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 かつて日本人は、誰もが「彼」を恐れていた。表の世界には決して姿を見せないが、裏ですべてを掌握している――「事件の裏に児玉あり」と言われた男の一生を、佐高信(評論家)・高山文彦(ノンフィクション作家)・小俣一平(『ロッキード秘録』著者)の三氏が語る。
小俣一平  ロッキード事件が発覚したのは1976年。今年が40年目ということでロッキード事件を取り上げた番組や書籍が作られ、児玉誉士夫が再注目されています。
佐高信  それまで影に隠れていた「黒幕」が表舞台に引っ張りだされるとともに、元総理である田中角栄が逮捕され、日本中が騒然としました。
 児玉がロッキード社のコーチャン副会長に「小佐野(賢治)を紹介してくれ」と頼まれ、仲介をした。彼は常に、表には出てこない「月」のような存在で、政財界がその「月」を利用し続ける構造がありました。しかしその構造が、この事件によって昼の世界に引きずり出されたのです。
髙山文彦  児玉は生い立ちからして壮絶です。福島の出身で、実家は医者だったそうですが、7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮へ渡ったのち、出奔して上京。鉄工場で働いていましたが、12歳の時に関東大震災で父親を亡くします。18歳となった1929年、右翼の赤尾敏(元衆院議員)のやっていた国粋主義団体「建国会」に入りました。
小俣  自伝の中で、「なぜ赤旗を掲げ、『われらの祖国ソビエト』という奇怪なスローガンを使わねばならないのか」と思うようになり、国家社会主義者の北一輝の教えを受けたと言っています。17歳で北一輝は早熟すぎませんか。たしかにその後の生き方を見ると度胸だけでなく、頭のいい人だったんでしょうが。
髙山  中学や旧制高校に通っていれば左翼思想に染まるでしょうが、彼は商業専門学校卒。当時の国粋団体は、そうした学歴の低い不満分子の受け皿になっていた。児玉自身、1929年、不平等の是正を天皇に直訴して逮捕され、6ヵ月間前橋刑務所に入っています。彼もまた若い頃は義憤に燃えていたのでしょう。
小俣  それと同時に、建国会に在籍中、早くも根っからの「仲裁屋」ぶりを見せてもいます。赤尾の家の近くのバス会社で争議があり、会社側と組合側がぶつかったとき、こっそりバス会社の社長のところに行き、「話をつけてやるから軍資金を出せ」とカネを取っていたらしい。
 後で知った赤尾は、「そんなことをやるのは右翼じゃない」とテレビのインタビューで怒っていました。憂国の士とフィクサーの顔が入り混じる不思議な存在ですね。
髙山  その後、外務省の河相達夫の知己を得て中国に渡る。一度東京に戻りましたが、右翼活動を通して関係のあった笹川良一などの仲介で海軍航空本部の山縣正郷を紹介され、再び上海に渡り特務機関「児玉機関」を設立します。
 この間、航空機を作るための資材を中国全土からかき集めました。大阪に飛行場を作って陸軍に寄付をした笹川良一もそうですが、児玉も、その頃にはもう、「大艦巨砲主義の海の時代は終わった。次は空だ」と思っていたふしがある。
佐高  そうした機知に加え、児玉は中国の過激派宗教団体「紅槍会」と取り引きして帰順させるなど胆力もあった。当初はいわば海軍の「御用聞き」だったわけですが、実績を上げるうちに、段々存在感を増していきました。
 彼が重宝されたのは、相手の懐に飛び込むのがうまかったのも大きかったと思う。児玉を中国での情報収集に使った上海副領事の岩井英一などに愛され力を伸ばしました。
小俣  気遣いがうまかったのでしょうね。世話になった人への恩は忘れず、実際、敗戦後に自決した大西瀧治郎中将の未亡人を自宅の離れに住まわせたこともあったようです。
 戦後は一気に大出世を遂げます。最初の内閣である東久邇宮内閣では、内閣参与事務嘱託に任命された。「東久邇宮と親しかった」とか、「緒方竹虎が」「重光葵が」推したなど諸説あります。
佐高  海軍の御用聞きから内閣参与ですから、驚くような出世です。
 東久邇宮によれば、中国の海軍などの暴発を抑えるためだったようですが、戦争という圧倒的な「闇」のなかで、実力以上の評価がされ、戦後になだれこんだというのが実態でしょう。その後にも言えますが、児玉は虚像を利用するのがうまい。
小俣  1946年1月には、児玉はA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監される。これが大きな転機となります。戦時中は鬼畜米英を叫び、愛国者として生きていたはずが、収監を経て「親米愛国」という生き方を選んだ。岸信介や読売の正力松太郎らと同様、CIAの協力者になり、戦前とは180度変わりました。
佐高  A級戦犯として裁かれることを免れるため、アメリカに身を売ったということでしょう。
 アメリカは巣鴨プリズンでの取り調べの中で岸と児玉を押さえ、自分たちの手先として二人を使おうとした。児玉は根っからの仲裁屋で、敵味方どちらにも転ぶ可能性があり、岸も「両岸」と呼ばれるほど思想が変化する。しかも能力もある。思想や主義に殉じるのではなく、機に応じて、実利的に物事を判断する姿が見て取れます。
髙山  児玉の「機を見るに敏」なところは、笹川良一との関係にも表れていると思います。児玉は笹川に大きな恩義を感じており、自著のなかでも、笹川のことだけはずっと「先生」を付けて呼んでいます。
 しかし、巣鴨プリズンでの取り調べでは、笹川が陸軍の軍務局からカネをもらっていたことを暴露し、笹川を売っているのです。笹川は断じて受け取っていないと否定しており、こちらのほうが真実のようですが。
  小俣  髙山さんの『 宿命の子 』を読むと、笹川自身は、「児玉が俺を刺したということだが、それは違うのではないか」と好意的に捉えていたという話が出てきますね。
髙山  それは「笹川先生は陸軍に自分の作った飛行場を献納した謝礼としてカネをもらったと理解している」と、児玉が言っていたからです。つまり、「ビジネスの報酬だった」として、助け舟を出している。ただ、尋問の中で笹川を売ったことは間違いない。
小俣  なるほど。
髙山  しかも、その尋問の後、「まだ話したいことがある」と検察官に話しかけていますが、なんとそこから先のことは記録に残っていないのです。これらを考え合わせると児玉がアメリカに対する情報屋として存在していたと断じざるをえません。
小俣  そしてその後、児玉は政界のフィクサーとしての地位を固めていきます。鳩山一郎が自由党を作ったときも、現在に換算すれば数十億円にもなる結党資金7千万円を提供しています。児玉機関時代に余ったカネだそうで、児玉自身も認めている公知の事実です。
佐高  鳩山は岸と結託していたわけだから、実質的に児玉が近づいていたのは岸で、やはり岸-児玉のラインが強い。
髙山  1960年安保の際には、その岸の意向を受けて、安保反対運動を抑えるための「アイク歓迎実行対策委員会」(アイゼンハワー米大統領を安全に迎え入れる)に、稲川会など暴力団を動員していたといわれています。
 児玉の力の源泉のひとつは、このような戦中戦後に培った人脈によってつくられた「暴力装置」にありました。一時、日乃丸青年隊、松葉会、住吉一家といった任侠の大同団結構想をもくろんでいたほどですから。
佐高  たしかに児玉の暴力装置には恐ろしいものがありました。1971年に竹森久朝さんが『ブラック・マネー』という本で児玉のことを書きましたが、販売直前に児玉の手下が乗り込んできて、販売中止に追い込まれた。当時はまだ声を出して児玉について語れる時代ではなかったのです。恐ろしい、闇の存在でした。
 しかし一方で、先ほども言った通り、周囲が恐ろしいと思い込むことを利用し、その虚像を膨らませていた節もある。
小俣  児玉を師とする右翼団体・青年思想研究会の高橋義人が、「児玉のことをフィクサーと呼ぶけれど、児玉は自らフィクサーになったわけじゃない。片づかないトラブルを『片づけて欲しい』と頼みにきた人間が、児玉をフィクサーにしたんだ」と言っています。言い得て妙だと思います。
髙山  カネを遣うのがうまかったのも才覚ですね。
小俣  児玉は現在に換算すると何十億円という単位でカネをかき集めたかと思うと、自分で使うところは使い、余ったお金は気前よく仲間に分け与えていたのでしょう。それがいずれ自分の利益になるという計算もあったと思います。
 これは、田中角栄と同じ構造です。余剰金を配って自らの地位を高めていき、それでまた集金力をつける。彼らを褒めたたえるのは、みんなその恩恵に与った人たちだと思っています。
髙山  ロッキード事件の起訴状によると、児玉は総額十数億円のコンサルタント料をロッキード社から受け取っています。それを知った笹川良一は、「児玉君、君は何億円もロッキード社からもらっているそうじゃないか。それを秘書のせいにするなんて世間には通用せんぞ」と怒鳴りつけたそうです。やはりほかの右翼とは違う「実利の人」の匂いがします。
佐高  そのロッキード事件によって彼がアメリカの手先だと発覚しました。
小俣  児玉を取り調べた東京地検の松田昇検事は当初、児玉はロッキード社からカネをもらっていることを否定するだろうと考えていたそうです。山本五十六連合艦隊司令長官を太平洋で撃ち落としたのはロッキード社の作った戦闘機。
 「海軍の大西門下だった児玉がカネをもらったことを明らかにするはずがない」と思っていた。でも児玉はあっさりと認めたんです。驚いたと言っていました。
  本当に児玉というのは矛盾を抱えた不思議な人です。一番驚いたのは、愛国者で右翼でありながら、「天皇に戦争責任がある」と大森実さんのインタビューに明確に答えていることです。
佐高  矛盾といえば、『 橋のない川 』を書き、部落解放運動に積極的だった作家の住井すゑの護衛を買って出たこともありました。普通、解放運動といえば左翼のものというイメージがありますが、児玉は運動に共鳴したんでしょう。住井が「いらない」と断っても、押しかけて警護をしていた。
小俣  日韓正常化のとき、かつて朝鮮人に歯を折られたことを恨んで彼らに冷淡だった大野伴睦に「関東大震災の時には日本人が大量に朝鮮人を虐殺している。歯ぐらい気にするな」と言っている。これも意外ですよね。
佐高  ロッキード事件発覚によって、「黒幕」として膨れ上がっていた児玉のイメージも剥がれていきます。同年に、前出の竹森さんが『 見えざる政府 児玉誉士夫とその黒の人脈 』という書籍を出しましたが、児玉側から目立った妨害はなかった。事件によって、児玉がタブーの位置から引きずり降ろされたわけです。
小俣  それを契機として、暴力装置を持って企業や政治に影響を与える存在は消えていきます。それをフィクサーと呼ぶのなら、児玉誉士夫は「最後のフィクサー」だったのではないでしょうか。
児玉誉士夫 (こだま・よしお) 1911年、福島生まれ。戦時中、上海で物資調達を担う「児玉機関」を設立。戦後は、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監。その後、政財界との関係を深め、暴力団との関係をバックに「フィクサー」と呼ばれた。1976年、ロッキード事件で起訴される。1984年、死去
佐高信 (さたか・まこと) 1945年、山形生まれ。評論家、週刊金曜日編集委員。『 メディアの怪人 徳間康快 』『 自民党と創価学会 』『 田中角栄伝説 』など多数の著書がある
髙山文彦 (たかやま・ふみひこ) 1958年、宮崎生まれ。ノンフィクション作家。『 火花 北条民雄の生涯 』で大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞を受賞
小俣一平 (おまた・いっぺい) 1952年、大分生まれ。NHK記者を経て現在、東京都市大学教授。著書に坂上遼名義で、『 ロッキード秘録 吉永祐介と四十七人の特捜検事たち











民族の歌 作詞 児玉誉士夫

興亡常に 定めなく
盛衰それも 定めなし
誇りぞ高し 日ノ本の
榮へし時は 幾歳ぞ
権勢上に はびこりて
悪政國に 満つるとき
亂世既に 兆しつつ
巷に民は 喘ぎたり
天に谺し 地に篭もる
怒りをこめた 民の聲
悪政にらむ 銃口に
権力の座は 崩れたり
昭和維新を 目指しつつ
起ちし若人 空しくも
事成らずして 牢獄に
流せし悲涙 君知るや
春雪深き 山王の
杜にわき立つ 鬨の声
榮華の夢に ふける軆の
肺腑を抉る 響きあり
國を憂うる 真心を
上に傳うる すべもなく
受けし汚名は 反亂の
賊と呼ばれる 名は悲し
代々木刑場 聲絶えて
従容死につく 大丈夫か
「天皇陛下万歳」と
遺せし叫び 君知るや
昭和維新の 雄叫びも
嵐に花と 散り果てて
世は軍閥の 専横に
明日を開く 道もなし
攻防千里 大陸に
砲火にまみえし その敵は
同じ亜細亜の 朋にして
永久にぞ悔いを 残したり
銃火で越えし 万里城
弾雨で渡る 大黄河
醒めど涯なき 戦ひに
亜細亜の危機は 迫りたり
戦火ひとたび 雲を裂き
戦雲國を 襲ふ秋
誰か祖國を 想はざる
誰か戦火を 拒むべき
みじかき命 知りながら
乙女の愛も 受けずして
祖國に難に 赴ける
若人誰か 称えざる
ガダルカナルや 硫黄島
いくさ甲斐なき 戦場に
倒れし屍 同胞の
聲無き声を 誰か聞く
生きて歸らぬ 強者が
死地に飛び立つ 特攻機
「後に続くを信ずる」と
残せし言葉 君知るや
戦雲霽れて 敗残の
山河に空しい 蝉時雨
敵に降する 屈辱の
この日を誰か 想うべき
核の威力に 勝利せる
勝者が振るう その鞭は
正義の美名に 隠れたる
敗者を裁く 鞭なりき
勝者は永遠に 勝者かや
敗者は永遠に 敗者かや
雲は流れて 時は去り
再び仰ぐ 國の旗
民族の威武 今はなく
國の誇りは 今いずこ
悲しからずや はためける
その旗風に 旗勢なし
高楼天に そびえ立ち
大道國を 走れども
赤旗の波 叫喚の
嵐に荒ぶ 國の様
聞け同胞よ 若人よ
起て同胞よ 若人よ
後に続くを 信ずるの
かの雄叫びを 想起せよ
汝の堅き 拳以て
大地を強く 叩きみよ
これが汝の 得度ぞと
大地の御靈は 應ふべし
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