇陛下は皇太子殿下から順番にお一人ずつ国賓御夫妻に御紹介になり,すぐその後に続き皇后陛下が同様にして国賓夫人に次々と皇族方を御紹介になります。そして御紹介が完了すると飲み物が供され,国賓御夫妻と皇族方の御懇談が始まります。このようにして進められる国賓御夫妻と皇族方のお出会いは,通例15分程度で終了し,次いで両陛下と国賓御夫妻お四方が松風の間を出,その日の晩餐会の招待者一人一人から挨拶をお受けになるレシービング・ラインに立たれるため,石橋の間に向かわれます。この石橋の間での行事の完了後,両陛下は国賓御夫妻とご一緒に,そして皇族方がその後を進まれ,晩餐が供される豊明殿にお入りになります。
以上のように,国賓御夫妻への皇族方の御紹介及びそれに続く行事は,毎回全く同じ段取りで取り進められており,その第一段階で,秋篠宮殿下以下全員の皇族が見守られる中で,天皇陛下が,皇太子妃殿下を賓客に御紹介になることなく,秋篠宮殿下を御紹介になるというようなことは到底起こり得ません。念の為宮中晩餐で,出席されたすべての皇族方を天皇陛下が御紹介する場において,秋篠宮殿下が何か奇異に感じられたことがあったかを伺ったところ,自分(殿下)は,行事などの際に,何か手順通りに進められなかった場合は,直ちに気が付く方だし,また,再発を防ぐためにもかなりの長きにわたりそれを記憶しているつもりだが,これまで国賓をお迎えした際の陛下の皇族御紹介で何か手順と異なることを陛下がなさったという記憶は全くなく,皇太子妃殿下を飛ばして自分が紹介されたということは決してないと思う。また,万一にも自分が先に紹介されそうになったら,自分は必ずその場で陛下に申し上げ,皇太子妃殿下の紹介が先になるように取り計らったと思うとの御返事を頂きました。
国賓を迎えるという晴れの席で,天皇陛下がそのようなことをなさるという事実に反することが手記として掲載されたことは,陛下に対する礼を失する誠に遺憾なことであります。
「週刊文春」(平成26年11月13日号)の記事について
平成26年11月13日
「週刊文春11月13日号」に掲載された「雅子さま“復活の笑顔”「晩餐会」直前に掛けた一本の電話」と題する友納尚子氏の記事についての事実関係及び宮内庁としての対応は下記の通りです。

同記事は,「十一年前の「衝撃的な出来事」」との小見出しの下に,2003年10月,メキシコ大統領を迎えた宮中晩餐の前席で,大統領に対する天皇陛下の皇族御紹介が,「雅子妃を飛ばして,秋篠宮殿下に移ってしまった」ことから,「雅子妃が妃殿下としての自己の存在について,決定的に自信を喪失した」との趣旨のことを記しています。
しかしながら,以下に記すように,これまで踏襲されてきた皇族方の国賓に対する御紹介の段取りからして,「皇太子妃殿下を飛ばして」というようなことは到底起こり得ないことです。
宮中晩餐御出席のために宮殿南車寄に到着された国賓御夫妻をお出迎えになった両陛下は,国賓とご一緒に松風の間に入られます。間内では,皇太子同妃両殿下始め皇族方が,御身位の順に列立してお待ちになっておられ,天皇陛下は皇太子殿下から順番にお一人ずつ国賓御夫妻に御紹介になり,すぐその後に続き皇后陛下が同様にして国賓夫人に次々と皇族方を御紹介になります。そして御紹介が完了すると飲み物が供され,国賓御夫妻と皇族方の御懇談が始まります。このようにして進められる国賓御夫妻と皇族方のお出会いは,通例15分程度で終了し,次いで両陛下と国賓御夫妻お四方が松風の間を出,その日の晩餐会の招待者一人一人から挨拶をお受けになるレシービング・ラインに立たれるため,石橋の間に向かわれます。この石橋の間での行事の完了後,両陛下は国賓御夫妻とご一緒に,そして皇族方がその後を進まれ,晩餐が供される豊明殿にお入りになります。
以上のように,国賓御夫妻への皇族方の御紹介及びそれに続く行事は,毎回全く同じ段取りで取り進められており,その第一段階で,秋篠宮殿下以下全員の皇族が見守られる中で,天皇陛下が,皇太子妃殿下を賓客に御紹介になることなく,秋篠宮殿下を御紹介になるというようなことは到底起こり得ません。念の為2003年10月にメキシコ大統領を国賓としてお迎えした際の宮中晩餐での御紹介の状況につき,当時皇太子妃殿下の次に控えておられた秋篠宮殿下に伺ったところ,自分(殿下)は,行事などの際に,何か手順通りに進められなかった場合は,直ちに気が付く方だし,また,再発を防ぐためにもかなりの長きにわたりそれを記憶しているつもりだが,これまで国賓をお迎えした際の陛下の皇族御紹介で何か手順と異なることを陛下がなさったという記憶は全くなく,皇太子妃殿下を飛ばして自分が紹介されたということは決してないと思う。また,万一にも自分が先に紹介されそうになったら,自分は必ずその場で陛下に申し上げ,皇太子妃殿下の紹介が先になるように取り計らったと思うとの御返事を頂きました。
国賓を迎えるという晴れの席で,天皇陛下がそのようなことをなさるという事実に反することが手記として掲載されたことは,陛下に対する礼を失する誠に遺憾なことであり,本日付で週刊文春編集長及び友納尚子氏に速やかに訂正することを要求しました。
「週刊文春」(平成26年10月30日号)の記事について
平成26年11月7日
「週刊文春10月30日号」に掲載された「『セラピーが必要』と洩らされて…美智子さまが憂慮される愛子さま『独りぼっちの特別授業』」と題する記事についての事実関係及び宮内庁としての対応は下記の通りです。

同記事は,「千代田関係者」とされる人物の発言として,愛子内親王殿下が,学習院女子中等科において「お一人で授業を受けておられ」,「特定の科目において,愛子さまには別の先生が付くということがある」旨言及していますが,このような「特別授業」が行われている事実はありません。したがって,このようなことを愛子内親王殿下が皇后陛下にお話しになるはずもなく,「美智子さまは,愛子さまと直接お話された中で,“特別授業”の存在にお気づきになった」とする「千代田関係者」の発言は,全く事実無根のものであります。
同記事は,「美智子さまは,折に触れて愛子様の日常生活について耳にされ,胸を痛めておられているという。最近では,千代田の関係者に胸の内をたびたび漏らされた。」とし,皇后陛下の御発言として幾つかの文章を記しています。 皇后陛下は,従来より愛子内親王殿下のことを大切に,また可愛く思われ,これまで終始変わらず見守ってこられました。そして,初等科時代以来,時折マスコミに取り上げられる事柄に対しても,ご自分からそのことにつき何かを語ることはしたくないし,友人,知人も心ある人たちは,決してそのようなことを自分との間で話題にすることはないと常々仰せになっています。東宮御一家が御所においでの時は,安心してくつろいでほしいとお思いの両陛下にとり,このような報道がどれ程お悲しく戸惑われるものであるかを理解して頂きたいと思います。
同記事は,皇后陛下が子供のメンタルヘルスを専門にする医師と交流を持たれているとして,奥山眞紀子氏に言及し,あたかも愛子内親王殿下のことについて皇后陛下は奥山氏と継続的にやり取りをなさっているような印象を与えています。しかしながら,皇后陛下が奥山氏に会われたのは,一度しかありません。平成20年4月,皇后陛下が,当時来日が予定されていた英国子どもコミッショナーであるエインズリー・グリーン氏との御引見に先立ち,日本における子どもの諸問題について御聴取なさるべく,聖路加病院の細谷先生の推挙を受け,奥山氏を御所にお招きになった際のことです。この時は,皇后陛下から,奥山氏が東宮御所に関係のあることで御質問があってはと心配せぬようお心配りがあり,事前に侍従職より奥山氏に対して,皇后陛下は東宮御所関係のことについては一切お触れになるおつもりはない旨連絡してあり,実際に皇后陛下と奥山氏の間でそうしたことは全く話題になりませんでした。この一回を除き,皇后陛下が奥山氏にコンタクトをとられたことはありません。
また,当該記事の中では,約十年前,奥山眞紀子氏が愛子内親王殿下との関係で東宮に参内していたとありますが,このような事実はありません。奥山氏は,記事にあるように金澤元皇室医務主管から紹介された方ではなく,皇太子妃殿下が平成14年6月に国立成育医療センターの開設記念国際シンポジウムに御出席になられるのに当たり,御進講をお受けになられ,その後,折々に色々なお話をお聞きになっておられたという御関係であり,内親王殿下についての御相談ということは全く事実ではないこと,また,この他にも,奥山氏との関係においても,実際には存在しない発言をあたかも存在するかのように記述するなど,全く事実ではない内容に基づき記事が構成されており,問題があることを東宮職として付言します。
このように,事実無根の内容を宮内庁関係者があたかも発言したかのように記事を構成し,見出しに掲げることは極めて遺憾であり,「週刊文春」編集部には,抗議するとともに記事の訂正を求めました。「週刊文春」は,これまでも愛子内親王殿下のご成長にとり大切な静かな環境の確保を妨げる取材活動を行い,あり得ない事実に基づく記事を掲載して読者に誤解を与えるなど,その対応は極めて遺憾であり,同編集部にその旨を伝えてきましたが,改めて良識ある対応を強く求めました。このような心ない報道が続けられていることに皇太子同妃両殿下も心を痛めておられます。
「週刊文春」(平成26年7月10日号)の記事について
平成26年7月10日
 「週刊文春」(平成26年7月10日号)の「愛子さま衝撃のお言葉『先生大嫌い。私の言うこときかないから』」と題して書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

「週刊文春7月10日号」では,「愛子さま衝撃のお言葉『先生大嫌い。私の言うこときかないから』」と題して,愛子内親王殿下が初等科の先生に対して「初等科の先生大嫌い」「私の言うこときかないから」と発言したとする記事を掲載していますが,そのようなご発言はあるはずもなく,事実無根であることは関係者の一致した認識です。
愛子内親王殿下には,中等科にご入学になり,新しい環境にお慣れになりつつあるところであり,ご成長にとり重要な時期におありになります。そうした中で,同誌の記事は,あり得ない事実に基づき,読者に誤解を与えるものであるとともに,愛子内親王殿下のご成長にとり大切な静かな環境の確保を妨げるものです。
以上を踏まえ,宮内庁東宮職においては,「週刊文春」編集部に抗議するとともに,訂正を求めました。また,これまでも報道関係者に対して,愛子内親王殿下のご成長を静かに見守っていただくようお願いしているところですが,「週刊文春」編集部に対して,十分な配慮を強く要望しました。
平成26年7月16日
 「週刊文春」(平成26年7月10日号)の記事に関して,事実関係及び宮内庁東宮職としての対応を宮内庁ホームページに掲載したところですが,その後,同誌編集部から更に事実関係についての照会があり,当職より,記事に掲載されているようなご発言が事実無根であることは学習院初等科からも報告を受けており,このようなご発言はあるはずもなく,事実無根であることは関係者の共通した認識である旨回答するとともに,愛子内親王殿下のご成長を静かに見守っていただくよう,十分な配慮を改めて強く要望いたしました。

「週刊文春」(平成26年7月10日号)の記事について(補足)
平成26年7月16日
 「週刊文春」(平成26年7月10日号)の記事に関して,事実関係及び宮内庁東宮職としての対応を宮内庁ホームページに掲載したところですが,その後,同誌編集部から更に事実関係についての照会があり,当職より,記事に掲載されているようなご発言が事実無根であることは学習院初等科からも報告を受けており,このようなご発言はあるはずもなく,事実無根であることは関係者の共通した認識である旨回答するとともに,愛子内親王殿下のご成長を静かに見守っていただくよう,十分な配慮を改めて強く要望いたしました。
「週刊新潮」(平成25年6月27日号)の記事について
平成25年6月20日
「週刊新潮」(平成25年6月27日号)に掲載された「『雅子妃』不適格は暗黙の了解『千代田』の迷宮」と題する特集記事に関し,「週刊新潮」編集部編集長に対して,厳重に抗議をするとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/h25-0620kougibun.pdf
週刊新潮記事(平成25年6月27日号)への宮内庁の見解と対応
本日(平成25年6月20日)発売の週刊新潮に,「『雅子妃』不適格は暗黙の了解『千代田』の迷宮」との記事が掲載されておりますことについて,宮内庁としての見解と対応を申し上げたいと思います。
週刊新潮については,既に平成25年6月13日発売の前号の「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」との記事に対し,全くの事実無根であるとして,内閣官房と宮内庁の連名により,文書にて厳重に抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めているところであります。
今回の記事では,前号の記事を改めて引用しつつ,新たに「官邸と宮内庁の軋轢」と題し,安倍総理の宮内庁不信に繋がった過去の事情として,次のように紹介されています。
「2008年の麻生政権時代に,麻生さんが〝皇族の減少〟問題に対応するため,戦後,皇籍を離脱した旧宮家の皇籍復帰を官邸内で検討させたことがあります。すると,この動きを察知した宮内庁から外部に,〝麻生総理が陛下への内奏の際,旧宮家の復帰を提案したところ,陛下は良い返事をされなかった〟という情報が流れた。これが安倍さんの耳に入り,私も聞かされましたが,本当かどうか信じられなかった」こう語るのは,皇室問題に通暁した,さる有識者だ。「そこで〝ヒゲの殿下〟の呼称で親しまれた故・寬仁親王殿下に〝陛下のご真意を確かめていただけませんか〟とお願いにあがった。殿下は確認に出向いてくれ,1週間後,宮務官から答えが来ました。内容は〝そもそも,その時期に麻生総理の陛下に対する内奏は行われていない〟というもの。つまり,話が全て嘘だということが分かったんです。宮内庁は旧皇族の復帰を望まないのでしょう。」
この記事にあるような,内奏に関する情報が宮内庁から外部に流されたとか,流された情報は全て嘘であり,宮内庁が虚偽の情報を発信したなどの事実は一切なく,全くの事実無根であります。
この記事については,週刊新潮編集部より事前(6月18日付)に文書にて取材申請があり,当該事実は一切ないことを文書にて明確に回答していたにもかかわらず,このような記事が前号に引き続きそのまま公表されたことに,強い憤りを感じます。
少しその内容について個別に申し上げますと,最初に「『雅子さま』想定内のキャンセルに10秒絶句『陛下』の胸中」との見出しで,宮内庁が官邸に皇室典範の改正を要請したとの前号の内容が改めて掲載されるとともに,「その根本にあるのは,両陛下が『雅子妃は皇后に不適格』と断を下されたという現実だ」との記述がありますが,前号の内容については,内閣官房及び宮内庁が連名で厳重に抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載するよう求めているところであり,全くの事実無根であると改めて申し上げておきます。
また,「侍従長に問題官僚で揉める官邸と宮内庁の軋轢の根本」との見出しで,先ほど紹介した2008年の麻生政権時代のくだりが出てまいりますが,情報の真偽を確認するくだりでは,故寬仁親王殿下付きの宮務官から,「そもそも,その時期に麻生総理の陛下に対する内奏は行われていない」との回答があったとの記述がありますが,実際に確認したところでは,当該宮務官は当時そのような回答を行った事実は全く記憶にないとのことであります。
また,陛下への内奏の際のやり取りについては,外部には一切明らかにされないのが通例であり,記録としては,陛下への内奏が行われたという事実のみしかわかりませんが,麻生総理から陛下への内奏は,認証官任命式に伴うものなども含めれば,約1年の在任期間中に計13回ございます。
さらに,前号の記事を引用するくだりでは,「2月1日,風岡典之宮内庁長官が官邸の安倍総理を訪ね,「女性宮家」の創設が両陛下のご意向であることを説明。さらに同日夜,両陛下が皇居に総理夫妻を招かれ,その晩餐の席でも皇統の安定的継承の問題が話題に上った」と記述されておりますが,全くの事実無根であると改めて申し上げておきます。
以上申し上げましたように,皇室制度や皇位継承のあり方という極めて重要な事柄について,このように憶測等に基づく,全く事実と異なる記事を掲載することは,国民に重大な誤解を与えかねないものであり,大変遺憾に思っております。
このため,この週刊新潮の記事に対しては,前号の記事に引き続き,宮内庁として,文書にて厳重に抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めることとしております。
「週刊新潮」(平成25年6月20日号)の記事について
平成25年6月14日
「週刊新潮」(平成25年6月20日号)に掲載された「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」と題する特集記事に関し,内閣官房と宮内庁の連名で,「週刊新潮」編集部編集長に対して,厳重に抗議をするとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めました。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/h25-0613kougibun.pdf
内閣官房長官記者会見要旨(関係箇所)
平成25年6月13日(木)
(記 者)
週刊誌の報道でお伺いしたいんですが,今日発売の週刊新潮でですね,宮内庁の長官が総理と面会,これは首相動静で残っている今年の2月1日なんですが,そこでですね,皇室典範の皇位継承を巡る制度の改正を長官は求めたと,宮内庁の長官ですね,この事実関係について,お伺いします。
(内閣官房長官)
あの,所管しているのは私(官房長官)でありますから,私自身のところにはまったくそういったことは一切ありません。ですから事実無根であるということをはっきり申し上げたいというふうに思います。
また,事前の取材に当たってもですね,そのような事実は一切ない,その旨を事務方から週刊新潮編集部に対して,文書で明確に,これ,回答をいたしております。
そうしたことがあったにもかかわらずですね,このような事実無根の記事が掲載されたことはですね,皇位の継承という極めて重要な事柄であって,国民の皆さんに重大な誤解を与える,そういうおそれのありますんで,極めて遺憾であって厳重に抗議したいと,こう考えています。
あの,具体的には内閣官房と宮内庁連名で新潮社に対して厳重抗議と同時に訂正記事の掲載を求めていく,こう思っています。
宮内庁長官記者会見要旨(関係箇所)
平成25年6月13日(木)
(宮内庁長官)
本日発売の週刊新潮に,「『雅子妃』不適格で『悠仁親王』即位への道」との記事が掲載されておりますことについて,一言申し上げたいと思います。
この記事では,私(宮内庁長官)から安倍総理及び菅官房長官に対し,「天皇の生前退位及び譲位」並びに「皇位継承の辞退容認」を可能とするような皇室典範改正の要請を行ったこと,また,そうした宮内庁の要請内容については,天皇・皇后両陛下と皇太子・秋篠宮両殿下の間では,既に納得されていること,などが記述されておりますが,このような事実は一切なく,この記事は全くの事実無根であります。
そもそもこの記事については,週刊新潮編集部より事前(6月10日付)に文書にて取材申請があり,当該事実は一切ないことを文書にて明確に回答していたにも関わらず,その回答には全く触れることもなく,このような記事がそのまま公表されたことに,強い憤りを感じます。
少しその内容について個別に申し上げますと,最初に「ついに『雅子妃に皇后は無理』の断を下した美智子さまの憂慮」との見出しで,「皇后陛下はすでに,周囲には『皇太子妃には将来,皇后の仕事はつとまらないでしょう』と漏らされています」との記述が「さる宮内庁幹部」のコメントとして記載されておりますが,皇后陛下はお誕生日会見などでもかねてより,「妃は皇太子にとり,また,私ども家族にとり,大切な人であり,妃の快復を祈り,見守り,支えていきたい」と仰ってこられたところであり,そのようなご発言をされることなど,全く考えられません。
また,「さる宮内庁幹部」とありますが,私は宮内庁幹部の一人として,もちろんそのようなご発言を耳にしたことはございません。
さらに,「皇后陛下は,『もし仮に,陛下がおられなくなって,私が一人残されたとします。その時のことを考えると,とても不安を覚えます』と近しい人に打ち明けられている。ご公務の引継ぎなどはもちろんのこと,はたして皇太子ご夫妻が,ご自身を適切に遇してくれるのだろうか…その点を気に病んでおられるのです。」との記述もありますが,常に周囲をお気遣いになっている皇后陛下のお立場を鑑みるに,そのようなご発言をされることなど,到底考えられません。
この記事の内容を皇后陛下はまだご存じないものと思いますが,仮にこの記事を実際ご覧になられれば,大変お心をお痛めになるのではないかと思われ,とりわけ現在ご体調を崩されているところでもありますので,非常に心配をしております。
また,次に「『皇太子即位の後の退位』で皇室典範改正を打診した宮内庁」との見出しで,私が安倍総理及び菅官房長官に皇室典範の改正を提案したとの記述がありますが,そもそも宮内庁は,皇室典範等が定める皇室の制度を前提に天皇皇后両陛下及び皇族方にご奉仕申し上げるのが務めであり,制度の在り方を宮内庁から提案することなどあり得ません。
さらにこの記事の中では,その背景などについても記述されておりますが,改めまして,全くの事実無根,荒唐無稽な話であると申し上げておきます。
次に,「『秋篠宮は即位すら辞退』が頂上会談で了解された深い事情」との見出しで,こうした宮内庁から官邸への提案が,「すべて天皇・皇后両陛下の思し召し」であり,「すでに天皇・皇太子・秋篠宮の三者による頂上会談でも話し合われ,納得されている」との記述がされております。
私(宮内庁長官)は,今上陛下,皇太子殿下,秋篠宮殿下のお三方によるお話し合いの場には常時同席させていただいております。そこでのお話し合いの内容については,本来私から申し上げることは控えるべきことと思っておりますが,この件に関してのみは,そのような内容のお話し合いはこれまで一度も行われたことはなく,全くの事実無根であるということを申し上げておきたいと思いますし,そもそもそのようなことを仰られること自体,あり得ないことと考えております。
以上申し上げたようなこの記事の内容について,両陛下は未だご存じないものと思いますが,ご覧になられれば大変悲しまれるのではないかと非常に憂慮しております。
また,皇室制度や皇位継承のあり方という極めて重要な事柄について,このように憶測等に基づく,全く事実と異なる記事を掲載することは,国民に重大な誤解を与えかねないものであり,大変遺憾に思っております。
このため,この週刊新潮の記事に対しては,内閣官房と宮内庁の連名により,文書にて厳重に抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めることとしているところであります。
「SAPIO」(2013年6月号)の記事について
平成25年5月20日
「SAPIO」6月号に掲載された大原康男國學院大學大学院客員教授の記名記事の中に,「今上陛下も皇太子時代,昭和天皇が新嘗祭の潔斎けっさい(身を清めること)をされた日に,当時の美智子妃殿下と手をつないでアイススケートをしておられたのがニュースで報じられ,問題にされたことがある。」との記述が見られますが,昭和天皇が新嘗祭の潔斎をされた日,すなわち新嘗祭当日に,両陛下(当時の皇太子同妃両殿下)がアイススケートをされていた事実はありません。
のみならず天皇陛下(当時の皇太子殿下)は,ご成婚以降の昭和期において,毎年,11月23日の新嘗祭には欠かすことなく拝礼されており,唯一の例外は,昭和35年に皇后陛下(当時の皇太子妃殿下)とともにイラン国,エチオピア国,インド国,ネパール国を,これらの国々の元首の我が国訪問に対する答礼として,昭和天皇の御名代のお立場で公式に訪問されていた時だけです。
両陛下がお二人でアイススケートをなさったご様子が報道されたのは,昭和46年2月7日,札幌冬季スポーツ大会開会式御臨席のために北海道に行啓された折の早朝のことであります。この日は新嘗祭の日でないことは勿論,他の宮中祭祀も行われていません。
この記事の記述は,皇太子殿下でいらした頃から,宮中祭祀を大切にお考えになり,臨んでこられた天皇陛下の御姿勢に誤解を与えかねない内容でありますので,大原教授及び出版社に対し,その誤りを正し,読者に周知されるよう申し入れました。
「サンデー毎日」(平成24年7月22日号)の記事について
平成24年7月10日
「サンデー毎日」(平成24年7月22日号)の「いまだに授業参観「子離れ」できない雅子さま」と題して書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

「サンデー毎日」(平成24年7月22日号)では「いまだに授業参観「子離れ」できない雅子さま」と題し,「雅子さまは,今も時おり学校にいらしているんですよ。週に2,3回,やや遅い午前中にいらして,愛子さまの下校よりも早く帰宅されているようです。貴賓室で過ごされているようですが,廊下から愛子さまのクラスの授業を見ていることもあるんです」とする「初等科のある保護者」の発言を基にする記事を掲載していますが,東宮大夫の記者会見などでも言及しているとおり今年に入ってからは妃殿下のお付添いは無く,当該記事は全くの事実無根です。
また,愛子内親王殿下のご発言を受け,父母会で学校側から「算数のテスト問題について子どもたちから指摘があり,配慮が足りない部分が確かにありました。今後はもう少し,児童の理解できる内容に改めます」との説明があり,「その後,テストの問題数は一気に半分に減った」という内容の記事を掲載していますが,学習院初等科に確認したところ,そのような内容の事実は一切無く,また,父母会には東宮職職員が出席しておりましたが,記事にあるような学校側の説明も一切無く,全く事実に反します。
宮内庁東宮職においては,「サンデー毎日」編集部に対して,充分な検証作業も行わないまま,事実に反する憶測記事を掲載する報道姿勢に疑問を感じざるを得ませんので,厳重に抗議するとともに,訂正を求めました。
「女性自身」(平成24年5月1日号)の記事について
平成24年4月19日
「女性自身」(平成24年5月1日号)の記事「雅子さまご病状”暗転”の訴えに美智子さま下された『涙の決断』」の中で,事実に反する記載が見られます。事実関係及び宮内庁としての対応は下記のとおりです。

4月10日の天皇皇后両陛下のご結婚記念日に際し,今年は御所にお子様方ご夫妻がお集まりになって夕食会を行い,お祝いをなさったことにつき,宮内庁が事前に異例の発表をしたと記載されておりますが,記事にも書かれているように”私的な行事”なので,例年通り今年も宮内庁からは一切発表しておりません。
当庁においては,女性自身編集部に対して,速やかに同記事についてしかるべき訂正処置を取ることを求めました。
「女性セブン」(平成24年3月8日号)の記事について
平成24年2月27日
女性セブン3月8日号は,「天皇陛下心臓手術秘話」と題して,「東大のスタッフに加え,世界一といわれる技術をもつ天野教授の執刀。これだけでも万全の態勢といえるのかもしれないが,それでも美智子さまはさらに万全を期す思いで,実は極秘にセカンドオピニオンを求められていた。」,「須磨氏は何度も皇居に足を運ぶなど,両陛下との親交は10年以上に及ぶ。」,「美智子さまは今回,陛下が手術するにあたって須磨先生に直接電話をされて相談なさったそうです。」と記述していますが,以下につき訂正を求めます。
皇后さまは,今から十数年前,音楽会の会場で知人から須磨氏を紹介され挨拶を交わされ,その後も,1,2度音楽会場で会われた時に言葉を交わされていますが,これ以外に氏との間の接点を持っておられません。このことに関しては,宮内庁からの問い合わせに対し,須磨氏自身が「全く根も葉もないことです。勿論,皇后陛下からお電話を頂戴したことなどないし,それだけでなく,この件について事前に誰からも意見を求められたことはありません。ですから,何度も皇居に足を運ぶなどあり得ないことです。」と話されています。
皇后さまは現在,毎日病院と御所との間を往復し,陛下につきそわれておられますが,このことにつき,「前回9年前の前立腺癌の手術の時には,皇室医務主管から診断をきく過程で,セカンドオピニオンを求めてもよいものかと尋ね,東大側がこれを受け入れて下さいました。今回は,永井東大病院教授が,手術の可能性を検討する段階で,すでに順天堂の天野教授にセカンドオピニオンを求めて下さっており,陛下や私はこれを求める必要はありませんでした。両大学病院の合同チームによる手術を陛下も私も納得しており,その後に私が外部の専門医に更に意見を求めるようなことがあれば,それは医師と患者側との関係を損なうばかりでなく,執刀医に対し礼を欠くことで,するべきではなく,私はしません。」と長官に話しておられます。
宮内庁においては,「女性セブン」編集部に対して,速やかに同記事についてしかるべき訂正処置を取ることを求めました。
「週刊新潮」(平成23年12月1日号)の記事について
平成23年11月28日
宮内庁式部職
週刊新潮12月1日号は,「もうこちらの方はよろしいのではないかしら」「美智子皇后のお言葉で消された『雅子妃』の名」という見出しのもとに,皇后陛下は,皇太子妃殿下が,国賓の歓迎行事には出席されないことを前提とする資料を最初から準備しておくよう指示され,その結果,先般のブータン国王王妃両陛下の訪日に際しても,宮内庁は,皇太子殿下お一方の出席を前提とした資料を作成した旨報じているが, (1) 国賓の接遇を所管する宮内庁式部職では,資料の作成にあたっては,まず,天皇皇后両陛下,皇太子同妃両殿下及び既に御了承を得ている接伴皇族の御出席を前提として資料を作成するのが慣例であり,最初から,皇太子妃殿下の欠席を前提とする資料を作成することはない。これは,昭和49年,迎賓館で国賓歓迎行事が開始されて以来踏襲されているパターンに従って,担当官が事務的に作成するもので,宮内庁幹部も,この段階において一々関与することはなく,まして,皇后陛下がその作成に関与なさることはなく,また,あり得ないことである。(2) 先般のブータン国王王妃両陛下の訪日に際しては,天皇陛下の御不例により,歓迎行事の2日前に,皇太子殿下が御名代を務められることが決定され,かつ,皇太子妃殿下は今回も欠席される旨の連絡が東宮職よりあり,式部職は,御名代として国賓を迎えられることになった皇太子殿下の式典のおける立ち位置等を図示する新たな資料を急遽作成し,この図において,初めて皇太子妃殿下の立ち位置が削除された。
以下,具体的な事実関係を記す。
1 同記事の冒頭に,ブータン国王王妃両陛下の訪日に先立ち,歓迎行事の参列者の位置や護衛のポジション等が細かに記されたいわば『配置リスト』とでもいうべき見取り図が,宮内庁から出席者に対して示されたとし,それには皇太子妃の名前が記されておらず,最初からお出ましはないものとして,会場の位置取りが計画されていたと記されているが,この記述のような事実はない。
宮内庁においては,各国から国賓を迎える際,歓迎行事を始めとして,国賓を接遇する行事毎に,その行事の円滑な進行を図るために,式部職が,行事の主な出席者の立ち位置等を示した資料を,まず作成する。歓迎行事に際し,皇太子同妃両殿下は,国賓をお迎えになるお立場の天皇皇后両陛下に続き,出席する皇族及び総理大臣の先頭を進まれ,また,皇族の先頭の位置に並ばれることが,昭和以来踏襲されてきており,それぞれの国賓来日に際して作成される資料でも,常に皇太子同妃両殿下の立ち位置が図示されてきた。したがって,ブータン国王王妃両陛下来日の際も,当初準備された資料では,もちろん皇太子同妃両殿下の立ち位置が明示されている。11月11日,東宮職より,皇太子妃殿下は,今回の国賓行事に御欠席になる旨式部職に連絡があり,その時点においても,式部職が,あらためて皇太子殿下お一方であることを図示する新たな資料を作成し直すことはしていない。しかるところ,天皇陛下の御入院が長引き,11月14日,歓迎行事の2日前に至り,皇太子殿下に御名代として国賓接遇をお願いすることになり,その旨を侍従職より東宮職に連絡し,これに対して,同日中に,あらためて東宮職より,この度は皇太子殿下がお一方で御名代として国賓をお迎えになり,皇太子妃殿下はお出ましにならない旨の連絡があった。御名代として国賓を迎えられることになる皇太子殿下の立ち位置は,従来の陛下の御位置となり,これまでの立ち位置とはまったく異なることになる。ここにおいて,式部職は,あらためて御名代としての皇太子殿下お一方の立ち位置や新しい列順を図示する新たな資料を急遽作成した。このように,全ては皇太子殿下が御名代と決定されて以後の変更であり,宮内庁が,早くから,皇太子妃殿下の御欠席を前提とし,その立ち位置を省いた資料を作成していたという事実はない。
(なお,この記事に『護衛の立ち位置』とあるが,これが,警備関係者が独自に作成した資料であればそれとして,宮内庁が作成する資料の中に,歓迎行事における護衛の立ち位置が図示されることはない。)
2 さらに,同記事は,後半部分において,昨年5月カンボジア国のシハモニ国王陛下が国賓として来日された際においても,式典の準備にあたって作成された参加者リストを御覧になった皇后陛下は,記されていた雅子妃殿下のお名前を指し示して『こちらは,もうよろしいのではないかしら』と仰せになったとし,その結果,宮内庁が,皇太子妃殿下を省いた「新バージョン」を作成し,出席者に配布したと記している。こうした事実でない憶測の上に立って,今回の記事が書かれていることは,誠に残念なことであるが,もとより,シハモニ国王陛下の国賓としての訪日に際しても,式部職は,それまでの国賓接遇案件と同様,皇太子同妃両殿下が歓迎行事に参列されることを前提にした資料を作成しており,皇后陛下の御指示によって,妃殿下の欠席を前提にした資料を別途作成したというような事実はない。この歓迎行事に,妃殿下がお出ましにならない旨の連絡が,東宮職から式部職に対して伝えられたのは,歓迎行事の数日前のことだったが,この時,既に定型の資料は刷り上がっており,これに伴い,式部職が,立ち位置等を記した資料を改めて作成し直すことはしていない。事後に残される実行の記録にこそ,当日の妃殿下の御不在は記録されるが,この段階においてなお,妃殿下の立ち位置は図式の中では削除されていないのである。
先述したように,今回のブータン国王王妃陛下の訪日に際しては,皇太子殿下が御名代になられたため,天皇皇后両陛下を御対象として作成された図式を,御名代に書き直す必要上,新資料が作られた。もちろん,この時点でも,東宮職に問い合わせを行っており,当時長野県に御滞在中の皇太子殿下御自身から,あらためて東宮大夫を通じ,お一方御出席の御返答を頂いている。
「サンデー毎日」(平成23年7月31日号)の記事について
平成23年7月21日
サンデー毎日7月31日号に掲載されている「天皇家は今,何を召し上がっているのか?」と題する記事には,東日本大震災以降の,御料牧場による皇室に対する製品提供について,事実に反する記述が見られます。
御料牧場に関する,3月11日以降の事実関係は以下のとおりでした。
(1)御料牧場では,3月11日の大震災により乳製品関係の機器(原乳滅菌機,自動瓶詰機,発酵品生産機)及び肉加工機(缶打ち機,燻製製造機,加熱機器)が損傷した結果,6月下旬まで,乳製品及び肉加工製品(ハム,鶏燻製,ベーコン,ソーセージ等)の生産は一切停止しました。
(2)この間,3月25日に,被災者のために肉加工品,さつまいも及び新鮮な鶏卵の提供が行われましたが,肉加工品はすべて震災以前に生産された製品であり,さつまいもは,すべて前年秋に収穫された物でした。また,その後,4月末に被災者への製品提供が終了するまでの間,5回にわたって被災者のために新鮮な鶏卵の提供が続けられました。
なお,この間,原乳滅菌機の損傷のため,毎日搾乳されている原乳は,家畜の飼料として使用するもの以外は,全て廃棄せざるを得ませんでした。
(3)一方,震災から3月30日までの間は,道路事情が悪かったため,御料牧場から皇室への食品提供は停止されていましたが,3月30日から,皇室のために,バター類の乳製品,肉加工品,鶏卵,野菜類(パセリ,レタス,大根,トマト等)等の提供が再開されました。この内,バター類の乳製品及び肉加工品はすべて震災以前に生産された製品でした。
(4)以上を要するに,御料牧場から被災者及び皇室に提供された肉加工品は,全て震災以前に生産された製品であり,また,震災後も御料牧場での生産が続いていた鶏卵は,被災者,皇室の双方に提供されました。
サンデー毎日7月31日号においては,「実は震災以来,御料牧場の製品は一切東京に届いていないと言われています。放射能汚染の心配があるためです。」との皇室ジャーナリストの発言を引用する一方,被災者に対しては,御料牧場で生産された鶏卵・豚肉・さつまいも等の食品が3月25日から提供されたと記し,あたかも,皇室は,放射能汚染を恐れて,御料牧場の製品摂取を差し控えつつ,被災者への製品提供だけが続けられていたような印象を与える記述が掲載されています。上記のとおり,これは,全く事実関係に反しており,遺憾であります。
宮内庁においては「サンデー毎日」編集部に対して,速やかに同記事についてしかるべき訂正処置を取ることを求めました。
「女性セブン」(平成23年1月6日・13日号)の記事について
平成22年12月28日
「女性セブン」(平成23年1月6日・13日号)に「皇太子さま 雅子さまを支える『正田家祖父母 ぬかるみの土下座』の記憶」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁としての対応は下記のとおりです。

「女性セブン」(平成23年1月6日・13日号)の「皇太子さま 雅子さまを支える『正田家祖父母 ぬかるみの土下座』の記憶」と題する記事において,1965年の夏休みに,軽井沢において,当時の皇太子ご一家が,正田ご夫妻と会われた際,同ご夫妻は,お召し車の到着する位置の所で土下座をして頭をたれており,到着した車から浩宮殿下が駆け寄って立ち上がるよう促した旨報じていますが,正田ご夫妻をよく存じ上げていた方々から,同ご夫妻が記載されているようなことをなさったとは到底考えられないので,あの記事は事実ではないのではないかとの指摘が寄せられました。
今はもう故人となられた正田ご夫妻の名誉に関わることですので,念のため,天皇皇后両陛下及び皇太子殿下(当時5歳)に当時の事実関係について伺ったところ,記載のような事実は全くないとのことでした。
当庁においては,女性セブン編集部に対して,こうした事実関係の誤りを指摘するとともに,記載のような事実がなかったことを明らかにするように求めました。
「女性セブン」(平成22年12月31日・平成23年1月1日号)の記事について
平成22年12月24日
「女性セブン」(平成22年12月31日・平成23年1月1日号)に「皇太子妃雅子さま 皇宮警察も大混乱 「かまぼこ工場見学事件」」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

「女性セブン」(平成22年12月31日・平成23年1月1日号)の「皇太子妃雅子さま 皇宮警察も大混乱 「かまぼこ工場見学事件」」と題する記事には,東宮ご一家に関するいくつかの事実無根の内容が含まれております。
とりわけ,妃殿下が前日になりお付き添いを決定されたため,皇宮警察をはじめ関係者に迷惑をかけた旨の記述は,全くの誤報であり,今回のご視察への妃殿下のお付き添いは,既に一週間前には決定され,関係者との十分な打ち合わせを経て行われたものです。
また,敬宮殿下が付き添いの上現地参加されたことについては,学習院初等科と事前に十分相談の上,学校の計画に沿う形で実施したものです。
この他にもこの記事には多くの事実誤認があります。
宮内庁東宮職においては,「女性セブン」編集部に対して,事実関係の誤りを指摘し,抗議しました。
「女性自身」(平成22年6月29日号)の記事について
平成22年6月17日
「女性自身」(平成22年6月29日号)に「雅子さま消えた夕食会 ご成婚17周年のお祝いドタキャンの断腸」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

「女性自身」(平成22年6月29日号)の「雅子さま消えた夕食会 ご成婚17周年のお祝いドタキャンの断腸」は,皇太子同妃両殿下が6月11日に予定されていたご成婚17周年をお祝いする夕食会を中止された旨報じております。
本来この種の内輪の御夕餐については,そのご予定も含め対外的に明らかにしておりませんが,同記事には,全く事実に反する記述が見られますので,次の通り事実関係を明らかに致します。
同記事では,この夕食会が中止となった理由として,天皇陛下の御公務やご健康状態や,悠仁親王殿下の御体調が挙げられておりますが,今回の御夕餐は,皇太子妃殿下の御体調により,止むを得ず延期になった次第です。
宮内庁東宮職においては,「女性自身」編集部に対して,事実関係の誤りを指摘し,抗議しました。
「週刊新潮」(平成22年6月10日号)の記事について
平成22年6月4日
「週刊新潮」(平成22年6月10日号)において,「イジメっ子対策で「給食に向精神薬を混ぜては」と提案した「東宮」」と題する記事に関する宮内庁東宮職としての対応は,下記のとおりです。

「週刊新潮」(平成22年6月10日号)の「イジメっ子対策で「給食に向精神薬を混ぜては」と提案した「東宮」」と題する記事において,「ADHDのクスリを給食に混ぜて,暴れん坊の子どもらに飲ませたらどうかと,東宮側が提案してきたんです。時期は,野村大夫のイジメ会見よりもかなり前のことです。」との記述がありますが,東宮職より学習院初等科に対してこのような発言をしたことは一切なく,またそもそも東宮御一家がこのような発言をされるということはありえません。
記事においても東宮職からの「全くの事実無根です」という回答を掲載しているものの,記事における上記の記述はあたかも事実であるがごとき誤解を招くものであり,皇太子御一家や東宮職に対する悪意ある中傷であると考えます。特に,当該記事の見出しにある『提案』は全く事実無根であり,たいへん悪質です。
宮内庁東宮職においては,「週刊新潮」編集長に対して,上記のとおり,強く抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載することにより,記載のような事実がなかったことを明らかにし,あわせて謝罪を求めております。
「週刊現代」(平成21年10月17日号)の記事について
平成21年10月7日
「週刊現代」(平成21年10月17日号)において,「天皇・皇后が皇太子・雅子妃の新居お披露目に行かれない理由」というタイトルの記事を掲載し,またその中で,「皇太子が天皇即位20年のお祝いの会を家族でやりましょうと企画するも,それも(両陛下が)お断りになってしまった。」とするとともに,その新聞広告等においてもこれらのことを大きく取り上げて宣伝をしているが,これらは全く事実に反するものであり,事実関係は下記のとおりです。

この件については,東宮職に確認したところ,以下のとおりでした。
(1) 新居の改修に伴う「お披露目」を目的とした夕食会や茶話会については,具体的に検討がなされたという事はなく,したがって,両陛下がそれをお断りになられたという事実はない。
(2) また,同記事は,新居の「お披露目」と,陛下の御即位20年のお祝いを兼ねた会の開催が検討されているように報じているが,いわゆる新居の「お披露目」と御即位20年のお祝いとは全く趣旨が異なるものであり,両者を兼ねて行うということはあり得ない。
一方,皇太子同妃両殿下は,御即位20年及び御成婚50年をお祝いする御内宴を催される予定であり,先週末,具体的な候補日について東宮職から侍従職に連絡があった次第であり,それ以前にこのお祝いの日程などについて,東宮職と侍従職の間で遣り取りが行われたことはありません。
なお,先週,宮内庁長官が陛下にお目にかかった際,陛下から,8月の始めに,皇太子殿下から新居に移ったらお招きしたいとの話があったが,その後,話が進まなかったので,あるいは妃殿下の体調のことなど事情があるのではないかという御趣旨のお話があり,御案じになっておられた御様子であったことからも,両陛下が「お断りになった」という報道は,事実無根であることが判ると思われるので,補足的に紹介します。
宮内庁においては「週刊現代」編集部に対して,事実関係の誤りを指摘するとともに,関連する補足説明をしました。
「週刊新潮」(平成21年9月10日号)の記事について
平成21年9月4日
「週刊新潮」(平成21年9月10日号)に「雅子さまを悩ませる 東宮「マルチ・ビジネス」騒動」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

「週刊新潮」(平成21年9月10日号)の「雅子さまを悩ませる 東宮「マルチ・ビジネス」騒動」において,「愛子さまとも接する機会が少なくない女性職員(中略)…実はその職員が巷間,マルチ・ビジネスと呼ばれることもある化粧品販売に傾倒し,東宮内で職員らに勧めている…」,「東宮に出入りする職員が“マルチ・ビジネス”に関与…」との記述がありますが,このような事実は一切ありません。
東宮職の職員の中で,ニュースキンの化粧品等やマルチ・ビジネスと呼ばれるような化粧品等を周囲に販売したり,勧めている職員はおりません。
記事においても東宮職からの「そのような事実はありません」という回答は掲載しているものの,記事における上記の記述は,あたかも事実であるがごとき誤解を招くものであり,東宮職職員に対する悪意のある中傷であると考えます。
宮内庁東宮職においては,「週刊新潮」編集部に対して,事実関係の誤りを指摘し,抗議しました。
テレビ朝日番組「ワイド!スクランブル」(平成21年4月20日)の放送について
平成21年6月3日
テレビ朝日の番組「ワイド!スクランブル」において,平成21年4月20日に放送されました皇太子妃殿下1年3ヶ月ぶりの地方公務と題する番組中,元テレビ朝日皇室担当の神田秀一氏の発言に,第1点は「公務については天皇陛下から皇太子殿下に宿題が出ている」旨,また,第2点は「2009年1月から天皇陛下の公務軽減という措置を宮内庁が打ち出していてこれに関連して天皇陛下の公務の一部を皇太子ご夫妻ができるだけ代われるものは代わりましょうと」といった旨の発言とテロップによる放送がありましたが,第1点及び第2点ともそのような事実はありません。
第1点については,かつて皇太子殿下がお誕生日に際しての記者会見時の質問に対して,新しい御公務についてお答えになったことを受けて,天皇皇后両陛下が宮内庁に対して,皇太子同妃両殿下の御意向をよく伺って御相談にのるようにとの経緯があったものであり,天皇陛下から皇太子殿下に宿題が出ているということではありません。
第2点については,2009年1月29日,今後の御公務及び宮中祭祀の進め方についてとして宮内庁から発表した内容は,天皇皇后両陛下の御公務の調整・見直しに当たっては,御公務の重要性と一心にお務めになってこられた両陛下の御公務に対する御姿勢に鑑み,御公務そのものを削減するのではなく,それぞれの御公務の内容・方法等について,両陛下の御負担を少しでも軽減するという観点から,きめ細かく調整・見直しを図ることとしたものであり,天皇陛下の御公務の一部を皇太子殿下に代わっていただくというものではありません。
宮内庁としては,本件につき訂正等しかるべき対応を求めるとともに,今後,事実の確認と客観的事実に基づいた番組の放送をお願いしたい旨,テレビ朝日にお伝えしました。
「文藝春秋」(平成21年3月特別号)の記事について
平成21年2月19日
「文藝春秋」(平成21年3月特別号)の「元号「平成」決定の瞬間」(佐野眞一著)と題する記事に関する事実関係及び宮内庁の対応は,下記のとおりです。

「文藝春秋」(平成21年3月特別号)の「元号「平成」決定の瞬間」において,筆者の佐野眞一氏は,「平成に皇后となった美智子妃は,天皇のことを公的な席では「陛下」と呼び,プライベートな場所では「おとうさん」と呼んでいる。」と記述しています。あり得ぬことではありますが,事の性質にかんがみ,天皇陛下に事実関係をお伺いいたしましたところ,皇后陛下が天皇陛下を「おとうさん」と呼ばれたことは,勿論一度もなく,また,お子さま方は,御幼少の頃は,当時の皇太子殿下を「おもうちゃま」皇太子妃殿下を「おたたちゃま」と呼ばれ,少し成長されてからは,それぞれ「おもうさま」,「おたたさま」と呼ばれ,御一家の中で「おとうさん」という呼びかけ方がなされたことは全くなかったとのことでした。
佐野氏が,この一点をもって「何事も輪郭線のはっきりした昭和と,不透明で閉塞感に覆われた平成の違いを物語る皇室がらみのエピソード」とし,さらに,香淳皇后が昭和天皇を「お上」と呼ばれたことと対比しつつ「わずか20年の間のこの呼称の変化には,昭和の重圧を脱却した平成の開放感が象徴されている。それだけではない。そこには,皇室の権威失墜の兆候が,それ以上の強いインパクトで刻まれている。」と結論付けておられることは,全く事実に反することを記述した上で,それに基づいて論を進めていることであり遺憾であります。
宮内庁においては,以上の点を佐野眞一氏に伝えるよう,「文藝春秋」編集人に要請しました。
TBSテレビ番組「2時っチャオ!」(平成20年9月11日)の放送について
平成20年9月26日
TBSテレビの番組「2時っチャオ!」において,平成20年9月11日に放送されました秋篠宮妃殿下のお誕生日特集番組中,眞子内親王殿下がジャニーズのコンサートに行かれた旨の放送がありましたが,このような事実はありませんので,その旨,TBSテレビにお伝えしました。
また,これと同旨の報道が,一昨年の秋にも「週刊新潮」においてなされ,当時も宮内庁から同社に対し,事実に反する旨指摘するとともに,今後は事実の確認と客観的事実に基づいた記事を掲載されるよう要請しています。
「週刊朝日」(2008年5月23日号)の記事について
平成20年6月12日
「週刊朝日」(2008年5月23日号)の「さまよう平成皇室」と題する記事の中の竹田恒泰氏の記述に「毎週,皇太子が天皇の御所にあがるような事例は歴史的にも珍しいことです。故秩父宮殿下は,自らのおじいさまであられる明治天皇にお会いしたのは年に数回の拝謁の機会だけで,人生で一度も明治天皇の肉声を耳にしなかったそうです。」とあります。
しかし,現在の天皇皇后両陛下が皇太子同妃両殿下時代には,当時の天皇陛下の御希望もあって,できる限り御一家で毎週1回は御参内になるということを定例にされていました。また,常陸宮同妃両殿下も当時は,少なくとも毎月2回程度は御参内になられていました。したがって,皇太子殿下や他の皇族方が御所に御参内になることが歴史的にも珍しいとは,認識していないところです。
さらに,秩父宮殿下が10歳1ヶ月になられた時には,明治天皇は崩御されており,いずれにしても,明治時代の頃のなさりようを引用して,皇太子殿下や他の皇族方が御所に御参内になることが歴史的にも珍しいこととするには,無理があるものと考えております。
この事実関係については,週刊朝日にもお伝えしました。
「WiLL」(2008年7月号)の記事について
平成20年6月9日
1 「WiLL」7月号に掲載されている渡部昇一氏と日下公人氏の対談において,渡部氏は,「ですが美智子様が皇室に入られたために,宮中に仕えていた女性がみんな辞めてしまったそうです。」と発言しておりますが,これに該当する事実はありません。当時の人事関係資料によれば,御成婚前後の女性職員の人事異動の事実関係は以下の通りです。
(1) 御成婚以前には,東宮職には女官はおらず,昭和34年の御成婚を期に,東宮女官長1名及び東宮女官3名が,発令されました。この計4名は,いずれもその後10年以上,長い者は20年以上におよび東宮職で勤務を続けました。
(2) 御成婚当時に,昭和天皇の御所では,女官長1名,女官5名の計6名が勤務していました。この内,女官1名が昭和35年に退職しましたが,これは当時女官の中では最高齢者で(当時68歳),勤務を続けることが出来なくなったために退職したものです。この1名以外には,御成婚後の早い時期に退職した女官はなく,8年後の昭和42年になって,当時76歳の女官長が退職しました。
また,香淳皇后の御用掛2名も,辞めることはなく,内1名は,皇太子同妃両殿下の米国御訪問にも随行しています。
(3) 女官以外の内廷女子職員については,御成婚前から東宮職において勤務していた女性職員2名は,いずれも,御成婚以後も東宮職で勤務を続け,1名は,65歳になった昭和47年に退職し,もう1名は,72歳になった昭和61年に退職しました。
宮内庁としては,渡部氏が,何故,上記のような全く事実と異なる発言を行われたのかについて,その根拠,理由などを承知したく「WiLL」を通じて渡部氏に対して照会するよう依頼しております。
2 また,上記対談において,渡部氏は,「ですから,皇太子殿下が一番大切な時期にイギリスに4年も留学なさったというのは,長すぎます。」と発言しておりますが,当時の徳仁親王殿下が英国に留学なさったのは,昭和58年6月から昭和60年10月までの約2年間です。
「文藝春秋」(平成20年4月号)の記事について
平成20年3月21日
「引き裂かれる平成皇室『3 雅子妃病状と美智子皇后』」の見出しで書かれた記事に関する事実関係は下記のとおりです。

記事においては,祭祀には大祭と小祭があり,小祭は,「天皇と皇太子だけが出ればいい」としつつ,「美智子皇后は一部の小祭にも出席しています」と記されています。しかし、天皇陛下及び皇太子殿下のみが御拝礼になる小祭は,歳旦祭,祈年祭,天長祭の3つであり,その他の御先祖のお祭等については,天皇皇后両陛下及び皇太子同妃両殿下が御拝礼になるとともに,その他のすべての成年皇族が御参列になることとなっています。
また,「天皇が前立腺がんの手術で静養していた平成15年1月から5月までは,天皇に代わって皇后がずっと出席」とありますが,皇后陛下は,皇后としてのお立場でお出になるべき祭祀にお出ましになったものであり,天皇陛下の御拝礼は,従来どおり掌典長が代拝を務めています。
宮内庁においては「文藝春秋」編集人に対して,この事実関係を連絡いたしました。
Link
「週刊文春」(平成20年1月31日号)の記事について
平成20年1月29日
「週刊文春」(平成20年1月31日号)の「雅子さまと小和田夫妻『元日おせち事件』」と題する記事の中に「陛下が皇太子の頃,正田夫妻が東宮御所へ食事に招かれたことは一度もなかった。」という記述があります。
しかし,昭和天皇の時代,正田様ご夫妻が,お正月に東宮御所で当時の皇太子同妃両殿下とお食事を共にされるということはありませんでしたが,両殿下それぞれのお誕生日に際しては,お招きにより東宮御所にあがられ,殿下方とお食事を共になさいました。
なお,この事実関係については週刊文春にもお伝えしました。
「サンデー毎日」(平成20年2月3日号)の記事について
平成20年1月24日
「サンデー毎日」(平成20年2月3日号)に「美智子さまにのしかかる”三つの心労”」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁東宮職としての対応は下記のとおりです。

記事では,「元日,雅子さまは新年祝賀の儀を午前中に切り上げ,小和田家のご両親と東宮御所で昼食を共にされたとも。」とありますが,皇太子妃殿下には,そもそも,元日に宮殿で新年行事が続いている間に,ご親族と過ごされた事実はなく,したがって,東宮御所で小和田家のご両親と昼食を共にされたということもありません。
宮内庁東宮職においては,「サンデー毎日」編集長に対して,事実関係の誤りを指摘し,抗議しました。
「THEMIS(月刊テーミス)」(2008年1月号)の記事について
平成20年1月15日
「皇太子ご夫妻『北京五輪出席』巡る攻防」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁としての対応は下記のとおりです。

1 記事では,『'92年の昭和天皇の中国訪問』とありますが,昭和天皇が中国をご訪問されたことは一度もありません。昭和天皇は,'92年には既に崩御されており,同年に中国をご訪問されたのは現在の天皇皇后両陛下です。
2 宮内庁においては「THEMIS」発行人に対して,事実関係の誤りを指摘いたしました。
「女性セブン」(平成20年1月3日・10日号)の記事について
平成19年12月27日
「女性セブン」(平成20年1月3・10日号)に「美智子さま 皇太子ご夫妻お呼び出し 12月1日の重大宣告」の見出しで書かれた記事に関する事実関係及び宮内庁としての対応は下記のとおりです。

記事では,平成19年12月1日,愛子内親王殿下のお誕生日に際し,皇太子ご一家が御所を訪問された際,皇后陛下が皇太子同妃両殿下を別室にお呼びになり,両殿下に天皇陛下のご公務に関するお話しをされたとなっています。しかしながら,天皇皇后両陛下,更に念のため皇太子同妃両殿下にも確認いたしたところ,当日は,お誕生日のご挨拶に上がられた三殿下を両陛下が応接室でお迎えになり,約20分後,両陛下は三殿下を御車寄までお送りになられました。この間,どなたも応接室からお出になられたということはありません。したがって,記事にあるような皇后陛下が両殿下を別室にお呼びになったという事実はなく,また,愛子内親王殿下のお誕生日のお祝いの席で,ご公務に関するお話しをされたという事実もありません。
なお,東宮職からも以下の指摘がなされており,こうした報道がなされたことは誠に遺憾であるとのことであります。すなわち,
皇太子同妃両殿下が別室に呼ばれて皇后陛下から公務に関するお話しを受けたというような状況は一切ない。
三殿下にお供した東宮女官等が愛子内親王殿下を両殿下とは別の場所でお世話したこともない。
上記事実関係にかんがみ,宮内庁においては,「女性セブン」編集長に対し抗議するとともに,速やかに訂正記事を掲載するなどし,記載のような事実がなかったことを明らかにするよう求めております。
「プリンセス・マサコ」(ベン・ヒルズ)に関する宮内庁書簡
オーストラリア国在住のベン・ヒルズ氏がランダム・ハウス・オーストラリア社から出版した「プリンセス・マサコ」と題する本について,本年2月,同氏及び同社に対し,現地大使館を通じて日本国政府としての抗議が行われています。
宮内庁としては,同書に記述されている天皇陛下並びに皇室の御公務に関する部分についての見解を書簡によって著者に伝えています。
「プリンセス・マサコ」(ベン・ヒルズ)に関する宮内庁書簡(日本語仮訳)
正文(英文)へ
2007年2月1日
ベン・ヒルズ氏へ
貴著「雅子妃ー菊の玉座の囚人」について,この書簡を送ります。
長年皇室報道を専門としてきた或る老練な新聞記者が,この本を読んで,「各ページに間違いがあるのではないかというくらい」不正確な箇所が目につくと書いています。また,より実質内容に関わる観点から,政府は,この本の描いている皇室像が如何に歪んだものであるかに驚き,対応ぶりを検討しています。その間,ここでは,天皇皇后両陛下の側近にお仕えしている立場から,両陛下に直接関わり,しかも明らかに事実と異なる一つの箇所に絞って,問題を提起します。
この本の第7章で,貴方は,「天皇には,年間に千件以上・・の公務があるといわれるが,いずれも,・・当たり障りのない行事への,負担のない形式的な出席ばかりである」と述べた上で,「日本の皇室が,ダイアナ妃による・・レプロシー・ミッション・・への支援のような論議を呼ぶ事柄に関わりをもつことはありえない」と断定しています。
ここで貴方は,両陛下が,40年にわたってレプロシー,すなわちハンセン病の問題に大きく関与してこられたことを全く無視しています。日本には,全国各地に13箇所の国立ハンセン病療養所があります。両陛下は,1968年,皇太子皇太子妃の時代に,鹿児島県の奄美大島にある療養所をお訪ねになって以来,2005年までの間に,これらの国立ハンセン病療養所のうち青森,群馬,東京,岡山(2箇所),鹿児島(2箇所)および沖縄(2箇所)の各都県にある9箇所を訪ねてこられました。
これらの療養所のご訪問に当たっては,入所者と膝をつき合わせ,手を握って,病いと差別,偏見に苦しんできたその人々の苦しみを分かち合い,慰められるとともに,園長,医師,看護師など入所者の世話をしている人々の労をねぎらってこられました。
1975年に沖縄県の療養所の一つをお訪ねになった時には,入所者が,御訪問を終えられてお帰りになる両陛下を,沖縄の伝統的な別れの歌を歌ってお送りし,また,後に,感謝の意をこめた詩をお送りしました。これに対し,天皇陛下は,沖縄特有の定型詩を詠んで,この人々の気持ちにお応えになっています(陛下は,さきの大戦で唯一地上戦が行われ,その後1972年まで米国の施政権のもとに置かれることとなった沖縄の人々の苦難を理解する一助として,沖縄の古典文学を学ばれました)。2004年,両陛下は香川県の高松市をお訪ねになりましたが,その折,市の沖合にある小さな島の療養所から入所者が来て,両陛下にお目にかかっています。また,翌2005年の岡山県ご訪問の際は,ほぼ一日をかけて,島にある隣接した二つの療養所をそれぞれお訪ねになりました。
これまで入所者にお会いになることができなかった3箇所の療養所については,皇后陛下が,それぞれの園長をお招きになって,現状をお聞きになっています。また,皇后陛下は,政府の委託によって過去の日本政府のハンセン病患者隔離政策を批判的に検証した2005年の報告書が出版された際には,関係者をお招きになって,説明を聴取しておられます。
両陛下のこれらの活動は,常に静かに行われてきましたが,両陛下とハンセン病問題に関わる以上の事実は,全て報道され,記録されており,初歩的な調査によって,容易に知りうることであります。
また,天皇の公務は,「当たり障りのない行事への,負担のない形式的な出席ばかりである」というのが貴方の見解でありますが,例えば,1975年に皇太子同妃として沖縄を訪問された時には,ご訪問に反対した過激派が至近距離から火炎瓶を投げつけたにもかかわらず,全く予定を変更することなく訪問を続けられました。1995年,戦後最悪の自然災害となった阪神・淡路大震災が発生した際には,被災地に飛ばれ,本土と淡路島の双方にわたって,被災者の避難した小学校の体育館などを回ってその人々と一日を過ごされました。1994年,終戦50年に先立ち,両陛下は,硫黄島に赴かれ,日米双方の戦死者のために祈られました。2005年には,終戦60年に当たり,さきの大戦で激しい戦闘の行われたサイパン島を訪問され,炎天下,島内の日米韓各国民と現地島民の戦没者のための慰霊碑や大勢の婦女子が戦争の末期に身を投げた崖などで心をこめた祈りを捧げられました。
両陛下は,社会福祉の分野全般にわたって,この47年,困難を抱えた人々をたゆみなく励まし,慰めてこられました。これまでに,全都道府県の400箇所を超える福祉施設(知的障害者,身体障害者,高齢者,幼児などのための施設)を訪ねられ,外国においても,英国のストークマンデヴィル身体障害者スポーツ・センター(1976),いくつもの福祉施設が集まり,人々がナチス時代にも障害者たちを護り通したドイツの町ベーテル(1993),米国のナショナル障害者サーヴィス・センター(1994)など様々な福祉施設をたずねてこられています。貴方の母国オーストラリアでは,皇后陛下が,パース・リハビリティション病院(1973)を訪ねておられます。
貴方は,両陛下のなさっていることが,無意味で形式的なことばかりであると示唆しているように見えますが,仮に,そうであるとするならば,何故,世論調査で,現在の形の皇室に対して,常に75パーセントを超える支持があるのでしょうか。また,何故,両陛下が地方に旅行される度に,何万という人々が両陛下を歓迎するために喜んで沿道に出てくるのでしょうか。
以上の諸点について,著者はどのように考えるのか,少なくも,事実関係のはっきりしている皇室のハンセン病への関与に関して,回答を求めたいと思います。
侍従長 渡辺 允
Press Release
A letter from the Imperial Household Agency
Mr. Ben Hills
Random House Australia
1 February 2007
Dear Mr. Hills,
I am writing to you in connection with your book, "Princess Masako--Prisoner of the Chrysanthemum Throne."
A veteran newspaper reporter who has covered the Imperial Family for many years read this book and wrote that he noticed so many inaccuracies that "almost every page seems to contain an error." Also, from a more substantive point of view, the government became alarmed to see how distorted a picture of the Imperial Family this book draws and is trying to determine what steps they can take about it. In the meantime, as someone who works for Their Majesties the Emperor and Empress by their side, I would like to focus on a passage in the book which is directly related to them and totally wrong from a factual point of view.
In Chapter seven of this book, you write that, "The Emperor is said to have more than 1000 engagements a year,-----, though all are undemanding formal appearances at uncontroversial events." and go on to conclude that, "It would be inconceivable for the Japanese royals to be associated with anything as controversial as Princess Diana's championing of ----- the Leprosy Mission."
Here, you completely ignore the fact that Their Majesties have been very much involved in leprosy, or Hansen's disease, over the past forty years. There are thirteen national sanatoriums for Hansen's disease all over Japan, and Their Majesties have visited nine of them in the prefectures of Aomori, Gunma, Tokyo, Okayama, Kagoshima and Okinawa(two sanatoriums each in the last three prefectures). The first such visit took place in 1968 when, as Crown Prince and Princess, they went to a sanatorium on Amami-oshima island in Kagoshima prefecture and most recently they called on two sanatoriums in Okayama prefecture in 2005.
When they visited these sanatoriums, they sat down with the patients, held their hands and shared the agony they suffered from their illness, social discrimination and prejudice. They also talked to the administrators, doctors and nurses who looked after the patients to express their appreciation for their hard work.
At the end of their visit to one of the two sanatoriums in Okinawa prefecture in 1975, the patients sent them off with a traditional farewell song of Okinawa, and later sent them some poems to convey their gratitude for the visit. The Emperor reciprocated their sentiments by sending them his own poem composed in the form of traditional Okinawan short verse (He studied classical literature of Okinawa, as a part of his effort to understand the ordeal of the people of Okinawa which was the only prefecture where ground battle was fought during the last world war and the U.S. administration continued thereafter until 1972). When they visited Takamatsu city in Kagawa prefecture in 2004, patients came to the city from a sanatorium on a small island off its coast and met Their Majesties. In 2005, on their visit to Okayama prefecture, they spent almost a whole day visiting two sanatoriums on an island one after another.
The Empress has invited the administrative heads of the three sanatoriums whose patients Their Majesties have not been able to meet, and learned from them the current situation of their respective institutions. Also, when a report was commissioned by the government to critically review the past government policy of isolating the Hansen's disease patients from the society, the Empress took time, after it was published, to invite and hear about the report from an expert who was involved in writing it.
Although they always carried out their work in this field with discretion, all these facts concerning the involvement of Their Majesties in the Hansen's disease were reported in media and well recorded. They can be known easily with a most elementally research.
You are of the view that "all" of the engagements of the Emperor "are undemanding formal appearances at uncontroversial events." But, for example, when Their Majesties visited Okinawa as Crown Prince and Princess in 1975, left-wing radicals who opposed the visit threw bottle grenades at them at close range. They, however, continued with the visit without a single change in their schedule. In 1995, soon after the Great Hanshin-Awaji Earthquake which was the worst natural disaster after the last world war, they flew to the stricken areas, both on the mainland and on the island of Awaji, and went around the school gymnasiums and other places where those who lost their homes took shelter, thus spending the whole day with them. In 1994, one year prior to the fiftieth anniversary of the end of the last world war, they flew to Iwojima island to pray for the fallen soldiers, both Japanese and American. In 2005, to commemorate the sixtieth year after the end of the war, they went to the island of Saipan in the Pacific where also fierce battle took place, and prayed, under the blazing sun, at war memorials for Japanese, American, Korean and local war dead as well as the cliffs where a large number of women and children threw themselves off at the end of the war.
In the area of social welfare in general, they have been constant for all these forty-seven years in giving encouragement and consolation to those who suffer from difficulties. They have visited more than four hundred welfare facilities for the physically or mentally handicapped, the elderly or infants in all of the prefectures in Japan. They have also visited a variety of welfare facilities in other countries, including Stoke Mandeville Sports Stadium for the Paralyzed and other Disabled in England in 1976, the German town of Bethel in 1993, where a number of welfare facilities are concentrated and the residents protected the handicapped throughout the Nazi period, as well as the National Center for Disability Services in the United States in 1994. In your own country, Australia, the Empress visited Royal Perth Rehabilitation Hospital in 1973.
If all of what the Emperor and Empress do were meaningless formalities, as you seem to imply, why more than seventy-five percent of people constantly support the Imperial Family as it is in public opinion polls? Also, why tens of thousands of local people are willing to come out to welcome the Emperor and Empress along the roads they take wherever they go in the country?
I would like to ask for your response on what I wrote above, at least on the issue of the Imperial involvement in Hansen's disease where facts are quite clear.
Sincerely,
Makoto Watanabe
Grand Chamberlain to His Majesty the Emperor
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「週刊文春」(平成29年7月27日号)の記事について
平成29年7月24日
「週刊文春7月27日号」に掲載された「大往生 日野原重明さんを支えた美智子さまと笹川良一」と題する記事の中で,元聖路加国際大学客員教授で国際人道法を専門とする小池政行氏の次の談話が紹介されています。
「日野原さんは音楽に造詣が深く,自身でピアノも演奏します。ある時,皇后さまが日野原さんの演奏をお聴きになって,『日野原さんのお歌とピアノを聴くのは,こちらがチャリティーをしているようね』と評された。チャリティーはお得意な日野原さんですが,あまり演奏は上手くなかったのでしょう」。
皇后さまが,長年のご親交を大切にされてこられた日野原さんをそのように評されるとは到底思えないため,念のため,皇后さまにもお尋ねしましたが,日野原さんのお歌については,ご自分のお誕生日のレセプションでハッピィー・バースデーを歌って下さったことを懐かしそうにお話になりましたが,日野原さんがピアノを弾かれることはご存じなく,まして,その演奏をお聴きになるような機会は過去に一度もおありではありませんでした。
このような事実に反する談話は,しばしば散見されるところではありますが,この度は一個人の逝去に当たってのことであり,多くの人々が日野原さんを悼み,厳粛な気持ちでいる中での発言であることから,宮内庁としては,この事実関係を明らかにし,発言内容が事実と異なることを出版社に伝えることと致します。
親王妃の「妃」を「きさき」と呼称することについて
平成28年11月21日
先の崇仁親王殿下の薨去に際しての一部の報道において,崇仁親王妃百合子殿下を「きさきの百合子様」と呼称する部分がありましたが,この呼称は下記のとおり誤りでありますので,注意喚起するとともにその点をお伝えします。

皇室典範における妃
明治の皇室典範において,皇族の配偶者を妃と規定されました。すなわち,皇太子妃・皇太孫妃・親王妃・王妃がそれであります。これは,現行の皇室典範にも継承されておりますが,ここでの「妃」の呼び方は,いずれも「ひ」であり,「きさき」とは呼ばれておりません。
歌会始めにおける妃
現在,歌会始の儀においては,皇后陛下のことを「きさいのみや」とお呼びしています。しかし,皇太子妃は「ひつぎのみこのみめ」,親王妃は「○○のみこのみめ」とお呼びするように皇太子殿下を始め皇族の妃を「きさき」もしくは「きさい」と称することは行われておりません。
結論
宮内庁において,皇族の配偶者はいずれも「妃(ひ)」と呼んでおり,「きさき」とは呼んでおりません。
(注)
広辞苑においては,「きさき(后)」を「天皇の正妻。皇后。中宮。」,「ひ(妃)」を「皇族の妻の称。」とされています。
昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
平成28年9月23日
平成28年8月27日付け毎日新聞朝刊の「危機の20年」と題する記事の中で,原武史氏は「平成になると,宮中祭祀に天皇と皇后がそろって出席するようになったばかりか,行幸も皇后が同伴する行幸啓となり,」と述べています。
昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況については,これまでも宮内庁ホームページで事実関係を説明してきたところでありますが,こうした事実と異なる認識が依然として見られることから,改めてこの点についての事実関係を説明します。
香淳皇后は,ご晩年の20年近くは,ご高齢とご健康上の理由により,行事への御臨席が困難となられましたが,昭和52年に腰を痛められるまでの戦後約30年間の長きにわたり,昭和天皇と共に多くの宮中祭祀にお出ましになり,また,行幸啓を共になさっています。
宮中祭祀について見ますと,昭和21年から51年までの恒例の祭祀で,かつ,天皇皇后両陛下のお出ましが予定された364件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは213件(58.5%)を占めています。ちなみに,昭和30年以降で見ますと66.7%となります。
また,地方ご訪問について見ますと,昭和21年に開催された国体には,昭和22年の第2回石川県大会には昭和天皇が御巡幸を兼ねてお一方で御臨席になりましたが,昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年まで毎年,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に御臨席になっています。また,植樹祭には,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回を除き,昭和25年の第1回から御不例となった昭和52年まで毎年春,昭和天皇とご一緒に御臨席になりました。なお,昭和21年から昭和29年までにわたる戦災復興状況御視察のための御巡幸は,当時,香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等が整っていなかったこともあり,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっていますが,最終回の北海道御巡幸には第9回国体が北海道で開催されたことから,国体御臨席を兼ねて昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになりました。こうした戦後間もない御巡幸は別としても,昭和21年から51年までの地方へのお出まし78件のうち,昭和天皇とお揃いでのお出ましは73件(93.6%)を占めています。
このように,宮中祭祀や地方ご訪問については,戦後から既に天皇と皇后がお揃いでなさっておられ,御成婚後の今上両陛下は,これをそのままに受け継がれ,昭和,平成とお続けになっておられるものであり,平成になってから,宮中祭祀や地方ご訪問を両陛下でなさるように変わったという事実は全くありません。
以上のことについては,過去にも宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明し,繰り返し注意を喚起してきたところ(「昭和時代における香淳皇后の御活動について(平成21年12月4日)」及び「昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について(平成25年4月3日)」)でありますが,未だにこうした基本的な事実を確認せずに皇室について議論がなされることは遺憾であり,第三者の対談ではありますが,この点の事実関係の誤認については毎日新聞社にも伝えました。
「FRIDAY」(平成28年8月19・26日合併号)の記事について
平成28年9月6日
「FRIDAY」(平成28年8月19・26日合併号)に掲載された「生前退位「天皇の意向」を受けとめた秋篠宮の覚悟」と題する記事の中で,秋篠宮殿下に関わる以下の誤った記載がありましたので,その点をお伝えいたします。
「宮内庁の内情に詳しい人物が明かす。「陛下は皇太子殿下,秋篠宮さまと定期的に食事の機会を持ち,生前退位についても話されていましたが,陛下の意向を汲んだ秋篠宮さまがA氏を媒介に,NHKと接触したんです。NHKの記者は宮邸で,宮さまに直接面談取材した。」,「事の重大さに,記者は後日上層部を伴って再度宮邸に赴き,最終確認も行った」」,「秋篠宮は覚悟を秘めた表情で,「お上のご内意をいただいて申し上げることですがー」と切り出したという」と記載しています。
秋篠宮殿下には,これまでも情報の取扱いについては極めて慎重な対応をしておられるところであり,また,入門や参邸の記録を確認しても,NHK記者や上層部の人が取材のために宮邸に伺ったという記録はなく,記事のような事実は一切ありません。
なお,記事の中で「A氏」とされている宮内庁幹部にも確認しましたが,そのような事実は全くありませんでした。
この件について,これまで問い合わせもあったことから,宮内庁ホームページを通じ,お伝えすることにいたしました。
「週刊現代」(平成25年10月26日号)の記事について
平成25年10月17日
 「週刊現代」(平成25年10月26日号)の「宮内庁が心配する美智子皇后の『体調』」と題する記事の中で,皇后陛下のご体調に関して誤った記載がありますので,その点をお伝えします。
宮内庁担当記者の話として,宮内庁は,皇后陛下のご体調から,昨年は各20分だった皇后陛下のお誕生日の祝賀の時間を今年はそれぞれ10分に短縮するとの通達を発出した旨記載していますが,今年になって各祝賀行事の時間を短縮した事実も,その旨を伝える通達を発出した事実もありません。全て昨年通り行われます。
天皇皇后両陛下が毎朝ご散策されていることについて,宮内庁関係者の言として,「最近,散歩の時間を短縮したり,見合わせてしまうことがたびたびあるのです。」と記載していますが,今年6月以降にご散策をされなかった日を確認したところ,ご体調によるお取り止めは6月に肩のお痛みで一度ありました。8月,9月,10月の各月も一度ずつ取り止められましたが,これらはすべて悪天候によるものでした。また,時間を短縮されたことはなく,毎回ほぼ30分程度です。
皇后陛下のご体調について,同じ宮内庁関係者の言として,「実は,服用を続けている頸椎症の鎮痛剤が,胃の炎症を引き起こしている」云々とありますが,お痛みが強いときに鎮痛剤を服用されることはありますが,最近はその回数は少なく,また,継続的なものではなく,侍医の報告でも,そのためにご気分の変化を来たしているというご訴えはありません。
人々に不要な心配をかけないためにも,以上お伝えします。
昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について
平成25年4月3日
最近の週刊誌においては,昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について,「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」としている。
このことに関しては,平成21年12月に宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明したところであるが,なお同様の記述が引き続き見られるので,改めて,昭和天皇と香淳皇后の戦後の御活動状況について,「戦災復興状況御視察」(御巡幸)と,恒例の行事である「秋季国体」及び「植樹祭」を例にしてみると,次のとおりである。(御巡幸,秋季国体,及び植樹祭に関し,各年の主催県,開催の日取り,行幸啓か行幸のみか等については別表参照)
(戦災復興状況御視察(御巡幸)について)
昭和21年から昭和29年までにわたる46都道府県(この時点では沖縄県はまだ返還されていなかった。)の御巡幸については,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっておられ,最終回の北海道御巡幸に際しては,第9回国体が北海道で開催されたこともあり,国体御臨席を兼ねて,昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになった。
(秋季国体について)
戦後間もない昭和21年秋に京阪神地区で第1回国体が開催され,翌22年には昭和天皇は,お一方で御巡幸を兼ねて福井,石川,富山の三県に赴かれた際に,石川県で開催された第2回国体に初めて御臨席になった。
そして,翌々年の昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年の第31回国体(佐賀県にて開催)までのほぼ30年間にわたり,毎年秋,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に国体に御臨席になった。その後,昭和52年7月に香淳皇后が那須御用邸内で転倒され腰を痛められたので,同年秋,翌53年秋そして昭和54年秋の国体には,昭和天皇お一方で御臨席になったが,昭和55年及び昭和56年の秋季国体には,昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒にお出ましになった。
しかしながら,昭和57年秋以降は,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難となったため,昭和天皇は同年秋の第37回国体以降,昭和61年の第41回国体まで,毎年お一方で国体に御臨席になった。ちなみに,昭和62年の第42回国体(沖縄県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。
(植樹祭について)
昭和25年4月山梨県で開催された第1回植樹祭以来,昭和52年の第28回植樹祭(和歌山県にて開催)までのほぼ30年間にわたって,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回植樹祭を除いて毎年春,昭和天皇は,香淳皇后とご一緒に植樹祭に御臨席になった。その後,昭和53年の第29回植樹祭に際しては,上記の通り香淳皇后のご体調が万全ではなかったため,昭和天皇はお一方で植樹祭に御臨席になったが,昭和54年から同57年まで4回にわたる植樹祭に際しては,昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒に御臨席になった。しかしながら昭和58年以降の植樹祭については,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難になったため,昭和天皇は昭和62年の第38回植樹祭まで,毎年お一人で御臨席になった。ちなみに,昭和63年の第39回植樹祭(香川県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。
以上を要するに,終戦直後の昭和21年に開始された全国各地の戦災復興状況を御視察するための御巡幸については,当時香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等も整っていなかったことなどもあり,最後の御巡幸であり,かつ秋季国体御臨席を兼ねていた昭和29年の北海道御訪問を除き,すべて昭和天皇がお一方でお出ましになった。しかしながら,戦後に開始された毎年の重要行事である国体及び植樹祭については,当初から,昭和天皇と香淳皇后が必ずお揃いで御臨席になっており,昭和天皇がお一方でこの両行事に御臨席になったのは,香淳皇后がご体調を崩されて,次第に御臨席が困難となられた昭和50年代に入って以降のことである。
「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」という認識は,以上の歴史的な事実を無視するものであるので,注意喚起する次第である。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/gojunko.pdf
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/syukikokutai.pdf
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/syokujusai.pdf
オーストラリア カウラ日本庭園財団・日本協会会長ドン・キブラー御接見(平成23年10月21日)について
平成23年11月4日
去る21日,天皇皇后両陛下には,御所において,オーストラリアから来日したカウラ日本庭園財団・日本協会会長であるキブラー氏に会われましたが,これに関する一部の報道には若干不正確なところが見られましたので,補足方々,事実関係を以下の通りお伝えします。

天皇皇后両陛下には,昭和48年皇太子同妃両殿下としてオーストラリアを御訪問になられた際,シドニー市から320キロ離れたカウラ市を訪れられ,戦時この地で落命した日本人捕虜の墓地にお参りされました。両陛下は,昭和19年夏にこの地において多くの日本兵捕虜が,俘囚ふしゅうを恥として捕虜収容所からの脱走を試みて死亡した悲劇的な事件を長く記憶され,こうしたお気持ちに沿って,平成4年には清子内親王殿下が,また,平成7年には秋篠宮同妃両殿下が,オーストラリア御訪問のお時間をさかれ,同じくカウラ市を訪れておられます。
昨年4月に,キブラー氏の訪日が報じられたのを機会に,カウラの最近の状況について,宮内庁より在シドニー日本総領事館に照会しましたところ,昭和48年に当時の皇太子同妃両殿下がカウラの日本人墓地を御訪問されたことを契機として,日豪の和解と,死亡した日本人捕虜の慰霊のために日本庭園を建設することがキブラー氏により提案され,昭和61年の庭園完成に至るまで中心的な役割を果たしてきた同氏は,現在も,日本兵の慰霊と日本庭園の維持のために引き続き力を尽くしていることが分かりました。こうしたキブラー氏の尽力に対して,昨年5月,侍従長より在シドニー日本総領事を通じて両陛下の御謝意とお労いのお気持ちを伝達しました。本年9月に至り,同氏より10月19日(水)夕刻から23日(日)までという日程で訪日するので,短時間なりとも是非両陛下にお目にかかりたい旨伝えられてきました。何分,同氏の滞在は短いので,いろいろと検討した結果,同氏が侍従長に会うために宮内庁を訪れる際,両陛下と短時間なりとも御面会がかなうよう,蓮池参集所での勤労奉仕団御会釈からお帰りになった両陛下に,御所御車寄の玄関ホールにおいて同氏を御紹介申し上げた次第です。両陛下には,この場において同氏と短時間ではありましたがお会いになり,日本兵の死者を手厚く弔い,長く墓地を守ってきてくれたことへの御謝意とお労いのお気持ちをお伝えになりました。
「週刊新潮」(平成23年4月14日号)の記事について
平成23年4月8日
週刊新潮4月14日号に「両陛下『お見舞い』に胡坐で応じた避難者に誰か礼儀を」との見出しの記事があり,「男性の被災者で何人かが,両陛下を前に胡坐をかいて言葉を交わしていたのです。いずれも比較的若年層の人々でしたが,陛下が膝を折ってお話になっているにもかかわらず,そのままの姿勢でした」と述べられています。
天皇皇后両陛下は日頃から側近に対し,身体の不自由な人,あるいは何等かの事情により正座のしづらい人には決して無理をさせないようにとおっしゃっています。
また,ここに掲載されている写真の一つの人は,日本で勉学中のネパール人であったと聞いています。避難中というつらい状況下,また外国人の習慣の違い等を考えれば,両陛下も無理して正座をしなくてはいけないとはお考えにならないのではないかと思料します。
昭和時代における香淳皇后の御活動について
平成21年12月4日
最近,一部の雑誌の皇室に関連する記事の中に,両陛下が揃って御公務をなさることは昭和時代からの伝統ではなく,皇后陛下の御意思で天皇陛下と御一緒に御公務をされているものであるという趣旨の記述が散見されますが,これは,皇后陛下の御行動に対する誤認であると共に,昭和天皇のお側で数多くの公的行事に御出席になった香淳皇后に対し,極めて失礼なことですので,この際,宮内庁として,事実関係を説明することにしました。
まず,現在の両陛下が,お揃いで御公務をなさることは,平成になってからの独自のなさり方ではなく,昭和の時代のものを受け継ぎ,これを基盤にして新しい時代の要請に合わせて発展させてこられたものであり,そのことは,現行の憲法のもとで,昭和天皇と香淳皇后がなさっていたことを調べれば分かる筈のことです。  
例えば,香淳皇后が60歳になられた昭和38年につき,同年の昭和天皇・香淳皇后の行幸啓を,仮に同年前半のお出ましに限って記してみても,年初以来,中央区久松小学校創立90周年記念式,エジプト美術五千年展,桜友会・常磐会主催古典舞踏鑑賞会,五島美術館御視察,第五回東京国際見本市,カンボジア王国秘宝展,赤十字百周年記念大会,五月場所大相撲,世界の貝類展,植樹行事ならびに地方事情御視察(宮城県,青森県),タイ国王・王妃両陛下国賓接遇などにお二方お揃いでお出ましになっており,この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。なお,同年の後半に,山口県で開催された第18回秋季国民体育大会にも,勿論お二方でお出ましになりました。  
また,香淳皇后が70歳になられた昭和48年の前半についても,お二方で,静岡県水産試験場御視察,植樹祭併せて地方事情御視察(宮崎県),菊栄親睦会(於:新浜鴨場),世界の貝類展,世界に誇るブラジル展,園遊会,箱根樹木園等御視察,多摩陵及び多摩東陵,NHK放送センターなどにお出かけになられ,この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。  
なお,この学士院,芸術院授賞式へのお出ましですが,平成に入って暫くした頃,当時の学士院院長から学問の催しには是非両陛下のお出ましをお願いしたいとの申し出が宮内庁に寄せられ,芸術院もこれに続き,当時の宮内庁長官及び侍従長の判断により皇后陛下にもお出ましを願うことになったものです。国会の開会式は,現在も天皇陛下お一方で御臨席になっています。  
香淳皇后のお出ましが少なくなったのは,74歳におなりの昭和52年の夏,那須御用邸で腰椎を骨折されて以降のことで,この時以来,お二方で諸行事にお出かけになることはほとんどなくなり,例えば,昭和55年について,その年の前半について記しますと,お揃いのお出ましは,植樹祭併せて伊勢神宮御参拝及び地方事情御視察のため三重県に行幸啓になった一回のみで,年初以来のその他の行事,具体的には,会計検査院創立百年記念式典,パナマ国大統領御夫妻の国賓接遇,スウェーデン国王・王妃両陛下の国賓接遇,園遊会,大相撲のように従来であれば御一緒であった筈の諸行事に,昭和天皇がお一方でお出ましになっています。つまり,冒頭で述べた「両陛下が揃って公務をなさることは,昭和時代からの伝統ではなく」云々は,この時期以降のみについてのことで,戦後から昭和30年代,40年代,50年代初期という時代が全く視野から落ちています。  
皇居内での拝謁についても,諸行事は勿論のこと,戦後次第に増えていった各種の拝謁についても香淳皇后は願い出のあったものは,ほぼ全てに御臨席になっており,その都度,昭和天皇に引き続いて,おことばも賜っております。また,勤労奉仕の人々に会われる際も同様です。皇居での拝謁は,関係省庁からの願い出によるものがほとんどで,昭和の頃と同じく平成に入ってからも,時代の要請で新しく加わるものが多々ありました。職域も増え,また,各職域での女性の参加者は近年著しく増えているので,それに伴い,両陛下お揃いでのお出ましへの願い出も,自然に増えています。一例が全国校長会で,女性の校長が極めて稀であった昭和の時代には願い出も昭和天皇お一方でしたが,女性校長の数が増えるに従って,願い出も両陛下となりました。また,平成に入ってから加わった国際緊急援助隊や国際平和協力隊などの拝謁も,当初は天皇陛下お一方でしたが,やがて女性隊員も増え,皇后陛下のお出ましも求められるようになり,前者については平成16年から,後者については平成18年から,皇后陛下もお出ましになっています。どちらの場合も,関係省庁ならびに宮内庁の検討を経て決定されたもので,皇后陛下がなさりたいか,なさりたくないかによって決定されるという性格のものではありません。ただ,皇后陛下が天皇陛下の御行事への御同席を求められれば,ほぼ全てこれをお受け入れになるのは,求めには出来る限り応じなければというお気持ちは勿論のこと,それにより少しでも陛下のお疲れの総量をお量りになれるようでありたいとのお気持ちをお持ちのようです。  
なお,宮中祭祀についても,香淳皇后が御熱心でいらしたことは,よく知られています。平成に入り,皇后陛下は香淳皇后がなさっていた祭祀を全てそのままに受け継がれました。お減らしになったものはありませんが,お足しになったものも一つもありません。  
以上のように,昭和の時代も今と変わらず,昭和天皇と香淳皇后は多くの場合お揃いでお出ましでした。  
それにもかかわらず冒頭に述べたような誤解が生ずるのは,昭和天皇が,戦争直後の国内御巡幸のほぼ全てをお一方でなさったことと(最終回の北海道御巡幸はお二方でしたが,香淳皇后がお風邪を召され,御同伴の部分が非常に短くなりました。),昭和53年以降,香淳皇后の御健康がすぐれず,以後は,昭和天皇お一方で諸行事にお出ましになっていたことによるのではないかと思われます。特に,香淳皇后が8月15日の戦没者追悼式に昭和天皇と御一緒に御臨席になったのは,昭和55年までで,昭和56年以降は,昭和天皇がお一方で御臨席になりましたが,昭和天皇お一人の映像が今でも時折放映乃至掲載されるので,諸行事には昭和天皇お一方でお出ましになっていたという印象が殊更に強いのかもしれません。しかし,御不例以前の香淳皇后は,実に度々に昭和天皇と御行動を共にされており,この誤解は正されなくてはなりません。香淳皇后のお怪我や加齢以後の御公務についての誤解が次第に重なり,中には御同伴のないことが昭和の伝統であったとする極論までありましたので,以上説明する次第です。
宮内庁長官と東宮大夫の記者会見をめぐる最近の皇室関連報道について
平成20年12月24日
最近の皇室関連報道において,羽毛田宮内庁長官および野村東宮大夫の記者会見での発言を取り上げ,東宮大夫が宮内庁長官に対し,皇太子妃殿下が長官発言に傷つかれた,あるいは妃殿下の方がより傷つかれている旨の反論を行ったなど,あたかも宮内庁内部が対立しているかのように報道する記事が見受けられます。
しかし実際は,宮内庁長官は,「皇室そのものが妃殿下に対するストレスであって,ご病気の原因ではないか」といった論調がしばしば報道等で見られることに対し,両陛下が深く傷つかれた旨発言し,東宮大夫も長官の発言に同調し,このような論調には妃殿下も深く傷つかれている旨述べたものです。また,皇太子妃殿下が長官発言に傷つかれた,あるいは妃殿下の方がより傷つかれているとの東宮大夫からの発言は一切ありません。したがって,東宮大夫が公の場で宮内庁長官に反論したとし,あたかも宮内庁内部が対立しているかのような報道は全くの誤報です。
宮内庁としては,報道各社に対し,客観的事実に基づいた記事を掲載するよう要請してきているところですが,本件につきましては,宮内庁ホームページを通じ,正確な事実につき,直接,国民の皆様にもお知らせいたします。
なお,羽毛田宮内庁長官と野村東宮大夫の記者会見での発言の関連部分は次の通りです。
羽毛田宮内庁長官(平成20年12月11日)
「妃殿下の適応障害の御病気との診断に関しまして「皇室そのものが妃殿下に対するストレスであって,御病気の原因ではないか。」,また,「妃殿下がやりがいのある御公務をなされるようにすることが,御快復の鍵である。」といった論が,しばしばなされることに対し,皇室の伝統を受け継がれて,今日の時代の要請に応えて一心に働き続けてこられた両陛下は,言わばこういう両陛下のなさりようを否定をするようなと申しますか,そういうような論に対して深く傷つかれたのでございます。」
野村東宮大夫(平成20年12月12日)
「私の方から,昨日の長官の会見での御発言について一言触れます。長官の御発言は,先般の陛下の御不例とその後の医師団の判断を受けて長官が個人的な所見を述べられたものと理解しており,その中には,皇太子同妃両殿下に関わる部分がありますが,これについて私が私の立場で(長官と)同様に個人的な所見を述べることは控えます。ただ,はっきりとしていることとして指摘しておいた方がいいという点がいくつかございます。一つは妃殿下の病気御治療に対して両陛下から賜っておりますお心遣いとお励ましを妃殿下が心から有り難く思っておられるということでございます。もう一つは,両陛下の御健勝を両殿下が常に強く願っておられ,この度の陛下の御不例に対しては心から御案じ申し上げ,お早く御回復されることを願っておられるということでございます。それから両陛下が妃殿下の適応障害との御診断に関して,「皇室そのものが妃殿下に対するストレスであり,御病気の原因ではないか。」といった論がなされることに対して,深く傷つかれたとのことでございますが,このような論に対しては,妃殿下御自身も深く傷つかれたことと思います。妃殿下は皇室の伝統も御公務も大切に考えておられるわけでございます。それらを十分に行うことができるようになるよう御治療に鋭意努めておられます。両陛下に両殿下の健康診断のことでお心遣いを賜っていることを両殿下は有り難く思っておられると思います。」
「WiLL」(2008年8月号)の記事について
平成20年7月10日
「WiLL」(2008年8月号)に掲載されている西尾幹二氏の「これが最後の皇太子さまへの御忠言」の中に,「いまの天皇(宮内庁註:昭和天皇)が(京都に)来られると必ず大宮御所に泊まられるわけですね。あの寒くてやりきれない,どうにも不便なところに泊まらなければならないという訓練ができてくるわけですよ。ところが,いまの皇太子(今上天皇)は,あんな不自由な寒くてしょうがないところはいやだといって,都ホテルへ泊まられるのですよ。この点は,訓練の相違もあるんでしょう。これは大きな問題だと思うのです。」という,昭和43年当時の会田雄次氏の発言が引用されていますが,これについて次の通り「WiLL」編集部へ指摘し,事実と異なることを誌上で明らかにして頂きたい旨申し入れました。

皇太子同妃両殿下時代を含めて,更には御成婚以前に遡り,これまで天皇皇后両陛下が京都府を御訪問になり,京都市内に御宿泊の時は,全て大宮御所を使用されており,都ホテル乃至その他のホテルに御宿泊になったことは一度もありません。(両陛下の今日までの京都府行啓及び行幸啓の御宿泊所一覧表を添付します。)
一覧表に示されておりますように,両陛下は,京都府内でも日本海側に位置する宮津市に昭和43年に1泊,平成12年に2泊されていますが,その際の日程表は,それぞれ(参考1)および(参考2)の通りです。西尾氏が引用された会田氏の発言は昭和43年とあり,おそらく,この時の行啓で大宮御所が使用されなかったことからの発想と推察されますが,この時は,日程表(参考1)が示すように,福井県で開催された夏季国体御出席に続く近県御視察として京都の北部の丹後地方を訪問されたのであって,京都市内では,京都駅で乗り換えをなさっただけでした。
なお,上記の昭和43年及び平成12年の宮津市御宿泊について,(参考1)及び(参考2)の日程表に沿いつつ,当時の状況について以下の通り補足します。
(1)昭和43年9月初旬の皇太子同妃両殿下時代の行啓に際しては,福井県での夏季国体を初めとする諸行事御出席,及び地方事情の御視察を済まされた後,それまで未訪問であった京都府の丹後地方を御訪問になるため,9月7日朝9時前に福井県の小浜駅を発たれました。そして小浜線,宮津線と乗り継いで,約3時間後に峰山駅で下車され,京都府織物試験場を御視察,そこからは車で,午後3時半頃に宮津市での御宿泊所である「玄妙庵」に着かれ,午後4時から5時半まで丹後地方で働く青年代表7名と御懇談の後,ここで一泊されました。翌9月8日には,午前9時半過ぎに宮津駅を発たれ,宮津線,山陰本線と乗り継いで,約5時間後の午後2時半近くに京都駅に着かれ,そこから新幹線に乗り換え,午後5時40分東京駅着という日程であり,京都市内での御宿泊はありませんでした。
(2)2回目の平成12年の両陛下の宮津御宿泊ですが,この時は日程表が示すように第1日目の9月29日には京都市で大宮御所に泊まられ,第2日目の30日朝,二条駅を発たれ,京都府を北上して日本海側に向かわれました。この時は,日本海に面する網野町で「全国豊かな海づくり大会」が開催され,その他,地方事情御視察先として舞鶴市や大江町なども入っておりましたので,第1日目以降,大宮御所を御宿泊所として,諸行事に御出席になることは不可能でした。
(3)今回,事実でないことに基づいて行われた過去の批判が,40年後に再び取り上げられたことに対し,今後の参考までに,当時及び今日までの両陛下の京都府における宿泊関係の記録を明らかにする次第です。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/kyoto-otomarijo.pdf
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/sankou1.pdf
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/pdf/sankou2.pdf
「AERA」(2008年5月12日号)の記事について
平成20年5月12日
今般の「AERA」の記事における皇后陛下古希奉祝行事に関するこれまでの経緯は下記のとおりです。

平成16年に天皇陛下が,古希を迎えられた際には,皇后陛下は,日本各地の民謡や踊りを披露するお祝いの催しを準備なさいました。また,宮内庁幹部職員が準備したお祝いの音楽会も開催されました。平成17年に皇后陛下が古希をお迎えになられた際には,陛下の時と同様,職員によるお祝いの計画と共に,両陛下のお子様方によってご準備になるお祝いの催しが予定されておりました。職員によるお祝いについては,音楽会の開催などが検討されましたが,前年に,二回にわたって開催された天皇陛下の古希をお祝いするための催しに際して,皇太子妃殿下のご出席がさまざまに取り沙汰されたことから,皇后陛下は,このような形のお祝いで同様なことが繰り返されることが,皇太子妃殿下のご負担になることを気づかわれ,出来れば全員が席に着く形のお祝いはご遠慮になりたい旨お申し出になられました。このため,宮内庁幹部職員などによるお祝いとして,平成17年3月12日から4月3日まで,三の丸尚蔵館で,皇后陛下古希記念特別展「皇后陛下のご養蚕と正倉院裂の復元」が開催されました。皇族方によるお祝いに先立つことは職員一同心苦しいことでしたが,両陛下より,お祝いについてはいつという期限のあることではなく,お子様方によるお祝いは,皇太子妃殿下がお元気になられてからであれば一層うれしいとのお気持ちを頂き,行わせていただきました。
その後時間も経過し,お子様方によるお祝いの催しについて,皇后陛下は,今後このために,お子様方に改めて御負担をおかけしてもと,催しをご遠慮になっておられました。しかし,皇太子同妃両殿下,秋篠宮同妃両殿下,黒田様御夫妻の御三家のお気持ちとしては,来年に両陛下が,御即位二十周年及び御成婚五十周年という節目をお迎えになられる前に,是非皇后陛下の古希のお祝いを催されたい希望がおありだったご様子です。そして,この秋に皇后陛下と子供たちとのおふれあいを主題とする写真展を開催する方向で,お子様方皆様のご意見がまとまり,目下関係者の間で検討が進められております。
今般のアエラの記事では,黒田清子様がおひとりでこの展覧会の準備を進められているように記されておりますが,この企画は,あくまでも両陛下のお子様方が進められておられるものです。黒田清子様は,兄宮様方と相談をなさりながら,宮内庁にある古い写真アルバムなどを御覧になりに,折々においでになっています。
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