索引
20100618
企業金融大手元社長逮捕の意味すること
企業金融で日栄とともに大手として名前をはせていた旧商工ファンド(現SFCG)の大島元社長が逮捕された。容疑は、倒産しそうな会社から資金を自分の関連企業に移し、資産の隠匿を図ったことという。
企業金融でも消費者金融でもそうだが、マスコミの報道は「企業金融会社、消費者金融会社=悪で、借り手は被害者」「こうした金融会社の経営者=悪者」というトーンに終始している。
筆者は長いこと大手マスコミで記者をしていて、様々な取材をした。ものごとには何でも裏表があり、一般的に言われていることは正しいとは限らないことが多いというのが体験を通しての実感である。
体験的に言えば、報道が一色になった時は、必ず、裏でそれを企画し、動かしている勢力があるというのが、ほとんどのケースの実態である。
消費者金融、通称サラ金が最初に大阪で大きな社会問題になった時、筆者は取材担当として、この問題の取材にあたった。世に言う第一次サラ金戦争である。
その後、今度は東京を中心に大分経ってサラ金問題が再度話題になり、武富士やアコム、プロミスなどの大手サラ金がマスコミの袋叩きにあった。第二次サラ金戦争である。
そして、ほぼ同時に企業金融の会社も叩かれ、どちらの業界も大手は事実上会社が倒産状態になったり、大手銀行などの傘下に入った。
合せて、今の世の中で何が起きているかと言えば、新聞、テレビ、電車のつり革広告には、こうした業者から金を借りた人や会社から、払いすぎた金を取り返してあげるから連絡をしてほしいという法律事務所、司法書士事務所の広告を毎日、見ない日はないほどあふれるようになった。
国会では、貸金業法が改正され、年収の3分の1までしか金が借りられないようになった。あまり話題になっていないが、専業主婦は夫の同意書がないと、一切金を借りることができなくなった。
得をしたのは、サラ金、企業金融が収益をあげていた分野から、専門大手企業を追い出して、その利権を手にした銀行など大手金融機関と、弁護士、司法書士、そして、その広告宣伝で不況の中でも広告をもらっているマスコミ。
また、サラ金問題処理の第一人者としてマスコミにもしばしば登場し、ヒーローのように取り上げられていた弁護士が日弁連の会長に就任した。
状況の変化で、消費者や企業の利用者は得をしたかと言えば、従来の利用者は、銀行系となった消費者金融、企業金融業者からは、審査が厳しくなって借りにくくなり、結局はより質の悪いマチ金業者に依存せざるを得なくなった。
サラ金問題、企業金融問題をマスコミが大きく取り上げ、業者を叩いていた時に、言われた話が「年利30%、40%なんて、返せる訳ないでしょう」ということである。この話は一見もっともだと感じるが、実態とは違う。
優良な消費者金融、企業金融の借り手は、年間を通して金を借りたりしない。優良顧客の多くは1カ月、せいぜい2カ月という単位で金を借りるのである。
小さな会社を経営しているとわかるが、支払いはすぐに発生して、待ったなしである。しかし、大手企業から仕事を受けると、支払いは1カ月後、2カ月後である。この間のつなぎ融資がどうしても必要になってくる。
中小企業に銀行は金を貸してくれない。だから、企業金融に行くのである。百万円必要で借りて、金利は年ではなく、月で考えている。年利30%でも、月にすれば、2.5%である。つまり、百万円借りて2万5千円である。このくらいの費用は問題なく吸収できる。だから、企業金融が急拡大したのである。
消費者金融も一緒である。1カ月後、半月後にボーナスや給料が入る。その間のつなぎ融資で借りる人が多い。年利40%でも、月に直せば3%ちょっとである。20万円だと6千円ほどであり、問題ない。
大手マスコミで長年、記者をした者の反省から言えば、誰か取材源から面白い話を聞き、記事にして話題になったことが、しばらくすると、その取材源に踊らされ、利用されていたということだったということが少なくない。
サラ金問題、企業金融問題は、結果からして踊らされたのはマスコミで、得をしたのは銀行、弁護士、そして、一番大切な消費者は、便利な利用ツールをなくしたということになる。「サラ金問題はごく一部の悪徳借主と、悪徳貸主の喧嘩なのです。大半の優良業者、優良顧客は関係のない話なのです」。筆者が取材した時に、この問題の専門家が言った言葉である。
また、最近は過払い資金を業者から取り戻した弁護士と金を借りて、取り戻してもらった依頼者との間で、手にした金の配分でのトラブルが多く起きているという。
勿論、筆者は消費者金融や企業金融の経営者たちを弁護するつもりはない。個人的にひどいことをしたり、法律違反をした人もいるに違いない。しかし、だからと言って、よってたかって、そうした業界、会社をつぶしてよいということではない。
20100617
法律に違反していなければ、何でもありか。
民主党政権の閣僚で、税金から支給されている政治資金で女性の下着を買ったり、漫画本を購入していたことがわかったり、友人が所有するマンションを事務所として届け出、払ってもいない金を事務所経費として数千万円も支払っていたことがわかった。これに対して、民主党は「法律には使途を明記していないし、(つまり、下着を買ってはいけないということを明記していない)、領収書はすべて揃っていて法律違反ではなく、問題はない」といった会見をした。
別の女性閣僚は、自宅を事務所として届け、その費用としてこちらも数千万円を支出したことにしていたし、公設秘書が通りかかりの女性のスカートをめくったことが明らかになっても、その秘書が辞めることで、なぜか一件落着である。公設秘書というのは、国民の税金で多額の収入が保証されている人間であるのにだ。
少し前に、同じ民主党政権の閣僚が、議員宿舎に恋人を連れ込み、鍵も渡していたことがわかった時も、「法律には違反していない」として、週刊誌がどれだけおかしいと叩こうが、無視し、今回の内閣改造でも、当然、交代と思われていたのが、留任となった。
民主党には弁護士出身の国会議員、閣僚が多くいることもあるのか、「法律違反ではないので」という言葉を何回も聞く。
国会の強硬採決も、参議院が本会議を開かず閉幕したことも、異常事態なのに、「別に法律違反ではないから」で押し通し、マスコミもおかしいという論陣を張らない。
これが自民党時代だったら、新聞、テレビ、雑誌は一斉攻撃だっただろうにと思うのだが、今のマスコミは自民党憎しで、自民党政権時代は、自民党の悪いこと、不都合は散々報道したのに、民主党には大甘である。
マスコミの報道はどうでもよいが、この「法律に違反してないから問題ない」という発想はとてもおかしく、危険でもあると思う。(法律違反の前に存在するはずの常識)
今更言うまでもないが、法律に違反すれば、逮捕され、塀の内側に落ちておつとめをしたり、罰金を払わないといけないということ最低、最後のルール、砦で、法律違反をしなければ、何でもありというのはまったく間違っている。
法律の外というか、その周りに、法律議論ではなく、人間としてしてはいけない常識、ルールというものがある。電車の中で大きな奇声を発しても法律違反ではないが、常識で誰もしないだけである。
地面に何も敷かずに座り込んでも法律違反ではない。しかし、それは常識がないということで、一部の女子高校生などを除けば、そうしたことをしない。これは法律違反ではなく、常識というもので、多くの人が判断しているのである。
バブル時代に、地上げなどで銀行やその傘下の組織が法律すれすれの行為をして時に、初めは批判の対象だったが、その内に、日本全体が「法律違反をしなければ、何でもあり」という風潮になり、マスコミがほとんど批判しなくなった。
最近のゴミ屋敷騒動なども、取り締まる法律がないのでということで、全国各地で多くの人が困っている姿が報道されているが、役人は元々、自分の利害に関係ない法律は作ろうとはしないし、政治家も自分に関係ないことで、動くということはしないので、何年も、十年以上も放置状態である。
住民同士のトラブルについてはともかく、政治家が「法律には違反していないので」ということで、すべてを通そうとし始めると、これはとても怖いことになる。
今の民主党政権は、自民党時代だったら、少なくても反省し、大臣が辞職したり、首相などが陳謝するようなことまで、「何が悪い。法律に違反していないのだから」ということで、議論すらせず、自分の考え、やり方を強引に通している。
「状況が変わったので、マニフェストは変更します」「政権をとって初めてアメリカの重要性がわかったので、沖縄問題の約束はなかったことにします」「財政が厳しいので、税金を大幅上げます」―――「すべて法律に違反していませんから」。
そうした政権に、国民はV字回復の支持で、来る参議院選挙では、民主党は負けない戦いになりそうで単独過半数も狙える勢いだという。自民党政権よりも、問答無用で、議論すらしようとしない民主党政権はとても怖い。国民生活に重大な危険が近づいていると、私は考える。
企業経営者でも、政治家でも、エリート教育を受けてきた者には、良心というブレーキがかかり、暴走を止めようということになる。しかし、そうしたことを考える習慣や準備がない者が権力をもつと何が起きるか、国民はよく考えないといけないのではないか。
20100615
不況だから、内定がもらえないのではない
就職情報会社の調査では、6月1日現在、大学4年生の企業内定率は59%であり、4割の大学生がまだ就職する会社が決まっていないという。
そして、その調査では、内定企業を持っている学生の3分の1は、その内定企業に行かずに、もっと上の企業、より志望度の高い企業をめざすという。
就職活動に苦戦している学生から出てくる言葉は「今年は不況なので、大学院に行くか、留年する。景気が少し回復してきているのだから、来年は状況がよくなっているだろう」という内容である。
だが、企業で採用を十年以上担当している者の目からすると、この考えは百パーセントと言ってよいほど間違いである。
まず、大学院への進学だが、文系の院生は東大、京大クラスの法科大学院へ進み法律を徹底的に勉強したような人はともかく、通常の文系の大学院進学者は、まず、どこの企業も新卒採用では採らない。
文系の院進学者は、遊んでいた人、就職する気がなかった人というように企業の人事担当者は認識していて、ほとんどの会社が書類で落としてしまう。
理系の院進学は有利と就職本には書いてあるが、これも間違いである。理系の院生の半分が就職できていないという事実を多くの人が知らない。理系の院生はその多くが研究職などの理系の知識を生かした仕事での就職活動になるが、企業の採用はそれほど多くない。
というよりも、大学院生が多すぎるのである。文部科学省がこれからの日本は技術立国だという掛け声で、大学院生を大幅に増やしてきた。しかし、企業の採用はそんなに増えていない。需給バランスが崩れているので、東大、京大の学生でも就職に苦労している。(採用できない学生が多いのは不況だからではない)マスコミの報道も大問題である。「学生の2割も就職できない」=「不況」という図式で報道し続けている。だから、少し景気が回復すれば、採用は増えると多くの学生や、その親が考えてしまうのである。
マスコミを含めて、多くの人が勘違いしているのだが、不況だから、大学生の内定が決まらないのではない。企業が求めている人物像と、学生の実態に大きな差があり、テストやエントリーシ―トでセレクトされた学生に面接してみても、採用したいと思う学生はほんの数%しかいないのである。
従って、企業はこの数%の学生に群がり、1人の学生が超有名企業何社もの内定を得る一方で、企業が求めない学生は何百社受けても、1社の内定ももらえないということになるのである。
経済行動が地球規模になり、アイスランドの火山の噴火で、日本経済に影響が出る時代には、マニュアル通り、公式通り行動するだけの人は企業が採用したいとは考えない。
特に大卒で企業の将来の幹部候補生として採用したいと思う人に求められるのは、「自分で考え、自分で行動する人」である。「他の人にないあなたの強みは何か」という質問に、具体的に実例でわかりやすく答えられないといけない。
加えて、「状況の変化に合わせて、対応や行動を変える臨機応変さ」がないと、有名企業の内定は得ることは難しい。
日本のマスコミや調査機関の大きな間違えは、率で考えることである。大学生の2割が就職できないから不況で大変だという考え方である。率でなく、実数で考えると実態が見えてくる。
前に書いて大学院生の話だが、ベビーブーム時代に大学院生は4万人くらいだったのが、今は大学院には18万人が在籍している。企業がいくら技術に力を入れていると言っても、優秀な学生の数は一定だから、半分が就職できないということになるのである。
大学生も同様である。少子化で大学生の数が減ってきたというが、今の大学進学率は50%である。今の大学生の親の世代は大学進学率が十%か多くて20%だったのであり、子供の総数が半分に減っても、大学生の数は30年前に比べて増えているのである。
今の大学生の親の世代は進学率が低かったので、大学に進んだ者の多くが上場企業に就職できた。だから、今の大学生の親は、「大学進学」=「上場企業進学」という図式が頭に中に出来上がってしまっている。
「大学生」=「エリート」という図式はとっくに崩壊しているのに、親の世代がそれを理解できないのだ。だから、大学生の息子や娘が中堅中小の企業に内定を得て、就職活動を終わらせようとすると、「大学まで行って、どうして超有名企業に就職しないの」という反応になってしまうのである。
大学進学率が5割の時代に、8割の大学生が就職できるという日本は若者に恵まれた社会だということである。
20100609
社会党はなくなったが…
旧社会党は崩壊し、一部を社民党が継続しているものの、かつて、衆議院で百数十議席を持っていたときとは、様変わりの状態だ。
時代に合わなくなった、現実的ではない「ドンキホーテ」だということが政党としての体制を維持できなくなった最大の理由だと言われている。自民党と連立を組んだことで、党としての存在意義がなくなった、裏切りだという話もある。
しかし、社会党はなくなったが、日本社会には、「社会党」的な考え、人が多く存在し、ある意味では亡霊のように、今日の日本を支配しているように、私には感じられる。
例えば、マスコミである。朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、TBSなどはその色彩が強いと私には感じられる。TBSの日曜日の朝の長寿番組である「関口弘のサンデーモーニング」などでの主張、ベースになっている考え方は旧社会党そのものである。
世界の他の国との交渉でも、そのベースは「話せばわかる」、「人類皆兄弟」という考え方が貫かれている。
そうできれば、それに越したことはないけど、世の中はそうではないし、国と国との争いは、友好は権力争いの上に、相手の力を見ながら、どこまで譲らざるを得ないかなという計算の上に立っているのは常識で、「話せばわかる」では、単にバカにされるだけである。
短命で終わった鳩山政権の鳩山前首相が「友愛」ということを言った時、他の国の受け止め方は「夢物語」というものである。
今の世の中は問題だらけである。老後不安は大きいし、まともの仕事につくことができない人も多い。少子化は深刻である。
しかし、それを「子供手当て」を支給したり、「派遣法改正」で企業を縛ったりしても、何の解決にもならない。議論が出ているように、「子供手当て」を支給する何兆円を使えば、保育所を数多く作ることができるし、より少子化対策ができる施策がいくらでも打てる。
また、派遣を厳しく取り締まれば、企業は海外に出て行って、日本での雇用はより減るだけでる。企業は地球規模で競争をしており、世界一厳しい日本の労働法に、それでなくても、大きな負担を強いられているのである。
現在の日本の最大の問題は、現状をきちんと把握し、伝えるという努力を政治家もマスコミもほとんどしていないことである。
世界の最近の分析では、サブプライムローンやリーマンショックなどの金融危機のそもそもの震源は、日本の超低金利だったということが定説になりつつある。しかし、日本ではごく一部の専門家だけがそれを言っているだけで、マスコミも政治家も口にしない。
日本の超低金利は、当初は不良債権に苦しんでいた銀行を救済するためにスタートしたものだが、それが銀行が立ち直った後も続いてきたのは超低金利=円安で、自動車や電機など日本の輸出産業を強力支援するためのものに途中で実態が大きく変わったということも、一部の専門家した言っておらず、ほとんどの日本人の基本認識になっていない。
今の日本で最大の間違いは、かつての、ほとんどの日本人がほぼ満足できる生活ができていて、一億総中流社会といわれた、高度成長時代やその後のバブル時代のような時代が異常で、そうした時代にもう一度、戻りましょうという発想である。
幸せになるためには、大きな努力が必要なのが社会である。努力しない人にも国は幸せを保証しないといけないという義務はない。勿論、セーフティーネットは絶対ないといけない。
ただ、これは、きちんと努力してきたが、それでも環境や生い立ちなどで報われなかった人のためのものであって、ずっとプータローをしてきた人にも保証するものではないということを徹底させないといけない。
勿論、最後の最後として、いくら長くプータローをしてきて、生活困窮をして、死ぬか生きるかという状態になった人を見捨ててよいということではない。そうした人ですら、救済しないといけないのは国というものの使命である。
ただ、その時に、救済された人が当然の権利として救済を受けるのではなく、長きにわたる自堕落に謝罪をし、救済を感謝するという姿勢が当然求められ、社会もそうした認識に立たないといけないのではないか。
20061023
雇用差別問題
(雇用均等法は無力)
女性の雇用差別の問題を解決しようということで、男女雇用均等法が制定されて、20年あまりが経つが、実際の効果はほとんどない。理由は簡単である。女性の雇用問題を担当する旧労働省の婦人少年局の幹部は東大卒業の女性キャリアで、産業界の実態を知らずに法律を作ったり、対策を打ったりしているからである。
女性問題に限らず、雇用差別問題を解決するのは簡単である。教育問題でもそうだが、解決の答えは同じような問題を体験し、克服した外国のその処方箋が多くあり、それを参考にすればよいことが多い。
雇用差別に関して、一番法律が進み、国として対策に取り組んでいるのはアメリカである。アメリカには雇用差別を禁止する法律がある。その中心となっているのはタイトルセブンと言われる法律で、元々は黒人など有色人種の差別を禁止する話から始まり、今では男女、学歴、年齢、結婚や子供の有無、人種、病気など広範囲にわたって、差別を禁止している。
この差別の中には、セクハラやパワハラなども含まれていて、日本の三菱自動車やトヨタ自動車がアメリカで訴えられたのは、正に雇用差別の一環としてのことである。
アメリカの法律では、雇用差別をされた被害者は加害者や加害企業を相手に訴えることができるし、雇用差別を取り締まるEEOC(雇用機会均等委員会)という独立の政府機関まで存在する。そして、このEEOCは差別があった時に、自らその企業を相手どって裁判所に訴えることもする。日本のホンダ自動車はEEOCから訴えられ、黒人や中南米系のアメリカ人を多く雇うように指導された。(原点は能力で人を判断すること)
日本で法律を作るのは建前は国会だが、実際は東大卒の官僚が法律案を作る。このため、元々の概念をきちんととらえ、より効果ある方法という発想ではなく、できるだけ内容を限定して作り、少しでも、その文案と異なると、法律が適用できないという非現実的なことが起きるのである。
たとえば、最近起きた事件のように、ほとんど寝てなくて車を運転して、保育園児を何人も殺した人間に、普通の業務上過失致死ではなく、運転危険罪を適用して厳しく罰することができない。理由は運転危険罪を適用するのは飲酒と薬物を飲んでの運転と規定しているからである。
雇用差別の話も同じで、女性だけに限定して議論をするので、話がどんどん小さくなり、ものの本質が見えなくなってくるのである。アメリカのように、男女だけでなく、人種、宗教、学歴、年齢、結婚・子供の有無などを含んで、そうしたことを理由に差別をしてはいけないと広く規定すれば、わかりやすいのである。
アメリカでは、こうしたことで差別を禁止する法律があるので、採用面接で家族のことや学歴などを聞いてはいけない。聞いて、不合格にした時、それを理由に差別されたと訴えられたら、会社は負けるからである。
そうした形式よりも何よりも、基本は人間の能力は、男女や人種、年齢、学歴ではなく、その人の能力で判断されないといけないという考え方がはっきりしているのである。だから、逆に、子供がいるので、家族手当を出すということでも、逆差別だとして、禁止している州もあるくらいである。(60歳定年も禁止)
年齢による差別も禁止しているので、60歳で定年だから、辞めてくださいというのも禁止である。有能で元気なら、80歳でも90歳でも働くことができる。逆に30歳でも能力がなければ、解雇される。
こうした発想があるので、女性は仕事をした後、結婚、出産をして、家事に専念し、子供の手が少し離れた後、再度、仕事を再開することが難しくない。少し仕事にブランクができたので、更にスキルアップを考え、大学や大学院に行きなおし、MBAなどを資格をもって、結婚して子供のいる40歳台の女性が一流企業に再就職するということが可能になるのである。
日本で、現在、女性が子供を作らない1つの大きな原因は、仕事と子育てが両立できず、子育てに専念して、退職したら、一流企業への再就職はほとんど不可能であることがある。アメリカ的な雇用差別を禁止する発想、法律なら、女性が結婚、出産、育児を安心してでき、何年後かに、再就職することが容易になり、少子化に歯止めがかかる大きな要因になると考える。
ただ、きちんと理解しないといけないのは、女性だから保護してほしい、優遇してほしいという発想、甘えがあると、この能力によって判断し雇用するという考えにはついていけない。自ら、努力する点はして、真の意味で差別のない社会にするという考えが大切なのである。
20061006
憲法改正問題
(自社の対立から身動きがとれず)
戦後の日本の政治では、憲法はなんとしても、死守したいとする社会党と、アメリカから押し付けられた憲法を改正し、自前の憲法を制定して、普通の国になりたいとする自民党が長く対立し、解決の糸口がないまま、60年からの月日が流れてきた。
社会党が変わって社民党になり、民主党という政党ができて、自民党との2大政党になって、話し合いの雰囲気もできて、議論がされるようになってきたら、民主党で小沢一郎が代表になって、かつての社会党と同じで、自民党のすることには何でも反対するという対決姿勢に変わり、憲法問題も、議論が大きく後退し始めた。
憲法改正で大きく議論が分かれるのが、第9条の戦争放棄の部分である。しかし、本当に課題を解決しようとするなら、この問題の解決も難しくはない。(国民のコンセンサスはできている)
太平洋戦争中の体験から、日本が他国に侵略してでも、利権を拡大すべきと考えている日本人はほとんどいない。国際紛争が起きても、武力を使わないで解決すべきとほとんどの日本人が考えている。その一方で、憲法を条文通り解釈すれば、憲法違反の疑いが濃厚である自衛隊を、7割からの国民が必要と認め、支持している。この国民の意識、考えをそのまま実行に移して、憲法が改正すれば、憲法改正は少しも難しくない。
つまり、まず、自衛隊を言葉のごまかしで自衛隊と言っている現状を改めて、軍隊とする一方、その役割は国土の防衛、日本人の保護・救助に限定し、国連軍の指揮下の下で行動する場合を除いて、自国の利権の拡大、権益のために単独で、海外に派遣することを禁止することを明記するのである。そして、海外に出ていく時は、国連の総会または、安保理からの要請があった時に限定し、しかも、国会での議決が必要とするのである。
旧社会党系の人たちや一部のマスコミ、学者には、憲法改正は戦争に再び戻る道という言い方で、改正そのものに反対する人が結構いる。その一方で、戦後60年経ち、国際情勢が大きく変化して、国際貢献も求められるので、憲法解釈を無理して、PKOなどで海外に出て行っている。
社会党と自民党の対立から身動きとれないなかで、現実に何とかしないといけないということから出てきたのが、憲法の解釈を拡大して、軍隊ではないとして自衛隊を作り、紛争地域ではない地区に行くから問題ないとして、イラクまで行くようになってきた。
この解釈改憲というのは、自民党の旧宮沢派の人たち、つまり、自民党ハト派の人たちが考えたやり方である。アメリカとソ連という対立の中で、憲法という制約がありながら、何とかしないといけないための、1つの知恵であったといえるが、小沢一郎氏もかつて言っていたように、解釈改憲はとても危険で、歯止めがきかなくなる。(現行憲法は世界の財産か)
戦後の日本では、憲法問題だけでなく、対立がある問題については、表面を繕い、言葉でごまかしてきた面が多すぎる。結果として、問題を先送りしたり、深刻な事態を覆い隠すようになって、より深刻になってきた点が多すぎる。
そも、今の憲法が「世界の財産」で一字一句いじってはいけないという発想は、現実をまったく見ていないし、法律論、憲法論としても、間違っている。法律や憲法は世の中が動き、変化していくのにともない、どうしても時代に合わない面が出てくる。これを時代の変化に合わせて変えていくのは当然のことである。それが憲法だけでなく、他の法律でも、改正を面倒くさがるから、日常生活でのトラブルが解決されず、苦しんでいる日本人が多く存在する現状になっているのだ。
今の憲法が世界の財産だという人は、今の他の国の憲法が読んだことがない証拠である。今、世界では、戦争放棄どころか、核兵器、化学兵器の使用禁止など、日本の憲法より具体的、かつ、より進んで戦争について否定する憲法を持っている国が数十カ国も存在する。護憲派の人が今の憲法の精神がすばらしいと考えるなら、日本の憲法も、そうした意味で、より厳しい戦争否定の憲法への改正を訴えないと論理の辻褄が合わない。(憲法改正は怖くはない)
日本と同じように戦争に負け、東京裁判のように、ニュールンベルグ裁判を行われ、戦犯が処刑され、アメリカから憲法を押し付けられたドイツでは、戦後これまでに30回以上にわたって憲法の改正をしている。それでドイツが戦争の道の戻ったということはないのは承知の通りである。
旧社会党や進歩的文化人、マスコミの一部には、「憲法改正は再度、戦争への道」というようなことを言う人が多いが、大体、今の自衛隊や日本人を見て、戦前のように、戦争を行うことが可能だと思う人はあまりにも、現状を知らなさ過ぎる。若者に調査をすると、日本が攻められた時はどうするかと聞くと、国や国民を守るために戦うという人は少なく、多くの人は逃げると答えている。
今、日本で多くの問題が噴出し、なかなか解決しない大きな理由の1つは、国の根幹たる憲法をごまかしてきたことが大きい。憲法は曲げて解釈するものでなく、主義主張の異なる人でも、敬意をもって読み、誇りにできるものでないといけない。
憲法には9条以外にも、改正しないといけない点が多々ある。戦後、日本で法律改正をしようとするときに、問題なのは、何度もしたくないので、時間をかけ、大議論をして修正し、そのあとは当分は議論もしないという姿勢そのものにある。法律は時代とともに変化するもの。そして、必要なら、毎年でも、議論し、修正していくものという姿勢があれば、憲法以外の問題でも、「取り締まる法律がないので、問題なんだけど、手の出しようがない」というようなことは起きないのだ。
20060927
死刑制度について
奈良で小学生の女の子を殺して、性的な虐待をした上に、その子の写真を携帯で子供の母親に送りつけた男の裁判で、死刑が言い渡された。これまで、死刑については「永山基準」という発想が裁判所にあり、放火殺人などプラスの要素などがない限り、3人殺さないと死刑判決は出ず、異例の判決となったと、新聞、テレビは大きく報道している。
なぜ、永山基準などを作り、死刑に裁判所が慎重な態度を示すかといえば、ヨーロッパの多くの国では死刑が廃止され、アメリカでも半分くらいの州で死刑が廃止されていて、日本でも死刑廃止を叫ぶ人が少なくないからで、辞任した小泉内閣での杉浦法務大臣は死刑の執行書にサインをすることを拒否し、彼の在任中、死刑は実行されず、今、死刑の判決を受けて刑を執行されていない死刑囚は90人を超えている。
今の日本では死刑の下は無期懲役だが、これは平均で15年ほどで刑務所から出所となり、終身刑というイメージとはほど遠い。20歳の者なら、35歳で出てきてしまうのだ。殺意や強盗傷害などの凶悪犯の再犯率は8割ほどといわれるように、再犯率が高く、危険な人物が自分の身の回りにいたら、安心して生活などできない。
では、どうしたらよいかといえば、簡単で、欧米のように終身刑を作ることである。アメリカではいくつかの犯罪を犯していくと、それが合算されて判決が言い渡される。だから、終身刑プラス懲役30年というような判決になる。こうなると、恩赦などがあったり、本人が模範囚でも出所は難しいので、一生刑務所から出てこれない。また、死刑の執行に躊躇することもないので、殺人には終身刑が遠慮なく言い渡すことができる。
ただ、ここで必要なのは、刑務所での生活制度の改善である。アメリカでは終身刑や長い懲役刑で模範囚のような者は、刑務所内に設置された図書館などを利用でき、勉強したり考えたりすることができ、終身刑で投獄されてから法律の勉強を始め、司法試験に受かったというような者もいる。これに対して、日本ではそうしたことができるような環境にない。全員にはともかく、罪を悔い改めようとして、模範囚である者に対しては、アメリカのような発想が必要だと考える。
こんな簡単な解決策がなぜ、なぜ、日本では実行されないのだろうか。司法関係者に聞くと、日本は刑法でも、憲法でもそうだが、問題あるところから1つづつ改正していくという発想ではなく、大規模は全体の見直しという話になる。だから、何年も時間がかかるし、利害が対立している人たちは自分の利害や権益を守ろうとして、譲れる点も譲れなくなってしまうのだという。また、弁護士の一部には、政府のすることには何でも反対するという立場の人がいて、強行に反対する。だから、解決できることでも、手がつかないのだという。ひどい話である。
20100713
責任もとらず、ケジメもない民主党
(政権をとったら、言い訳に終始)
参議院議員選挙で大敗した民主党だが、首相だけでなく、党の幹事長以下、役員も誰も責任をとらないことを決めた。それだけでなく、選挙で落選した千葉法務大臣も、そのまま職にとどまるという。
筆者は何かあった時に、政党だけでなく、会社や学校の責任者が辞めるという日本式の考え方は、基本的に好きではない。辞めることで禊が済んだという感じで、前と後で、何も変わらないというのが日本でよくあるパターンである。
第一、多くの従業員がいる会社で、社長は何もかも知っている訳ではないし、学校でも、校長が末端の生徒のことを把握している訳ではない。
しかし、社長や校長、政党の代表者というのは、全体の責任者であり、それだけの権限や給料ももらっているのであり、何かあって責任をとるというのであれば、代表者がそれを行うしかない。
今回の民主党の場合、責任をとらない、ケジメをつけない理由として、「鳩山さんが首相が続けていたら、もっと負けていた。よくここで食い止めたのだ」とか、「枝野幹事長は1か月前に就任したのであり、仕組みは全部小沢さんがしたのであり、責任を言うのは気の毒だ」というようなことが言われる。
しかし、選挙で落選した大臣を続投させるということに至っては、論理もへ理屈もない。単に、大臣を変えると、他もいじれと言われる、それが嫌だからと言うだけにすぎない。通常は続投を言われても、少なくても落選した大臣は自ら固辞して、辞任するものなのに、千葉さんにはそれもない。
しかし、この行動パターンはこの9カ月の間、民主党政権がずっと続けていたパターンで、その延長上の行動でしかない。鳩山前首相が、沖縄の基地問題で、「国外、最低でも県外」と言っていたのを、「安全保障の重要さの認識が足りなかった」と言い訳をし、「党として公約したのではないから」というように言い訳をしたのとまったく一緒である。
自民党政権時代に、日銀の総裁、副総裁の人事で、参議院で過半数を持つ民主党を中心とする野党が、「大蔵省OBだから駄目。官僚の天下りはNo 」と言って何人も拒否権を発動し続けたにもかかわらず、政権をとると、官僚の中の官僚と言われる、大蔵省元事務次官、斉藤氏を郵政会社のトップに据えた。そして、言い訳として、「民間の組織にしばらくいたので、官僚ではない」と言った。
菅総理になってからでも、側近で、大臣になった議員が経費で秘書の女性の下着を買ったことなどが明らかになっても、「法律には違反していない」と言って、大臣辞職もさせなかった。
前にも書いたが、民主党に感じる怖さは、法律の専門家、弁護士集団の怖さである。彼らがいつも言うことは、「法律には違反していないから」である。法律に違反していないなら、何をしてもよいのかということである。
世の中には、法律以外に、常識とか、マナーというものがある。慣習ということもある。民主党の怖さは、法律に違反していないということで、この常識、マナー、慣習をすべて否定してしまったいることである。
筆者は参議院選挙の投票日の二、三日前に、与党の過半数割れをさせないと大変だと書いたが、その理由はこれである。もし、参議院で与党が過半数を獲得していたら、「法律には違反していない」という論法で、ルールや常識を壊し、乱暴、傲慢な行動に出ていたと思う。この怖さは、戦争時代の軍部の怖さである。話し合いをせず、問答無用という怖さである。
民主党は野党時代には、こうした問答無用という態度はなく、選挙で負けたり、偽メール事件など非難される問題が起きたら、党首が辞任していた。野党時代は常識的な行動だった。それが与党になって権力を握った途端に、国会の運営でも、人事でも、問題の処理でも、すべて強引、傲慢になった。そこに、非常に怖さを感じるのだ。
参議院で民主党など与党が過半数割れをして、衆議院とのねじれが起き、政治が停滞して大変という報道が新聞、テレビで盛んに言われている。しかし、筆者は今の民主党だと、ねじれで、初めて、他党の言い分を聞くことになり、やっとまともになると考える。過半数を越えていたら、信じられないような大暴動だったと思う。
世界の政治の世界ではねじれはごく、一般的に起きることである。アメリカの大統領が国会では少数派で、多数の野党とのやりとりで苦労するようなことは、映画などでもよく描かれている。欧州でも、第一党が過半数をとれず、複数の政党で連立政権というのは珍しくない。
連立だから、少数与党だから、逆に政権運営がうまく行くのである。無茶なことを言ったり、行動したりする政党は、次の選挙で、選挙民の厳しい審判を受けることになる。
今回、国民新党が1つも議席がとれなかったのは、その現れである。郵貯の民営化の逆行や社長の官僚OBの大物登用、預け入れ限度額の大幅な増額など、誰が見てもおかしいと思う行動への批判が自分に返ってきただけである。
今回の参議院選挙では、民主党は都会では勝ち、地方で負けた。マスコミは消費税が地方ほど影響が大きかったからと書いている。それはゼロではないと思う。しかし、筆者はそれ以外に大きな理由があったと思う。それは公共事業だ。
民主党は「箱物から福祉へ」ということを言って、公共事業を大幅に削った。公共事業を削ることが財政再建の大きな手段の1つとして、小泉政権でも公共事業費は削られた。
しかし、地方はこれと言う産業がないので、公共事業の大きく依存している。その影響を考え、あの小泉元首相でさえ、公共事業費の削減は1年間7%に抑えた。これに対して、民主党政権は、何と1年で18%削ったのである。地方は干上がってしまう。その反発が大きかったのではないだろうか。
マスコミやTVによく出る学者は、二言目には、「格差を作ったのは小泉政権」と言い、それを引用する人が多いが、まったく認識が間違っている。
格差は小泉政権以前から拡大していた。筆者が中学、高校時代は公立の中学校で勉強に頑張れば、都道府県で一番と言われる高校に入れ、そこで真面目に勉強すれば、塾などに行かずに東大に入れた。だから、貧しい東大生がたくさんいた。早稲田大学では貧乏人はまったく珍しくなかった。
それが、美濃部都政時代に、都立高校をガタガタにするひどい施策をして、都立の高校からは東大に入ることはほとんど無理というようにしてしまい、その動きが全国に広がった。今は東大生の父親の平均年収は1300万円。親が豊かでないと東大に入れない時代になった。
早慶、関西の関学、同志社の学生の父親の平均年収も千万円を越えている。同じ理由である。格差の1つの例だが、こうしたことは小泉政権が起こしたことではない。
資本主義が長く続けば、格差は広がるものである。努力の差、能力の差、そして、親の力の差が代々のどんどん広がり、格差は広がるのは当然で、それが嫌なら、資本主義を止めないといけない。
資本主義でありながら、恵まれない人をどうするかというのが国や自治体の対策である。でも、これは自分がいくら努力しても、無理という人への救済であって、努力してこなかった人、勝手にやってきて、その結果、ひどい状態になっている人まで税金で何とかしろというのは違う。
その線引きが、今の世の中はきちんとしていないので、議論がごちゃごちゃになり、生活補助金でパチンコを朝からするというような人を多く作ってしまっているのである。
被保護の家庭には現金ではなく、バウチャーという券を配り、その目的だけに使えるようにすれば、パチンコ代に消えることはなくなる。豊かな家庭にまで、これだけ苦しい財政から、高校の無料化をするという発想は、格差是正にはなにもならない。
そんなことよりも、公立の中学、高校の本格的に立て直しをすれば、貧乏人でも東大、京大に行けるようになり、十年後には格差是正につながっていく。ばらまきではなく、必要なところに、ピンポイントで税金を使うのが、今の時代のあるべき姿である。
別の機会に、詳しく書くが、民主党が目指している大きな政府は官僚天国につながり、国民には大きなツケを残すだけである。人口が500万人くらいで、政府のすることを厳しく監視する体制ができている北欧の国と、人口が1億2千万人で、官僚が好き勝手なことをしていて、国民監視システムがほとんどない日本とは事情がまったく違うのだ。
20100712
民主党偏重報道が目立つマスコミ
参議院議員の選挙は民主党の惨敗で終わった。事前にある程度、予想されたこととは言え、マスコミの予想よりも更に3議席程少ない獲得議席だった。
過去の9ヶ月の政権運営の混迷、乱暴さ、傲慢さからすれば、当然の結果だと言えるが、選挙結果を報道するテレビの報道を見ていて、明らかに民主党偏重の報道が見られ、報道の中立性はどこへ行ったのかと首を傾げざるを得ない。
具体的には、選挙結果がほぼ出揃った夜中の0時半頃から始まったテレビ朝日の報道番組には、民主党の主要議員が3人出演し、他の政党はそれぞれ1人づつだった。
また、投票日翌朝のワイド番組はほとんどの局で、民主党の主要議員はずっと出ていて、自党の主張、言い訳をし続けているのが目立った。他の政党はほとんど出ず、出ても短時間とか、中継という形であった。
衆議院で過半数を持っているのに、テレビの政党討論などでは、8対1という構図だと不公平ということを民主党はよく口にしていて、選挙途中の議員の議論でも同じような光景を何回か見た。
でも、それはおかしい。自民党が過半数を得ていた時も、また、3分の2の議席を持っていた時期でも、政党討論の時、自民党議員は1人で、他の多くの野党に対応していた。「政権党は具体的な政策運営をしているのであり、批判されるのは当然。6対1でも、7対1でも仕方ない」これが自民党の対応だったが、民主党には、その姿勢はまったく見られない。
1年前に、自民党が敗れて、民主党が政権をとった時に、マスコミは「歴史的な政権交代」と散々報道した。それだけでなく、自民党末期の時期に、マスコミは自民党の問題点、細かなお粗末さを大きく報道し、国民に自民党の駄目ぶりを大々的に報道した。
自民党が負け、民主党が政権与党になった最大の理由は、このマスコミの報道にあったのではないかと筆者は考える。勿論、自民党にお粗末さ、問題点は多くあった。しかし、民主党にも同様に多くの問題点もある。自民党の問題点、首相が漢字の読み間違いをしたというような些細なことを細かく報道することは明らかに公平さを欠いていたとしか言いようがない。
今回の参議院議員の開票の様子の報道を見ていて、気がついた人も多いと思うが、現在の民主党の議員はどういう人たちで構成されているかと言えば、圧倒的に多いのが労働組合の幹部OBである。旧社会党は社民党に引き継がれ、消えそうな状態と言うが、実態は最大の支持基盤である労組の票は民主党に引き継がれているのである。
労組関係以外では、TVによく出て、論客と言われるような民主党の議員には、官僚OBが多い。更に、弁護士が異常な位に多い。官僚OBも弁護士も、討論などの時の姿勢は、多く持っている情報や、法律の知識、議論の強さなどで、相手の言うことを聞かず、徹底的に論破するというものである。
民主党が政権をとった後、郵政の民営化見直し法案の審議をほとんど行わず、強行採決したことや、言っていたこととまったく異なって、官僚の頂点に君臨してきた旧大蔵省事務次官の齋藤氏を郵政会社の社長に就任させたこと、問題を起こした官僚、幹部に責任をとらさず、問答無用で押し切った姿勢などはこういうところから出ていると筆者は感じる。
一般の国民には、弁護士は弱者の味方で、強きをくじき、弱きを助けるというイメージがあるが、公私ともに、嫌という程弁護士と付き合った体験から言うと、白を黒と言い、法律違反すれすれで、相手を追い詰めて行くタイプの人が多い。
訴訟社会であるアメリカには多くの弁護士がいて、よく話題になるが、アメリカの弁護士には、非常に厳しい倫理が義務づけられている。例えば、自分が弁護を引き受けた事件の被告が犯人であったり、法律違反をしていることを知ったら、それを公表しないといけない。
また、被告が自分の有利になるために嘘を言うことを弁護士が勧めたら、弁護士は資格剥奪である。日本では、こうした規則はないので、明らかに犯行をした被告に嘘を言ったり、自分に有利な発言をするように勧めることなど日常茶飯事である。その何でもありのやり方を政治の世界に持ち込まれては大変だ。
問題の多い、労働組合の幹部OB、元官僚、弁護士が中心にいて、そこに、金権体質の自民党田中派直系の小沢一郎グループが加わってできている。それで、よい政治ができるというのだろうか。
筆者自身もマスコミ出身だから、マスコミの世界の裏側の事はよく知っているが、ここしばらくの間、マスコミを強く主張して世論を動かして、実現したことは、そのほとんどが間違いである。「派閥政治をなくさなくては」とか、「二大政党制にしないといけないから」として、マスコミの大合唱で小選挙区制度が導入されたが、結果は、国会議員が天下国家のことを考えるのではなく、自分の選挙区を中心に考える市会議員化である。
また、小選挙区制は党が議員の生殺与奪の権をもつため、民主党の小沢一郎前幹事長のような、自分の言うことを聞かない議員には党の金を渡さないとか、公認しないという独裁者を生んだ。
二大政党制がよいのは、同じくらいの規模の政党が健全な政権交代ができ、アメリカやイギリスなどで行われているからとマスコミは言うが、イギリスでは二大政党だけでは、国民の様々な意見やニーズを吸収できないとその他の政党が力を持ち出している。
また、ドイツやイタリアなどでは多くの政党がいて、それが必要に応じて連立を組むというのはごく普通に行われている。二大政党制が優れた制度だということなど言えない。
ただ、今回の参議院議員の選挙結果をみると、それだけマスコミが肩入れした民主党政権が大きく負けた。国民はバカではないのである。
20100711
相撲の野球賭博はそんなに悪か
大相撲の力士が野球賭博をしたとして、琴光喜と大嶽親方が解雇された他、多くの力士が謹慎処分となり、NHKもテレビ中継を中止するなど大騒ぎである。そして、横綱、白鵬が他の力士と花札をしたことまで問題視し、本人に謝罪させている。
新聞やテレビも連日のように、この問題を伝え、相撲業界の体質改善の必要性を訴えている。その時に必ず出てくるのが、「伝統ある国技だから」という話である。そして、賭けた金が暴力団の資金源になっていて、反社会的だというのだ。
しかし、この報道を見ていて、筆者は大いなる違和感を感じる。まず、殺人や暴行などの誰が考えても、あってはならないことと、他の人に大きな被害を与えるものではない賭博は大きく違うという視点がないということである。
法律に違反しているからけしからんという人もいるかもしれないが、普通の日本人で、賭け事をしたことがない人はまずいないと思う。ゴルフをする人は、そのほとんどが一緒に回る人と金をかける。「チョコレート」という言い方をするが、金額はそれほど大きくないにしても、金を賭けており、法律違反である。
また、高校野球や、今回のようなワールドサッカーなどに対して、家庭や職場で、賭けをすることが日常茶飯事のように行われている。何かについて、その結果に対して、金を賭けて争うというのはいわば、生活に根差していることなのである。
新聞、テレビで識者ということで、今回の相撲の野球賭博を批判している人で、これまでに賭け事をしたことがないという人がいたら、お目にかかりたいと言いたい。
江戸時代には、すべての賭博が禁止され、厳しく取り締まられた。しかし、戦後の日本では、国や地方自治体が主催する競馬、競輪、競艇という賭博は堂々と認められ、民間の賭け事は一切禁止されている。宝くじも公営だということで認められ、年間に1兆円の金を集めている。
賭け事は集めた金の内、胴元がいくら取り、金を出した参加者にどれくらい還元するかということで、搾取の度合いが決まるが、競馬などの賭け事で、政府や地方自治体の官が取るのは25%、宝くじに至っては、実に55%の金を国民から官が巻き上げている。やくざもしないような「あこぎ」さである。
民間で行っているものとして、パチンコが唯一、認められている。パチンコは戦争で主人を失い、生活が大変な母子家庭の母親を支援するという名目で、現金交換が認められ、賭け事にもかかわらず、認められた。
パチンコ業界の売上高は最高時には年間30兆円にも及んだ。近年、少し売上高が落ちてきたが、それでも、23兆円ほどあり、日本を代表する自動車産業に匹敵する大産業である。
こうしたものを認めておいて、どうして、個人が花札をしたり、野球賭博をしたらいけないのか。論理が矛盾する。外国では、ラスベガスではないが、民間企業が経営する賭け事、賭博が認められている。日本では、これが認められないので、アンダーグラウンドで賭け事、賭博が行われることになり、そこにやくざを絡んでくるのである。
民間で唯一、公認されていたパチンコ業界も、警察が実態を把握しようと、玉の販売を機械でチェックするシステムを導入するよう業界を指導し、販売のためのカード導入をした。そして、それをチェックするための機関を作り、警察OBが多く天下りしている。
つまり、官のすることはよいが、民がすることは全部だめということが如実に出ているのが、今回の騒ぎの根幹にあるように思う。そも、今回の相撲の野球賭博は、週刊新潮がすっぱ抜いたものだが、これも、警察からのリークであるのは、関係者の間では常識である。
相撲の野球賭博の話で、よく出てくる話に、「国技」「伝統スポーツ」だからという話がある。朝青龍が相撲界を引退しないといけなくなった、知人を殴ったという話の時も、「国技」ということがよく言われた。
これも、大いに違和感がある。元々、相撲は国技ではない。国技だという認定はどこにもないし、国が決定したという事実もない。国技というなら、もっと国民に愛され、国費が投入され、場所の中継も現在の十数%というような視聴率でなく、2倍、3倍の人が見ておかしくないはずである。
相撲は基本的に興業であり、戦いである。現在、行われているような、優等生でないといけないということで、力士を規制していくと、スポーツとしての面白さはなくなり、やがて、消えていくことにつながるのは必至である。興業には悪役は必要だし、強い個性の人が必要である。
相撲は元々、全国の興業を行う時に、地元の有力者、顔役などが引き受けて行われてきた。やくざとの付き合いは長く、特に問題はなく過ごされてきた。それに最近になって、関係を断てと言われて、戸惑うのは当然である。
昔、歌手の美空ひばりの興業を山口組が取り仕切っているということが大きな社会問題となり、ひばりはテレビやラジオに出演ができない。公演が実施できないという騒ぎになったことがある。これも相撲と一緒で、昔は歌手の興業も、地元の顔役が取り仕切っていたのである。
そも暴力団とか、やくざとは何であろうか。警察は暴力団の撲滅を掲げて、社会の諸々のことから、やくざを切り離そうとしている。そして、暴力団が大きな問題組織だと、マスコミを通してPRしてきた。マスコミは警察の言う通り、報道してきた。
しかし、どの社会でもそうだが、社会の落ちこぼれはいる。まともに正業につけない人を集め、指導し、問題をおこないように管理してきたのが、やくざである。だから、清水の次郎長や、国定忠治が英雄や顔役として存在したのである。
昔、犯罪が起きると、警察はやくざ、顔役に情報を求めた。やくざの世界では、誰がその犯罪に関与したかという情報があり、やくざはそれを提供して、犯人の逮捕に協力することは少なくなかった。二十年くらい前まで、ごく普通に行われていたことである。
それが、二十年くらい前から、警察庁が「暴力団撲滅」を言いだし、マスコミを通じて大キャンペーンを始めた。
自分で店を持つとわかるが、やくざがおしぼりや割り箸などを買ってくれないかと言ってくる。決して押しつけではなく、非常に低姿勢でである。料金も普通の業者と変わらない。そして、これを買うと、店の客が問題の人で、トラブルを起こした時に連絡すれば、すぐ来てくれて、収めてくれた。
しかし、警察はこうしたものを買うのは駄目と強く言って、指導した。でも、問題の客はいる。問題が起きた時に、警察に連絡しても、警察は余程大事にならないと来てくれない。庶民感覚からすると、警察と暴力団が権力争いをしていて、周囲の人はそれに振り回されているように感じる。
やくざや暴力団というと、短く髪を刈った、一見すぐそれとわかる人たちというイメージがあるが、実際は、そういう人もいるが、多くはそうではない。
一般には知られていないが、現在、上場している企業のかなりの会社が事実上、やくざに支配されている。今から十年前で50社はあると言われた。今、その倍はあると予想される。今のやくざは経済やくざであり、一見ではわからない。
筆者はやくざや暴力団を擁護するものでもないし、よいというつもりもない。なくてすむなら、ないに越したことはない集団である。しかし、世の中には必要悪というものはある。そして、かつてのように、警察がやくざとつかず離れずの関係で、暗黙の協力関係、住み分けがあっておかしくないと思う。警察が天下り先確保のためにそうした関係を壊した結果、逆の大きなトラブルが起きている、そう思うのである。
相撲の話に戻すと、相撲をそも財団法人にしていることがおかしい。プロレスや野球のように、普通の民間経営とし、興業として、場所を開くべきである。税制優遇がないのであれば、「国技だから」とか、「公益法人だから」ということを言われないですむ。
そうすれば、検察官庁OBが理事長代行を務めるというような変なことは起きない。
最近、落語や講談を聞いていて、昔に比べてまったく面白くない。三遊亭円楽の弟子、楽太郎が円楽を継いだ。襲名公演を聞いたが、面白くない。一生懸命、勉強して、話をしているのだが、味がまったくない。かつての落語家や講談師は独特の味があったが、それがないのだ。
理由は簡単である。昔の落語家や講談師、歌手や俳優もそうだが、結構、ハチャメチャな生活をしていた。だから、そこから、独特の味が出てきたのである。でも、今の人が、マスコミに管理され、何かあると、すぐ叩かれるので、品行方正になっていく。だから、味が出ないのだ。
社会の人々には、それぞれの役割や分担があるはずである。一律の規則、ルールで仕切っていき、それから外れると、バッシングをするという今の世の中は、面白くない。
20100708
国民の賢い選択…参議院での与党、過半数割れ
後、数日で参議院議員選挙である。筆者は基本的には今の参議院なら無い方がよいという無用論者である。参議院選挙が3年に1回あり、衆議院選挙が実際には2年半に1回選挙があるから、十年先、20年先を見通した国家戦略などが立てられないのである。
しかし、すぐには、参議院はなくならないから、現状を前堤に話をしないといけない。今回の参議院選挙で、与党が非改選組を入れて、過半数まで届くか微妙で、最近の新聞報道では、少し届かないかという予想である。
与党が過半数割れすることが予想通りとするなら、それは国民の賢い選択であると、筆者は考える。
民主党を語る時に、特に新聞、テレビは、長年続いた自民党政権からの歴史的な政権交代という。そして、民主党支持者は、民主党政権の過去1年弱の混迷やお粗末さを見ても、「歴史的な政権交代であり、慣れないのだから、もう少し、時間を与えないと」と言う。
そうであろうか。まず、戦後の政権は、ずっと自民党が政権を握り続けた訳ではない。戦後、片山内閣で社会党が政権をとったことある。また、細川政権では、自民党以外の多くの政党が連立で政権を握った。
また、小沢一郎も、鳩山前首相も、その他の幹部の多くが、長く、自民党で議員を務めていた。「政権慣れがしていないので、時間をあげないと駄目」という論は事実を無視する話である。
そして、自民党政権時代でも、自民党が独裁で何でも決めていた訳ではなく、自分の半分くらいしか議席がない最大野党、社会党と話し合いをし、社会党の主張を取り入れ、妥協しながら政権運営をしてきた。
福祉や年金が問題だらけというが、世界的にも優れたモデルと言われる国民皆健康保険制度も、国民の課税最低限度額も、他の先進国の2倍くらいまで税金を払わなくてよいような制度になっているのも、自民党中心の政策運営に、社会党や近年では公明党の意見を取り入れてきたからである。「年金は自民党がガタガタにした」と民主党は宣伝し、マスコミもそれに乗って報道しているが、真面目に定年まで勤めた人は、今、月額20万円を越える厚生年金を受け取っている。
筆者の親戚の人は小学校卒業で、中小企業の工場で、定年まで働いたが、月額22万円程の厚生年金を得て、月に2回旅行に行っている。40年間、真面目に仕事をしてきた人は家を買い、貯金を持ち、年金で問題なく生活しているのだ。
つまり、自民党は長く政権の座にいたが、実は柔軟に野党や他の政党の主張を取り入れ、様々な制度を実現してきたのである。自民党には問題はたくさんあったが、戦後、日本が奇跡の復興をなしとげる中で、自民党の果たした役割は大きかったのである。
これに対して、民主党はどうであったか。自民党政権の末期、参議院で自民党が過半数割れが起きた時、民主党のやり方は、自民党の主張はすべて退け、一切の妥協をしなかった。自民党のお粗末さもあったが、自民党政権が身動きがとれなくなったのは、民主党のこのやり方のためだったのである。
そして、今度は自分が政権をとった後はどうだったか。鳩山前首相や小沢前幹事長が政治と金の問題が大揺れしても、何も説明せず、国会での一切の審査も拒否し、押しきった。
その他の政治家で、中井国家公安委員長が、議員宿舎に交際中の女性を寝泊りさせていることが指摘されたり、その他の議員や大臣が、事務所経費を不正に申告している問題が明るみに出ても、辞任したり、陳謝は一切なく、「法的に問題ない」という言葉で、居直ったままである。
一番ひどい話が郵政問題で、小泉郵政改革の時に、千時間を越える時間を議論にあてたのに、たった1日、6時間で、しかも、民主党の公約とはまったく逆の方向の改革法案を強行採決したのである。
郵政のトップに財務省の元事務次官という官僚組織の最高権力者を据え、郵貯の預け入れ限度額を倍にするなど信じられない暴挙である。当時、国民新党の亀井大臣が強硬に実現を迫ったというように解説されたが、最近の分析では震源地は民主党、小沢一郎であるという話である。
今回の郵パック問題は起こるべきして起きたのである。国民目線がない官僚が、現場の実情を無視して、強行したことが混乱の原因である。それなのに、原口総務大臣は、「民営化の問題が出た」と発言した。あいた口が塞がらない。
圧倒的な議席を持っていた時代の自民党でも、こんな乱暴なことはしていない。逆に自民党は野党の意見をかなりとり入れていた。民主党にはまったく、そうした姿勢がなく、独裁的であり、傲慢である。
先日、9党の代表者で、テレビで議論をしようという話があった時に、菅首相は、「8対1で、責められるばかりで不公平だから」と言って、出席を断った。でも、自民党時代のことを思い出してほしい。自民党は6対1でも、7対1でも、出演を断ることはしなかった。
国会で、問題、不手際を責められた前原国土交通相は「今問題が噴出しているのは、自民党政権のツケで、そうしたあなたたちから、言われたくない」と傲然と言い切った。
この論法で行くと、前政権の党は何も発言できないことになって、議論など成り立たなくなる。絶対言ってはいけない発言である。
こうした民主党が国民新党を入れても、今回の参議院議員選挙で過半数を獲得したら、それこそ、傲慢に、他党の言い分などまったく聞かず、暴走をするのは目に見えている。
公約を次々に破ってきて、それも、「思ったほど金がなかった」とか、「不況で税収が集まらないから」という言い訳に終始し、謝罪や修正説明は一切なしである。
今の民主党に一番必要なことは、「謙虚さ」である。他党の主張も聞き、議論をし、入れるべき主張は採用することである。それを実現させるための方策は簡単である。今回の参議院選挙で、与党を過半数割れさせることである。
そうなると、独裁は通らなくなる。協議、妥協は不可欠になってくる。政策ごとのパーシャル連合も出てくるだろう。でも、それはより、国民目線に近くなることである。
過半数割れで、民主党の党内がもめ、9月の党代表選挙に向けて、党内論争、抗争が起きるかもしれない。でも、それは、逆に民主党という政党がよく見えてきて、国民にとってはよいことだと、筆者は考える。
20100706
成功体験は忘れろ
現在、日本で行われている議論は、「今の日本は不況で大変だ。かつての好況の時のようになるように、政府がもっと対策をとるべきだ」ということが中心である。
しかし、筆者はここに最大の問題があるように思う。新聞やTVに出てきて、「政府がもっと対策をしっかりしろ」という発言をしている人は、50歳代、60歳代の人が中心で、彼らの話は、「かつての高度成長時代やバブル時代のような好調な時代に戻せ」といことである。
戦後の日本の高度成長時代は、世界から「奇跡の復興」と言われた。「奇跡」は滅多に起きないから、奇跡なのである。奇跡をもう一度というのは土台無理である。
バブル時代は、東京にマイホームを持っている人なら、誰でも1億円以上の資産家になったという異常な時代で、日本人全体が「ゼニの異常さ」に酔っぱらった時代で、これも、再現などありえないし、あってほしくない。
20歳代は30歳代前半の若い人は、ものごころついた時から日本は下降で、日本のよい時代はほとんど知らない。だから、年配世代より、より現実的で、かつ、悲観的である。
若い人と話をして、将来の夢はと聞くと、「幸せな家庭を築くこと」という答が圧倒的である。年配者からすると、なんて小さい、小市民的と感じるようなことだが、今の若者には、それが難しい達成目標なのである。
そうした若者に、50歳代、60歳代、70歳代の人が、日本がバラ色だった時代の話をして、「政府が駄目だから、今のようになったので、政府がもっとしっかり経済対策を打てば、日本はよくなる」という話をして、民主党政権が誕生したが、事態はもっと悪くなっただけである。
今の日本に閉塞感は、政府の失政、無策で起きたのではない。政府が万一びっくりするような素晴らしい施策をしたとしても、50歳代、60歳代、70歳代の人が考えるような好況は二度と起きない。
理由は簡単だ。日本を取り囲む環境、条件が変わったのだ。それを認識しないで、過去の成功を二度というようなことを言っている50歳代、60歳代の話は、没落した大地主が良かった時代の夢をもう一度と言っているのと同じで、害悪こそあれ、何の役にも立たない。
高度成長時代など、日本が絶頂時代は、日本が世界の生産工場となって、日本の製品を世界に輸出し、世界の他の国も歓迎してそれを買ってくれた時代である。当時の日本は欧米の人が考えたアイデアを日本人の勤勉さ、工夫でより良いものに作り直し、そして、低賃金で製造して海外に売っていたのである。
しかし、現在の日本は不況だ、不況だというが、ドル換算では、世界トップクラスの高給国家になった。欧米は知的財産権の保護の観点からアイデアを簡単に出してくれなくなった。日本人もかつてのように勤勉ではなくなってきた。工夫も少なくなってきた。これで、かつての奇跡の再現などあり得ない。
世界の生産工場ではなくなった日本はどうすれば、国民はより豊かになれるか。かつての経済の規模が小さな時代は、輸出で儲けるウエートはとても大きかった。しかし、今の日本では輸出の依存度は小さく、圧倒的に国民の内需中心の国家である。
それなら、輸出振興ではなく、もっと内需が増えるような施策に力を入れないといけない。高齢者が増えて、現役世代が減ったというが、それなら、もっと年配世代に働いてもらえばよい。
新幹線で出張などしていると、元気一杯の60歳代の団体が旅行に行くのとよく出会う。今の60歳代は本当に元気である。元気な世代に年金を払うのではなく、もっと働いてもらうのだ。筆者も仕事を辞めれば、年金がフルに出る年だが、現役で仕事している。まだ、数年は現役で働ける体力、知力はある。
そして、今、勤労年齢の半分以上の人が働いていない女性たちの就労をもっと促進して、一家の収入を増やすことだ。女性が働く環境対策とて、保育所などの充実などの対策を政府や地方自治体がもっとすればよいのである。
待機者が多いのに、なぜ、保育所が増えないか。理由は簡単だ。作れば作るだけ、地方自治体が赤字になるからだ。介護もそうだ。ニーズが多いのに、なぜ人手が不足するのか。それは労働がきついのに、給料が安く、労働環境が悪いからである。
こうしたいわばサービス系の仕事の価格を役人が決めると、必ずと言ってよいほど、実態に合わない価格設定をする。だから、本当に必要な人がそのサービスを受けられないのだ。
保育所も公営ではなく、もっと民間に門戸を広げ、価格も自由に設定できるようにすれば、価格は少し高いが満足なサービスを受けたいという人は集まってくる。政府や自治体の関与は安全面、衛生面などのチェックに限定すべきである。
中国、インド、ブラジルなどの発展途上から先進国の仲間入りをしようとする国が経済発展をしてくると、何が起きるかと言えば、まずは食糧需給のひっ迫である。これまでは、金さえ出せば、世界中から何でも買えたのが、次第に、競争が激しくなり、価格が高騰し、高い金を出しても買えなくなってきつつある。
日本には、それこそ、戦後の農政の失敗で、放置された広い農地や山林がある。周囲は海に囲まれている。今は栽培漁業が盛んになってきたが、こうしたことに政府がもっと力を入れ、農業、漁業、林業で働く人を増やしていけば、失業問題など解消できる。
ただ、学校教育で、もっと仕事、労働について、きちんと教えないといけない。それこそ、政府の出番である。日本の学校では教えないといけない肝心なことを教えていない。宗教などそのよい例である。宗教を学問として、きちんと教えないから、世界での宗教対立の意味もわからないし「契約」の意味も理解できない。
「汝の隣人を愛せよ」とは、近所、隣の人、外国の人と仲良くしましょうということではない。「隣人」とは嫌な奴、価値観が違う人たち、そうした人たちといかに付き合っていくか、よく考え、工夫しようということである。
軍隊をなくして、話し合い、外交で交渉すれば、外国がわかってくれるというドンキホートではなく、いざという時は、戦の準備をきちんとして、戦うこともちらつかせながら、ギリギリの駆け引きをして、境界の線引きをし、ルールを取り決めていくということである。
働くということも、きちんと教えないといけない。大学に5割の人が進学する時代である。大学に行って人にすべて、サラリーマン、ホワイトカラーの就職先があるはずがない。自分の適性、能力、分をきちんと教え、超大企業への就職はあり得ないということをきちんと説明すれば、7人に1人が就職浪人などということは起きない。
不況で就職できないのではない。大学に行ったのだから、大企業に就職して当然と思う学生やその親と、質の悪い学生は採用できないという企業の価値観のギャップが大量の就職難民を生んでいるのである。
20100704
税論議は世代間戦争
後1週間で参議院議員選挙で、消費税や福祉対策、景気対策などの議論が盛んに行われている。だが、一番議論をしないといけない肝心なことがほとんど議論されていないように、筆者には思える。
一番大切なこと、それは将来の日本をどういう方向にもっていくかということ、そして、その中で、老、壮、青の負担や分担をどうするかということである。
景気や福祉対策が常に政府のやるべきことの上位に挙げられる。しかし、景気対策は実は政府が行って、成功したことはほとんどないというのが歴史的な事実である。
学校の授業で成功例として習う、アメリカのルーズベルト大統領のテネシー川流域の公共事業も、その後の検証では、あまり効果がなかったというのが定説である。
政府がしてはいけないことをした結果、回復期にあった景気の足を引っ張った例として、橋本内閣での消費税の3%から5%への引き上げがあるが、このように、今のタイミングでしないでほしいということをしないようにするのが、期待されることである。
少子化対策が必要だとして、民主党政権はこども手当を支払い始めた。子供の数が減って、少子高齢化が進むので、何とかしないといけないということからの発想である。
しかし、子供が減ることが本当にそんなにいけないことなのだろうか。子供が減ることの悪い理由として、一番言われることが、若い人が減ると、現役世代が給料から支払う年金拠出が減り、お年寄りを支えられないから、少子化は駄目だということである。
だが、今の日本のように、自分が積み立てた金ではなく、今の若い世代が支払っている年金拠出から、お年寄り世代が年金を受け取るのではなく、自分が積み立てたものを自分が受け取るという欧米の様式に変えれば、別に子供が減っても、年金がパンクしたりしない。
大体、現在年金をもらっている70歳代の人たちは自分が積み立てた金の何倍のものを年金として受け取っている一方で、今の現役世代は自分の積み立てた金の何割しか年金として受け取れない。この制度自体まったくおかしく、若者がおかしいと声高に叫ばないことが筆者には理解できない。
今の日本は人口1億2千5百万人である。しかし、自給自足をしていた江戸時代は人口は3千万人であり、昭和の時代でも6千万人だった。江戸時代は、水戸黄門などの時代劇映画で貧しく辛い時代と描かれているが、実際は当時の1人あたりのGDPは世界一という計算もあり、豊かな国だったというのが定説である。
若者が減ると、労働人口が減るという話もあるが、60歳定年を止めて、70歳まで働くようにすればよいし、半分も活用されていない女性を労働人口として活用するようにすれば、総人口は減っても労働人口は減らない。
人口が減ることが大変だというPRは、現状の女性は半分も働かず、男性も60歳や60数歳で仕事を辞めるという前提に立っているからの話で、その前提を変えれば、状況は一変する。
老人は貧しく、年金もパンクしている。だから、福祉の抜本改革をしないといけない。今までの政府は無茶苦茶をしていた。これは民主党の主張で、それで政権交代が起きた。
しかし、本当にそうであろうか。老人は貧しくない。個人金融資産、1400兆円の3分の2は65歳以上の人が持っている。年金も、自営業やきちんと年金を支払ってこずに、まともに年金がもらえない老人を描いて、大変さを煽っているが、9割以上の人は、まともに年金を拠出し、きちんと年金をもらって、生活をしている。
過去のどんな経緯があろうと、現在、まともに年金を受け取れず、生活ができない人は、国や地方自治体が対策をとらないといけないが、それは全体のほんの一部で、その人たちが過半ではないのだ。しかし、マスコミがあたかも、過半のような描き方、報道をするので、消費者の財布が更にしまり、ものを買わずに貯蓄に向かうというマスコミ発のデフレが起きているのである。
高福祉国家として、よく例に出てくるスウェーデンは人口5百万人の国である。ニュージーランドは日本から北海道を取り除いた広さに、人口3百万人の人が住んでいて、何も問題はない。日本の隣の韓国の人口は日本の半分である。でも、最近の韓国の躍進は目覚ましい。日本が人口を今の水準に維持しないといけない理由はない。
(福祉の内容の総点検が必要)
現在、例えば医療費は年間30兆円かかっていて、毎年、1兆円づつ増えている。でも、この30兆円をきちんと点検すれば、削ることができる内容が多くある。
医療費と計算されている金額の多くが宿泊や食事に関する費用である。また、絶対助からない末期がんの患者に、1年間に3千万円の治療をしたというような例も報告されている。
医師はよく、「人の命は地球よりも重いので、何をおいても助けないといけない」とよく言うが、絶対助からない人に無理やり延命治療をすることに、疑問を投げかける人は少なくない。本当に人道的な立場ではなく、治療例としての実験として対応している医師も少なくないというのが医療関係者の本音である。
日本の病院の3分の2が赤字である。その一方で、大学病院へ行けば、患者は長蛇の列である。大学病院でなくても、少し腕のよい病院は患者が殺到している。それで、3分の2の病院が赤字というのは理由があるのである。
日本は病院の役割分担がきちんとできていない。地域で普段接している人たちを診るクリニックと、専門的な治療をする大学病院や大病院の役割がごちゃごちゃで、誰でも、どこでも行けるので、行く必要がない人が大学病院などに殺到している。
また、国民皆保険はよいが、ドラッグストアで薬を買うよりも病院に行って薬をもらう方が安くつくので、皆、安易に病院に行く。一定年齢以上になれば、体の何か所かに持病や不具合が出てくる。本来なら、どんな薬を手に入れて飲めばよいかわかっているのだが、先生と話をして、安い薬をもらえるので、ドラッグストアでなく、病院に行くということになる。
病院に行く回数が増えると、保険料が上がるというアメリカの保険制度の全体とは言わないが、ある部分を活用して、用もなく頻繁に病院に行く人には、保険料を上げるという対策だってとることができる。
病院の経営が赤字の理由に1つに高額な機械の購入がある。日本は病院や医師の絶対数が不足しているとよく言うが、対人口比ではそんなことはない。日本は病院が乱立し、しかも、どこの病院も高額な医療機器を購入するので、経営が圧迫されているというデータもある。
全体をきちんと調査、把握すれば、無駄な部分が多く、同じ金でもっと色々なことができる。
介護が必要な人、寝たきりの人を個々の家庭で面倒をみて、介護保険などで対応するという今のスタイルではなく、もっと、多くの人の輪で、対応するというスタイルにすれば、費用も少なくて済み、家族の負担も大きく軽減してくる。
筆者自身、60歳代半ばである。同じ学年の人は皆、年金をもらって、余生を暮らしている。筆者自身はまだ、働いていて厚生年金は停止状態である。
そういうこともあって、介護や年金生活などの現状も多く見る。その時に、いつも感じるのは、今の60歳代、70歳代、80歳代の人たちのわがまま、勝手さ、人生設計プランのなさである。
中卒でも、高卒でも、大卒でも、筆者と同じか、それ以上の人たちは、まともの仕事をしてきていれば、マイホームを持ち、月額20万円前後の厚生年金を得ていて、貯金も数千万円ももっている。上場企業にずっと勤務していた人は、その上に月額3、40万円の企業年金をもらっている。
経営破綻した日本航空の議論の時に、企業年金の減額が大きな話になったが、厚生年金と企業年金合わせて、月額5、60万円もらっているのを、3割くらい削ってほしいと会社が言ったのに対して、定年退職者は猛反対した。「自分たちが積み立てたもので、当然の権利だ」として。
でも、これは嘘だ。今、70歳代の人が厚生年金でも、企業年金でも、自分が積み立てたものは、もらっている金額の3分の1以下である。それで、20歳代で一生懸命働いている若者の年収の倍以上の年金を受け取るのが当然と思うこと自体異常である。
筆者は企業年金で一定金額以上もらっている人に厚生年金は支払いを停止すべきだと考える。また、資産が一定以上ある人への厚生年金の支払いも不要である。
そして、今の高齢者の老後の面倒、介護、医療などは、現在、高齢者がもっている多額の個人金融資産に課税して徴収し、それを原資として、施設を作るなどして、より効率的なサービスが行えるようにすれば、高齢化社会だから、福祉の費用が爆発的に増えるという不安はなくなってくる。
高齢者は自分たちの世代で、自分たちのことは始末し、若い世代が後で支払わないといけないツケを残してはいけないと思う。そうした意味で、福祉の全面見直しなしに、単に充実を叫ぶ政党は若者にとっては、大きな負担を更に課そうとしている敵なのだということを若者は是非知ってほしいと思う。
20100702
税制改革は簡単
菅首相の消費税発言から消費税論議が始まったが、税制問題は難しい問題ではない。ずっと以前から、税収不足を解決する方法は簡単だと言われてきている。
にも、かかわらず、議論が迷走するのは基礎となる数字を前提に話し合いをしていないからである。また、いくつかの政党は消費税の増税に反対する論拠として、例えば防衛費の削減で対応できるなどという本当にトンチンカンな話をしている。
GDPの1%以下という世界でも信じられないくらい低い水準で、金額でも4兆7千億円ほどである。更に過去5、6年間、毎年減額されている防衛費を、更に削るという話は、国民をごまかしているとしか言えない話である。
こういう政党はそれでいて、日米安保や米軍の駐留に反対している。では、外国から侵略された時に、どうやって国や国民を守るというのだ。
永世中立国のスイスでは、国民は定期的に軍事訓練が義務づけられているし、行ってみればわかるが、国のいたるところに核攻撃などの備えるシェルターが備えられている。
もう1つの中立国、スウェーデンは、知る人ぞ知る、軍需産業大国で、多くの兵器を製造し、輸出している。スェーデンが考え出した近代兵器も多く、その近代兵器で軍隊が装備されていて、攻められた時の備えもしっかりしている。
防衛問題の議論はさておいて、話を税金に戻すと、税収の主要なものは3つ。1つは個人が支払う所得税、2つは企業が支払う法人税、3つは消費税である。
個人が払う所得税は現在、12兆6千億円程だが、ピーク時には2倍以上の26兆7千億円あった。企業が支払う法人税は現在6兆円で、これはピーク時には、現在の3倍の19兆円あった。消費税は9兆6千億円ほどである。
これでわかるように、企業も個人も支払う税金が大きく減ってきている。政治家や官僚の国家運営が下手だったということがあったとしても、これなら、国と地方自治体の借金が1千兆円を超えたと言われるのは当然である。
国や地方自治体に大きな借金があり、個人の金融資産がそれを上回る1400兆円と言われるくらいの金額があるということは、結果的に国とみれば、戦後の国と個人の配分が間違えていたということに他ならない。
所得税だが、日本はこれも世界に例がないくらい、最低課税所得が高く設定されている。つまり、所得税を支払わない人がとても多いということである。
こうなった理由は簡単で、かつては社会党、ここしばらくは公明党が、選挙への人気取り対策として、課税最低限の引き上げを要求していて、自民党が重要法案などを通すために、その要求を飲んできたからである。
所得が高い人には高い税率をかけるという累進課税の考え方は、税で所得の再配分をするという発想の下に行われているが、日本では、金を稼ぐことは何か罪悪であるかのような意見があり、誰かが猛烈に稼ぐと、思いっきり足を引っ張る風潮がある。
法律に違反してはいけないが、自己努力で多くの収入を稼いだことに対して、バッシングをするのは間違いである。そして、日本人として、日本で生活する以上、収入の多寡に関係なく、全員が税負担をするということがあるべき姿であると思う。
個人の所得に例外なく十%の所得税をかける。そして、所得の高い人、年収1500万円を超える人は20%、3千万円を超える人は30%というくらいに3段階での税にして、全員に所得税をかけると、所得税からの税収は30兆円位になる。
所得の低い人への対策は税制を複雑にするのではなく、福祉対策で、安く住める住宅への入居で支出削減を支援するなどの方法ですればよい。税制を複雑にするのは、財務省、国税庁などが国民にわかりにくくして、自分たちが勝手に色々なことを好き勝手にしようという思惑が見えてしまう。
法人税の減税が大きな議論になっている。確かに企業の法人税率は高い。しかし、これはきちんと税金を払っている会社の話である。こうした企業の税率を国際競争のために引き下げないといけないのは事実である。
現在、きちんと利益をあげて、税金を納めている会社にとっては、利益の半分を税金で持っていかれる感じである。これは国際競争という上で、かなり厳しい。会社には、この他に、社会保険料の会社負担が重くのしかかっている。社会保険料の負担は支払い賃金の十%を超えている。
このように、真面目に税金や社会保険料を支払っている会社がある一方で、日本では、大企業での税金を払わない企業が多く存在する。すべての法人から税金を徴収すれば、ここでも大きな税収増となる。
企業の利益(経常利益)に十~20%の税金をかける。儲けている企業は今よりも大きく減税になるので、前向きの投資がどんどんできる資金ができる。
問題は赤字企業である。赤字の中小零細企業に更に法人税をかけるのは現実的でないが、大企業は赤字でも一定金額を税金として納めることを制度化すれば、企業からの税収は大きく増える。
考え方は、大企業(売上高1千億円以上、または、従業員5百人以上の会社)は赤字でも、売上高の1%を法人税として支払うというものである。
売上高1千億円で十億円、1兆円の企業なら百億円である。赤字でこれだけの税金を払うのは大変だという意見もあると思うが、黒字の時に1年分の法人税対策積立金を無税で認め、合計で3年分まで無税扱いにするとすればよい。
日本企業の売上高経常利益率は平均で、4、5%。大企業だと、7、8%から十%あるから、黒字の決算の時に、赤字の時のための積立は難しくない。
こうした考え方をすれば、法人税収と所得税収がそれぞれ30兆円位。消費税収が9兆5千億円あるので、主要な3つの税収で70兆円ほどになり、今年度のような民主党のバラまき政策のようなことをしなければ、他の税収もあり、税収で支出を賄うというプライマリーバランスということは達成可能である。
消費税を福祉にあてるというのが何となくコンセンサスになりつつあるが、筆者はこれは筋が違うと思う。この議論は昔、福祉を多く要求する社会党に対して、福祉を増やすなら、消費税を上げないといけないということで、福祉に一定の歯止めをしたい自民党、官僚のバランスの上から出てきた話である。
だが、消費税はそうではなく、過去の国の借金の返済のために使うべきもので、借金が一定以下になったら、税率を下げ、また増えたら、消費税を上げるという発想で、国債の乱発を防ぐ意味での歯止めにするのが筋だと思う。
よく言われるように、国には借金もあるが、資産もある。7百兆円とか言われる。この一部の売却、支出の見直しをした上で、消費税を国の借金の返済のためにというようにすれば、消費税について、国民のコンセンサスができると思う。
では、福祉はどうするか。それは、今の65歳以上の高齢者が持つ個人金融資産を充てるべきである。上記のように、現在の日本は国や地方自治体に膨大な借金ができた一方で、高齢者に世界に例のない資産が積みあがっている。これは、基本的な配分を間違えたためである。
マスコミの報道では、高齢者は貧しいというイメージだが、実際は多くのお年寄りは豊かで、資産も貯金も多くもっている。これを同世代の貧しい人対策にあててもらい、新しいシステム作りの資金にしてもらうのである。
具体的には、また別の機会に詳しく書きたいと思うが、資産税という制度での徴収などが考えられる。また、介護も個々の家で、嫁や娘、息子が対応するのではなく、風光明媚で、地価が安く、過疎のガ進む地方に施設を作り、まとめて面倒をみるという抜本的な対策をするのである。
入居者は一生面倒を見てもらえる代わりに、死亡すれば、資産は国の収入になり、それで回していくというものである。その施設では、体の元気な人はできる作業をして、給料で働く人を極力減らし、全体の経費を減らすようにするのである。
この施設に入らない人には、介護保険も適用しないとする。従って、豊かで、家族に面倒をみてもらったり、特別の施設で過ごしたい人は、自分の金でどうぞという自由は残すのだ。
20100630
憲法改正は何回もするもの
戦争に負け、アメリカ軍が作った憲法を抱いて60年以上経つ。以来、憲法を改正して自主的な憲法を作り直したい人たちと、憲法は1字1句いじってはいけない神聖なるものという人たちの意見が対立して、手がつけられないままで来ている。
法学や憲法を勉強した人には常識だが、法律というものは、社会環境や常識の変化とともに、改正するのが当然のものである。5年、十年経てば、時代の変化とともに、法律が時代に合わなくなってくるのは当然である。
世界のどこの国でも、状況の変化で憲法は修正しているし、日本と同様にアメリカ・連合軍に憲法を押し付けられたドイツでは、既に50回ほど憲法は修正され、自分たちの考えの下で、法運営をやっている。アメリカでも、何回も修正されていて、アメリカのドラマの法廷ものだと、必ずと言ってよいほど、修正何条という言葉が出てくる。
日本で憲法改正が進まなかったのは、憲法を改正して自前の憲法を作りたいと考えた自民党と、押し付けられたものでも、戦争にまきこまれないようにするには、この憲法をそのままいただいた状態の方がよいとする旧社会党の間で、奇妙なバランスがとれ、社会党には、憲法改正反対の学者や評論家、マスコミがつき、身動きがとれなかったからある。
自民党内部でも、戦後、朝鮮戦争が起きた時に、当時日本を支配していてマッカーサー司令官から、日本人も戦争に行くことを強く求めたが、時の吉田首相は、憲法の戦争放棄の条項を楯に、日本人が戦争に行くことはできないと、憲法を利用した経緯もあり、何が何でも改正しようということには全体としてはならなかった。
もう1つ憲法の改正が行われなかった背景には、日本は憲法でも法律でも改正の実務をするのは官僚で、その官僚は自分たちの利害に関係する法律はさっさと改正する一方で、自分たちにとってあまり利害に関係ない法律については、修正作業が膨大になるために、腰が重かったことがある。
しかし、明らかに時代に合わなくなった憲法のおかげで、日本という国の運営は極めて、やりにくく、うまい管理ができなくなってきている。
日本では、政治の貧困が盛んに言われ、小泉元首相以降、歴代の首相が1年前後しかもたず、落ちついた政権運営ができていないことを嘆く論調がマスコミにも、一般国民にも多い。
しかし、任期4年の衆議院は解散があるので、実際は平均2年半の任期しかない。そして、その間に、参議院の選挙がある。これだけ頻繁に選挙があると、誰が首相になっても、国論を二分するような問題には、まず手をつけようとはしない。
首相が何とかしようと取り組んでも、政権与党内から選挙で不利になるなどとして、反対論が強く出て、結局与党内でも意見がまとまらなくなってします。今の消費税論議などがその典型である。
参議院は元々は貴族院の流れを汲む組織で、政党の党利党略とは離れた存在という意味で設計され、現実に、2、30年前までは、そうした雰囲気もあった。しかし、今は参議院は完全に政党色だらけの存在となり、当初、考えられていた像とはまったくかけ離れてしまっている。
こうした背景がある中で、政治家だけを攻撃をしても、それは無茶というものである。野党時代に、自民党のダメさを散々宣伝し、自分たちが政権党になったら、大きく改革をすると公言していた、民主党は、政権党になってみて、制度的に身動きがとれないことがわかってきたという始末である。
隣の韓国では、国会は一院制で、大統領は任期5年。国会議員は任期4年である。こうなれば、選挙での人気取りを気にせず、じっくり政権運営ができる。日本でも、こうした制度設計をし直すべきである。そうすれば、政治は大きく変わる。制度的に縛っておいて文句だけ言ってみても、何も変わりはしない。
憲法改正の議論をしようとすると、旧社会党やマスコミ、学者が強く反対するのは、憲法9条問題があるからである。それなら、まずは憲法9条問題はいじらないということを前提に、その他の部分の修正議論をしてはどうだろうか。
そして、何年もかけて、全体を大幅改修するという発想ではなく、簡単に直せるもの、合意ができやすいものから修正をしていくのである。環境問題、地方自治、参議院問題など、1年に1つのテーマを議論し、1年で結論を出し、毎年1つづつ修正していくのである。
国会内に常設の憲法問題委員会を作って、常時議論をし、修正案ができたら、議決していくのである。現在の憲法では、改正に厳しい縛りをつけ、改正がほとんどできないように、設計(アメリカ軍に)されてあるが、これも、衆議院で3分の2の合意ができれば、発効し、過半数で可決したが、3分の2の合意が得られない場合は国民投票をして、国民の判断を仰ぐとすればよいのである。
衆議院で3分の2の多数で憲法が改正ができると、かつての小泉首相の時や、今の民主党など政権与党が3分の2以上の議席をもったら、与党が暴走しかねないという意見もあると思うが、もし暴走すれば、その政党は次の選挙で大敗して、政党としての大きなダメージを受けることになる。
また、国民サイドも、3分の2の議席を与党にもたせると不安と感じれば、与党に過半数は与えても、勝ちすぎをセイブする大人の動きが出てくる。政治は政治家に下駄を預けるものではなく、国民が自力で監視し、政治を動かすものである。
憲法9条をまずは棚上げにすると書いたが、ここから入ると頑迷な反対派は、修正してもよい条項についても反対し、議論が進まなくなるからで、まずは、機械的にできるところはしていくということに慣れてもらうことが大切だと思うからである。
憲法9条問題の解決はまったく難しくない。既に各種の世論調査でも、7割の国民の合意はほぼできている。その内容は以下の通りである。(1)自衛隊は「国防軍」と名称を変更する。(2)「国防軍」の役割は国土(陸、海、空)の他国の侵略からの 防衛と、災害からの国民とその財産の防衛・救助とする。(3)国土の外に国防軍が出ていく時は、以下の場合に限定する。
(イ)国連、または、その機関からの要請があり、他国の 軍隊と協力して行動する場合に限定する。
(ロ)つまり、自国単独で、単独指令下での海外行動はしない。
(ハ)(イ)の場合は、国会(衆議院)で3分の2の賛成か、 または、過半数の賛成の場合は、国民投票で国民の過半 数の賛成を条件とする。
(ニ)緊急で、衆議院の過半数だけで、派兵した時は、実施後 1ヶ月以内に国民投票を義務付ける。
鳩山前首相が、アメリカからもっと独立して、自前の国というものを目指すという方向性を出した。しかし、理想だけのドンキホーテだったので、かえって、対アメリカ、対沖縄でも事態を悪くした。
戦後60年以上にわたって、実質アメリカの支配下にあり続けたのは、自分で自分の国や国民を守るという体制になっていなかったからである。
自国民が何十人と、近くの国に拉致されても、その救い出しもできないし、反撃もできない。最近では、中国の戦艦がからかって、日本の海上保安庁や自衛隊の戦艦や船に接近しても、何もできない。これでは、アメリカがわかりましたと言って、日本駐留軍を撤退するというようにはならない。
海外に攻め込んだり、攻撃するのではなく、自国の領土、領海、領空と国民、財産は守るという姿勢をしっかりすれば、海外からの目は大きく変わる。
そして、何よりも、時代に合わなくなている憲法を官僚の浅知恵で、解釈改憲で、無理な辻褄合わせをしている現状を一日も早く、止めることである。
前記の9条改正を内外に告知すれば、日本軍の脅威などという話はなくなる。
20100627
「派遣を正社員に」はおかしい
派遣社員について厳しく規制し、派遣社員の待遇を正規社員並みにしろというのが、今の日本のマスコミや評論家の論調のようであり、民主党政権は法改正も準備しているが、これはおかしいと思う。
日本で派遣社員がなぜ増えるかと言えば、最大の理由は正社員の雇用が世界でも一番と言ってよいほど、身分保証されていて、仕事をしていなくても、能力がなくても、会社の経営が悪化しても、正社員を解雇するのが極めて難しいからである。
身分を保障され首の心配がなくなると、仕事をしない人は当然、増えてくる。それではたまらないので、会社は正社員の数を絞っていつでも切ることができる派遣社員で働く人の数を調整するのだ。
派遣社員を正社員並みにするという話が出てくるなら、正社員が仕事をしていなかったり、会社の経営が悪化した時に、正社員を解雇することが今よりも簡便にできるようにするということをセットで行わないと、会社は経営がしていけなくなる。
現在の消費税論議の時に、日本共産党は「大企業減税をして、消費税をあげるのはおかしい。大企業のもっと税負担を求めろ。防衛費を削れ」という主張をしている。
これは一見、格好よく聞こえるが、日本の企業に対する税金は先進国の中では、かなり重く、国際競争に負けないようにするためには、企業減税はせざると得ない。また、防衛費や減らせ、米軍は日本、沖縄から出ていけというなら、外国から攻められた時に、どうするのだ。
鳩山前首相が「できれば国外、最低でも県外」と言って、沖縄問題を更に悪化させたのと同じ発想法である。現実にあり、交渉相手があり、利害が対立している人や国がある時に、理想論や人気取りの話をしてみても仕方がない。
日本で何か問題について議論をする時の一番の問題は、その議論全体像を見据えて議論をせずに、部分だけいじろうとして、結果的に以前よりも悪くするというやり方である。
派閥政治が悪い、だから、中選挙区はだめで、小選挙区にしろ、これはマスコミが声を大にして叫んだことである。その結果、何が起きたかと言えば、小沢一郎のように、党を仕切る人間が絶対権限を持って恐怖政治を行うようになり、批判もできなくなった。
そして、国会議員が天下国家ではなく、限られた小さな選挙区の利益代表者になるという、市町村会議員並みとなって、前よりも悪い事態となった。
官僚の天下り禁止も一緒である。天下りは若い時に、優秀な官僚が安い給料で過酷な労働をすることをしてきたことの見返りというセットで行われていたものである。天下りを禁止するなら、キャリアと言われる国会公務員の待遇を大幅改善しないと、優秀な人間は集まらない。現実に、そうなりつつある。
派遣を厳しく取り締まり、企業が派遣労働者を使うのが難しくするなら、正社員の雇用を弾力化し、景気や働く人の能力で、待遇や雇用を調整できないと、企業はやっていけない。それをするためには、強すぎる労働者の雇用保障を謳っている労働法を改正しないといけないが、この議論がほとんどされていない。
正社員の雇用を欧米のように、簡単に切ることができる社会なら、日本の企業も、派遣社員をより多く雇わないといけないことはないし、派遣社員と正社員の区別をする必要もほとんどなくなってくる。
でも、企業が派遣の待遇を改善するから、正社員の解雇を欧米並みに比較的難しくなくできるようにしてほしい、労働法を改正してほしいと言ったら、今度は正社員や労働組合が猛反対するのは必至である。
派遣社員の大変さを新聞、テレビがよくとりあげている。もっと、人間らしい生活をというトーンである。でも、大卒にしろ、高卒にしろ、中卒にせよ、卒業時点で、きちんと就職すれば、派遣でなく、正社員になれる人がほとんどで、その時に、遊びや趣味を優先して派遣社員になっておいて、待遇が悪いと、今度は待遇をよくしろというのは、勝手すぎる話である。
日本は会社も、個人も、新卒第一主義、ひとつの会社に入って、そこで定年まで迎えるのが一番幸せという考えで、戦後ずっと進んできた。良い悪いは別と、これはほとんどの日本人が知っていて、それをよしとしてきたことである。
この全体のルールを自ら破って、勝手をしておいて、一定年齢になって、正社員よりも待遇が悪かったり、派遣切りにあったりしたら、「なんとかしろ」というのは、おかしな話である。
新卒の時に間違えた、失敗した。こういう人を救済して、新卒至上主義を止めろという話が、よく評論家、学者から出てくる。でも、それは十年、20年先は別として、当分変わることはない。理由は簡単で、企業も働く個人、学生も大多数の人がそれが便利、または自分たちの考えに合っていると思っているからである。こうした状態のものは、ちょっとやそっとでは変わらない。
派遣の人の労働条件を上げるために必要なことは、更にある。それは「一般の国民が1円でも安いものを求める」という今の風潮を改め、「安いものには理由がある」と考え、極端に安いものを買うのを止めることである。
労賃が上がれば、製品単価も上がる。コストが上がったら、売値を上げないといけない。これをせずに、1円でも安いものを求める生活をしていて、派遣社員の待遇を変えろと言われても、「当社は慈善事業でないので」という反応となるだけである。
「派遣が気の毒だから、少し割高なものでも買います」。消費者がそういう行動をとるなら、企業も派遣をやめてもよいという話になるだろう。労働法改正もだめ、正社員の雇用は厳重に守れ、そして、商品は割安に、そんなことはできるわけがない。
20100623
景気が戻っても給料は増えない
まもなく参議院選挙で、景気を回復するためにどうするかというような議論がさかんに行われている。しかし、景気がよくなったら、サラリーマンの手取りの給料は増えるのかと言えば、日本全体の働く人一人当たりの手取り年収は増えることはもうないない。この前提から議論しないと話がおかしくなる。リーマンショックが起きる直前の日本の主要企業は史上最高の決算を記録した。2002年くらいから2007年くらいまでは、企業が絶好調の決算をした。しかし、日本全体の働く人一人当たりの給料は増えておらず、むしろ減っていたことがその証拠である。
アメリカのバブルに向けて凄まじい輸出をして、自動車、電機だけでなく、製薬業界なども巨額の利益を稼いだ。でも、個人は潤わなかったのだ。企業の収益向上がイコール給料のアップにならない時代になったのだということをもっと理解すべきだと思う。
日本共産党の言うように、企業の搾取がひどいので、企業のもっと利益を社員に還元させればよいのだという話はドンキホーテそのものである。そんなことをしようとすれば、日本を代表する企業はさっさと日本を見捨て海外に移転してしまう。
戦後の日本は奇跡の復興を遂げ、高度成長をしてきたので、年配世代は政府がてこ入れをしたり、企業が努力をすれば、企業の収益は蘇り、企業で働く人の給料を増えるのだという認識が体験的に常識になっている。
しかし、これは日本が世界の生産工場だった時代の話で、中国やインドなど途上国と言われた国に世界の生産工場の地位が奪われてしまった今はまったく通常しない体験なのである。(同じ品質のものを何分の1の価格で売る中国)
日本の今の不況は何なのかという認識がまず、ほとんどの人が間違っている。多くの人の理解は、リーマンショックやサブプライムローンの破綻などによる「百年に一度の不況」というものである。トンネルは長いが、努力、政府の施策などで日本企業は立ち直り、国民の生活もよくなるというのが一般的な認識である。
そも、今の不況は何なのかということの認識をしっかりしないといけない。戦後、日本が強かったのは物作りの強さからである。他の国よりも、よりよいものを安く作ることで、外国製品との競争に勝って、日本は世界第二位の経済大国になったのである。
しかし、今中国が日本が戦後やってきたことを実行して、中国が世界の生産工場になった。日本で十数万円する薄型液晶テレビと品質がほとんど差がないものが中国で生産され、アメリカで3、4万円で売っている。中国やアジアの製品に「安かろう、悪かろう」のイメージをもっていて、アジアの製品を買おうとしない日本人を除いては、世界の人が中国、韓国、アジアの製品を買い始め、日本製品は売れなくなったのである。韓国の現代自動車はアメリカでも、ヨーロッパでもよく見かけるようになった。日本を除いて。
国が豊かになると、当然、賃金は上昇する。それは労働賃金の上昇につながっていく。追いかける途上国はまだ給料が安いので、安く製品を作ることができる。それと競争しようとすれば、豊かになった国では、労賃を下げるしかない。今の日本で、非正規の労働者が増え、労働者一人あたりの賃金が安くなっている最大の理由は、給料の安い中国やアジアの国と競争しようとしているからである。
それを小泉元首相が格差を拡大した。貧困を拡大したなどとマスコミやどうしようもない評論家、学者が言うので、なんとなく定着してきているが、小泉元首相が原因で格差が拡大したのではない。
まして、民主党政権は派遣を止めさせ、正規社員並みの待遇をしろというような法律改正をしようとしているが、こんなことをすれば、会社や工場は日本を離れるだけである。そうすれば、もっと働く場がなくなり、国民は貧しくなるだけである。
アメリカは日本製造業との競争に負けた後、しばらくは日本製品の輸入規制などを行い、日本バッシングを行い、プラザ合意で円の切り上げまで強引に行ったが、それでも勝てないと悟って、別のことをし始めた。
クリントンが大統領になると、彼は「製造業では日本を初めとするアジアの国には勝てない」と割り切り、国として、ITと金融に力を入れ、ここで金を稼ぎ、その戦略で日本を叩きのめすということを決めたのである。そして、財務長官にアメリカ一番の投資銀行のトップを据え、日本叩きのシナリオを書かせて、それを実行させたのである。日本の金融機関がガタガタになり、13あった都市銀行が3行までに集約されたのはこうした背景があったのである。
中国や韓国の製造業が強くなってきた時に、日本政府、国家として何をなすべきだったかと言えば、クリントンのように、これにどう備え、どう戦うかというビジョン、戦略がないといけなかったのだが、これがなく、相変わらず、自動車、電機産業に依存してきたツケが今出てきているのだ。
一家で父親だけが働き、一家4人の生活費をメーカーの製品の生産から稼ぐのはもはや無理になってきているのである。普段の生活を考えれば、多くの人が中国製の衣料を来るなど、日本製にこだわらなくなってきている。外食チェーンの食べ物の素材の多くは中国製である。日本企業が苦しくなるのは当然である。
ではどうしたらよいか。まず、そうした現状を政府が国民にしっかり説明し、お父さんは働く人、お母さんは家事をする人という常識を捨てさせることである。お父さんだけでなく、お母さんもパートではなく正規社員としてしっかり働き、金を稼いでもらうのである。
日本の長い歴史の中で、主婦が家事に専念し、仕事をしなかったのは、ただ、戦後の高度成長時代だけで、現状の方が日本の長い歴史からも異常だったということを知るべきである。
母親がフルタイムで働くようになると、一家の全体としての収入は増える。そうすれば、消費も拡大し、それがめぐって企業の製品の購入につながるようになってくるのである。
メーカーは中国や韓国、アジアの国の安い製品との競争を控え、より付加価値がある製品の製造にシフトしていくべきである。そして、これまでのような工業製品中心の国家ではなく、もっと、別の分野に力を入れるべきである。
力を入れる先は農業、漁業、林業、介護・福祉分野である。農業、漁業に株式会社運営をもっと取り入れ、従事者が朝の9時から夕方5時で、作業が終わるようになれば、農業に戻ってくる人は多くいる。現実に農業生産法人でこれを実行して成功している例はいくつもある。使われていない農地はそこいれ中にある。農業、漁業への注力は食糧自給率のアップにつながる。間違っても、民主党政権が実施しようとしている農家助成金のような愚をしてはいけない。補助金制度は止めようと思っていた家を踏みとどまらせ、真面目に勝負し、自立しようとしている農家の足を引っ張る施策であり、愚行以外の何物でもない。
高齢化社会になるので、福祉にいくら金があっても足りない。だから、消費税を上げるという議論は一見正しく見えるが、財務省や役人の思惑や利権がちらついて見える。
まず、お年寄りは貧しい、この人たちのサポートで大変という発想が間違っている。お年寄りは貧しくないのだ。1400兆円の個人の金融資産の3分の2は65歳を超えている人が所有している。今、60歳を超えている人は普通に真面目に仕事をしてきた人であれば、中卒、高卒でも、自宅を持ち、数千万円の貯金を持ち、厚生年金で月に20万円ほどを得ているのが普通像である。
マスコミは貧しい年寄りを描くのが好きだが、それは全体からすれば、少数である。勿論、自分が努力をしてこなかった人でも、貧しい人には、支援は必要だが、少なくても、1400兆円を持っている同じ年代の人たちに負担をさせれば、国として、消費税を大幅に上げて対処しないといけないということにはならない。
一時期、議論され、最近はあまり聞かなくなったが、財産税というような税金をかけ、戦後の日本の繁栄の中で豊かになった人たちに、貯金や資産を出してもらって、同じ世代の人で貧しい人、介護が必要な人の費用を賄ってもらうのである。
ほとんど言われていないことで、今の日本に大きな財産がある。それは戦後の繁栄の中で、対外資産が膨れ上がり、220兆円もあるということである。この運用を真面目にして、適正な利子収入をあげれば、その利子収入が大きな財源となるのである。
20100727
就職超氷河期は不況が原因ではなく、学生の質が原因
最近、就職の超氷河期で女子学生が自分が合格するために、一緒に受けている他の女子学生を殺すという小説を読んだ。その中で、作者は今のような厳しい状況を作ったのは、政治家、官僚たちで、自分たちは被害者と訴えている。 これはマスコミがそう報道するから、多くの人、特に就職で苦労している学生は、そう思うようになったのかもしれないが、全くもって、事実と違う。採用を十年以上やっている担当者として言えば、「不況だから就職でないのではない、企業が採りたい学生が本当にいない」のである。
(日本が経済大国になったには誰のおかげか)
まず、マスコミが報道したり、今の民主党政権の議員がよくいう「自民党政権時代に、自民党の政治家や官僚が好き勝手や、間違いを多くしたので、今のどうしようもない日本ができあがり、多くの日本人が苦労している」という発想、認識は間違いである。 戦後、日本が奇跡の復興をしたのは、戦後の日本の政治家、官僚が頑張り、適切な行動をとってきたからである。政治で言えば、マスコミや東大の学長など多くの学者が、共産圏の国家まで含めた全世界の国との講和を求めて、全面講和を主張したのに対して、吉田、岸という首相は、「米ソが冷戦で対決している中で、全面講和は絵空事」と断じて、自由陣営との講和に踏み切って、米軍占領を脱出して、敗戦から独立国となった。 戦争に負けた日本が占領状態から独立する時に、米軍は沖縄を返さなかった。沖縄を除いての独立だった。その後、佐藤首相など日本の政府が粘り強く交渉して、沖縄を返還させた。戦争で負けた領土は、平和裏の交渉では返らないという常識を覆しての返還である。今、沖縄では基地問題で反発が強いが、佐藤首相たちの粘りがなければ、占領下で、文句も言えなかったのである。 貧しい日本を一日も早く脱出しようと、十年間で国民の所得を倍にするというスローガンを打ち出し、自ら、外国に行って、「トランジスターのセールスマン」とバカにされながら、日本製品の売り込みをして、所得倍増計画をその通り実現した池田首相など、もっと歴史で教えないといけない。
(戦後の繁栄の再現は無理)
今の日本が苦しんでいるのは、戦後、50年以上繁栄し、経済的には、世界のどこよりも繁栄を謳歌してきた日本の経済モデルが時代に合わなくなってきたからである。一流と言われてきた経済が、三流に転落したのである。つまり、政治や官僚ではなく、企業経営者と国民が間違えたのである。 そして、50年以上にわたって、繁栄を謳歌してきて、平和ボケした国民は、「なぜ、あの繁栄がなくなったのだ」として、政治家や官僚を批判しているのである。「あの繁栄が異常だったのであり、あの繁栄は二度と来ない」という認識から、日本を変える努力しないといけないのは、国民自身なのである。 戦後の日本が成功したのは、日本人の勤勉さと、工夫する努力を生かし、政治家、官僚が日本を世界の生産工場にして、日本で作った製品を世界に供給するというモデルを作りあげたことにある。でも、それは日本人が真面目で、器用で、低賃金だったからできたことである。今、中国がそれにとって代わっている。賃金が日本の10分の1の国と競争して勝てる訳がないのだ。
(えり好みをする学生)
学生の就職の話に戻すと、何回も言っているが、不況で就職難だから、学生の職がないのではない。企業が欲しい学生が本当に圧倒的に少ないのだ。だから、数少ない欲しい人材には何社もが内定を出して争奪戦になるのに対して、どうしようもない学生は1社も内定が取れないのだ。 今の大学生の親の世代は、特に母親の大学進学率は1割位だった。だから、大学に進学することはイコール、大企業に就職できるという認識が親にある。しかし、今の時代は5割の人が大学に行く。いくら、子供の数が減っても、就職希望者は今の大学生の親の世代よりも圧倒的に多いのだということを知らないといけない。 本来の意味である、大卒の仕事、世間でいう総合職の仕事は仕事の1割位のもので、大学を出ても、体を使っての仕事をしてもよいという認識さえすれば、就職口はいくらでもある。それを自分は大学に行ったのだから、大企業でないとだめ、オフィスでの仕事でないとだめというようなことを言うから仕事がないのだ。 冒頭に書いた小説でも、なかなか就職できない主人公の女子学生を心配して親など周囲が、知人からの話をもってくるシーンが書かれている。しかし、主人公の女子学生は「東京以外に本社がある会社は嫌」「小さな会社は嫌」とそれらの話を当然のように蹴っている。
(いない自分の頭で考え、チャレンジするタイプ)
学生の数が減り、団塊の世代の大量定年で本来は企業は学生の争奪戦になって当たり前なのである。しかし、採用面接で学生と接すると、採用したくないという学生が圧倒的である。 企業が欲しい人材は、自分の頭で考え、状況変化に機敏に対応でき、チャレンジする人である。でも、今、こういう学生は本当に少ない。大学が東大、京大、早稲田、慶應の学生でも、こうした学生を見つけるのは至難の業である。 子供の時から、親や教師、塾の講師に言われて、その通り実行し、高校、大学とよい学校に入れた。でも、自分で考え、行動しろと言われると、自分が何もないので、どうしてよいかわからずに、まごまごしてしまう。だから、入社しても、ウツになる人が多い。 また、今のグローバル時代には、世界で通用する人材でないといけないが、学生と話をしていると、本当に内向きで、世界の他の企業の社員と競争しないといけないという発想がない。だから、楽天、ユニクロその他、多くの会社で、新規採用の7割は外国人にするというような話が出てくるのだ。
(ほとんどの学生が就職できているという事実)
まず事実認識から言えば、7月1日現在の4年生大学生の就職内定率は日経ディスコによれば、68.7%で、決して悪くない。大学生の2割の人は好不況に関係なく就職しない。つまり、就職希望者は8割である。7月1日現在、内定が取れていない人は1割しかいないということである。 マスコミが超氷河期と煽るので、必要以上に学生が危機感を持ち、あせっている。しかし、実態は、就職できない人の多くは、えり好みをしている人、なぜ自分が内定が出ないか理解し、発想の切り替えができない人である。これができれば、就職口などいくらでもある。
20100726
相撲協会利権を狙う、警察・検察官僚
(歴史的な大記録もほとんど無視)
大相撲は白鵬の3場所連続全勝優勝、全勝優勝7回という記録を残して終わった。ただ、場所前、場所中、場所が終わってからも、ずっと、野球賭博がらみの報道が中心で、白鵬の記録など霞んでしまった。 3場所連続の全勝優勝は近代相撲では初めてのことだし、全勝優勝7回というのは、戦前に活躍した伝説の大横綱である双葉山の8回に次ぐ、2位タイの記録で、大鵬や千代の富士に並ぶ大記録である。本来なら、大きく報道されて当然の内容だが、新聞、テレビは小さな扱いである。 ところで、力士の野球賭博問題とは何なのか。
(マスコミの煽りと暴走)
きっかけは週刊新潮の報道である。その内容は、琴光喜が野球賭博をして、勝った金を受け取ろうと請求したら、仲介役の元力士から、逆に「大関が野球賭博をしていることを知られたら大変だろう」と恐喝され、数百万円単位の金を脅し取られ、更に、1億円からの金を恐喝されていると報道したことが発端だ。 この報道をきっかけに、新聞、テレビ、雑誌が「国技の相撲取が賭博をやるのはけしからん」というトーンでの報道が始まり、お定まりのコースで、新聞社、テレビ局、通信社の特ダネ合戦のなり、マスコミの暴走、人民裁判が始まった。 そして、野球だけでなく、力士が仲間内で花札をしていたことや、後援者やファンとの会合で会食をした時に、食事をともにした十数人に会食参加者に暴力団関係者がいたことや、暴力団関係者が役員をしている会社から、地方場所の部屋用のスペースを借りたということまでもがバッシングの対象になった。 マスコミの報道を冷静に見ると、力士が賭博をしていることがけしからん。神聖な国技を伝承する人間がそんなことをしてよいのかという、訳のわからない魔女狩り的なトーンでの報道が目立つ。
(賭博、賭け事をするのは日常的)
まず、日本人のほとんどの人が賭博をしている。宝くじも賭博だし、競輪、競馬、競艇も賭博である。ゴルフをする人のほとんどが、一緒にコースを回る人と金額の多寡は別として、賭けをして、終了後、現金の授受をしている。会社などで、高校野球が始まると、優勝チームを争うトトカルチョをしている例は珍しくない。 パチンコも立派な賭博である。パチンコ業界の年間売上高は自動車業界を上回り、日本での最大産業である。ウイークデーの朝にパチンコ店の前を通ると、開店を待って、若い人や中年者などの男女が何人も行列を作っている状態である。 それだけ、国民の中に賭博が日常化しているなかで、なぜ、今回、相撲だけがこれだけ大騒ぎになっているのだろうか、冷静に考えてみないといけない。
(相撲は神事か?)
まず、相撲の今回の問題を議論する時に、マスコミやそれに出て来る人が二言目に言うのが、「相撲は伝統国技」「相撲は神事」という言葉である。本当に多くの日本人がそう思っているのだろうか。 それだったら、テレビの視聴率が高くてもよいはずだし、力士のなり手に日本人の若者が多くいてよいはずである。朝青竜の暴行問題の時も、同じ議論があったが、それまで相撲にほとんど関心がなかった人までもが、「伝統の国技」というようなことを言いだした。 原因はどうしてか。マスコミがそう報道するからである。多くの国民は色々なことの実態を知らない。だから、マスコミの報道に大きく影響される。それだけにマスコミの報道は慎重にならないといけないし、対立する両方の意見を紹介しないといけないのだが、今のマスコミはそういうようになっていない。
(国民が実態を知らない暴力団)
暴力団というと、ほとんどの国民は会ったこともないので、ただ、パンチパーマで、黒いスーツやサングラスのイメージで、怖い人たち、悪い人たちという印象である。だが、前にも書いたが、日本の上場企業の内、百社位が何らかの関係で、暴力団の影響下にある。そして、多くの暴力団幹部は、会ってみると、普通の人と区別はつかない。 かつて、警察は、名称は、暴力団だろうが、やくざだろうが、的屋だろうが、そうした人たちと、つかず離れずの関係を作ってきた。世の中には人がやりたがらない仕事はあるし、どうしようもない人を野放しにするよりは、そういう集団で管理してもらう方が社会全体としては、問題が起きないと考えたのだ。 だから、事件などが起きると、やくざ、暴力団の世界に流れる情報が貴重で、警察官がそれを得て、犯人逮捕などということがいくらでもあった。住み分けがあったのだ。やくざはやくざで、「素人の人には迷惑をかけてはいけない」と仲間内を厳しく取り締まったりした。
(リークの怖さ)
ところが、今から20年位前から、天下り先を拡大し、勢力を大きくしようとしていた警察組織が、やくざを暴力団として排除することを決め、その分野での利権獲得に乗り出し、やくざの締め出しを図った。そこで、両者の凄まじい争いが始まったのだ。 こうした流れで、今回の相撲界の野球賭博報道を見ていると、筆者はその裏に警察官僚の思惑を感じざるを得ない。 賭博罪での逮捕、検挙は原則、現行犯である。そういう意味では、力士の相撲賭博での立件は難しい。そこで、マスコミにリークして、原稿を書かせた。それで騒ぎを大きくさせ、少し鎮静化してきたら、第二弾で千代大海の話を更にリークした。 筆者も記者経験者なので、そうした体験が何回もあるが、一生懸命取材をして、他社が知らない特ダネをとり、報道をして誇らしげにしていたら、その報道は実は政治家、官僚、経営者が世間の動向、反応を見るためのリークで、結果的に利用されたということである。今回の週刊新潮はその感がする。
(理事長は警察・検察官僚の天下り先に?)
断っておくが、筆者は賭け事が好きではない。競輪、競馬、競艇はしたことがないし、宝くじも買わない。パチンコもしない。胴元が国であるか、会社であるかは別として、宝くじなどは売り上げの55%を国がとってしまっている。詐欺以外の何ものでもないと思っている。競輪、競馬でトータルとして、金を儲けたという人も聞いたことがない。 また、仕事でやくざ、暴力団の人を取材したことは何回もある。どうしようもなく、困った時に、頼まないといけないことは生涯に1回くらいあるかもしれないが、できることなら、付き合いたくない人たちである。 ただ、今回の大相撲の野球賭博騒動を見ていると、結果として、検察幹部OBが理事長代行になり、今の流れで行くと、理事長にスライドしそうな雰囲気である。そうなると、相撲協会の理事長ポストは警察、検察官僚の天下り先になってしまうのではないか。長年の官僚取材の体験から、そんなことを感じる。
(相撲は興業)
筆者は相撲は別に好きでも嫌いでもない。ただ、神事だとか言われると、言っている人を信用できない。戦後、相撲協会はつぶれそうになった。国民がもう過去のものと考えたからだ。それを救ったのは、NHKのテレビ中継である。そして、栃錦、若乃花(先代)、大鵬、柏戸などの人気者が出て、盛り返した。そして、若乃花、貴乃花などが出たし、朝青竜が出て、今日の状態になったのだ。 基本は格闘技であり、興業である。そして、引退して親方になれれば、生涯賃金は、他のプロスポーツとひけをとらない位の金額を稼げるスポーツである。だから、外国人が多く出稼ぎに来るのだし、行儀がよくなかったが、朝青竜が人気があったのだ。 今のように、これを機会に、もっと倫理的になれ、道徳的になれというようなことを力士に言い続け、バッシングを続けていると、結果として、相撲は面白くなくなり、誰も相撲を見なくなってしまう。そうすれば、折角、利権を手に入れかかっている警察、検察官僚にも損である。 もうそろそろ、今回の騒動に幕引きの時だと思う。警察、検察の幹部がそう判断して、騒ぎを終息方向にもっていくことは近いと思う。その時に、今、魔女狩りをしているマスコミは、今度は警察の無力ぶりを叩くのであろうか。
20100724
子供手当ては少子化対策に本当に有効か
(フランスは家族手当で子供が増えたのではない)
民主党政権の公約の目玉の1つが少子化対策で子供に手当を出すことだ。厚生労働省はこれと、母親だけでなく父親も育児休暇をとることが少子化対策の重要なカギとして、父親の育児休業をとるように推進している。 子供手当、育児手当、児童手当、家族手当、名称は何でもよいが、こうした手当てを国や地方自治体が出すことが当然で、世界の流れだと民主党の議員は言う。 しかし、本当に世界の流れで、本当に決めてとなる対策になるのだろうか。今の日本は世界の主要な国の中で、一番財政状態が悪いことは周知の事実である。金に余裕があるなら、ばらまきもよいが、そうでないなら、費用対効果でもっと有効なことを実行すべきだと筆者は考える。 よく例として、フランスが家族手当をだすなど積極的に少子化対策を実行したので、出生率が増えたという。しかし、同じような対策をとっているドイツでは、家族手当などの少子化対策で、出生率は上がっていない。 フランスがとった対策は色々あるが、専門家が一番効果があったと考えているのが、税金対策である。これは、出産可能年齢の男女が一緒に生活をすると、どちらか一方の税金が半分になるという制度である。 税金が半分になるというのは大きい。それなら、一緒に生活しようということになる。男女が一緒に生活するのだから、嫌いな人間同士はない。同じ屋根の下に男女が一緒に生活すれば、赤ん坊はできる確率は高い。 フランスでは生まれる赤ん坊のおよそ半分が結婚をしていない男女の間で生まれている。フランスの次期大統領の有力候補のロワイヤル女史は同じ政党の幹部との間で、2人の子供を生んでいるが、結婚はしていない。
(法律も事情も異なる日本)
ただ、これだけを日本で導入しても、フランスと同じ効果が出ないだろう。フランスでは、結婚をした男女の間でできた子供と結婚をしない男女の間でできた子供という差がなく、どちらも同じ扱いである。しかし、日本では嗣子と庶子という法律的にも、財産相続上でも、大きな差が明確に存在する。 この法律や制度を変えないと、税金を半分にしても、子供は増えないだろうし、万一、増えたら、差別される子供が可哀想である。 民主党のように、家族手当や子供手当の支給に熱心な人はテレビなどに出て、よく、「それは世界の常識です。世界基準です」とよく言う。でも、こういう人が今度は金融や会社経営などで、グローバリゼーションの話が出て来ると、「なぜ、アメリカに追随しないといけないのか。日本には日本に合ったやり方があるでしょう」とよく言う。 つまり、自分に都合がよい時は外国にまねろと言い、都合が悪くなると、日本式にしろと言うのだ。筆者はこうしたダブルスタンダ-ドを使う人は、人間として信用ができないと思う。 逆に、経済や企業経営は否応なく、急速に世界統一基準に進んでいっている。そうしない会社は世界競争に取り残されるからである。楽天だけでなく、日本を代表する大企業が採用の7割、3分の2を外国人にするという方針を打ち出しているのも、まさに世界統一化に合わせるためである。 一方で、家族問題は少子化や家族の話は国よって、考え方、習慣、文化が違うので、すぐに世界統一基準とはいかない。こちらは逆に国の個性、習慣をじっくり見た上で、対策をとることが必要である。
(少子化は悪くない)
まず、そも、少子化がいけないことかという議論からしないといけない。少子化が問題となっている最大の理由は、若者が払った年金拠出金を年寄りが年金として受け取っているので、若者が少なくなると、年金制度が崩壊するということである。しかし、これは、アメリカの401Kのように、自分が積み立てた年金の金は自分が受け取るという形に直せば、若者が減るということの最大の問題点はなくなる。 そもそも、今の70歳代、80歳代の人は、自分で年金用として、積み立てた総額の何倍もの金を年金としてもらっている。そして、その65歳を越える年寄りが1400兆円の個人金融資産の3分の2を持っている。老人は貧しいというのはマスコミが作った神話で年寄りの平均像は豊かなのである。 豊かな個人金融資産、そして、年金支払いのために積み立ててある百兆円を越える資金を使って、年金を自己積み立て分をもらうというように制度改革を実施することは不可能ではない。こうすれば、年金問題、少子化問題の重大さが小さくなってくる。 年金問題を取り除くと、少子化対策にそんなに釈迦力になる必要はなくなってくる。先進国はどこでも、少子化である。豊かになり、女性も生活力がもて、自由も楽しみも知った若者は、結婚して多くの子供を持とうという意欲が減ってくるのは、日本だけでなく政界のトレンドである。 江戸時代の日本の人口は3千万人で、経済は自給自足で、当時、日本は世界一と言われる豊かさだった。女性の識字率も世界一だった。明治維新後でも、昭和の時代、戦争に突入するまで、日本人の人口は6千万人だった。それで、国際連盟の常任理事国で、世界トップクラスの大国だったのである。
(世界の主要国は人口は日本の半分位)
少子化を恐れるもう1つの理由は、少子化になると、自動車や家電業界がものが売れなくなり、経済が大変だという危機意識をもっていることがある。 しかし、ここでも過去はともかく、今の日本は、自動車でも家電でも世界をリードする立場からずり落ち始めている。世界の鉄鋼の生産の半分は中国が作り、造船でも世界の6割を中国が作る時代である。自動車や家電業界も、中国やインド、韓国に海外では市場を奪われているし、日本国内でも市場を奪われる時代が来てもおかしくない。 人口3百万人のニュージーランドや5百万人のスウェーデンは極端としても、隣の韓国も、ドイツも、フランスも、イギリスも日本の半分位の人口しかない。別に人口が半分になっても、国が沈没する訳ではない。
(女性と赤ん坊に一番やさしいのは雇用差別禁止法)
「仕事と育児が両立できないから、子供は産まない」という人はいないことはない。しかし、少数派である。それでも、対策が必要だとするなら、兆単位の金をばらまいての子供手当、家族手当ではなく、もっとやることがあるように思う。 一番、簡単で、国が金を使わずに、効果をあげる方法がある。それは、アメリカが実施しているように、「雇用差別を禁止する法律」を作ることである。 これができると、人種、年齢、性別、学歴、結婚の有無、子供の有無に関係なく、企業は能力で人を雇わないといけなくなる。この最大のメリットは、子供ができた時に、母親が務めを辞めて、育児に専念できることである。赤ん坊は0歳から2歳位までの間に脳の基本ができると言われており、その時期に母親が常時そばにいることは子供にとっても、重要なことなのである。 今、出産しても、会社を辞められない最大の理由は、一度辞めると、再就職先がないことである。でも、雇用差別を禁止する法律ができれば、3年、5年育児に専念していた女性が仕事を再開したいと言った時、男性や、独身の女性と能力で比べて、優秀であれば、雇わないといけなくなる。 一度、会社を辞めても、また、能力があれば、仕事ができるのであれば、自分のスキルを磨きたいために、学校に行き直すこともできるし、育児でも、それこそ、男性でも、育児休業ではなく、会社を一度辞めて、再就職もできるようになる。 女性の地位の向上を真剣に考え、行動している人の間では、この雇用差別を禁止する法律の制定が一番効果があるということは認識されている。でも、そうした動きにならない。理由は簡単で、日本の女性問題を担当している厚生労働省の担当者は、問題なく育児休業がとれ、10分休んで復帰しても不利ではなく、民間企業の女性社員がなぜ、育児休業をとれないか理解できないからである。
20100722
政治が二流なら、国民も二流
(「日本の政治家は先進国の平均値」)
大分前の話だが、当時人気があった番組、久米宏が司会をしていた「ニュースステーション」で、日本の政治の話を色々したことがある。 ある日のゲストは、ハーバード大学のジェラルド・カーチス教授だった。久米宏が「日本の政治家は本当に問題で、『経済一流、政治二流』ですね」と言った時、カーチス教授は「政治が二流なら国民も二流です。政治家は国民を映す鏡です」と発言した。 そして、カーチス教授は続けて、次のように述べた。「欧米各国の政治家を見て、色々分析もしているが、先進国の中で、日本の政治家が他国に比べて劣っているとは思わない。より抜きんでているとは思わないが、平均点はとれていると思う」
カーチス教授は「代議士誕生」という本まで書き、日本で政治家がいかに国会議員になっていくかという過程を克明に密着取材したことで知られる、日本の政治事情に詳しい教授である。
(マスコミが作った「政治は二流」という言葉)
日本では、ずっと、「経済一流、政治二流」と言われ、続けてきた。そして、大臣が一年くらいで交代するのに行政が問題なく運営されるのは、東大卒の優秀な官僚がいるからで、大臣不在でも行政は問題なく回るのだと言われてきた。 本当にそうだろうか。長年、官僚、政治家、経営者を記者として取材してきた者として、政治家が官僚や経営者に比べて劣るとは全く思わない。官僚が日本を食い物にしてきたことは、今は周知の事実である。経済も苦悩している。その一方で、優秀でバランス感覚を持っていたり、日本の現状、将来を憂慮している政治家は多くいる。 では、なぜ、そうした言葉が定着し、信じられているのであろうか。筆者は最大の犯人はマスコミにあると思う。 日本の新聞は、江戸時代の瓦版の流れを汲んでいる。瓦版は真実も書いたが、かなりいい加減なことを書いていたし、誰かに依頼されて、人を攻撃したり陥れたりする記事も多く書いた。 明治時代になると、瓦版を前身とする新聞は、維新で権力の座に着く抗争で敗れた人間が、自分が敗れた相手を攻撃するためのものとして、誕生していった。そうした経緯もあるので、新聞は常に時の政権を攻撃した。 政権批判はそれが、是々非々で行われるなら問題はなく、逆に権力者のチェックという意味で、重要な役割を果たす。しかし、日本の新聞は政府を攻撃し、もてあました政府が甘い懐柔策を示すと、簡単にそれに乗り、尾を振って、権力の座についていくということをしたのだ。
(下請けの人が作るテレビ)
こうしたことを見ると、日本の新聞はいかにいい加減であったかがわかる。だから、太平洋戦争に突入する時も、突入した後も、朝日新聞がその代表であるように、新聞は権力に媚び、過激に国民をあじって、国民に多大の迷惑をかけた。 戦後になってテレビが登場するが、日本ではテレビ局は役所の組織の一部がテレビ局化したNHKは別として、それ以外の局は、新聞社が新しい利権として、その権利を買い、設立した。 そのテレビは映像の強さで国民の人気を集めていくが、高給を得ている正社員は仕事をせず、下請け会社の人や契約で働く人が、異常に安い報酬で出来高ベースで仕事をしている。このために、異常なあおり方で報道し、視聴率さえとれれば勝ちという価値観の中にあるので、放送内容がよりいびつになってきている。 日本の地上波のテレビ局が流す番組は、先進国の中で一番レベルがひどいと、世界のメディアの関係者が言うくらいお粗末な内容になっているのは、そうした体質から来るのである。
(政治家にたかる有権者)
政治家の生活について述べると、マスコミはすぐ、政治と金という話を書き、政治家を攻撃する。政治家には今の小沢一郎のように、蓄財のために政治家をしていると言われても仕方がないような人もいるが、多くはそうではない。 日本ではとにかく、政治に金がかかりすぎるのだ。その最大の理由は有権者である。有権者は政治家、国会議員でも、県会、市会議員でも、とにかく、自分が投票した人の、交通事故のもみ消し、就職の斡旋、利権の口聞きなどを求めて来る。 天下国家を論じようにも、有権者がそれを許さないのだ。国会議員は結婚式など冠婚葬祭に出席することは当たり前というのが今の日本社会で、政治家は時間と金を有権者に大きく奪われているのである。
(大問題な小選挙区制度はマスコミが推進)
中選挙区時代には、一定の票をとれば、ライバルがいても当選できたので、まだ、対応のしようがあったが、今の小選挙区制度では、勝つか負けるかしかない。大都市を除いて、勝つのは1人だけなので、どんな無理なことを求める有権者の票も重要になってくる。 国会議員を県会議員、市会議員なみの活動をしないといけないようにした小選挙区制度はどうして成立したか。マスコミが小選挙区制度になれば、政治が大きくよくなると、大宣伝して成立したのである。 そして、小選挙区制度のマイナス点が指摘されるようになってくると、マスコミやそこに登場する知識人と称する評論家、大学教授、弁護士などは、またぞろ、選挙制度の改革を言いだしたり、政治家がお粗末だということに理由を見出そうとしている。
(政治家を育てる方法)
国を思い、国ための働く政治家をもっと増やすにはどうしたらよいか。方法はいくつかある。1つは、現在、1年か1年半に1回というように、頻繁に国政選挙をするというバカげた制度を変えることである。 参議院を廃止するか、残すなら各業界、団体の代表者で構成し、国民の選挙ではなくすれば、国政選挙は衆議院だけになる。そして、任期4年にもかかわらず、これまで2年半に1回行われてきた選挙を、解散をなくし、任期通り、4年ごとの選挙とするのである。こうすれば、政治家は政治に集中することができる。これだけで、政治は大きく変わる。 そして、選挙は中選挙区制度に戻すことである。中選挙区制度の問題点として散々マスコミが書いてきたのは派閥である。同じ選挙区から同じ党の候補者が立候補して当選するので、派閥が生まれる。その派閥はけしからんとマスコミがずっと書いてきた。 しかし、派閥はよい面もあった。先輩が後輩を指導し育てた。派閥の中で人望がないと、リーダーにはなれず、リーダー学を学ぶ場でもあった。派閥ごとの勉強会も頻繁に行われ、政治家が国政の課題、対策を勉強することができた。 小選挙区制度にしたことの最大の問題点は、党の幹事長が権力と資金を握り、小沢一郎のような独裁者を生む構造を作ってしまったことである。海外でも小選挙区制度になると、多種多様な民意を反映しないとして、二大政党以外の小政党、つまり右か左かではなく、それ以外の声がいかに大切かということが論じられるようになってきた。 現在の小選挙区制度は、反対派を説得するために、比例代表という訳のわからない制度を併用したので、個人の得票が1万あまりで当選する人がいる一方で、40万票とっても、落選するという人が出るなど、いびつになっている。中選挙区に戻せばばかげた比例制度などなくなる。 政治家の手足を縛り、自由に活動できなくし、かつ、常に批判だけをし、まったく建設的ではないマスコミ対応に消耗している政治家を叩いてばかりいても、何も生れはしない。
20100721
迷惑防止法の成立で多くの迷惑事案が解決
自分の家に大量のごみを貯め込んでいて、周辺の住民に悪臭などの被害を与えている人がよく報道される。また、同じような話で、自宅の多くの犬猫を飼って、悪臭や鳴き声で迷惑をかけている人がいる。また、カラスや野良犬、野良猫に餌をやり、多くのカラスや犬猫を集めて、近所に被害を与えている人がいる。
こうした人の話は、映像になることもあって、懲りない位にテレビで頻繁に取り上げられている。しかし、テレビは散々取り上げるが、面白がっているだけで、それを根本的に解決しようという発想がない。だから、付け足しのように、その地区の市役所や区役所の担当者に、「注意、指導はしているのですが、言うことを聞いてくれないのです」という話を放送している。
こうした事案は、別にどこかの町だけに起きているのではなく、今は日本全国で起きている。それでいて、行政はごく一部の市や町が条例を作って取り締まろうとしているだけでは、ほとんどの行政は何もしようとしていない。「指導はしているのですが」とか、「注意はしているのですが」というのは、何もしていないということを言っているのと同じである。
この問題の解決は非常に簡単である。迷惑防止法を作ればよいだけである。原因がゴミでも、ペットでも、カラスの餌やりでも何でもよい。周辺の多くの人に被害を与える行為を禁止し、違反者は逮捕され、刑務所に行かないといけないという法律を作ればよいのである。
では、なぜ、こんな簡単なことができないのか。そういう問いかけでよく出てくるのは、個人の自由を束縛する法律には賛成できないという人権派弁護士など法律関係者の意見である。しかし、多くの人が迷惑を被っていることを放置する方がよほど、「非人権派」である。
また、よく出る議論で、違反の一律の基準を作るのは難しいという話である。これもまったく対策が難しくない。迷惑というのは主観的な問題である。迷惑を受けたと多くの人が感じれば、それは迷惑なのだという法律を作り、その基準はその市や町から無作為に選ばれた住民に、それこそ裁判員になってもらい、現地をみてもらい、それが迷惑にあたるかどうか判断してもらうのである。
市や町の条例では弱く、強制力があまりないことを違反者は知っているので、タカをくくって、直そうとはしない。しかし、これが法律となって、違反者は罰金刑だけでなく、禁固や懲役刑があるとなれば、ほとんどの人は違反行為は止める。
迷惑行為をする人の多くが、そうした行為をすることで他人に振り返ってほしいとか、自分の存在を認めてほしいという甘ったれの感情から出ていると、学者は分析する。でも、厳しい処罰があれば、甘えなど消えてしまう。
住民から選ばれた代表が判断するというよいなことを言うと一番、反対するのは、東大出の官僚である。彼らは、法律、ルールは自分が作るものであって、その権利を誰かに渡したくないと思っているし、基準も自分たちが作るのが当然だと思っている。
でも、アメリカの裁判では、選ばれた陪審員の判断で、賠償額が天文学的なったり、無罪になったりする。陪審員同士の議論はあっても、統一ルールや基準がある訳ではない。また、アメリカには悪質なケースには「懲罰的な賠償」を課すという発想があって、賠償額も非常に大きなものになる。アメリカ人ができることを日本人ができない訳がない。
迷惑防止法が策定できない最大の理由は何か。筆者は理由は2つであると考える。1つは、役所側にとって、特に中央官庁の役人にとって、何のメリットもないからである。
役人というのは、自分の利害に関係ある法律は本当に早く作る。しかし、自分に何の得にもならない法律は、それで国民がどれだけ困っていても、動こうとはしない。
筆者はずっと言い続けているが、外国でもあるような、「不作為の罪」を日本でもきちんと作り、責任ある立場にある役人、政治家が正当な理由なく、その行動をとらなかった場合、刑務所に入るという法律を作るべきと考える。
それをどこまで適用し、どうなったら有罪で、どこまでは無罪かは、裁判で決めればよいのである。少なくても、権力ある人が何もしないことは罪だという概念を法律に取り入れることが重要なのである。
迷惑防止法のような法律が成立しない2つ目の理由は、国民、住民が法律、憲法で認められた様々な手段を講じて政治家を動かす行動をとらないことである。
例えば、県知事、市長が多くの住民の考えと違う行動をとった時に、リコール請求活動をすれば、それが成功するかどうかは別として、知事や市長は慌てて、対策をとろうとする。でも、こうした行動をほとんどの日本人はとらない。
国民や住民がそうしたことで立ち上がれば、役人や政治家に緊張感が出てくる。そうしたら、もっと住民の方に顔を向けた行動に出るようになる。
役人や政治家をあがめ、文句を言おうとしない国民が政治や行政をだめにしているのである。「誰が国会議員になっても一緒」というようなことを言う人は、自分がもっている権限の強さを知らないだけのことである。
20100719
簡単な公務員制度改革…身分から職業に
(根本思想がない改革は成功しない)
公務員制度改革は自民党も民主党も掲げながら、一向に進まない。特に民主党は「官=行政の徹底的な無駄の排除」を訴え、大衆受けする「事業見直し」までやっているが、公務員制度改革は自民党時代よりも大きく後退している。 ずっと書いているように労組が支持母体の民主党に公務員制度改革は無理だと思う。参議院議員選挙で、一定の支持を獲得した「みんなの党」に期待がかかるが、数の削減だけ言っていて、どこをどうという思想がない。これでは公務員制度改革はできない。 公務員制度改革は難しいとよく言うが、それは嘘である。これまでの改革がうまくいかなかったのは、本質をついたものがなく、数合わせ、僅かな数の削減というようなことで終わってきたからである。 公務員制度を改革しようとする時に、根本の思想が大切である。それは公務員を「身分」から「職業」に転換させることである。「公務員が身分?」と驚く人がいると思うが、身分なのである。
(法律で守られている身分)
身分を守っているものが2つある。1つは法律で身分が保証されていて、殺人事件や大きな横領でもしない限り、首にはならないということである。普通の会社なら、成績があがらないと、事実上解雇とか、会社を辞めないといけないことはいくらでもあるが、公務員にはこれがない。 だから、どんなに無能でも、ひどい行政をしても首にならないのだ。この身分保証はどこから来ると言えば、2つある。1つは歴史的に、日本の官僚は政治家よりも身分が上で、給料も権限も多かったということである。 江戸時代の老中、若年寄、勘定奉行などの幕府の要職は官僚である。徳川家康、秀忠の親子は、幕府の要職には、徳川譜代の重臣を据え、石高はそれほど大きくないが、権限を与え、政治を行わせた。自分よりも遥かに石高の高い大大名が異論を言っても、通らず、官僚である幕府の要職にいる人間の方が強く、国を管理していたのである。 ところが、平和な時代が続き、譜代の重臣たちやその子供たちが戦さなどでの試練、切磋琢磨や能力の見極めがなくなってくると、その家に生まれた者は親の要職と同じような重職を継ぐようになり、幕府はどんどん無能化していったのである。 明治維新後の政府では、大久保や西郷、伊藤博文、山県有朋などは下級武士の出身で、庶民の生活や苦しみを知っていた。その人が政府の要人になり、天皇と協議をして、政治を行っていったので、大きな改革ができた。 これら維新の重臣たちは自分たちの後継者作りを考え、現在の東大などを作った。つまり、政府の中心官僚の育成学校として、帝大ができたのである。ところが、ここの入ってくるのが、どうしても、親が身分の高い人ということになり、身分が固定していった。 育ちがよく、苦労をしないで育ち、かつ、大きな試練もあまり体験しないこれらの後継者は、庶民感覚からどんどん離れていき、混乱していった。それに不満を持つ、貧しい家の出身者も多くいる軍部との間での対立が大きくなり、ついには、無能が政府がコントロールできずに、軍部官僚が暴走し、破滅の戦争へと突入していったのである。
(スト権がないことの代償の大きさ)
こうした流れを脈々を受け継いでいる日本の戦後の官僚たちは、戦後になっても、身分は政治家よりも上だった。吉田内閣で、佐藤、池田という官僚の局長、次官クラスが政治家になることを吉田に要請された時に、「身分も給料も下がる」と言ったのは有名な話である。 この流れを助長したのが、戦後、政府が公務員のスト権をなくしたことである。公務員からスト権をとりあげる見返りが身分の保証であった。スト権がない代わり、給料は毎年見直して上げていく、犯罪でも犯さない限り解雇されないということになったのである。 日本の公務員からスト権を取り上げたのは、戦後、公務員の組合の力が強く、かつ、社会党、共産党の強力な地盤で、スト権を与えると、政治の大きな影響を与えるということを時の政府が恐れたからである。そして、その見返りが身分保証だったのである。 しかし、スト権がないことについては、長くILO(国際労働機関)から、是正を強く求められていて、世界の常識からは逸脱している。公務員にスト権、労働争議権を回復させることは重要である。ただ、この時に必ず、身分を保証している現在の法律を改正しないといけない。
(身分を保証している試験制度)
公務員が職業ではなく身分にしてしまっているもう1つの大きな原因が公務員試験である。エリートの国家公務員になるためには、上級公務員試験に合格しないといけない。これはかなり難しい試験だが、これに合格した人は優秀な人で、イコール、仕事もできる人という間違った観念ができあがってしまっている。 公務員試験制度は中国の科挙の名残だが、科挙は失敗だったのが、歴史の教訓である。理由は簡単で、難しい試験に受かって公務員になってきた人は、自分に絶対的な自信を持ち、受かっていない人の言うことを聞かなくなる。しかし、試験に受かる人は勉強バカというような人が多く、世の中の実態を知らない。 だから、前例にこだわり、改革や時代に合わせてことをしようとすることにとても抵抗する。時として、改革をしようとすると、世の中の実態を知らないのだから、トンでもないことを始め、国民に大きな迷惑をかけることになる。 上級公務員には、勿論、法律や経済などの専門知識を必要とする部署は確かにある。企業で法務担当者が必要なようにである。しかし、これが全員である必要はない。これからの公務員はむしろ、時代を読み、新しいアイデアを出せる人が求められている。
従来の上級公務員試験で合格させる人を全体の1割位にして、彼らはエリートではなく、企業の法務担当者のように、法律を作ったり、何か問題が起きた時のチェックをする担当者とすべきである。この発想の転換ができれば、上級試験に受かった人=優秀という間違った認識がなくなり、公務員制度改革が容易になる。
(幹部は政治任命制に)
公務員を「身分」から「職業」に変える仕上げは、大臣に幹部の任命権を与えることである。官僚が政治家の言うことを聞かないのは、逆らっても首にならず、大学の成績だけで出世していける、今の時代では考えられないような仕組みになっているからである。 これを変えて、局長、審議官、部長クラスはもとより、局の筆頭課長クラスの任命権を政治家に与えるようにすれば、官僚は政治家の言うことを聞くようになる。これで官僚は暴走しなくなる。 課長というと、企業の権限のない課長を想像するが、国家公務員の課長クラスは、企業の課長よりも遥かに大きな権限を持っている。課長全体でなくてもよいが、少なくても、筆頭課長は政治任命にすべきである。 また、国家官僚は省庁ごとの採用である。これが省庁間の軋轢、権力闘争や、無駄な省庁間のダブリを生んでいる。前から言われていることだが、採用を人事院に一本化することがまず重要である。そして、配置された省庁で仕事をした後、課長に昇進する時は、別の省庁に行く。更に、局長になる時にも、平時代や課長時代と異なる役所でないといけないというルールを作ることである。 こうすれば、役所の局長クラスの幹部は少なくても3つの省庁を経験しており、役所の間の無駄、権力争いは大いに少なくなる。現実に、財務省の局長クラスが防衛省などの局長や次官に異動しており、難しいことではない。
(天下りをなくす方法)
最後の公務員制度改革できちんとしないといけないのは天下りの問題である。天下りはなぜあるかと言えば、同期のトップを走っている人間が局長や次官になると、その他の人間はその役所を辞めないといけないという慣習が天下りを生んでいる。 また、エリート公務員は若い時に給料が安く、同じ年齢で民間大企業に行った人に比べると年収は半分とか、3分の2くらいである。この不足分を天下り後に、取り戻しているのである。 天下りを単にけしからんと言っても、この根本を解決しないと、天下りはなくならない。これも解決は簡単である。定年制度を民間企業と同じに60歳とか、65歳として、自発的なものはともかく、役所の都合での早期退職をなくし、同期や後輩が出世しても、辞めずに、職にとどまるようにすればよいのである。 また、全体の給料水準の見直しをすることである。ただ全員の給料を上げるのではなく、能力評価制度を採り入れ、優秀な人間、仕事をした人間には多く払い、仕事をしなかった人間、できない人間には減らすというようにするのだ。(文中…ローマ数字が表記できず、また、1種ではおかしいので、上級公務員という旧の表記としました)2010.07.18
滑稽なマスコミの臓器移植論議
(改正臓器移植法の骨子は2つ)
改正臓器移植法が施行されたことにともない、多くの新聞、テレビなどのマスコミが臓器移植の話の特集を組み、かなりの時間やスペースを割いて、報道している。 しかし、その報道の仕方は、賛成派、反対派の両方の意見を紹介し、取材したという記者、リポーターが「難しい問題です。考えさせられてしまいます」というばかりで、多くの国民の誤解と混乱を与えるものでしかない。 今回の改正のポイントは2つで、1つは、臓器提供が15歳以下の人からも可能になったことである。これまでの日本の移植では、提供者(ドナー)は15歳以上ということになっていたために、15歳以下、特に子供への移植が事実上できなく、死を待つか、多額の費用を支払って海外に行って受けるしかなかったのが、可能になったことである。 もう1つの改正点は、提供者が脳死になった時に、事前に、提供の意思表示がない場合、親の判断で提供ができるということである。日本では、海外と異なり、ほとんどの人が脳死の時に、臓器を提供するか、または拒否するかという意思表示をしていない。このため、提供が進まないという事情があるための措置である。
(WHOの圧力で成立した改正法)
日本では、今回の改正ではなく、当初の臓器移植法案の審議でも、もめにもめ、法案がいつまでも成立せず、難産の末、やっとできあがった。その時、反対派を説得する1つの材料になったのが、子供を提供者にしないということだった。しかし、このために、子供への提供が非常に難しくなり、移植を待てずに死んでいく子供が多くなるということにつながった。 今回の改正法でも、議論が紛糾し、成立が非常に難しい状態が続いた。しかし、WHOからの1つのメッセージで、それまで紛糾していた国会がぱっとまとまり、改正法案が成立したのである。 WHOのメッセージは簡単である。日本では、国内での移植が難しいので、海外に出て移植を受ける人が多く、いわば、金で外国人の臓器と、機会を買うということになり、それは駄目で、自国内でしっかり提供者が出る仕組を作りなさいうことを言ったのである。 では、WHOはなぜ、そんな勧告をしたのだろうか。まず、どこの国も臓器が余っている訳ではなく、順番待ちの人がいる。それを海外から来て、金を出して優先してもらうというのはおかしいということである。 また、臓器をヤミで売買する組織があり、日本のように金で外国の臓器を買うかのような行動は、そうした組織を助長しかねないということが次の点である。 そして、何よりも、最大のポイントは、「日本はいつまでも、世界の常識から逸脱したことをやっているのだ。いい加減にしろ」といういらだちである。
(「脳死=人の死」は世界常識)
世界各国が密接に結びつきあった現在では、主要国の1つが、世界とまったく異なった基準で運営されると、他の国に大きな影響が出るので、国際機関はあまりに非常識なことは是正しろと勧告してくる。 今回の参議院選挙の後、すかさず、IMFが消費税の段階的、速やかなアップをし、少なくても15%程度にすることを勧告してきたことなどは正にこれであり、「あなた一カ国のことではないのですよ」ということを言われる時代なのである。 臓器移植について、WHOや世界の医療関係者が日本にいら立っているかと言えば、その議論が世界よりも、40年も遅れているということなのである。 人の死は昔はどこの国も心臓死だった。それが医学の進歩で脳の仕組み、心臓の意味などがわかってきて、1960年代に死についての議論が盛んになってきた。そして、アメリカのハーバート大学が人の死は脳死であり、脳死の判定基準はこういうものだという、いわゆるハーバート基準を作った。 これを受けて、1968年に、オーストラリアのシドニーで開かれた世界医師会総会で、「死に関する声明」であるシドニー宣言が出て、世界の医療関係者が「人の死=脳死」ということを採択したのである。 医療技術の最先端を言っているアメリカでは、1970年代に、大統領の諮問委員会を作り、死についての国をあげての議論をした。この委員会は医療関係者だけでなく、法律家、宗教家、政治家、社会学者など多くの分野から人が出て、マスコミを通しては勿論、全米各地で討論会を開催して、死についての議論をした。 そして、この国をあげて、一般国民を巻き込んでの議論の結果、法律家も宗教家も「人の死は脳死」という結論となったのである。これが1981年のことである。今から30年程前のことだ。 これを受けて、世界の各国でも同じような議論をして、「脳死=人の死」という世界の常識が欧米だけでなく、中東、中国を含むアジアにも定着したのである。
(議論を混迷させるマスコミの取り上げ方)
日本で臓器移植問題が議論される時に、アメリカの大統領委員会のような徹底した議論をせず、事実誤認の話がまかり通ることが、混乱の最大の原因で、それを更に拡大しているのが、マスコミである。 臓器移植に反対する人のポイントは2つである。1つは脳死から生き返ることはあり、脳死=人の死とは認められないということ。2つ目は、今回のような改正法案が通ると、死んだ後に勝手に臓器が取り出され、大変になるということである。 これは2つとも完全に間違っているのだが、それをマスコミが大々的にとりあげるので、何も事情がわからない一般の人は、そうかと思って不安になり、話がややこしくなってしまうのである。 まず、脳死から人間が生き返ることはあり得ない。脳死から生き返ったということを言い、NHKにその例の患者を示して、大きくとりあげられた、ある大学教授がいる。このNHKの番組はその後も、臓器移植の議論の時に、反対派の論拠としてよく使われた。 しかし、そのことはNHK、また、その他のマスコミは一切報道していないが、このことが医学会で取り上げられ、この大学教授は、「脳死からの生還などあり得ない。おかしい」という質問にまともに答えられず、「自分は脳死から生き返ったとは言っていない。NHKに勝手のそう取り上げられた」と発言して、NHKの番組の内容を否定したのだ。
(脳死からの生還はあり得ない)
人間の体は全体が一度に死ぬ訳ではない。早く死ぬ場所もあるし、心臓が止まった後もしばらく生きている組織もある。死人の髪の毛が伸びることがあるということなどは報告されている。 かつての「心臓死=人の死」が否定された理由は簡単である。医療の発達で、人工呼吸器が出現し、進歩してきたので、その人が死んだ後も、人工呼吸器を動かしていれば、体に血液と酸素は運ばれ、それで体は温かさを保つことができるようになったのである。 しかし、死者にいつまでも、人工呼吸器をつけておくのは死者に対する冒涜でもあり、そのために、何人もの医療関係者がそれに従事しないといけない不合理さが言われ、死と判定された場合は、人工呼吸器を止めるのが世界の常識となった。 人工呼吸器で左右される心臓死と異なり、脳死の定義は明確であるし、医学的に判定できる。脳死になると、脳が溶け始める。そして、体は血液や酸素が行く場所と行かない場所が出てくるので、医療関係者が体を見ればわかる。 脳死から生き返ったという話は、先のNHKで取り上げられた日本の例もそうだが、きちんとした脳死判定を行わず、「脳死に近い状態」を「脳死」と判定したに過ぎない。
(1つのルールで縛ろうとする愚)
反対派が言っているもう1つの論拠である、意思に反して、勝手に臓器が取り出されるという話も本当にナンセンスである。 臓器移植のルールは、死後、臓器を他人にあげる自由、あげない自由。他人からもらう自由、もらわない自由の4つの自由が大原則である。 人間には、それぞれ、意見や主義主張がある。だから、臓器を提供してもよいと思う人もいるし、提供したくない人もいる。もらう側も、もらっても生きたいという人もいれば、そこまでして、生きたくないという人もいる。 それを、1つのルールで縛ろうとするのが、反対派の人の発想法で、他人の行動を規制する権限があなたにありますかと、筆者は言いたい。 あげたくない人、自分の臓器を死後、取り出してほしくない人は、「ノー」の意思を明確に表示すればよいだけである。成人だと、運転免許書の裏に意思表示をすることができるようになっている。 未成年の人については、それこそ、反対派が「提供拒否カード」のようなものを作り、それを普及させれば、自分の意思に反して、死後、臓器が取られるという心配はなくなる。反対をするだけでなく、こうした具体的な行動に出る方が意見が違っても余程尊敬できるが、日本では反対する人は声だけ発するが、行動は起こさない。
20100717
国民の賢い選択…国会のねじれ
参議院議員選挙が終わり、その総括や分析をマスコミが盛んにやっているが、その多くが「衆議院と参議院のねじれ」を言い、国会運営は難しく、今のような厳しい状況の中で国会が機能しなくなったら大変だというものである。 しかし、筆者はそうは思わない。国民は結構バランス感覚をもっている。衆議院で自民党にお灸をすえ、民主党に勝たせるのがよいが、勝たせすぎた。そして、政権をとった民主党は、傲慢、横暴、公約破り、無能さを示すことの連続である。 脱官僚を言っていたのに、官僚の中の官僚である財務省の実力者である元事務次官を郵政会社の社長に任命した。しかも、公約では半分に減らすとしていた郵貯の預金限度額を逆の倍増という法案を衆議院で強行採決した。これ1だけでも、即退場のレッドカードものである。 そして、このこと以外でもそうだが、問題が起きた時に、「法律に違反していないから問題ない」「現状も問題は自民党が作り上げてきたもので、自民党に批判されたくない」「与党になって、事態の深刻さ、実情が初めてわかった」という詭弁に終始し、まったくの反省がないし、襟を正す姿勢がない。 普天間の問題もそうだが、この9カ月の民主党の政権運営はお粗末の極みである。運営慣れしていないから、もう少し時間をあげるべきということを言う人がいうが、これは時間の問題ではなく、考え方の問題であり、民主党政権のファッショ、傲慢、独裁を国民が感じたのである。 だから、マスコミは「ねじれが大変」と散々言うが、筆者は逆に国民は賢い選択をし、民主党に強行採決をさせないという選択をさせたのだと考えるのが正しい選択で、マスコミ報道はピントがずれていると思う。
(民主党には4つのグループ)
前にも書いたが、民主党政権の中心にいる人たちは4つのグループである。マスコミはリーダーの下に、小沢派が何人、鳩山派が何人と報道しているが、そうした表面の話ではなく、本質の話である。 その1つ目は労働組合の委員長、書記長のOBである。当然、公務員系の組合は力が強いので、この人たちが大きな力を持っている間は、公務員制度改革などできない。民主党が公約に反して、公務員制度改革を自民党よりも後戻りさせたのがそのよい証拠である。 2つ目のグループは若手官僚OBである。以前は官僚をしていて政治を目指す人は自民党で立候補した。しかし、自民党の世襲化が進み、野心のある若手官僚が自民党から立候補が難しくなり、民主党で国会議員になったのである。 彼らは理屈では自民党を批判し、民主党のよさをアピールするが、国会議員になれるのなら、自民党でも民主党でもどちらでもよいのである。国よくしたいという思いがある人も勿論あるが、権力志向、上方志向が非常に強い人たちである。 3つ目が弁護士である。数は膨大にいる訳ではないが、それぞれの問題のキーパーソンが弁護士、法律の専門家である。弁護士は一般のイメージでは弱者の味方である。 しかし、実際に弁護士と付き合ってみるとわかるが、人間として首を傾げる人が多い。現実に依頼者の金を横領したり、犯人とはっきりわかっている人間に智恵をつけて、犯行を否定させ、無罪にさせるなどしている。 また、最近では消費者金融の過払い金の回収で、依頼者との間で金の取り合いのトラブルが多発している。彼らは法律を知っていることをよいことに、すれすれの行為をし、倫理を無視し、法律だけでうまく世の中を渡ろうという人が少なからずいる。
(金権体質そのものの小沢グループ)
4つ目が小沢一郎グループである。自民党の中でも一番悪い金権体質をそのまま持ち、引き継いだ人間のグループであり、金と恐喝で票の取りまとめをして、先の衆議院議員選挙では、多くの議員を当選させた。 民主党の他の3つのグループが政治の世界の事情に疎いので、政治のダーティーな部分に詳しく、何でもやることができる小沢グループは、民主党の中でどんどん勢力を拡大してきた。 小沢一郎は田中角栄の流れを汲んでいる。ただ、田中角栄や金丸信と大きく違うところがある。それは、田中角栄が人の心を理解し、引き付ける魅力があり、国をどういう方向に持っていこうというビジョンもあったのに、小沢一郎にはそれがなく、結果として自身の蓄財にだけ熱心だったということが明らかになった。 田中角栄はロッキード事件で、マスコミのバッシングの中で無残な晩年を送った。しかし、最近の研究では、これは、アメリカが言うことを聞かない田中角栄を追い落とすために意識的に仕組んだ罠だったという説が有力になりつつある。 昭和40年の東京五輪後の不況時に大不況が来て、金融会社が危機を迎えた時に、当時、大蔵大臣だった角栄は、瞬時に決断し、渋る日銀総裁を押しのけて、日銀特別融資を実行して救済するなど、多くの実績も残している。個人的に会っても、とても魅力にある人だった。 田中角栄は成功して目白御殿を造ったが、書生に両隣の家の前の掃除や雪かきを命じるなど、人の心を理解する人だった。しかし、小沢一郎は、どれだけ長年仕えてきた人でも、少し苦言を呈すると、翌日から携帯電話がつながらなくなり、人間関係を切るという人で人間としてまったく信用できない。
(厄介な存在、松下政経塾出身者)
そして、これに松下政経塾出身者が論客として加わっている。松下政経塾の出身者は自民党にも、その他の政党にもいるが、筆者は極めて厄介な存在で、決してよいものではないと考えている。 ご存じのように、松下政経塾は、故松下幸之助氏が政治家の現状に絶望し、より志の高い政治家を育成しようとして、私財を出して作った塾である。だから、初めは彼が自ら教壇に立った。 しかし、集まった人たちの言動を見て、松下氏はがっかりし、その後、教壇に立たなくなる。具体的なエピソードがある。それは、当初、松下氏は集まった塾生に、まず人間としての心がけが大切だとして、塾の中のトイレの掃除を求めた。 これに対して、塾生から大ブーイングが起きた。自分たちは地盤、看板がないが、政治家になりたいと思って集まった人たちで、そんなマナーや心掛けよりも、どうやって政治家になれるかを教えてほしくて集まっているのであり、「トイレ掃除は時間の無駄」と拒否をしたのである。 そうした人たちだから、弁は立つ。頭はよいかもしれない。でも、権力志向が強く、人間としてはどうかという人が結構見受けられる。
(民意を理解でいないマスコミ)
以上の5つの集団が民主党を形作っている。これを理解すれば、民主党が政権をとってからの、9カ月間の行動は概ね納得がいく。 多くの国民は、勿論、そうした細かなことなどは知らないが、それでも、何かおかしいと思い、参議院でも過半数を与党がとると、極めて危険と判断し、今回の選挙で民主党を負かせて、ねじれを誕生させたのである。国民の智恵である。 それを理解しないで、「ねじれは大変」と報道するマスコミは、高給にあぐらをかき、本当の国民目線で仕事をしていないことを露呈したのが、今回の選挙結果の報道だと言える。 2010.07.16
民主党大きな政府は官僚が好き勝手社会へ
民主党は去年の衆議院議員選挙の際には、公務員の削減など小さな政府の政策も入れこんでいたが、子供手当ての実施など大きな政府の発想も入っていて、何をやりたいかがはっきりしない。
ただ、主要議員がテレビなどに出てきて、話をする内容は基本的には、大きな政府の立場だと思われる。しかし、国民が1年前の選挙で民主党を選んだのは自民党にノーと言ったからであり、大きな政府を支持したからではないという事実はしっかり認識しないといけない。
好き嫌いは別として、現在の政府運営には大きな政府にして、政府が国民生活の多くに関与してくるという考え方と、政府はできるだけ小さくして、国民は自由に生活を送るようにするという考え方の2つがある。
大きな政府の代表が北欧のスウェーデンで、税金と社会保険料を含むと、国民は国や地方自治体に年収の75%を徴収される。稼ぎの4分の1しか手元に残らないのである。
その代わり、政府や自治体や医療や教育、年金にその金を使い、いざという時に、国民は安心して病気になったり、老後を送ることができる。
ヨーロッパはスウェーデン程ではないが、ドイツもフランスも、その他の先進国は同じ発想に立っている。この根底は社会民主主義の考えである。
つまり、資本主義の自由競争はよくて、国は発展したが、弱者は取り残される。共産主義や社会主義には賛成できないが、その弱者救済の考えを取り入れようという考えである。
だから、子供手当などという発想が出てくるし、年収が高い家の子供でも、教育の無償化というような話になる。医療も、年収に関係なく、無料または安く受けることができるのである。
ただ、大きな政府には大きなマイナス点がある。それはどうしてもコストがかかりすぎることである。だから、税金が高くなるのである。年収のかなりの部分を持っていかれ、なおかつ、日本の消費税にあたる、付加価値税で更に多くの税金をとられている。
小さな政府の考え方は大きな政府にすると、怠ける者、働かない者が、政府や自治体に依存するようになり、それは真面目に働く人の足を引っ張ることになるというのである。
小さな政府を支持する人たちは、そもそも人間は真面目に働き、自分のことは自分でするのが原則であり、大きな政府は、システム的に人間を怠け者にするダメが制度だというように考える。
現実に日本でも、生活保護を受けている人がその金で昼間からパチンコをしているというような例が少なからず見受けられ、小さな政府支持者の言っていることはある面では事実である。
小さな政府の問題点は、それでは、努力しても、どうしようもない弱者はどうするかということである。
小さな政府の代表的な国はアメリカだが、アメリカでは、教会が大きな力を持っていて、また、活動も活発であり、弱者救済を行っている。
また、豊かになった者は社会還元が当然という思想があり、寄付や社会貢献などが活発に行われている。アメリカの俳優などが、アフリカやアジアの恵まれない子供を養子にして、引き取るなどということが、スタンド・プレーではなく、当然のように行われているのは、こうした発想からである。
小さな政府、大きな政府、それぞれによいところと、問題点がある。日本で最大の問題点は、国民に小さな政府、大きな政府の概要、コスト、問題点を示して、どちらを選ぶか、選択を迫るということをしていないことである。
今の若い人は、日本が強く、ハッピーだった時代を経験していないので、大きな政府の方がよいと思う人も多いと思う。北欧のなどの例が紹介され、安心ということをレポーターが言うので、より、そう思う人がいるかと思う。
ただ、北欧のシステムをそのまま日本に導入するのは無理がある。スウェーデンは人口5百万人の国である。日本で言えば、兵庫県1県の人口である。これだと、国民は政府の施策の細かな点にも目が届くし、問題が起きれば、反対の意思表示が簡単にできる。人口が1億2500万人いる日本だと、そうはいかない。
また、欧米には、「権力者は腐敗しやすいもので、国民は監視する」という前提がある。また、「不作為の罪」という罪がある。これは、権力をもっている政治家や官僚が、その時、しないといけないことをしなかった時に、罪に問われるというものである。
だから、エイズ騒ぎの時に、非加熱製剤を放置して、血友病患者の多くの人がエイズにかかった時に、フランスでは、厚生大臣が刑務所に入ることになった。これに対して、日本では、厚生省の担当課長が罪に問われたが、裁判で無罪となった。
日本の役人は自分たちは間違ったことはしないという前提に立っていて、絶対間違いを認めない。また、前例主義に立っているので、これまでやってきたことにこだわり、これまでやってきたことと違うことをすることには、大きく抵抗する。国民が役人のすることを厳しくチェックするという伝統もない。
大きな政府は役人がすることが増える。彼らの裁量も大きくなる。そうなれば、かつての道路公団や国鉄のように、凄まじい無駄、好き勝手が起き、結局そのツケは国民に回ってくる。
大きな政府にするためには、「不作為の罪」を成立させること、そして、「行政裁判所」のような組織を作り、行政のしたことで、国民や住民が被害を受けたり、受け取るべき便宜を得られなかった時に、賠償を要求できるシステムがないと、とんでもなくなる。役人が好き勝手やりだすのは目に見えている。
20100715
豪雨による河川の氾濫は治水の失政
ゲリラ豪雨と言われる大雨で、各地で土砂崩れや冠水などが相次いでいる。テレビなどでその映像が毎日のように報道されているが、「天災なので、どうしようもない」というトーンである。そうであろうか。
ゲリラ豪雨は確かに異常気象によるものであり、想定以上の現象が起きていることは事実である。しかし、戦後、建設省や農水省が実行してきた行政の間違い、安易な考えが被害を大きくさせているように思う。
大雨で各地で河川が氾濫しているが、戦後の治水で何をやってきたかというと、道路はアスファルトで固め、雨や水を自然で道路や土地に吸い込ませることをさせなくしてしまった。
そして、家の屋根に降る雨も、道路に降る雨も全部、下水路に集め、河川にまとめて海に流すという前提に立って、すべての水を海に流すという設計に立って、行政を行ってきた。
下水管の設計は時間雨量50ミリを前提にしていて、雨がそれを越えると、下水管の処理能力を越えるので、雨水が逆流し、道路などが水浸しになる。
数年前に、東京の皇居から中央区、江東区を走る永代通りが冠水して50センチほどになり、車が通れなくなり、商店は水浸しになったことがある。
この時に、官僚のトップクラスの人に、下水管の太さを50ミリにしたのが間違いで、もっと太い管に設計し直すべきではないかと聞いたことがある。
その時、この人が言ったのは、「50ミリと百ミリとでは、費用が何%か違うのです。全国でこれを集計すると、金額で大きな差になります。時間雨量百ミリを越えることは滅多にないので、50ミリにしています。百ミリを越えるのは何十年に1回なので、その時は我慢してもらうしかありません」ということであった。
しかし、ここ数年の河川の氾濫は、時間雨量50ミリを越えたから起きた訳ではない。50ミリ程以下でも氾濫が起きているのだ。
その原因は、下水から川に流れ込む雨水の量を半分くらいと計算していたのが、今は道路のアスファルト化が進み、ビルや家屋でも、土の部分が大幅に減ってコンクリート化が進み、ほとんどの雨水が下水管に流れるようになってしまった。だから、50ミリで氾濫が起きてしまうのである。
道路でも、ビルでも、敷地に雨水を吸収し、下水管にではなく、敷地の土に浸み込ますシステムがあれば、今回のような都市部での河川の氾濫は起きていないのである。
現実に、九州の福岡市では、市が補助金を出して、各家庭の屋根からの雨水を下水管に流すのではなく、敷地内の雨水を集めるマスを作って、雨水を敷地の土の中に流す工事を推奨し、市が補助金を出すということをしている。
こうしたことを、市単位ではなく、全国レベルで行っていけば、河川の氾濫は大幅に減少する。官僚組織は過去にやってきたことを前提として、これからの行政を行っていくという癖がある。過去と違うことを実行することには、とても消極的である。自分たちの先輩を否定することになるからであり、過去の失政を認めることになるからである。
政治が官僚を指導し、うまく使うというのは、こうした官僚の行動パターンを理解し、政治家が自分が責任をとるから、智恵を出せと言い、これまでやってきたと違う施策を考えさせることである。田中角栄が官僚に人気があったのは、彼が「俺が責任をとる」と明言したからである。
しかし、今の民主党政権は、官僚を排除したので、官僚がそっぽを向き、政治家に情報が入ってこなくなった。国会での答弁も助けてもらえなくなり、慌てて官僚にすり寄った結果が、消費税の発言となったのである。「無視・排除」と「すり寄り」これが鳩山前首相と菅現首相の行動である。政治がうまく行く訳がない。
自民党政権については、多くの失敗、問題点もあった。しかし、末期の麻生、福田、安倍の3人は別として、それ以前の首相は、少なくても、民主党よりは官僚をもっとうまく使い、うまい政治を行ってきた。だから、日本が世界第二位の経済大国になったのである。
「族議員」というのは利権とからめて報道され、問題だけが言われるが、現実は、自民党は各部会ごとに、頻繁に勉強会を開き、当選十年を越える議員は、各省庁の官僚よりも行政に詳しくなり、官僚と政治家が同じレベルの知識、経験を持って議論し、よりよい案を作って行くというシステムだったのである。
勿論、利権がからんだケースもありはしたが、システムとしてはよくできたもので、それをマスコミが「族議員」=「利権」=「汚職」という図式化で報道し、壊してしまった方が国政運営上大問題であるのである。
雨の問題に話を戻すと、都会地は別として、地方での土石流や土砂崩れは天災で仕方がないかと言うと、これも、天災の部分も勿論あるが、ここでも、行政の失敗が多くある。
山間地の道路が崩壊した時に、道路の工事の仕方が杜撰で、しないといけないことをしていないことが発覚したケースがいくつも見つかっている。
公共工事については、それを請け負っている業者と色々話をする機会があるが、びっくりするような手抜き工事が行われている。公共工事は慣れ合いであり、検査はきちんと行われていないのだ。
また、がけ崩れで民家に土砂が流れ込むという話も、崖地の下では家の建設を認めないとか、森林地の管理が今はほとんど行われていないので、これをしっかりし直すということで、大分軽減できる。
現在でも、こんな所に建物を建てて大丈夫がと思えるところに家や建築物が立っている光景をよく目にする。こうした建築物の工事ができないように、安全に関するものは厳しく規制することが必要である。
欧米では、自然の管理は人間か神から委任されたものであり、人間の勝手にしてはいけないという考え方が基本にある。そうした考えが種の保存などにもつながり、反捕鯨などにつながっていくのである。
この考えを百パーセント是認する必要はないが、少し前までの日本では、もっと自然を恐れ、対策をどうするかという人間の智恵があった。しかし、今の日本は何でもありで、こうした発想がほとんど消えてしまった。もう一度、見直す必要があるのではないか。
20100815
民主主義を否定する民主党政権の手法
(議論を尽くし、過半の賛成を得るのが民主主義)
日韓併合百年ということで、菅首相が首相談話を発表し、自民党や自虐史観に反対する人たちだけからではなく、民主党内部からも異論が出ている。 漏れ伝わってくる話では、仙石官房長官が強力に、その内容での談話発表を主張し、渋る菅首相を押し切ったという。そして、民主党の他の主要メンバーには、ほとんど相談がなく、談話を発表することと、その内容が決まったという。 首相談話の内容に入る前に、この政治手法に、筆者は極めて危険な臭いを感じる。民主主義とは、議論を尽くして過半を占めた意見が全体の意見となることである。そして、公正で論理的な徹底した議論こそが、基礎の基礎、大前提である。 勿論、外交交渉とか重要な決定には、ごく少数の人だけで隠密裏に話を詰めることはある。しかし、交渉などが概ね終了した後で、交渉に関与しなかった人にも十分に説明し、了解を求めた上で、その内容を決定していくのが義務である。
(野党時代から横暴の限り)
民主党は政権を取る前、自民党が政権を握っていた時代から、参議院で多数を占めてから、話し合いもへったくれもなく、数の強権で自民党の案をことごとく否定し、日銀総裁などの人事が立ち往生し、それが自民党が短期に何人もの首相を交代させる原因の1つとなった。 これは自民党を追い詰め、自分たちが政権をとるための手段として、小沢一郎が考え、実行したものだが、明らかに民主主義に違反するやり方である。政治には権謀術数や駆け引きは不可欠だが、それでも、ルールがないといけないし、主張に一貫性がないと、誰も信用しなくなる。 野党民主党が、自民党が提示する日銀総裁人事などの政府機関の重要人事に反対した大義名分は、「候補者が元大蔵省幹部など元高級官僚だから」ということであった。しかし、政権をとった途端に、郵政グループのトップに、元大蔵官僚のドンの中のドンと言われる斉藤次郎を強引に据えた。一貫性もないし、説得力も何もあったものではない。
(元々、非効率的だが、ベターな制度--民主主義)
政治学的によく言われることだが、優秀なリーダーがいれば、民主主義よりも独裁国家の方がより効率的だし、国は発展する。その例がかつてのシンガポールのリー・クアンユー元首相などであるし、現在の中国にも、ある部分当てはまっている。 しかし、独裁者や独裁体制は、必ず、そこの腐敗を生む。若い時、優秀で、素晴らしい政治をしたインドネシアのスハルト元大統領が晩年、汚職と利権まみれで引退をしないといけなかったのもそうだし、韓国を近代国家に脱皮させた功績者、朴正煕が暗殺されたのも、独裁者だったためである。 民主主義は時間をかけて議論をし、反対者を説得するなど、制度としては極めて非効率である。しかし、人類はその歴史を通して、独裁に危険を学び、民主主義を「ベストではないが、ベター」(最上ではないが、他の制度よりはよい制度)として認め、ほとんどの近代国家は民主主義を採用している。 民主党は野党時代だけでなく、政権を握ってからも、その行動は民主主義のルールに違反しまくっている。ほとんど議論なく、何かが決まる。また、国会での野党との議論もほとんどせず、問答無用で、数でほとんどのことを決めていっている。 郵貯の預け入れ限度額を、それまでの1千万円から倍以上にする法案をほとんど議論することなく、衆議院で強行採決したことや、斉藤次郎氏を郵政グループ会社のトップにしたのなどはその例だが、挙げればキリがないくらいある。郵貯の預け入れ限度額については民主党はマニフェストで半分の5百万円にすることを謳っており、そうした意味でも公約違反だし、ルール違反である。
(政調会長も知らない談話)
話を日韓併合百周年の記念談話に戻すと、党の政策を決定していく上で、中心的な立場にある玄葉政調会長がまったく事前に話を聞かされていなかったようで、おかしいと噛みついているし、他の与党議員からも、おかしいという声があがっている。 内容はともかく、手法として、極めて危険なのである。主要メンバーにも相談せず、1人、2人の考えや意思でものごとが決まって行くやり方は民主主義ではなく、独裁国家である。筆者は民主党にこの怖さを常々感じている。
(世界の非常識--国の謝罪)
菅首相の日韓併合についての今回の談話の内容については、また、別の機会に詳しく書くが、こうした談話を発表したこと自体、世界の政治の常識からして、極めて異例、世界の非常識ということだけは指摘しておきたい。 国際政治とは、パワーポリティックである。利害を争い自国や自国民の利益、権益、安全を守りながら、軍事力、交渉、駆け引きなどを使っていくものである。 戦後の日本は、対外交渉で軍事力が使えない。それだけに政府、特に首相などトップクラスの人たちの発言や行動には細心の注意が必要である。 国際政治では国は滅多に謝罪をしない。前にも書いたが、メキシコの国土の3分の1を戦争で奪ったアメリカは、謝罪もしないし、領土も返さない。それだけでなく、いかに自分たちは正義の戦いをしたか、教科書や物語で教えている。 国が、または、国を代表する首相や大統領が謝罪をするということは、そこに保障や責任義務が発生するのは当然で、だから、国は滅多に謝らないのである。 日韓関係については、既に村山元首相の村山談話というのがあるし、天皇陛下の謝罪の言葉も公式に出されている。それをなぜ、今、この時期に出さないといけないのか、極めて疑問である。
(隣国との歴史は一方的ではない)
筆者は「自虐史観」と「反自虐史観」の論争に関与するつもりはない。両方とも、大いに問題があると思うからである。日本が常に侵略者で、中国や朝鮮半島、アジアを一方的に侵略し、ひどいことをしたという自虐論者の発想は、まさに「自虐」であり、自国を貶めるものである。 一方で、日本や日本人が何もやっていなかった。すべての正当だったという、反自虐論者の主張も、反論するためであろうが、事実を捻じ曲げて正当を主張する発想もついていけない。 韓国との関係でも、強制連行はなかったとする反自虐史観論者には組みしない。あったのは事実である。しかし、全員が強制連行されたとする自虐史観論者にも賛成しない。自主的に日本に来た朝鮮の人は多くいた。 孫氏改名についても、従軍慰安婦についても同様である。当時の朝鮮半島では、日本に渡ってきて、一旗あげようという人が結構いた。強制も自主もあったのだ。 隣国同士はドイツとフランスでもそうだし、フランスとイギリスでも、互いに戦い、領土を取られたり取ったりしている。イギリスとフランスは百年戦争をしている。ある時期はほとんどの領土を占領されている。その間に、強者は弱者に厳しいことをしたし、強制的に何かを押しつけたことはいくらでもあった。それは互いである。
(要は誠意をもって前向きに対処すること)
日本と朝鮮半島とのことで言えば、古い話だが、蒙古来襲の時、日本の攻めてきた軍隊の大半は今の朝鮮半島の人たちの軍隊であった。日本の歴史では、撃退したことしか教えていないが、壱岐対馬では、男性のほとんどが殺されるか強制連行され、女性は性的奴隷や召使として連行された。 竹島は太平洋戦争後、時の韓国の李承晩大統領が一方的に領有権を主張して占有している。国際的には、日本の主張が通るので、日本が国際法的で議論しようとしても、韓国は不利なのがわかっているから、それに応じない。 、こうした議論を始めれば、それぞれに言い分があるし非もある。隣国はそれを言い合うことではなく、過去のことは、一度、きちんと声明を出し、それで清算し、前向きに互いに信頼と尊敬で前に進むべきものである。
20100811
高齢者の所在確認は簡単
連日のように、高齢者の所在がわからないという話が報道されている。その時に、必ず出て来る話が、市役所や区役所の担当者から「本人確認をしようとしても、家族が拒否したら、それでも会わせてください」とは言えないという話である。そして、マスコミ側も、「プライバシーの問題があるので、行政も難しい」というコメントを評論家や司会者がしている。 役人や、役人的な体質を持つ企業(NHK,JAL,NTT,JRなど)を長年取材してきた者として言えることは、「役人は自分たちがするのが面倒なこと、したくないことについては、できない理由を並べ、自己を正当化することの名人である」ということである。 だから、マスコミはどうしてできないのか、こうしたらできるのではないかという鋭い突っ込みをしないといけないのだが、今のマスコミは、役人に飼いならされ、その論理にどっぷりつかっているので、そこを突こうとはしない。 法律では、役所は立ち入り検査をする権限もあるし、家族が拒否しても、本人にあって、所在を確認する権利があるのである。行政は怠慢で、法律違反をしてきて、その言い訳をしているだけである。
(決して親切ではない福祉現場)
今、マスコミの批判に対して、役所は、福祉問題の難しさを説いているが、筆者自身高齢者と言われる年齢になって、行政から様々な連絡やサービスの案内が来るが、実態は行政の説明とまったく違う。 1つの例をあげると、筆者は今年65歳になり、年金がフルでもらえる年齢になった。年金機構から書類が届いたが、その内容は、年金をフルで受け取るか、基礎年金の部分だけ受け取るか、全額受け取らないかの3つから回答してほしいというものである。 筆者は今でも仕事をしていて収入があるので、60歳を越えてからも、年金は受け取ってこなかった。最近、年金機構から送ってこられた、本当にわかりにくい書類を読むと、全額でも部分でも受け取りたい人は、その旨を回答した書類を返送しないといけない。書類を返送しなかった人は、「受け取る意思がない人」と判断すると書いてある。つまり、手続きをしないと、年金は受け取れないのだ。 また、65歳以上になると、仕事をしていても、介護保険の保険料は個人で払わないといけなくなる。最近届いた年金の振込用紙の金額を見て驚いた。導入当時、月額3千円と言われていたが、請求金額は月額1万円である。短期間で3倍である。
(福祉は半分は権利、半分は恩恵)
前にも書いたが、高齢者に対する福祉は年金でも医療でも、その他のサービスでも、半分は長年、社会に貢献してきたことに対する権利である。 しかしその反面、今の日本の高齢者が受け取っている年金や医療などのサービスは、自分が貢献してきたもの、支払ってきたものの3倍、4倍受け取っていて、当然の権利ではなく、若い世代に感謝をしながら、受け取らないといけないという逆の面を持つことも、忘れてはいけない。 現在、70歳を越えている人で厚生年金を受け取っている人なら、専業主婦を長くしてきた妻を含めてもらう厚生年金は月額20数万円である。しかし、この人が20歳代、30歳代に年金として納めてきた金額は、月に千円、二千円という単位だったのである。 本人だけでなく、会社も積立て、長年の運用利益、プラス、若者から収めた金を受け取り、多くの人が、自分の収めた金の3倍、4倍の金をもらって、恵まれた生活をしているのだ。
(高齢者にとって高福祉社会の日本)
ほとんど論じられていないが、日本の高齢者は貧しく、恵まれないように報道されているが、これはまったく違う。日本の高齢者福祉は旧社会党や公明党の努力で、高福祉国家と言われる北欧と同水準、またはそれ以上である。 日本の福祉が貧弱なイメージがあり、マイナスのイメージがあるのは、幼児や若い世代に対する福祉政策がそうした先進国に比べてプアーであるからであって、高齢者福祉は世界水準からはトップレベルだということをしっかり認識しないといけない。 世界で金持ちと言われる人は1千万人いる。国別で1位は米国で287万人(29%)だが、日本は2位で165万人いて、世界の16%を占め、3位のドイツは日本の半分以下、4位の中国は更にドイツの半分以下である。この金持ち日本人のほとんどが65歳以上の高齢者なのだ。
(年に1回、本人が出頭して更新手続きをする)
所在がわからない高齢者の調査が難問だという行政やマスコミに言いたい。対策、回答は簡単だ。 どうするか、1年に1回、60歳以上で年金や様々なサービスを受け取っている人には、役所に出頭してもらい、更新の手続きをしてもらうのだ。大半のお年寄りは元気であり、1年に1回なら、それほど大変なことではない。 思い出してほしい。運転免許の更新は自分が出頭しないと、権利が抹消される。失業保険も自分が出頭して、手続きをとらないといけない。本人が出向いて、本人確認をして、更新手続きをすることは役所の仕事としては、ごく普通に行われていることである。 高齢者と言うと、寝たきりや病人のイメージが強いが、大半の人は元気で、1年に役所に出頭して、更新手続きをすることなど、何ともない。運転免許と同じに受付の期間を1か月くらいとれば、仕事や都合で行けないということはない。 病気で手続きに行くことができないような人には、医師の証明書を出してもらい、自己出頭しなくてもよいようにする。この人たちだけについて、行政担当者が訪問をすればよい。勿論、それで会えなくて、更新手続きができない人は当然、権利を失うことにする。 現在の所在不明者についても、役所の出頭するように広報し、1年以内に出頭しない人は死亡したり、行方不明として、様々なサービスの対象外とする処置をとるのである。 プライバシー問題は関係ない。恩恵で年金や医療、その他のサービスを受けるのだから、本人確認は当然である。
20100808
北方領土、原爆問題について、世界の常識を知ろう
毎年、8月6日になると、日本のマスコミは広島に原爆を投下された日として、大きく報道する。今年はアメリカの駐日大使や国連の事務総長が式典に出席したことから、これで核廃絶に一歩前進というコメントが多く紹介されていた。 そして、被爆者がマスコミのインタビューに答えて、「次はアメリカの大統領が参加してほしい」、「アメリカに公式に謝罪してほしい」と話をしている。更に、今年は秋葉広島市長が、「日本はアメリカの核の傘の下から脱すべきだ」とまで述べた。
(アメリカでは報道されない大使の出席)
こうした報道を見ると、いつも虚しさを感じる。世界的に核などない方がよいに決まっているし、20数万人を殺したアメリカの原爆投下は許し難い行為である。 しかし、まず、アメリカのマスコミは駐日大使の原爆式典への出席はほとんど報道していない。つまり、アメリカにとって、日本のマスコミが報道する程、大きな意味を持たないことなのである。 また、アメリカの公式見解は「アメリカが広島、長崎に原爆を投下したので、太平洋戦争は早く終結した。投下の判断は正しかった」であり、それは全く変化していない。多分、余程の事情の変化、環境の変化がない限り、今後アメリカがこの考えを変えることはないだろう。 もし、アメリカ政府の公式見解が変更になったのなら、当然大使は式典でスピーチなどの行為があってしかるべきだったし、少なくても記者にコメントを求められた時に、無言で立ち去るという行為にはならなかったであろう。
(世界の人は65年前のことは語らない)
広島の原爆記念館を訪問したり、被爆者の写真を見せられた人は原爆の悲惨さを痛感する。しかし、それを体験した人は世界的に見ればほんの少数で、世界的に見れば、広島への原爆投下は遠い歴史の出来事である。 7日の土曜日の朝の報道番組に出席した作家の浅田次郎氏が「投下から65年経ち、遠い歴史の1ページの話になったので、駐日大使が出席しても問題がない、影響がなくなったという見方もできる」とコメントしていたのは鋭い指摘である。 原爆投下と同じように、残虐行為があったとして、被害者が厳しく加害者を糾弾した話に、ナチスのユダヤ人大量虐殺がある。しかし、これは映画業界やマスコミに大きな影響力を持つユダヤの人たちが、繰り返し映画や小説、マスコミなどで取り上げ、小説や映画芸術としても多くの人の鑑賞に耐えられるものを作りだしてきたからである。 そして、何より、そうした行為ができ、世界の多くの人に強く印象つけることができた大きな原因が、加害者が敗戦国ドイツだったということがある。歴史は古今東西、勝者の歴史である。敗者は理不尽なことを言われ、歴史を歪められても、反論はできない。ただ、謝罪したり、沈黙するしかない。それが戦争の現実なのである。
(戦争で失った領土は平和交渉では戻らない)
原爆と同様に、日本では大々的にとりあげているが、世界的には、ほとんど関心を持たれていない問題に、北方領土がある。旧ソ連は、一方的に相互不可侵条約を破棄して、日本軍を攻め、不当に北方領土を奪い、現在も占領している。そのこと自体は国際法違反である。 しかし、戦争で奪われた領土は平和交渉では返ってこないのは、これも古今東西の常識である。 メキシコはアメリカとの戦争で、カルフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコなど領土の3分の1をアメリカに奪われた。そして、その直後に、カルフォルニアでゴールドラッシュが起き、金や石油が大量に見つかり、アメリカが世界一の大国になる大きな基礎となった。しかし、今後、アメリカがメキシコにこれらの土地を返すことはあり得ない。 アイルランドは占領していたイギリスに対して、厳しく長い独立運動を戦ったが、返ってきたのは南半分で、今でも北半分はイギリス領である。それでも、南半分が返ってきたのは、アイルランドが爆弾テロなどで、対イギリスに厳しい戦いを挑み、イギリスの内部にも、アイルランド問題を早く終結すべきという論が起きたからである。
(沖縄は経済戦争の結果、返還された)
戦争で奪われた領土、沖縄が返還されたので、日本人は戦争で失った領土も平和交渉で返ってくると考え、対ロシアでも、交渉で返還をという発想なのかもしれないが、沖縄は何もなくて戻ったのではない。 沖縄が返還された時、当時の日本はアメリカに対して、繊維製品を大量に輸出していた。アメリカからは悲鳴のような叫びとなり、何とかしてほしいという要求になった。ただ、繊維の輸出を自己規制しては何の得にもならない。 時の佐藤首相を初めとする日本政府首脳は、日本からの繊維輸出を自粛し、繊維を製造する機械の自主廃棄(政府による保障、買い上げ)を行い、それと引き換えに、沖縄を返還するように要求し、沖縄が返還されたのである。「糸を売って、縄を買った」と言われたのだ。少なくても、かつての日本政府首脳はこれくらいの交渉力はあった。 旧西ドイツが事実上、ソ連の支配下にあった東ドイツを取り戻して統一ドイツを実現できたのは、西ドイツが長い間、ソ連から天然ガスを購入してきたことのよる信頼関係があったことと、当時、経済的に疲弊していたソ連に何兆円という巨額な金を与えることで、買い取ったのである。これも経済戦争に買っての領土返還なのである。
(北方領土を取り返す絶好の機会を見過ごした日本)
北方領土返還は、鳩山前首相の祖父の鳩山元首相時代に、当時農林大臣などを務めた実力者、河野一郎(河野洋平の父)が交渉にあたり、4島の内、歯舞、色丹の2島を返還することで合意したことがある。 この時は、それと同時に、日本とソ連が国交を正常化するということが見返りであり、ソ連にもメリットがあったので、ソ連も部分的に日本の要求を飲んだ。しかし、その合意は日本に帰ってきて、説明すると、世論の猛烈な反発の下に、拒否され、国としての合意はできず、交渉もストップしてしまった。 その後、今から30年近く前だが、ソ連が経済的に窮乏し、サハリン(樺太)の天然ガス開発に日本の経済協力などを求めた時期があった。この時、商工会議所の会頭をしていた長野重雄氏は、日本とソ連が経済協力し、それは日本の経済に大いにプラスであるとともに、北方領土を取り戻す大きな機会と考え、大企業の経営者80人ほどを連れて、ソ連を訪れ、経済協力の話し合いをしたことがある。 当時のソ連の首脳は、本当に経済的に困っていたので、長野氏らに、「今のソ連はやがて崩壊し、ソ連はロシア中心の国家になる。北方領土だけでなく、極東までソ連は手が及ばないので、日本が経済協力してくれれば、極東は日本に任せる」とまで発言している。 しかし、この重大な時期に、当時の日本政府は動こうとせず、企業も多くの大企業が、ソ連と経済協力することに消極的で、北方領土だけでなく、極東全域を日本の影響下に置くことができるという可能性に背を向けたのだ。 現在のロシアは石油資源と、プーチンの政治力などで力を取り戻し、北方領土には資金をつぎ込み、ロシア住民の生活向上、経済開発に力を入れており、かつての、歯舞、色丹2島返還ですら、ロシアが難色を示す状況になっている。にもかかわらず、2島だけでも返還してほしいという声は日本国内では、否定される状況で、北方領土返還は膠着状態である。
(政治家は理想と現実の間で仕事をするもの)
最後に、秋葉広島市長が言った「アメリカの核の傘の下からの脱却」という発言について、意見を述べたい。秋葉氏は民主党の元国会議員であり、単に地方行政だけをしてきた人ではない。 そうした、国政にまで関与してきた市長が、こうした発言をするのは無責任だし、スタンドプレー以外の何物でもないと筆者は考える。鳩山前首相が普天間問題について、「国外、最低でも県外」と言って、沖縄県民に、あり得ない希望を与え、現実との間で行き詰まり、首相を辞めないといけなくなったこととよく似た行動だと言える。 アメリカの核の傘の下からの脱却を言うなら、それに代わる国家防衛、安全保障をどうするかを言及した上で、提言しないと、単に、パフォーマンスに言われ、スタンドプレーと言われても仕方がない。
20100806
大卒者就職率、国民年金未納率…数字に見る官僚の思惑
今日の新聞で、今年の春大学を卒業した者の就職率が60%で、前年比、過去最大の下げ幅になったと報道している。一方で、国民年金の納付者が60%を割って、59%になったと報じている。記事はいずれも、大変なことで早急の取り組みが必要と書いている。そして、この記事を取り上げた今朝の朝のテレビ番組では、「何でも評論家」が記事そのままに、「政府、企業は早急な取り組みを」と言っていた。 こうした数字を役人が取り上げ、マスコミに説明し、記事を書かす時には、役人が真相は隠して自分たちの都合のよい方向へ、世論を誘導しようということが多い。しかし、新聞もテレビも役所の広報そのままに、役人の思惑通り記事を書き、テレビもそう解説している。
(少人数学級は教師の雇用対策)
真実と、役人の説明、つまりマスコミの報道との間に大いに相違点がある例の代表が「少人数学級問題」がある。文科省、マスコミの報道は、「大人数だと生徒ひとりひとりに行き届いた指導ができないから、少人数にしないといけない。外国でこんなに大人数で教えている国はない」というものだった。 しかし、真相は「子供の減少で、教師が大量に不要になる」ということである。筆者はこの問題が大きく取り上げられ、40人学級が導入された時に、大蔵省(現財務省)を記者として担当していた。当時の文部省担当の主計官はその後、事務次官まで出世した人だが、彼は、その真相を教えてくれた。 そして、今、また、文科省は35人学級にしようとしている。子供の減少が止まらなく、教師に職を確保するためには、1クラスの生徒の数を更に減らさないといけないからである。 そも、大人数ではまともな教育ができないなら、筆者の時代はどうなる。筆者の時代は1クラス50人だった。小、中、高ともそうである。しかし、今の時代よりはもっとまともな教育を受けていたし、大人数だから、だめだったということは何もなかった。
(大学生の質の実態を知れ)
大卒者が就職できない話は前にも書いたが、最大の原因は大学生が多過ぎるということである。国民全体の所得や生活レベルが上がったから、大学進学希望者が増えるのは当然である。 しかし、今の大学は5割の学生が推薦入学で勉強もせず、苦もなく入学する。そして、大学に入ってからもほとんど勉強らしいことはしていない。成績書を見ると、教授がお情けでギリギリ合格点をつけている学生が大半である。 就職面接で学生の話を聞くと、食事や風呂トイレ、通学時間などを除く、自分が使える時間の内、何にどれくらいの時間を割いているかの割合を聞くと、ほとんどの学生が「アルバイトが7~8割、遊びが2割、勉強は1割」である。 当然、テストをさせると、本当にできない。中学入試の問題が国語、数学、英語で8,9割できない。面接をしていても、採用してもよいと思える学生は、テストに受かった学生の内で、1割もいない。 筆者が採用を担当している会社で面接を受ける学生は、関西なら、国公立大、関関同立以上、東京なら、国公立大、立教、青山、上智、早慶以上の学生である。それでこれである。
(大学が変われば、多くの問題が解決する)
就職難、フリーターの増加、引きこもりの増加、これらの問題の多くは小学校から大学までの教育にあることは明らかである。全体を改革するのは大変だが、少なくても簡単に改革できることがある。詳細は別の機会に述べるが、大学の姿勢を変えることである。 まず、入試、そして、大学での折々の試験を厳密に採点することである。入試では推薦入学、名前を変えただけの推薦入学であるAO入試を廃止し、試験をきちんと受けて、合格した学生だけを受け入れるのである。入試には、アメリカの大学や、かつての日本の学校のように面接を課すことが大切である。 そして、大学内の試験は厳しく採点し、不合格者は進級させないことだ。最後に、国レベルで大学卒業検定試験を実施することである。学内でいくら進級できても、卒業検定に合格しないと、大卒者として認めないとすることである。 天下り先を少しでも広げたい役人の発想からして、なぜ、ここに文科省が気がつき、実現に努力しないか理解できない。文科省の天下り先を少し増やしてあげてもよいから、卒業検定は必要だ。 こうすると、大学生で、勉強が1割というバカげた話はなくなるし、大学生の数は今の4分の1から、多くて3分の1になるだろう。そうすれば、就職難などなくなる。 大学生が少なくなった分、専門学校を増やし、腕に職や技術を身につける生徒を増やすのである。こうすれば、「大学を出たのだから、一流企業で事務職」という発想の下、大企業にこだわり、就職先がないという学生はほとんど消滅する。 教育論的に言うと、大学教育に耐えられる能力を持つ人は同じ世代で8%という統計がある。旧西ドイツは大学に16%の人を進学させ、半分を卒業させないということをやって、大卒者の質の維持を図った。
(本当の年金未納者は全体では数%)
国民年金の未納者の話も、未納者が40%を越えたというと衝撃的だが、日本全体の労働者の内、未納者がどれくらいいるかというと、圧倒的に厚生年金や共済年金加入であり、これらの人は給料からの天引きであるから、未納は特別な事情の人を除いては存在しない。 従って、未納者は日本の全体の労働者の内では、5、6%という状態である。国民保険の未納者が多い、大変だということが報道されると、国民全体に年金に対する不安感を煽り、年金に対する不信感が増大する。 にもかかわらず、厚生労働省がこうした数字を大々的に出し、マスコミに大きく書いてもらう理由は何か。役人がそうする時は、必ず裏の理由がある。それは大変だという世論を作り、それの対策の予算をつけてもらうという、いわゆる焼け太りを狙うことがまず、第一である。もう1つは、だから、年金改革をしないといけないという風潮を作ることである。 最後に、筆者が考えられるのは、未納者への催促は本当に大変である。これを現場の職員が行っている。マスコミが言うように、不況で仕事がない、収入がない人が多いから未納が増えているは嘘だ。経済的に支払うことができない人には、支払い免除、猶予制度があり、それを利用している人は500万人くらいいて、これはここ数年でも、横ばいで増えていない。 未納者の多くは、支払う能力があるのに、払わないという悪質な未納者である。この人たちとのやりとりは大変で、こうした数字を出したいと思う理由に、現場でモラルを欠く人間と接している職員の悲鳴が、この数字に表れている気がする。
20100805
高齢者行方不明問題…役人の責任を追及しないマスコミ
東京足立区で都内最高齢の男性が実は30年以上前に亡くなっていて、年金が2千万円以上、不正に受給されていたことが判明して以来、各市町村で、高齢者の所在確認の作業が行われ、行方不明(つまり、何年も前に死亡していた)という例が全国で数多く報告されている。
(まったくない役人の危機意識、謝罪意識)
この問題をマスコミが取り上げられる時に、必ず、司会者やアナウンサー、そして、評論家、学者が言うことが、生きているか死んでいるかの確認は難しいということと親子関係の断絶である。 社会学者がこうした親子関係を分析するのは、それはそれで、必要なことである。しかし、マスコミがそれよりも前に言わないといけないことは行政の怠慢である。不正受給の年金はもとより、交通の無料パスとか、週2回の食事の供給、風呂の無料券など、多くの行政サービスがお年寄りにはある。これらは税金などの公的な資金から出ているのである。 そうしたものが、チェックもなしに、垂れ流し状態で不法に支払われていたということである。まず、市長や町長が出てきて、謝罪し、至急調査をし、実態把握をしないといけないということではないだろうか。しかし、マスコミの報道のトーンには行政の怠慢を問題視する発言はとても少ない。 政治家も、役人も、一定の権限が与えられ、税金を受け取って、仕事をしている人間にはもっと目的意識を持ち、使命感を持つとともに、自分たちが税金から給料が払われているのだという意識をもってもらわないといけない。今回の出来事はそうしたことを指摘するよい機会なのに、マスコミはなぜか、それを行使しない。
(厚生労働省からの指示がないと何もしないという役人)
そして、市役所や区役所の担当課長が、「訪ねても、家族に本人が会いたくないと言っていると言われたら、それでも、会いたいとは言えない」という話を無批判に報道している。また、多くの市役所、区役所の担当者が言っているのが、「厚生労働省から何にも指示がない」ということである。 こうしたことを平気で言う、役所の課長や市長などは、もう一度、法律を読み直すべきであるし、中央官庁から指示がなければ、何もしないなら、時給の安いパートで十分で、高い給料をとる資格はない。法律には、市役所の担当者は調査する権限が与えられていると書いてある。第一、そうした文言がなくても、税金などの公的な金を支払う以上、当然、チェックはするべきものである。 今回のようなことがなぜ起きるか。その理由は簡単である。役人が役所の中にいて、書類上の仕事をしていて、現場をほとんど歩いていないからである。そして、現場では、安い報酬の非正規の人や、無報酬の民生委員が対応している。市役所、区役所の職員とは、現場で住民と接するのが仕事で、机上の作業だけをしているなら、市役所などいらない。 権限を持っている者は誰でもおごり、不正に権限を使いたい誘惑にかられる。だから、欧米では、「役人、政治家は腐敗するものだ」という前提に立って、監視のシステムを作っている。日本にはこれがない。オンブズマンという人たちがウオッチし、問題を指摘しているが、大きな声にはなっていない。1日も早く、こうした監視体制を整備すべきである。
(日本の高齢者福祉は世界トップレベル)
筆者も体験したが、一定年齢になると、年金関係の書類はもとより、役所から郵便物が届く。入浴料が無料になりますとか、公的な交通機関の料金がただになるというものなどという様々な内容のものである。担当のセクションが違うのか、色々なものが別々にバラバラと届く。 勿論、郵便代はただではないし、資料の印刷代も無料ではない。一元管理し、まとめて一度に連絡すれば、費用は大幅に削減されるはずであるが、そうしたこともしていない。 また、別の機会に詳しく書くが、日本の高齢者福祉の水準は世界的に見ても、トップクラスの水準であり、高齢者優遇社会である。金に余裕があり、財政がありあまっているなら、それもよいが、国の借金が1千兆円と言われる時代に、もう一度見直すべきではないか。高齢者に多額な金をばらまいているから、その子供が親が死んでも、届けずに、その金を不正に受給するという話が出るのだ。 小泉政権の時に、福祉が切り捨てられたという報道をマスコミがした。これは意図的なものであり、嘘である。福祉関係予算は、自然増で放っておくと、1年間に1兆数1千億円づつ増えていく。小泉政権がしたことは、その自然増の1兆数1千億円の内、3千億円を抑える施策をとったのである。しかし、福祉関係者とマスコミは、福祉予算本体を減額すると叫び、その間違い報道がそのまま定着した。マスコミの罪は大きい。 ずっと書いているように、福祉は当然の権利ではない。基本は自助努力と、自分が受け取るのが当然の年金積立てや預金などでできるだけのことはして、足りない分を補ってもらう。そこには感謝の気持が必要だし、不要なら返すという発想がなければいけない。それを当然の権利というように教えてきたので、親が死んでも、葬式もせずに、自宅でミイラ状態で放置し、年金を受け取るというようなことが起きるのである。 これは福祉や高齢者問題だけの話ではない。学校の話でも、病院でも、最近はモンスターペアレンツと言われるような、必要以上の権利を主張する人が増えてきて、学校、病院、警察の関係者などを困らせている。これも、当然の権利ではなく、感謝しながら、必要な人は受け取るものという発想になれば、こんな話はなくなる。
(役所の予算増大増大という問題にならないように)
今回のことをきっかけに、民生委員が不足していて、それが今回のことが起きた、1つの理由と報道しているテレビ局もある。まったくナンセンスだ。民生委員はなぜなり手がすくなくなり、多くの欠員が出ているか。それは仕事が大変なのに、無報酬だからである。また、成功した人が社会に恩返しをするという発想が失われつつあるからである。 無報酬で長く、制度が続いてきたのは、名誉職で、社会的に成功した人が、一種のステータスとして引き受けてきたという面が大きい。民生委員になるためには、それなりの経歴がないと、なれないので、誰でもボランティアでなれる訳ではない。 昔は、社会的に成功した人は社会に恩返しという発想で、無償で世の中の役に立つということをしたが、今の日本にはそんな発想を持つ人はほんの一握りになってしまい、民生委員の引き受けてが少なくなってきてしまった。 また、役所自体も、自分で対応しないといけない現場のことをボランティアに任せきりにしてきたという問題点もある。 ただ、役人という人たちは、何か問題が起きると、その対策だとして、各省庁が多額の予算を計上し、予算を増やそうとする。だから、よほど気をつけないと、今回の騒動も気がついてみたら、対策予算を大きく計上という話につながりかねない。 もっともらしいことを言って、新規の予算を獲得する名人なのである。焼け太りは絶対許してはいけない。
20100804
恒常化している食品偽装
現在の日本はデフレで給料が増えないので、「値下げ」とか「安いこと」はよいこととばかりに、テレビや新聞は値下げや安い店の特集をよくする。テレビのリポーターが「この店ではセットで50円下がりました。助かります」と絶叫している。しかし、見ていて、いつも違和感を覚える。なぜ、それだけ安くなったのかという追求、質問がまったくないのだ。製品価格やサービスは理由なく安くはならない。どこかにしわ寄せがきている。素材の劣化、働く人の労働条件の悪化などである。テレビがマスコミである以上、こうした視点がないのは自殺行為である。
少し前に、食品偽装で摘発され、会社がつぶれた北海道の食品会社、ミートホープの社長が、マスコミに追求され、「あなたたちも知っていたはずです。安いには理由があるのです。安いものを買う人は当然、それを承知で買っていたはずです」と本音を語り、よりマスコミに叩かれたということがあった。
しかし、これは本音であり、食品業界に携わる多くの人から、「言えない本音をよく言ってくれた」という声を聞いた。
スーパーなどで売られている食品を納入する会社は、スーパー側から、「定価をこれくらいカットして、いくらで売ってほしい」と言われる。これは要請ではなく、命令なのだ。力が強い大手はこれを押しのける力はあるが、中堅以下となるとそれはできない。
販売単価が百円、200円というような食品の利益は数円という世界である。それを十円、20円安くしたら、利益は飛んでしまう。それでも、スーパーの命令は断れない。
でも、従来の方法で製造していては、いくら売れても赤字になってしまい、何にもならない。とすれば、コストを削減するしかない。まずは人件費に手をつける。正社員を減らし、パートなどに切り替える。それでも難しい場合は、人数を減らす。残るメンバーの負荷は重くなり、残業は恒常的になる。それでも、赤字なら、食材に手をつける。
食品メーカーだけの話ではない。他の日用品業界でも、同じようなことが起きている。食品メーカーが常に取り上げられやすいのは、口に入り、安全性が重要だからである。
一時期、食品偽装事件が何件も報道された。その後、そうした話がなくなったので、食品偽装事件がなくなったのかといえば、そうではない。巧妙化したり、ここまでは目をつぶるかという暗黙の了解ができているだけである。
中国製の農薬入りの餃子が問題になり、スーパーで食材を買う時に中国製は止めたという人は少なくない。しかし、そういう人がレストランなどで、中国製の食材を使っているとかどうかという点については極めて鈍感で、平気で食べている。
レストランだけではない。スーパーや百貨店などで、テイクアウトで中食と言われる、できあいのおかずを買って帰る場合、その素材が何かということに神経を使う人も少ない。
食事がセットで500円、600円となれば、よほどの特別ルートがない限り、食材はかなり劣悪であると考えるのが普通である。
筆者は米の関係者に詳しく、米について聞き、工場見学などをさせてもらったことがある。その時の米穀業者の話がとても印象的だった。「炊いたご飯はとても腐りやすく、半日しかもちません。大量に作る会社では、1日前くらいから作ります。当然、もちませんから防腐剤を使います。防腐剤を入れないと、2、3時間しか持たないので価格が高くなります」 こう言った米穀業者は目安を教えてくれた。「駅弁でもコンビニ弁当でも、千円以下のものはほとんど間違いなく大量の防腐剤が入っていると思ってよいでしょう。安心して食べたいなら、1200円、1500円のものを買ってください」
日本人の新生児のおよそ60%がアトピーを患っているという統計がある。世界で、これは異常な数字である。アトピーは多くの人は成人とともに直っていくが、成人になっても、直らず苦しんでいる人も少なくない。にもかかわらず、なぜだという理由の徹底的な解明も行われていないし、その対策も打たれていない。日本は本当に不思議な国である。
こうした問題に詳しい人に話を聞くと、防腐剤、保存剤、着色剤、染髪剤、汚れた水、大気汚染などが原因ではないかという。大気汚染や水道水の質などは個人ではどうしようもない。しかし、防腐剤、保存剤、着色剤、染髪剤などは個人で、対応ができるのだ。
20100802
かつて優秀だったキャリア官僚が駄目になった理由
本日発売の週刊誌に官僚が現在の菅政権など政治についての放談会を掲載している。言いたい放題だが、その内容はともかく、多くの国民は財務省や経済産業省の役人など言っても、付き合ったことがないので、どんな人か知らない。東大法学部を優秀な成績で卒業した人なら、頭がよく任せて大丈夫だと思っていると思うが、実態はまったく違う。
江戸時代の幕府の官僚は別として、近代になっての官僚の評価はというと、明治維新後の高級官僚は長州、薩摩などの地方の下級武士からの成り上がり者が多く、また彼らは権威を笠に威張りちらし、権力を乱用し、私腹を肥やしたことも少なからずあったので、国民の評価は決して高くない。むしろ、その横暴と、権力乱用を多くに国民が怒り、反発していたという多くの資料が残されている。
また、昭和時代、絶対してはいけない戦争に突入し、多くの国民、および、周辺国の人たちに多大の迷惑をかけたのは、軍隊の現場の兵隊ではなく、現場を知らないエリートの軍官僚たちだった。
軍人としての能力ではなく、士官学校を優秀な成績で卒業したとか、親の血統がよいからというようなことで、軍官僚組織で頂点近くまで登りつめて行った人たちが戦争への暴走の道に、国を引きずりこんだのである。
このように決して評価が高くなかった日本の官僚が優秀だと言われるようになったのは、戦後の奇跡と言える日本の復興がきっかけである。日本の奇跡の復興を外国人の目で分析した、イギリスの雑誌、エコノミストが、日本が奇跡の復興をした7つの理由というのを書き、その中で、7つの1つとして、官僚の優秀さを挙げ、それが日本に逆輸入され、日本の官僚は優秀だという神話が生まれた。(戦後、官僚が優秀だったのは、見本があったため)
確かに戦後の混乱から復興にあたっては、前に書いた吉田茂などの政治家とともに、官僚が多くの貢献をした。そも、吉田茂も、岸信介も、池田勇人も、佐藤栄作も局長、次官クラスまで行った官僚OBである。
戦後、日本のキャリア官僚が優秀だったのは、欧米に追い付け追い越せのスローガンの下、アメリカなどの優れた方式、アイデアを模倣し、それを日本にどんどん導入し、政府も資金を投入して企業を支援し、日本が経済大国になっていったためである。
東大法学部を卒業したキャリア官僚は、模範回答があり、それを真似て実行するということは、得意中の得意である。言われたことをその通り覚えて、試験で高得点をとって、東大に入り、そこでも同じやり方でよい成績をあげることができた人間たちには、うってつけの場所が提供されていたのである。
当時のアメリカは今以上に世界で独り勝ちで、余裕もあり、日本が教えてほしいと言えば、おおらかに何でも教えてくれたし、アイデアの物真似をされても、鷹揚に受け流す力もあった。だから日本は外国発のアイデアを真似して、改良して、よい自動車や家電製品、コンピューター、機械を作っても、問題がなかったのだ。
ところが、1969年(昭和44年)、日本が自由経済圏で、アメリカに次いで、世界第二位の経済大国になったあたりから、状況が大きく変わってきた。日本の上昇、同じようにドイツの復興などとともに、アメリカの地盤沈下が進み、おおらかに日本の行動を無視できなくなってきた。それが、日本に対して自由化や、円の急激な切り上げという厳しい要求となってくるのである。
1980年代になって、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われる頃になってくると、日本が真似るモデルがなくなってきた。製品アイデアも、知的財産権という発想が強くなり、勝手に物真似ができなくなってきた。こうした軋轢が、その少し前に起きたコンピューターの特許侵害のIMB事件につながっていったのだ。
先頭を走り、見本がない状態になると、前例を見て、それを真似して高得点をとるという官僚型の人間はまったく機能しなくなってきた。石油危機の乗り切りは、政官財の協力でうまく乗り切ったが、それ以降、日本の官僚が行ったことは成功例はほとんどなく、失敗の連続だった。ゆとり教育は日本の教育をズタズタにしたし、テーマパークなどという愚策は日本各自治体に多大の借金を残した。
そして、そういう時代になると、官僚の最大の構造的欠陥である前例主義が事態をより悪化させていく。前例主義は、先輩の前例はよいものであり、それ批判をし、修正をしてはいけないだけに、よりよい修正ができなくなり、状況が大きく変化し、機敏な対応が必要な時代には思考停止の人たちの国民の命を預けている状態になったのだ。
記者として、長年、多くのキャリア官僚と付き合ってきたので、彼らの発想や行動パターンはよく理解できている。ところが、今のマスコミは相変わらず、彼らの同じ手口に振り回され、好き勝手を許している。
1つの例を示そう。今のJR、当時の国鉄が多赤字で、多くの路線を廃止しないといけなくなった時、普通なら、赤字の多い路線を廃止していく。しかし、地域の事情で廃止できない路線がある。かと言って、この路線には、こんな事情があってという話をすると、どこの地区からも同じような話が出て、収拾がつかなくなる。そこで官僚は何をしたかというと、全国の路線の周辺のありとあらゆるデータを集めた。学校、病院、住民の数、お年寄りの数など。そして、個々の事情を言わずに、いかにも客観的に見える基準を作り、救済しないといけない路線を廃止からはずしていけるようにしたのである。
つまり、役人はまず、自分たちの結論を決め、それに向けて様々な情報やデータを集め、それを自分たちのしたいことがいかに正当であるかということをまとめあげていくのである。
また、自分たちの都合の悪い相手や状況には、相手の弱点や問題点をマスコミにリークし、相手を叩きつぶしていくのだ。最近の例で言えば、郵政グループのトップだった、元住友銀行の西川頭取を叩きつぶしたのがわかりやすい。東京郵便局の建物が歴史的な遺産であるとか、簡保の宿のまとめての売却はいかにも疑惑がありそうな話にでっちあげ、彼を引きずり下ろした。
こうした時に、彼らがするのは、大臣や政治家、評論家にデータを自分の都合のよいように流し、おかしいと言わせ、自分たちが前面に出ることなく、敵を倒すのである。郵政の例で言えば、当時の鳩山大臣が完全に利用された。そして、マスコミも結果として、郵政官僚によいように利用されたのである。結果は、最悪の大蔵省元事務次官の斉藤氏が郵政会社グループのトップになり、その他、首脳も旧郵政省官僚で占めるようになってしまった。
筆者はだから、官僚は排除しろというような、民主党の鳩山政権下のような馬鹿はことは言うつもりはない。そういうようなことを言うと、官僚はサボタージュをして情報を上げなくなる。そうなれば、政治家は仕事ができなくなり、官僚に降参して、参議院選挙前の菅首相の突然、消費税を言いだすようなことになるからである。
官僚は組織として使わないといけない。ただ、これも前に書いたが、局長クラス以上の人事権は大臣、首相が握り、官僚を支配しないと、彼らは暴走する。
これからの官僚、特にキャリア官僚の役割は2つである。1つは法律の番人としての、政府行動のチェック機能、もう1つは、シンクタンクとしての、新規の政策アイデアを考え出すことである。チェック機能をする人は企業の法務部のような存在なので、キャリア官僚の内の5%位で充分である。シンクタンク機能は東大法学部卒の人からは出てこない。もっと、文学部や芸術学部卒などの人を多く雇い、前例を無視する発想でアイデアを出してもらうことである。
官僚は優秀というよりも悪知恵が働くし、放っておくと、悪さをする。首相、大臣、知事が無能だと、これを無視して好き勝手を始める。横山ノック時代の大阪府、青島都政時代の東京都などはまさにこれであり、今の民主党政権はこの道を歩んでいる。今、多くの官僚が、「自民党時代よりも、民主党政権下の方が楽で、好き勝手ができる」と言っている。
官僚は人事権で政治家がコントロールしつつ、有能な部分を使うようにしない。また、筆者が前に書いたように、「不作為の罪」という概念を官僚に適用し、しかるべきことをしなかった場合は、罪の問われるというようにしないいけない。現在のように、その2つのタガがないと、暴動するのだということを忘れてはいけない。
20100731
年金問題の解決は簡単
世界でも有数の高齢者として知られていた人が実は30年あまり前に死亡していて、その家族が年金を30年もの間、不正に受け取っていたということが報道されている。不正受給額は2000万円を越えるという。 財政がパンク状態なのに、年金や手当の支給の現場には緊張感がなく不正受給はとても多い。この問題が発覚した時に、不正がわからなかったのかという質問に対して、「本人が誰にも会いたくないと言っていると家族が言うので、何十年も会っていない」と区役所の担当者は答えている。正に役人に発想である。国民の血税を預かっているという意識がない。
(高齢者対象に、5年に1回は巡回は当然)
生活保護を受けている人がその金でパチンコをして遊んでいるなど不正受給の話が出ると、テレビのコメンテーターや役所の人が決まっていうのは、不正は本のわずかだということと、人を疑ってかかる訳にはいかないということである。しかし、筆者はだから、不正受給が広がり、今回のような30年もの間、死んだ人の家族に税金から金を払うということが起きるのだと言いたい。 毎年行かなくてよい。5年に1回は一定以上の高齢者には役所が巡回して会い、健康状態を確認し、必要な記念品を贈るなどの対応をするのは当然であると思う。金は渡しています。でも、実態は知りません。それは仕事ではない。尊敬もしていない。 今回、足立の人がパンドラの箱を開けたので、同じ手口がどんどん出て来ると思うし、既に同じ手口で不正受給している人がいるかもしれない。 団塊の世代が定年退職するようになり、大量な人が年金生活に突入し始めた。この時期だからこそ、年金問題というのは一日も早く、抜本的な改革が大切だと思う。
(まずは、年金に対する意識を変えること)
年金改革で一番先にしないといけないことは、年金に対する考え方を変えることである。JALが経営危機になり、会社の再生のために、企業年金の減額の方針を会社が打ち出した時に、OBから、「当然の権利を削れなんて、とんでもない」という反発が出た。筆者はこの意識を変えることがまず大事だと思う。 今の70歳代、80歳代の人がもらっている年金は、厚生年金でも、企業年金でも、今もらっている金額は当然の権利ではない。自分が拠出、積立てした金額の何倍のものを受け取っている。つまり何分の一は当然の権利だが、大半は当然の権利ではなく、恩恵なのである。ならば、全額を当然もらう権利があるのではない。 国がまずしないといけないことは、こうした事実を国民がしっかり認識するキャンペーンをし、受け取ることを当然とするのではなく、感謝の気持を持つようにすることである。そして、財政難などの時には、年金の減額もあるということを徹底させることである。
(資産、年収による減額、支給停止)
今の日本では、資産が何十億円もっていようと、年収がいくらあろうと、70歳などの一定年齢になると、年金が自動支給になる。まず、この考えを改めることだ。金があまっている人に、財政がパンク状態の国が年金を支払うことはない。 現にイギリスでは、自分が頑張って成功したと思える人は年金の返上を宣言する。年金を返上することが人生の成功者の記であり、返上宣言は誇りを持って言うことなのである。 これに対して、日本はまったく違う発想である。筆者の知人で、有名なある経営者が「自分は70歳を過ぎても、収入が結構あるし、資産もあるので、年金は要らない」と言ったら、官庁の幹部が飛んできて、「1人でも例外を作ると制度が崩壊します。是非収めてください」と言って、強引に受け取らせたというのである。 筆者は年齢が何歳であろうと、一定年収以上の収入がある人は少なくても厚生年金、国民年金、共済年金は停止したり、減額するという法律を作るべきだと思う。当然、一定金額以上の企業年金をもらっている人は厚生年金の支給は停止になる。資産も同様である。自分が住む家以外に1億円を越える不動産資産や金融資産を所有する人も年金の支払者から除外するのだ。 なぜ1億円かと言えば、1億円をずっととりくずしていっても、1年間に500万円使って、20年かかるのである。勤労者の定年後の平均余命は、統計的に言えば、20年を切っている。だから、住まいがある人は1億円あれば、その後の生活は対応できるのである。
(支給例外を作ると、手間・費用がかかるという嘘)
こういう話をすると、いつも出て来る官僚の反論は、そんなことをしても浮く費用はたかが知れているし、手間が大変で、逆に費用がかかるというものだ。同じ論法で、子供手当も、高校の教育費無料化も、年収が何千万あろうと何億あろうと、支給された。 これは真っ赤な嘘である。市役所(区役所)は住民の所得を補足している。だから、住民税を課すことができるのだ。そのデータは課は別でも役所の中にある。同じ役所の中で、しかもコンピューターにあるデータを相互利用し、活用することに、多くの費用がかかるということ自体、役人が仕事をさぼっていることの証明でしかない。 もう1つ、必ず、役人や学者がする反論が、所得制限などや少しの節約をしても、浮く金はたかが知れていますというのがある。これもまったく間違いだ。金額の多い少ないではなく、モラルの問題なのである。 国会議員の特権的な議員年金制度が廃止されたのも、議員の歳費を月割にしろという話も、それで浮く費用など、国全体の赤字からすれば、たかが知れている。しかしそれを率先してしないと、多くの国民が消費税の導入など新しい痛みに賛成はしない。だから、大岡政談の「三方一両損」が受けるのである。
(まずは基礎年金の統一を)
今年金は、会社勤めの人が入る厚生年金、商店主などの自営業者が入る国民年金、そして、役人が入る共済年金の3つがある。この3つの統合で国民に年金受取で差がないようにしようという話は大分前から出ているが、役人と、その労働組合が猛反対して、統合の見通しは立っていない。 世界的に見ると、国家が財政赤字になって、厳しい状態になると、今のギリシャではないが、まず、するのが、公務員の給料、賞与、年金のカットである。それは、財政赤字の大きな原因に公務員がいるという認識をどこの国でもするからである。 筆者は3つは単純統一ではなく、基礎年金の部分をまず、すみやかに統合すべきであると考える。ここは3つの年金でもほとんど差がなく、統一が比較的簡単にできるからである。そして、厚生年金や共済年金の2階建て、3階建ての部分は、それぞれの財政状況を見て、支給額の見直しをすべきであると考える。公務員は財政赤字なのだから、年金の半減などは当然である。
(自分の年金は自分で貯める方式に)
そして、1日も早く、今の現役世代が払っている金から年金を受け取る制度ではなく、自分が支払った拠出は、自分名義で蓄えられ、それを自分が受け取るという制度に切り替えるべきである。その原資は年金積立金はもとより、国有財産の売却、1400兆円と言われる個人金融資産への課税などで賄うのである。 これは何回も金がかかるのではない。切り替えに1回大きな金がかかるだけである。こうすれば、年金を例えば、5年しか積み立てていない人でも、自分の積み立てた金は受け取れるようになり、30年積立てたが、何年か足りなくて、年金がまったく受け取れないというようなバカな話はなくなる。 資産の売却の話だが、東京の中心にあれだけ広大な土地を東大が持つ必要はまったくないし、都心の一等地に公務員宿舎がある必要もない。天皇のお住まいは元々京都であり、今でも御所の用地は広大な土地がそのまま管理されている。天皇は元々の住まいである京都に御帰りいただけば、皇居という広大な用地が再利用でき、そこからの収入は計り知れない。こんなことを書くと、右翼と称する人から攻撃されそうだが、国民の痛みを一番感じ、心を痛めている天皇陛下は多分、賛成されると思う。
20100729
死刑問題の解決は簡単…終身刑を作ること
選挙で落選したまま職にとどまっている千葉法務大臣が署名して、2人の死刑囚が処刑されたことで、新聞、テレビがまた死刑問題をとりあげている。こうした問題が起きると、マスコミは難しい問題なので、皆さんで考えましょうというトーンで対立する双方の意見を紹介するという姿勢でずっと来ている。
(難問が解決できないのは、する習慣がなかっただけ)
しかし、筆者がずっと書いているように、日本の難問と言われる問題は、そのほとんどについて、解決策が既に見つかっている。それにもかかわらず、実行されない理由は2つある。 1つは、現在の制度で恩恵を被っていて、現在の制度が変更されると、損をする人がいて、その少数だが、強行に反対する人が大声で反対するので、自分にとって別に得になる訳でもない消極的賛成者が引っ込んでしまうことである。 2つ目の理由は、西欧だと、子供の時から、議論をすれば、必ず勝ち負けが出て、負けた方は、勝った人の考えに従うという考え方が身についているが、日本は議論が起きると、第三者が「まあまあまあ」と言って、間に入り、つき詰めた議論をしないで、うやむやにする習慣が身についていて、ものごとを論理的に処理するやり方を議会でも、行政でもしてこなかったのである。 日本が経済大国で、日の出の勢いの時は、ばらまく金があり、社会党のような反対勢力にも、顔を立てる飴玉を出す余裕があったが、今の財政難の時代にはそれはないし、日本人も少なくても、学校教育で、西欧合理主義を教わり始めて、百年は経つので、もうそろそろ、議論で勝った方の意見を負けた方が認めるということをしないといけない時代になっていると思う。
(国民の8割が支持する死刑制度存続)
死刑問題は、国民の8割が死刑を支持している。その一方で、世界的に見れば、死刑を継続している国が80数カ国なのに対して、廃止した国が百カ国を越え、人権団体などから、日本での死刑の廃止を求める声が強くなっているとともに、宗教家や弁護士などからも、廃止を訴えることがあり、意見が対立しているということである。 そういう状況の中で、死刑に消極的な人が法務大臣になると、死刑の執行命令に署名をしないので、死刑囚が死刑を執行されないまま、大量に存在するという異常な事態になっている。 刑事訴訟法では、死刑が確定した人は6カ月以内に、死刑を執行しないといけなくなっている。それを実行しない法務大臣は法律違反者であり、法律を守ることの番人である大臣としては失格である。心情的に、死刑に反対する人は法務大臣を引き受けてはいけない。話があった時に、断ればよいだけのことだ。それを引き受けて、サインをしないので問題が大きくなるのだ。
(終身刑プラス、合算での判決の導入)
客観的なデータとして言えば、殺人などの凶悪犯罪を犯す人の再犯率は8割くらいで、その人が人間として悔い改め、社会復帰をする可能性は極めて少ない。殺人、女性暴行、強盗などの事案は再犯性が高いのであり、何人も殺した人間を社会復帰させるというのは現実的ではない。 アメリカなどでは、殺人者、女性暴行者などは、社会復帰した後、その人が住む周辺住民には、そういう人が近くに住んでいるという情報が公開されたりしている。他の人が警戒をするためである。しかし、日本でそれを実行しようとすれば、人権家たちが猛反対するだろうし、もし、法案が通っても、朝日新聞などは猛反対の原稿を書き続けるだろうし、現実的ではない。 しかし、では、解決策はないかと言えば、ある。簡単である。死刑の次に重い刑が無期懲役な日本の制度を改革して、終身刑を導入すれば、よいのである。恩赦や特赦の対象にならないで、一生刑務所から出られないようにすれば、被害者の家族の心情にも配慮できるし、普通の人が再犯におびえることもない。 日本の刑法では、人が複数の犯罪を犯した時に、その中で、一番重い犯罪で裁判を行い、それを中心に判決を言い渡すという発想に立っている。これに対して、アメリカでは複数のそれぞれの犯罪で刑を言い渡し、合計する。だから、終身刑プラス百年というような判決になるのだ。日本も、この考え方に立てば、悪質犯、重大事件犯は明確になる。
(発想の転換が必要)
また、日本では、2人以上殺さないと死刑にならないという非常にバカげた慣習がある。しかも、2人は大人でないといけない。光市での母子殺人事件で、土間に叩きつけられて殺された赤ちゃんは0.5人と勘定され、容疑者は死刑ではない判決を受けたので、被害者の夫がおかしいと訴え続けた。 日本の官僚、裁判官など、東大法学部出身者を中心とする人たちの発想には、量はあって質はないのである。例え、殺した人が1人でも残忍であれば、死刑の判決は当然と思うが、個々の判断を認めない考えなのだ。これは、人を信用せず、ルール、原則で縛るという典型的な発想である。これもなくさないといけない。量だけでなく、質で判決を言い渡すという発想に変えるのである。 死刑を廃止した場合、終身刑の人は一生刑務所から出られない。今現在、過去の法務大臣の怠慢で、死刑判決を受けながら、死刑になっていない死刑囚は既に百人を越えている。死刑がなくなれば、終身刑の人はどんどんたまって行き、あっという間に数百人になるだろう。 となると、この人たちをどうするかという問題が起きて来る。筆者の考えでは、離島とか地方の辺鄙な場所に、終身刑犯専用の刑務所を作る。一生刑務所から出られないのだから、長く、そこにいることになり、その経費もバカにならない。そこで、その刑務所にいる囚人は、自分の生活費は自分で稼ぐようにするのだ。 アメリカの刑務所では、刑務所、囚人の増加とともに、経費の増大が問題になり、刑務所の民間委託が増えている。そして、その一環で、歯ブラシ1つでも有料となってきていて、囚人は自分で作業を行い、その収入で、自分が必要とする経費を自分で出すようにするのである。
(死刑廃止論者が具体案を作る努力を)
筆者の考える細部は、筆者の考えであり、別のアイデアがあるかもしれない。要は死刑をなくすなら、絶対、刑務所から出られない終身犯という制度を作り、囚人は自活をするということだけである。 死刑廃止問題で、いつも不思議に思うのは、死刑廃止を声高に言う人に限って、それでは、死刑廃止の実現に向けて、死刑存続論者が納得できる対案を出そうとしないことである。これをみていると、死刑廃止論者は、格好、ポーズで死刑廃止を言っているだけで、本気で死刑廃止を実現しようと思っていないように感じられる。 筆者は基本的に、死刑存続論者である。凶悪犯罪者を取材で、何人も取材してきた。その体験からすると、絶対社会復帰は無理という人は結構いる。しかし、もし死刑を廃止しないとするなら、その時には、上に書いたような条件を整備しないと、筆者だけでなく、多くの死刑存続論者を納得させることはできない。それを廃止論者は真剣に考えるべきである。具体案は簡単にできるそれをしないのは、死刑反対論者の怠慢である。
20100728
日本式「地デジ」で利益を得るのは誰か
(盛んな政府の地デジキャンペーン)
政府が予定しているテレビの地デジ化まで、1年を切り、総務省はあの手この手の地デジキャンペーンをしている。それをまた、総務省の命令で、各テレビ局が報道している。 既に地デジでテレビを見ている人はご存じないと思うが、これまでのアナログテレビで画面を見ると、1日に何回も「今見ているアナログ放送は来年で放送終了」というスーパーが流れる。 ただ、ス-パーが流れるのではなく、テレビの画面に枠を作り、見える画面を小さくして、周囲に「地デジにしないと、テレビが見ることができなくなる」と、危機感を煽る文字を配置している。見ていて、とても見苦しいし、邪魔である。 総務省の発表では、テレビを既に地デジ化した世帯は83%だという。しかし、今のなりふり構わずのキャンペーン状況をみると、筆者はこの数字は嘘だと思う。 身の回りにいる人たちと話をしても、地デジに切り替えたという人がほとんどという感じではない。第一、それだけ多くの人が地デジに切り替えたのなら、そこまでしつこく、スーパーやキャンペーンをする必要はないはずである。 先日、テレビのクイズ番組で、ある有名タレントが、東京キー局のテレビ朝日のチャンネルを十と言って、同じ出演者に、「嫌だ、あなたはまだ地デジ化が終わっていないの。地デジでは5チャンネルでしょう」と言われるというシーンがあった。 また、今回地デジ化キャンペーンを依頼され、メインキャラクタ-になった有名タレントが、「自分はこれまでアナログでTVを見ていたが、メインキャラクターに登用されたので、それを機会に、切り替えた」と話をしていた。テレビを主な活躍の場とする、有名タレントでこうである。 記者時代に、役所が発表するデータや数字をもとに多くの原稿を書いた経験があるが、その時でも、おかしいと思うことは少なくなかったし、後になって、やはり、あれは嘘とか、国民を誘導するための話というのが多かった。 体験から言うと、役人は自分たちが、こうしたいという方向に国民の世論をもっていくために、データのある部分を極端に誇張して話を作ることは珍しくない。今の少子高齢化で大変だという話についても、筆者は役人の増税のための世論作りの臭いを感じさえする。
(電波の開放がなぜ行われないか)
それはともかく、地デジ化とは何かという、そもそもの議論があまりマスコミで報道されない。許認可権を持たれて、首根っこを押さえられているテレビ局は仕方がないとして、新聞、雑誌はもっとこの問題の本質を報道すべきであると思う。 政府の大義名分は、アナログからデジタルにすることで、電波をより効率的使え、有限なる資源である電波のよりよい活用のためにもデジタル化が必要だということである。そして、世界の主要国でもデジタル化が進んでいることが、自分たちがやっていることの正当性の証明であるような話を総務省、政府は言っている。 デジタル化が進んだ他の国と日本との間に大きく異なることが2つある。1つは地デジか先進国のアメリカでは、電波の開放ということが行われた。ビジネスなどで電波を利用したいと希望する人は多い。しかし、電波利用が開始した当初に利用権を与えられたテレビ局、ラジオ局、消防、警察、航空などが既に使っていて、他業者が入り込む余地がなかった。 それがデジタル化で、使える電波域が増え、アメリカではその利用可能になった電波について、オークションが行われ、新規に仕事で電波を利用できる人が増えた。しかし、日本の総務省はこの電波の開放については、消極的で、ほとんど何もしていない・
2つ目はアメリカでテレビを見ている人の圧倒的に多数の人は、ケーブルテレビ(CS)を見ているということである。その結果、一般の視聴者は地デジ化で何もする必要がない。従来のテレビ機器でデジタル放送が見ることができるようになった。つまり、ほとんどの国民は負担ゼロでデジタルに切り替わったのだ。 そのアメリカでも、ケーブルテレビ(CS)ではなく、テレビを見ている人も結構いたので、アナログからデジタルへの変更には慎重で、時期を延期するなどの措置をとっている。 翻って、日本ではケーブルテレビ(CS)でテレビを見ている所帯は1割にも行かない。つまり、ほとんどの国民は自己負担で、テレビ受像機やアンテナを取り替えないといけない。つまり、国民の大きな負担を強いての地デジ化である。明らかにこれは政策としておかしい。 最近、有識者が地デジ化対策が遅れているので、1年後の切り替えは延期すべきであるとの提言をしたが、総務大臣はすぐに記者会見で、延期はしないと述べた。 地デジ化が一番遅れているのは、実は東京を中心とする首都圏である。これはマンション生活をする人が多く、そのマンションのビルとしての地デジ化が進まないのだ。 デジタルの電波は方向性が強い。大都会には大きな建物が多く建っている。その中で、きちんとデジタルで電波を各視聴者に届けるための工事が結構大変なのである。
(何のための地デジ化)
海外と大きく異なる環境の中で、無理して地デジ化を強行しようとするのはなぜか。一説には、家電業界が不況で、新しい大きな需要を生む製品を欲していて、それに地デジ化が大きな役割を果たしたという話がある。あり得る話だが、そうだとするなら、政府はどこを見て政策をしているのかと言いたい。 一番の当事者であるテレビ局は、総務省が監督官庁であるので、キャンペーンに付き合っているが、彼らも実は被害者である。地デジ化に要する経費は、日本全体で1兆円を超すと言われる。テレビ局がその多くを負担するが、彼らにはデジタル化のメリットはほとんどない。不況でCM収入が減っているテレビ局は大変である。 テレビ局で唯一、メリットを享受するのはNHKである。アナログ放送には、そんな機能はないが、デジタルになると、視聴者が受信料を払っているかどうかチェックできる機能がついていて、受信料契約をしていない人には、契約をしてくださいという表示が画面一杯に出る。こういうのを見ると、推進者に1人にNHKがいたのかと感じる。
20100901
民主党政権下で聞こえてくる官僚の高笑い
何回も書いているが、官僚と言う人たちは、本当にしたたかだ。自分たちにとって追い風の時は勿論、逆風の時でも、自分たちの権力拡大、権益拡大に全力をあげる。
多くのパターンは大変だ、大変だと大騒ぎして、世論がそんなに大変なら、役所は何とかしないといけないというムードを作る。そして、それだけ大変なのだから、対策をしないといけないというようになり、新規に予算を獲得していくのだ。
多くの国民が日本の農業は国際競争力がなく、老齢化が進み、援助、補助が必要だと考えている。だから、小沢氏などが熱心な農家の戸別保障という話になってくる。
しかし、農業問題の専門家に言わせると、日本の農業は強い。世界全体で第5位の規模、力を持っている。先進国の中ではアメリカに次いで、世界2位の力なのだという。現に日本の米や牛肉は、海外で高い評価を受け、リンゴの中南米からも注文が来るほどだ。
では、どうしてそうしたイメージを多くの国民が抱くかと言えば、農水省がそういうデータを嫌という程、記者に示し、記者に「日本の農業は弱い」という原稿を書かせているからである。
なぜ、そうするか。食の問題は国家の存立にかかわるので、外国に席巻させる訳にはいかない。だから、農家に補助金を出して、外国との競争に耐えるようにしないといけないというように、国民が思う風潮を作り、農水省は巨額の予算を獲得するのである。
日本の食糧自給率は40%で大変だということがよく言われるが、日本のデータはエネルギーベースという海外では使われていない変な方式で計算している。理由は簡単だ。エネルギーベースにすると、自給率が下がるからである。
普通の国が使っている金額ベースだと、自給率は50%を越える。そもそも、肉牛などや牛乳などは、自給率がゼロやゼロに近い数字になっている。その理由は牛のエサが海外から入れているからという勝手の理由からである。データの都合のよい改ざん、方式の変更は官僚にとって朝飯前である。
多くの予算を獲得すれば、天下りなどの組織も自然にできてくるし、利権も多く生まれてくる。官僚にとっては、おいしいことになる。
しかし、日本だけでなく、世界の経済の歴史でも、国が補助金をつけて保護した業界は、本来、淘汰されるべき弱者が多く生き残り、一生懸命に仕事をして、規模を拡大することができる強者の拡大を阻害する。結果、非効率が生き残り、業界としての競争力は保護で逆に弱まっていくのである。
農業の減反政策などはその典型で、全農家に一律に減反を強いた。その結果、海外と競争しても勝てるようにという発想の下で開墾された八郎潟の干拓地などは、行ってみるとわかるが、ペンペン草が生えているくらい無残な状態である。
今、民主党が成立させようとしている農家の戸別保障も、それで農家に補償金が入るということを見込んで、法律の成立を前に、既に、コメの価格などは下がってきていて、補償金が入っても、農家にとっては何のメリットもなくなってきているという。
農水省だけではない。民主党政権下で一番、権益を拡大しているのが財務省である。国民に喝采を浴びた、民主党政権下で唯一の得点と言われる事業仕分けだが、実はどの事業が問題で、どの事業を仕分けるべきだというデータは全部、財務省に頼っている。
財務省は自分たちに都合のよいデータを出し、切りたい事業をこれは無駄ですと、民主党の議員に示す。それを元に民主党の議員がテレビ映りのよいパフォーマンスをする。結果は、財務省の思惑通りに進んでいる。
財務省が大所高所から、国のために仕分けを真剣に考えて、民主党の力を借りて、予算の仕分けをしているなら、それでも、まだ許せるが、自分の省庁のことは、切らないといけない部分も事業仕分けの俎上に乗せずに、逆に過去に無駄とか、民間化が相当と言われた事業を復活することを画策している。
自民党は派閥政治だから駄目、族議員が暗躍するから駄目というのは、マスコミがずっと書いてきたことである。しかし、「族議員」という言葉は「悪」のイメージがあるが、実際は1年生議員の時から、どこかの部会に入り、自分の専門分野を作って、その勉強をしていっているというのが族議員の実態である。
この結果、かつての橋本元首相のように、厚生族として30年とか、森元首相のように文教族として何十年という議員が自民党には多くいる。こうなると、官僚が好き勝手に、自分たちの都合のよいようにデータを作り、権益を拡大しようとしても、「それは駄目」という歯止めをかけることができる。
キャリア官僚は1、2年で、自分の担当が変わる。従って、それぞれの分野に実はそれほど詳しい訳ではない。だから、族議員に権力でなく、知識、経験で勝てなくなってくるのだ。だから、自民党政権下では、不正や癒着もあったが、官僚の暴走に歯止めがきいた。
だが、今の民主党政権では、この族議員、つまり、それぞれの分野での専門家がいない。だから、必要な対策がとれないし、変な自称、専門家のアドバイスにひっかかり、普天間で前より事態を悪くしたり、円高対策も打てないのだ。
年金問題の追及で、国民的人気を博した長妻厚生労働大臣は、今では、あまりの無知、見識のなさ、定見のなさから、官僚からバカにされ、相手にされていない。だから、厚生労働省は確実に自民党政権下時代よりも、機能不全に陥っている。
自ら、通産省の高級官僚として活躍した堺屋太一氏が「官僚組織を解体しないと日本の再生はない」という趣旨を言っているのは、官僚の実態を知っているからである。
官僚は歯止めをかけないと暴走する。今、民主党政権下で、官僚は高笑いをして、好き勝手を始めようとしている。
かつて、東京都庁で青島幸男氏が都知事になった時、官僚を指導する知識も見識も、ビジョンもないために、官僚は好き勝手ができたと大喜びだった。大阪府庁での横山ノック氏が知事だった時も、同じである。
政治家が見識を持ち、ビジョンを持って、官僚に指示できるようでないと、官僚はまずはそっぽを向き、次第に、この人なら、何をやってもわからないだろうと、好き勝手なことを始める。そして、大臣を好きに使いだすのである。
菅首相が、ある日、唐突に消費税の話をし始めたことなどは、その裏に財務省官僚の入れ智恵があったと考えると、合点がいく。官僚は頭がよくて、ずる賢い。だから、自分たちの都合のよいように政治家を使う。それを見抜ける人でないと、大臣、ましてや、首相になってはいけないのだ。
こう書くと、菅首相はだめだが、小沢氏なら大丈夫という小沢支持派の議員の声が聞こえてきそうだが、小沢氏は農家の戸別保障政策1つとっても、俯瞰的に国の未来を見据え、ものごとを考えているとは到底思えない。
小沢氏は自分を大きく見せることがうまい政治家である。実際に首相になれば、すぐ化けの皮がはげるだろう。だから、彼は民主党代表選挙に勝っても、自分が首相にはならないだろう。
もし万一、勝って総理になったら、説明は一切せず、問答無用の政治姿勢は独裁国家になり、新進党が短期で離脱者が相次ぎ、崩壊したような状態になるのは必至である。
国民にとっては大いに不幸だが、その民主党を国民が選んだのだから、文句は言えない。
小沢が勝っても、菅が勝っても、民主党政権では日本が壊れる
民主党の代表選は鳩山前首相の元々不可解な仲介作業が不調に終わり、代表選挙に突入することになった。
元々、鳩山氏の仲介は、民主党結党の時に自分が資金を出したので、民主党を自分の党と思い違いをしていることと、仲介をすることで、総理大臣失格として政治的な影響力が落ちた自分の復権を目指していたということであり、勘違い、および、不純な動機である。
一時は代表選挙回避という話になりかけたが、今度は双方の応援団が、ここで妥協したら許さないという姿勢になり、小沢、菅両氏とも引くに引けなくなったのだというのが実情のようである。
それはそうだろう。金まみれの小沢支配から脱する脱小沢で人気が出た菅首相が、ともの金まみれの鳩山、小沢両氏に重要ポストを与えたら、それこそ、重大が看板がなくなり、国民の支持が得られなくなる。
一方、小沢グループの幹部は、菅政権になって要職から外され、党の資金も回らなくなり、これ以上、脱小沢を進められたら、干上がってしまうという危機感がある。
小沢氏が表舞台に出ることで、自分たちもまた、金と力を取り戻したいということである。小沢氏の政治的な手腕に期待というのは付け足しにしか過ぎない。政治家はそんなに理想主義者ではなく現実家だ。
マスコミは、「今の国の危機に、代表選挙で政治空白を作るのはけしからん」という一方で、小沢、菅、鳩山氏の話し合いでポストを決めて、代表選挙を回避したら、「密室談合だ」というに決まっている。マスコミは批判はするが、なら、どうするという対案はない。それがマスコミというものである。
ところで、この1年弱の民主党が政権をとってからやってきたことは、今のような国の非常時に、何もできない無能な政権能力、そして、今回の代表選のバタバタをみての党として、水と油の集団がただ集まっている状態で、まとまりのなさなどを見て、つくづく感じるのは政権担当能力がない民主党に政権を委ねた国民の選択が基本的に間違っていたことである。
小沢一郎氏は政治資金問題で、限りなく黒に近い灰色である。検察審査会の結論で強制起訴になる可能性はかなり高い。検察が起訴しなかったのは、小沢氏が人事などで検察に揺さぶりをかけ、それに怯えた検察首脳が、政治資金問題を不問にすることで、小沢氏と政治的に取引をしたからだと言われている。検察さえ脅し、黙らせる人間が権力の座についたら、何が起きるかと考えるだけでも、恐ろしい。
更に、小沢氏は健康に問題があり、国会の審議でも議場にいないといけない時間の半分くらいしかいない。頻繁に休憩をとらないと、健康がもたないと言われている。だから、小沢氏が選挙に勝っても、総理大臣にならずに、自民党や公明党、みんなの党など、他の政党と連立を組み、他の政党の人間を首相にするのではないかと言われている。
健康問題をどうにか克服しても、もし、小沢氏が首相になったら、国会では、毎回、政治資金のことで質問が相次ぎ、国会は審議ところではなくなる。そんな事情を知っているのに、民主党内では小沢氏を支持する国会議員の方が多く、国会議員レベルでは小沢氏が圧勝だという。
テレビに出て、小沢支持を言う議員は、「今日のような非常時には、小沢さんのような剛腕が必要」という。こういう人にテレビの司会者は、なぜ、小沢氏が新進党時代には、強引な党運営をして、他のメンバーが小沢氏のやり方についていけず、党が解党状態になったことを知った上で、そんなことを言うのかという質問をなぜしないのか不思議である。
一方の菅首相は、野党時代の論客のあの輝きはどうしてしまったのかというくらいの首相としての無能ぶりである。国が壊れそうなくらいひどい円高、株安に何もしない。経済運営音痴もよいところである。
評論家は今の経済対策は難しいとよく言う。しかし、そんなことはない。世界の主要国はほとんど同じことをしている。前にも書いたが、主要国は中央銀行が国債や公社債のようなものを買うことで、市中に資金を大量に出し、最悪状態を何とか忌避している。まずは、それを日本もすればよいだけである。難しくない。
それを何もしないから、日本だけが狙い撃ちされて、急激な円高、株安に向かっているのだ。日銀が対策を発表したが、及び腰の内容で、まったく話にならず、逆に失望を買って、円高、株安は進むだけである。最低、30兆円、40兆円という大幅な資金の放出しかないのに、小出しの十兆円で、しかも姑息なやり方では、バカにされるだけである。
菅首相の経済ブレーンは同じ大学の同窓生で、現在は国立大学の教授をしている人だというが、伝わってくる彼が言っているというアドバイスは、まったくトンチンカンである。大学教授だから、優秀だということはない。日本の教授には、時代遅れの人が多いし、教授に値しない人が多くいる。
民主党政権は、鳩山前首相が取り組んだ普天間問題でもそうだが、特定の知識人の言うことを根拠もなく信じて、失敗をしている。テレビによく出て、したり顔で解説の話をする、その知識人が、この案でアメリカは納得すると鳩山氏に吹き込んだと言われる。だから、アメリカが鳩山氏の案を拒否した時に、鳩山氏は「聞いている話と違う」と言ったという。
民主党政権の誕生には、何回も言っているように、マスコミ、特に大新聞社の力が大きかった。政治部の記者はいつも政治家の周辺にいて取材をしている。中には政治家の相談に乗り、その意向に沿って行動している者も少なくない。是々非々の評論ではなく、当事者なのだ。だから、その当事者から外す行為をした小泉元首相を許せなかったのである。
しかし、横にいて相談に乗っていると、政治の当事者であるという意識で、自分が政治を動かそうという気になる。政治は簡単なもののように思えてくるのだ。だから、自民党から民主党への政権移行でも、問題なく国が動くと考えたのだ。だが、これが根本的に間違っている。
筆者は長年、経済部の記者をしてきた。政治部の記者と同じように、企業の経営者といつも付き合い、夜回りを頻繁にして、家族とも付き合い、経営者から様々な相談に乗ってきた。自分の経験でも、その内に、経営のことは何でもわかるようになってきて、経営者の行動を批評などするようになっていた。
しかし、記者を辞めた後、自分で小さな会社を作って、経営をしてみて感じたことは、「自分は企業経営について、何もわかっていなかった」ということである。実務でやってみると、エッと思うことだらけである。
その時に、記者時代に自分が相談に乗っていた経営者に悩みの話をしたことがある。そうしたら、それまで、自分を立て、相談をよくしてきた経営者が実に含蓄のあるアドバイスをしてくれた。だてに、大企業の社長を長年しているのではないということを実感した。政治でも、経営でも、批評と実践は全く違うのだ。
ずっと書いているように、マスコミにそそのかされて、国民は民主党を選んだ。だが、その判断自体が間違いだったのだ。筆者はずっと、民主党政権では政治はできないと思い、言い続けてきたが、それが現実になってきている。
今、一番喜んでいるのは誰か。それは官僚である。国民に人気が高い「事業仕分け」も、財務省が資料を作り、その意図に乗って行動するだけである。農家への補助金支給も、農水省は大喜びである。
役人は自分たちの権益拡大をするにはどうすべきかということを常に考える人たちである。日本の農業は世界第5位の規模と強さを持っている。にもかかわらず、日本の農業は弱い、援助が必要だと、ほとんどの日本人が思っている。それは農水省のPRが成功したためである。弱ければ、援助、補助が必要だ。そこに、利権がからみ、役人は甘い汁が吸える。
福祉もそうである。福祉、福祉という人は、そこに巨額の金が動くので、必ず利権が絡む。その利権を役人や、事情を知っている関係者がおいしい汁を吸おうとしているのだと考えて、見ないといけない。
大学生が就職できないので援助ということになれば、多額の予算がつき、関係機関が必要になり、官僚の天下り先ができるという構造になる。そうした図式を国民が理解しないといけない。官僚はしたたかなのだ。
政治家にも、官僚にも、是々非々の目を持ち、一方的に期待するのではなく、自分のことは自分でする決意をし、自分で考え、行動する。そうした覚悟が、民主党政権下では必要だ。
20100829
円高、株安は歴史勉強をないがしろにしてきたツケ
政府・日銀の無策で、株が大幅安の状態である。前にも書いたが、世界の主要国が自国の通貨を大量に増発して、経済危機を金融緩和で乗り切ろうとしている中で日本だけが何もしない。
当初、全通貨の3割分を増やしていると言われたアメリカは最近の情報では2倍にまでしているという。ヨーロッパの主要国でも、通貨の供給量を5割位増やしているという。多くの主要国が国債を購入するというような形で、通貨を増発しているのだ。
経済危機の時は、国が公共事業を大幅に増やすというような財政の出動ではなく、中央銀行の通貨の増発という手段で資金を供給してあげることで、資金が滞ったところに資金が行き届くようにしてあげる。これが今、世界の主要国がしていることである。
中央銀行が紙幣を増発して、国債を直接引き受けすることは大インフレの危険性があり、絶対してはいけないことというのが経済の教科書に書いてある。しかし、日本が銀行危機の時に政府が何十兆円という公的資金を投入して、銀行を倒産から救い、立ち直った銀行は公的資金を返済したことがあった。
日本がかつての金融危機の時に実施したことなどを教訓に、他の国が日本の先例を見習い、必死の経済対策を実施している中で、唯一、日本だけが自らの体験を再現していないのだ。古い経済の教科書に縛られて。
世界の主要な経済学者は過去の経済危機の時に、政府や中央銀行は何をし、それが成功したか、失敗したかの検証を行っている。アメリカの連邦銀行のバーナンキ議長などは、その代表例で、そうした検証を元に、手を次々に打っている。
通貨量を増やせば、通貨の単位あたりの価値は当然減る。水増ししているのだから当たり前の話だ。でも、それで経済のテコ入れをするとともに、輸出促進のために、自国の通貨安を意図して実行しているのだ。世界各国の為替安競争の感すらある。
世界の主要国でこうしたことをしている中、日本の日銀や政府は何もしないのだから、円の価値は高くなる。日銀の基本的な姿勢は「円高はよいことだ」である。この時代に合わないドンキホーテの日銀の姿勢に対して、世界の投機筋、投資家が失笑しながら、円を買い、極端な円高になっているのだ。
日本を代表する企業が自動車、家電というように、輸出で稼いでいる中での極端な円高は、輸出が非常に厳しくなり、大幅な株安になるのは当然である。
大企業は海外拠点を増やし海外生産に切り替えれば、どうにか生き残るが、中小企業はそうはいかない。中小企業は倒産したり、リストラに追い込まれていく。また、大企業は海外に出て行く。いずれにしても、多くの日本人が職を失うことになる。
株の下落はそれだけでなく、株価が下がると年金や保険会社の運用などが大幅赤字になり、年金会計などが厳しくなり、保険会社の運用が悪化するからの還付が減るということなのだ。そう、株安は国民に大打撃を与えることなのだ。
自分は株の取引をしていないし、している資産家が損をするのはよい気味だという人もいると思うが、それは違う。株価をあげることは、日本丸という船全体にとって極めて重要なことなのだ。
企業にとってよりも国民にとって大危機なのに、日銀も政府も何もしない。本当におかしな政権だ。「政府ができることは限られているし、為替介入を日本が単独でしても、効果はない」などと、テレビでコメントしている学者やコメンテーターは今世界の他の国で何が起きているか、見ようともしない。
世界の主要国の責任ある立場にある人たちは、歴史に多くを学んでいる。歴史は教訓の宝庫だからである。歴史上の人物や国家が判断のミスで国が滅んだり、人が死んだりしてきている。逆に正しい判断をした人はどういうプロセスや経緯で成功したかが見てとれる。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ということわざすらあるくらいで、海外の大学では歴史を教え、学生にそこから多くの教訓を学び取るように指導している。これに対して、歴史から何も学んでいないのは、歴史研究に封印をした日本だけである。
戦争に負け、自国を否定する、いわゆる自虐史観がはびこり、歴史史観、国のあり方についての価値観が大きく異なる自民党と社会党という二大政党時代が長く続き、歴史論争は封印されてきた。経済発展が最優先で、歴史などどうでもよいという姿勢が65年続いたので、 歴史上の主要人物については、価値観、世界観で対立することのない織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、坂本竜馬という大分以前の人だけが脚光を浴び、明治、大正、昭和の時代、つまり今の日本人に教訓になる時代に活躍した日本人やそのしたことをほとんどの国民が知らない。
日露戦争を始める時に、当時の日本の政治家がロシアとまともに戦えば勝てないということを知っていて、戦争に入る前に当時、ロシアの極東での拡大を快く思っていなかったイギリスと交渉して、イギリスを味方につける工作をしている。
そして、初戦に全力を挙げ、初戦で勝ったところでイギリスに仲介してもらい、戦争を終わらせるというシナリオを描いて戦争に入っている。歴史愛好家には知られた事実だが、教科書で教えるべきことである。これをしないから、負けるのが当然と思えるアメリカとの戦争に、何の準備も対策もなく突入してしまったのだ。
反戦の人たちも、なぜ反戦なのかというと、戦争で食べ物がなかった、親兄弟が死んだというような思いは二度と嫌だという話がほとんどだ。それは反戦ではなく、厭敗戦なのだと、話を聞いていて筆者は感じる。戦争に勝っていれば、そんなことはないからである。
皮肉の言い方をすれば、こうした反戦思想は、戦争に勝てば、途端に戦時中のように、「国ための尽くすのが当然」と言って、主婦が少し派手な格好の若者を取り締まるようなことになりかねない。
国と国が争う時は、個人間の争いや車の衝突による事故と同様に、どちらか一方が悪いということはほとんどない。何割づつかは別として、双方に納得できる言い分があるはずである。それを研究、分析せずに、封印してしまうので、歴史に学ぶという姿勢が見られないのである。
今の円高、株安も、過去の為替変動や株の変動をしっかりと研究し、過去の対策は何が成功で、何が失敗だったかを勉強していれば、慌てることなく、対策が打てたはずだが、今の日本ではそればできない。
20100827
大新聞が応援、成立した民主党政権の実態
来月の民主党代表選挙に小沢一郎氏が立候補を決め、菅首相と一騎打ちになった。マスコミの報道は、円高、株安などで経済が低迷し、早期の緊急対策が必要な時期に、コップの中の争いをしていると批判的なトーンで書いている。
また、検察審査会から強制起訴の結論を出される可能性が大な小沢氏がそれを突破するには、代表になり、首相になるしかないからだというような解説もある。
しかし、今回の争いは、そうした表面的なことではなく、民主党が抱える抜本的な問題が表面化したに過ぎないと筆者は考える。
そもそも、民主党政権はどうして誕生したのだろうか。新聞やテレビの報道をつなげると、自民党政権があまりのひどく、短期間に3人も首相が交代するなど混迷し、政権能力がなくなってきたということである。
しかし、そうだろうか。筆者は個人的には安倍、福田、麻生の元首相は3人とも個人的に決して好きではないが、それにしても、当時のマスコミの自民党攻撃、首相攻撃は行き過ぎで、そこまで言うかという話が多かった。
国会や街頭での演説で、麻生元首相が漢字を読み間違えたということが嫌という程書かれた。しかし、そんな人はこれまででもまったく珍しくなかった。国会の演説で、原稿を1ページ飛ばして読んだというような首相や大臣も珍しくない。言葉の言い違えは日常茶飯事である。これは野党議員でも同じである。
にもかかわらず、マスコミは自民党の首相の些細なことを取りあげ続けた。年金記録の不備などの問題も、それは政治家の問題というよりも、官僚の問題なのに、政治の問題として、自民党を攻撃した。
こうして、マスコミの支援の大合唱の中で民主党政権が誕生したのだ。「国民が歴史的な政権交代を選んだ」というキャッチコピーで。しかし、お粗末な自民党政権よりも、民主党政権の方がもっとお粗末だということが、この1年ほどの民主党政権が証明した。
マスコミがなぜ、自民党の政治をここまで攻撃したか。筆者は理由は簡単だと考える。小泉政権時代、小泉元首相はマスコミの記者よりも、国民との直接対話を大事にし、マスコミと首相との間の慣行をことごとく打破していった。
その慣行は、マスコミの既得権であり、マスコミで働く記者は、それを奪う小泉が許せなかったのである。そして、それが自民党憎しの発想になり、小泉を徹底的叩いただけでなく、その後の自民党政権も攻撃したのである。
ではその既得権とは何かと言えば、記者会見は13社で独占し、雑誌社の記者は入れないとか、何か話をする時、会見をする時は記者クラブを優先するというような、まったくギルド的なことで、世の中で通用することではないのだ。既得権は持っている人はそれが異常だとしても、気がつかないのだ。
ずっと書いてきたように、民主党は大きく言って、4のグループから成り立っている。
1つは旧社会党や民社党の流れを汲む人である。労働組合の幹部OB出身者である。2つ目は市民運動家、弁護士などの集団である。3つ目が官僚OBである。そして、最後が小沢一郎氏を中心とする、自民党田中派的金権体質の人たちと、その応援で当選した人たちである。
1つ目の労働組合の幹部OBたちについて言うと、旧社会党は社民党になり、消滅しかかっているというのがマスコミの報道だが、労働組合がそんなに簡単に消滅したりはしない。大半の組織は民主党に移動したに過ぎない。
2つ目のグループは市民運動をしてきた人、弁護士出身者など大きな組織を持たずに、社会を変えようと考えたり、活動をしてきた人たちである。この人たちにとっては、基本的に現状は悪であり、押し並べて、現状否定の左翼的な発想の人が多い。
弁護士と言うと、テレビのドラマなどで、弱者の味方、濡れ衣を着せられた容疑者の無罪を証明していくなどという格好よい像が描かれ、多くの人がそう信じていると思う。
しかし、実際に弁護士と数多く接すると、中にはそうした人もいるが、「政府=悪」「現在の法律=悪」という発想で、政府のやることには何でも反対というような人がかなりいるし、法律の知識を生かして、犯罪者よりも悪質なことをやっている人も少なくない。
オーム真理教の幹部、和歌山カレー事件、光母子殺人事件の弁護団などがまさにこの人たちであり、常識では信じられない論理で弁護活動をしている。彼らと話をすると、「国から逮捕糾弾された人は被害者であり、救済しないといけない」という論理である。
ここまで極端でなくても、実際に一緒に仕事をしたり付き合ってみると、弁護士にうんざりしたり落胆することが多い。弁護士事務所の労働条件は最悪で、働いてはいけない職場の代表とよく言われる。それは意図的に法律スレスレに、最低の労働条件が設定されているからである。
3つ目の官僚OBは、かつては官僚から政治家に転身する際には、多くの人は自民党に入った。しかし、自民党が世襲制が強くなり、官僚OBで野心のある者が政治家に転身する際の受け皿になりにくくなってしまった。彼らにとっては、自民党でも民主党でも、どちらでもよい。政治家になることが目的だからである。
最後が小沢一郎氏を中心とする、旧自民党の田中角栄的な金権体質で行動してきた人たち、および、その人の支援で当選したために、その人の影響を強く受けている人たちである。
小沢氏については、有能であり、剛腕も振るえるのだから、今の日本の緊急状態の時には、その能力を発揮してほしいという声が結構ある。しかし、それは民主主義は駄目だから独裁者に期待するという発想である。
小沢氏は長年一緒に行動してきた盟友のほとんどが離れて行っている。少しでも耳に痛い批判や助言をすると、携帯電話が通じなくなり、会えなくなって、気がつくと仲違いになっていたと、多くの人が証言している。
また、マスコミはあまり書かないが、小沢氏には大きな金銭疑惑がある。それは、旧新進党、自由党が解党した際に、党に国から交付された資金の内、残っていた十億円単位の金が行方不明になったということである。責任者は小沢氏であり、小沢氏がこれを自分の懐に入れたと考えるのが、普通の解釈である。
政治家として、その手腕がどれだけ有能であっても、こうした人を支持し、首相にしようという人の発想が筆者には理解できない。
いずれにしても、こうしたまったく異なった4つの集団が混在しているのが民主党である。元々、水と油の人たちが一緒にいたのであり、それが分裂しかかっているのが、今回の騒動である。
そして、辞めた鳩山前首相がなぜ、ちょろちょろするかといえば、これも簡単である。政党が誕生する時には大きな資金が必要である。その資金を提供したのが鳩山元首相である。彼が政治家として無能であることは首相としての行動で証明されたが、自分は民主党の生みの親という意識が強いので、今回の騒動でも仲介しようとするのである。
今日の政治の混乱は、怨念で自民党政権を倒したマスコミが演出して、実現したものである。そのマスコミが今の民主党の混乱を批判するのは、自分にツバを吐くようなものである。
多くの国民はマスコミから情報を得るので、マスコミに振り回されるのは半分仕方がないが、もう少し冷静にマスコミ報道を見るべきである。特にそのウラに何があるかを。
20100825
国民が愚かになるように誘導していく様々な施策
電車のホームで、酒に酔ってふらついた人に寄りかかられたお年寄りがホームに転落しそうになって、電車とホームの間に挟まれ、死亡するという事件が東京であった。
このことをとりあげたテレビの番組では、東京の地下鉄に一部でホームに設置されている転倒防止柵をもっと設置しろというトーンでレポーターが話をしていた。この論理で行くと、海や川には全部柵を作れ、ふたをしろという話になる。
筆者が若い頃、仕事で住んでいた四国の高松で、小学生がため池の周囲で遊んでいて転落死する事故があった。この記事を書いた朝日新聞の、東京から転勤してきたばかりの若い記者が書いた記事の見出しは、「柵がなかった!」というものだった。
この記事を読んだ高松の警察官が「無数にため池がある香川県でため池に柵を作ろうとすると、どれだけの金がかかると思っているのか。何よりも、危ない所には近づかない。自分で注意するということをして子供は学習していくのだろう」と話をしていたのを思いだした。
地下鉄やJRのホームに柵だけでなく、道路の交差点は危険だから、全部信号と作れという話などもそうだが、ちょっと聞くと、耳あたりがよい話には落とし穴や裏が結構ある。
まず、設置や対策には必ず予算がかかるということだ。金をふんだんに使えるなら、それも1つの考えかもしれないが、公共の設備なら、対策費は税金で賄うことになる。電車なら、それは運賃のアップにつながっていく。「設置を」と言う人は、こうした費用を誰が負担するのかということを考えたことがあるのだろうか。
事故が起きないようにということで、交差点に信号機を作るということが行われている。しかし、1つの交差点で、1セットの信号を設置するのに、2、3千万円の金がかかる。どうして、あの機械にそんなに金がかかるのか不思議になって調べてきて驚いた。
ほとんど知られていないが、信号機メーカーはどこの会社も幹部が警察官僚からの天下りの指定席になっている。そして、公安委員会(警察)は毎年コンスタントに信号を作ることを提言し、それが実行されている。但し、信号機の設置は「住民からの要望で」という形を整えている。官僚とはこのようにしたたかなのだ。
非正規労働者を何とかしろ、不況でものが売れないから対策を、大学生が就職できないから支援対策を…。こういう話が出ると、建前は弱者救済だが、実際は官僚が自分たちの権益拡大に最大に使い、結局、当事者にはあまり効果がなく、官僚だけが潤うのである。
北欧の福祉の国、フィンランドで2,30年間をかけて面白い実験をした。それは数百人単位のグループを2つ作り、1つのグループには、健康管理のアドバイス、健康診断、禁煙指導などをしっかりし、もう1つのグループには、何もせずに放置した結果どうなったか差を見るというものである。
多分、この実験を計画した人は、これだけ健康管理をすると、しない人との間で、こんなに差が出るので、しっかり健康管理をしましょうということで、実験を開始したのだと思う。
だが、結果はどうなったかと言えば、何も管理しなかった人の方がかなりの差で、健康状態がよく、長生きもしたというものだった。ここでわかったことは、あれこれ過保護の対策をとられると、人間は弱くなり、却って健康でなくなる。
これに対して、専門家からあれこれアドバイスをもらわない人は自分で気をつけ、健康管理をするので、自衛策がしっかりして、結果、健康的になるというものであった。
今の日本は、学生に対して、親も学校も過保護で、あれこれ細かく指導をする。うるさいくらいである。小学校くらいならわからなくもないが、高校でも大学でもそうである。
電車に乗れば、車掌がうるさいくらいに、この電車はどこ行きで、駅に着く度に、乗り換えのアナウンスをする。それだけでなく、携帯は使うな、席は詰めて座れと、それこそ、小学生に対して言うような、説教、指導をする。本当にうるさい。外国では、こんなバカげたアナウンスはない。
特に朝夕の通勤時間にこのアナウンスをするセンスを疑う。乗客の90何%はこの電車はどこ行きで、自分はどこで降りるということを熟知している。当然、アナウンスなど必要ない。それをしつこくアナウンスする理由が理解できない。だけでなく、本を読んでいたりすると、本当にうるさい。
仕事で、東京と大阪をよく往復するが、新幹線の新大阪駅では新幹線から在来線への乗り換え口には、何人もの駅員が立っていて、大声で、「自動改札で、乗車券は受け取ってください」と叫んでいる。
いつも、これを見る度に、大きな看板を立てておけば、済む話で、人の無駄な使い方だと思うし、そうして手取り足取りするから、客がどんどん増長し、文句を言いだし、バカになっていくのだと思う。
過剰にサービスを受ける習慣の中にいる客は、要求がどんどんエスカレートしていく。最近は、学校でのモンスターペアレンツなどが問題になっているが、電車でのモンスター乗客が増え、駅員が殴られたとか、異常なサービスを要求されたという話をよく聞くが、これなどは、電鉄会社がそうした客を作りだす行動を普段からしているとさえ、思える。
人間には自己防衛本能がある。失敗から学ぶから、教訓が身につくのである。それを手取り足取り教えると、どうなるかというと、いつも教えてくれて当たり前ということになり、今度は教えないと、「どうして教えてくれないのか」と文句を言うようになってくる。
非正規の労働者がリストラに遭った時に、マスコミの取材に激しく文句を言うシーンを最近は何回となく見るが、筆者はこれを見る度に、非正規は会社がいつ切ってもよいから置いている存在で、それが嫌なら、小さな会社でもよいから正規社員になればよいのであって、それをしないで、文句を言うのは筋違いということである。
福祉もそうである。障害者や弱者を社会として、対応をするのは国や自治体としてはしないといけないことである。しかし、だからと言って、そうした人たちが、当然の権利だろうという態度で、要求を始めると、それは違うと感じる。感謝の念は必要なのに、最近の弱者にはそれがほとんど見られない。
人間やサルのことを研究している学者に話では、身体的に見て、他の動物などの比べて、特に足が早い訳ではないし、鋭い牙を持っている訳でもない人間が動物の頂点に立った理由は、考え、学習することからだったという。しかし、今の世の中で行われているのは、この考え、学習することをどんどん駄目にする行為である。
筆者の若い頃は、会社でも先輩は何も教えてくれなかった。仕事は先輩や上司のするのを見て、よい技術や習慣を盗めと言われたものである。うまくいかないから、うまい人のやり方をしっかりと観察するようになる。そこから、考え、よいものを真似ようとするようになる。だから、却って上達が早い。
電車のホームに転落防止防護柵を設置しろというテレビのリポーターを叫びを聞きながら、これで、また、人間が1つ防衛本能を失うきっかけができたと感じる筆者である。
20100824
不当表示の生保CMを放置する金融庁、公取
テレビをつけると、生命保険会社のCMがよく流れている。中には、単に会社のPR,生保レディーのPRをしているCMもあるが、多くは自社の生命保険がいかに他社に比べて有利かを謳っているものだ。
不況で、メーカーのCMが減少気味であり、かつては、TVCMで大きな比重を占めていた消費者金融会社などが、法律改正で経営が厳しくなってきたことなどから、CMの放送量が激減したこともあり、生命保険会社のCMが目立つ。
しかし、自社の製品が他社に比べて、とても有利であることをアピールしている生命保険会社のCMはまったくの不当表示である。生命保険も損害保険も同様だが、金融業界には、かつての大蔵省金融局、現在の金融庁が厳しく規制をしていて、会社ごとの自由はほとんどない。
どこの会社の製品もほとんど差がないのである。それなのに自社がとても有利であることをアピールしているCMを大量に流しているのだ。
1社でも経営危機になったら、監督官庁が文句を言われるものだから、業界横並びの商品を作り、それを全社で販売する。どこかの会社がまったく独自のものを考えても、それは基本的に認められない。
例えば、かつて、住友銀行が銀行の店舗に東京証券取引所のその日の株価を示すボードを設置しようと考え、大蔵省金融局に打診したが、却下され日の目を見なかった。
また、海外では、金融会社は銀行業務と証券業務を同じ金融会社が兼営するのが当たり前で、特にヨーロッパでは、ドイツ銀行もスイスのUBSも銀行と証券の業務を行っている。
同様に、生保と損保の兼営も当たり前で、チューリッヒもアクサも両方の業務をしている。しかし、日本では金融行政で、銀行と証券の兼営も、生保と損保の兼営も認めていない。こうした大きな枠組みのみならず、商品でも基本的に差は認めていないのだ。護送船団方式と言われ、どこの会社のどの商品も一緒、やっている仕事も、会社の考え方も一緒なのである。箸の上げ下ろしまで、細かく指導すると言われる行政である。にもかかわらず、他社とこんなに違うという生保のCMが何故こんなに大量に流されているのだろうか。そして、明らかな不当表示を金融庁も公正取引委員会も取り締まらないのだろうか。
生保会社が他社と違って、当社はこんなに有利というだけのことなら、誇大広告という位で済むが、実際はそうではない。もっと深刻な話なのだ。
病気になっても、年寄りになっても、生命保険に入れますというCMを大々的に流している会社がある。実際にこの会社の生命保険に入った後、病気になったら、どうなるかご存じだろうか。
まず、この会社は契約から発病すると、契約時点で既に病気になっていて、それをきちんと申告せずに契約したという疑いで見られ、徹底的に調査、ヒアリングが行われ、少しでもその疑いがある人は、保険の支払い対象から除かれる。
初期の頃、筆者も「病気既往症がある人でも保険に入れる」というキャッチコピーに興味を感じ、リサーチしたことがある。その時に、その会社のグループの幹部から、契約をしないように忠告をもらった。「損をするから、おやめなさい」と。
またよく言われるように、生命保険には読めないような細かな字で書かれた約款というものがあり、これもあれも支払い対象外というようになっていて、病気になったり、死亡しても、保険金が受け取れないケースが非常に多いし、受け取れても、契約者が考える金額の何分の1の額である。
では、なぜ、そうにもかかわらず、こうした生命保険会社のCMが野放しなのだろうか。その背景の1つは、まず、大手の日本の生命保険会社の生命保険は世界の中でも、非常に保険料が高いという事情がある。
ざっとした計算で、日本の生命保険料は欧米の2倍である。これは、戦後の混乱期で大した貯金がないなかで、一家の大黒柱に何かがあったら、大変という国民のマインドに加えて、保険会社が戦争でご主人が亡くなった未亡人を生保レディーに多く雇ったという背景もある。
欧米では、金融商品を買ったり、契約する時には、内容をしっかり聞き、論理的に納得してから契約するというのが当然だが、日本では、生保レディーの義理人情で保険契約をする人がほとんどであり、商品や契約内容を知らない、または、生保レディーの言うことを鵜呑みにする人が多い。
通常、こうした市場では、新規参入する企業がもっと安い商品や魅力ある商品を持ち込むのだが、生保業界では、外資は、「こんなにおいしい市場があったのか」とばかりに、日本の生保会社の非常に高い保険料をそのまま引き継いだままで、商品を売っている。
この結果、ある有力なアメリカの生保会社では、その会社の売上げ全体の7割が日本というような異常な状態になっている。外資や日本の新規参入業者が、無知な国民に、自分もおいしいことにありつこうとしているのである。
業界べったりで、国民の方を向いていない金融庁がおかしな点を是正しないのは、諦めもつくとしても、公正取引委員会や消費者センターがなぜ、この問題を取り上げないのか不思議である。
筆者の聞いた話では、一度取り上げようとしたことがあるという。しかし、一番活発にTVCMをしている会社がアメリカの会社ということもあり、是正指導をしようという動きに対して、日本政府の圧力をかけて、不問に付すように猛烈に働きかけ、つぶしたというのだ。
ことの真実はともかく、行政もマスコミも当てにならないなら、国民はどうしたらよいか。自己防衛しかない。自己防衛は常識で考えるのだ。どこか1社だけが、同じ内容のものを、特別、消費者に有利な条件で売るということは、金融商品でも、食品でも、家電商品でもあり得ない。
工場で生産されるものについては、新規に画期的な技術開発があった場合、差別化はあり得る。しかし、それも、すぐ他社が追いかけるので、時を経ずに、差はなくなる。まして、金融商品で、それはあり得ない。「安いには訳がある」「うまい話には裏がある」「おいしい話はころがっていないし、いても、一般の人のところには来ない」これを噛みしめるべきではないか。
20100823
弱者、貧しいから、熱中症で年寄りが死ぬのではない
今、暑い夏で、熱中症で何百人ものお年寄りが亡くなっているということが毎日のように報道されている。その中で、必ずと言ってよい程、テレビのコメンテーターや司会者が、「貧しくてクーラーも買えないお年寄りは大変で、今の不況がお年寄りにしわ寄せされた結果」というコメントが出て来る。
マスコミの常識では、「お年寄り」=「弱者」「貧しい人」であり、だから、何か起きると、「不況」=「弱者切り捨て」という話になっていく。でも、事実はまったく違う。
海外では、会社でも学校でも、ある一定以上のレベルにある人の間で議論をする時、事実を背景に議論をし、間違った前提で間違った結論を言った人は、議論で論破されたり、指摘されたりして、自説を撤回しないといけないのが常識である。
ところが日本では、まず、議論をする時に、事実に基づいた主張ではなく、思いこみや、自分がこうしたい、こうありたいという前提で結論を出し、それに前提をこじつけて合わせていくということが珍しくなく行われる。
亀井金融担当大臣は「郵政の民営化」=「郵便局の廃止の続出」で、だから、民営化反対なのだが、実際は、民営化以前は郵便局はずっと減り続けてきたのが、民営化後、数の減少は止まり、むしろ、増加に転じていた。だから、国民新党の主張は根本の前提が間違っている。
こうした人や政党が政権の中枢にいて、その間違いを指摘されても、自説を撤回しない。これだから、その他は押して知るべしで、日本人は結論や前提の間違いを指摘されても、自分がこうしたいとか、こういう前提の方が自分に都合がよいという話なので、自説を撤回しないで、同じことを言い続けている。
以前、テレビで「朝までテレビ」という番組があった。これは日本の重大な問題について、論客や学者、政治家が議論をし、日本社会でのコンセンサス作りができればという趣旨で始まり、そこに登場した人の何人もが有名になり、政治家や有名評論家になった。
しかし、何年も放送され、議論された結果は、出席者は自説を言い放っなしで、結局、議論は平行線で噛み合わず、最近は番組自体が話題にものぼらなくなった。
「朝までテレビ」だけの話ではない。この事実に基づかない議論や話というのが日本ではあまりに多い。その1つの典型が「お年寄り」=「弱者」「貧しい人」というものである。まったく、事実に違う。
ずっと書いているが、日本の個人金融資産1400兆円の3分の2は65歳以上のお年寄りが所有している。65歳以上のお年寄りで、若い時から真面目に仕事をして定年を迎えた人であれば、ほとんどの人がマイホームを所有している。貯金も少なくても、千万円単位であり、年金も月に20数万円もらっている。
中には、マイホームを持たずに賃貸住宅に住み、貯金もほとんどなく、年金も月に7、8万円しかなくて、日々の生活に追われている人もいる。でも、これは数の上では少数派である。
お年寄りだから、体は若者程、強くはない。しかし、金もあり、不動産もあり、余裕もあるお年寄りが圧倒的な多数派なのだ。最近、お年寄りの登山ブームで、遭難者の3分の2が年寄りという話があるが、これは豊かで暇があるから、山登りをしているのであり、豊かさの象徴の話なのである。
熱中症の話でも、「貧しい」から「エアコンを買えない」のではなく、「金はあるが、エアコンは買わない」のであり、買っても、「体によくないから、使わない」のである。
今の年寄り世代は、子供の時には、家庭にエアコンはなかった。60歳代半ばの筆者の例でも、エアコンを買ったのは、30歳近くになり、大阪に住んで、熱帯夜で、エアコンがないと、夜眠ることができないので、買ったのが最初である。
社会人になって、家にエアコンが入りだした。エアコンは便利だが、エアコンをつけっ放しで、冷房病になったり、なりかけたという人がほとんどで、「エアコン」=「体に悪いもの」という認識が年配者では一般的である。だから、エアコンを使わないのである。
ところが、大きな家の変化が起きている。今の年寄り世代が若い頃の家は木造で、すきま風が通り抜ける家だった。だから、戸を閉めても、風は抜けた。しかし、今の家はコンクリートのマンションでも戸建てでも密閉状態で、風が抜けない。
加えて、都会では、緑と土がどんどん減少し、コンクリートとアスファルトが増え、皆がエアコンを使うので、各家庭や店からエアコンの熱風がどんどん出されている。ヒートアイランド現象だ。
年寄りはこうした時代の変化、環境の変化を、だから自分の生活スタイルを変えないといけないというように、発想が結びつかないのだ。長年の習慣や常識というのは恐ろしく、それを変えることに大きな抵抗がある。
だから、いくらテレビで、こうしたら熱中症は防げるということを専門家に解説させても、実行しない。しかし、そこで、色々な人が様々な思惑で動き意見を言うので、話が変な方向に向かっていく。
「年寄り」=「弱者」論者は、「だから、政府や地方自治体は何かしろ」ということを言うし、「不況が貧しい年寄りを直撃」というように話を持っていく。行政は、これは「自己権益拡大のチャンス」と考え、対策を色々考え、だから、予算を要求する・ 本来はマスコミは、こうした様々な意見、思惑を見極め、それを整理して報道しないといけないのだが、今のマスコミはそうした見識もないし、見分けもできないので、事実と違う思惑をそのまま報道する。
結果は思惑をもって発言したり、行動する役人が権益拡大で得をする。厚生労働省が「大学生の就職難で、支援制度」という話が先週、新聞で大きく書かれた。一見、好さそうに見えるが、実際は権益拡大の典型例で、これで予算要求なのだ。
もっと、ひどいのが、失業保険を勝手に使って、その費用にあてるということで、役人が何でもありの社会の構図がここにもある。熱中症問題でも、これが役人の予算拡大、権益拡大に使われないことを願うのみである。
20100820
新卒者に月給54万円出す理由
野村証券が新卒社員に月収54万円支払う特別社員の制度を導入していることが話題になっている。英語が入社時点でTOEICで800点台後半以上で、投資銀行で必要な知識を入社時点から持っていることなどが条件という。
入社1年目から年収650万円くらいが月収合計で、ボーナスを入れると年収は1千万円を超える。普通の会社は一部上場企業でも、1年目は350万円から400万円位なものであり、1千万円というと、その倍以上と高額で、すごいということなのであろう。
だが、世間一般で証券会社と言われる業界、海外では投資銀行というが、ゴールドマンサックスやモルガンスタンレーというような会社では、入社時点で、年収が1千万円を超えることは珍しくも何ともない。現に、ゴールドマンサックスは日本で、新卒者に千5百万円位支払うという記事が出て、話題になったことがある。
証券会社というと、顧客が株取引をする際の手数料で会社を経営しているように考えるのが日本人の一般的な受け止め方だが、現在の証券会社(投資銀行)の大手は、企業のコンサルティングが主なビジネスで、個人の株取引からの利益は会社の収益の中で、大きなウエートは占めていない。
例えば、現在は一定以上の規模の上場企業で、きちんと利益をあげている会社だと、銀行借り入れはほとんど行わずに、外債を発行するなどして、資金を自己調達する。
外債を出す時、世界のどこの国の通貨建てと、どこの国の通貨建てをどう組み合わるかなどを、その時のそれぞれの国の利子や経済、そして、今後の変動予測などを考慮して、計画を立てる。
発行計画が決まったら、今度はそれを世界の色々な会社や機関に売り込みをしていく。条件次第で発行のコストが大きく変わってくる。資金計画は大企業だと百億円とか、場合によると、千億円単位なので、条件が少し違うだけで、大きな差が出て来る。
当然、世界の主要国の経済、政治情報に精通していないといけないし、政府内部の内部情報を得ることもできないと仕事にはならない。購入者に対しても、海外の相手と電話ですぐ話ができるくらいのネットワークがないとよい仕事はできない。
企業の買収、売却などのM&Aをする際でも、企業の実情の把握、相手との交渉、更にはM&Aには競争がつきもので、ライバルとの厳しい競争などをやり抜かないといけない。こうしたことをするのが投資銀行であり、投資銀行同士の激烈な競争もある。
日本のNTTが外債を発行するにあたっての主幹事会社(その業務を取り仕切る会社)はアメリカのモルガンスタンレーがずっと務めていた。今は、一部は日本の証券会社も受け持つようになったようだが、世界の情報、ネットワークがないと、無理な仕事なのだ。
投資銀行では、自分の稼いだ金の10分の1は自分のものとして、手にすることができるというルールがある。自分が十億円稼げば、1億円を手にすることができる。稼ぎとは売上げのことではない。利益のことである。
例えば、ファンドマネージャーが百億円の資金を運用していて、十億円利益をあげれば、1億円は自分のものとなるのである。勿論、会社が定めた一定以上の稼ぎがあっての上のことである。
会社が社員を雇って仕事をしてもらうと、給料や福利厚生など直接出て行く費用で、その人の年収の2倍位は会社が負担している。自分は会社に貢献していますと言えるのは、年収の3倍の稼ぎがないといけない(売上げでなく、利益で)。
上の1割を手にするという話は、それをクリアした上での話である。外資系の投資銀行では、年収が1億円を超えている人は珍しくない。社長や部長、役員よりも年収が高い社員もいる。稼いで会社に貢献しているのだから、当然だと、誰もが思うので、ねたみやトラブルはほとんどない。
こうした世界なので、大学を卒業した時点で英語はビジネス交渉ができるレベルで、かつ、経済や企業について企業の人と交渉するくらいの知識がある人であるなら、年が若くても、年収1千万円など、会社にとっては大した金額ではない。
ただ、こうしたことをわざわざ謳って、学生を募集しないといけない野村証券という会社に首を傾げざるを得ない。今、就職戦線では、東大生が役所を目指すのは少数派になってきて、優秀な学生は投資銀行やコンサルティング会社が主要な就職先である。
こうした学生にとって、上に書いてきたようなことは周知の事実であり、わざわざ謳わなくても、希望者は知っている。それをわざわざ謳わないといけないというのは、余程、よい人が採用できないで困っているのだとさえ、考えることができる。
今、新卒で、外資の投資銀行やコンサルティング会社に就職しようとする学生は優秀で、かつ、自分にも自信をもっている。拘束されるのは嫌いで、既に自分の世界ややり方をもっている人たちだ。
野村証券は長く、日本の証券会社のリーダーとして君臨してきた。しかし、野村の体質は基本的に体育会系である。上司の命令は絶対で、部下は指示内容をその通り行動することが求められる。これは今、投資銀行を目指そうとする人たちが最も嫌う体質である。
野村証券は、その体育会系の体質と、業界で「ノルマ証券」と言われるくらいノルマが厳しく、若手社員の離職率はとても高い。野村は、リーマンショックで潰れたリーマンブラザースのアジア部門を買収した。上記の投資銀行のプロがほしくての買収だった。
しかし、買収から少し経ったが、旧リーマン社員で優秀な人は、辞めて行く人が多いと聞く。投資銀行の業務で仕事ができると評価される人は、業界内でも評判になっていて、常にヘッドハンターのターゲットになっている。だから、会社が潰れても優秀な人は仕事には困らない。
投資銀行業界は、業界が1つの会社のような感覚であり、転職にアレルギーはまったくないし、優秀な人の企業移動は少しも珍しくない。逆に、上位クラスになると雇用も保証されていない。毎日が生きるか死ぬかの争いである。
筆者の友人のある外資系の投資銀行で部長職を務める人は、年収は6千万円である。しかし、彼は自分の年収が少しも高くないという。彼は調査部長だが、仕事は調査部長として30人の部下の管理をするとともに、1アナリストとして自分の担当業界の企業を取材・分析して、リポートを書く。そして、会社の役員として、日本法人の経営にも関与している。
3つの仕事をしているのだ。そして、自分の担当業界の他社のアナリストが高い評価を得て、彼が業界で3位より下に評価されたら、業界主要企業なら、会社のトップは間違いなく3位以内にいる他社のアナリストをスカウトしてくる。当然、彼は会社を去らないといけなくなる。
日本の企業でも、部課長がプレイングマネージャー的になってきて、部下の管理とは別に、自分も自分自身の仕事をもつようになってきたと言われるが、問われる質がまったく違う、1つ1つがプロとしての仕事が求められるのだ。
今回の野村の月収54万円の新卒者採用の話が出た時に、新聞もテレビも、「ヘー、すごいですね」のコメントで終わりである。これが欧米の新聞、テレビなら、筆者が上に書いたような話を専門家がきとんと解説をして、読者も視聴者も背景が理解できるのだが、日本は、訳がわからない「なんでも評論家」が何も知らずに、「そうですか。凄いですね」というようなコメントをして終わりである。
新聞社もテレビ局も社員は非常に高い給料を得ている。それなら、もっとまともな仕事をしてくれと言いたくなる。
20100818
実態と大きく異なる「靖国神社」報道
今年の終戦記念日には、菅首相を初め、全閣僚が靖国神社に参拝せず、これまでの自民党政権とは大きく対応が異なった。毎年8月になると、首相や閣僚、大物政治家が靖国神社に参拝するかどうかがマスコミの大きな取材対象となり、しつこく追いかけ、報道する。
筆者は事務所が靖国神社から歩いて6,7分と近いこともあって、事務所から帰る時には、散歩がてらほとんど毎日、靖国神社の参道を通って家路につく。そして、通る度に、マスコミの報道とまったく違う靖国神社を見る。
マスコミの報道では、靖国神社と言えば右翼の巣窟で、毎日軍服を着た人や右翼が群がっているような報道の仕方である。終戦記念日などマスコミが取材する時も、全体の中ではごく特殊な一部の元軍人や右翼と言われる人を中心にカメラを回しているように感じる。
しかし、実際の靖国神社はそんなことはない。遠くから、戦争で亡くなった家族をお参りに来る人もいる他、普通の人たちがお参りに来るし、通りすがりの人たちも軽く頭を下げて通り過ぎていく。
夏の神社の祭り、みたま祭りには、平和を願う多くの人が絵や書を書いて奉納し、それが無数に境内に展覧されている。その書いてある内容は、亡くなった家族を悼むものもと、平和を願うものがほとんどで、マスコミや靖国に批判的な左翼的な人、評論家、学者がいうような好戦的な姿勢はまったく見られない。
戦後、長い間、政治家が靖国神社に参拝しても、誰も騒がなかい時期が長いこと続き、多くの政治家が戦争で亡くなり、戦後の平和、繁栄の礎になった人たちをお参りしてきた。
それが今のような大騒ぎになった犯人は2人。1人は中曽根康弘元首相。もう1人は朝日新聞である。中曽根元首相は首相の時に、首相として靖国神社を参拝し、「総理大臣中曽根康弘として参拝した」と述べた。それでも、初めはそれほど大きな騒ぎにはならなかった。
それを大きな騒ぎにしたのは朝日新聞である。「A級戦犯が祭られている靖国神社に首相が公的な資格で参拝するのはおかしいと思いませんか」と中国の首脳にぶつけた。そう言われれば、細かな事情は知らない中国要人は「それは問題だな」と答えた。
これを朝日新聞が紙面で、「中国首脳が中曽根首相の靖国参拝を批判」と大きく報道し、これに日本国内の宗教関係者や学者などが反応し、反対の声明を出し、これをまた、マスコミが取り上げ、話がどんどん大きくなっていったのである。
断っておくが、筆者は靖国神社擁護派ではない。反対論者でもない。お参りしたい人がいれば、お参りすればよいし、したくない人たちはお参りしなければよいだけのことだと思っている。人間には、それぞれ異なった主義主張があってよい。しかし、それは人を強制するものではないはずだ。
靖国神社参拝を反対する人が必ず言うことは、首相や大臣が参拝するのは、憲法に謳った政教分離に違反するということである。また、A級戦犯が祭られている神社に参拝すると、アジア諸国などが反発するということである。
書いたように、元々は首相や大臣が参拝しても、中国、韓国、アジアの諸国は何も言わなかった。死者を悼み、お参りするのは、どこの国でも行われていることであり、それを他の国の人がとやかくいうことではないという常識が少なくても、朝日新聞が騒ぎ、話を大きくするまでは、通っていた。
憲法違反の話だが、ほとんどの日本人にとって神社は宗教ではない。宗教学の権威である東工大の橋爪大三郎教授は、「日本では、徳川時代などに、為政者が民衆が宗教を信心しないように、寺は信仰の対象ではなく、葬式を行う場所として位置づけるなどした。そして、することがなく、堕落した坊主を見せつけ、宗教から多くの人が離れていった。日本は世界でも珍しい無宗教の人がほとんどの国家になった」というように解説している。
アメリカの小中学校の教科書を読むと、世界の主な宗教という項目に、世界の主要宗教として、キリスト教やイスラム教、仏教とともに、神道が書かれている。アメリカ人の発想では、1億人が信仰しているのだから、世界の主要宗教なのだということだが、ほとんどの日本人は首を傾げるだろう。
アメリカ人がこう思うようになったのは、多分、太平洋戦争の時に、神風特攻隊などを見て、宗教でも信じていなければ、あんな行動はしないと思い、それで、日本には、神道、神社があり、それを信じているから、あんな行動がとれたのだと得心をし、神道が宗教になってしまったのだと思う。
詳しい宗教論争の話はここではしないが、キリスト教やイスラム教のような一神教と、仏教のような多神教では、まったく価値観が異なる。同じ宗教を論じても、話が噛み合わないくらいである。
今、世界で信じられている宗教の圧倒的多数派は一神教である。一神教は、一人の偉大な神が天地を創造し、人間はその意思のままに、運命づけられ、その神から預かっているこの世界で生きているのである。だから、神からの預かりものであるクジラやイルカを無暗に殺してはいけないという論理になるのである。
多神教は、古代の欧州もそうであったように、大雑把に言えば、海にも山にも、木にも石にも神がいて、人間も死ねば神仏になるのである。だから、死んだ人のことは悪く言うことはしないし、生きている間、どれだけ悪いことをしても、死んでからまで、悪を追及することはしない。
これに対して、一神教の世界では、悪人は死んでも神仏などにならず、悪人のままである。もっと言えば、キリスト教などでは、人間は死ぬのではない。死んだ後、蘇り、神の審判を受け、天国か地獄行きかの審判を受け、どちらかの世界で生き続けるのである。だから、死んだ後も、悪人は墓から掘り出され、死体が切り裂かれたりするのだ。
日本では、戦後、まったく宗教を教えなくなり、葬式などを除いては宗教関係者と接する機会も、ほとんどの人がなくなってしまった。クリスマスも単に、ケーキを食べるとか、恋人とデートできるからとして、使っているだけで、宗教として見ているのではない。
しかし、その結果、ほとんどの人に宗教についての知識がなくなり、外国人と話をしたり、論争をしたりする時に、クジラ問題などのように相手が言っていることの意味が理解できないし、日本人の考え方も説明ができないでいて、ますます誤解を与えたり、すれ違いのまま、終わってしまっている。
靖国神社問題は、批判派と擁護派の意見が全く異なっていて、これを解決するのは難しいくらいに話がこじれている。筆者はこの問題を解決する一番の近道は、日本人が日本人の宗教観、価値観をきちんと理解し、その上で、一神教の国の人たちの論理も知った上で、議論をすることだと思う。
今の日本を見ていると、事実を知らず、また、事実を見ずに、単に外国の人がこう言っているからということだけで、きちんとした信念もなく、自らの行動を決めたり、決めようとしているように感じられる。しかし、相手の言う通り行動する人間は、世界的には最も軽蔑される人たちである。
20100817
簡単な円高対策…通貨量を増やすこと
円高が進み、折角立ち直ってきた景気が陰ってきて、企業の業績にも危険信号が灯り、株価も大幅安である。これに対して、政府・日銀は「景気は底堅い、しばらく様子を見る」という感じである。そして、新聞などの論調は、「難しい対策」と書いている。信じられない。難しくなどない。日銀が中心になって通貨量を大幅に増やとともに、首相や財務大臣が円高は好ましくない、実力に合っていないと発言するだけで、円高は大幅に改善する。
日本の日本経済は、大きな岐路に立っている。今のままだと、本当に大不況が来て、一般国民が大きな痛手を被るようになる。ある大企業の経営者は今の日本政府について、以下のように発言している。「日本政府は、日本企業に日本から出て行ってほしいのですかね。世界先進国で一番高い法人税、円高の放置、環境問題での企業への大きな負担増加。今のままだと、本当に日本企業は経済の基点を日本から外国に移しますよ」 現実に、経済拠点を海外に移している会社は増えている。日産のマーチは日本では生産していては採算がとれないので、アジアでほとんどが製造している。日本一の製薬会社、武田薬品は本社機能の一部をアメリカに移した。これだけの危機の時期には、政府の責任者は毅然として態度をとることが必要である。為替については、首相や財務大臣、日銀総裁などは、発言を控えるというのが基本スタンスである。しかし、日本経済、企業経営において、極めて重大な今の時期には、日本政府として、明確な意思表示をすることは必要だし、しないといけないことだ。中国政府はアメリカからの通貨の切り上げ圧力に対して、通貨水準は適正と堂々と発言している。国を守るとはそういうことである。
リーマンショック、サブプライムローン問題からの世界同時不況で、世界は不況で喘いでいると、日本のマスコミは書いている。ギリシャの経済危機も報道され、多くの日本人が本当に不況なんだと思って買い物を控え、節約をする。だから、また、不況に追い打ちをかける。
年金問題もそうだ。年金が大変だ。パンクしている。不正が見つかった。多くの人が受け取るべき年金を受け取ってこなかった。―――これは野党時代に長妻現厚生労働大臣が時の自民党政権を攻撃した時の論法である。これには効果があり、民主党が政権をとる上で、大きな功労者となった。
しかし、実際はどうかと言えば、年金はパンクなどはしていない。ほとんどの高齢者はきちんと年金を受け取っている。問題があり、本来、受け取るべきなのに、受け取れなかった人の数や、総金額は全体の中で数%でしかない。
勿論、当事者としては、大変なことで、役所の担当者はこうしたことがないように、努力しないといけないし、問題が発覚した後は速やかに対処しないといけない。しかし、数%の問題と、全体の話の議論は分けてしないといけない。
将来についても、少子化で支える人が少なくなり、年金を受給する高齢者が多いので、年金はパンクするという話は、財務省や厚生労働省が国民に危機感を煽り、財務省は消費税などの導入による増税を狙っての発言、行動だ。厚生労働省も自分たちの思う方向に年金問題をもっていくための手段にすぎなかったのだが、マスコミがそれをそのまま書く内に、多くの国民は本当に年金がパンクするように感じるようになり、不安を持ち、消費を控えるようになって、不況を後押しするようになった。
サブプライム問題、リーマンショックの後、世界は一時はパニックになったが、政府やリーダーの行動で落ち着きを取り戻し、震源地のアメリカに至っては株価は元の水準に戻り、普通の国民は何もなかったように生活をしている。毎日のように、新聞もテレビも大変だ、大変だと声高に言っているのは、日本くらいのものである。
百年に一度という経済危機の後、欧米の政府は何をしたか。経済危機を放っておいては大変だということで、政府としてできるだけの対策を打った。政府からの補助金で車などを買う支援をした。それだけでなく、一番大きくしたことは、中央銀行が通貨量を増やしたのである。その数量は30%という。
車や家電製品を買う際の補助金政策は日本でも実施したが、一番肝心の通貨供給量を増やすことをしていない。欧米は中央銀行は紙幣を増刷して、とにかく世の中に多く出回るようにしたのである。国債を購入したり、企業の債券を買ったり、ひたすら輪転機を回したのである。
通貨量が増えれば、水増しになるので、価値は下がる。そんな中、日本だけが先進主要国の中で、通貨量を大幅に増やす政策をとっていない。円高になるのは当然である。
先日、日銀の重要な会議があるので、何か出てくるかと思えば、静観するというものだった。その翌日に、アメリカの中央銀行は通貨量を増やすことを発表したので、また、円高が進んだ。
円高について、為替の専門家や何でも評論家が、欧米諸国に比べると、比較で強い日本買いだと説明しているが、そんなことはなくはないが、通貨量の30%増加の前では、無視できる話だ。
現在、欧米が実施している、この通貨量の大幅増加は、かつて日本で金融危機の時に、日本政府が銀行に多額の公的資金を注入した政策を参考にして、各国が実施しているという説すらある。それなのに、日本だけ実施しないのだ。
最近、中央銀行とは何か、過去にとった政策は正しかったのかというような研究が進み、日本でも日銀の過去の政策についての検証が進んでいる。専門家の間では常識になっているが、日本でバブルが起きたのは、日銀の政策が誤ったためである。そして、バブルが破裂して、大不況が来たのは、日銀が突然通貨量を大きく絞ったために、金が行き渡らなくなり、金が消えたことで起きたのである。
最近出版された本で、早稲田大学教授の若田部昌澄氏が「日銀デフレ不況」という本を書いているが、彼に限らず、日銀を間違い、無策を指摘する人が多い。
かつて、経済記者として、日銀を取材した者としての実感から言うと、とにかく、世間と別の常識で生きている集団である。給料は高水準で、ほとんどやることはない。内部は緊張感がなく、ダラ―ンとした組織である。
何もしないなら、何もしないことに徹して、重要なことは政府に任せてくれればよいのだが、時々、自己主張をして、政府首脳や財務省がしようとすることに抵抗して、タイミングを失してしまうことがしばしばである。
通貨量を30%も増やしたら、インフレになるというのが、日銀が反対する大きな理由である。しかし、それを実行したアメリカでも欧州でも、インフレは起きていない。通常なら禁手でも、現在のような危機の時期には、有効なのである。心臓が悪い人がニトロを飲むことで、発作を収めるようなものである。
企業が海外でいくら稼いでも、国民には返ってこない。消費も増えない。円高になれば、企業はますます海外移転を進め、日本にいる人は不要になり、リストラに遭うだけである。
まずは急激な円高を収め、折角回復してきた企業の収支を悪化させるのは止めないといけない。一時を争う話である。
20100925
防衛、国家を考えるよい機会
尖閣列島問題で民主党政権は信じられない愚挙として、中国人船長を釈放した。しかし、中国政府はそれでは済ませず、日本に「謝罪」と「賠償」を要求してきた。こんなことは十分想定できることで、今の民主党政権なら、ここでも膝を屈し、中国に謝罪するのだろう。
尖閣列島は日本固有の領土である。敗戦で、アメリカ軍が支配した後、沖縄返還と一緒に尖閣列島も米軍が返還してきた。戦前、尖閣列島には日本の工場もあり、人も住んでいた。そこへ、中華民国の漁民が漂流し、日本が救助して送り返してあげた時、中華民国から感謝状も届き、それが残っている。
それが1960年代に、国連の調査で、この海域に地下資源が眠っていることがわかり、以来、中国が虎視眈々と狙っていて、大陸棚が続いているので、自国の領土だと言いだした。
今回、中国が船長の拘留延長の後、抗議行動をエスカレートさせ、フジタの社員4人の拘留、レアアースの禁輸など激しい行動に出たのは、日本の法律に基づいて、船長の処分を決めることを何としても阻止しようとしたのである。それを認めると、尖閣が日本の領土だと、中国が認めたことになるからだ。
国際政治や、海外との交渉にあたっては、こうした原理原則が何よりも重要である。そして、譲るにしても、こちらの要求も必ず、相手に受け入れさせ、双方の主張の中間で解決しないといけない。今回のように、フジタの社員の釈放も要求せずに、一方的に船長を解放するなど、信じられない行動である。
こうした信じられない行動が政府の決定から出て来るのは、戦後の教育で、国とは何か、国民とは何か、国旗とは、防衛とは何かというようなことを全部捨て、教えて来なかったことが大きな原因である。
よく日本人から出て来る話に、「自衛隊の戦艦を減らせば、福祉にもっと金を回せる」ということがある。これは車を持っている人が自動車保険をかけるのを止めて、無保険で車を運転しながら、乳母車を買おうという話である。
保険というのは、安心を買うための金を支払うものである。何もなかった時に損をした気持にある日本人は、何か起きた時に呆然として、保険をかけていなかった時に、悔やむ人である。意味が違うことを比較すること自体が間違いなのに、それがわかっていない。
君が代、国旗問題も同じだ。世界のどこの国に行っても、国歌や国旗に敬意を示すのは、その国民にとって当然のことで、それが嫌な人は、その国の国民であることを止め、他の国の国民になればよいと、世界のどこの国でも言われることだ。
だが、今の日本では、学校で教師が堂々と、国歌を歌うことや、国旗に敬意を示すことを拒否して、それで、何の罪にも問われないし、非難もされずに、生活をすることができる。その国を愛し、歴史を勉強し、外国人に聞かれた時に、国や歴史を語れる日本人は今、どれだけいるだろうか。採用選考で受けにきた学生に、日本の歴史について聞くと、大化の改新でも、忠臣蔵の意味でも、ほとんど説明できる人はいない。優秀な大学の学生でである。
今の学生はGHQも知らないし、ABCラインという言葉も知らない。それどころか、江戸時代の林子平も鴨長明も本居宣長も知らない。名前くらいは知っている人もいるかもしれないが、どんな人で何をしたかは、百人の学生の中で、ほぼ百人が知らない。
小学校では、我々が習った童謡や小学校唱歌を今の子供はほとんど教えられていない。だから、「蛍」も「海」も「赤い靴」も知らない。横浜の山下公園で、赤い靴の銅像の前で、子供の銅像の話をしようとすると、「何それ?」と言われる。
おとぎ話も教わっていないから、因幡の白うさぎも知らないし、金太郎の話も知らない。おとぎ話は歴史的に事実が変形して語り継がれていることが多い。だから、おとぎ話はどこの国でも、親が子供、または、学校で教えるものである。でも、日本では教えない。
アメリカの属国になっていると、戦後の自民党政権を攻撃する人は多いが、自国の防衛を他国の委ねた国を、世界的には、独立国とは言わない。日本はまさに、アメリカの属国で60数年来たのである。
経済発展をし、戦後の貧しさから抜け出た時に、憲法を改正して、軍隊を持つべきだという主張が自民党から出されたが、社会党、共産党、学者、マスコミが猛反対したために、そうした試みは失敗し、相変わらずアメリカの属国の状態が続いてきた。
アメリカでは、軍人が海外赴任をする時に、その軍人が飼っている犬猫を、普通の民間人がその期間、代わりに飼ってあげるという制度がある。軍人の方も当然のように頼むし、民間人の方も「軍人は国ために海外に行くのだから、我々も支援しよう」という思いで、引き受ける。
「プレイベートライアン」という映画があった。これは、男4人兄弟の3人が戦死し、残された1人も最前線で戦っていることを知った大統領など政府首脳が、残った男性ライアンを最前線まで行って救出し、少なくても息子の1人は親に残してあげようという話で、彼を救出するために編成された部隊のほとんど全員は死ぬ。
1人を助けるために、十数人が死んでも助けに行くという話自体、ナンセンスだと日本人の誰もが思うと思うが、それでも、それを実行するのがアメリカで、アメリカは国民1人と言えどもおろそかにせず、救出するというのである。
この映画はアメリカ政府や軍はあなたを見捨てないという偉大な宣伝映画である。でも、それを堂々と上映し、多くの人に見せ、それを見た国民が、また、国は自分たちの見守ってくれているという意識で忠誠心の育成になるということを理解し、映画は作られ、国民もそれを見るのだ。
今の日本では、こうした映画自体、ナンセンスだと思われ、企画にものぼらないだろう。しかし、国家や愛国心というものは、そうして教え、引き継いでいくものなのである。
今回の尖閣列島の問題が起きた時、中国人観光客が来なくなるとか、レアアースが手に入らなくなってしまう、どうしようというような反応があった。貧しくなれば、残飯でも拾って食べるというような習慣が日本人に身についてしまっているのだ。
レアアース、かつては希土類と言われたもので、レアアースや、レアメタルの問題は中国に依存しすぎで、経済安保上、問題だということは言われてきた。かつて石油危機の時に、中東に石油を依存しすぎはよくないということで、石油の輸入先を多様化したことがある。
希土類も一緒である。専門家に言わせると、世界でこうした土が取れるのは中国だけでなく他にもあり、1千億円くらいあれば中国依存状態から脱することができるという。不況であっても、こうしたことは真っ先にしないと、また、同じことが起きる。中国は味をしめたのだから。
リーマンショックの後、百年に一度の経済危機と言われる中、日本の企業は短期間で業績を回復した。その大きな原動力はアジア、中国への輸出である。日本を代表する企業で、売上高の3分の1が中国というような会社もある。
これなど、今回の尖閣問題がなくても、非常に危険な話である。アメリカ依存で大やけどをしたのに、今度は中国依存で、また、大やけどをしようとしている。
今の日本はかつて、沖縄が琉球の時代に、日本と中国の2つの国に貢物を出していた時と同じ状態である。両大国の顔色を見ながら、どうにかやっていく。日本がそんな国にいつなり下がったのだろうか。
織田信長の時代に、日本に渡ってきたキリスト教の宣教師たちが、日本人は文化のレベルも高いし、誇りも高い。礼儀もわきまえ、人間として、尊敬もできると書いている。
今回の尖閣列島の問題は、日本人にもう一度、国や防衛、領土などを考え直させるよい機会となる。それで、戦後ずっと、忘れてきたものを思いだし、再確認しないようなら、日本は京大の中西輝政教授が言うように、本当に「中国日本自治区」になってしまう。その瀬戸際に今、我々はいるのだ。
20100924
中国に屈した民主党政権。属国への道。
尖閣列島で、海上保安庁の船に体当たりしたとして逮捕された中国人の船長が、処分保留のまま釈放された。政府は「那覇地検が決定したことで、政府は関与しない」としているが、そんなことを信じる人間は誰もいない。
そして、船長、船員の逮捕・拘束の後、中国が強硬に抗議し、レアアースの日本への輸出禁止をしたり、フジタの社員4人を拘束するなど、やりたい放題をしてきたことに、日本は屈したのである。今度のことは、日本は強硬に対応すれば、屈するのだということを世界に示したものである。
今回の事件は、発生時から、日本のマスコミでは、識者と称する人やテレビ番組の司会者が「日本は対応に慎重に」と言い続けていた。そして、今回の船長釈放でも、町の声が「日本の姿勢としてそれでよいのか」というのに対して、やはり、識者と称する人は「日本は面子や強硬論ではなく、より高い次元で大人の対応をしたのだと思えばよい」というようなことを言っている。
世界の国家間の問題が起きた時に、領土の問題は、戦争に結びつくし、領土侵犯者は警告しても言うことを聞かない時は、射殺してよいというのが、国際常識である。射殺をしろとは言わないが、世界では、そういうことだということを日本人は知らないと、対応を間違える。
何年か前に、アメリカのハローウインの時に、アメリカ人の家庭を仮装衣装で訪れた日本人留学生が、「フリーズ」という言葉でも静止しなかったとして射殺される事件があった。この事件は、米国の裁判では当然のように、射殺をした人は無罪となった。それが世界の常識なのだ。
戦後の日本では、敗戦の経験から、戦争を放棄し、防衛は米国に依存し、自ら血を流すことをして来なかったので、こうした問題にどんどん鈍感になってきた。国や家族を守るためには、何をしないといけないか。世の中にはルールを侵す人間や国家がいくらでもいるということすら、日本人や日本政府の頭からはなくなってきている。
だから、問題が起きれば、「話し合いで解決を」「話せば、理解してもらえる」というユートピア思想が日本には蔓延している。そうした姿勢だから、何十人、いや百人は越えているとも言われる、北朝鮮による組織的な日本人拉致も、まったく解決の糸口さえ見えない。
今回の尖閣列島問題の日本政府の姿勢は最初から疑問だらけである。最終的にこれだけ腰砕けになるなら、最初から逮捕などすべきではない。自民党政権時代に金正日の長男が日本で見つかり、入国管理法違反で、拘束されかかった時、報告を受けた当時の田中真紀子外務大臣は、拘束せずに、国外に放逐することを命じ、さっさと長男を外国に出してしまった。
これはこれで、当時、警察関係者などが、拘束して北朝鮮と交渉すれば、何か日本も得ることがあるはずなのにと、文句を言ったというが、武力を持たず、相手ときちんと交渉する気持も心構えもない日本としては、田中氏がしたような対応しかないのだと思う。
そして、これであれば、政府間で今回のようにもめることもない。今回は拘束し、そして、話がどんどん大きくなっていった時でも、担当大臣や官房長官が「尖閣列島は日本の領土であり、国内法で粛々と対応する」と言っておきながら、最終的に腰砕けになって、船長を釈放という最悪の展開になった。恥を大きくしただけである。
民主党政権は、囲碁で言えば、一手、二手の先も読めない人たちである。Aケースならどうする。Bケースならどうするというシナリオさえ考えず、事の展開で驚き、慌てて、屈辱の決定をしているのだ。
これで、海上保安庁の現場は、まったくやる気を失うだろう。どんなに理不尽な領海侵犯があって、現場は怪我や死を覚悟して相手を逮捕しても、頭ごなしに政府が釈放してしまうなら、ばかばかしいから、何もするなということになる。これで、領土侵犯はどんどん増えて来るだろう。
今回のケースは国際世論に訴えるという作戦でも、日本政府はまったくお粗末だった。中国は、船長の実家を取材し、彼がいかに良い人物であるかということや、今回の逮捕で、祖母が死んだということなど臭いくらいに、お涙頂戴の話を報道し続けた。
これに対して、日本は、漁船が海上保安庁の船に体当たりしてくる映像を持っているのに、これを使おうともしなかった。中国が強硬な態度を示し始めた時に、さっとこの映像を公開していれば、流れは大きく変わっていたはずである。でも、民主党政権の姿勢は、「中国を刺激しないように」である。涙が出てしまう。
筆者は何も戦争しろとか、過激に戦えと言っているのではない。問題が起きた時には、落ちどころを考え、少なくても、自分たちに不利にならないようなところまで押し返して、終了させないといけないということを言っているのだ。今回の政府の対応では、そうしたことはまったく見えない。
今、発売の雑誌「ウエッジ」に京都大学の中西輝政教授が「今のままで行くと、日本は中国の日本自治区になってしまう」と書いているが、まさに、今回の民主党政権の対応は、この道への加速させたと言える。
小泉元首相は、マスコミ的には、「格差を拡大し、失業を増加させた」、「米国ブッシュ大統領の忠実な番犬、ポチ」とか言われている。しかし、数字、データはまったく違うことを示していて、小泉元首相のしたたかさを示している。
まず、格差拡大、貧困拡大だが、小泉氏の在任期間中に、ジニ係数は縮小した。ジニ係数は格差を示す国際的な指標である。この係数は1980年代から2000年までずっと大きくなり、格差は拡大していった。しかし、小泉氏が首相をしていた期間は、ジニ係数は小さくなり、格差は縮小した。データが示す事実である。
また、彼が首相に就任した時は、ITバブルが破裂して、世界の国が不況に突き進んで行っている時で、日本も企業業績は悪化し、株価も大幅下落し、失業は増大していた。こうした中で、小泉元首相は、大幅な為替介入や低金利で円安を誘導して、企業の輸出を促進するとともに、規制緩和を行い経済を活性化させた。
このために、対米輸出が急激に増大し、日本は世界の先進国の中でいち早く、企業業績が回復し、それまで、年間50兆円水準だった輸出が80兆円へと大幅拡大した。輸出の最大のターゲットはアメリカである。これを実現するには、アメリカと仲良くし、文句を言われないようにしないといけない。
ポチと言われようと何と言われようと、輸出に文句を言われないといけない。そう思い、実行したのである。ところが、そうして、日本の経済を立ち直らせた小泉氏をマスコミは「日本を壊した首相」と書く。事実をまったく隠して、事実と違う宣伝をした。日本を壊したというなら、今回の民主党政権の方が遥かに日本を壊した。属国という、屈辱への転落の道への破壊である。
20100919
内閣改造で見えた長妻厚生労働大臣のレベル
菅改造内閣で、長妻厚生労働大臣が更迭された。これについて、本人はかなり未練があるようで、更迭されたことが不満で、記者に「厚生労働省を改革しようとして、一定の成果が出始めていたのに更迭は残念だ」と語っている。しかし、これほど自分が置かれている状況を理解できない政治家も珍しい。
長妻氏は消えた年金問題を指摘して民主党のスターになり、テレビなどマスコミにも多く登場し、民主党が自民党から政権を奪取する上で大きな力になった。しかし、それはマスコミが作り上げた虚像の部分が大きい。
政治家同士は互いに力がわかっているので、鳩山政権では、それだけ功績があった人だが、最初の人事構想では、厚生労働大臣ではなく、別のもう少し軽いポストを用意されていたという。
しかし、本人が鳩山前首相に副大臣でもよいからと、厚生労働省入りをねじ込んだので、まさか、スターを副大臣にする訳にもいかないので、大臣にしたという経緯がある。
こうして大臣になったはよいが、官僚の受けは最悪だった。厚生労働省は年金問題だけでなく、医療問題もあるし、薬事行政もある。労働問題もある。官僚がそうしたことを説明しても、長妻氏は理解できないのだ。
わからないなら、それをある程度官僚に任せるか、副大臣など別の関係政治家に担当してもらうしかないが、自分が自分がという意識が強いので、人に任せることができない。かと言って、理解できないので、自分で抱え込むようなり、行政はストップ状態となった。
その癖、どんなことでも、官僚が逐一、自分に報告しないと、気がすまず、どうでもよいような細かなことまでも指示を出し続けた。あまりの厚生労働省の役人の評判の悪さに、驚いた民主党政権は前の鳩山首相の時代に厚生労働省の役人に、長妻氏のどこがどう悪いのかアンケート調査をした。
その結果、百パーセントに近い役人が、彼の下では仕事はできないと答え、具体的なお粗末さを答えた。官邸はびっくりしたが、長妻氏は国民的にはスターなので、官僚から反発されているので、更迭しましたという訳にはいかない。
官邸は、それとなく、官僚とうまく付き合い、上手に使うようにアドバイスしたが、一向に変わらない。それは長妻氏サイドの大いなる勘違いがあるからである。
彼は、「自分は年金という厚生労働省の大きな問題を明らかにしたので、官僚は自分を敵視し、憎んでいるのだ」と思いこんでいる。今回の更迭の時でも、その思いの上での発言となっている。
これは全く違うし、それこそ、空気読めないの典型である。マスコミは官僚は一枚岩のように報道しているが、それは違う。現状を守ろうという人もいるし、現状に危機感を持ち、改革したいと思っている人も結構いる。それを利用して、自分が出世しようと考えている人もいる。
だから、それまで、その役所を散々攻撃してきた政治家が大臣になると、局長、次官クラスは警戒するかもしれないが、味方をしてその省庁を改革しようという動きをする役人も少なからず出て来る。
菅氏が厚生労働大臣になった時、長年、役所が隠していた薬害エイズ患者のデータを見つけたのは、そうした改革したいと思っていた役人の協力があったからである。菅氏は少なくても、厚生労働省のそうした改革派の心をつかんだのである。
ところが、長妻氏に対しては、改革をしたいと思っている役人すら協力しようとは思わず、ほぼ、全員が即刻交代してほしいと答えたのである。いかに、人間として、政治家としての資質に問題があったかが理解できる。それに対して、朝のワイドショーで、みのもんたは「長妻さんには活躍を期待していたのに、なぜ変えるのか」と文句を言っていた。彼は会社を経営する人もでもあるのに、信じられない発言である。
日本人は、誰かが何かで業績をあげると、その業績の評価ではなく、その人全体を高く評価するという傾向がある。その典型が、何かの専門家である人、法律の専門家の弁護士や、大学の教授、タレントをTVでその人に関係ないことにまで、コメントさせ、その意見をどんどん流すことである。
何かで優れている人は、他のことでも、それなりに見識があるであろうという考え方である。大学教授や医者など、高度の専門知識が必要な仕事をしている人なら、それ以外のことでも、理解でも、間違った発言はしないという前提なのである。
でも、それは全くの間違いである。医師や教授、弁護士としていかに優秀でも、専門以外分野のことはまったく駄目という人はいくらでもいるし、犯罪を犯す人もいる。
そもそも、長妻氏の功績とは何だったのか。彼は年金記録の杜撰さを国会で質問し、消えた年金として、マスコミが大々的に報道することで、スターになった。では、彼が質問するまで、誰も気がつかなかったのかと言えば、そうではない。関係者の間では周知の事実だったのである。
日本における年金制度は、明治時代の軍人に対する恩給からスタートする。それが戦後、公務員や一般会社員などにも広がり、今の国民皆年金制度へとなっていったのである。
そして、戦後、年金制度を作って行く上で、この軍人恩給を扱ってきた人たちが、その実務を担当し、特別領域となって、厚生省では、事務次官でも、口出しができない領域になっていった。
そして、年金が国民全体に広がって行く時に、当時はコンピューターもほとんどない時代で、全部手作業だった。また、企業が人を雇って、健康保険や厚生年金に加入させる際に、申請された名前をそのまま受付けざるを得ないので、架空の人はいくらでも存在したのである。
戦後も大分経ち、コンピューターが普及し、色々な制度が整備されて行く中で、手書きの年金台帳の整備、コンピューター化は大きな問題となった。厚生省は決して効率的ではないが、次第にそれを行い、整理をしていった。
しかし、結婚して姓が変わった人は少なくないし、移転先が不明の人も多くいる。同姓同名の人もいる。加入者に連絡をとり、確認のできたものから、コンピューター化をしていった。だが、連絡のとれない人は多くいた。消えた年金問題の根の問題はそれである。
厚生労働省に限らず、役人は自分勝手をするし、放っておくと好きなことをやりだす。そうした意味で、役人に対する監視は極めて大切である。だが、マスコミや、それの影響を受けた世論には、ナンセンスであったり、時代背景を無視したものが少なくない。
年金の記録は、役所の不注意で消えたものもあるが、企業が本人からは給料から天引きしていて、役所には納めていないものも数多くある。また、姓の変更や転居で連絡がとれず、宙に浮いたものもあまたある。こうしたことを無視して、一方的に役所が悪いと責める論調はおかしいと筆者は思う。
だから、民主党政権になり、長妻氏が野党時代に、民主党が政権をとったら、1年位で、消えた年金問題は解決すると言っていたが、既に民主党政権になって、1年である。未だに、年金問題は多くが未解決のままで残されている。
鳩山前首相が、普天間の米軍基地を「できれば国外、最低でも県外」と言って、当事者の涙ぐましい努力で、やっと辺野古の海の埋め立てを代わりの場所にするということで、日米、地元が曲がりなりにも合意したものを崩した後、「政権をとってみて、これほど、米軍の存在を大きかったとは知らなかった」と言ったが、年金問題も同じである。
年金問題を整備していく一番の近道が国民総背番号化である。欧米では常識となっているこの制度は、日本では、マスコミ、一部の進歩的と言われる知識人などの反対で、実現できていない。だから、膨大な時間と金をかけながら、作業が遅々として進まないのだ。
世界の常識となっている国民総背番号化はこれからの社会で不可欠のものである。制度は必須である。問題が起きるとすれば、その運用においてである。役人は国会の議論でものごとが決まった後、法律を作っていく過程、また、法律を運用する上で必要な省政令の策定過程で、国会で決まったこととまったく異なる内容を盛り込んでくる。
今回のテレビ放送のデジタル化でも、NHKに受信料を払っていない人はNHKサイドで補足でき、受信料を払っていない人がテレビをつけると、テレビ画面に、それこそ、放送内容が見えないくらいに、「NHKと契約してください」という内容の文章がびっしり出る。デジタル化とまったく関係ないことが、こっそり役人の手で潜りこまされたのである。
役人は、法律や運用を国会の議論とまったく違う方向に行くようにしてしまのが、得意中の得意である。ここを監視し、違反者には罰を与えるということをしないといけないのである。今の日本の行政改革の議論は、ここが抜けていて、制度そのものだけを議論をしているので、結局はおかしな方向に向かっているのである。
話を内閣改造に戻すと、今回の閣僚の顔ぶれをみて、民主党には本当に人材がいないことを痛感する。民主党に政権を任せて、鍛えるという発想もあると思うが、今の日本にはそんな余裕はない。難破船になりそうな国をまったく航海技術や経験がない人が船長、機関士で船を操縦している感じである。
20100917
閣僚、党人事でも、いい加減なマスコミ報道
民主党代表に再選された菅首相が党の人事と閣僚人事を決めて発表した。その過程や決定した後の新聞、テレビの解説を見ると、本当にいい加減であり、かつ、小沢氏との対立を必要以上に煽っていて、報道を受ける人間の側が余程しっかりしていないと、振り回され、誤った認識を与えられてしまうと感じる。
まず、民主党の幹事長人事だが、菅首相が、旧民社党系の川端氏に就任を依頼して難色を示され、その後、何人かに話をもっていったが、いずれも受けてもらえず、仕方なく岡田氏に依頼し、やっと決まったというような報道の仕方である。
筆者は今リアルタイムで、この政局を取材している訳ではないが、この報道の仕方に大いに違和感を感じる。筆者の理解では、菅首相は最初から、岡田氏に幹事長の就任を頼むつもりだったのだと思う。
しかし、岡田氏は民主党代表選挙中でも、政治と金の問題で強制起訴される恐れのある人が代表選挙に出馬すること自体、いかがなものかと思うと発言するなど、反小沢の色彩を鮮明にしていた。その岡田氏にいきなり幹事長の就任要請すれば、小沢陣営の反発は必至で、それを和らげるために中間派などの人の就任要請をし、断られたのでやむを得ずという形にして、岡田氏に持って行ったと見るのがごく自然の見方であり、結果的に順当な人事で落ちついたということである。
菅首相は、一応の挙党態勢を心がけているということを示すために、小沢氏と興石氏に代表代行の就任を要請した。実権がなく、形だけの代行なので、両氏は固辞した。しかし、これも予定の行動である。双方が依頼があることも、依頼しても断ることも知っていてのセレモニーである。ただ、そのセレモニーは必要だから、両サイドは淡々とそれを演じた。
ところが、マスコミの報道は、会談はわずか10分であり、突っ込んだやりとりをする時間もなかったと報じる。最初から、両サイドとも、突っ込んだやりとりをするつもりなどなく、セレモニーをしたと書くのでは面白くないので、そうした書き方をする。
そして、小沢サイドの過激な発言をする議員にコメントを求める。その議員は、予定されたように過激な発言をする。予定通り、シナリオ通りの話がとれたとばかりに、そのVTRをテレビは放送する。そして、「ほら、こんなに両派は仲が悪く一触即発なのだ」とコメントするのである。
両派が全力で代表の座を目指して戦って、まだ、その余韻が残っているのだから、確執や怨念がないと言ったら嘘になる。しかし、マスコミが煽って書くほど、両者の力関係が拮抗していて、口もきかないというほど険悪ということでもない。それを対立は決定的と言って、煽るのである。
マスコミはキャッチコピーが好きである。対立の図式も好きである。それがまったくの嘘でも、百回マスコミが言う内に、その嘘が真実のように定着してきて、国民の多くが信用するようになる。そして、間違った事実認識で、選挙などでの行動になっていく。とても、怖いことである。
わかりやすい例が「格差を拡大し、貧困を拡大した小泉政権」というキャッチコピーである。朝日新聞が書きだし、それを多くの政治家、評論家、学者、コメンテーターが何回も言う内に、あたかも真実であるかのように定着してしまった。
しかし、これはまったくの嘘である。豊かな人と貧しい人の格差がどれだけあるかということを示すジニ係数というのがあり、OECDなどがそのデータを公開している。日本は、小泉氏が首相になる前の1980年代、90年代と格差はどんどん拡大していった。
だが、小泉氏が首相に就任し首相にいる間、ジニ係数はどんどん下がり彼はその5年間の在任期間に、格差を縮小したのである。また、彼は、今回、菅政権が切羽詰まって行った為替介入を大々的に行い、円安誘導を行った。当然、企業の輸出は大幅に増え、彼の業績で企業業績は向上し、それとともに、株価は急激に回復し、失業率も大幅に低下した。それが事実である。
それを小泉憎しの思いから、「格差を拡大し、貧困を拡大した小泉」というキャッチコピーで小泉氏を攻撃し、更に、その後継の自民党の首相を叩きまくり、民主党政権誕生に最大の原動力になったのはマスコミである。その結果は、どうなったかは、この民主党政権下の1年が示している。まさに、害悪を振りまいているマスコミである。
筆者は小泉氏の信奉者でも何でもない。彼の治世には、誰でもそうだが、問題も当然あった。しかし、世界的に見れば、彼の治世5年は非常に高い評価を得て、株価も上昇し、失業率も低下した。
彼は5年経っても、まだ人気があり余力もあった。続投を求める声も多かった。しかし、彼は続投を選ばずに、退任した。なぜという心を彼は明かさないが、筆者は、自分を攻撃し続けするマスコミ、学者、そして、それを信じる国民に嫌気をさし、もういいよという思いで、政権の座から退いたと思えてならない。
マスコミは、権力者を批判し、チェックするのが仕事である。だからと言って、自分の好き嫌い、利害で、事実を捻じ曲げ、国民の間違った情報を意図的に与える権利はないし、それは自殺行為である。今の日本のマスコミは、その自殺行為を続けている。そして、それを誰も非難しないし、止めようともしない。
新聞やテレビが大合唱を始めると、国民は1つの方向に簡単に誘導されてしまう。そして、そうした時は、国民や国家が非常に危険に晒されることになる。それは、太平洋戦争で嫌という程、日本人は経験済みである。一番、戦争を煽り、国民を戦争に駆り立てて、朝日新聞が、今、そんなことは知らないとばかりに、正義面をして、原稿を書いている。
筆者は、ずっと書いているように、民主党政権は早晩行き詰まると考えている。政権能力はないし、ビジョンもない。官僚が「自民党時代よりも好き勝手ができる」とばかりに、本当に喜び、好き勝手を始めている。
ただ、その菅首相でも、金の亡者、権力志向の極めて強い小沢氏よりは増しだと思う。彼は、まだ、人の意見を聞く耳を持つし、批判されれば、立ち止まることもする。しかし、小沢氏に権力を与えたら、彼は誰の意見も聞かないし、途中で止まることもしないので、日本は破滅の道を突っ走っていたことだけは確かである。
それにしても、小沢陣営として、テレビに顔を出す人のひどさ、気持ち悪さは何とも言いようがない。過激な発言をする小沢派の男性議員は、山岡氏を初め、松木氏も誰も、顔つきがギラギラして、いわゆるヤクザ顔である。金の権力のためなら、何でもするという感じである。
更に、小沢ガールズと言われる女性議員は、自分がテレビに出て、国民にどう見えているか、自分で考えたことはないのだろうか。小沢氏および、その秘書との密会を週刊誌に書かれた青木愛氏を初め、権力と金のためなら、何でもしそうな顔つきだということを示している。
顔そのものは、確かに美形かもしれない。しかし、気を許せば、刺されかねないというタイプである。それが顔に出ている。彼女たちがテレビに出れば出るほど、そのアコギさが見え、支持者が減っていくということを考えないのだろうか。
そして、何よりもそうした同じようなタイプの人間を次から次と見つけ、それを国会に送り出す小沢という人は、本当に人を見る目がないとしか、言いようがない。自分が人からどう見えているかという発想がないのではないか。
筆者は長年、記者をしてきたので、数多くの人を取材してきた。そして、今は、人事採用担当として、毎年何千人の学生と面接をしている。その体験から、人は顔を見れば、美醜ではなく、その人の性格、生き様が概ねわかる。顔を見て、一言、二言話をすれば、わかる。そして、その判断は9割はあたっている。その体験からして、小沢支持の議員の顔つきは男性も女性も最悪である。
小沢氏も完全に悪人の顔である。心穏やかな人はあんな顔つきにはならない。手相見ではないが、顔はその人の人格を表している。そして、その悪人に200人もの国会議員が投票をする民主党という政党を支持する国民についても、筆者は理解できない。
20100915
最悪のシナリオ回避だが、民主党行き詰まりは時間の問題
民主党の代表選挙はご存知のように、菅首相が小沢氏に圧勝した。これで、金権政治家で、利益誘導の典型である小沢氏が勝つという悪夢は避けられた。しかし、円高対策1つを例にとっても、菅首相が今の日本の危機の時に何をしようとしているかが見えず、日本は未曽有の危機状態であることに変わりはなく、民主党政権がメルトダウンの秒読みであることは間違いないだろう。
それにしても、代表選挙で国会議員の半分が小沢氏に投票した。新人が多く、選挙で小沢氏に世話になったという人が沢山いるということを割り引いても、200人の国会議員が小沢氏に投票するということは全く信じられない。民主党の国会議員の質がいかに低いかという表れである。
小沢氏については、国会議員を引退した野中広務氏が月刊文藝春秋で、「悪魔が来りてホラを吹く」というタイトルで原稿を書いている。京都の町会議員、町長、府会議員、副知事を経て、国会議員となり、政界の実力者として、裏の裏まで知り尽くした人物が雑誌上で、小沢氏について様々なエピソードを書いている。
野中氏は小沢氏以上に剛腕として知られた人だが、嘘をついたり、ないことをでっちあげるような人ではない。政界の引き際も立派だった。その野中氏が書いている内容は、筆者が知っていることもあるが、知らないこともいくつもあり、しかも、その内容が凄まじい。
読まれた人もいると思うが、そのいくつかを紹介したい。イラクがクェートに攻めこみ、世界諸国がクェートを助けるために救援軍を送り、日本も1兆3千億円あまりという巨額を拠出した。ところが、これが実際には相手に1兆円しか渡っていないという。つまり、3千億円あまりが行方不明だというのだ。当時、その金を扱っていたのが小沢氏である。
小沢氏は新進党や自由党の解党の時に、党に税金から渡された交付金が行方不明になり、小沢氏が着服したというのが政界の常識であるが、これは数億から十数億の金額である。しかし、クェートの時は行方不明の金額が数千億円と目がくらむような巨額であり、桁が違う。
また、沖縄の普天間の米軍基地の移転が大きな問題となっているが、その移転先の候補地に、小沢氏が色々と土地を買っていることも明らかにされている。沖縄県民の重大問題に関連して、それで金を儲けようとしているという話は、政治家として信じられない。
かつて、成田空港や関西国際空港、更に道路建設などで、候補地に政治家が先行投資で土地を買いまくり、それで金儲けをしたという話はいくらもあった。その多くは旧田中派に関連するものである。小沢氏は旧田中派の直系であり、まさにその手法を沖縄の基地問題で使っているということである。
他のことはともかく、この2つの話は政治家という以前に人間として、人間以下の行動である。もし、これが事実でないと小沢氏が言いきれるなら、名誉棄損で訴えるべき内容である。でも、小沢氏はしないだろう。なぜなら、野中氏は自信に満ちて原稿を書いている。裏付けとなる証拠を持って書いているという印象である。
筆者が小沢氏を人間として、まったく評価しないのは、長く行をともにした腹心、同僚がことごとく愛想をつかして、小沢氏のもとを去って行っていることである。
また、小沢氏が実力者になるにあたって、小沢氏を強力に引き上げ、支援した大の恩人である金丸信氏が脱税で逮捕された時、それを支援せず、むしろ、逮捕の方に持って行ったこと、そして、逮捕された金丸氏を一度として、見舞いに行かなかったことである。
筆者が親しくしていたある有名な企業経営者が刑務所にいる金丸氏を見舞った時、金丸氏は見舞いの礼を言うとともに、「小沢は一度も見舞いに来ない」とこぼしていたという。人間、失意の時ほど、その回りにいる人の真の心が知れるという。小沢氏は金丸氏から受けた大恩からすれば、誰よりも真っ先に見舞いに行かないといけない立場にいる人間である。
今回の野中氏の原稿では、小沢氏が金丸氏の見舞いに行かなかったことは書いているが、それだけでなく金丸氏の死後、小沢氏が墓参りをしないだけでなく、金丸氏の死後、追悼で出された本に寄稿を依頼したり出版記念パーティーへの出席を頼んだりされたが、いずれも断ってきたことを書いている。
政治家としてどうのこうの以前の問題として、人間として、信用できない人に、人の心がわかる政治などできる訳がない。小沢氏にあるのは、政治家として、いかに金儲けをし、権力を手に入れるかである。こうした人間に、200人の国会議員が首相にしようとして投票したのである。
もっとも、当初、国会議員では、小沢氏が6,7割を押さえていると報道されていた。それが、国会議員でも、菅氏が僅差でも勝ったということは、少しはましなのかもしれない。
今回の代表選立候補について、野中氏は「追い詰められての立候補であり、政治家として自滅の道を歩き出した」という趣旨のことを書いている。選挙結果が出る前の原稿であり、結果を見ても、まさにその通りの様相である。
小沢氏の話はこれくらいにして、勝利した後の菅首相を中心とする民主党政権が何をするかが大きな問題である、今の日本の状況からすれば、子供手当や農家の戸別補償などをする余裕はないし、政策としても、優先順位がずっと下のことで、まずは、今の円高対策、景気対策をしないといけないのだが、今の進み具合をみると期待薄である。
公明党の元書記長、矢野絢也氏が雑誌上で、「民主党にこれほど、政権能力がない未熟な政党であるとは思わなかった」と書いているが、筆者は野党時代からの言動からして、民主党に政権能力はないとずっと言い続けてきた。マスコミも国民もなぜ、これくらいのことがわからなかったか、今でも理解に苦しむ。
民主党が政権をとって、過去1年くらいと、これからの1、2年は後世の歴史家が日本にとって、最悪の無策時代と評する時代になると思われる。緊急対策が必要な時期に、日本にとって、本当に不幸なことである。しかし、これも国民が選んだことである。間違った選択をした以上、そのツケは国民が自分で甘受するしかない。
まずは、市場は菅政権が何もしないということを見越して、15年ぶりの1ドル=82円台になった。無策が更に続けば、円高は更に進み、企業の海外進出は更に進み、日本で働く日本人には、仕事が奪われる状態が進んでいく。
そして、尖閣列島をめぐる中国漁船の扱いが菅政権の試金石であると考える。中国はベトナム、フリッピンなど多くの国と領土紛争をしている。そして、相手が弱い、弱腰だと見た場合、武力を背景に、自分の主張を強引に通している。こうした国には、毅然とノーという姿勢が必要なのに、日本の姿勢は弱腰そのものである。
そもそも、夜中の零時に呼び出しをされた大使は、ノーを言わないといけないのに、言われるままに出かけていった。政治的に非常にデリケートで、重大は判断が必要な国の大使に、経営者OBを送ること自体大きな間違いである。丹羽氏は経営者として会社を改革した人である。また論客であることで知られるが、そうしたことと、大使の実務はまったく別の能力である。大使の辞令発表があった時にあきれたが、案の定重大事案に立ち往生である。
中国の共産党の機関紙系列の雑誌で、沖縄や日本領の南の諸島は中国の領土だという主張が掲載され出したいう。中国や韓国に気を使い、話せばわかるという姿勢で対応してきたことが、逆に相手をより強気にさせた象徴のような出来事である。国と国の争いは話せばわかるというものではない部分がある。時には強い姿勢が必要だが、民主党にそれができるとは思えない。多くの資源があり、漁場としても、豊富な資源に恵まれた場所が中国に奪われていこうとしている。
20100911
日本のテレビ番組がお笑いタレントだらけの理由
地上波の日本のテレビ番組を見ると、とにかく、お笑いタレントのオンパレードである。司会だけでなく、並び大名と言われる並んだ席で、司会者に振られて何かコメントをする人もお笑いタレントと、何も特に芸はないがテレビによく顔を出しているテレビタレントだらけである。そして、リポーターもこうした人が務めている。
今の若い人は、こうした番組を見続けていて、それが普通だと思っているかもしれないが、日本でも、少なくても十年前はこうではなかったし、欧米の主要国に旅をすると、こうしたシーンはほとんどなく、日本のテレビ番組の低レベルに気付かされる。
日本に来た外国人がホテルなどで日本のテレビ番組を見て、言葉はわからなくても、どういう人が出て、何をしているかは大体わかるので、それを見て、「これだけ技術や教育が進んだ日本で、どうして、これだけひどい番組を流しているのか」とよく質問してくる。
日本のテレビがこのようになってきたには理由がある。それは日本のテレビ局、いや、日本企業社会が抱えている大きな二重構造があるのである。
東京や大阪のキー局と言われ、その制作番組を全国に流している放送局の社員の給料は高いことで知られる。女子アナで入社、数年の人は年収が1千万円になり、社内には、部下を持つ部課長職の管理職でなくても、ほとんど仕事らしい仕事をせずに、年収1500万円以上の人はゴロゴロしているという状態である。
かつてのバブル時代や高度成長時代なら、それも半分理解できなくはないが、今は不況で広告収入が激減し、赤字のテレビ局が増えてきているのに、そうした状態が続いている。一度高くした給料を下げるのは至難の技というのが人事の世界の常識である。
そうすると、どうするか。番組の制作費をカットするしかない。放送局の番組制作は社内ではほとんどしていない。下請けのプロダクションが企画、取材、制作をほとんど行い、最後の事前収録段階で、テレビ局のディレクターが立ち会い、その目の前で番組が収録される。余程のことがない限り、その段階で、テレビ局が文句を言って作り直しをすることはない。
こうした下請け制度は別にテレビ局だけではなく、自動車や電機業界でも、建設業界でも、広く日本社会で行われている。今は流行らなくなったマルクス経済学でいうところの、「日本経済の二重構造」である。
しかし、自動車や電機、建設など他の業界では、トップの企業が大きければ、一次下請け、二次下請けといわれるような会社も上場企業で、それなりの配分がされている。ところがテレビ業界はまったく違うのである。
ねつ造、やらせなどで問題になった「あるある大辞典」という番組では、その後、なぜ、そうしたことが起きたかが検証された。そこで、凄まじい下請けの実態が浮き彫りにされた。
スポンサーだった自動車会社は番組の提供料として、1億円を支払っていた。しかし、番組を全面的に下請けして、取材から制作まで手掛けていた会社に渡されていたのは、たった5百万円であった。
テレビの制作費、取材費は交通費も、宿泊代もかかる。取材をするのには、ビデオカメラを担いで取材するカメラマンの他、ライトマン、音の収録係、取材ライターなど多くの人が現場に行く。事前リサーチで取材し、データを集め、面白いと思った内容を、今度はカメラをもっと再度取材に行く。
そして、収録した膨大なビデオを今度は細かく編集して、番組に作り上げて行く。編集マンは別の人で、専門家がこれにあたる。また、放送の際の字幕処理なども、これはこれで別の担当者が必要である。こうした膨大な作業の末に、番組が出来上がるのである。
業界に関係ない普通の人には、数字感覚が理解できないかもしれないが、人気のある報道番組できちんと取材すると、十数分の取材企画で、数百万円の費用がかかる。そういう中で、50分くらいの番組を取材、制作して5百万円となったら手抜きをするしかない。
普通にきちんと取材をすれば、大きな費用がかかる。スタッフも何人も必要だし、時間も手間もかかる。ではどうしようか。そこで、外に取材に行かずに、社内で済ませようということになる。スタジオは会社のものだし、それを使うのだから、経費はほとんどかからない。
今度は出演陣である。司会者がいて、少し名の通ったゲストコメンテーターと言われる人が、何人か出演して、司会者の説明や質問にコメントをするというスタイルで1時間番組に出た場合、その出演者には、特別料金の人は別として、通常は1人あたり、手取り(税抜き)で7万円から十万円くらいが支払われる。
リハーサルを含めると、1時間番組でも、1時間半から2時間は拘束される。それで、7万円は安いと思う人もいると思うが、テレビによく顔を出すタレントは、月にそうした番組に何回も出る。1週間に1回放送される番組にレギュラーで出ていれば、月には4.5回だから、1回7万円で月額30万円にはなる。
いくつかの番組からお声がかかってくるタレントは、月に百万、2百万円という金額になる。年収はあっという間に、千万円単位になる。別にテレビドラマや映画に出ている訳ではなく、別にこれという芸がある訳ではないタレントがよい生活をしているのは、こうした事情があるからである。
しかし、特に芸のない人、特に頭の回転が優れてよい人でないと、何回出ても話は一緒で、視聴者から次第に飽きられてくる。そして、1人7万円でも、何人か出れば、月にすれば、一定の金額になる。
そこで、目をつけられたのが、無名とか、ほとんと知名度のない、お笑いタレントである。一応お笑いとして練習もしているし、とっさに何かを言うことも始めてではない。何もできないで、名前だけ知られているタレントよりは、テレビ局側も気軽に使いやすい。
少し有名になると、タレントの方も、何かをすることを指示されても、例えば、何かを食べろと言われても、何かわからないものは食べたくないというような反応になる。これに対して、無名に近いお笑いタレントは指示されたことは何でもする。話も自分でオチまで考えている。余程使える。
こうしたタレントは、プロダクション側は、売り出すのに懸命なので、出演料は7万円など要求しない。千円単位でよい。場合によっては、無料でもよいという対応になる。テレビと言うのは不思議な媒体で、何もない人でも、テレビに何回も出ている内に、顔が売れてくる。そうすると、他から仕事が来るようになる。
だから、出演料は無料でも、広告料だと思えば、とにかく、出る方が得だという考える人も少なくない。NHKの紅白歌合戦が他局の歌番組に比べて、ずっと安い出演料で歌手を出演させているのは、紅白に出たということで仕事が来るということを出演者もNHKも理解し、暗黙の合意ができているからである。
最近、テレビ番組でクイズの番組が多い。クイズを出題し、並び大名のタレントがそれに答えていくという番組である。このクイズ形式は、視聴者も参加できるし、知識が得られるというので、一定の視聴率もとれる。
そして、放送するテレビ局にすると、本や資料を少し調べるだけで、制作費はほとんどかからないから、非常に安く制作ができる。その結果、クイズ番組ばやりということになってしまっている。
最近、東京のフジテレビで朝の奥様向け番組で、究極の手抜き番組が登場した。それは、十時くらいから始まるのだが、内容は、今日の朝のワイドショーで、どの局は何を伝えましたというように、それぞれの番組で放送された内容を紹介していく番組である。
司会者はテレビ局の局アナの男性がして、並び大名は3人。少し顔が知られているテレビタレントやテレビによく顔を出すが、別の仕事をしている人である。3人への合計20万円くらいに出演料を除けば、費用はほとんどかかっていないという番組である。
筆者は、お笑いタレントを中心に、スタジオで並び大名がコメントする形式の番組だらけの日本のテレビ番組は、テレビ局の自殺行為だと考える。自分たちは腹一杯に、たらふく高いビーフステーキを食べながら、視聴者には、百円ショップの品物を見せているような感じである。
日本のテレビ番組がひどいと言われ出して少し経つが、次第に視聴者のテレビ離れが起きてきている。アメリカのテレビドラマや、CNNなどの報道番組を流すCS放送の視聴者が1千万人を越え出したという。当然である。番組作りにかける費用が違う。当然、作りの丁寧さは全く違う。筆者もそうだが、日本のテレビの地上波をほとんど見ないという人が増えている。
それでなくても、ネットとの競争に負けて、大変だと言われるテレビ局は、近い将来、大きな改革をしないと、テレビ局という仕事の仕組み自体、何かということが問われるようになってくると思う。
20100908
大学生の4割が就職できないは嘘。実際は1割
「大学卒業者の4割が就職できない」という情報が大きく取りあげられ、今の不況の深刻さを表す現象として、色々なところで話題にとりあげられている。そして、政府も大きな予算をつけてこの問題に取り組むと報道されている。
しかし、事実と大きく違う。今は役所が調べた様々な情報がネットでも公開されているし、独自に調査をした大学の教授や情報会社のデータなども公開されている。こうしたデータを調べてみると、実態が見えて来る。
大学生の就職の話は、文部科学省が発表したデータによると、今年の春、大学の学部を卒業した学生(院生を除く)は54万1千人で、その内、就職をした者は32万9千人で、就職率は60.8%である。
このデータをもとに、役所は不況で学生が就職できない大変だと騒ぎ、テレビなどもさかんに4割の大学生が就職できない異常事態ととりあげ、案の定、厚生労働省や文部科学省は対策予算を要求という記事となった。
しかし、だから、40%の大学卒業者が就職できないから、大事件、かつてないことだという話が違うのである。
まず、大学を卒業しても、自分の意思で企業や役所などに就職しない者が多くいる。大学院に進学する者もいるし、自分の親の家業を継いだり、手助けで家に入る者もいる。企業就職は嫌だと考え、自分の意思でフリーターになる者もいる。
そもそも、今に始まったことではなく、過去もずっとそうだが、大学の学部を卒業して就職を希望する学生は、卒業者の7割程であり、約3割の人は就職をしない。だから、卒業者54万千人を母数でものを考えてはいけないのである。
今年の3月卒業者の場合、文部科学省、厚生労働省の共同データだと、就職希望学生は35万8千人である。大学の学部卒業者で就職を希望した者は全体の66%くらいなのである。
では、それ以外の人は何を希望し、どういう道に進んだかと言えば、大学院に進んだ者が7万2千人、医師で臨床研修に進む者、専門学校に進学した者などが2万2千人などとなっている。就職も進学もしないフリーター、プータローになった者が十数万人いる。
毎年、何千人の学生と面接などで接していて感じることは、大学にほとんど行かない者、大学には行っているが、就職する気がほとんどない学生はかなりいる。自堕落な生活をしている者、ほとんど何も考えていない学生が多い。
それはそうだろう。今は高校から大学に進む人は5割いる。中学の授業にすら満足についていけなかった者が大学に進むのだ。授業がチンプンカンプンでついていけないし、自分自身、勉強したいという意欲もないので、授業に出ていない者は少なくない。
それでなぜ、大学に進学できるかと言えば、今の大学生の5割が推薦入学か、AO入試という名の推薦入学だからである。大学も少子化で、トップクラスの大学を除くと、大学生の数の確保に苦労している。だから、推薦入学でとにかく、学生を確保しようと躍起なのだ。
大学に入って、中退すれば、卒業者にカウントされないが、今の大学はほとんど大学に行かなくても、卒業させてくれるところが大半である。
筆者が採用を担当している会社は他社と同様に、説明会参加希望者にはWEBでテストがあり、合格した人が説明会に参加する。大学はMARCH以上、大半が早慶、関西なら関学、同志社、および国公立大学のレベルである。
その学生に中学レベルの試験問題を出して、ほとんど解けない。「掃き溜めに( )」で、括弧を埋めてくださいという問題を出して、「鶴」「ツル」と書く学生は5%くらいである。
企業にもっと大学生を採用しろというが、こうした学生を採用しても、仕事にならないから、中でも少しましな学生をとどこの会社も考える。採用したくても、採用に値する学生が本当に少ないのだ。
大学生の就職率の話に戻すと、実態は、就職を希望する学生の内、91.9%が就職ができているのである。そして、就職がいつ決まるかということだが、バブル時代のように余程の好況時は別として、4年生の10月1日の時点で、内定を得ている学生は過去20年くらいで6割くらいである。
大手企業の採用内定のピークは4月からゴールデンウイーク明けにかけてである。優秀な学生は概ねこの時期に内定企業を得て、就職活動を終わらせる。
10月1日という日は、企業が内定者を集めて、内定式を行う日であり、大手企業はここで採用活動を事実上終え、次年度の学生に対する活動に切り替わる。しかし、この時期に就職を希望する学生の4割が就職が決まっていないのだ。それは過去20年程ずっとそうである。
偏差値が高くない大学の学生、優秀でない大学生でも、就職活動を始めて、しばらくの間は、超大手企業、有名企業を目指すから、当然、内定はとれない。しかし、内定企業がなく、10月位になると、さすがに自分を知り、目線を下げ、中堅企業を目指すようになるので、内定が出て来る。
10月時点で内定を得ている学生が6割だったのが、12月には70%台になり、2月になると、80%台になる。そして、4月1日の入社日には90%台の人が就職先が決まるのである。だから、現時点で、大学4年生で内定がなくても、あせることはないのである。
役人が情報、データを自分たちに都合がよいように加工して、マスコミ流し、マスコミもその通り書くということを書いたが、なぜ、そうなるかと言えば、それは外国にはない日本独特の記者クラブが大きな原因である。
新聞社の記者は役所、政府が発表するデータ、情報をほとんどそのまま原稿にする。日本は世界の他の国にはない独特の記者クラブ制度というものがあり、全国紙は全部、主要地方紙、通信社、NHKは役所の中に設けられた記者クラブに毎日常駐し、ここを拠点に取材活動をし、原稿を書いている。
その結果、役所の発表する情報は、朝日、毎日、読売、日経などが同じ席で聞き、クラブに戻って記者同士がどうかくか、相談したりした上で、原稿を書く。当然、ほとんどの原稿が同じ内容、トーンになる。
NHKを除くテレビ局は、記者はクラブに配属されているが、人数が少なく、歴史的にも、13社会という主要新聞社、通信社が入っている記者クラブに入れてもらえなかったということもあり、原稿は通信社からのものを受け、それを報道する。
地方新聞社は、原稿はほとんど通信社のものを受けて、それをニュースとして報道する。結果的に、日本では、新聞もテレビも同じ内容、トーンで情報が流される。
欧米ではこうした記者クラブ制度がないので、新聞もテレビも扱う情報が様々である。大手の新聞社の一面の記事は各社でバラバラである。しかし、日本では各社ほとんど一緒の記事となる。その理由は記者クラブにある。
記者クラブは13社の特権となっていて、それ以外の新聞社、テレビ局、雑誌社、フリーのライターなどは記者会見に出席できない。これはおかしいと、特に外国の報道機関が文句を言って、少しづつ開放されてきたが、共同記者会見は一緒だが、その後の、幹部の懇談による解説などは、相変わらず13社に限定されていることが多い。
だから、懇談で裏事情を説明されて、原稿を書く日本の新聞社と会見だけを聞いて、建前の話で原稿を書く外国の通信社のニュースが全く逆のトーンになることもしばしばあった。外国から非関税障壁と常々批判されることである。
にも、かかわらず、ずっと記者クラブ制度が続いている理由は、役所や企業にとって、この記者クラブ制度は世論形成の上で都合がよく、便利だからである。13社にとっても、利権なので、当然と思い、特権を放そうとはしない。
この問題におかしいとして、13社や地元新聞社だけでなく、会見や面談を広く公開した、田中康夫長野県元知事はマスコミの集中放火を浴びた。
歴代の首相、大臣、政治家はこの13社を特別扱いし、便宜を与え、特ダネも提供してきた。しかし、記者クラブではなく、直接国民に話しかけ、語りかけ、人気を博したのが、小泉元首相である。
怒った13社が小泉攻撃を徹底して行った。しかし、小泉という人は庶民の心を把握していたので、マスコミが叩けば叩く程、逆に国民の支持を得た。マスコミが抵抗勢力となったのである。その事情は、上杉隆氏の著書「小泉の勝利、メディアの敗北」に詳しい。
しかし、小泉氏が退陣した後、その後の自民党の首相は、小泉氏程の能力がなかったし、自民党憎しで固まっていたマスコミ、特に大手新聞社はその後の自民党政権を叩きまくり、民主党政権誕生につながってのである。
20100906
豪腕期待という発想はヒットラーへの道
民主党の代表者選挙は選挙戦真っ盛りだが、小沢氏支持を言う有権者の理由として、現在の閉塞感を小沢氏なら何とかしてくれるのではないかという、剛腕期待が多い。
しかし、現状は閉塞状態で、それを打破するために、剛腕を期待するというのは、歴史的にみると、ドイツのヒットラーなどのように、独裁者への道である。
独裁者はヒットラーも、インドネシアのスハルトも、フィリピンのマルコスも初期の頃にはよい政策をとったりしている。しかし、独裁者の回りには次第にイエスマンが集まり、本当の民衆の声が独裁者に届かなくなる。
そして、周囲の人間が独裁者に怯え、イエスマンになり、また、時には権力者の威光を利用して、自分も権力のおこぼれにあずかりたいということになる。結果的に、状況は前よりも悪化して、最後は国がガタガタになり、国民が塗炭の苦しみを味わうという最悪のケースを迎えるというのが歴史的事実である。
(日本は与えられた民主主義の悲劇)
何回も書いているが、民主主義は最上の制度ではない。最悪を避けるためのベターの制度なのである。そして、それを維持していくためには、時間も金もかかる問題点が多い制度である。
しかし、それでも、最悪の独裁者よりはよいということを認め、ほとんどの先進国が採用している制度だということを認識しないといけない。
先進国の多くが、民主主義を民衆の王権などへの闘争で勝ちとってきた。だから、問題のある制度だが、自分たちが血みどろの闘争の中から手に入れて来たベターの選択であるということを多くの国民が理解し、努力して、それを支持し、維持している。
ヨーロッパの主要国では、封建王政に対して、まず貴族が不満を持ち、王権との権力闘争に勝ち、自分たちの意見が通る制度に変えた。イギリスでは貴族たちが自分たちの主張を認めない王を殺害し、言うことを聞く王族の人間を連れてきて、王に据えたりしている。しかし、それでも、それは貴族の民主主義でしかない。大衆、民衆がやがて貴族民主主義に不満を持ち、更に貴族民主主義を打破する市民革命を行い、現在の「主権在民」を勝ち取ってきた。
日本はどうかというと、明治維新は下級とは言え、士族が起こした革命であり、ヨーロッパでいう「貴族革命」なのである。欧州では、その後に、フランス革命のような「市民革命」が起きている。ロシアでも皇帝一族は民衆を代表する形の共産党に殺害されている。
ところが、日本では、明治維新による貴族革命の時代が太平洋戦争の敗戦まで続いた。そして、戦争に負けて、日本を占領したアメリカ軍、GHQが日本の軍の解体、財閥解体などを行い、民衆の力による革命ではなく、占領軍が上から与えてくれた民主主義を国民は手に入れたのである。
血みどろの闘争で手に入れたものではないので、民主主義とは何かということの根本を理解せず、相変わらず、お上意識が強い人が多い。自分が行動して投票行動で国を変えていくという態度ではなく、行政や政治に依存し、その行動が問題だと、不満だけを言うという人が多い。
結果、県知事選挙が30%台というようなことになってしまっている。マスコミのインタビューでも、「どの政党が政権をとっても一緒」という、無責任な評論家的な発言になる。
だから、今回のように、自民党から民主党に政権が変わり、更に、その民主党がお粗末だと、自分が動くのではなく、誰かに何とかしてほしいという発想になり、独裁者の剛腕期待というようになってしまうのである。
でも、それは、それこそ、左翼陣営の人がよく言う、「戦争への道」である。左翼の人は、首相が靖国神社に参拝したり、自衛隊の海外協力などがあると、必ず「戦争への道」ということをよく使ってきた。でも、自民党では右翼的思想の人は一握りで、多くの人はハト派であり、戦争に突入しようという発想など全くない。
むしろ、怖いのは独裁者に権力を与えることである。この週末の新聞紙上で、同志社大学の浜教授がコラムで、今回の民主党の代表選挙について、「スカスカのスイカと、お化けスイカの争い」と書いている。そして、スカスカスイカの菅氏に多くは期待できないが、金権まみれで、自民党の最も古い体質を持った小沢氏が権力を握ったら、この国はとんでもない所に行かされる危険がある。消去法で菅氏だということを書いている。全く同感である。
小沢氏が権力を握ったら、それこそ、戦争への道、核軍備への道さえあり得る。彼は元々、自主防衛論者であるのだから。また、今、彼は記者会見や街頭で、官僚を指導する政治と盛んに言っているが、彼が官僚べったりで官僚丸投げだったことは、彼の過去の行動でも明らかである。
小沢氏の政治主導は、金権主導で、利権の構造の復活である。民主党が選挙で自民党に勝つにあたって、小沢氏の力が大きかった。それで、彼は何をしたかと言えば、旧自民党、田中派のように、民主党が政権を取ったら、利権をあげるというような話をして回り、かつては自民党支持だった団体の多くを民主党支配にしたのである。
これは事実で、多くの取材記者が、その事実を書いている。だから、利権を求めて、医師会にしろ、農協にしろ、民主党になびいたのである。小沢氏のどこを叩いても、金、利権の話ばかりで、彼が日本をよくするという話にはならない。
田中角栄が元気な頃、急激な円高で、新潟の燕三条の洋食器の会社が輸出ができなくなると悲鳴をあげた。この時に、新潟県庁は業者の構造改革の絶好のチャンスと考えた。しかし、田中角栄の政治力で、洋食器業者に多額の補助金が支給され、構造改革は頓挫した。小沢氏の考え方は農家への戸別保障もそうだが、田中角栄そのものである。
ただ、筆者が何と書こうが、週刊誌の情報では、小沢氏の優位は動かないらしい。小沢支持というと格好はよいが、小沢氏の権力を傘にして、自分の利権、ポストを得ようとする人が小沢氏の回りに集まってきて、小沢氏の意思と無関係の動きを始めているからである。
今朝のテレビの朝のワイドショーで、ある局が「街頭演説でも、小沢氏コールが東京でも、大阪でも出ている」と何回も言っていた。小沢という人は勝つためには何でもする人であり、街頭に多くのサクラの動員をかけ、その人たちに、小沢コールを言わせているのだが、それすらも、読めない人間が取材リポーターをしている。嫌、既にマスコミも小沢氏が有利と見て、勝ち馬に乗ろうとしているのかもしれない。筆者が記者時代から、よく役人や企業経営者から、「マスコミがもっと、世の中をリードしてくれないと」と言われた。しかし、マスコミこそが大きな権力構造で、意図的に世論を誘導する悲しい体質である。
先週発売の週刊誌で、元公明党の書記長で、今は政治評論をしている矢野絢也氏が「あまりにも未熟だった民主党政権」というコラムを書いている。彼のような、政治の世界で長くいた人間でも、民主党が政権をとれば、何かしてくれると思ったようで、それが違ったことを嘆く内容である。
しかし、筆者はこの感想に逆に驚く。企業経営でも社長や役員は誰でもなれるものではない。それなりの経験と手順を踏んでなるものである。何も知らない素人がいきない何かをしようとすれば、失敗するのは明らかである。今回の民主党政権のお粗末さはそれを国民に示したのである。
ただ、マスコミの誘導があったにせよ、民主党に政権を与えたのは国民である。その悲しいツケを国民は当分の間、噛みしめ、苦労に耐えないといけない。そうした意味でも、最悪の選択だけはしてほしくないが、今の流れだと最悪の選択になりそうである。
20100905
ゆとり教育が育てたモンスターたち
企業で長年、採用担当をしているので、もう十年以上、毎年、数千人の大学生たちと接してきている。過去の経験から、この学生はどんな人で、どうした思考パターンでというようなことが概ね理解できていたが、いよいよ社会人になりつつある、ゆとり教育世代にはそれがまったく通用しない。
そのゆとり教育世代と採用活動で付き合ってみて感じるのは、これまでの日本人とは、まったくこれまでと違う人種が育っていることである。既に企業の人事担当者の間では、大問題になっているが、このゆとり教育世代を企業は、どう扱ってよいか、ほとほと困り果てている。
ゆとり教育世代の全体としての特徴は、とにかく自己主張が強いことである。意識の中心に常に自分がいて、人の意見、アドバイスはほとんど聞かない。明らかに向かないと思えるようなことに、それを言っても、まったく聞く耳を持たない。
自分の考えが正しく、それが思い通りにならない時には、自分に何が足りないのか、何が問題なのかと考えるのではなく、周りや、他の人が悪いのである。
だから、自分にとって、都合が悪くなったり、気が向かなかったりすれば、相手が先輩であろうが、友達であろうが、約束は守らなかったり、約束した時間に来ないなどというのは日常茶飯事である。
企業の採用選考に合格して内定を得た後、他社に決まって、内定辞退をするということが起きる。今は多くの会社で、内定を出す時に、人事担当者が自分の会社に来るかどうか意思確認をし、誓約書を書かせる所が多い。
学生は約束しないと内定がもらえないからと、誓約書を書いた上で内定を辞退する人はこれまでも結構いた。しかし、その時の断り方が、これまでとゆとり教育世代はまったく違う。
これまでの人たちは、一応、約束をし、誓約書まで書いているのだから、ひたすら謝り、許しを請うという態度だった。しかし、ゆとり教育世代は、謝ることをほとんどしない。それどころか、なぜ自分が他社を選ぶに至ったか、経緯、理由を滔々と説明し始める。
企業の人事担当者が「何だかだ言っても、君は約束を破ったのだよな」と言うと、彼らが言う言葉は決まっている。「私の人生は私に決める権利があるので、人に文句を言われるいわれはありません」。辞退を謝りに来るのではなく、自説を説きに来るのである。
ゆとり教育は、詰め込み教育の弊害を是正しようとして、ものをもっと考え、色々なものを見聞きしようという趣旨で始まった。考え方それ自体は悪くはなかったが、実際にそのゆとり教育で育った学生たちと付き合ってみて、結果は最悪である。
時間にゆとりをもって、自分の頭で考え、自己主張をするということだが、小中学生時代にこうした教育をすると、余程、指導する教師が見識を持って、自己主張したことに対して、問題点を指摘して、是正指導したり、より広くものを考えるように導くということがない限り、自己主張はイコール、独善に陥ることになる。
小中学校の教師と接していて、そうした指導をできる教師は全体の内で数パーセントにしか過ぎない。年配世代だと、自分が小中学生時代には、尊敬でき、大きな影響を与えられた教師というのが、1人や2人は誰でもいた。しかし、今、公立の小中学校では、そうした教師は1つの学校で、1人か2人しかいない。
そうなると、こうした教師に接する機会がないまま、小中学校を終える生徒がほとんどということになる。今の時代、教師に威厳も、識見も常識もないのだ。こういうと、教職にある人たちからは反論が出るであろうが、子供たちの話を聞いても、尊敬できる先生は全校で1人、2人ということは、多くの生徒が同意する。
ゆとり教育の問題点として、数学や英語の授業時間が減り、子供の学力が落ちたことがあげられている。それはそれで大きな問題だが、それ以上に、人の話を聞き、自分の考えの足りないところを改めるというような人間としての基本の基本を訓練されていないから、コミュニケーションが成り立たないのだ。
今、大学生が就職できないことが大きな問題だとして、役所も問題視し、マスコミも大きく取り上げている。前から書いているように、今は同じ世代に半数の学生が大学に行っているので、いわゆるホワイトカラーの仕事を希望する人は余っている。逆に現場作業をする人は足りない。
しかし、今の大学生は、「大学まで行ったのだから、大企業に就職を」という姿勢を崩さない。超有名企業には、トップ国立大学やトップクラスの私大の学生が大量に受けに来るから、その他の大学の学生だと、余程の特記事項がないと、まず絶対と言ってよい程、合格はしない。
それを言うと、数年前までは、学生は超大手何社かを受けて相手にされず、こちらが、そうした実情を言うと、自分の体験からも、納得して、中堅の会社を受け出したりした。しかし、ゆとり教育を受けてきた世代は違うのだ。
あくまでも、大手企業を受け続け、それで合格がでないと、就職活動自体を辞めてしまうのだ。自分はこれだけ頑張っているのに、それを理解しない会社の方が悪いという考えからである。
目線を下げて、中堅、中小の優良企業を受ければ、合格するのだが、それをしない。人の言うことをとにかく聞かない。常に自分が正しいのである。
こうした実態があるにもかかわらず、役所やマスコミは、大学生が就職できないのは不況だから、企業の新卒採用主義が悪いからというような解説をする。
ゆとり教育を受けてきた学生は、そうした報道や政府の姿勢に、ますまず増長し、勘違いと自己主張をし続けることになる。マスコミでは、実態を知らない「なんでも評論家」「なんでもコメンテーター」が世間で言われていることをそのままに解説する。そして、それが日本全体の間違った常識になっていく。
ゆとり教育世代は、言ってみれば、受けるべき教育・訓練を受けずに大きくなった猛獣のようなものである。ある意味では、文部科学省の間違った政策の大きな犠牲になったのである。
そうした意味では、ゆとり教育を推進した人は万死に値するとさえ言える。教育は十年、20年と長く影響を与えるものである。官僚が少しの思いつきや、自分の責任逃れで、勝手に国や国民を間違った方向に導いては、それをやり直すのに、更に十年、20年の時間と必要となる。
しっかりした家庭教育で、学校のひどい教育を補ってもらえた人は少数派だと思う。ほとんどのゆとり教育世代は、これからの長い人生を大いに苦しまされることになるし、その若者を受け入れないといけない企業の苦しみの時代に入っている。
多くの企業で、採用は日本人にこだわらず、外国人を積極的に採用しようと言いだした背景には、こうしたこともあるのである。
20100904
民主主義を否定する小沢氏の検察審査会発現
民主党の代表選挙のために、菅首相、小沢氏の両氏が連日、記者会見をして、様々な質問に答え、それが記事になっている。
その中で、検察審査会での審査で、政治資金の関連で「強制起訴」の可能性がある点について質問された小沢氏は「玄人の検察庁が起訴を見送った事案について、『素人』が起訴すべきかどうか決める仕組みはおかしい」という趣旨の発言をした。
小沢一郎という人間が政治家のプロとして、いかに有能であるかどうかは全くの別問題として、この発言1つで、こういう人を絶対日本の総理大臣にしてはいけないと筆者は感じる。本当に危ない。民主主義とは何かを理解していないというよりも、民主主義を否定する発言である。
小沢氏に限らず、他の国会議員や地方議会議員から、時々、こうした趣旨の発言がある。議会での審議について、住民などから異論が出た時に、「我々プロの議員が様々な事情を勘案して検討しているので、『素人』の県民(市民、国民)の意思と違っても、我々がよいと思うものは通さないといけないのだ」と。
また、最近の裁判員裁判に関連して、テレビなどで発言するいわゆる有識者と言われるコメンテーターが、「一般の国民に死刑判決に関与させたり、むごい犯罪の写真などを見せて裁判に関与させるのは問題だ」というような発言をする。
更に、高級官僚は少し親しくなり、本音の話をするようになると、「国民は愚かですから、我々が導かないといけないのです。何も知らない国民の意思よりも行政のプロの我々の考えの方が上」というようなことを平気でいう。
こうした人は民主主義とは何か、近代社会での国家とは何か。そして、民主主義国家で最も尊重されないといけないのは何かということを再度、勉強し直してほしい。こうした発言をしただけで、議員なら、即、議席を返上しないといけないと筆者は考える。
民主主義で、最も尊重されないといけないのは「民意」である。主権在民である。色々な案があり、他の案の方が結果的にベストであったとしても、国民、県民がベストだといって別の案を支持したら、それは民意であり、それで決定しないと民主主義は成り立たない。
裁判員制度にしても、素人の一般国民にそんなことをさせるのかというようなことを言う人がよくいるが、元々裁判員制度ができた最大の理由は、「プロの裁判官の判決が、あまりに国民の常識から離れたものが多く出て来るようになり、もっと国民の常識の上に立った判断をしないといけない」ということである。
憲法を初め、法律の中には、明らかに時代に合わない、これは問題だというものはいくつもある。しかし、それが法律で定められ、施行されている以上、それを守らないといけないのは国民の義務である。
交通法規におかしな点はいくつかある。しかし、だからと言って、交通違反をしておいて、「この法律はおかしいから、私は罰金を払わない」と言ったら、逮捕されるし、誰も支持しない。小沢発言はこの「交通法規は問題だから、罰金を払わない」と言っているのと同じだ。
だから、時代に合わない法律は、それが憲法であっても改正しないといけなく、どこの国でも憲法は頻繁に改正している。それを60年以上改正しないのは日本だけである。9条問題だけでなく、1字1句変えるなというバカなことを言う人が沢山いるからだ。
憲法問題はともかく、民主党の代表=首相である。その首相を争う人が現行の法律を、それも自分が適用されそうだから、法律や規則をおかしいと発言するだけで、候補者としてはいけないと考えるのが常識である。そう考えない民主党の国会議員とは何か、 小沢氏は政治と金の話はいくらでも説明するとも言っている。しかし、彼は逃げまくり、国会の政倫審にも出て来るのを拒否したし、この問題について、記者会見を開いて、記者の質問に答えたこともない。あるのは、自分の用意したメモを読み上げたことだけである。
後ろめたいことがなければ、堂々と記者会見をすればよいだけだ。それを逃げまくっていて、「何もやましいことはない」では、話が矛盾する。こうした人を過半の所属国会議員が支持し、代表に当選しそうな民主党とは本当に何なのかと言いたい。
筆者は菅首相を評価するものではない。特に現在の経済危機の時に、経済顧問的な大学教授の意見を聞き、ほとんど何もしない姿勢はそれだけで失格だと言いたい。従って、小沢氏、菅首相のどちらが勝っても、日本にとっては国難であると考えている。
しかし、その菅首相でも、独裁者で、政治資金では限りなく黒に近く、権力を握らせたら、国民がとんでもないことになりそうな小沢氏よりはまだましだと考えるのだ。
民主主義はベストのシステムではなく、ベターの選択である。街頭インタビューで「どちらを選んでも、変わらない」という声がよく出るが、そういうことを言う人も民主主義がわかっていない。1センチでも、1グラムでも、ベターな方を選ぶのが民主主義なのだ。
小沢氏を支持する国会議員は、彼の剛腕ぶり、有能ぶりを買うが、待ってほしい。政治家、特に、大臣として、政府の重職として、彼がその長い政治歴で、有能ぶりを発揮したことはほとんどない。
国の政策を左右する場面で、彼が大きな役割を演じたのは、ただ1つ。湾岸戦争の時に、自衛隊を派遣するかどうかで、国論を二分した時に、自民党幹事長として、マスコミに出て、各国と協調することの大切さを説き、自衛隊派遣を実現したことだけである。自主防衛論者の彼にしては、自説を言っただけである。
大臣としては、今から25年前に、中曽根内閣で自治大臣に就任したことが1回あるだけである。その時に、彼が何か特記すべきことをしたという記録もない。彼は自民党・竹下派の後継レースに負け、権力を別の形で得ようとして、自民党を離党した。天下国家を考えての離党ではない。私利私欲での離党である。
そして、自民党を破ってできた非自民党政権、細川内閣では、幹事長として、事実上の最高権力者になったが、大蔵省(今の財務省)の事務次官だった斉藤次郎(現・郵政グループトップ)と組んで、福祉目的税というような言葉で、唐突に消費税引き上げを画策して、無理やり細川氏にそれを言わせた。それがきっかけで細川政権は崩壊した。
あんなバカなことはせずに、細川政権がもう少し続いていたら、日本の今はもう少し変わっていたはずである。それを台無しにしたのは小沢一郎その人である。
政策面での、彼の無策ぶりを示しているのが、今回の共同記者会見で、普天間問題でも、財源問題でも、記者からの質問に何も具体的な政策は語っていないことからもわかる。腹案がないのである。
鳩山前首相時代に、普天間問題が暗礁に乗り上げそうになった時に、アメリカは実力者小沢氏に何とかしてほしいと、コンタクトをとろうとしたが、彼は逃げて、アメリカ政府要人と会おうともしなかった。
彼には、政治と金の問題が常につきまとい、建設会社を恐喝に近い形で多くの資金を吸い上げ、豪邸も建てている。政治に金はつきもので、資金を集めることはよい。しかし、それを自分の懐に入れたら、それは「政治家」ではなく、「政治屋」になってしまう。
小沢一郎氏の過去の政治歴では、集めた金を政治活動資金にすることよりも私利私欲が優先である。妻も新潟の建設会社社長の娘をもらった。明らかな政略結婚である。この妻の妹は、竹下元首相の弟(現自民党国会議員、竹下亘氏)と結婚している。
小沢氏は新進党、自由党の解党の時、税金から政党に渡される政党助成金を自分の懐に入れ、返さなかったというのは、政治の世界を少し知っている人なら、皆知っている事実である。
そして、彼の人柄を知る話として、最もわかりやすい話は、彼と長く付き合ってきた人がことごとく、彼のもとを去っていっていることである。良かれと思って、少しアドバイスをしたり、苦言を呈すると、翌日から、会うことはもとより、携帯電話が通じなくなるというのだ。
壊したり、裏で画策することは得意でも、政治という場での政策で、むしろ、無能ぶりをさらけ出しているのが、彼の経歴であるし、人としての魅力、リーダーとして絶対必要な包容力がまったくない。1人、2人ならともかく、長く親友として付き合ってきたほとんどの人が彼のもとを去っている。そんな人をあなたは信用できるのか。
小沢氏は元々、消費税を大幅にあげることを主張していたし、自主防衛論者だ。中国にこびへつらう人だし、中国に代議士を大量に引き連れて行って、嫌がる中国首脳と一緒の記念写真を撮った権力誇示者である。彼が権力を握ったら、誰の言うことも聞かず、言っていたことを覆し、何でもありになりかねない。極めて危険である。
そういう意味でも、小沢氏に選挙に勝たせることは、国としての自殺行為であると、筆者は考える。過去の政治歴からして、豪腕説はまったくの神話であり、事実ではない。
20101030
社会の被害者、学校教師、警察官
つい最近、報道された「セクハラサイコロ」の教師ではないが、新聞、テレビが「こんなひどい先生がいた」「ひどい警察官がいた」と大々的に報道し、その度に、校長や警察署長が頭を下げて謝罪するというシーンが頻繁に見られる。
確かに教師や警察官に、「この人、どうなっているのか」とか、「勘違いだよ」と思える人がいることは事実だが、それは超一流の会社の社員や、国会議員、官僚にも一定数、問題者はいるのと同じで、別に教師や警察官に特に異常者が多い訳ではない。
では、どうして、こうも頻繁に教師や警察官の不祥事、問題が報道されるのかと、少し詳しく見てみると、そこに、現在の日本の病巣が見えてきて、教師や警察官はむしろ被害者だと言える状況が浮かんでくる。
家族の一員が通っている中学校で、子供が家の夕飯時に、足が筋肉痛で立ったり座ったりがきついという話をした。理由を聞いてみると、教師が忘れ物をした生徒に、百回のスクワットをさせたのだという。それでなくても運動不足の今の子供にとって、連続百回のスクワットは筋肉痛は当然、中には足を痛める者も出ることさえ考えられる。
その話を聞いて、筆者の当初の感想は「そんなことをマスコミが聞いたら、すぐに原稿にして、その教師は大問題になるのではないか」というものだった。
しかし、少し話を聞いて見ると、クラスで生徒の忘れ物が非常に多く、教師は何回も注意をしていた。それでも、忘れ物は減らない。教師は「今度忘れ物をしたら、罰でスクワット百回をさせる」と宣言をしたが、忘れ物は依然として多く、遂に、忘れてきた生徒にスクワットをさせたというのだ。
筆者がスクワットをした生徒が何人いたかと聞くと、「20人」だという。クラスの生徒は35人である。つまり、3分の2の生徒は何回言っても、忘れ物がなくならないので、遂にスクワットを命じて、体で痛さを覚えさせたのだ。ここまで聞くと、スクワット百回を命じた教師は教育的見地で行ったものであり、筆者は納得した。
しかし、同時に、何回も指導し注意しても、クラスの3分の2の生徒が忘れ物をしてくるという状態はすさまじい。そして、この話をもし、新聞、テレビがかぎつけたら、前後の事情を聞かず、「暴力教師、20人の生徒に魔のスクワット百回」と大々的に報道するだろうと感じた。
今、授業参観などで、公立の小中学校に行ってみると、わかるが、教師が授業をしていても、教師の方を見て、おとなしく話を聞いている生徒は3分の1である。多くの生徒は隣や後ろの生徒と話をして、教師の話を聞いていない。それだけでなく、数人の生徒は席から立って歩き回っている。
これは特に荒れている学校ではなく、平均的な学校でこうである。現在東京では、中学校では、自分が通う学校を選べるようになっていて、少し意識が高い親は少しでも荒れていない学校、問題が少ない学校を探して、子供をその学校に入れようとするので、評判のよい学校は競争が激しい。
そんな問題のある子供は教師が注意をすればよいではないかと思う人もいると思うが、注意ができないのだ。筆者もそういう光景を何回か見たが、授業中に歩き回っている生徒を教師や、参観に来た他の親が注意すると、その歩き回っている子の親が注意した人間に、猛烈に食ってかかってくる。
「自分の子供は自由に育てている。それを邪魔にするな」というのだ。自由というのは、自分の自由だけでなく、他の人にも自由があり、自分の子供が自由勝手にすることで、他の多くの子供の自由が奪われているという発想が、こうした親にはない。自由には義務や思いやりが必然的について来るという簡単なことが理解できないのだ。
東京の公立の中学校の教師などの話を聞くと、教師が学校を出て帰路に着くのは、平均して夜の9時、10時だという。また、夏休みなど長期の休みはほとんど毎日、学校に通常の日のように出勤しているという。
我々が子供の頃という大昔でなくても、20年くらい前までの学校では、教師は夕方には帰れたし、長期休暇はほとんどが休みで、教師は給料は安いが自分の時間が多くとれるのでということで、教師になる人が結構いた。しかし、今は全く違うのだ。
どうしてかと思って、現在の学校関係者に話を聞くと、教師の時間の7割くらいは、親とのやりとりにとられるという。とにかく、今の生徒の親は信じられないことを次々に要求してくるという。
例えば、クラス替えになった。その結果を聞いて、多くの親が、「自分の子供はこのクラスに入れたかったのに、違った。おかしい。変えてほしい」と言ってくる。また、クラス内の席順でも、席順が決まると、「自分の子供を○○さんの隣にしたのはとんでもない。席を変えてくれ」というようなことを言ってくる。
学芸会で自分の子供の役が気に入らないから、主役をさせろとか、運動会での役割を変えろなど、とにかく、何かある度に学校の教師に苦情、注文をつけてくる。
東京の都立高校の入試は内申点と、試験の結果が5対5で評価される。そして、中学での成績は昔と違って今は絶対評価なので、成績が良ければ、全員にでも5の評価をつけることができる。
そこで、親の要求がきつい学校では、3年生のクラスになると、校内の試験問題を極端にやさしくして、多くの生徒に5をとらせるようにする。それでも、できないので、2とか、3とかつく子供がいる。そうすると、その親が成績に下駄を履かせて、2、3を4、5にするように求めてくるのだ。
大学入学時に教員になろうと思って、教員資格をとれる大学やそのコースに進んだ大学生が、教育実習で、そうした現場を見て、教師になることを止める者が多い。企業の採用面接で話をしていて、教師になるつもりだったが、止めたという学生は本当に多い。
警察官もよくマスコミの槍玉にあがる。その多くは、自分の子供のことなどで、警察に相談に行ったが、満足な対応がしてもらえない内に、子供が殺されたとか、大怪我をさせられたというようなことである。
しかし、警察関係者と話をすると、現代の日本人は何かあると、とにかく何でも警察に言ってくる。サルが山から下りてきて、暴れているということでも警察だし、娘が変な男と付き合っていて、別れさせたいという話でも、全部警察に対応を求めてくる。
犯罪者を取り締まるのは警察の役割だが、犯罪ではない事案にまで、警察は役割を求められるのだ。自分も娘が変な男と付き合っているので別れさせたいという話は犯罪ではない。だから、警察は「民事不介入」で介入できない。しかし、恋人同士の間で喧嘩や傷害が起きると、親は「あんなに何回もお願いしていたのに、警察は対応してくれなかった。娘が死んだり、怪我をしたのは警察のせい」となって、マスコミに訴えるのだ。
少し前、ある女子大生が交際していた男性と別れようとして、別れられず、逃げ回っている内に、男が頭に来て、その女子大生を殺したという事件があった。この時も、その女子大生の両親は、「何回も訴えたのに警察は対応してくれなかったので、娘は死んだ。警察に殺されたのだ」とマスコミに訴え、マスコミもそういうトーンで報道した。
ヤクザな男と付き合い、高価なプレゼントをもらったり、高いレストランで食事をしていたら、おかしいと思って、注意するのが親の役目だし、そもそも男性の見方、選び方を教えるのが親である。そうした教育をきちんとしてこなかった自分を恥じるという発想が今の親世代にはないのだ。
男女の交際の話は難しい。第三者にとって、本当に別れたいと思って必死なのか、付き合いの中での痴話喧嘩で、しばらくして、また、熱々になるのか見極めがつかない。
筆者も女性から、付き合っている男性と別れたいと真剣に相談を受け、アドバイスをしたことが何回もあるが、その多くの女性が、別れたいと言っていた男性とよりを戻し、熱々になっている。
別れたいと言って、男性の問題点や欠点を嫌というほど聞かされたので、別れ方を伝授し、例えば、ギャンブル好きだというので、「ギャンブル好きの人はほとんどが一生治らないよ」と言って、別れるように薦めた。でも、よりを戻し、熱々になると、「あの人のひどいことを言われた」と今度はこちらを責めてくるのだ。
今の小中高大学生の親の世代は、とにかく、ディマンディングである。自分が何をして、何をしないといけないと思う以前に、他人に何かを要求する。そして、その要求がいれられないとなると、猛烈に抗議をする。更に、どう訴えたらマスコミが取り上げるかの智恵もあるので、マスコミを利用したりする。
明らかに、不等な要求をしているので、学校や警察が対応は無理というと、「マスコミがこれを知ったら、大変ですよ」というような脅しも平気で口にする。
こうしたモンスターペアレンツが一部ではなく、急拡大している。そして、その親の行動を見て、不等な要求に対応しなかった学校や警察がマスコミに袋叩きに遭っているのを子供は見ている。その子供たちは、そこから、どうつけば、学校や警察は叩かれ、頭を下げるかを習っていくのだ。
こうした子供が今、大学生となり、就職面接などに出てきて、同じ態度で接してくるのだ。面接官の言葉尻をつかまえて文句を言い、ネットに書いたり、大学に訴えたりする。大学は対応をしないと、今度は自分たちが攻撃されるのを知っているので、企業にクレームを言う。
言われれば、企業も事なかれ主義者が幹部なので、頭を下げる。コンプライアンスというアメリカから入ってきた、訳のわかったようなわらかないことで、現場の採用担当者は振り回されるので、余計本音を言わなくなる。結果、大学生は実情を知らないので、就職活動がうまくいかないという悪循環となるのだ。
20101018
円高をきっかけに、日本を変える時
ここ数日、仕事が忙しく、このブログを書く時間がとれなかったが、その間に色々なことがあった。気になる話はまた、別の機会に書くとして、今日は円高問題を少し書くこととする。
この欄でずっと書いているように、円高は政府日銀が初期にもっと適切な対応をしていれば、こんな極端な円高になることはなかった。しかし、何もしない民主党政権を見透かすように、世界の為替投資家が円買いを推進し、80円を突破して、70円台になることは時間も問題となってきた。
市場に任せるなどというバカな発言は、今の時代を知らない人の言葉である。今はどこの国も政府がどういう行動をしたら、自国に有利になるかということを考え、優秀な頭脳の人をその戦略、戦術を作り、実行させる担当者として置いている。
ドル安はアメリカ経済の弱さの表れという解説をする人がいる。確かにアメリカは色々問題を抱えているし、アメリカが1強でいた時代は終わりつつあることは事実である。しかし、今のドル安がそれだけで起きている訳ではない。
政府が意図的にドル安政策を打ち出し、そのターゲットのために、次々と対策を打っているというのが、今のアメリカである。かつてレーガン大統領の時代のように、ドルは誇りであり、ドルは高くないといけないという発想は今のオバマにはない。
どうしたら、自国に有利かだけで行動をしている。アメリカは世界最強の金融、ITでは、リーマンショックのマイナスを乗り越え、強さを復活させた。しかし、メーカー部分ではまだ、企業は立ち直っていない。ドル安はこのメーカー支援という意味では大きい意味を持っている。ドル安にすれば、お得だとの思いから、ドルを買う人も増えてくるという思いもある。
あまり言われていないが、サムソンやLG、現代などが世界的に強くなってきて、日本企業を脅かし、追い越し出した中、韓国の通貨ウォンは対円に対して、極端なウォン安である。そして、これは韓国政府がウォン安になるように、強力な為替介入をしているためだという。
日本人は韓国企業というと、まだ、日本企業よりも下というイメージの人が多いが、実態はまったく違う。今、世界一の電機メーカ―はサムソンである。サムソンの携帯電話は北欧のノキアに次いで、世界2位であり、ヨーロッパでは猛烈な勢いで伸びている。
チリの鉱山落盤事故の際に、閉じ込められた人と家族をつなぐ携帯メールのやりとりがあったが、その携帯はサムソンのものだった。LGも頑張っていて、世界のエアコンの1位の会社はLGである。2位はパナソニックだが、吸収した三洋を加えても、LGの半分の規模である。
アメリカ人が今一番買いたい車はホンダでも、トヨタでもない。現代の車である。アメリカに行くと、現代の自動車が目立つようになっている。韓国は人口が日本の半分の国である。輸出で金を稼ぐことが必須である。だから、大統領が自ら、世界の大型商談に出かけ、決まりかかっていた日本企業に勝って、契約を勝ち取ったりしている。その際に、ウォン安は大きな武器なのである。
世界の色々な国が政府主導で、自国通貨安で輸出ドライブをかけている中で、日本だけが本当にドンキホーテである。国をどうするとか、どういう方向に持っていくというプランがまったくないし、局面局面での適切な対応もない。
しかし、ここまで来てしまうと、円高をどうするというようなことを言っても仕方がないレベルまで来てしまった。とすれば、これを機会に、日本をどう変えるかを考える時だと思う。
日本企業は戦後、無資源国だから、製品を海外に輸出して生活するしかないということで、輸出中心の国作りをしてきた。自動車、電機、かつては、造船、繊維もそうだったが、頂点の企業を支える下請け企業が多数存在し、海外から輸入した原材料を、日本国内で加工して、安くて良質の製品を作り、海外に輸出して、利益を得てきた。
総合商社という世界の例のないビジネスモデルも、こうした製造企業を支援するために出来たものであり、日本が世界の生産基地であったからこそ、原材料の買い付けと、出来上がった商品の海外での販売に、総合商社の役割があったのである。メーカーが海外に支店網をもたなくても、かつては商社が代わりの機能を果たしてくれたのである。
輸出と輸入の差額が年間約十兆円で、高度成長時代からバブル時代にかけて、いや、つい数年前まで、これで日本は生活をしてきたのである。
2000年のITバブルの崩壊で、世界がIT不況になり、日本も2003年の株価が底になり、失業率も大きく跳ね上がった。しかし、2001年に首相に就任した小泉氏は、構造改革、自由化とともに、為替市場に大幅介入して円安誘導を行い、不動産バブルだったアメリカへの輸出で、この経済危機を乗り切る施策をとった。
これが次第に効果をあげ、年間50兆円規模だった輸出は2007年には80兆円と、30兆円も増えた。多くの日本企業がアメリカに大量の輸出をして、バブル時代を上回る史上空前の好決算となったのである。
電機、自動車だけでなく、製薬業界ですら、武田薬品が利益の7割をアメリカから稼ぐなど、まさにアメリカに集中輸出をしたのである。世界の目も、日本はやっと小泉政権になって、世界のルールの下で行動する国になった」と判断し、外人が日本の株を買い、株が大幅上昇した。
小泉氏を「アメリカの忠実なポチ」と酷評する評論家、学者もいたが、アメリカで大いに稼ぐのだから、アメリカからノーと言われないように、友好関係を構築するのは当然の行為で、アメリカの反応もわからずに、基地の問題をこじらせ、それが尖閣問題につながるようにしてしまった民主党政権よりは余程賢い行為だったのだ。
しかし、小泉氏が政権を去り、民主党が小沢一郎氏の指導で、与党が過半数割の参議院で政府に何もさせないという戦略に出たために、自民党政権は日銀総裁、副総裁を決めることができずに立ち往生するなど、何もできなくなり、マスコミの大合唱もあり、国民は民主党政権を選択した。結果は、この1年間の混乱が示している。
翻って、日本は本当に輸出で年間十兆円稼がないとやっていけない国なのかということを再度考える必要があるのではないか。戦後の教育では、資源がない国だから、工業製品の輸出で儲けるしかないと教えられてきた。だが、最近、そうではないという、色々なデータが出てきている。
たとえば、農水省は、「日本の農業は弱く、保護しないといけない」といい続け、多額の補助金を農家に注ぎ込んできた。しかし、最近の専門家のデータだと、日本は世界で4位の農業国家であり、国土に、これだけ緑が多く、農業資源が豊かな国はないという。現に、青森のりんごや日本の米、牛肉は輸出で海外に出て行くようになり、好評である。
農水省は食糧自給率を40%と公表しているが、これは、役人が世界の先進国が使っていないカロリーベースという基準を使って低く計算したものであり、実際は日本の食糧自給率は70%である。これだけ、崩壊したような農業で、7割も自給しているのである。きちんとした農政をすれば、食糧の自給も難しくはないのだ。
また、戦後の経済発展で、日本の海外純資産は200兆円になったというデータがある。これを海外の有能は専門家に任せて運用してもらい、年間5%で運用してもらえば、十兆円の利子がつくことになる。必死になって、製造業の輸出で稼がないといけないという悲壮感で取り組む必要も薄らいでくる。
円高になると、資金を海外投資をするという点でも有利になる。百数十兆円と言われる年金資金も、マイナスを出して資金を減らすような役人管理ではなく、有能な投資家に任せれば、これも5%で回せば、7、8兆円のリターンになる。
大手の製造企業の下請けで生活してきた中小企業は、大手企業からの値下げ要求に耐えられなくなってきて、廃業や縮小が相次いでいるという。でも、これも、日本の構造を変える時期に来ていると考えるべきなのではないか。
大手の自動車メーカーは半年に1回、下請企業に納入製品の値下げを要求してくるという。それも、交渉ではなく、ファックスで通告だけだという。トヨタが始め、今はどこの会社も同じようなことをしているという。
そこまでされて、仕事を続ける意味があるのか。そう考え、廃業する会社が増えているのだという。勿論、大きな転換期にには、政府の資金的な援助などは不可欠である。子供手当てなどではなく、こうしたことにこそ、政府が大々的に資金援助をして、仕事の転換を図るべきである。クリントン大統領が製造業から金融やITに労働者を政府の資金援助で転換させたように。
20101012
「小泉が格差を拡大した」の大嘘がまかり通る日本
テレビのよく出ている大学教授、政治家、評論家には、二言目には「小泉政権が格差を拡大し、日本を駄目にした」という人が多い。慶應大学の金子勝教授などはその筆頭で、まったく関係ない話題の時でも、「そうなったのは小泉政権が原因を作ったのです」と今でも言う。
朝日新聞が始めた、「小泉政権は格差を拡大し、福祉をカットし、日本を破壊した」というキャンペーンにも近いPR行動は、「嘘でも百回言っていれば、本当になる」の例えのように、今でも多くの人が使うようになり、タクシーに乗っても、運転手がそのフレーズを言う。マスコミの怖さである。
小泉純一郎という人を好きか嫌いかは別として、政治家は結果で評価しないといけない。そして、結果を見るときに、風評ではなく、事実を見て、それに基づいて議論をしないといけない。二言目には「小泉が」という金子教授などは論外である。あれだけいい加減なことを言う人を慶應はよく恥ずかしくもなく、教授のままでしておくものだと思う。
小泉政権は2001年から2006年の間の5年余りである。経済政策は何か策を打ってから結果が出るまでに、1年くらいのタイムラグがあるので、彼や彼の政権が取った策が経済に効果が出た時期は2002年から2007年くらいと見るのが妥当である。
2000年はミレニアムとか言われ、1990年代の後半からITバブルが膨れ上がり、2000年を迎えるとともに、ITバブルが破裂した。ここから、世界各国でIT不況が始まる。日本も例外ではなく、株価も下落を始め、失業率もどんどん上昇していった。
小泉政権は郵貯の民営化などの代表されるように、規制緩和と民営化できるものは官から民へ移行することにし、どんどん経済や国の体制を変えていった。彼や彼のブレーンである竹中平蔵氏は「世界の常識から外れた場所にいる日本を世界の常識が通用する国に」しようと努力した。
その施策の結果どうなったか。数字、データだけを下に話をすると、2003年を底に経済は立ち直り、株価は小泉治世下で2倍になった。失業率は半減した。「小泉は格差を拡大した」という金子教授や朝日新聞の言っていることは本当かと調べると、彼の治世下では、貧富の格差を示す、ジニ係数は1980年代からずっと拡大していたのが、小泉政権下では、縮小した。「小泉は格差を縮小した」が事実である。
日本人は誰かが何かを言うと、事実を確認しないで、それを引用し、多くの人がその話をする内に、嘘が事実のように伝承されることになるという傾向がある。幕末の志士、阪本竜馬がいつまでも寝小便の癖が直らず、弱虫だったという話は、司馬遼太郎氏が書いた小説の中で使われ、それがあたかも事実のように、多くの人が使いだし、国民の間に定着している。
データをしっかり、確認した話をしないと、とんでもない話になる。違う分野の話だが、農水省は二言目には、日本の農業は弱体で、保護が必要を言い続けてきた。そして、それを言う大きな根拠として、食糧の自給率40%がある。何回も言われているので、多くの日本人が日本の食糧自給率は40%だと記憶している。
でも、実際はといえば、日本の食糧自給率は66~68%である。およそ7割は自給なのである。この30%近いさは何かと言えば、農水省は農業が大変だを言うために、食糧自給率を計算する基準をそれまでの「金額ベース」から「カロリーベース」に変えた。
いきなり、変えると文句を言われるので、しばらくの間は、2つの計算方法を併記し、その内に、カロリーベースだけを書くようにするという周到な計算で、今はカロリーベースだけになった。
世界各国がカロリーベースで計算しているなら、基準の変更もよいだろう。しかし、主要先進国のほとんどの国が金額ベースを採用し、カロリーベースを採用しているのは、日本と韓国だけである。
百歩譲って、カロリーベースでも、単純にカロリーベースだけなら、まだ許される。農水省はカロリーベースを導入するだけでなく、独自の判断基準を入れたのである。それは家畜などは、エサが国産ならよいが輸入品なら、自給率が大きく下がるという計算方法である。その結果卵の自給率は10%となり、豚の自給率は5%になってしまった。エサを考えずに計算すると、カロリーベースでも、卵は95%、豚は54%の自給率である。
阪本竜馬の子供の時はどうであったかは、別に寝小便をいつまでしていたかいないかで、日本が変わる訳ではない。しかし、食糧自給率の問題は、議論する根拠がまったく違うものとなり、議論が逆の結論に至る恐れすらある、データの改ざんに近い話である。
日本人は、なぜ、こうも事実を見ようしたり、自分でデータを確認することをせずに、他人が言うことを簡単に信用し、引用したり、孫引きをしたりするのであろうか。
筆者は、それは太平洋戦争の突入する前、軍部の力が強くなってきて、アメリカと戦ったら、勝てないという常識がどんどん後ろに追いやられ、事実を前提としない、蛮勇が大手を振り出した時からのことのように思える。
その傾向は、戦争に負けた時にも、続き、敗戦を終戦と言い換えた。そして、自分たちが被害者に変わり、戦争になぜ突入したのか、そして、どうして負けたのかという真摯な議論、反省はどこかに閉じ込め、「日本人が核の被害者」になることで、「戦争は悲惨なもの」という極めて抽象的な話になり、なぜ、どうしてという議論が消えてしまった。
事実関係をきちんと認め、なぜ、そうなったか、その影響はなどをきちんと詰めないでいると、歴史から何も学ばず、また、同じようなことが起きたときに、日本人は同じ過ちをする危険性が大である。
マスコミが事実関係を詰めることをしない傾向は特にテレビに強い。テレビは報道番組でも、ジャーナリストではなく、芸能人が司会をしているケースが少なくない。
芸能人が悪いというのではなく、少し要領がよく、頭の回転がよい人でも、基本的な知識、認識がしっかりしていないと、ゲストが何か言った時に、その場で、誤りを是正できない。関口宏の口癖のように「難しい問題ですね。皆さんもよく考えてください」で終わってします。
欧米のマスコミなら、事実と違うことをテレビに出た教授や政治家、ジャーナリストが言えば、それはテレビ局に抗議の電話やメールの殺到となり、訂正して、お詫びしないといけないことになるから、芸能人を少なくても報道番組の司会には使わない。
事実関係をきっちり調べ、事実を元に議論をすれば、少なくても、大きく間違える政策決定はしないし、国民もそれを理解すれば、例え、自分にとって厳しい内容でも、受け入れる用意があると思うが、それすらも行われていないのが、今の日本である。
日本経済、企業が、そして、国が大きな岐路に立っているときに、様々な問題について、事実をきちんと調べ、その事実の基づいて議論をし、対策を決定していくという過程がない、今の日本の将来に大いに不安を感じる。
20101010
検察と検察審査会を強化すべき時期
厚生労働省の局長の逮捕に関連する検察の捜査の過程で、証拠データの改ざんをきっかけに、検察批判が厳しくなってきている。そして、それにともない、捜査の可視化を弁護士やジャーナリストが更に強く主張している。そして、小沢一郎氏に対する検察審査会の決定を機会に、当然とするマスコミと検察ファッショだと書く一部週刊誌の報道がある。
まず、厚生労働省の局長逮捕をめぐる捜査での検察の捜査の話だが、この問題で発言をする人の多くが検察に権力を与えすぎだとか、検察の強さを弱めるべきとかいうような話をしているが、筆者はまったく別の見方をする。
それは検察の弱体化である。筆者が警察、検察を担当して取材していた時代には、検察の幹部は、高検の次席検事、検事長はもとより、地検の幹部もすべて東大法学部出身者で占められていた。それが今は、問題になっている前田主任検事も、その上層部の部長なども非東大である。
高検の次席検事や検事長の異動が時々、新聞に掲載されるが、その人たちの経歴を見ると、数年前から東大卒の人は極めて少なくなり、ほとんどが私立大学卒業者である。学歴がすべてではなく、東大出身だから優秀というつもりはないが、検察という組織が優秀な頭脳集団から敬遠されているということは事実である。
これは、司法試験の合格した人の進路希望でもはっきりしていて、弁護士や裁判官の志望者は多いものの、検察官志望者は少ないという。今回の大阪地検特捜部の問題で、検察離れは更に進むものと思われる。
なぜ、東大出身者が検察を敬遠するかと言うと、弁護士や裁判官に比べて上司からの指示が強く、上下関係の中で仕事をしないといけないことを嫌ってのことだという。
それでなくても、キャリア官僚と言われる中央官庁の役所への就職でも、天下りが厳しくなったり、仕事の上での権限の縮小で、かつては東大生が圧倒的だった職場に東大出身者の割合が大きく減少している。
中央官庁のキャリア組の問題はともかく、時の権力とも戦い、首相や大臣、大企業の社長でも、罪を犯した場合、逮捕するという組織のこの弱体化は大きな問題で、てこ入れが必要だと筆者は考える。
大阪地検特捜部をめぐる今回の問題をきっかけに、捜査の可視化の議論がやかましい。可視化を主張する人たちは、アメリカなどでは取り調べの可視化は当然であり、逮捕された容疑者は弁護士が来るまで黙止をすることができることなどをあげている。
確かのアメリカでは、容疑者捜査では、取り調べのビデオ収録はごく日常的に行われている。取り調べの状況などについて弁護士が色々主張でも、容疑者の人権は守られている面は強い。
だが、日本とアメリカと大きな違うがある点がある。それは弁護士の倫理規定である。容疑者が本当に犯人であることを弁護士が知った場合や容疑者に不利な情報を得た場合でも、日本の弁護士はそれを隠し、無罪を主張する人が多い。
しかし、アメリカで弁護士がそれをすれば、弁護士はその資格を失う。被疑者の弁護を仕事としているが、それ以前に、犯罪に対しての真実追究が大前提であり、たとえ、依頼者の容疑者に不利な情報でも、それを知った場合には、それを隠してはいけないということである。
ましてや、容疑者に事実と違うような証言を指導したりしては絶対いけない。こうした弁護士に対する厳しい倫理規定に加えて、アメリカでは、キリスト教の信者が圧倒的だとこともあって、人間の行動は常に神に見られているという意識が強い。
だから、嘘をつくことや、知っている情報を隠すことは、弁護士に限らず、倫理的に許されないと多くの人が思っている。だから、自分の家族にとって不利な情報、証言でも、それを隠すと多くの人が良心の呵責に苦しむのである。
日本はこうした宗教による真実を言うことの大切さも、弁護士の倫理規定も厳しくないから、弁護士は容疑者が犯人で、当初の取り調べで、犯罪を認める供述をしていても、弁護士が犯罪を否認する助言をきっかけに、容疑者も否認に転じるということが多く見られる。筆者は捜査の可視化は弁護士の倫理規定の強化とセットの話だと思う。だが、可視化に反対したり、慎重な立場の人でも、誰もこれを言わない。不思議な国である。
小沢一郎氏の問題をきっかけに検察審査会のことが大きな話題になってきた。検察審査会は、起訴してしかるべき容疑者を検察が起訴しない場合に、起訴すべきだという異議申し立てをし、検察の行動をチェックすることが役割である。
こうした役割が必要なのは、日本の検察は120%自信がない事案しか起訴しないという伝統があるからである。起訴した事案が無罪になると恥という発想から、ほぼ犯人に間違いないと思える場合や、罪に問える場合でも、120%自信がないと起訴しない。
だから、世間の常識の基準で、当然罪に問われるべきと思われる事案でも、不起訴や起訴猶予にしてしまうことがしばしばある。最近の例では、酔っぱらって電車のホームで、他の人に抱きつき、抱きつかれた人が線路に転落し、電車に轢かれて死亡したという事件があったが、この容疑者は起訴されなかった。故意の犯罪性がないということが理由だ。
筆者は、これなどは明らかの検察の越権行為であると思う。この容疑者に情状酌量の余地があるかないかは裁判所が判断することで、検察が判断することではない。警察や検察は犯罪があった時には、逮捕、起訴することが仕事である。
この事案では、裁判所で情状酌量から軽い刑で終わってもよいと思うが、人が死んだことへの行為は故意があるないに関係なく犯罪である。それを検察が起訴しないというのは、それこそ犯罪である。
検察審査会という組織は以前からあり、検察が起訴しなかった事案に起訴すべきという決定を何回もしていた。しかし、検察は相変わらず、120%主義を貫いているので、検察審査会の決定を無視してきた。それだと、審査会の意味がなくなるので、規定が修正され、今回の小沢氏の事案のように、二度起訴相当という決定を検察審査会がすれば、強制起訴というように規則が変わった。
この規則改正で、兵庫県明石市の花火大会で多くの死傷者が出た事件や、百人を越える死者を出したJR西日本福知山線での電車脱線転覆事件などで、検察の不起訴をおかしいとして審査会が起訴相当を議決し、強制起訴が行われた。
筆者は今回の小沢氏の事案をもとに、検察ファッショだと主張する民主党国会議員や一部のマスコミ、ジャーナリストの姿勢を筆者は極めておかしいと思う。
疑わしいものは、裁判で白黒をつけるのが、民主国家である。それを法律で決まられた組織が起訴相当と判断をした時に、その決定がおかしいと言い出したら、それは法治国家でなくなる。こうした発言をする人は法律を理解しない人である。
実情に合わない憲法を改正せずに、解釈改憲で戦後60年やってきた日本の実情が、法律は無視してよいもの、勝手に解釈してよいものという風潮を作ってしまった。
法律は悪法でも守るのが国民の義務である。そして、実情に合わない法律は速やかに改正する、これも近代民主主義国家である。解釈改憲をずっとしてきて、現状に合わない法律をずっと持ち続けてきた日本は、結果として、法律を無視する国民、国家を作ってしまったと言える。
加えて今回の騒動では、マスコミが小沢支持と反小沢の論調が紙面を踊っている。特に小沢支持を打ち出している週刊誌などは、反小沢を打ち出すことで、雑誌が売れることを狙っている。マイナーの雑誌なら、わからなくもないが、大手の出版社が出している雑誌がこうした行為に出ること自体、日本のモラルの低下が激しいことの表れである。
20101009
「8月から内定出し」決定で就職活動は更に悪化
大学生の新卒採用選考の早期化の問題が叫ばれ、国立大学協会が経団連などの申し入れを再三行い、それを受けて、総合商社は2013年4月入社の学生採用選考から、内定は8月以降にするという決定をした。
これに対して、大学側や文部科学省は歓迎の意向を示し、他業界にも協力の要請を行っている。現状は、大学生の内定は多くの大企業は4月中心に行われており、4ヶ月程遅くなることになる。しかし、これは事態の改善ではなく、むしろ問題点を大きくしたことである。
企業には本音と建前がある。「8月から内定を出す」ことが採用活動全体が遅くなることになるなら、改善かもしれない。しかし、実態はまったく違う。国立大学協会や文部科学省が何かを言いそれに対応しないといけなくなると企業は表面は従うが、実務は内に潜ることになる。
現在の採用のスケジュールを説明すると、大学生が就職活動をする上で、不可欠のリクナビのインターンシップ、セミナー情報のオ―プンは大学3年の6月である。そして、大学3年生がこれをみて、3年の夏から秋にかけて、インターンシップ、セミナーに参加する。
インターンシップは企業の実情を見て、体験してくださいというもので、文系の学生だと、1日コースや2日コースが通常だが、理系の院生対象は1日コースの会社もあるが、1週間、2週間コースが多い。セミナーは企業、業界を知って下さい、就職活動のアドバイスなどを行う。
3年生の10月1日になると、採用説明会や選考の各社の情報を掲載したリクナビがオープンし、それを見て、学生は予約を行っていく。そして、11月から会社説明会が始まっていき、選考を行って、早い会社は12月、1月に内定を出す。
数年前までは、採用選考の中心期間は、研究職な技術的な仕事をする理系の院生向けが11月から1月にかけて、文系の学生は2月、3月で、内定出しは理系の院生は11月から1月、文系の学生は、2月から4月という感じだった。
それが、国立大学協会の申し入れなどで、現在は大手企業は公式の選考は4月からという建前になり、内定出しは理系、文系ともに4月からゴールデンウイーク明けに集中する。だが、これはあくまで建前は、実態はまったく異なる。
企業の採用選考は公式の説明会と選考だけで行うものではない。かつては銀行だけだったが、今は大手のメーカーも多く使っているリクルーター制度というのがある。これは、若手社員が自分の出身大学の後輩の学生を中心に学生にコンタクトをとり、リクルーターが人事に代わり、採用選考を行うのである。
会社は公式には4月まで選考活動を自粛するという建前になっているので、12月くらいから、3月くらいの間にかけて、リクルーターが活動する。リクルーターになる若手社員は、その期間、仕事はしないで、リクルーター活動に専念する。優秀な学生を多く集めることが彼らの仕事であり、賞与などにも反映する。当然、学生との飲食も会社の費用で行う。
学生はリクルーターに3回会い、合格点だと、次は人事の部課長に会うことになり、それで問題がないと、次は最終面接である。つまり、ほとんどの採用選考はリクルーターが行い、3月末に人事の管理職が会い、4月1日から4月中旬にかけての最終選考は形だけという感じである。
リクルーターが接触してくるのは、東大、京大、一橋、早稲田、慶應、上智という上位大学中心で、筆者が今年面接した一橋大学のある男性は、会社の公式説明会には1回も参加していなかったが、多くの会社のリクルーターが接触してきて、4月時点で5社の内定を得ていた。
関西の私立のトップ大学である関学、同志社大学の学生では、4月1日に就職活動を終えてリクルートスースを脱ぐ学生が多くいる。銀行などはリクルーターが実質選考をしていて、4月1日に最終面接を受け、その日に合格の連絡をもらうからである。
企業の裏の採用選考はリクルーター制度だけでない。特定大学の学生だけに連絡をして、「○○大学生向け企業懇親会」というのが開催される。連絡をもらった学生が行くと、自分の大学の先輩社員が多くいて、懇談をする。そして、それが実質選考で、それで先輩社員がよい点数をつければ、次は最終前くらいの選考過程というような仕組みである。
上記、インターンシップも、企業は採用選考にはまったく関係ないとは建前で言っているが、実質は採用選考そのものである。有名企業、人気企業のインターンシップには多くの学生が殺到し、インターンシップのための選考が行われる。ある会社の人事担当者は「当社は採用選考に合格するよりも、インターシップの選考に合格する方が難しい」と言うくらいである。
理系の院生の場合、社内体験は1週間、長い会社だと2週間位になる。テーマを与えられ、それを研究し、その結果を発表する。研究者としての能力と、人間そのものを会社はばっちり知ることになる。30分や1時間の面接よりも、濃密に学生を理解できる。
インターンシップでよい成績をあげた学生には、企業から12月から3月くらいにかけて連絡が来る。「君はインターンの成績がよかったけど、当社を受ける気がないか」という連絡である。あると答えると、人事の部課長が面談をしてくれる。それで問題がないと、次は最終面接で、ほぼ問題なく合格となる。
つまり、国立大学協会や文部科学省が文句を言えば、言うほど、大企業の採用は水面下に潜り巧妙になっていく。実質選考は従来と変わらない時期に行われているのである。
ということは、内定出しが8月以降になれば、上記のような、リクルーターやインターンシップ、特定大学生のための懇親会が水面下でどんどんより、派手に、巧妙に行われることになるのは必至である。
理由は簡単である。優秀な学生は限られていて、どこの企業も少数の優秀な学生を採りたいので、時期が遅くなりましたからと言って、採用活動そのものを遅くしたりしないからだ。そして、考えればわかることで、多くのリクルーターや長期のインターンシップなどができるのは、大手企業に限られている。
大手は金と人にあかしてこうしたことを行い、表面上は「当社は規則を守って自粛をしています」という顔をする。これに対して、金や人がそんなに余裕がある訳ではない、中堅、中小企業は公式ルートでの採用しかできないので、優秀な学生の採用活動に大きな支障が出て来る。
そして、何よりも、内定出しが8月以降になると、3年の夏のインターンシップから始まる就職活動は1年間に及ぶことになる。採用期間の短縮化と謳った内定出しの8月以降という話は、逆に学生の就職活動の長期化につながるのである。
筆者はずっと言い続けているが、企業の採用活動、学生の就職活動を短期にすることはまったく難しくない。ポイントは2つ。1つは大学側が企業に本音を言わせることである。今は本音が言えない環境だから、本音と建前が存在し、学生がこれに振り回さされることになる。
筆者が就職活動をしていた時期は、学生は大学の推薦を受けないと、企業の採用選考に応募できなかった。それぞれの大学が、企業ごとの推薦枠をいうのを持っていて、その推薦枠に合わせて学生に推薦を出していた。
推薦を得た学生は大学の推薦書と大学3年間の成績証明書、そして、自分の履歴書を企業に郵送し、企業はこれで書類審査をする。書類審査で合格した学生は一次選考は試験である。これに合格したら、面接で面接は2,3回で終了し、就職活動は2,3週間で終わった。
当然優秀な大学は多くの推薦枠を持ち、偏差値が高くない大学は学年トップとかスポーツで全国優勝というような学生でないと、超大企業に推薦はできなかった。これは当たり前のことである。超大企業、人気企業には優秀な学生が集中するから、その他大学の学生が応募しても、余程のことがない限り合格などしない。
だから、中位、下位の大学は超大企業には、学年で首席だからとか、TOEICが900点以上だからというようなことで推薦をして、企業もそういう学生はきちんと採用選考に加えていた。互いに社会常識で行動していた。だから、超大手の企業だからと言って、何万人が応募するという今の時代のバカげた現象はなかった。
今は、中位から下位の大学が、こうしたことに差別だということを言うから、企業はこうした本音の行為ができなくなっている。でも、学生の立場に立てば、中位、下位の大学の学生でも誰もかも受けされろということと、本当に優秀な学生だけ受けさせてくださいというのと、どちらが親切かは考えれば自明のことである。
もう1つの方法は、大学と企業の意見調整などしないでも、大学だけが行動すれば、できる。それは授業参加を厳しくチェックし、成績が悪い学生を落第させていくことである。
今の大学の学生は本当に勉強していない。それで卒業できてしまう。成績は惨憺たるものである。勉強ではなく、大学に遊びに行っているからだ。この学生に普通に点数をつければ、上位大学でも、間違いなく3割の学生は落第する。
卒業間際の2月、3月にならないと、3分の1の学生は卒業できるかどうかわからないとなれば、企業は怖くて、採用活動を早期などしない。就職戦線は1か月の短期集中で終わる。学生にも企業にも大学にもハッピーである。
20101005
学校教育で、加害者教育はもう止めよう
先日、NHKの教育テレビで、外国の著名な教授が日本のある大学で講義をしていた様子が長時間放送されていた。しばらくその様子を見ていて、愕然とした。
戦争責任の話をしていて、若者世代は、自分の父や祖父の時代の戦争加害について、責任はあるかどうかという議論である。そうしたテーマをとりあげ、公共のテレビで長時間放送すること自体、違和感を感じる。
こうしたテーマは短時間でイエス、ノーが言える話でなく、当時の歴史的な背景や、当事者の国がそれぞれ何を考え、何をしたかということの詳しい検索をしないと、議論ができないからだ。
簡単な話、普段の生活で、AさんがBさんを殴ったとする。殴ったこと自体は悪いが、殴る前に、BさんがAさんに散々嫌がらせをしていたとしたら、刑法的にも情状酌量の余地があるのは、自明の理である。
これは国家間の争いでも同じである。日本が太平洋戦争に突入するように、どんどんアメリカが日本を追い込んで行ったというのは当時のアメリカ政府高官の書簡、「ハルノート」などから明らかである。しかし、今の若者は「ハルノート」という言葉さえ知らない人がほとんどである。
当時のルーズベルト大統領が日本軍の真珠湾攻撃を事前に知っていて、それに故意に対策をとらずに意図的に日本軍の攻撃を受け、4,5千人の死者を出し、戦争に参加すべきではないという意見が強かった世論を変えて、参戦したということも明らかになっている。
戦争が起きそうな時は、互いに様々な駆け引きを行い、権謀術数を駆使して、自国に有利になるようにありとあらゆる事をする。それが外交であり、国際政治である。
アメリカが日本の広島に原爆を投下する前に、アメリカ本土で、アメリカの軍隊の上に原爆を投下して、被害の程度を調べたということがあり、それで被爆した元米軍兵士がアメリカという国を訴えていて、その話は本にもなり、映画にもなった。戦争とは勝つためには、自国民の犠牲さえいとわない。そういうものである。
戦後の日本は、極東裁判で、戦時の軍隊の首脳、当時の政府首脳が戦争責任を問われ、死刑になったことをきっかけに、「日本が加害者で、アジア、世界に迷惑をかけた。日本は悪いことをやった」という意識が蔓延し、教育現場でも、その通り教えて来た。
でも、これは世界的に見て、異常なことである。メキシコに口実を作って戦争をしかけ、日本全体の面積よりも遥かに広大な領土を攻めとったアメリカで、「メキシコ侵略」などとは1行も書かず、むしろ、正義の戦いだったと教え、ヒーローまで登場させている。
アメリカは当時、独立王国だったハワイにも口実を作って攻め、自国領にしてしまった。フランスとドイツや、イギリスとフランスは過去の歴史で何回も戦い、領土をとったり、とられたりしてきた。でも、歴史の教科書で、それを「自分の国が悪かった」とは教えていない。
日本が過去の歴史で、常に正しかった訳ではないので、そういうつもりは全くないが、その一方で、今言われていることで、事実とは違うとか、その話は前提がまったく違うという話はいくつもある。
国というものは、その歴史と民族に誇りを持ち、国民に誇りを持たせるための神話、ヒーローなどを作り、国民に教えるのが当然で、現在の日本のように、「この国は悪いことをしました。あなたたちの父親たちは間違えていたのです」などと教える国は、歴史上初めてと言える。
中国で天安門事件が起きた時に、アメリカでは、「中国は人権を軽んじる非民主主義国家で許すことはできない」という意見が高まり、アメリカにいる中国人、特に大学に留学している人間は誰かれとなく、アメリカ人から議論を吹きかけられた。
当時、中国は若手官僚を多くアメリカに留学させていて、その官僚たちが、アメリカ人学生や教授から猛烈な議論をしかけられた。その時、留学していた中国人たちはどう応対したか。彼らは「今の中国は発展途上で、成熟した民主主義国のアメリカとは違います。今の中国で、アメリカ的なの民主主義と取り入れると、国は大混乱になり、収拾がつかなくなります。途上国が短期間に急成長するためには、強いリーダーシップが必要なのです。何年か後には、我が国もアメリカのような民主主義国家になっているでしょう」と異口同音に答えた。
そして、国民一人当たりのGDPの比較や建国の混乱の歴史などをアメリカ人に説明した。初めの内はそれでも納得せずに、再反論するアメリカ人は多かったが、中国人が一枚岩のように同じ主張をデータ、数字などを示しながら、何かとなく説明していく内にアメリカ人たちからは「納得はしないが、理解はできる」という反応になり、天安門事件の話題は出ることがなくなっていった。
この話を聞いた時に、今の日本で同じようなことが起きた時に、日本人はどう反応するだろうかと考えた。99%以上の確率で、ほとんどの日本人はひたすら自国を恥じ、謝罪をしまくるだろうと思った。そして、日本人と日本人がしたことのひどさが事実として、アメリカ人の心に定着していったであろうと。
戦後、何回となく、右翼的な人たちや一部の自民党の代議士から、愛国心教育の必要性が叫ばれ、その度に、左翼の人たちから猛烈な反対が出て、うやむやになってきた。
こうした話の時に、筆者はいつも思った。愛国心などという話をしないでも、偉大な日本人の先人の話や、歴史的な出来事などを学校や家庭でしっかり教えていけば、愛国心などとあえて言いださなくても、自然の日本と日本人、自国の領土などを愛し、大事にしていく国民が育っていくと。
筆者が子供の時には、どこの小学校にも、二宮金次郎の銅像が立ち、彼の話を聞かされた。学校で野口英世の人生も聞かされたし、楠正成などの話は映画や本でよく紹介されていた。また、国の歴史や自然を歌う多くの童謡、唱歌を教えられた。
しかし、今学校には金次郎の銅像はないし、童謡、唱歌も教えない。日本の誇るべき歴史は何も教えていない。こんなことで、国を愛し、いざ、外国に国が攻められたときに、国や人々を守ろうという意識など生まれる訳がない。
過去の歴史に対して、批判と反省は勿論、大切である。しかし、国としての謝罪などは、公式には一度きちんとすれば、よく、何回も何回も謝るものではない。そして、主張すべき点はきちんと主張し、相手が言うおかしな点はきちんと反論するものである。
議論は相互で意見、主張を言い合うものである。それを言われ放しで引くから、相手はそれまでの議論は百パーセント自分の主張が正しかったということで、そこを境界線としての議論を始める。おかしな主張も反論をしないから、正当になってしまうのである。そして、何回も謝るから相手も、それなら、何々で譲れという態度になってくるのだ。
冒頭のNHKの番組で、そうした話を延々と放送するテレビ局の姿勢に大いなる疑問を感じたが、それ以上に、質問に答える大学生のほとんどの人が、「日本人として、罪の意識を引き継ぎ、謝罪の気持ちを持ち続けないといけない」という趣旨の話をしていたことに大きな衝撃を覚えた。
優秀な若者の多くが、自国と自国の先輩に罪の意識を感じているなら、自国愛など生まれるはずがない。戦後の日本の教育はこうした若者と大量に生産していたのである。
だから、尖閣列島で、百パーセント不当に言いがかりをつけられても、穏便に話し合いで解決などという世界常識では考えられない反応となってくるのである。国防をアメリカに依存し、長らく属国状態にになってきた歴史がそうした国民意識を生んできたのである。
国という体をなしていない状態の日本に将来はない。国とは何か、他国に蹂躙されれば、どうしたことになるのか。何は譲り、何は絶対譲ってはいけないか、きちんと考え、教えていく教育が今こそ必要である。
20101004
大学生が就職難という嘘を連日流すマスコミの罪
10月1日は今の大学生の就職活動に中心的な役割をするリクナビがオープンする日である。そして、それとともに、マスコミも大学生の就職活動の話を多く報道するようになってきた。
しかし、新聞もテレビも最近のマスコミの論調は、「大学生の多くが就職できない」「可哀想な若者を何とかしろ」であり、いかに大学生の就職が大変かを嫌という程報道している。
だが、これは事実と全く違う。大学生で就職を希望する学生は44万人。これに対して、大卒者を採用したいという企業の採用希望者数は72万人である。つまり、企業を選びさえしなければ、全員が就職できるのである。それをマスコミが就職は大変だというトーンで報道し続けるので、大学生は必要以上に危機感を持ち、必要以上に早くから活動をすることになる。
役所は「4割の大学卒業者が就職できない」というニュースレリースを流す。そして、新聞社、テレビ局がその通り、それを報道する。それが事実かどうかの検証もしないで。記者クラブ制度の弊害で、記者はクラブの椅子に座っているだけで、ニュースレリースを受け取り、出勤したという証明の原稿をもらえる。だから、実際に関係者にあたって、その情報が本当かどうかなどという余分なことはしない。
では、役所がどうして、間違った情報、嘘の情報を流すかと言えば、それは、大変だというニュースレリースを流して、それが世の中の常識になると、次に役人がすることは、「だから、対策をしないといけない」という論理になり、予算を要求するのである。できれば、対策のための組織も作りたいと要求する。大変だ、大変だという話の薬が効いていれば、予算は元より、組織の要求も通る。
役人のこの手法は常套手段である。「日本の食糧自給率は40%」というのは、今では多くの日本人が信じている。しかし、実際は70%である。でも、それを知っている人はほんのわずかで、ほとんどの日本人が4割だと信じている。農水省の役人が流したニュースレリースを記者クラブの記者が書き続け、テレビなどでも盛んに孫引き状態で何回も言われる内に、嘘が本当になってしまったのである。
食糧自給率は世界の先進国の基準は金額ベースであり、日本もかつては金額ベースで計算をし、70%という数字を農水省自体が言っていた。それが、ある日突然に、金額ベースをカロリーベースに切り替えた。その結果、日本の食糧自給率は40%に大きくダウンした。
そこで、農水省の役人がしたことは、「大変だ。日本の食を守れ」という掛け声とともに、補助金を多く獲得し、農家にばらまいたのである。金が多く流れれば、そこに人も組織も必要になり、役所の権限拡大、権益拡大になる。そして、彼らの思うように実際なった。だが、それでどうなったかと言えば、保護されればされるほど、対象もものは弱くなる。結果、日本の農業はより弱くなったのである。
役人は自分が担当している対象のことでも、その対象関係者のためによかれと思って対策を立て、行動をしていると、多くの人が思っているかもしれないが、彼らの頭にあるのは、対象者の育成ではなく、自分たちの権益拡大でしかない。(危機感を煽るのではなく、落ちつかせることが必要)
大学生の就職問題でも同じである。騒げば騒ぐほど、大学生は恐怖感に煽られ、危機感を持つ。その結果、必要以上に神経質になり、鬱になる人も出てくる。むしろ、大学生を落ちつかせ、「大丈夫、求人の方が多く、求職者は就職できる」と言ってあげることの方がどれだけ親切かわからないのだが、そんなことにはお構いなく、危機感をどんどん煽っている。
今の大学生はある意味では本当に可哀想である。大学、親、役所の犠牲者になってしまっている。まず、大学である。大学は次年度の受験者のより多くの獲得のために、就職では、少しでも有名企業に入るように学生の尻を叩く。本来なら、その学生の実力に応じたアドバイスをしないといけないのに、平気で、絶対無理な企業を受けるように指導する。
「そんなことをしたって、受かる訳ないでしょう」と大学関係者に言うと、彼らからの反応は「無理なのはわかっていますが、千人受ければ、間違えて1人くらい受かるでしょう」というものである。学生を人間として見ていない。心情も考えていないのだ。
大学の就職部(最近ではキャリアセンターとか言うが)だけでなく、一番愚かなのは、国立大学協会である。ここが、「青田刈りは止めろ」と経団連に厳しく申し入れをする。その結果何が起きるかと言えば、就職活動時期の異常な長期化と、企業の表と裏の使い分けである。
今の大学生は3年の夏から就職活動を始める。ほとんどの大学生が就職をするにあたって使うサイトである、リクナビでは、3年生および、院の1年生向けのセミナー、インターンシップの情報を6月から掲載する。
それを見て、企業の日程を予約などして、実際は夏または9月から就職活動を始めるのだ。リクルートの調査では、インターンシップ、セミナー参加者は就職活動をする学生の半分である。少しやる気のある学生はこの時期から活動開始である。
国立大学協会がどうのこうの言わなかった時は、企業の研究や開発などの仕事を志望する大学院生対象の企業の選考は大学院修士1年の秋から12月までだった。年を越えると、あせり、遅くても1月には終わらせるという状態だった。
学部生は、説明会は11月から1、2月まであり、4月には内定が出ていた。企業の採用担当者にとっても、院生と学部生の時期が異なるのは好都合で、半年で採用活動をほとんど終えていた。
ところが、国立大学協会が強く申し入れた結果、院生の採用内定を出す時期が3月から4月にずれるようになってしまった。つまり、秋から活動して本来なら、年内に終えていた就職活動が半年かかるようになってしまったのである。
セミナー、インターンシップもかつては理系の院生対象がほとんどだったのが、今は文系の学部制も参加が当たり前になり、学部生も夏から活動をするようになった。現実に、9月にセミナーをして、他社のセミナーも受けているか聞くと、既に5、6社のものを受けていると答える学生が珍しくない。
それでなくても、半年以上の長丁場になってきていた就職活動が、今年は国立大学協会の申し入れを受けて、経団連は、内定出しを夏以降にするように会員企業の言い、守らせるようにすると言いだした。こうなると、大学生は完全に1年間、就職活動に縛られることになる。
採用活動を長くしていて、時々、気の毒な学生に会う。それは自分の担当教授が、国立大学協会の申し入れ通りに就職活動をするように学生に厳しく言い、学生が就職活動に出ることができなくなることだ。そして、その結果、企業の選考のピークに活動できず、結局、どこの内定もとれないという学生が出ることである。理系の院生に多く、毎年何人もこうした学生に会う。
文系の学部生と違って、理系の院生にとって、教授は絶対的な権力者で、逆らうことはできない。院の教室はメンバーが数人で、文系の学部生のように、授業に出ていてもいなくても、わからないのとは違う。頭の固い大学の教授は自分の大学の学生の将来の道を閉ざしてしまっているのだ。
筆者が就職活動をしたのは、遥か昔だが、筆者の就職活動は2週間だった。それで、何にも問題がなく、就職先を決めた。当時は、大学関係者も企業の担当者も本音が言えた。
当時はリクナビなどなく、就職情報は新聞情報がメインだった。今でも覚えているが、総合商社の採用担当の常務が、「当社に入社するのは、早慶で優の数が7割以上ないと無理」と発言し、それが新聞に載った。本音である。当時は企業の担当者は本音が言えたのだ。
だから、受けても受からない人は受けなかった。大学ごとに有名企業に対しては、学生の推薦枠があり、その枠の範囲で、学生を推薦した。推薦された学生は、大学の推薦書と大学3年間の成績証明書を提出し、まずは書類審査である。それで受かった学生には連絡があり、まずは試験である。
今でも覚えているが、慶應大学の大教室で試験があった。そして、その試験で、採用枠の4倍までに学生を絞り、数回の面接をして、合格者を決めた。学生は一番最初に内定を得た企業に入ることが義務付けられ、内定が出たら、それが第一志望であろうとなかろうと、就職活動を止めないといけなかった。だから、2週間で終わるのである。
なおかつ、当時は、4年の7月1日が採用活動の解禁だったが、初日の1日に何社もが試験を実施した。筆者はマスコミ志望だったが、朝日、読売、毎日、日経、NHKが同じ日の試験だった。だから、かけもちなどできない。筆者の知人で、読売新聞にどうしても入りたいと思った男は、東京と大阪の読売を受け、東京の人間だったが、受かった大阪採用となった。
今、企業の採用担当者が、「うちに合格するには、早慶以上でないと無理」などと言おうものなら、マーチや日東駒専の大学から総攻撃を受けるので、絶対本音を言わない。でも、その本音を言えない現状が、絶対受からない学生に無駄に何社も受けさせるという膨大な無駄をさせているのだ。
今の学生にとって不幸なもう1つのことは、親の時代と今とが大きく異なってしまい、親の常識がまったく通じないにもかかわらず、親がよかれと思ってのことなのだろうが、間違えて指導をしていることである。
今の大学生の親、特に母親の世代は自分が高校の時、大学に行く人は、1、2割だった。だから、大学に行く人はエリートで、大学に行く人は大手上場企業に概ね就職していた。母親に、その意識がある。だから、大学に行ったわが子は一流企業に就職して当然だと思っている。
しかし、今の大学進学率は5割である。当然、頭脳労働ではなく、肉体動労をしないといけない就職先に就職する学生も少なくない。今の言葉で言えば、ガテン系企業への就職である。大学生の、中でも自分の大学の偏差値が高くなく、自分も成績がよくなかった者は、それを覚悟している。
だが、そうした就職や、事務系や営業でも、中堅企業に就職先を決めようとすると、親、中でも母親が、「大学に行ったのに、どうして、NTTや新日鉄に行かないの?」という話をして、子供の決断に反対し、混乱を与えるのである。本当に今の大学生は可哀想である。
20101001
弁護士、銀行、裁判官がつぶした武富士
消費者金融大手の武富士が会社更生法を申請して、事実上倒産をした。新聞やテレビの報道は、これで、過払い金の返還がカットされることだけを心配して報じている。しかし、この倒産劇は予想されたことであり、法律の常道を踏みにじった法律で起こされた倒産劇と言える。
消費者金融も企業金融もそうだが、マスコミの報道はまったく事実と大きく異なる。世の中には、どんな業界もそうだが、優良業者もいれば、悪徳業者もいる。優良顧客もいれば、悪徳顧客もいる。
マスコミがサラ金問題として大々的に報じた話は、専門家に言わせると、悪徳業者と悪徳利用者の殴り合いである。消費者金融でも、カードでのキャッシングでもそうだが、利用者には、初めから返すつもりがなくて借りる人が結構いる。
当然、業者は何回も返済を迫り、それでも借主が返そうとしないので、きつい言葉になり、乱暴な口調になったりする。すると、悪徳借主は、「脅迫された。警察に訴える」という。こうした利用者には、まともな業者は貸さなくなるので、当然、質の悪い業者に行くようになる。質の悪い業者は取りたてもきついし、言葉もきつい。
悪徳借主は、自分がきついことを言っているのを棚上げにしておいて、悪徳業者がきつい言葉をガンガン言っている部分だけを録音して、それをマスコミに報道させる。ここに、消費者金融業者、企業金融業者はすべて悪であるという図式ができあがっていく。
普通に消費者金融や企業金融を借りて、普通に返している個人や会社の経営者、または、普通の両金融業者に聞くと、利用者の大方は普通に借りて、普通に返しているし、業者もテレビで散々放送されたような暴力団まがいのやりとりはしない。
よく高すぎる金利の話が出てくる。年利、40%、30%の金利など払える訳がないではないかという話である。しかし、これもまともな業者や利用者に聞くと、年間で貸したり、借りたりしていない。健全な借主や貸し手は、1カ月、十日という感じで貸し借りをしている。
法人なら、原材料を仕入れて製品を作り販売しても、法人相手だと入金は1カ月後になる。資金の余裕があるところはよいが、それがないと、帳簿上は利益が出ていても、金が回らなくなる。そこで、1カ月間、企業金融業者に金を借りるのである。
百万円借りて、月3%なら、利子は3万円である。これくらいの利子を払っても、充分元はとれるので、1カ月借りる。そして、販売先の法人から支払いがあった時に、清算する。日本には資金の余裕がない中小企業が全体の99%だから、これは中小企業には欠かせない存在となり、この業界が急成長したのである。
個人もそうである。賞与まで1カ月、2週間ある。でも、今友達の誕生日なので、プレゼントをしたい。そこで消費者金融を利用する。十万円借りても、1カ月なら、3千円である。痛くも痒くもない。だから、気軽に借りられるということで、消費者金融は急成長した。
銀行がこうした役割をしてくれれば、消費者金融も企業金融もその業界が急成長をすることはなかった。でも、銀行は個人なら大企業に勤めているとか、自宅ももっているとかしないと、金を貸してくれない状態が続いた。法人でも基盤の弱い中小零細業者には金は貸さない。
ここに、消費者金融業者や企業金融業者と、銀行の住み分けができたのである。日本の銀行は資金の借主の質を見分ける力はない。アメリカでは、これから会社を作ろうとする人間が、起業のアイデアを持って銀行を訪問すると、その話を聞いてくれる。そして、アイデアがよければ、融資をしてくれる。
でも、日本の銀行にはそんな発想はない。自宅があるか、信用ある会社に勤めるているか、預金はあるかと言ったような、誰でも判断できる基準で人間を採点し、それで、融資をするかしないか電卓で計算したようにして、決めるのだ。質で相手も見るという習慣も能力もないし、アイデアを判断する力もない。
だが、消費者金融や企業金融業界がどんどん大きくなってくると、銀行には複雑な思いが出てきた。消費者金融、企業金融業者はその資金を銀行から借りる。超低金利時代が続いているので、借りる金利は2、3%である。これが、消費者金融、企業金融業者に渡ると、企業や個人に貸す金利は年間では、30%になる。実際は月利で3%なのだが、銀行は年利で考える。
そして、自分たちが得るべき利得を消費者金融、企業金融業者にとられているように思いになってくる。それなら、自分たちも消費者金融、企業金融をやろうと思い銀行も出てきた。しかし、悲しいことにノウハウも、人を見る目もない。悪徳利用者に借りられ、踏み倒され、大きな焦げ付きを作った。
巨額の焦げ付きを出し、その業務からの撤退や縮小をした銀行が考えたことは、それなら、消費者金融、企業金融の会社を丸ごと手に入れることである。だが、こうした業者はほとんどがオーナー経営者で彼らは巨利を得ているので、売るつもりはない。
銀行以外に、消費者金融、企業金融業者に興味を持つ存在があった。それは弁護士たちである。消費者金融、企業金融のトラブルの多くは悪徳業者と悪徳借主の争いである。しかし、中には、通常の借主が入ってくる予定の金が入ってこず、返せなくなるケースもある。ギャンブルに凝り、金を借りて、泥沼にはまっていく人もいる。
そういう人たちから相談を受け、話を詳しく聞くと、年利が3割、4割だという。そして、借りた金は支払っているのに、まだ、借金が残っているなどという話を聞くと、弁護士はこれはおかしいと思い始める。実際は家の銀行ローンでも、借りた金の2、3倍は返さないといけないので、金利は大きいのだが、そうした引いた発想はなく、目先で困っている人に対する思いだけが強くなる。
弁護士の報酬は定額型もあるが、勝ち取った金額に対する成功報酬型の仕事の仕方もある。特に企業などを訴えて勝訴した場合などは、成功報酬型で、弁護士は巨額の資金が手に入る。かつて、薬害のスモン訴訟などでは、弁護士報酬が数十億単位になった。こうした経験がある弁護士などは、消費者金融、企業金融の問題を担当すれば、大きな金が手に入ることを嗅覚で感じるようになってきた。
こうして、消費者金融、企業金融業界を熱い思いで見る集団ができてきて、彼らは、互いの利害が一致したので、共同を歩調をとることになったのである。まずは、業者がいかにひどいかということのPRに乗り出すことになった。マスコミにひどいケースを取材させた。テレビにはうってつけの話で、ひどい業者と、その取りたてにあう弱い被害者が連日のようにテレビで流れされるようになった。
ここで、消費者金融、企業金融業者側に不幸だったことは、経営者の多くがオーナーで、しかも、巨利を得る仕事を見つけ、創業して、現実に莫大な資金を稼いだので、油断慢心をし、自分たちを虎視眈々と狙っている人間の存在に気がつかず、むしろ攻撃の口実を与えるような行動をする人がいたことである。
かくて、消費者金融、企業金融業者は悪という観念が定着した。そして、金利の上限を定めた法律が2つあり、その高い方の金利で金を貸した業者はその差額を返還しろという、近代国家ではあり得ないことになった。これが過払い金の返還である。
消費者金融、企業金融の業者は違法で高い金利をとっていたのではない。法律に則って金を貸し、借りる側もそれを納得して、金を借り、金利を払っていた。それを2つの法律の差分は払わなくてよいだけでなく、過去に支払った高い法律に基づく利子も返還要求ができるようになった。
金利が高い法律が改正になったとしても、近代法治国家の常識では過去の貸し借りについては、有効で、改正した法律は過去に及ばないというのが当然のことである。後で法律を作り、それで過去のことを裁いたら、極端に言えば、合法的な行為がある日突然、違法になり、そのことで、いつ死刑になるかもしれない危険性があるということである。そんな危険極まりないことはあってはならないが、それを裁判所が認めたのである。
本当にひどい被害に遭った人の救済はまだわかる。しかし、本人も納得して、かつて利子を払い、文句も言っていない人に、弁護士事務所や、それを仕事にしている業者がアプローチして、「あなたも何百万円返ってくる」と囁きだしたのである。
過払いは、経理上処理が終わったものについて、過去に遡って請求されるので、会社は今後、どれくらい金が必要は見当がつかない。それだけでなく、弁護士集団は、そも消費者金融、企業金融は悪だという発想で、年収に3割までしか借りられないというような法律まで作った。
業者はその結果、収入は大きく減り、出て行く過払い金は膨れ上がるばかりで、会社として存続していくことが無理になり、倒産するしかなかったのである。
武富士の倒産は象徴的である。他の大手は、銀行の要求に屈して、オーナーが会社を銀行に譲った。しかし、武富士はこれを拒んだので倒産に追い込まれたのだ。
業者の話はともかく、一連の法律改正などで、優良、正常に借りていた人たち、企業が金を借りられなくなってきた。そのニーズを誰がカバーするか。待ち構えるのは、より悪質なマチ金業者である。これから先、かつてのサラ金騒動よりも、より過酷な残酷物語が出てくるだろう。それは、銀行、弁護士、裁判官が責任を負う話である。
20100927
非難するのは筋違い、合格率が低い放火大学院制度
弁護士が少なく、裁判が遅々として進まないことを解決しようとして、司法試験の合格者を増やす目的で作られた法科大学院制度の下での、今年の司法試験受験者の合格者率が25%台になった。
しかも、法科大学院制度の下では、3回受験して合格できない人は受験資格がなくなるので、大量の法学難民が出ている。これを受けて、雑誌などで、「制度が欠陥であり」、高い金をかけて法科大学院に行った人は「国家的な詐欺にあったも同然」という内容の記事が見られる。こうした記事を読むと、本当に日本人は甘いと思う。
文句を言っている人の話を総合すると、「政府の当初の目標は7割合格だったので、会社を辞め、高い金をかけ、入学したのに実態は違っていた」である。この話を聞くと、「それなら、政府の言うことなら、何でも信用するのですか」と言いたい。
古今東西、一番信用できないのは、政府ではないか。言うことが変わるのは政府ではないか。借金が返せなくなったら、徳政令を出して借金を棒引きにするのも政府だし、太平洋戦争が終わったら、戦時国債は一切償還しないとして、紙切れにしたのも政府である。
法科大学院の設立の際に取材をしたので、経緯を知っているが、元々、文部科学省は旧帝大8校と、早稲田、慶應、一橋大だけに法科大学院の設立を認める案を作っていた。授業を受けた者の7割の合格を目指すなら、院の質を高くしないといけない。それなら、旧帝大クラスが限界と考えたのだ。
これに対して、毎年、司法試験に多くの合格者を出している中央大学が噛みつき、これに明治、法政など他の6大学が追随した。関西では、私学のトップを自負する関学、同志社が落とされては一大事とこちらも猛烈に運動をした。また、国立大学でも、関西の神戸大や、旧帝大ではないが、広島大学などがねじ込みだした。
文部科学省は、中央大や関学、同志社、神戸大などは入れざるを得ないかと枠を広げ、20校くらいに拡大することを考えたが、旧帝大だけというなら、ともかく、関学、同志社が入るなら、関大、立命はそれなら、当方もということになるし、中央、明治が入るなら、青山や学習院も、当方もということになり、大学の数はどんどん膨れ上がっていった。
文部科学省は、最後には、どこはよくて、どこは駄目という線引きをするのは無理だと思うようになり、法科大学院を設置したい大学はどうぞという姿勢になり、結果的に、一定以上、名前があり、法学部がある大学は、「エッここが」と思える大学までも含む、何百という大学で法科大学院を設置することになった。
当時、猛陳情をしていた大学の関係者に話を聞いたことがある。その時に、彼らが言ったのは、「法学部がある大学で法科大学院を設置しないと、あそこはレベルが低いからということで、学部の学生が集まらなくなります。法科大学院設置は大学としての死活問題なのです」ということである。
雑誌などで何回も受験して、不合格になった人の話を載せているが、彼らは自分の仕事を辞めて、何百万円も費用がかかる法科大学院に入った。上に述べたように、院生の7割を合格させようとしたのは、全国で十校の時の話である。
それが、何百に膨れ上がって、ここは絶対学生が集まらないと思えるような大学も法科大学院を設置したのだから、7割合格という目標が崩れたと考えるのが、社会人の常識である。設置する大学の数が異常に膨れ上がって、質は大丈夫かという記事は何回も出た。
それを、上位大学ではなく、下の方の大学に入り、約束だからと言って、合格させろというのは、あまりにも世の中の動きや常識を知らない人の言うことである。
もっと言うと、司法試験関係者の話では、法科大学院制度になってからは、それまでよりも、合格基準を引き下げ、従来なら落ちるような人も合格させてきたという。その証拠に、ここ数年、司法試験に合格し、司法修習生として研修を受ける人で、研修についていけずに、落伍する人の数がうなぎ上りに増えているという。それだけ、甘くされて、なおかつ、合格しなかった自分が法律の専門家を目指したこと自体が間違いである。
従来の制度の下でも、何年も司法試験の勉強をして合格せず、何浪かの後に、試験を受けることをあきらめる人が結構いた。こうしたことについて、専門家の意見を聞いたことがある。その時に、専門家の言った話が興味深い。
「司法試験は3年くらいのサイクルで、試験問題の内容が変わってくるのです。ですから、本当に適性があり、目指す人は法学部の2、3年から受け、4年、卒業後1年目で大体受かるのです。それを3年受けて受からない人は、基本的に法律に向いていないと割り切り、方向転換をしないといけないのです」 もっと言うと、法科大学院ができてから、弁護士が異常に増えた。その結果、折角資格をとっても、仕事がまったくない弁護士が多くなっているという。
司法試験に受かり、研修を終えた後、どこかの弁護士事務所に居候させてもらい、多少とも仕事に関与して勉強できるのはほんの一握りで、ほとんどの人は事務所も机もなく、携帯電話でクライアント候補の人とやりとりだという。それでも、仕事があれば、良い方だという。
歯科医師は多く作りすぎた上、最近の子供は母親が甘いものを食べさせないし、歯磨きにうるさいので、虫歯の子供が極端に減った。その結果、歯科医師は仕事の取り合いで、歯科医師会の話では、歯科医師の現在の平均年収は350万円程度で、一生懸命勉強をして大学に入り、資格をとっても、生活していけない人が多くなっているという。弁護士も同じ状況になってきているのである。
法科大学院の試験に3回落ち、文句を言っている人は、多分、合格して、仕事がなかったら、「これだけ、投資をしたのに、仕事がない。国が何とかしろ」と言い出しかねない人たちだと筆者は思う。
投資話も同じで、世の中には、そんなにおいしい話が転がっている訳ではない。何百万円支払えば、弁護士の資格が手に入りますと言われたら、そんなことはあり得ないと考えるのが、大人の常識ではないだろうか。
筆者の知人で大学院を卒業して就職し、医療関係の業界で営業を3、4年経験した後、大学院のMBAのコースに合格し、会社を辞めて、全日制の大学で勉強をしている人がいる。MBAの勉強を始めてから、連絡をもらい、決断の話を聞いた。
筆者は、MBAコースを取るのはよいが、卒業後が大変ではないかと聞いた。それに対して、彼の答えはこうである。「この大学では、2年間勉強すると、中小企業診断士の資格がほとんど誰でもとれるようになります。自分はこの資格をもって地元に帰り、しかるべき企業に再就職をして勤務し、一定年齢になって可能であれば、独立して、地元に帰り、町おこしのお手伝いをしたいと考えています」と。
彼は結婚していて、仕事をしながら、奥さんは弁理士の資格をとる勉強を続け、後1,2年専門の勉強を集中すれば、資格がとれるという状態になって、会社を辞め、勉強に専念し、現実に資格をとった。
そして、その資格で再就職をした。奥さんの再就職を受けて、彼は会社を辞めて、MBAの勉強に入り、今は奥さんに食べさせてもらっているという。過去2年間、自分が奥さんを支えてきたのだから、選手交代という訳だ。
働きながら、勉強をし、資格をとるというのは、これくらいの計画性と、生活のめどを立ててやるものではないだろうか。法科大学院の勉強で1千万円を越える借金を作って、勉強をしてきたという人の話が雑誌に載っているが、それなど計画自体が無謀としか言いようがない。失敗した場合はどうするかを考えるのが大人ではないか。
会計士も、弁護士も、中小企業診断士もそうだが、国家資格はあくまで資格であって、資格をとったから、すぐ仕事があるものでははない。現在、資格をもち、顧客を抱え仕事をしている人がいる訳で、新たに資格を取った人はそういう人と競争をして、客を取らないといけないのである。
飲食店もそうで、開店したから、すぐ客が入るものではない。開店して1年間は無収入を覚悟して開業しないと、その店は続かないとよく言われる。独立するのも、店を始めるのも、すべて自己責任である。国の責任ではない。
20100926
検察のデータねつ造は、戦後教育のひずみのせい
福祉団体に不当に便宜を図ったとして、逮捕・起訴された厚生労働省の元局長の無罪判決の後、大阪地検の主任検事が、データを改ざんしたとして、検察の威信を揺るがす問題だとして、大きな話題になっている。
この問題を取り上げる人の多くは、地検の体質を論じ、だから、地検は信用できないとか、取り調べの可視化をしろとか言っている。検察という組織がレベルが落ちたのは、今回のことに限らず、これまでのいくつかの案件で、詰めをしていないといけない点でぬかっていたことが明らかになるなど、間違いないことである。
しかし、これは検察庁だけの問題ではない。今は他の役所でも、企業でも、学校・大学でも、同じことが起きている。理由は簡単だ。ものごとの基礎、手順がきちんと身についていないのだ。
友人の朝日新聞のデスクから聞いた話だが、ある企画提案があったので、了解をして若手の記者を取材に行かせた。取材の後、原稿が出てきたが、その内容が過去の経験則から、どうしても納得できないので、記者に原稿の内容1つ1つについて質問をしていった結果、信じられないような話が出てきたという。
新聞社やテレビなどマスコミの取材は、狙いを決め、それに沿って取材を始める。取材をしていく内に、事実その通りの話が聞けて裏がとれ、当初の狙い通り、原稿や番組になることもある。
その一方で、取材をしてみると、当初の話が違っていて、狙いが外れることも少ない。例えば、誰かが隣人からひどいことをされて困っているという情報があり、現場に行って取材をしてみると、苦情を言ってきた人の方に問題があり、話が逆などということはよくある。
我々の記者時代には、当初の狙いと違う内容が出て来ると、それを取材を統括する責任者のデスクに報告して、ボツにするか、事実に基づいて原稿の狙いを事実に合わせて変えたりして、原稿にしたり、番組にしたりした。
ところが、今の若い記者は、取材して、当初の狙い通りの話が3で、それと反する話が7の場合、7は切り捨て、当初の狙い通りの話3だけを取り上げ、それだけで原稿を書き、当初の狙い通りに話を作って、原稿にしてくるという。
友人のデスク曰く、「今、現場から上がって来る原稿は怖くて、そのまま使えないので、原稿を見た後、デスクが自ら、もう一度、取材対象に事実関係を確認するのは必須なのです」。友人の読売新聞のデスクも言う。「今、現場から上がってくる原稿で、犯人と被害者の名前が逆なんていうのは珍しくないのです」。
だから、テレビの番組の「あるある大辞典」のように、事実と違う内容が放送され、大問題になり、番組そのものがなくなってしまったりする。クレームをつけられ、テレビ局や新聞社が謝罪をする事例は枚挙の暇がない。
こうしたエピソードを聞いて、採用で学生と接すると、納得できることが多い。今の学生や若者は、方向や方針を決めると、それに向かって、とにかく突き進む。途中で違う条件が出てきたり、話が違うと思っても、当初の方針を変えようとなかなかしないのだ。
例えば、ある業界でこんな仕事がしたいというような話の時、その学生が前提としている話が実態と違う場合、それをデータやエピソードを交えて説明し再考を促すと、以前なら話を聞いて方針を変えたり、少なくても、聞いた事実を確認しようとする動きをした。しかし今の学生は、「私はこう考えていますので、これで行きます」と言って、当初の方針をまったく変えようとしない人が本当に多い。
例えて見ると、電池のスイッチを入れられたロボットが、事情が変わったも、当初の指示通りに動き、絶対通れない高い壁に何回も無駄にぶつかって行く。そんな感じなのである。
どうしてこんな風になってしまうのか、機会があって、学校の教育現場に行ったり、教師や塾の講師と話をしたり、また、小中高の生徒向けの参考書、教科書などを見ると、その理由がわかる気がする。
まず、教科書でも参考書でも、基礎の基礎、なぜ、こうなっていて、それが全体にどういう影響を与えているかということの記述が本当に少ない。非常に多いのは、入試の過去問を出し、その解き方はこうだという説明である。そして、学校や塾の現場での教師や講師の指導の仕方も同じである。
少し考える生徒が、「なぜ、どうして」と質問すると、今の教師や講師のほとんどが、「そんな余計なことを考えずに、とにかく、この通り暗記しろ」というという。
超難関の中高一貫校の中学入試で、どれくらい勉強したかと大学生に質問すると、「小学5、6年生で、毎日十時間は勉強しました。夜寝るのは深夜0時近くでした」と言う人が多い。
我々が中学や高校受験の時を思い出しても、超難関校受験の人間でも、1日の勉強時間はせいぜい3,4時間であった。なぜ、こんな差が出て来るかと言えば、基礎を教えず過去問中心の指導だからである。
小学や中学で習うことは、かなり詳しくなぜということを説明したとしても、1科目に1冊、少し分厚い参考書があれば十分で、それを習得するのに毎日十時間勉強で1年間、2年間などかかりはしない。基礎、本質ではなく、事例ばかりやっていくから、膨大な量になり、毎日十時間勉強しないと、処理できないのだ。
このように、本質を考えず、なぜを考えず、基礎を習うことをせず、とにかく、言われた通り結果だけ出せと言われ、小中高時代を過ごして、難関大学に入ると、次にあるのは、勉強ではなく、とにかくアルバイトとサークルである。
今の学生に1週間、1日をどう使っているかと聞くと、ほとんどの学生がアルバイトとサークル活動で8、9割の時間を費やし、大学の授業の占める割合は1、2割だと答える。つまり、大学ではほとんどの大学生が何も教わらず、見識や人間性を深めるトレーニングなどしないで、卒業するのである。
そうした人間が社会に出れば、今回の大阪地検の検事のようなことをしても、不思議はない。筆者自身、体験があるが、事務所や自宅に営業の電話がかかってきた。興味がない話なので、相手が少し話し始めた段階で、「興味ありませんから」と電話を切ると、その本人から再度電話がかかってきて、「こちらは一生懸命説明しているのに、途中で切るのは失礼でしょう」という。
こうした体験は一度ではないし、友人、知人と話をしても、同じ体験をしている人が多い。つまり、この営業マンは「自分は一生懸命覚えたことを説明しているのだから、相手はそれを聞く義務がある」と思っているのだ。なぜ、どうしてということを考えさせられず、とにかく暗記だけをしてきた結果が、この論理になるのだ。
戦後、特に、少人数学級とか言われるようになってから、教育を受けた人間が、既に30歳代、40歳台になってきている。なぜ、どうしてを考えず、道筋、論理、あるべき姿などは考えず、ひたすら暗記をして人間が、社会の中堅になってきていること自体、非常に怖いことである。
戦後、教育をないがしろにしてきて、人間が壊れてしまっている。そんなことを感じる今日、この頃である。
20121119
「維新の会と太陽の党の合体は野合」という批判はナンセンス
橋下大阪市長率いる日本維新の会と、石原前東京都知事の太陽の党が合体を決めた。これに対して、マスコミ各社、評論家、民主党、自民党関係者から、「政策が異なる政党の合体は野合だ」という声が盛んに出ていて、国民もそれに引っ張られている。
でも、この批判はナンセンス以外の何物でもない。
野合と批判する人たちの言い分は、「消費税」「TPP」「原発」で考え方が大きく異なるということである。そういう人たちに聞きたい。それなら、民主党も自民党も、重要課題で議員の意見がまとまっているかということである。
民主党の議員の中には、今でも消費税増税反対の人も多くいるし、首相が交渉参加の方針を示したTPPに反対の人も多い。
民主党は元々反自民で権力奪取という考えでいくつも政党や人が集まった集団である。だから、目的である政権を取得すると、意見の違いが露呈して、何も決められない、決めて実行する能力もないので、過去三年間は政治不在の混乱の期間が続いたのである。
自民党でも同じだ。消費税でもTPPでも、原発でも意見が大きく異なる議員が混在している。憲法問題でも、憲法改正論者と現状維持派が同居している。
そもそも自民党は、左右かなり幅広い意見の人が集まった集団なのである。だからこそ、戦後何十年でもずっと政権の座にいることができたのである。
自民党の歴史を見れば、時の総理の政策が批判されると、立ち位置が違う人が代わって首相になり、異なる路線を敷いて、国民の支持をつなぎとめて来たのである。田中首相が逮捕された時、自民党内左派の三木政権ができて、政権を維持したし、安保改定で政治優先の岸内閣が崩壊すると、経済成長を掲げた池田内閣ができたのである。
私に言わせれば、維新の会、みんなの党、太陽の党の考えは共通している。それは、脱官僚、脱中央集権、地方分権である。明治時代以降続いてきた官僚支配から脱して、国民の手に主権を取り戻すということだ。石原氏が大同小異というのはこのことである。
憲法には国民に主権があると書いてあるが、今の日本には、国民に主権はない。主権を持っているのは官僚である。彼らが自分達の利益にならないと思うことは何もしない。だから、ストーカー対策法や道交法でも、欠陥だとわかっても、改正が進まないのである。
東京も大阪も脱官僚の改革を進めた。それを更に国レベルで推し進めようというのが、今回の維新の会と太陽の党の合体であると考えれば、野合ではないことは直ぐにわかる。
マスコミが橋下氏を忌み嫌い、週刊朝日や文春、新潮が信じられない人権侵害で彼を叩くのは、マスコミに働く人間が東大、早稲田、慶応という大学出身者がほとんどだからである。彼らは親が富裕層、支配層であり、橋本氏が自分達の既存利権を損なう人間と写るからである。そうみると、なぜあれだけ批判をするかが見えてくる。
念のために書くと、私は橋下氏も石原氏は好きではない。でも、マスコミはもっと嫌いだ。
20110901
島田紳助騒動とマスコミ
ここしばらく、公私共に忙しかったので、このブログはお休みをしていたが、忙しさも一段落したので、また、書き込みを再開することにした。
この間、色々なことがあった。それぞれのことについては、また、追々書くとして、まずは、島田紳助の芸能界引退のことを少し書きたい。
彼が芸能界を引退することになったのは、暴力団との付き合いがあったということが原因で、警察から強い圧力が会社の吉本興業にあり、引退をせざるを得なかったという。
そして、引退会見に対しても、その後でも、警察サイドからのリークと思える情報が雑誌や新聞、TVにまるで犯罪者を糾弾するように膨大の量で放出されて、バッシングが起きている。
筆者は島田紳助を好きでも嫌いでもないが、今の流れは異常だと思う。大震災の後の福島原発の放射能の話でも、その後の電力不足でも、マスコミは当局や電力会社、そして、いわゆる専門家が言ういい加減な情報をそのまま伝え、結果的に国民に間違った情報を与え、混乱させた。
マスコミの本来の役割は、役所や政府が出す情報を本当かと疑ってかかり、自ら検証をして、是々非々で報道することである。でも、今のマスコミにはその力も発想もなく、当局の出す情報をまるで番犬のように、そのまま国民に伝え、政府や官僚を利しているだけである。
警察当局は、十年から15年くらい前から、暴力団の撲滅キャンペーンをしていて、暴力団排除の方針の下に、かつては、映画やテレビで何回も取り上げられてきた、時代劇の任侠物、清水次郎長や国定忠治などの話は、今は一切と言ってよい程、取り上げられなくなった。
東映などが得意としていたヤクザの抗争劇や、高倉健などが演じた任侠物も全く姿を消した。東大での警察官僚の描いた図式は、江戸時代のヤクザの親分も任侠の人達も全て暴力団であり、排除すべきものという論理であり、それを格好良く描くのはダメというのである。
しかし、世の中、東大君が机の上で描いたように行くのであろうか。筆者はそれは大きな間違いのように思う。
島田紳助が暴力団の幹部と付き合うようになったきっかけは、TVで右翼の事を批判したのに対して、右翼から嫌がらせをされ続け、警察にも相談に行ったが、何の助けもしてくれず、困り果てて、友人の元ボクサーに相談したら、彼が暴力団幹部に話をして、解決してくれたことにある。
普通の国民が生活をしていて、誰かに嫌がらせをされたりして困る事は決して他人事ではなく、よく起きることである。こうした時に、警察はまったくあてにならないのは、過去の多くの事件が教えてくれている。
そもそも、世の中には、落ちこぼれた人や、犯罪行動をする危険性が高いチンピラが存在する。これは決してなくなりはしない。かつてのヤクザの親分たちはこうした人間を集めて、世の中のゴミのような仕事をさせ、犯罪に走らせないように、管理してきた。
しかし、ヤクザ、任侠の人達を暴力団と言って、麻薬や犯罪を常習的にしている集団と一緒に扱い、管理されていた、いわば、「狂犬」を野放し状態にしてしまったのは、警察の暴力団取締りではなかったのかと筆者は思う。
雑誌「創」の編集長が新聞紙上で、「今回の警察発のリーク情報をそのまま、マスコミが流し続け、島田紳助を叩き続けるのに、非常に恐ろしさを感じる」と書いたが、筆者もまったく同じ思いである。
20110125
官僚が好き勝手をやりだした
半年後に予定されているテレビの地デジ移行に関連して、庶民の地デジ切り替えが進まないことに業を煮やした総務省は、沖縄を対象に、1ヶ月間、現在のアナログ放送を毎日1時間映らないようにする対抗策をとることを決めたという。
この理由について、総務省は日本全体では99%切り替えができているのに、沖縄では切り替えが進まないために、切り替え促進の策でもあるとしている。そして、全国の民間放送会社に対して、沖縄だけでなく、同じようなことをするように要請しているという。
この総務省の行動は、日本が民主主義国家ではなく、官僚専制国家であることを如実に示すものである。まず、アナログ放送から地デジへの切り替えは、国民を代表する国会議員が国会で大議論をしして決めたことではない。
日本の役所が何かを大きな制度転換などをしようとする時、大きな議論になって、問題点が露呈するのを避けるために、主要政治家や関係族議員に、制度改革の必要性を説明して理解を得る。
そして、国会は省庁ごとに分かれている委員会があり、そこでの議論は、関係族議員に根回しが済んでいるので、大した議論もなく、了解されることがほとんどである。委員会で承認された案件、関係法律は衆参本会議で、ほとんどが原案通り可決されるので、そのまま国の決定になってしまうのである。
アナログ放送から地デジへの移行は、元々は、電波の有効利用をめざすもので、海外でも行われている。当然、地デジ移行とともに電波の開放、再割り当て、自由化がついてきている。しかし、日本では、これがない。
日本の官僚がよくやる手法で、「欧米諸国でもこうなっていますので」という言い方で大きな制度改革を説明する。しかし、欧米では、それにともなって、様々な改革が行われるが、これにはまったく触れず、当然、改革、自由化は実行せず、制度改革を自分の権益拡大につなげるのである。
地デジ移行もまったくその典型的なパターンで、電波の自由化、開放などはまったく行わず、電波の監督官庁としての権限を強化するために利用した側面が非常に強い。
旧郵政省、今の総務省にとっては、権益拡大の大きな機会だが、国民や放送局には大きな負担である。不況で広告が減っている放送局にとって、地デジ化はできたらしたくないことである。しかし、テレビ局は総務省に監督されていて、何かあれば、すぐに嫌がらせをされるので、文句は言えず、不満ながら、渋々対応をしているという状態である。
問題は国民である。国民にとって、地デジ化のメリットはほとんどない。逆に、新しく受像機を買い換えないといけないので、負担増以外の何者でもない。そこで、総務省は監督下になるテレビ局に命じて、地デジ移行の大キャンペーンを展開した。
加えて、新しいテレビ受像機の購入には、景気対策の一環で減税となるという策をとり、促進を図った。それでも、何で、買い換えないといけないのだという人が多いので、受像機のデジタル化はなかなか進まない。あせりと怒りの総務省の最後のあがきが今回の沖縄での、アナログ波の停止である。
総務省は、全国での地デジ切り替えは99%が済んでいると公表している。しかし、これは真っ赤は嘘である。全国平均で99%も進んでいるのであれば、アナログのテレビはほとんど見ることができないという状態である。
しかし、飲食店に入ってテレビを見れば、アナログのままの店が非常に多い。友人、知人でも、アナログのままという人が結構いる。半年位前に、全国で移行が済んだのが6割と総務省が公表した時に、その数字の信憑性に疑問の声が出ていた。役所は数字を自分の好きなように操作するのはお手のもので、今回もあり得ない数字が一人歩きをしている。
海外でのアナログからデジタルへの切り替えでは、半年位、時期をずらして、更にPRに努め、移行したという例も少なくない。民主主義というのは、丁寧に説明し、議論し、理解を得て、制度転換や新制度の導入を行うものである。
しかし、官僚専制国家の日本では、役所の横暴がそのまま通ってしまうのである。今回の沖縄でのアナログ波の停止には、本来ならマスコミや評論家、識者からおかしいという声がもっと出てくるべきだと思うが、マスコミはほとんど沈黙である。
理由は簡単で、テレビ局は監督官庁の総務省に睨まれたくないし、新聞社は傘下にテレビ局を持っているので、これも、文句が言いにくいのである。結局、官僚の横暴がそのまま通ってしまうのである。
民主党は政権をとった際に、脱官僚を主張し、政治家主導の政治を掲げた。しかし、元々、政権運営能力がない民主党は、どうしてよいか分からず迷走を続けている。党内の権力闘争が混乱に輪をかけている。
結果、何が起きたかというと、官僚が好き勝手をやりだしたのだ。かつて、年末や年度末になると、そこいれ中で、道路工事が行われた。これは、ついた予算を使い切らないと、翌年には予算が削られるので、使い切るためのやっていたのである。
しかし、自民党小泉政権下での公共工事費の削減で、こうした光景はあまり見なくなり、その傾向は、それに続く自民党政権下では続いた。
それが、民主党政権になって、特に民主党がダッチロールを始めたあたらいから様相が変わってきて、昨年末は、そこいら中で道路工事が始まり、今もそこここで工事が目立っている。政治家がしっかりし、国民がしっかり監視しないと、何をやりだすかわからないそれが官僚であり、それを始めたのである。
先進国では、官僚には厳しい倫理規定があり、外部の人間と食事も一緒にとることひとつでも、難しい。また、官僚の行動を厳しく監視する組織やシステムがあって、問題があった官僚は処分をされ、身分も剥奪される。
しかし、日本では、官僚は法律で身分を保証されており、犯罪を犯し、有罪判決でも出ない限り、免職されることはまずない。そして、日本は多くの事案が最高裁まで行くので、一審で有罪判決が出ても、最高裁の審理が終わる数年後までは、身分が保証されているのである。
だから、大きな問題をしでかした官僚も、余程のことがない限り、免職になることはなく、辞める場合でも、多額の退職金を得て、退職していく。こんな馬鹿げた国は先進国では日本だけである。いや、日本は先進国ではないということの証明なのだろう。
20110106
消費不況は売る側に問題が
年末に家族の一員の中学生が背が高くなって、これまで使っていた机が小さくなり、机を買いに行った。
店を何軒か回って見て驚いたのだが、百近く見た机の高さが皆同じだった。学習机だけでなく、事務用の机でも皆、測ったように同じ高さである。
そして、店員が「机の高さは73センチと決まっているのですよ」と言う。確かに、ほとんどの机の高さが73センチで、2,3の机が少し高い75,6センチで、それ以上のものはなかった。
今の子供は、我々の世代よりも身長が高く、我が家の中学3年生の身長は170センチ程で、既に結構背の高い母親を追い抜いている。ある。そして、今でも毎年背が伸びている。
学校の机は一括購入で、大量生産品なので、同じ高さは仕方がないとして、時代とともに、人間の背の高さは変わってくる。そうした中で、家庭や会社で使う机の高さが同じというのはおかしな話である。
机だけではない。少し背の高い女性と話をしていると、何人もから、足に合った靴がないと、よく不満を聞く。足の小さいのは美人の証などと言われたのは大昔で、今の女性は身長とともの、足も大きくなってきている。
ところが、靴屋に靴を買いに行くと、どの店でも、24.5までの靴しかなく、25後半以上の女性は履く靴を探すのにとても苦労をするという。
大きい靴を専門に売ることを謳い文句のしている店もあるが、こういう店に行くと、デザインがあばさん風であったり、大きさだけでなく、横幅が大きすぎ、履くとガバガバのものが多くて、駄目だという。
家族や知人の女性と付き合って、靴探しをしたことがあるが、靴屋でも、机の店と一緒で、店員は異口同音に「女性の靴は24.5までですよ」と言って、最近の女性が背とともの足も大きくなっていることなど、まったく無頓着である。
デパートが何年も売りが落ちて大変だという話を業界関係者から聞く。そして、消費不況だと、マスコミは書く。そうだろうか。筆者はそうは思わない。百貨店の店に行って商品を見て、買いたいものがないのだ。
安いものは買う気にならないデザインや、ペラペラの明らかに特売用に作ったものであり、すこしまともな物は、信じられないくらい価格が高い。スーパーの価格にしろとは言わないが、それにしても高すぎるのだ。
百貨店について思うのは、どの店も改装流行で、よく改装したり、レイアウトを変えたりする。しかし、その度に、どんどん買いたいものがなくなっていく。
筆者は大阪出張が多く、東京駅と大阪駅には頻繁に行くので、駅に隣接した百貨店は、よく覗く。東京駅の中にある百貨店の食品売り場は、改装の度に、不思議なくらい、筆者が買っていた店が次々になくなっていく。
筆者が買っていた食品の店は、その多くがそれほど大規模経営ではない店である。味が良いので、買っていた店である。それが、なくなり、後に、手広くチェーン展開をしている店が入る。
その店は工場で大量生産をした食品を並べているので、味にうるさい筆者には、かすかに防腐剤の臭いがして、味も深みがなく、とても買う気になれない。
百貨店で、筆者が唯一よく買っていた店が新宿にあった。この店は同じ系列の電鉄会社の沿線の住民が買いに来ている店で、会社需要ではなく、個人需要で買う人が多く、品揃えも価格も、それに合わせてリーズナブルの商品が多かった。
過去形で語らないといけないのが、とても残念である。というのはこの店は、他の店と同じように、改装で見る影もなく変わってしまったのである。
首都圏の百貨店では、ずっと伊勢丹一人は勝ち続けてきた。そこで何が起こったというと、伊勢丹の幹部クラスの人を他の百貨店がスカウトするということが行われた。
そして、それらの人の移籍とともに、どの店もミニ伊勢丹になってしまったのだ。筆者がよく行っていた新宿の電鉄系の百貨店も、その典型で、ミニ伊勢丹に変わってしまい、これまでの客が買っていた商品が消えてしまった。
店でも商品でも、会社でも、それぞれに持ち味がある。他の会社や店が売れているからと言って、自分の持ちを捨てて、他社や他店の真似をしても、それは所詮真似で、本家に遠く及ばないし、従来の客を失うことになることがなぜわからないのか不思議である。
東京駅と大阪駅、新大阪駅を頻繁に通る者として言うと、駅も本当に改装が好きで、いつも工事中である。しかし、改装が終わる度に、どんどん使いにくくなっていっている。金をかけて客を遠のけているとしか言いようがない。
その典型的な例がJR大阪駅である。以前、大阪駅には、個人経営的な飲食店が多く入っていた。ラーメン店、トンカツ店、洋食屋、カレー店などである。それが改装とともに、皆消えた。
そして、その後に入ったのはカフェテラス風の店ばかりである。カフェラス風の店があってもよいが、食べ物の好みは人様々で、バラエティーに富んだ店が色々入っていることが重要なのに、チェーン店のダダ広い店がドーンとあるだけに変わってしまった。
東京駅の構内を歩くと、特に在来線から新幹線の行く道には、以前は多くの土産物屋があった。色々な店を覗いて、土産物を選択することができた。しかし、最近は土産物屋の店が狭いスペースに数店閉じ込められ、選択肢がほとんどなくなってしまった。
東京駅でも、大阪駅でもそうだが、今、駅の大改装が行われている。そして、完成したものを見ると、とにかく、通路を広く、そして、ごちゃごちゃと並んでいた店を1箇所にまとめて閉じ込めるという発想で、駅の改修をしているように感じる。
その考えの根底にあるのは、客に利便性、客目線ではなく、いかにきれいに駅を作るかという会社目線、机の上の理論である。現実に客として買い物をしている人の立場ではなく、学校で習った理論で図面を描いているという図がそこにはある。
不況で消費者の財布の紐がきつくなっているのは事実である。それでも、よい物があれば、買うし、少し高くても、よい物は売れる。安ければ何でもよいという消費者もいないことはないが、多くの人が、求めているものは、リーズナブルな価格で、質のよいものである。
アメリカの衣料品の会社で、ギャップという会社がある。この会社には3つの系列の店がある。ギャップ、バナナリパブリック、そしてオールドネイビーである。バナナリパブリックは一味違う高級路線、オールドネイビーは低価格商品の店である。
意外と知られていないが、ユニクロはギャップのオールドネイビーの店のコンセプトを真似て商売を始め、成功したのである。そして、安売りで成功した後、ユニクロはギャップのように、高級路線の商品も手がけるようになってきた。
1つの会社で、高級、普及品、低価格と色々な路線の商品を揃えるのは大変で、誰でも真似ができることではないが、少なくても、客には様々なニーズがあるのは事実である。
従って、自分の会社や店はそのどこをターゲットにするかという明確な意思が必要であり、そこを間違えると、客は来ないし、来ても買わない。今の百貨店や駅の店は、この客目線がまったく欠如している。
店や会社ではないが、この典型がNHKである。NHKは民放にない堅実路線を支持されてきた。支持する基盤層は中年世代だった。しかし、路線を間違えたNHKは若者も取り込もうとして、民放のもの真似をして、本来の支持層が離れていくという愚をした。
自分の存立基盤をしっかり見つめ、それをがっちり取り込み、客離れが起きないようにしないといけないのに、やることなすこと、その逆をずっとしてきたのが、最近のNHKの軌跡である。
だから、首都圏や関西では、受信料の不払いが50%を超えているのである。全国平均で3割の人が受信料を払っていない。これは現在のNHKの路線が否定されているということをNHKは知るべきである。
裁判を起こして不払い視聴者を訴えている。短期的には裁判に勝てても、長い目で見れば、どんどん顧客を減らしているということを知らないといけない。
20101215
家賃の8年分の貯蓄がないと入居できないUR
筆者の知人が住まいを探していて、UR(都市再生機構)の住宅に入ろうと考え、入居条件を調べて、あまりの異常さにびっくりして、筆者に連絡をよこした。言われてチェックしてみて、その通りだったので、筆者も驚いた。
ホームページやそれぞれの住宅への入居資格を読むと、確かに、月額33万円以上の年収というのはよいとして、基準貯蓄額という条件があり、月額家賃の百倍以上の貯蓄が必要で、金融機関の証明書を提出することと明記されている。
ここ十年くらいの間にURが建てた住居は、東京では、ファミリータイプだと、月額の家賃は15万円から25万円くらいする。その百倍ということは、2千万円ほどの貯金がないと、URの建物に入居できないということである。
毎年、国から何千億円という巨額の資金を受けて運営している半官半民の組織で、こんな馬鹿げた入居条件をつけているのを、監督官庁の国土交通省も、マスコミもおかしいと言わない。それこそ、クレイジーである。
UR(都市再生機構)は元々は昭和30年、1955年に設立された日本住宅公団だった。住宅に困窮していた戦後の日本人の勤労者のために、安価に大量の住宅を建設し、供給してきて、戦後の日本人の住を支えた。
しかし、役所の殿様商売で、非効率な経営をする内に、膨大な借金がかさんできた上、これも殿様商売で、安く土地を手に入れることができず、割高な条件で土地を購入してきたために、出来上がった住宅の価格が高騰し、今では、民間の賃貸マンションより割高といわれるものがいくつも出てきた。
また、土地建物からみの公社公団がいくつもあったことから、合併や再編を繰り返し、住宅都市整備公団なとの名前を経て、今のUR(都市再生機構)となった。
URはここ十年くらいの間に、旧住宅公団が作った古い住宅を建て替え、少し洒落た建物を作り直し、カタカナの名前をつけて、結構よい価格で賃貸募集をしている。東京だと、ファミリータイプでは、家賃が17万円くらいから、20数万円と、民間並である。それでも、結構人気があったのは、単にビルを作るだけでなく、町並みを作るという仕事をしてきたからである。
最近のURのセールスポイントは保証人が不要だということと、礼金はとりませんということである。しかし、保証人は不要だが、8年分の家賃分、2千万円の貯蓄が必要だというなら、それは保証人が不要だということにはならないし、虚偽広告である。
今、民間では、保証人を友人、知人に頼みたくないという人のために、保証人は不要な代わりに、保証協会を使うという方式が広まっている。2年間で、2万円くらいの保証料を払えば、保証人になる人を探す苦労をしないので、大助かりということで、多くの人が利用している。
利用者の負担も大きくないし、これなら、無理なく誰でも利用できる。これに対して、URが求めるのは、家賃の8年分の貯金(東京だと2千万円程)と、金融機関からのその証明書である。でも、考えて欲しい。そんな貯金がある人が賃貸でURの建物を借りるであろうか。
マンションなどを買う時、価格が高い東京でも、通常頭金はせいぜい1千万円までで、4、5百万円の頭金でマンションを買うという人も少なくない。貯蓄が2千万円もあれば、普通の感覚なら、それを頭金にして、マンションを買ってしまう。
URがつけている条件は、それをクリアして、なおかつ、URの建物に入居を希望する人を求めるというものである。入居者はいなくて結構ですと言っているようなものである。だから、URの住宅は空き家が多いのかと、変なところで納得してします。
ただ、現実には多くの人はその条件を形だけは作って入居している。実際にはそんな人はほとんどいないので、入居者に嘘で固めた資料を作るように強要しているに過ぎない。こんな馬鹿げたことをさせる意味が理解できない。
筆者は2、3年前にURの建物を結構見て回ったので、色々話を聞いたことがある。資料ももらった。その時には、こんな月額家賃の百倍分の貯蓄という条件はついていなかったと記憶する。
民間で、会社が事務所を借りる時、保証料として、1年分、2年分の家賃を入れるということは珍しくない。しかし、それでも、1年分か、高々2年分である。今、URが条件につけている月額家賃の百倍というのは、年数にすると、8年余りである。誰が考えても異常である。
URに好意的に、この理由を考えてみて、思いつくのは、入居者の家賃滞納があるかもしれない。しかし、入居の時点で、貯蓄を見せることを義務付けても、滞納した時に、URが貯蓄を差し押さえることが出来る訳ではない。そうして点では、まったく意味のない条件である。
URの住宅に行ってみると、わかるのは、URの管理の悪さである。東京都の住宅供給公社などでは、各住宅ごとに管理人が常駐していて、掃除はもとより、入居者間のトラブルなどでも、解決しようと対応の努力をしてくれる。
これに対して、URの住宅では、「管理は住民同士で話し合ってしてください」という原則にしている。管理事務所にはパートの女性がいるだけである。それもいるのは、午前9時半から午後1時半までの4時間で、水曜日と日曜日は休みで誰もいない。
掃除は業者に丸投げである。この業者がURの系列の会社に丸投げされ、その会社が更に業者に丸投げする。筆者の知人がURに入居してみて、不具合が多く、入居早々に文句を言って、問題点を直してもらった。
その時、エアコンを修繕にきた業者の人は、「URは、1回来て、我々がもらえるのは、5百円なのです。普通、業者を頼むと、1回1万円の時代にですよ」と話していた。住民のために安く抑えているのではない。関連会社が搾取するために、業者を叩いているのだ。
こんなURはなくせという話は何回かあったが、旧建設省の有力な天下り先ということもあって、名称を何回か変えながら、しぶとく生き残っている。筆者はURが所有する物件を民間の業者に丸ごと売却して、管理させたら、利用者の利便は大きく向上すると考える。少なくても、家賃の8年分の貯蓄の義務付けというバカな条件はなくなるだろう。
20101130
裁判員制度問題報道に司法関係者の思惑
裁判員制度導入後、裁判員になることの大変さや、司法判断の難しさなどが盛んに報道されている。そして、最近では、死刑を求刑された被告への判断の難しさが盛んに報道されていて、死刑判決をした後の心のケアが大変だという報道もされている。
そして、テレビ局は陪審員制度が定着しているアメリカに取材に行き、死刑が出る事案で有罪判決をした陪審員がその判決ゆえに悩んでいるという話を報道している。
筆者はこの一連の報道を見ていると、その裏に、裁判員制度を止めさせたいと考える司法関係者の思惑や意図を感じてしまう。そして、そうした意図を知ってか知らずか、陪審員制度の問題を指摘し続けるマスコミの報道の仕方に大いなる疑問を感じる。
そもそも裁判員制度はどうしてスタートしたのかということから考え直さないといけない。大学で法律の勉強をし続け、社会にほとんど出て普通の社会人としての経験をほとんど経験せずに、裁判官になってしまった人たちから、社会の一般常識と大きくかけ離れた判決がいくつも出るようになってきた。
そこから、裁判官に一般企業での勤務を経験させるべきだという話や、社会人生活を経験した後でないと裁判官になれないという制度を作るべきだというような話が出てきた。そして、色々な議論の末に、アメリカの陪審員制度の近い制度を日本でも導入すべきということになった。
しかし、日本の役人、官僚は国民が選んだ国会議員が散々議論して、方針を決めても、最後の法律を作ったり、その制度を運用するための政省令を作る段階で、自分たちの利益に合致するように、国会での議論と違うように仕上げていくということをよくする。
裁判官は付き合ってみるとわかるが、国家公務員であり、その発想は公務員そのものである。裁判員制度でも、アメリカの陪審員とは似て非なる制度を作り上げた。
アメリカの陪審員制度は、有罪か無罪かを決めるのは陪審員であって、その議論に裁判官は関与できない。従って、法律の専門家である裁判官がこれは違うなという判決が出ることもあるが、それでも、その陪審員の判断を尊重しないといけない。
勿論、被告は判決に不服な場合に控訴することができるが、日本のように、誰もかれもが最高裁まで行けるという制度と異なり、アメリカでは上級審に行くのはかなり難しく、いくつかの要件を満たさないといけず、日本以上に地裁の判決の占める意味は遥かに重要である。それを国民から無作為に選ばれた陪審員が決めるのである。
この根底にあるのは、「民主主義というのは国民主権であり、問題が起きた時には、最終的には判断は国民の意思に委ねられるべきである」というである。法律も、社会常識で最低守らないといけないものが法律で、その法律も、社会の変化とともに、国民の意思で変えていくというのがその考え方である。
だから、だから、憲法でもかなり頻繁に改正が行われている。社会は生き物であり、人の常識も変わる。以前は想定していなかったことも起きる。そうした時に、素早く法律、憲法を変えて、新しい事態に合わせた法律体系にしないといけないという考え方である。
そして、裁判で争われる事案や法律問題で最後の判断をする立場の最高裁判所の判事の任命にあたっては、アメリカでは、公聴会で候補者が何人もの国会議員に徹底的に質問をされ、それに答えることで、最高裁判事にふさわしいかどうか判断される。
若かりし頃の言動なども審査の対象になり、若い学生時代に起こしたちょっとした事件や事故までものが掘り起こされ、議論される。普段、友人、知人と話している内容も、どういう人柄かということを理解する上で重要で、調査される。そして、その公聴会の様子はテレビで全土に中継され、国民もその内容を知ることができる。
これに対して日本はどうかと言えば、法律が一度できると滅多なことでは改正されない。多くの国民が困っているゴミ屋敷問題や、子供を暴力で死なせる親の問題などがその典型である。
アメリカならとっくに法律ができて、そうしたトラブルを起こす人は行政が立ち入り、ゴミを処分する権限が与えられたり、暴力親から子供を引き離す行為に出るだろうが、日本では何も起きない。官僚は自分の利害に関係することには熱心だが、そうでない事案で国民がどれだけ困っていても、何もしない人種なのだ。
テレビ番組で、「行列のできる法律相談室」というのがあるが、これなども見ていて、番組制作者の発想は、「国民の常識とはかけ離れていても、法律ではそうなっているのです。皆さん従いましょう」というトーンである。おかしなものは法律でも変えていくのが当然という発想はまったくない。
最高裁の判事についてもそうだ。国会議員の選挙の時に、最高裁の判事として不適な人には×をつけてくださいという用紙を渡されるが、アメリカの公聴会のように、その人がどんな人かを知る情報は皆無で、○も×もつけようがない。結果的に、×はつけにくいので、×がつく比率は極めて低い。
戦前の日本では大正デモクラシーではないが、もっと国民が権利を主張し、行動を起こしたが、戦後の日本では国家や権力、法律に従うことのみで、自己主張し、環境やルールを変えていこうという意識が極めて希薄である。
栽培員制度の話に戻すと、裁判官も弁護士も検事も、司法関係者は自分たちは一般の人が詳しくない法律の専門家であることで、飯を食っている。その権域は侵されたくない。だから、一般の国民が陪審員という形で、裁判に関与し、その陪審員が有罪か無罪かを決めてしまうということには、我慢できない。
そこで、日本独自の裁判員制度というのをひねり出した。裁判員制度では陪審員制度と異なり、法律の専門家である裁判官と、一般の国民から選出された裁判員が一緒に事件の審議模様を聞き、審議の後、一緒に議論して、有罪か無罪か、量刑はどのくらいにすべきか決める。
当然のことながら、裁判官は「過去の判例ではこうなっています」というように、審査基準を裁判員に示すし、議論でもリードをする。死刑判決の場合、裁判員全員が死刑判決を主張しても、裁判官が1人も賛成しないと死刑判決は出せないようになっている。
有罪か無罪かを陪審員だけで議論し、決めるというアメリカの陪審員制度とは似て非なる運営の仕方である。ただ、これでも、不完全でも、一歩前進である。重要な決定を官僚や国会議員に任せるのではなく、自分たちがその議論に関与し、おかしなものは変えていくということの第一歩という意味でも大きな変化だと言える。
にもかかわらず、最近のマスコミの報道を見ると、裁判員制度の問題点だけを取り上げている。筆者の想像だが、法律専門家がこうした問題がありますよという智恵をマスコミに提供しているとしか思えない。そして、そこには、法律関係者の意図を感じてしまう。
それは「法律は法律の専門家に任せろ」という考えである。日本では、税金を納めるのでそうだし、最近のエコポイントの還元の話でもそうだが、普通の一般国民が何か手続きをしようとすると、説明をしている書類が難解で理解できない。国民の頭が悪いのではなく、わざとわかりにくく書いてあるのだ。
理由は簡単である。わかりにくくすることで、それを教え、指導する専門家が金を稼げるようにしているのだ。エコポイントなどは、国会で決まったことなので従うが、できたらやりたくないという官僚の意図が見え見えなので、手続きを難解にして、面倒がって手続きをしない人が出ることを想定しているのである。
アメリカの友人に見せてもらったが、アメリカの納税制度は本当にシンプルである。誰もが簡単に理解できて、税理士などに相談せずに、自己申告ができるようになっている。納税も税務署や金融機関にまで行かないでも、銀行のCD、ATMなどから振り込むことができる。日本ではこのCD、ATMからの振込みは、ごく一部の例外を除いて普及しない。理由は簡単だ。それをすると、多くの税務署員が不要になるからである。
国民が考え、判断し、それで国の方向を決める話でも、裁判事案でも、納税の仕方でも、国民が決める。そうした国に早くしたい。その貴重な一歩とも言える裁判員制度をつぶそうとする動きは許すことができない。筆者はそう考える。
20101123
民主党政権誕生を推進した人は責任をとれ
先週末の新聞紙上で、北海道大学の山口教授が「自分が政権奪取を主張、推進してきた民主党の現状をみて、国民に顔向けができない」という趣旨の原稿を書いている。鳩山前首相の混迷の時にも、評論家の田原総一郎氏が雑誌上で、誕生を推進した民主党のお粗末ぶりを嘆いた原稿を書いた。2人に限らず、政治評論家や政治部の記者でも、こうした発言が目立つ。
マスコミに頻繁に露出し、日本の政治や政党、政策、政権交代について数多く発言してきた著名な政治学者や評論家のこうした発言を聞く時、筆者は大いに違和感を覚える。
筆者は経済記者として多くの企業や官僚を取材してきた。経済記者として、経済官庁の重要法案には政治家の判断が重要なので、政治家の取材もしてきた。しかし、基本は経済記者で政治は専門ではない。
だが、それでも、取材の中から、政治家や政権について多少の知識は持っている。その筆者から見て、政権与党が民主党に移れば、今日の混乱は十分に予想された。政権を担うのはそんなに簡単なことではなく、民主党には無理なことは少し取材した者ならわかる。
それを理解せずに、「自民党は駄目、民主党は歓迎」と言い続け、民主党政権誕生を推進した政治学者や評論家は、何を見て、何を考えてきたのかまったく理解に苦しむ。
自民党から民主党への政権交代は、国民が自主的に選択したものではない。マスコミの論調、つまり、政治担当の記者、学者、評論家が口を揃えて、自民党の駄目ぶりを主張し、民主党への期待、政権交代を国民に呼びかけた。
麻生元首相の漢字の読み間違い、理解違いを繰り返し新聞やテレビが報道したことなどは、自民党の選挙での敗北、民主党の勝利にどれだけ貢献したかわからない。実態は、麻生氏が特にひどい訳ではなかった。漢字を読み間違い、理解違いの政治家などこれまでにも何人もいたのに、ことさら、麻生氏だけが無能のような報道ぶりだった。
「小泉元首相が格差を拡大し、失業を増やした」という話もそうである。事実はデータを調べてもらえばわかるが、小泉政権下では、貧冨の格差を示す国際的な指標であるジニ係数はむしろ縮小し、貧富の格差は縮小している。失業も小泉政権下では減少しているのにである。
日本のマスコミは戦後、ずっと、日本の政治は二流で、政治家はどうしようもないと問題点ばかり書いてきた。そして、それに比べて、東大出の官僚や企業経営者は優れていると主張してきた。
しかし、その論調が結果的に東大出身の官僚の暴走を招き、天下りや特殊法人の膨大な無駄を招いた。経営者も優れているとマスコミは書いてきたが、今の日本企業は韓国、中国に追い上げられ、追い抜かれ、日本企業はかつての強さが見る影もなくなってきている。
選挙制度でもそうだ。中選挙区制度は派閥の温床だからと政治評論家や学者、マスコミが大合唱して、小選挙区にさせた。しかし、その結果はと言えば、国会議員が地方議員と同じように狭い地区の利益代表者に変質し、天下国家を考え、論じる政治家が消滅するということになってしまった。
マスコミや政治評論家、学者は自民党の派閥はけしからんと二言目には言い続けた。本当だろうか。派閥のどこがいけないのか。企業でも役所でも、人間が一定数集まる所には必ず派閥はできる。人間の心理である。
自民党の派閥は、派閥の権力闘争だと見るから、叩きたくなるのだ。自民党の派閥について、昔のある有力政治家は、「自民党はいくつかの派閥による連立政権だと考えた方が実態に近い。だから、かなり右の人も、社会党よりも左の人も抱えてこれて、誰かが駄目になった時に、まったく違うタイプに人間が次に首相として登場してこれるのだ」と語ったことがある。
筆者も全く同感で、自民党のよさはその幅の広さであり、派閥の長は次は自分の番だと思って、準備もし、自分が政権をとった時には、何をするかという政策も練ることもしてきた。しかし、それをマスコミや学者、評論家の大合唱で出来上がった小選挙区制度で、叩き潰されてしまった。日本の政治を壊したのはあなたたちだと言いたい。
今の日本は大きな岐路に立っている。貿易でも、国際外交でも、年金福祉問題でも、国の大きな方向をどうするかという重大な決断をしないといけない時期である。にもかかわらず、民主党政権は何もしない。今の時期は何もしないことは犯罪に近い罪悪なのである。
イギリスの保守党政権は、福祉の削減、増税という国民にとっては厳しいが、国の将来を見据えた政策を決め行動し始めた。今の日本にとって、まさにこうした行為が必要な時期なのに、民主党政権は何一つ決められないで、先送りにしている。
TPPへの加盟は内閣としての結論が出ないでいる。かつて、自民党の佐藤政権は、当時、日本の中心産業だった繊維業界のアメリカへの洪水のような製品輸出に歯止めをかけるために、繊維機械の政府による買い上げ、打ちこわしを実施までして、沖縄返還を実現した。勿論繊維業界には、機械の買い上げという形で、補償をした。
TPPの農業問題も、佐藤政権が実施したようなやり方で、援助策をとって、関税の引き下げをすればよいだけのことである。農業の自由化に反対しているのは専業農家ではない。農業に関係している農協などの関係者である。
考えれば、すぐわかることだ。スーパーで国産よりも安い米国産や豪州産の牛肉が売られているが、ほとんど売れていない。中国や米国から安い米が入ったからといって、どれだけの日本人が国産の米を買うのを止めて、外国産の米に走るか。ごく一部の人にだけ起きる現象である。
民主党政権は初めての政権運営なので、時間をあげるべきだといういうことを言う人がいる。また、どうしようもない今の菅政権についても、1年でコロコロ首相を変えるべきではないからという理由で、もう少し政権を担当させるべきだという人もいる。
しかし、その人たちに言いたい。尖閣列島での中国漁船問題や、ロシア大統領の北方領土視察問題は、鳩山前首相の普天間発言で米国との間に大きな亀裂が生じ、そこをついて中ロ両国が挑発したものだということを。
海上保安官が中国漁船の衝突映像をインターネットに流出させたことは、政府の中国に対する弱腰に対する義憤から起きたものだが、それはそれとして、官僚が政府のやることに絶望して反旗を翻すということは、国として、極めて危険なことである。こうしたことが起きる最大の原因は民主党政権が何もしないのではなく、日本という国をどんどん悪い方に持っていっているからである。
普天間問題での鳩山発言だけではない。小沢一郎は国会の場で、疑いを持たれた政治資金について、説明をしようともしない。証人喚問に応じないだけではない。証人喚問は偽証罪に問われる。だが、国会で何か説明をしないと事態は収まらないということで、政治倫理審査会というのができた。形だけでお茶を濁すだけの説明の場である。
これまで多くの政治家がこの政治倫理審査会で説明をすることで、問題をどうにか逃れてきた。そして、この政治倫理審査会は何を隠そう小沢一郎が制度作りに努力したものである。その形だけの場すら、小沢一郎は出て来ない。豪腕と言われているが、実は小心で、批判に打ち震えているのが見て取れる。それだけ、自分が有罪であるという思いが強いのであろう。
小沢一郎が何をどう考えてもよいが、まともな政党なら彼を除名したり、離党勧告をしたりして当然である。でも、民主党政権はそれもできない。除名すれば、今の政権の人気があがるのにである。
戦後の日本で教えられてきたことは、いくつもの大きな間違いがある。その1つが民主主義についてである。戦後の日本はマッカーサーから与えられた民主主義をベストのものと教えた。しかし、これは間違いで、民主主義はベストの制度ではない。
有能な独裁者がいれば、民主主義よりは遥かに効率的な国家運営ができる。13億人の国民がいて、多くの問題を抱えながら、中国が短期に急発展をしたのは、共産党独裁政権だからである。
天安門事件などで民主化運動も起きているが、あの時に、民主化運動を武力で弾圧せずに民主化していたら、多分、今の中国は大混乱の状態になっていたであろう。武力弾圧はほめられたことではないし、そんなことはないに越したことはないが、国の発展には段階というものがある。
民主主義はベストの制度ではなく、ベターな制度である。時間も手間もかかる。でも、独裁よりはましということで、近代化国家では採用されている。それだけに、国民が理解し協力し、育てていかないといけない。民主主義は60点、70点の制度なのである。
民主党政権の誕生に大きな役割を果たしたマスコミ、評論家、学者たちの大きな間違いは、民主主義を90点、百点の制度だと思い、政治に問題があると、責め立てたことである。60点、70点だと言って自民党政権を排除したら、民主党政権はマイナス30点だったというのが現状ではないか。
筆者にも経験がある。経済記者をしていて、多くの有名企業の経営者に企業経営についてアドバイスを求められた。一家言をもっていたので、助言をしたし、それが企業で実行されたりした。
しかし、自分が会社を作ってみて、わかったことは、いかに経済記者として、多くの企業取材をしてきても、あくまでも外から見た評論家であって、自分が経営してみたら、全く何もわかっていなかったということである。ずっと横にいて観察していても、自分がするのとはまったく違うのである。
20101117
マスコミの危機
尖閣列島での中国漁船衝突事件で、ビデオを流出させた神戸の海上保安官は逮捕せずに事情を聞き、書類送検くらいで処理されそうになってきた。この件に関連して、11月13日、土曜日の日本テレビ系列の番組「ウェークアップ」で、信じられない話を聞いた。
それはビデオ流失が、この海上保安官の行為と公になる2、3日前に、彼から読売テレビに連絡があり、記者が会ったところ、自分が流出をさせたという話をしたという。身分証明書を提示し、流出の動機などもきちんと話をし、話の内容に疑わしさはなかったという。
この海上保安官への取材はカメラ取材もして、やりとりも全部収録をしている。ところが、信じられないことに、読売テレビはこの特ダネ取材を報道していない。そして、海上保安官の行為が発覚し、公になった11月10日になって、読売テレビは夕方の報道番組で、彼とのやりとりの映像をテレビで報道したのである。
長年、記者をしてきた人間の感覚として、身分証明書を提示し、話もしっかりしていて、整合性のある話であるなら、固有名詞を出す出さないは、顔を出すかどうかはともかく、こういう人間が自分が流出させたと言っているという話は大ニュースであり、当然、報道してしかるべきである。しかし、読売テレビは報道しなかったのだ。
海上保安官は、読売テレビの記者とのインタビューで、記者が「なぜネットではなく、テレビ局か新聞社に持ち込むことをしなかったか」という質問をしたのに対して、海上保安官は「マスコミに持ち込んでも、政府や上からの圧力で、黙殺される可能性があると思ったので、ネットで流した」と話をしたという。
この話もマスコミ関係者にとって、非常に耳の痛い話である。一般の国民が「マスコミは政府などの圧力に屈するところで、信用できない」と言っているのである。そして、この話を聞きながら、海上保安官のことを報道しなかったには、更に責められる話だと筆者は考える。
筆者自身、体験がある。臓器移植が日本で進まない最大の理由は日本人の倫理観や死生観などではない。移植を推進する立場にある臓器移植ネットワークの会長と、その息子が組織を私利私欲で我が物にしていたから、心ある人は離れていき、移植が進まなかったのである。
この話を知り、具体的なデータもつけて、マスコミの担当記者何人にも話をした。その時の記者たちの反応は、「自分は今、移植ネットワークを担当して取材をしている。原稿を書いたら、取材ができなくなって、仕事ができなくなる。だから、自分が最初には書けない。他社が書いたら、自分も書く」というものだった。
その内に、この組織を私している話を大手の週刊誌がかなりのスペース割いてを書いた。さあ、新聞、テレビはどうするかと見ていたら、結局、どこの新聞もテレビも報道せず、この組織の私物化の話はいつの間にか、話題に上らなくなってしまった。私物化は今でも続いている。
長年、記者をしていて、取材をする立場にあったが、その後、評論家的な立場、また、協会の責任者というような立場で、取材を多く受けるようになり、多くの記者のインタビューを受けた。
その時に、優秀な記者も中にはいたが、多くの記者のインタビューを受けていて、違和感をかなり覚えた。それは、記者なら、こういう話をしたら、こう食いついてくるとか、こう話をしたら、原稿はこうなるという感覚があるのだが、結構の数の記者の反応や結果はまったく違うのである。
不思議に思って、取材をされながら、記者に質問をするようにした。朝日新聞のある記者は、どう見ても、記者タイプではないし、よい情報を得て、よい原稿を書こうという姿勢がない。不思議なので、「あなたは就職する時に、記者になりたかったのか」と聞いた。その時の、その記者の答えは、「大手銀行に就職したかったが、落ちてしまった。朝日新聞は大手で給料もよく、内定が出たので、就職を決めた」というものだった。この彼に限らず、これに類する話は多く聞いた。
筆者の時代は、記者になって人の知らない情報を得て、それを世に知らしめて、少しでも世の中をよくするという発想の下に、マスコミを受ける学生が多く、従って、マスコミだけを受けるという人が多かった。それが、今は、銀行やNTTと並行して受ける、給料もよく、社会的にも評価されたステータスとして受けに来るのである。
そして、採用担当者に話を聞くと、会社の経営層がトップ大学の学生を採用することを望んでいるので、今、マスコミでは新卒採用は東大比率がとても高い。
採用を十年以上、やっていると、企業の論理、採用担当者の心理がわかってくる。採用担当者にとっては、その会社、業界に向くかどうかよりも、一流大学の学生を何人採用したかが自分の評価になる。社長、役員にとっても、東大、京大の学生は面接をしていても、頭の回転が早く楽しい。勢い東大比率が高くなっていくのである。
しかし、頭はよくても、国のためとか世のためという発想が薄いエリート大学の学生が多くなってきたマスコミはどんどんマスコミ本来のあり方から離れていっているのである。
記者的発想がない記者が増えてくると、当然、報道内容がどんどんおかしなものになってくる。筆者が何回も書いている大学生の就職活動の話などその代表例だ。
文部科学省や厚生労働省の役人が自分の都合、利益誘導で意図的に誘導している「大学生が就職できなくて大変だ」という加工、修正された情報を何の吟味もせずに、そのまま流している。その結果、学生は不安にかられ、あせり、ストレスがひどくなっている。まさにマスコミ公害である。
裁判員裁判の話でもそうだ。最近のマスコミの報道の仕方は、「一般の庶民に、死刑判決に関与させるのは問題だ」というトーンである。そして、死刑がらみの事件になると、裁判員の人に、「死刑判決は、悩むでしょう」とばかり質問をする。質問されれば、誰でも、「まあそうです」という答えをする。すると、「裁判員は苦悩している」と報道する。
元外務省事務次官の薮中三十二氏の著書「国家の命運」という本が最近、出版されたが、その中で、薮中氏は米国や中国、韓国などとの交渉に関連して、日本のマスコミに大いに足を引っ張られた。国家の利益を損なう報道はそれこそ、非国民的ではないかというトーンで書いている。
日本とアメリカが交渉している内容について、「日本の案はこのようだ。アメリカが要求することは拒否するようだ。これでは飲めませんよね」というように、アメリカの交渉担当者に取材する。相手は内容は知らないが、そう言われれば、「もし、そうだとすれば、アメリカは飲めない」と答える。すると、記者は「アメリカは日本案を拒否。制裁も検討」と書くのだ。
今、中国、韓国との間で、日本の首相や政府要人の靖国神社参拝は重要なテーマになっている。しかし、以前は両国とも問題にもしていなかった。問題になったきっかけは朝日新聞の報道である。中国の要人に、「A級戦犯が祭られている靖国に日本の政府要人が参拝するのは問題ではないですか」という取材をし、何も知らない相手は「もし、そうなら、問題だ」という。すると、新聞では、「中国が問題視。重大警告」というような記事を書き、それが何回か繰り返す内に、両国間の重大事案になってしまったのだ。
国内案件については、色々な意見があってよいし、議論もしたらよい。しかし、外交案件にこうしたマスコミの報道で、いかに日本の国益が大きく損なわれたかということを薮中氏は本の中で書いている。筆者も同感である。
報道すべきことは報道せず、問題がないことを問題に発展させ、役人の思惑で流される加工された意図的な情報を、検証もせずに流し、世の中に害毒を流している。これを危機と言わずして、何と言えようか。
20101105
採用時期の延期は学生の負担増だ
学生の就職活動(=企業の採用活動)の時期を遅くしろということを国立大学協会が経団連などに強く申し入れなどしたことから、議論が大きくなり、総合商社が2013年4月入社の学生の採用から、採用時期を8月以降にすると決めるなど、時期の延期が大きな動きになっている。
マスコミの論調は、延期を歓迎というトーンだが、現場で採用活動を十年以上続けている者として、これはまったく事実誤認である。議論をしている人たちが採用の実情、現場をまったく知らない人たちだからである。採用時期の延期は学生の負担が逆に大幅に増えるのだ。
まず、就職活動の現状を知らない人が多いので、この実情から少し説明をすると、現状では、大学3年生(修士の院生だと1年)の夏休みから企業のインターンシップ、セミナーが開始される。夏休みなので、日にちをとって、セミナーやインターンシップができるということで、特に学生を受け入れる余裕のある超大企業を中心に開始され、今では多くの会社で行われている。
このセミナー、インターンシップは当初は理系の院生を対象に始まったのだが、それが次第に文系の学部生にまで広がり、筆者が採用を担当している会社が今年9月と10月に初めて実施した時に、学生にインターンシップ、セミナーへの参加状況を聞くと、7、8社に参加は珍しくなく、中には十社以上に参加という学生も何人もいた。
セミナー、インターンシップは7、8月から始まり、11月頃まで続く。リクルートの調査では、昨年の実績で、就職活動をする学生の半分の学生がこうしたセミナー、インターンシップに参加している。
内容は何かというと、理系の院生の場合、1週間、十日、中には2週間くらいの期間をかけて、会社の研究所などに毎日来てもらい、学生に研究のテーマを与え、研究をしてもらい、最終日近くに研究結果を発表してもらう。
文系の学生の場合、こんなに長くなく、1日とか、数日で、内容は、会社の説明をしたり、会社のイメージアップやビジネス戦略などについて学生にグループで議論をしてもらい、その結果を発表するというものが一般的である。
企業は大学への配慮の手前、採用にはまったく関係なく、会社や働くということを知ってもらうためということを言っているが、特に理系の院生の場合、長く社内に留まり、社員とやりとりをしながら、テーマを与えて研究をしてもらい、結果発表までしているので、面接・選考よりも、遥かに濃密に学生と接するし、学生がどういう人かよくわかる。
学生たちの話を聞くと、特に理系の院生の場合、インターンシップが終わった後、12月、1月、2月くらいの採用選考の時期になると、インターンシップに参加した企業から連絡が来て、会社の選考を受けるように促され、行ってみると、人事部の部課長が対応し、次に会社に行くと最終面接の場が設定されていて、合格・内定という例が少なくない。
文系の学生はここまでは行かないが、少なくても企業の人と親しくやりとりをするので、企業は学生がよく理解できるし、学生も企業の印象がよければ、本番の採用選考を受ける大きなモーティベーションになるのは当然である。
インターンシップ、セミナーとは別に、就職情報会社が主催する合同説明会や、大学の学内セミナーが9月、10月から始まる。これはまさに自社を説明し、学生に理解をしてもらうという内容で、企業説明会が学部生なら3年の秋から開始されているのである。
今の学生は就職活動で企業情報をどこから得て、企業の説明会などに予約をしているかというと、リクルートが作っているリクナビというネット上のサイトからである。リクナビ以外にも、マイナビや日経ナビなどがあるが、リクナビのシェアは9割を超えていて、ダントツの利用率である。
このリクナビは10月1日にオープンし、何千社という会社がリクルートに数百万円の利用料を支払って、リクナビ上に自社のサイトを掲載させてもらう。学生はこれを見て、企業の情報を得て、説明会の予約などを行うのである。
そして、近年、文系を含めた多くの学生がインターンシップやセミナ―に参加するようになってきたので、インターンシップ用のページがリクナビ上にできてきた。こちらは夏休みのインターンシップ、セミナーの予約に間に合うように6月オープンである。つまり、大学生は3年の6月から就職活動を開始しているというのが現状なのである。
実際に会社が会社説明会と明記して、会社の説明を始めるのは3年生の秋の11月、12月からである。この会社説明会が多くの企業の場合、3月くらいまで続く。そして、面接や選考は早い会社は11月位から、遅い会社でも、実質的に2月、3月から始まり、4月から5月の連休明けにかけて、各社は内定を出していく。
秋採用をする会社もあるし、採用が多く、学生を確保できない会社は5月以降も採用活動を続けるが、大半の主要企業の採用活動は5月、遅くても6月に実質的に終了し、それ以降は辞退者などの補充の採用活動である。
選考、内定がいつに時期かというと、数年前までは、理系の院生対象は秋から12月、1月までで、文系の学部生対象は多くの会社で、2月から4月にかけてだった。しかし、数年前から国立大学協会から経団連などに時期を遅くするようにという申し入れがあったため、ここ2年程は理系の院生の採用活動が大幅に遅くなり、文系の学生の時期と重なってきた。
選考は4月1日以前には行わないようにという話があるので、ここ1、2年は、実質選考は2月、3月に行っても、内定は4月1日以降という会社が増えてきた。ただ、これは経団連加盟企業に対する経団連としてのガイドラインなので、加盟していない企業も多いし、外資系企業はほとんど加盟していないので、2月、3月に内定を出す会社も少なくない。
そして、経団連加盟企業、大手企業だが、こうした会社は本音と建前をきれいに使い分けている。ガイドライン上は4月1日以前には選考ができない建前になっているが、それまで何もしないと、よい学生は他社にとられてしまう。でも、立場上、ガイドラインを守らないといけない。その本音から出たのが、リクルーター制度であり、上記、セミナー、インターンシップである。
セミナー、インターンシップの話は上に説明したが、リクルーター制度というのは、入社2、3年から5、6年の若手社員に、自分の大学の後輩にコンタクトをとらせ、個別に食事をしたり、お茶を飲んだりして会い、実質選考をする制度である。
リクルーター制度は採用数の多い、大手銀行から始まったが、今は、メーカーでも多くの企業が採用している。若手の社員は自分の出身大学を中心に後輩に会い、よい学生がいれば、人事に報告する。リクルータ―が3回会い、それで合格なら、次は人事の部課長の面接であり、その次は最終面接である。
若手社員は学生と接触し、よい学生を人事にあげてくることが仕事で、この時期、本来の仕事はしない。よい学生をあげてくるかどうかが査定で賞与に連動するから、本人たちも必死である。
昨年、学生を面接していて、実際に学生から聞いた話では、リクルーターと2月、3月に接触し、人事の人とも会い、最終面接が4月1日で、その日に大手銀行や生保から内定を得たという学生が何人もいた。
また、面接で会った一橋大の男子学生は会社の説明会には一切参加していなくて、5社で最終面接まで進んでいると言った。彼に話を聞くと、一橋大生になると、リクルーターからの連絡が降るように来るので、待っていれば、企業から連絡があり、選考が進むので、あえて企業の説明会に行く必要がないと話していた。
こうした現状の中で、大企業が内定出しを4年の8月以降にずらすと、何が起きるかである。3年の夏から秋にかけてのインターシップやセミナーがなくなるとは思えない。4年の夏から秋にかけてでは遅すぎるからである。つまり、学生の就職活動はリクナビのインターシップ用のサイトがオープンになる3年生の6月から始まる。
そして、3年の夏から秋にかけて、インターシップやセミナーに参加する。企業説明会は現在の11月、12月からというのは少し遅くなるだろうが、それでも、3年の終わりの時期の2月、3月には始まると思う。そして、この時期からリクルーターが跋扈し、実質選考は春になり、形式的な内定出しが8月という感じになる可能性が高い。
つまり、大学生の立場に立つと、3年生の6月から就職活動が始まり、終了は1年以上先の4年の8月である。現在の大学生は4月、5月に就職活動を終え、4年の夏休みはのんびりと卒業旅行とばかりに多くの学生が旅行をする。海外に行く学生も多い。ゆっくり実家に帰省する人も多い。
しかし、2013年4月入社の学生からは、大学生は3年と、4年の夏休みをともに就職活動にあてないといけなくなり、旅行や帰省どころではなくなってくるのは必至である。
リクルーターは会社の仕事をしないで、よい学生を探す作業である。人員の多く、余裕のある大企業はリクルーターを使えるが、中堅の会社では、それは当然、できない。つまり、採用活動時期を遅くすることは採用戦線で、大企業が本音と建前を使い分け、好き勝手をし、中小企業は決定的に不利になるということでもある。
就職活動については、社会問題化をしたということで、この問題に関与していない多くの評論家、識者、学者、マスコミなどが好き勝手なことを言っている。しかし、そのほとんどが実態を知らない、ナンセンスな議論である。採用を遅らせろという国立大学協会の申し入れ自体が一番ナンセンスなのである。
筆者はずっと言っている。就職戦線の混乱をなくすのは簡単だ。それも大学側の行動だけで、問題は解決する。それは大学生にきちんと成績をつけ、点数が届かない大学生は落第させることである。学生と面接していて、大学からお情けで卒業という学生が有名大学で3分の1以上いる。彼らを落第させると、企業は怖くて、早期採用活動などできなくなる。卒業間際の2月、3月に採用活動を行うようになるのは必至である。
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