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昭和3年(1928)の満州某重大事件に関しては関東軍がやったということが定説となっているが、この説には確たる証拠はなくほとんどすべてが噂や伝聞によるものであり、現場で撮影された写真や現場検証の記録は悉く定説と矛盾している。その一方、公開されたイギリスの外交資料には明確にソ連が実行し日本に疑いが向くように工作したものと結論付けられており、旧ソ連の機密文書を調査したロシアの歴史学者の研究書にも、ソ連軍が計画し日本軍の仕業 に見せかけたものと、イギリスの外交資料と同様のことが書かれている。
関東軍の謀略かソ連軍の謀略か、両方の説を読み比べて私は後者の説のほうに説得力を感じてしまうのだが、この説の問題点はこの事件に関する旧ソ連の資料が未だに公開されておらず、この資料にアクセスが許された少数のロシア人研究者の著述に頼るしかないという点にある。それでも私がソ連軍謀略説に説得力を感じるのは、現場の写真や検証内容と矛盾しないことと、イギリスの外交資料とソ連の機密文書の結論とも合致するからである。
しかしソ連謀略説が正しいとすると、昭和初期においては コミンテルン ( 共産主義 政党の国際組織。別名第三インターナショナル)に協力する軍人がかなりいたことが納得できなければリアリティがない。いままで習ってきた歴史では、日本軍人の中に コミンテルン に協力する左翼分子がいたという事は思いもよらないことであり、その点が長い間腑に落ちなかったのだ。
コミンテルン は1919年3月に結成され、1935年までに7回の世界大会が開催されていている。昭和3年(1928)張作霖爆殺事件の翌月からモスクワで開催された第6回 コミンテルン 世界大会の決議内容の一部がWikipediaに出ている。
コミンテルン
「…ブルジョワジー絶滅のための革命のみが戦争防止の手段であり、さもなくば 帝国主義戦争は避けがたいものとされ、それが勃発した場合に 共産主義 者はいわゆる 敗戦革命論 に基づき、(1)自国政府の敗北を助成すること、(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること、(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行することが政治綱領となった 。」
敗戦革命論 」とは軍を取り込むか無力化させて革命勢力に対抗する力を削ぐという理論で自国が対外戦争に参戦した場合、自国の勝利の為に挙国一致で戦うのでなく、むしろ自国を敗北させるように仕向けて、その混乱に乗じて自国の革命を成就させること と理解されている。具体的には反戦運動を高揚させたり、自国の戦争遂行を妨害したり、敵国を利するための各種活動を実施することなどがある。
この第6回 コミンテルン 世界大会には、日本を含め27か国92名の代表が集結したようだが、この時点の 共産主義 国はソ連のみであったことは言うまでもない。これだけの国の代表がモスクワの指示のもとで動く集団を自国でメンバーを集めて組織し、この政治綱領に基づいて自国を敗戦に導き内乱戦に転換させて、世界の共産国化を狙っていたのであり、重要なターゲットはそれぞれの国の軍隊であったと理解できるのである。
では、この時代に コミンテルン は日本国内でどのような活動をしていたのだろうか。
中西輝政氏は小堀桂一郎氏との対談でこう語っている。
「すでにシベリア出兵*時から、コミンテルンの対日工作は活発に始まっていたのですが、大正12年、関東大震災が起こった時に、各国の救援団が今の『国際NGO』の様な形でたくさん日本に入ってきます。当時すでにコミンテルンは、国際NGOを 共産主義 ネットワークを作る隠れ蓑としてよく利用していました。ベルリンを本拠にしていたコミンテルンの秘密機関『 ミュンツェンベルグ ・トラスト』はモスクワや日共とは全く別系統の対日秘密工作に早くから着手しています。はっきりしているのは『国際労働者救援会』というNGOですが、その他にもたくさん東京に入ってきていて、一遍に大きな機密ネットワークをつくっていきました。それが、 急速に影響力を増して、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということは、資料的にも明らかになっています 。実際の工作に携わっていたアーサー・ケストラーの告白にこの数字があげられています。」(明成社『歴史の書き換えが始まった~コミンテルンと昭和史の真相』p.43-44)
*シベリア出兵:1918年から1922年までの間に、日英米仏伊などの諸国がロシア革命に対する干渉戦争のひとつで、この時にわが国は73000人と他国と比して数十倍多い兵力を投入した。
ミュンツェンベルグ ・トラスト』というのは、 ミュンツェンベルグ (1889-1940)という人物が築き上げた機密ネットワークを指している。 ミュンツェンベルグ はドイツのエルフルトに生まれ、第一次大戦中スイスに亡命して レーニン と共に世界革命に献身し、ロシア革命成功後ソ連から豊富な資金を得てベルリンやパリ、上海などを拠点に1920年代以降世界革命のための謀略工作に献身した人物なのだそうだ。
ミュンツェンベルグ は世界中の知識人群のなかに浸透し、彼らを動かして世論を形成して工作活動を行ったと言われ、ゾルゲやスメドレー、ハーバード・ノーマン、 尾崎秀実 、都留重人ら、当時の有名人の多くに彼のネットワークの息がかかっていたとされている。
尾崎秀実 は朝日新聞に入社し後に近衛文麿政権のブレーンとなるが、後に「ゾルゲ諜報団」に参加していたソ連のスパイであることが発覚して、死刑に処せられた人物である。
中西輝政氏が指摘している「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」ということは『ケストラー自伝―目に見えぬ文字』という本に出ているようだが、この記述は真実なのかそれとも作り話なのか。
学生時代に学んできた歴史では、 共産主義 の思想は弾圧されて逼塞させられていたというイメージが強かったのだが、いろいろ調べると、少なくとも昭和前期においては、急速にマルクス主義思想がわが国に広がっていったということは間違いがないようだ。
大正14年(1925)の日ソ基本条約締結により、 共産主義 革命運動の激化が懸念されたために日本政府は同年に治安維持法を施行し、天皇制廃止などの革命運動を行う団体として日本共産党を取り締まった事実はあるが、意外にも社会主義・共産主義思想に関わる出版については放置されていたことが、中川八洋氏の『山本五十六の大罪』に記されている。
たとえばマルクス/エンゲルスの『資本論』はこの時期に矢継ぎ早に6社が出版している。(1919年:緑葉社、経済社出版部、1920-24:大鐙閣、1925-26:新潮社、1927-1930年:岩波書店、1927-28:改造社)
日本初の『マルクス・エンゲルス全集』が全二十七巻で改造社から刊行されたのは1928年から1935年である。(画像は改造社版の一部)
二十四巻の『 レーニン 叢書』が白揚社から刊行されたのは1927年から1928年。十五巻の『スターリン・ブハーリン著作集』が同じく白揚社から刊行されたのは1928年から1930年で、この時期は、マルクスや レーニン の書籍がバカ売れしていたようなのだ。
この種の思想書ばかりではなく、なぜかコミンテルンの大会の決議文書や綱領まで翻訳出版が放任されていたのは驚きである。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』も、堺利彦と幸徳秋水が『平民新聞』に1904年に掲載した時は発禁処分になったが、その2年後に堺利彦が『社会主義研究』に全文を掲載した時は何の処分もされておらず、1932年には河西書店が公然と出版している。(画像は河西書店が出版したもの)
治安維持法の条文は次のURLで読めるが、これらの出版行為は治安維持法違反の対象にする解釈も可能であったと思うのだが、思想統制についてはこの法律には明確に書かれているわけではなく、ほとんど放任されていたかのようなのだ。
治安維持法
ところで、なぜこの時期にマルクス・ レーニン の翻訳本が爆発的に流行したのだろうか。このような堅い思想書が、ただ出版するだけで売れるものだとは考えにくいのだ。
今の世の中を見ても、マスコミが世論を誘導していることは誰でもわかるが、テレビのないこの時代にこれらの思想書が売れるためには、新聞雑誌が採り上げてくれることが絶対条件であったろう。
こう考えると、最初に述べたとおり「大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていた」という中西氏の指摘が作り話ではなさそうに思えるのだ。
中川八洋氏はこれらの書籍が売れた理由を、もう少し詳しく書いておられる。
「1925年の治安維持法と時期を同じくして、マルクスや レーニン の翻訳本が爆発的に大量出版された。第一の理由は、同年の 日ソ基本条約締結によって、大使館という情報調略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版界や学界を牛耳り支配した からである。第二の理由は、 日本人の知的水準や嗜好とよほど馬が合ったのか、猫も杓子もマルクスや レーニン に飛び付いた からである。それらの著作に対する需要は世界一だった。
しかも、1929年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、 日本では、神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された 。だから、ソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも、学界と同じく、大量に読まれた。…」(中川八洋『山本五十六の大罪』p.259)
ソ連大使館は情報調略工作基地であり、大使館員の多くは情報収集と工作活動に従事していたということはこれまであまり考えたことがなかったのだが、その通りではなかったか。
かくしてこの時期に共産主義に憧れる日本人が大量に生まれたのだが、張作霖爆殺事件が起きる4か月前の昭和3年(1928)2月に日本国内で初めての普通選挙が行われ、この結果天皇制打倒を掲げた政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は3月15日に、治安維持法違反による全国一斉検挙に踏み切った。
この時に、日本共産党および労働農民党などの関係者約1600人余が検挙され、そのうち484人が起訴された事件があった。(3.15事件)
この摘発により東京帝大以下148名のエリート学生が共産主義者として検挙され、政府指導者に衝撃を与えたという。
また、翌年の4月16日には地下党員を中心に339名が検挙され、日本共産党は一旦壊滅したのだが、共産党員でなくともソ連に憧れる日本人が増殖しており、そこまでは検挙できなかったことは当然だ。
昭和13年(1938)に美人女優の岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命した有名な事件があった。ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑に処せられてしまう。
戦後においても北朝鮮を地上のパラダイスのように伝えたマスコミがあり、多くの日本人が北朝鮮に渡ったのと同じように、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスのように煽っていたのではないだろうか。
私の学生時代を振り返っても、ソ連などの社会主義国に憧れる同級生が少なからずいたし、何を隠そう私にもそういう時期があったが、次第に離れて行ったのは「暴力革命」の考え方が馴染まなかったからだ。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」と書いているのだが、この考え方に嵌ってしまうとあらゆる破壊行為が正当化されてしまう懸念がある。
もし、昭和時代の初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報を漏洩し、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたらどうなっていたであろうか。コミンテルンの政治綱領からすれば、彼等は戦争を終わらせる方向ではなく、長引かせる方向に持ち込んで、体制の転覆に持ち込もうとするはずではないか。
通史では昭和の初期において軍部が政府の命令を無視し、暴走したことが書かれているのだが、彼らの「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に基づいたものだという記録もいくつか残されている。
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