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20101101
いじめられっ子の親に責任はないのか
群馬県で愛知県から転校してきた小学校6年生がいじめに耐えられずに、自殺をしたということがあり、親がマスコミのインタービューに、「学校に何回も頼んだが、何も対応してくれず、子供が自殺に追い込まれた」と答え、マスコミは学校の責任を追及している。
こうしたいじめられっ子が自殺をし、親が学校の対応に文句を言い、マスコミが学校を攻撃するというパターンはこれまでにも、何回もあった。こうした報道を見る度に、筆者はいつも首を傾げてしまう。
確かに自殺した子供は哀れで、何とか救えなかったかと思う。しかし、同時に、その自殺した子の親は何をしていたのかと言いたい。まず、いじめがあった時に、どう対応するかというのを教えるのが家庭教育だ。
学校は知識と集団生活の規律を教える所で、人間が生きていく上での智恵は学校ではなく家庭が教えるものである。しかし、今の親はこうした家庭での教育をほとんどしていないだけでなく、それを学校に要求し、満足できないと、学校を攻撃する。
親の2番目の役割は、家庭や家族に危機があった時に、それに智恵を働かせ、どう対応するか考え、実行することである。今の親はこの家庭危機管理の意識が全くと言ってよいくらいない。「関係者に問題を指摘した。それに対応しなかった学校、警察が悪いのだ」という論理である。家族に危機に自分が自ら動くという発想が皆無なのだ。
小中学生だけではない。男性俳優と合成麻薬を一緒に飲んで急死した30歳前後の女性の親が、男性俳優を許せないというコメントをずっと言い続けている。
死亡というのは悲しいことだが、この女性は覚醒剤や合成麻薬をこれまでにも何回か飲み、良からぬ組織の人と付き合いがあったと報道されている。こうしたことがあったので、裁判員裁判では、「女性にも問題があった」として、俳優の刑が思ったより軽い判決となった。
若い女性が客を膝枕の姿で、耳掻きをしてくれる店があり、そこで働いていた女性が、通い詰めた男性客にストーカーされ、殺されるという事件があった。理由は何であれ、人を殺すのは言語同断だが、この店のビジネス自体、客に思わせぶりの対応をして、常識よりも高い金をとることをしている、いわば風俗営業である。
ここで働いていて、勘違いした客に殺されたとなると、働いていた人に百パーセント問題はなかったと言えるのだろうか。筆者なら、いくらよい稼ぎになっても、自分の娘がそうした店で働きたいと言ったら、殴ってでも止めさせる。危険に出会わないように対応し、子供にもそれを回避するように教えるのが親の務めではないか。
しかし、このケースでも、親は自分の子供がそうしたビジネスで働いていたことで危険と隣り合わせだったという認識がなく、犯人に極刑を望んでいる。親とは何かを考えさせられてしまう。
そもそもいじめがどうして起きるのかということである。筆者も遥か昔だが、中学3年生の時に、家庭の事情で転校し、いじめにあったことがある。筆者が遭ったのは、クラス全員が3ヶ月間、口をきかないというものであった。
理由は簡単で、転校してきた生徒がいきなりクラスでトップの成績をとった。そうすると、それまでクラスで首席で、人気者だった子供が、自分の立場がなくなってしまい、その子が音頭をとって、半ば命令的にクラスの全員に、筆者に口をきかないように指導したのである。
筆者はこのいじめに遭い、他の人間が口をきかないなら、自分もきかなければよいのだと思い、こちらから一切の働きかけはせずに、淡々と授業を受けた。教師は普通に授業をしているのだし、それを聞いて勉強はできる。
休憩時間は本を読んでいればよいし、放課後はすぐに下校し、自分で一人で遊べる場所を探せばよいだけである。筆者の場合、その中学校の地区に大きな川があり、広い河川敷があったので、放課後はそこで寝そべり、川面と空を見つめ、時間を過ごした。思い出しても、結構きつかったのは事実である。
当時は塾などほとんどなく、放課後は子供同士遊ぶのが当然の時代で、家に早く帰れば、親がいぶかしがる。親に心配をかけないためにも時間をつぶし、気分転換をした上で、家に帰っていたのである。だから、親も教師も、このことは知らない。
同級生との関係は、筆者がそのいじめに何ともないのだという反応をしていると、次第に、いじめを指示した子ではなく、ある子が勉強でわからないところを教えてと言って、筆者のところに来るようになった。そして、それをきっかけに、他の子も同じような行動をとるようになり、最後には、いじめを指示した子だけが孤立するようになった。
自身の体験だけでなく、身の回りの家族やその友達などでのいじめのケースを多く見聞きして、なぜいじめが起きるのかを考えてみた。筆者の考え方は以下の通りである。
まず、日本は戦後、戦争の負けた体験から、世界のどの国とも仲良くしよう、そうすれば、戦争などを体験しないで済むと考えた。そして、戦後の教育で、「人類皆、兄弟。皮膚や人種は違っても、皆同じ」「男性と女性も同じ」と教えてきた。その結果、集団の中に異質な者がいると、異質なものが変で、それを排除しようという動きとなる。
日本人は元々は中国、朝鮮、アジアから多くの人が渡ってきてできた人種混合社会であった。だから、江戸時代までの日本人は、相手が西洋の人であろうとアジアの人であろうと、上下など考えずに対等に付き合うという発想だった。
それが、明治維新になった、多くのアジアの国が西欧諸国の植民地になっていった状態を見て、維新政府の人たちは富国強兵をしないと、日本も植民地にされてしまうという強烈な危機感から、日本は優れた民族で、万系一世の天皇の支配の下に歴史ある国を作ってきたという話を作り、外国の翻弄される中国や朝鮮を下に見る価値観で教育をした。
質の違いは理解しつつ、その差を理解し、その上で、仲良くしようとしてきた江戸時代までの日本のあり方があったところに、明治維新で、急激な西欧化に向かう上でのアジア軽視の姿勢があり、戦後はそれが、差は認めない戦後の教育と、価値観を大きくぶれたのである。
人材派遣の大手、パソナの南部代表は子供の教育を考え、家族の住まいをアメリカに移した。初めてアメリカの学校に行った日に、学校から帰ってきた小学生の子供の学校での様子を聞いた。その時の子供の話は「先生は私を他の子供の紹介するにあたって、『他の子との違いは何か話をしてください』と言った」であったという。
この子供の話を聞いて、南部さんは「さすがアメリカだ」と感心したと筆者に話をしてくれた。文化や人種、宗教などから人間には差がある。習慣、価値観も違う。それを認識し、互いの立っている場所が違うことを認識し、その距離を埋める努力をするのが、交流である。日本のように「差はない」という話から入るのとはまったく違う。
男女も一緒で、女性は妊娠出産をするという男性と違うことがある。体も男性は瞬発力に優れているが、女性は忍耐力に優れ、同じことを長くすることに対する対応力があるというように差がある。この差を教えることから、思いやりが生まれ、職場などでの配置などに配慮が出てくるのである。
勿論、個人差はある。女性で男性よりも筋肉ムキムキの人もいるし、女性よりもか弱い男性もいる。しかし、集団としての差は明らかにある。この差を認識した上で、色々な施策をしないといけないのに、差がないと教えた戦後教育の問題点は大きく、それがいじめの1つの要因であると筆者は考える。
いじめのもう1つの原因は、現在の教育である。受験の難しさや質が筆者の時代と今とで大きく変化しているようには思わない。受験問題を見ても、筆者の時代よりも難しくなっている訳ではない。問題は、それを教える教え方なのだ。
筆者の時代は、まず、ことの本質から教えた。その本質を理解した上で、それを問う問題をした。今は違う。まず、問題から入る。そして、大量の問題を解いていくなかで、本質を理解しろというやり方なのである。
問題から入っていく教育の仕方が何を生むかというと、大量に問題を解かないといけないので、膨大な時間がかかるということである。そして、本当に優秀な人は問題を解く中から、本質をつかむが、普通の人は問題を解くテクニックだけ覚え、本質が理解できないのだ。
だから、受験対策はできるが、本当の意味での本質が理解できていないので、少し違うケースに出会うと、対応できないのである。司法試験に受かった司法修習生の多くが実習についていけずに、落第するというのは、この教育のあり方から出ている。
膨大な過去問を解かせるというやり方は、子供から時間を奪う。今難関中学校に受験する子供は小学校5年、6年と、1日に十時間の勉強をしている。遊びもできずに。当然、ストレスがたまる。頭がよく、要領の良い子が、自分のストレス発散で、出来ない子、ぐずぐずしている子をターゲットにしているという話をよく聞く。
いじめに対する親の対応の仕方の話に戻すと、子供がいじめられているのを認識して、対策をとった親の話は少なくない。
テレビで活躍する上沼恵美子は自分の子供がいじめられているのを知り、いじめっ子が1人でいるところを捕まえ、その子供の手首を捕まえ、きつい顔で相手を見つめながら、「今度うちの子をいじめたら、あんたの腕をへし折るからね」と言って、いじめを止めさせたという。
筆者の知人で、子供のいじめに遭遇し、トラブルを避けるために、私立の学校に子供をさっさと転校させた親も少なくない。母親がパートに出れば、月に十万円にはなる。それで、子供の私立の学費は出せる。私立は問題児を退校させることができるが、公立学校はできないのだ。その差は大きい。
20130722
社民党、生活、みどりの風に、国民は「不必要」という審判をした
参議院選挙は予想通り自民党が勝ち、3年間で日本をダメにした民主党は、当然のように、壊滅的な敗北をした。民主党が政権を取っていた3年間は極めて重要な時期で、この失政を取り戻すには5年、十年がかかるくらい、日本にとって大きな損失だった。
地震対応も原発事故対応も、民主党政権でなければ、全く違う展開になっていたはずである。先日、亡くなった福島原子力発電所の吉田元所長のほとんどの時間は、当時の菅首相との対応を使われ、肝心のしなくてはいけないことに時間が取れなかったという。
こうしたことがいくつもあるので、国民の怒りは収まらないのだ。
自分たちの誤り、失敗を心から反省して、それを行動に示せば、今回の選挙結果も全く異なったものになっていたはずである。
だが、民主党の幹部は国民が何を怒っているか、理解していない。だから、自らの失政を全く反省する姿勢を示そうとしない鳩山や菅のような元首相が、今でも問題ある言動をしているのである。これでは、怒りを助長させているだけである。
日本のためにも健全な野党、政権を争える政党は自民党以外にも必要なので、野党の再建は重要課題である。
そのためにどうすればよいかといえば、今のように、政権を取るために主義主張がまったく違う人間が集まったという今の民主党の組織を解党して、同じような考えの人たちで党を作り直すのがてっとり早いし、再生の近道だと私は考える。
これだけの逆風の中で、頑張って当選するような議員もいる。維新もみんなの党も単独では政権は取れないし、自分たちの主張は政策として実現できないのだから、そうした人たちと新しい党を作り直すような発想に立つべきである。
今回の選挙の大きな意義の1つは、民主党の没落に加えて、小沢一郎の生活の党や、何を考えているのかわからない、みどりの風は議席すら獲得できなかったことにある。社民党はかろうじて1議席を得たが、存在すること自体意味がないと思える政党に、国民はノーを突きつけたのである。
社民党などは、党首の弁護士特有の詭弁だけが目立つ党で、政府や他党の批判はするが、自分が政権を取ったら、何をどうするという発想も行動もない政党は早く消えてなくなるべきである。
社民党はバカの1つ覚えのように、憲法改正反対を言い、憲法改正のための国会での両院で議員の3分の2の賛成が必要という条項を死守すると言う。だが、この発想が国民を無視し、国民に意思表示の権利を奪っているということに気がついていない。
社民党の考えに立つと、国民の6割、7割の人が憲法改正に賛成でも、その改正を求める人が国会の両院で3分の2の議席が取れないと、憲法改正ができないということになる。
間違ってはいけない。主権は国会議員にあるのではなく、国民にあるのである。
憲法改正に限らず、重要事案は国民に判断を仰ぐという姿勢こそが民主主義で、国民に意思表示をさせないという考えが、いかに傲慢で、国民をバカにした発想かがわかっていないのか、社民党の幹部はわかっていないのだ。
「国民は詳しいことは知らないので、われわれが考え、国民を正しい方向に導く」 こういう発想は東大出の人に多い。政治家にも官僚にも多くいる。でも、こうした人は民主主義を否定しているということに気が付いていないのである。
憲法改正も、国民投票の結果、現状維持で良いという人が過半数になるかも知れない。それはそれで良い。国民の意思だからである。国民に判断させないという考えが間違えなのだ。
ミニ政党の乱立は国会議員5人、全国で投票者の2%の投票があると、政党として認めらるという規則があるからである。ミニ政党は乱立しても、国民には何の役にも立たない。国会では、ミニ政党は無視されるだけだからである。
規則を変えて、投票者の1割、国会議員十人以上の双方を満たさない組織は、政党と認めないとすれば、ミニ政党の乱立は終わるのである。早く改正すべきであろう。
先の都議選に加えて、議席を伸ばした共産党が、得意満面で、自分たちが支持されたと語っている。でも、これは勘違いもよいところだ。
共産党が議席を増やしたのは、その言っていることが支持されたからではない。政権党をチェックし、問題点を指摘するような政党は必要だが、民主党にそれは期待できない。それに代わる政党がないので、言ってみれば、「仕方なく共産党に入れた」というような人たちが投票したのである。それを忘れてはいけない。
公明党も議席を伸ばした。公明党は創価学会の政党ということで、信者以外の支持の広がりがほとんどない政党だが、今回は会員以外の支持も取り付けた。
それは、政権与党の一員ということに加えて、憲法改正に慎重な姿勢を持っていること、福祉に力を入れて来たことから、政権内で自民党を補完したり、ブレーキ役になってほしいと思う人が入れたということである。信者が増えたという訳ではない。
公明党の幹部は、それを知っているので、質問をされても、そうした役割に期待をしてほしいという発言をしている。「自分たちの主張が認められた」と、さも、自慢げに話す共産党の幹部とは姿勢が全く違う。
共産党は、なぜ、議席が増えたのかということを謙虚に分析し、次の選挙に備えないと、野党が再編され、強い野党が出現するようになると、あっという間に議席を減らすことになるということを理解すべきである。
20130719
子宮頚ガンワクチンを批判するマスコミの矛盾
子宮頸ガンのワクチンによる副作用で苦しむ人たちが、子宮頸ガンワクチンの投与停止を訴えたこともあって、マスコミは子宮頸ガンワクチンは問題ありで、投与を停止すべきだという論調になり、子宮頸ガンワクチンの普及の努力をした三原じゅん子、松あきらという国会議員を攻撃までしている。
私はこのマスコミの姿勢の大きな疑問と矛盾を感じる。
子宮頸ガンは性交によってウイルスがうつり、ガンを発症すると、死に至る危険性が高い病気である。そして、アメリカ人の男性では、半分の人がウイルスを持っていると言われているもので、オーストラリアでは、女性が高校生になると、ワクチンの投与を義務付けている。
日本でも、子宮頸ガンで死に至る人が多くなってきて、女性団体などがオーストラリアのように、ワクチンの投与を義務付けるべきだという声が強くなり、国や地方自治体が費用を助成するようになってきて、投与が進んだ。
そして、「ワクチンの投与の義務付けや公的な助成をすべき」という報道を数年前に盛んにしたのは今、ワクチンの副作用を問題にしているマスコミそのものである。新聞もテレビも雑誌もそうしたトーンであり、ワクチンの投与に反対したマスコミ報道を見た記憶はない。
そのマスコミが今、ワクチンを攻撃し、ワクチンを推進した人を攻撃しているのである。言ってみれば、自分の言ったことを隠して、自分に唾をしているのがマスコミである。
そもそも、日本では薬に対する基本的な考えが間違っている。
昔はよく言ったものだが、「薬は薬にもなるし、毒にもなる」。1万人に投与した時に、9千995人には効いても、5人には効かず、逆に副作用があったりする。人間は特異体質の人や特殊アレルギーがある人もあり、他の人がなんでもないものに反応し、重症な副作用を発症する人もいる。それが人間だし、薬である。
「薬には副作用があります。自分が特異体質の人はそれに気をつけ、自分や家族で注意をしてください」。そう呼びかけないといけないのに、「夢のような話」をして、薬のプラス面ばかり強調するので、国民も注意が怠るのである。
そして、行政は分けて考えるというのが不得手である。というか、戦後の国や地方自治体は1つの考え、ルールで全部のものを取り仕切って来た。そして、99%の人には有用なものでも、何かトラブルが見つかると、1%の例外のために99%を封印してきた。
生レバーを食べることを禁止したことなどはその例である。問題を起こした業者を厳しく取り締まり、罰すれば良いのに、全部だめということにするのだ。
大分前の話だが、和歌山で祭に出されたカレーに毒が入っていて人が死んだ時、全国の自治体で祭を中止にしたのなどは、一律主義の行政の姿勢を示す良い例である。
ものごとを分けて考えようとしないし、国民も「おかしい」という声をあげずに、行政の決定に従うのだ。
行政がなぜ、そうするか。理由は簡単である。一律主義の方が統治が楽だからである。例外を認め、細かく対応しようとすれば、手間とコストがかかる。そして、もう1つの理由は、マスコミが行政を攻撃するから、その攻撃から役人は自分の身を守ろうとするのである。
生レバーを役所が禁止にせずに、また死者が出たら、マスコミはまず間違いなく、「役所が禁止にしなかったので、また、死者が出た」と報道するのは間違いない。
役所の規制がおかしいと言いながら、役所の規制にお墨付きを与え、規制するように報道するのはマスコミそのものである。「役所は何をしていたのだ?」これがマスコミの常套句である。
長年、役人と付き合ってきた私が感じることは、役人はマスコミに攻撃されると、頭を下げ、すみませんと言いながら、「これでまた、権限が増えた」と笑っているのである。
ワクチンの話に戻すと、国民にワクチンを受けないことのディメリットと、特異体質の人には副作用があることを伝え、基本は行政が費用などを助成しながら、特異体質の人や反対論者には、受けない自由を認めることである。
但し、受けなかった人は、後で、子宮頸ガンの病気を発症しても、公的な助成を受けられず、健康保険適用もダメというようにすることである。どんな選択をしようと、それは個人の自由だが、その結果は自分で責任を持つという考えである。
かつて、伝染病でワクチンを義務付けていて、副作用が問題なって、ワクチンの義務化を止めたことで、その伝染病にかかり、障害が出る人が何人も出たということがあった。こうした愚は二度と起こさないようにしないといけない。
20130716
9割の人が嫌う理由
先に「9割の人が嫌うタレント」がCMに出まくっている話を書いたが、では、何故、多くの人がそのタレントを嫌うかと言えば、多くの人が共通の理由を挙げる。
それは「目が怖い」ということである。
少し前に、東京の地下鉄の通路の貼られている地下鉄のPRポスターに武井咲がキャラクターとして使われていた。そのパスターの何枚もに悪戯書きがあった。それは武井咲の目が見えないように、目の部分を消していたのである。
何故、そんなことが行われるのか高校生に聞くと、「目が怖いので、毎日通る所にポスターがあるのが目ざわりだと皆言っているよ」と言う。
テレビのトーク番組で話をしているのを聞いたことがあるが、頭が悪いだけでなく、親が何も躾ていないことが丸出しだった。でも、そんなことよりも、多くの人が顔や目から、どんな人間か直感的に判断しているのである。
話では、高校時代、有名なスケバンだったという。確かに、頷ける顔である。美醜の問題ではない。どんなに美形でも、性格や生き方が悪ければ、人相は悪くなるのだ。
筆者は仕事で何万人もの人にインタビューをして来た。タレント、政治家、官僚、企業経営者、企業で働く人、労働組合の幹部から、名も無い一般の人まで。そして、その後、企業の採用担当として、十年以上にわたって大学生3万人の面接をして来た。
そうした経験があるせいか、どんな人でも、顔や表情を見ると、その人の生き方や人間性、心持などが見えて来る。テレビに登場する人でも、会ったことがなくても、画面に出て、少し話をしていると、その人が見えて来るのだ。
取材で共産党や旧社会党の幹部に何人も付き合ったが、顔も言動も信用できない人が多かった。今でも、直接会ったことがない人でも、政党の幹部などがテレビに出ると、この人は信用できるかどうか、8、9割方わかる。
共産党や旧社会党の人が何故、信用できないかと言えば、きれい事を言い過ぎなのである。 世の中はきれい事では通らない事が多い。例えば、福祉の充実を言えば、耳触りが良い。でも、年間の税収が40兆円しかない国で、福祉には年間124兆円の金を使っている現状を知れば、福祉の充実よりも、より重要な部分への傾斜配分による削減の方が国民の理解が得られる。そうしたことを言わないで、福祉の充実を言う人を少しものを考える人間は信用しない。
左翼系の人間は、耳触りの良い言動で庶民の支持を得ようとするのだが、自分が権力を持った途端に傲慢になり、自分よりも下の人間を見下す例をいくつも見て来ている。
そして人達は、選挙ポスターなどでも、顔が笑っていても、目が笑っていない。目は心の鏡と言うが、正にそれを表している。
政治家や経営者はどうでも良いが、タレントの場合、テレビ局や広告代理店が選んで視聴者に押し付けて来るので、国民は嫌と思っても、目にしないといけない。
それだけに、所属するプロダクションに力があって、その力でCMに出まくっているのは、視聴者は苦々しく思いながら、見るしかないのである。
別のプロダクションで、男性のグループを売りだし、番組やCMにこれも毎日のように出ている所があるが、それらのタレントを個々に見ると、魅力があると感じる人はほんの少数で、普通に生きている人なら、誰も振り向きもしないであろうというタレントが多い。
その証拠に、グループが解散されて、個々に活動を始めると、ほとんどが消えて行ってしまっている。
今、テレビ局は大きな曲がり角に立っている。視聴者のテレビ離れが進み、崩壊寸前なのである。今のようなどうしようもない番組ばかりを放送していれば、視聴者に見放されるのは当然で、「9割の人が嫌いなタレント」を使い続ける姿勢は、それを加速させていると言える。
20130715
9割の人が嫌いなタレントをCMに使う会社の愚
(特定のタレントが集中して出ているCM)
テレビを見ていると、特定の少数のタレントが様々な会社のCMに出ている。企業の商品のCMというのは、商品を売るためのもののはずが、タレントばかりが目立って、何という会社の、何という商品かという印象はほとんど残らないのに、多くの会社が大枚を使いながら、宣伝効果のないCMをせっせと作って流している。
私自身、制作責任者として、TVCM作りに携わったことがあるが、最近のCMは、使っているタレントにも工夫がないし、CMの中身をお粗末なものが多く、企業の宣伝部の担当者の質が劣化したとしかいえないCMが目立つ。
だから、私自身はCMが始まると、テレビのリモコンの「消音」ボタンを押して、画面から目をそらし、番組が再開されると、音を戻すようにしている。
特定のタレントがCMのキャラクターに多く使われることはこれまでにもあったが、かつては、多用されるタレントは人気者だった。しかし、今の特徴は、ほとんどの人が「嫌い」と感じるタレントを企業が多用していることである。
友人、知人、周囲の様々な年代の人に聞いても、AKB48については、9割の人が嫌いだと答える。しかし、AKBの場合、5%くらいの熱狂的なファンがいて、その人たちがCDを買ったり、コンサートに出掛けたりするので、CDは売れているし、コンサートは満員である。
でも、5%の熱狂的なファンはいるが、9割の人が嫌いという彼女たちをCMに使う会社は、9割の消費者に不快な思いをさせているということに気が付いていない。
テレビ局もAKBの話をよく取り上げるが、ほとんどの人がAKB48を嫌いだという認識がなく、「人気者」として、話題を取り上げている。でも、投票で誰が1位になったというような話は、ほとんどの一般の人は「ばかな話」として、受け取っているのだ。
AKBには、9割の人が不快感を感じていても、5%の熱狂的なファンがいる。
これに対して、今や、毎日TVで、何社ものCMに顔を出す武井咲と剛力彩芽については、9割の人が嫌いな上、熱狂的な5%のファンもいない。だから、彼女たちが主役を演じたドラマは視聴率が取れないし、CDも売れないのだ。
では、なぜ、宣伝効果もなく、ほとんどの人が嫌いなこうしたタレントを使うかといえば、彼女たちが所属するプロダクションに力があり、広告代理店に圧力をかけ、広告代理店の勧めもあって、企業もCMに使うのである。
CMタレントの誰を使うかで、製品の売れ行きにどれだけ影響があるかは、測りにくいので、誰を使おうと、サラリーマンの宣伝部員は責められることはないから、宣伝部の担当者は真剣に誰が自社の製品に相応しいかなどと考えたりしない。
かくして、9割の人が嫌いなタレントのCMは、今日も何本も流されているのである。
私自身、マスコミに長く席を置いた者としての反省を言えば、仕事が忙しく、付き合う人が仕事中心に限定されるので、どうしても、その世界で通用するものの考え方、その世界の常識でものを考えてしまいがちである。
それがそうした世界を卒業して、普通の人たちと話をするようになると、自分がそれまで抱いていたマスコミや代理店の常識が、いかに世間から乖離していたかわがわかり、愕然とする。
そうした体験をした者の反省から言えば、マスコミや代理店で働く人は是非、普通の人たちと話をし、その人たちが何を考えているかを知る努力をもっとしてほしい。そうすると、ものの考え方が大きく変わることは、経験者として保証しよう。
20130708
電車やホームでのスマホ使用規制が進まない理由
ネットの書き込みを見て、びっくりした。
質問するサイトで質問者が「携帯は電車で使用規制になっているのに、なぜ、スマホは規制になっていないのか?」と質問し、回答者の多くも使用規制になっていないという前提で、「電磁波の脳に与える影響が科学的に証明されていない」とか、「これだけ便利なものは規制にできないのだろう」というような答をしていて、スマホは規制対象でないという前提で議論をしている。
電車の優先座席でなぜ、携帯やPC、スマホなどの電子機器の使用を規制されるかといえば、話し声がうるさいということもあるが、電磁波が発生して、ペースメーカーなどに影響を与える恐れがあるということである。脳に障害が出る恐れがあるという議論もあるが、こちらは専門家の間でも賛否両論がある。規制の論拠は主にペースメーカーである。
携帯と同じように電磁波が出るスマホの規制が進まず、というよりも、ほとんどの人が規制対象でないと思っている最大の理由は電鉄会社の規制についてのアナウンスや電車のガラスや壁に書いてある文言が間違っているからである。
そこには「携帯」の文字はあるが「スマホ」の文字はない。だから、ほとんどの人がスマホが規制対象ではないと思っているのである。
先日、電車に乗っていて、回ってきた車掌が優先座席でスマホを使っている乗客に、「使わないでください」と言ったら、言われた乗客はびっくりした顔で、「エ、いけないの」という顔をしていた。
電鉄会社の規制を呼びかける文言やアナウンスが「携帯」と言っているのは、マニュアルができた時に、スマホはほとんどなく、その後のスマホの急速な普及に、単に電鉄会社が対応していない怠慢なだけである。
先日、電車に乗っていて、優先座席でスマホをずっと使っている人がいるので、連れに「常識がないね」という話をしていたら、降りがけにその若い女性は、私にではなく、私の連れに耳元に小さな声で、「携帯は電磁波が出ているから規制されているが、スマホは電磁波が出ないように工夫してあるので、規制の対象ではない」と言って、電車を降りたという。
最近は東京では、電車の遅延が多い。その最大の理由はホームでスマホを使っていて、電車に接触する事故が起きて、電車が止まることである。
街を歩いていても、歩きながらスマホを眺めて歩いていて、人とぶつかりそうになる人を多く見かける。スマホ公害があらゆるところに広がっているという感じである。
こうした問題を電鉄会社も政府もなにもしないでいる。そして、規制を呼びかける適切なアナウンスもないので、多くの人が携帯は規制されているが、スマホは規制対象ではないと真剣に思っている。
これだけ、皆がやりだしたのだから、もう規制は無理という人もいる。でも、私はそうは思わない。どれだけ普及していること、流行っていることでも、日本は政府や役所、電鉄会社が「スマホも携帯と同じ規制対象」というアナウンスをすれば、あっという間に使用は止まる。
自転車による人身事故が多くなり、多額の賠償金を命じる判決が出るようになって、やっとマスコミが取り上げだした。
でも、こうなった最大の原因は警察が長い間、自転車の無謀運転や無灯火運転を取り締まらなかったことにある。かつては取り締まっていたのに、途中で止めたのである。そこから無謀運転が急増し、甚大な事故につながるようになったのである。
スマホを第二の自転車にしてはいけない。一日も早く、政府や電鉄会社の適切なアナウンスを望むものである。当局が呼びかければ、日本人はそれに従う人種だからである。
20121203
トンネル事故原因は老朽化ではなく、人災
中央道笹子トンネルの事故について、元道路公団の高速道路会社は、事故原因は設備の老朽化によるものだと説明し、マスコミをその通り報道している。私はこの道路会社の説明もおかしければ、それをおかしいと言わないマスコミ各社も不思議でたまらない。
設備の老朽化を言えば、新幹線だって老朽化だし、四十年以上経って問題なく使っている建物や施設はいくらでもある。古いか新しいかが問題なのではなく、それをどうメンテナンスをして、できるだけ長く問題なく使って行くかが、人間の知恵であるはずである。
今回、どうして事故が起きたかについて、素人目線で見ると、3つの理由が見えて来る。
最大の理由は設計上の問題である。幅1.5メートル、長さ5メートルで重さが1トンもあるコンクリートパネルを、片方は棚に乗せた状態、もう片方は左右1ヶ所の金具で留めただけであるという構造自体、大問題である。
この事について、設計の専門家は「設計上問題ない」という。しかし、それはおかしい。これだけ重いものなら、数ヶ所、金具で留めるという対応があってしかるべきである。
阪神淡路の大震災の時、一本足の高速道路が軒並み倒れた。
私はそれより以前、一本足の設計を見て、地震が来た時に倒れないかと担当者に聞いた事がある。この時、道路の責任者は「関東大震災クラスの地震が来ても大丈夫」と笑って言った。でも、現実は軒並み倒れたのである。
素人が考えても、一本足は不安定この上ない。土台を台形にするか、二本足にするという設計にするのが安全を考えれば当然なのに、そんな常識を彼らは持っていないのである。
自然は人間の予想を超える事を時として起こす。だからこそ、設計は計算に頼らず、素人が考えてもより安全という設計にしないといけないのは自明の理なのに、しないのだ。
2番目の事故の原因は、メンテナンスのお粗末さである。
設計工事した当時は、今の設計で通ったかも知れない。しかし、これだけ自然災害が起きている時に、40年前の設計を見直すという発想があって当然だし、点検も念入りに行わないといけないと考えるのが普通だと思うが、道路会社はそれを怠ったのである。
報道によると、点検は目視で行っていたという。目視とは何かと言えば、表面を見ただけという事である。鉄道の線路や橋脚などの点検では、スパナか金槌状のもので叩き、その音で異常を点検するという話を聞いた事がある。異常があると、音でわかるのだという。
少なくても、40年も経っている高速道路なら、それくらいの点検が日常行われていて当然なのに、それをしておらず、今回事故が起きて、慌てて、叩く検査をして行くという。考え方が基本的に間違っていると言わざるを得ない。
何故、そうなるかと言えば、旧道路公団のような組織は、工事や作業を何重もの下請けに出し、実際に作業をする担当者には経費の何分の1しか支払われない。だから、作業も手抜きになる。そこに今回の事故を起こした3番目の理由があるのである。
さもしい権力欲の顔、滋賀県・嘉田知事
未来の党を立ち上げた滋賀県・嘉田知事の記者会見の時の顔を見ていて、いやしく、さもしく、権力に対する強い欲求を感じた。少し人を見る目を持つ人は同じ事を感じたのではないだろうか。県知事としての評価についても、顔を見ると首を傾げたくなる。
そもそも、未来の党を作ったのは、小沢一郎と亀井静香の二人であるのは政界の常識である。この二人は、橋下大阪市長、石原前東京都知事、みんなの党の渡辺代表に働きかけ、皆に断られたので、党の顔として嘉田氏を担ぎ出したのである。
皆が断った理由は簡単である。小沢、亀井の二人は旧自民党の議員の中でも、最も金に汚れ、権謀術数に長けた政治家として知られており、誰も付き合いたくないと考えたからである。その二人が作った党に、党の顔として自分を置くという神経が理解できない。
しかし、それも政界通に話を聞くと、納得出来る。嘉田氏が滋賀県知事選に出ようとした時、周囲は猛反対で、それでも立候補するというので、京大教授だった夫と離婚している。そして当選後も、橋下大阪市長に対して強烈なライバル意識を持ち、「何故、自分に光りが当たらないのか」と強い嫉妬心を持つ権力志向の強い人だという。
筆者は占いや易をする者ではない。長年記者として、万を越える人を取材して来た。そして、近年は十年以上にわたって企業の採用を担当し、三万人以上の学生を面接して来た。
その経験からすると、人間は生まれてから一定年数経つと、その人が人生をどう過ごして来たかが顔に出て来る。美醜ではない。人相、目つきの良し悪しである。
今売り出し中で、ドラマにも良く出ているし、TVCMでも毎日のように出ているある若手女優は、顔は間違いなく美形である。しかし、その顔付きを見ると、僅か十数年だが、どう生きて来たかが見て取れる。聞けば、学校ではいじめっ子、ヤンキーとして有名だったという。
政治家でも財界人でも、官僚でも、会った事がなくても、顔を見れば、その人の行き方、心の持ち方が理解できる。小沢一郎は間違いなく、悪い事を散々やって来た悪人の顔だ。
かつて、NHKの実力会長として君臨した島、海老沢という二人も悪人の相である。以前、大きなスキャンダルを起こした野村證券の小田淵と言われた田淵元社長も同様だ。
元大蔵省事務次官で、今、郵政グループのトップに君臨する斉藤社長も散々悪い事をやって来たというのが顔に書いてある。彼は大蔵省時代、自分よりも後輩を麻雀に誘い、遠慮する相手から多額の金をむしり取り続けたという有名な逸話がある。小沢一郎と組んで福祉目的税を無理矢理導入しようとして、細川政権を潰した張本人でもある。
人間は醜い顔に生まれても、その生き方で、ああこの人は良い人だなと感じる人はいくらでもいる。また、元々、良い顔だった人がしばらくして、ひどい人相になったので、どうしたかと思ったら、悪い事をやっていたという話も結構ある。行動が顔付きに表れて来るのである。
政治家は選挙では良い事ばかりを言って本音が見えない。投票する時の一つの指針に、顔がいやしいかどうか見るのも一つの見方である。ポイントは目つきである。
20121128
嘉田新党は小沢新党そのもの、落選防止互助会
滋賀県の嘉田知事が「日本未来の党」という政党を立ち上げ、「卒原発」を合言葉に他党からの合流を呼びかけ、時間を置かずに、小沢氏が率いる「国民の生活が第一」と、河村名古屋市長や山田元農相らの党名が長たらしい党、それに「みどりの風」の議員が合流を表明し、数の上では一大勢力の様相を呈して来た。
この新党の立ち上げを見て、昨日の東京の夕刊紙2紙は全く異なる記事を書いた。一方は、これで百議席は固いという記事であり、もう一方は、結集しても、20議席が限度というものである。
この夕刊紙2紙の全く逆の見方は、どこを見ているかによる差である。
政治の裏を知るプロの世界では、この嘉田新党は即、小沢新党であると見抜いている。
小沢氏は自分が前面に出ることはせずに、選挙受けのするソフトな人を前面に立て、自分はその後ろで実権を持ってコントロールすることが得意な人間で、過去でも、羽田元首相、海部元首相、細川元首相を前面に立て、実際は後ろでコントロールしてきた。
民主党を脱党した国民の生活が第一のグループは、前回の民主党に吹いた大きなフォローの風で、実力はないのに当選した人たちがほとんどで、衆参議員を合わせると50人程の規模だが、選挙で十数人になると見られていた。
それを何とかしないといけないと思って、小沢氏自ら嘉田知事に働きかけ、クリーンなイメージの嘉田知事を前面に立てて、落選必至の議員の目減りを少しでも少なくしようと画策し、それが成功したというのが、政治の裏事情を知っているプロの見方である。
逆に、百議席は固いと書くマスコミの人たちの論理は2つあると、私は考える。1つはどれだけダーティーな話が出てこようが、長年連れ添った妻の愛想をつかされようが、小沢は凄いと信じている小沢シンパの人たちである。
親小沢の人たちには、論理や理屈はどうでもよいのである。小沢なら今の日本を何とかしてくれるのではないかという、小沢教とも言える宗教の信者のような人たちである。
もう1つはクリーンなイメージの嘉田知事が看板になるので、国民、特に女性の票を多く集め、多くの議員が当選するのではないかという、ある意味では、国民をバカにした見方である。小泉チルドレン、小沢チルドレンに続いて、嘉田チルドレンが誕生するであろうという発想である。
私は個人的には、未来の党が獲得するのが、20になるか、百になるかは、国民の目が試された結果の数字であると思う。
選挙に落ちそうなので、何でも良いから、イメージの良いものに乗ろうという人を当選させるような国民なら、日本に未来はない。みどりの風などは、今回の衆議院選挙では、嘉田新党から立候補するが、当選したら、みどりの風に戻ると公言している。
こうした人たちを当選させるか、落選させるかは、国民の次第である。
20121125
自分の罪を反省しないマスコミ
選挙戦が間もなく始まるということで、報道はそれ一色なりつつある。そして、マスコミは二言目には、政治家が悪い、政治が悪いというが、そうだろうか。
まず、小選挙区制にして、二大政党を誕生させろと声高に主張し、それを主導したのはマスコミである。しかし、結果は今日の大混乱で、二大政党どころか、15、6にも及ぶ小政党を含めた、これまでにない多党時代を迎えている。
民主党政権が誕生したのも、自民党自体の問題もあったが、マスコミがこぞって自民党を攻撃し、民主党を援護する大キャンペーンをしたことが大きい。だから、民主党が政権を取った後、お粗末さを露呈して迷走しても、しばらくの間は批判さえしなかった。
私が知っている範囲内で、「民主党政権誕生を支援して間違った、申し訳ない」という趣旨の反省を述べたのは、ジャーナリストの田原総一郎氏と上杉隆氏の二人で、その他の評論家も学者も、大手マスコミも自分の罪を頬被りしている。
今のマスコミの最大の問題点は、バランスの取れた報道姿勢がないということである。ものごとには賛成と反対の両方の意見がある。それを、どちらに肩入れしても良いが、せめて三割は反対意見を紹介するのが当然のはずだが、今のマスコミにはそれがない。
その典型的な例が、東京新聞の反原発の姿勢である。世論調査をすると、七割からの人が原発に反対だということが論拠なのだろうが、福島の事故以降、共産党すらびっくりするというくらいの反原発キャンペーンを一年半過ぎた今でも繰り広げている。
党の機関紙でない限り、マスコミとして、これは間違いである。
戦争などない方が良い。だから、意見を聞かれれば、八割以上の人が反戦である。でも、自分が反戦でも、戦争を好む国に攻め込まれ、領土を取られたりするのが現実であり、反戦を謳うなら、それに対する備えをしないといけないのは誰が見てもわかる論理である。
同様に、反原発を言うなら、それをどう実現していくかというプロセスを語らずに、即原発を廃止しろだけでは、電力料金の大幅値上げにつながって、個人は困り、大企業は海外移転を促進することになり、雇用が大きく縮小するになる。
TBSの関口宏のサンデーモーニングも同様で、司会者もコメンテーターと称する出席者も、発言の方向が一方で、それは違うという意見が出ないことがほとんどである。つまり、テレビ局は最初から、片方の意見の人しか登場させていないのである。
テレビの出演する機会のある人たちに聞くと、番組前に、テレビ局の担当者から、この問題については、こうした意見を言って欲しいとか、こんなことは言わないで欲しいという注文があり、注文以外のことを言うと、その部分はカットされ、それが二、三回続くと、出演の連絡がなくなるという。これはマスコミの世論操作以外の何物でもないが、それが堂々と行われていて、改まる気配はまったくないのである。
マスコミとは何かということをそこで働く人が今一度考え直して欲しいと考える。
20121120
おかしなマスコミの検察審査会見直し論議
選挙資金規正法違反に問われていた小沢一郎代議士に対して、東京高等裁判所が無罪判決をしたのを受けて、検察官役の弁護士が上告を断念し、小沢代議士の無罪が確定した。
これを報じる新聞、テレビは一斉に検察審査会のあり方を見直すべきと言っている。こういう記事を見ると、本当にマスコミは何も考えていないと思えて仕方がない。
そもそも検察審査会とは何かと言えば、検察官の起訴、不起訴の判断や、量刑などの判断について、一般国民が監視し、おかしい時は異議を唱える制度である。
こうした機能がどうして必要かと言えば、司法関係者が国民の皮膚感覚とは大きく異なる判断をすることがままあるので、それを牽制し、司法関係者に民意を理解させるとともに、国民にもそうした権利があるのだと認識させるものである。
小沢代議士が建設会社から得たとされる四億円の金の話は、小沢側の説明は二転三転していて、関係者の話を総合すると、明らかに不法な資金であり、小沢代議士は有罪になってしかるべきである。ところが、政治資金規正法はまったくのザル法で、「限りなく黒に近いグレーだが、今の法律では罰することはできない」ということで無罪になったのである。
私見では、小沢代議士の案件は、結果的に無罪になったということが重要なのではなくて、こんなひどいことをしている男だということを天下に示したことが大切なのである。
つまり、結果的に無罪が確定したとしても、検察審査会の意義は充分あったのである。にもかかわらず、マスコミは「無罪になった人間を長く裁判の被告にしておいたのだから、検察審査会は見直しをすべき」と一斉に報じているのである。
アメリカでは、地区ごとに検事総長がいて、その総長は国民の選挙で選ばれる。だから、その総長に率いられる検察官は常に国民の考え、意見を汲み取る努力をするし、事件処理をするのでも、民意を大切にして判断している。
それに比べると、日本では、難しい法律を勉強して司法試験に合格した人が裁判官や検事になり、彼らの判断だけで、起訴するかどうかや、判決が決まっていく。
司法関係者に多く接すればわかるが、彼らは「自分達はエリートだ」という意識が強烈にあり、一般国民はもののわかっていない人たちだという選民意識がある。それが、国民感覚との間のずれを生む原因になっているのである。
そして、明らかにおかしいという判決がいくつも出て来たので、裁判員制度が登場したのだが、アメリカの陪審員制度とは異なり、判決について議論する時、裁判官が中心になって話を進め、異論を唱えると、過去の判例などで説得されるようになっている。
法学を学ぶと一番初めに、「時代や状況は変わるので、大きく変わって来た時に、法律はそれに合わせて変えていくもの」ということを教わる。しかし、日本では、司法関係者が法律の改正を極端に嫌い、時代に合わなくなった法律や判決でも、そのままというケースが多い。司法に民意を反映させるという意味でも、検察審査会制度は重要な砦なのである。
20130809
何倍もの金を払わないと見学できない東京スカイツリー
新聞、テレビで散々PRしているためだろう、地方にいる親戚が「上京するので、ついでに東京スカイツリーに登りたいので、切符を手配して欲しい」と言って来た。
滅多に上京して来ない人なので、手配してあげようと思って、調べてみて驚いた。
ネットでホームページを見てみると、事前予約は2週間くらい先まで一杯で、予約ができないと書いてある。
では当日券はと思って、読んでみると、「当日券を手に入れるには、1時間くらい並んでいただかないといけない。並んでも、必ず手に入る保証はできない」と表示されている。
座席が限られている公演などで、人気があって、予約が既に満席というのなら、わかるが、単に展望台に登るだけのことである。見学は朝から夜までできるはずだし、展望台は広いはずなのに、どうして予約できないのかと首をひねった。
上京してくる親戚に、断る訳にもいかないので、何か方法はないのかと思って、少し詳しく調べてみると、数日前でも、チケットが簡単に手に入る方法がわかった。
それは食事や他の見学コースなどがセットになったバスのパックツアーならということなのである。食事や他の地区の見学なども入っているので、料金は7千円から1万円もかかる。
つまり、2千円のはずの展望台からの見学は、その3倍、5倍の料金を払わないと、簡単にできないのだ。
スカイツリーについては、マスコミ、中でもテレビは工事中から始まって、開業近くなって、また、開業してからも、しつこい位にPRする報道を散々してきた。だから、私の親戚もそれを見たので、展望台に登ってみたくなったのだ。
でも、事前予約は簡単でないし、当日券は1時間の行列をしても手に入るかどうかわからないこと、どうしてもチケットを手に入れようとすると、3倍、5倍の金が必要ということなどマスコミは一言も報じずに、景色の良さだけをPRして、国民を煽って来たのだ。
自分たちは、行列をすることも、苦労してチケットを手に入れることもなく、特別待遇で展望台に簡単に登れるので、一般庶民の大変さなど目にないのだろう。
でも、問題があるなら、こうした問題もあると報道するのがマスコミの使命なのだが、今のマスコミ、特にテレビは企業の言う通りの報道をして、実態を見ようともしない。
色々な経緯はあったが、とにかく、パックで食事付きのチケットを予約し、上京してきた親戚とともに、スカイツリーに登ってみた。
バスガイドも、ツリーの担当者も展望台は3層になっていて、3つ目の階は、ガラスの床で、下の様子が全部見えるようになっているとの説明だけがあった。
3層の一番上の階は360度ぐるっと周囲が見ることができるようになっていて、多くの人でごった返していたが、それでも、夜景を見ることができた。
下の階はどうなっているのかと思って、エスカレーターで下りると、周囲を見学できるスペースは少なく土産物店などがあった。
説明のあったガラス張りの床はどうなっているのかと思って探すと、1、2メートル四方くらいの所に人が固まっている。近づいてみると、そこがガラスの床だったのだ。
話からして、もっと広い範囲でガラスの床になっているのかと思っていたが、そうではなかった。
バスツアーで行ったので、出発時間はまだあるので、時間を潰さないといけない。
3層の一番上の階で、展望が一番良い所に戻ろうとするが、エスカレーターは下りだけで、戻る方法がわからない。上から下に降りた人は、地上まで降りるエレベーターの表示と、係員のその誘導だけが行われていた。
仕方なく、フロアーにあった喫茶店に入って、バスの帰りの時間近くまで時間を潰すことにした。
昔から「名物にうまいものなし」と言うように、名所と言われるところに満足できる場所はないことは何回も経験している。
スカイツリーもそうだったのかと思ったが、それにしても、スカイツリーの場合、マスコミが煽るだけ煽って来ただけに、マスコミがもっと、実態を知って、会館側に改善を求めるなどする義務があると思うが、今のマスコミにそんなことを期待する方が野暮ということなのだろうか。
20130807
給料アップではなく、住居費の大幅下げで実質増収を
個人の豊かさを推進したい安倍政権は、その一環として、最低賃金の引き上げを促し、審議会も従来にない引き上げを決めた。
時給で14円の引き上げなので、大企業にとってはどうという金額ではないが、中小企業にとっては、大きな負担であり、この引き上げで、雇用を減らさないといけない会社も出てきそうである。
安倍政権がデフレ脱却を言い出した時に、マスコミや評論家はこぞって、「物価上昇は良いが、給料は増えないと」と言って、給料アップが必須なような雰囲気になり、参議院議員選挙の前には、自民党も年収アップを公約に盛り込んだ。
だが、国際比較で見ると、日本人の給料は既に世界トップクラスであり、これ以上のアップはますます日本企業の国際競争力を減らすし、外国人の採用や事業所の海外移転の推進という話になってなっていく。
世界トップクラスの給料を上げずに、国民に豊かさを感じさせる施策ことが本当は必要なのだが、マスコミも官僚もそうした方向に話を進めようとしないので、政治家も給料アップという話に乗らざるを得なくなるのだ。
世界トップクラスの給料をもらいながら、日本人が豊かさを実感しない理由は2つである。1つはもうらう給料から出て行く金が多く、自由に使える金がほとんど残らないことである。2つ目は、給料以外の収入がないことである。
給料から出て行く大きな支出3つは、住宅ローン、保険料の支払い、そして、子供の教育費である。
この内、住宅ローンは高価格な住宅を買おうとするので、ローンの支払いが多くなる。ここ20年くらいは異常低金利なので、負担の重さはほんの少し軽減しているが、やがて戻ってくる通常金利の時代になると、その負担はかなりなものになる。
私自身、通常金利の時代に住宅ローンを支払った経験があるが、借入金の2.5倍の金を銀行に返済した。その重圧はかなりのものだった。「日本は国土が狭いので、土地代が高いのは仕方がない」 よくそう言われるが、日本よりも人口密度が高い国で、住宅価格がもっと安い国はあって、国土の狭さや人口密度だけが住宅費を押し上げている訳ではない。
私は日本の土地代、住居費を異常に高くしている理由は、土地の利用の仕方のまずさにあり、工夫で大幅に下がると考えている。
例えば、東京を例にとると、山手線の内側の地区は、建ぺい率などを緩和するとともに、日照権などを廃止して、土地の高度利用をしたら、土地代は急激に下がる。
東京の中心部が下がれば、東京郊外や近県が下がり、それにつれて、地方も下がっていく。
企業や店のコストの大きな部分に土地代がある。これを下げれば、商品価格も下がる。
個人的なアイデアでは、20階建て以上を最低基準として、30階を平均にし、40階くらいまではOKにする。
その代わり、土地全体に対して、建物が建てられる面積を20%とするのである。つまり、全体の土地の広さの5分の1にしか建物は建てられないが、30階、40階の建物が造れるので、土地は実際の広さの6倍、8倍の利用になる。
そして、建物が建っていない土地には、緑化を義務付けるのである。
こうすれば、アスファルトだらけの都心に土の地面が広がり、雨などの土地への吸収も進むし、多くの緑の木々は温暖化、異常気象、ゲリラ豪雨などの予防にもつながるし、子供の遊びの場にもなる。
日照権は廃止だが、建物が建っていない地域が広いので、1日中、日が当たらないというような住まいはなくなり、日照権の廃止と日照の確保は両立できる。
土地問題を改革しようとする時に、いつも障害になるのは、世界でも例を見ないくらいの、異常とも言える個人の土地所有権である。だから、戸建を集合して、高層住宅を建てようなどという話は、それで頓挫してしまう。
でも、これも簡単で、個人の所有権に口出しをせずに、税制で自然に土地を供出するようにすれば、良いのである。
具体的には、個人で戸建を持っていて、そのまま住みたいという人には、住むことを認める。但し、土地の20倍利用が最低基準なので、20倍の税金を支払えば、そのまま住んでも良いとする。こうすれば、都心に戸建で贅沢に住むという人はいなくなる。
残ったとしても、周囲が30階、40階だらけのビルになるので、我慢して住むということはできなくなるだろう。
税制は、消費税を上げるだけが知恵ではない。こうした工夫した税制で、国は大きく変わっていくのである。財務省官僚が優秀だと自負するなら、私でも考えられるこれくらいのアイデアは出して欲しいものである。
大規模に再開発してできあがる住宅の多くを賃貸にする。狭い部屋は認めず、百平米を基準にして、家賃は十万円とするのだ。
こうした都心の優良な安い住宅は、長距離通勤をなくして、時間が有効に活用でき、家族と過ごす時間も増やす効果をもたらす。
そして、都心のこうした安い賃貸住宅は、無理してマイホームを買おうという人を減らすことになるとともに、郊外の住宅の価格を更に下げる結果につながる。更に、通勤の車の交通渋滞はなくなり、空気の浄化にも役に立つ。
こうした施策は東京の山手線の内側で実施されていけば、横浜、千葉、さいたまが追随し、それが地方の中核都市へと波及して行く。
長くなったので、住宅以外の話は別稿に譲るとする。
20130806
財政再建の最重要ポイントは福祉予算の削減
日本の財政が先進国の中で最悪と言われるくらいに悪くなった理由は、私の理解では3つある。1つは公務員の無駄遣い、現実に即していない政策、2つは税制の間違い、そして、最大の原因は福祉がバラマキであったことである。
福祉というと聖域のような扱いで、この予算を削るというと、野党、マスコミ、評論家、学者が総攻撃をするし、バラマキに慣れた国民も福祉予算の削減には、そのメリットを享受する年配者を中心に反発が強く、政治家は選挙に不利なので、削るということが言い出せない。
その結果、年金、医療などを含めた福祉に関する支出は年間124兆円で、国の税収の3倍にもなる。そして、恐ろしいことに毎年1兆円づつ増えているのだ。
日本の財政がこれだけ悪くなった理由が福祉であるということが、数字からも明かである。
ここ十年くらいの間に、真剣にこの異常に肥大化していく福祉関連予算をなんとかしないといけないと真剣に取り組んだのは小泉政権だけである。
彼の政権時、毎年1兆円増える福祉予算の増加額を3千万円に抑える方針を打ち出した。
これを大手新聞はこぞって、「小泉は福祉予算を削減し、弱者叩いじめの政策を行おうとしている」と嘘を書いて叩き、何も知らない国民は、これを信じて、熱狂的に迎えた小泉に批判的になっていった。
そして、マスコミは小泉に続いた安倍、麻生の歴代の自民党の首相を叩き、民主党を持ち上げて、無能な民主党政権が誕生するのに大きな支援をし、日本を滅茶滅茶にしたのである。
「小泉は格差を拡大した」と新聞が書き、それをテレビも事実を検証せずに引用して、国民に定着してしまったが、事実は小泉政権下で、拡大でなく縮小したのが事実である。事実で批判するなら良いが、マスコミは嘘で叩いて、民主党政権を誕生させたのだ。
福祉は必要な人には当然、対応しないといけないことである。でも、今の日本では、福祉の名の下に、じゃじゃ漏れの無駄な金が使われているのだ。
自分が65歳を越えてみるとわかるが、無料で健康診断、無料の虫歯検診・治療といったことから、公営プールの利用料の無料化や半額化、公営バスの大幅割引など、こんなの要らないよというサービスの連絡が役所から次々に来る。
70歳を超えると、医療費は安くなるし、週に2、3回、無料の食事が届く。
貧しい人、必要な人にこうしたことをするならわかる。でも、違う。全員に対してなのだ。
数千万から1億を越える家を持ち、数千万円の金融資産を持つ人にも、こうした無料や大幅割引のサービスが行われているのである。
年金を受け取っていた夫が死ぬと、残された妻には遺族年金が残されるが、妻が50歳代で、年収が600万円あっても、遺族年金はもらえる。
ご存知のように、年金は自分が積み立てたものをもらっているのではない。
今、70歳代、80歳代の人は、自分が積み立てた年金のための金の2、3倍の金を受け取っている。差額は税金と、低い年収の若者から徴収した年金からの金である。
私は60歳代だが、平均寿命生きると、私で自分が積み立てた金の1.3倍くらいの年金を受け取る計算になる。
生活保護世帯が急増している。
マスコミは貧困層が増えていると書く。それがゼロだとは言わないが、一部の面しか伝えていない。
今、少し生活に困って役所に相談に行くと、役所の担当者は生活保護を受けるように勧めるところが多くなっている。
「貧しいお年寄り」とマスコミは常套語として使うが、年寄りは貧しくないのだ。1500兆円の個人金融資産の3分の2は65歳以上の年寄りが持っているし、年寄りの大半は数千万円の価値のあるマイホームを持っている。
私の世代なら、中卒で工場で工員をして定年まで務めた人でも、マイホームを持ち、数千万円の預金を持っている人は珍しくない。真面目に定年まで仕事をしていれば、そうなったのだ。
では、60歳代、70歳代、80歳代で夫婦で月額5、6万円の年金しかもらえず、マイホームももっていないという人がいるのはどうしてか。
それは、一部の例外を除いて、ほとんどが若い時に、真面目に仕事をせずに、プー太郎をしていた期間が長いという人が多いのだ。
つまり、批判を覚悟できついことを言えば、気の毒な貧しい年寄りではなく、長いこと怠けていたツケが来ている老人たちなのだ。
男と付き合い、子供ができて、男と別れて母子家庭となった人が役所に相談に行くと、生活保護が受けられ、月額20数万円の金がもらえる。
高校、大学を卒業して真面目に働いている20代の若者よりも多い金額を、幼い子がいるというだけでもらえるのだ。
だから、結婚したり、付き合った男と別れたことにして、生活保護の金をもらって、カップルでパチンコをしている人も少なくない。
生活保護を受けている人が多い大阪では、保護費が出る日には、パチンコ店に行列ができるのは常識という。
繰り返し言うが、私は必要な福祉対策はすべきだと考えている。でも、現状の福祉は、福祉という名の無駄使いがあまりにも多いのだ。
役人や関係業者の目ではなく、普通の常識人の目線で、福祉の名の下の無駄使いを徹底的に切り込めば、かなりの予算削減になるはずである。
私は年金は別として、生活保護や福祉に現金を支給するのは間違いだと考えている。金を支払うから、何にでも使えて、パチンコなど目的以外のことに使われるのである。
本当に生活保護が必要な人には、部屋を与え、生活に必要なものはバウチャーという券を与えて、そのことだけにしか使えないようにすれば、インチキは大幅に減る。
子供が幼い母子家庭には、子供を日中預かる施設に子供を入れさせ、母親には仕事を紹介するのが、本来の福祉である。
介護が必要な人のためには、介護保険を膨らませるのではなく、過疎の村に収容して対応する施設を作ることの方が、今のやり方よりも遥かに少ない予算で済むし、家族の負担も少なくて済む。
官僚の言いなりになる大学の教授や評論家などからなる審議会で議論するのではなく、普通の人の常識で、これまで役所が作って来た制度のムダを徹底的に洗い直していけば、福祉予算は大幅に削減できることは請け合いである。
私の周囲には、「こんな過剰で、無駄な福祉は要らない」と言っている年寄りが多い。多くの心ある年寄りは、過剰な福祉など望んでいないのである。
20130804
消費税を上げずに財政再建する方法
来年の4月に消費税を上げて8%にし、その後も、順次消費税を上げていくということが既定路線になっていて、予定通り実施かどうかで議論になっている。
推進論者は消費税を上げると景気に悪影響があるのでということを心配して、上げないのは国際公約違反で、国債の暴落を招き、金利の上昇が起きて、日本は大変なことになるという。
だが、私に言わせれば、そうしたことを言っている政治家、マスコミ、学者を見ると、それは、彼らの意見ではなく、財務省の意見であり、財務省の説得が浸透していて、言ってみれば、財務省に誤魔化されているに過ぎないと思う。
日本の役所は財務省に限らず、データを独り占めにしていて、それを自分に都合の良いように加工し、自分に都合の良い部分だけを出して来る。そして、それで、政治家、マスコミ、評論家、学者を説得するので、彼らがそれに合わせた話を発信し続け、やがて、それが世論になっていくという図式がそこここに存在する。
だが、官僚が発信する情報は、自分たちに都合の良い話だけであって、全体像ではない。
前回、消費税を3%から5%にした時に、どれだけ景気を冷え込ませたかは記憶に新しい。
税金が高くなれば、消費を手控えるのは当たり前だし、不動産や大型家電や自動車など価格の高い物については、消費税が上がる前に、少しでも安く買おうとして、2、3年分の消費の先取りが起き、その後、そうした物が売れないという現象が起きて、メーカーや販売店を直撃する。
ここ数年の話でも、地デジ化で、テレビが売れ、2、3年分の消費分を先取りしたため、家電メーカーも家電量販店もその反動で苦しんでいるが、来年、消費財を上げれば、同じ現象がほぼ間違いなく起きてくる。
財政再建は確かに重要な課題である。GDPの2倍以上の国家の借金がある国は、先進国の中で、日本だけであり、対策を打たないといけないのは事実である。放置すれば、国債の暴落もあるかも知れない。
だからと言って、共産党や社民党のように、大企業や金持ちにもっと税金をかけろという主張はもっとナンセンスである。そんなことをすれば、企業は本社を海外に持って行ってしまうし、個人の税金の安い国に移住するか、資産を移してしまうからである。
財政再建の対策は消費税の上げだけではない。
税金をどう効率的に取って、財政を再建していくかは、決して難しいことでも何でもなく、シンプルなことである。
前にも書いたが、すべての所得に対して、1割の税金をかければ、財政問題は解決すると言われている。これは税問題を少し勉強した人間にとっては常識である。
アルバイトをして僅かの収入を得ても、源泉で1割の天引きは必ずされる。だが、給料については、課税最低限という発想があるので、税金を納めていない人が多く存在する。
貧しい人を救済しようという名の下に、税金を払わなくても良いような制度がどんどん拡大していて、所得税を払っていない日本人がかなりの割合で存在するのである。
企業も一緒で、日本を代表する企業であっても、赤字であったり、儲かっていても、様々な引当金をつけると、所得が残らないような場合は、税金が免除される。
だから、大手銀行が何年も税金を払っていなかったとか、商社が長く税金を納めていなかったというようなことが起きるのである。
個人でも、法人でも、宗教団体でも、その他の組織でも、所得の1割を納税を義務付ければ、無理なく財政問題は大きく改善する。より所得の多い人や組織には、所得の応じて、2割、3割の累進課税をかけるようにする。
更に、売上高が1千億円を超えるような大企業は、赤字であっても、売上高の1%の税金を徴収するのである。外形税と言われるもので、企業が多くの人を使って、業務を行い、土地や道路を使い、水道や電気を使って活動している以上、それなりの負担をすべきであるという考え方である。
かつて、1970年代、80年代に世界をリードした日本企業は、今や欧米だけでなく、中国や韓国企業の追い上げで、競争力をなくしている。そして、競争力を取り戻そうという時に、一番のネックになるのがライバル企業の多さである。
企業が多すぎるから、どうしても過当競争になり、価格競争になる。だから、企業数を多すぎるということは、企業の体力を消耗させることになるのである。
企業に外形税を導入すれば、会社は大きいが赤字という会社は、生き残れなくなる。ここで、自然淘汰が起き、企業は適正な経営に進んでいくことになる。どうしても生き残ろうとすると、無能な経営者を更迭して、より良い経営に向かおうという努力をすることになる。
敗戦の後、日本は蘇った。
70年近く経ってみて、数字だけを冷静に見れば、国には1千兆円を超える借金が残り、個人には金融資産だけで、1500兆円が残った。企業には余裕資金が2、300兆円ある。個人や企業の黒字は不動産などを加えれば、その何倍にもなる。
国や地方自治体の無駄使いや行政改革の話はともかくとして、数字だけを見れば、戦後、個人や企業に優遇し過ぎたということを数字が示している。
なぜ、こうなったかは簡単である。
古くは自民党と社会党の2大政党時代には、社会党の賛成を得るために、自民党は福祉の充実という名の下に、バラマキをしてきた。その図式は公明党が与党になった後も変わらない。
マスコミも福祉を削るような案を少しでも出せば、猛反対だったので、福祉という美名の下で、国民に対するバラマキがどんどん広がって行ったのである。
個人や法人に、所得の1割の課税をすれば、毎年の収支は大幅に改善するが、過去の累積の国や地方自治体の借金はなくならない。
これを解決するにはどうしたらよいか。答えは上の数字である。
国の借金は少ないに越したことはないが、ゼロにする必要はない。どこの国でも、借金はある。問題はその多さである。だから、日本では国の借金を半分にすれば良いのである。
5、600兆円を用立てて来て、国の借金を半分にするのである。
どこから取ってくるか。簡単である。個人の金融資産や不動産に課税するのである。「戦後、マイナスからスタートして、個人には金融資産だけで、1500兆円も貯まりました。子供や孫の世代にツケを残さないようにするには、個人金融資産の3分の1を供出してもらいます」 こう言って、政府や政治家がPR活動を繰り返していけば、多くの年寄りが協力するのは間違いないと思う。個人金融資産の3分の2は65歳以上の年寄りが持っている。金はあの世に持っていけないし、多く残せば、子や孫に争いが起きる。そう考えている年寄りは多い。
振り込め詐欺や投資詐欺などが横行するのも、マスコミは年寄りの無知に付け込んでと言うが、私に言わせれば、不必要な金を持っているから、簡単に大金を出すのである。そんなことに使うよりは、日本の財政再建に使う方が余程、世の中の役に立つ。
徴税権は国にある。制度を変えるのは国会で決めれば良いことである。
そして、上に挙げたような数字、現状を丁寧に説明すれば、多くの国民は納得するはずである。それをマスコミや共産党などが弱者いじめと言って反対したら、「弱者が1500兆円もの金融資産を持っているのですか?」と反論すれば、国民は支持してくれる。
そして、福祉の充実の名の下にバラマキが過ぎている今の福祉に、もっと歯止めをかけることが緊急の課題である。
福祉の見直しのことはまた、別途書くが、ポイントを言えば、本当に貧しい人、本当に困っている人だけに手厚い対策をして、そうでない人に対するものは大幅カットすることである。
1億円を超える不動産を持ち、数千万円の預金を持っている人に、なぜ、公的な施設利用はや健康診断、公的なサービスに、無料や割引をしないといけないのかということである。
これらを適正に行っていけば、財政支出は大幅に減るのである。
20130803
敗戦を招いた軍官僚とマスコミの姿勢は、今の日本そのもの
終戦記念日が近いということもあるのだろう、今日8月3日にCS放送で、「激動の昭和史 軍閥」というのが放送された。
内容はアメリカとの戦争を行うべきかどうかの、政府や軍幹部の議論から始まり、戦争を行う決断、戦争が始まってからの政府、軍幹部の行動、そして、敗戦に進んでいく過程を描いたものである。
監督は黒澤明監督と成瀬巳喜男監督の下で助監督として訓練を受けて、監督としても良い映画を作った堀川弘通である。主演の東条英機は小林桂樹が務めている。
日本が戦っても勝てないことがわかっていたアメリカとの戦争に突入し、惨めな敗戦を招いた理由は、冷徹に現実を見ようとせずに、勇ましいことだけを言った軍官僚幹部、そして、陸軍と海軍がバラバラで統一した戦略がなかったこと、また、敗戦が迫っているなかでも、終戦の交渉を進めようとしなかった政府首脳、更に、真実を伝えようとせずに、むしろ国民を戦争に駆り立て、煽る報道に終始し、国民を好戦的にしたマスコミなどの態度などである。
アメリカとの戦争を決めた御前会議に出席していた軍幹部、政府首脳のほとんど全員が、アメリカと戦争しても勝てないことを知っていた。しかし、誰もが、積極的に反対の意見を言わずに、空元気の能天気なことを言う軍官僚の意見が、全体の意見として通ってしまった。
映画はその経緯などを描いている。作られたのは1970年、昭和40年代であるが、少しも色褪せていない映画で、一人でも多くの人に見てほしい内容である。
こうした良い映画が見られるのは地上波ではなく、CS放送だけというのが今の日本の悲しいとろである。地上波は国民をバカに導くためとしか言えない白痴番組のオンパレードで、見たら良いと思う番組はほとんど放送されていない。
テレビ局で働いている人間は「国民のレベルが低いから、望んでいるのは、このレベルの内容」という上から目線で番組の内容を決め、自分は仕事をせずに、下請けに安い金で作らせている。だから、内容は年々落ちて行っている。
でも、そうした地上波に見切りをつけ、今では十人に1人がCSを見ているというのが少しは救いであるが。
今の若い人からすると、軍人というと、戦争をする人たちで、今の官庁の官僚とは全く異なると思っているかと思うが、実は、軍で実質的なことを議論し、決めていくのは、課長クラスの軍官僚であり、それは今の官僚と少しも違わない。
小中学校で成績が良かった者が陸軍、海軍の学校に入って勉強をし、そこでの成績が良い者が軍の中で出世して行った。軍から大臣や首相も出していたので、彼らが日本政府の首脳になって行ったのである。つまり、実務で能力がある人ではなく、学校で勉強ができた人間たちが出世して行ったのである。
今の官僚もそうだが、知識はある。議論にも強い。でも、現実を知らないので、立案するものが現実とずれていて、トンチンカンなのである。
そして、何よりも、国民に現実を知らせようとしない。それは、今の日本の官僚とまったく一緒である。
小中学校でゆとり教育で、子供をより良く教育するためにという掛け声で推進された「少人数学級」は、実は少子化で教師が余り、教師の多くを辞めさせないといけなったための対策で、子供中心に考えられたことではない。でも、官僚は「子供のため」という耳障りの良い言葉で飾るのだ。
そして、マスコミは官僚の説明通りに原稿を書く。今の記者には、裏に何かあるのではないかと考え、探るという発想はほとんどない。
アメリカとの戦争を決めて、戦争を遂行していく時に、日本で首相を務めた東条英機は陸軍の学校で首席で、カミソリと呼ばれた程、成績が良く、議論にも強かった。
しかし、それはあくまでも、学校の勉強での成績の良さであり、現実の世の中を見て、総合的に判断するという能力には欠けていた。
仕事柄、一流大学の学生何万人と接して来たが、感じることは、確かに「知識はあり、論は立つ」、しかし、「知恵」、「世の中を知る」ということで大きく欠落している人が多い。
日本では東大など一流大学の人は頭が良いと思っている。しかし、彼らは単に知識が詰まっているだけであって、生活したり、仕事をしていく上で、より重要な「知恵」がなく、本当の意味で、「頭の良い人」は少ない。
どこかの皇室のプリンセスなどはその典型である。東大、ハーバートと学歴は申し分ないが、世間的に言えば、「頭が悪い」のである。
戦争の時に、勉強はできるが、知恵がない東条が首相を務め、勇ましいことだけをいう軍官僚の意見を入れながら、色々なことを決めていったから、悲惨な結果となったのである。
官僚たちの悲劇は、軍も今の官庁も変わらないが、自分の組織や自分自身の名誉、面子だけを考え、国や全体のことを考える発想に極めて乏しいことである。そして、それが国を誤らせるのである。
日本が戦争に突入し、途中で止まらなくなったことの大きな原因がマスコミの報道にある。
「日本は神国」で「アメリカとの戦争は聖戦」で、「国民一丸となって戦え」と書いたのは大手マスコミであり、その先頭に立って、一番国民を煽ったのが朝日新聞である。
そして、戦争に負けだしても、それを報道せずに、「敗走」を「転進」と書いたのもマスコミである。そのマスコミがその反省もないまま、今でも、国民に知らせないといけない事実を報道せずに、どうでも良いことを大きく取り上げ、国民を煽っているのである。
かつて、自民党と社会党が二大政党だった時代、日本の大手マスコミは国会の様子を「自社激突」、「野党、政府を激しく攻撃」と書いた。でも、実際は、裏で話し合いができていて、激しいやりとりは、演技だったのである。
その姿勢は今も全く変わっていない。「激動の昭和史、軍閥」の映画を見ながら、そんなことを考えた。
20130802
政治家の話を誇張して大問題にするマスコミ
憲法改正に関連して、麻生財務大臣が講演会で話した話が大騒動になっている。
麻生大臣が言ったというのは、「憲法の話は狂騒の中でやってほしくない。ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気付かないで変わった。あの手口、学んだらどうかね」という趣旨の話である。
この発言自体、センスが良いかどうか、適切かどうかは別として、マスコミが主要ニュースとして取り上げ、大騒ぎするものではないと私は考える。
ではどうして、大騒ぎになったかと言うと、発言の記事を書いた記者たちが、発言を書くと同時に、「ナチスを正当化したものとも受け取れる発言」と尾ひれをつけ、かつ、その話を持って、ユダヤ人団体などに、「日本の財務大臣がナチスを正当化した発言をしたけど、どう思いますか」と取材に行き、相手が「そうなら、大問題だ」と答えたのを受けて、「「ユダヤ人団体から批判の声」というコメントをつけて、報道したことからである。
政治家や企業経営者などの問題発言というのは、基本的に今回の麻生大臣のケースと全く同じ図式で、原稿を書く記者が、本人が言ってもいない言葉を付け加えて、「問題だ」と報道し、本来なら大問題でない話を大問題にするということがほとんどなのである。
古くは、池田勇人首相が国会の質問で、社会党の議員が「貧乏人は満足にコメも食べれない」と質問したことに対して、「食事には米以外にも、麦やその他の食べ物もあるので、貧しい人はそれで補っていただければ」という趣旨の話を言ったことに対して、池田は「貧乏人は麦を食え」と言ったとして大騒ぎになったことがある。
国会の議事録を読めばわかるが、池田首相は「貧乏人は麦を食え」などとは言っていない。
そんな古い話ではなく、1、2年前の話で、自衛隊の幹部が沖縄の米軍施設に関連した記者の質問に、「恋人と何をする時に、これからするからねと言ったりせずに、阿吽の呼吸でしますよね」という趣旨を言ったのを、記者が「ゴウカンをする時に、これからするからとは言わないよね」と書いて、沖縄の人をゴウカンするような発言をしたとして大きく取り上げ、その幹部は辞任に追い込まれたことがあった。
民主党が政権を担っている時にも同じようなことがあった。
東北の復興担当大臣が「政府も努力するが、地元の人も政府だけをあてにするのではなく、もっと自ら努力し、行動してほしい」という趣旨の話をしたら、「東北の人間は努力しない怠け者」というような発言をしたとして問題にし、大臣は辞任に追い込まれた。
担当大臣として、地元の人と付き合うと、自分たちが何かをすることはなしに、とにかく、国が何をしてくれるかという姿勢が目立つので、それを言っただけなのに、「ひどい被害に遭った東北の人にムチ打つ発言」と記者が言葉を補って、批判し、大したことがない話を大問題にするのである。
記事を書くマスコミの記者の頭では、「東北の人」は被害者、イコール弱者、だから、政府がなんでもして当たり前という図式があり、その図式に反する話が出てくると、異常反応するのだ。
これは老人に対しても一緒で、「老人イコール弱者」という図式が記者の頭の中にあり、老人は救済されるべきものという考えに反する話は、ことごとく叩かれるのである。
個人金融資産の3分の2は65歳以上の人が持ち、自分の家を持ち、貯金は数千万円という現実の平均像などは無視して、「老人イコール弱者」という発想で凝り固まっているからである。
前に、靖国神社や従軍慰安婦のことで、中国、韓国が反発という話も、マスコミが「日本の主要政治家がこんな発言や行動をした。問題だと思いませんか」として、中国や韓国の要人に質問し、相手が、「そうなら、問題だな」と言ったのを、「中国、韓国が反発」と報道し、それを繰り返す内に、相手は騒いだ反応をすることが常態化して行ったことを書いた。
多くのマスコミの記者の頭には、自分が書いた記事が大きくなることだけしかなく、それが将来、どうした問題を引き起こしていくかなどという発想は全くないのである。
マスコミは政治家や経営者、官僚など要人に対して、チェックし、問題行動を諌める役割があるのは事実である。
だが、言ってもいない単語を付け加えて、問題を必要以上に大きくして騒ぐというのは、単に揚げ足を取り、国益を損ねているだけにしか過ぎない。
それでいて、自分たちのしてきた間違い、間違った発言で、国民をミス誘導したきたことには頬かむりをしている。
最近でも、政権能力もない民主党を異常に持ち上げ、自民党を叩いて、民主党政権の誕生に大きな役割を果たしたのはマスコミそのものである。
そして、問題だらけの民主党が政権を降りても、自分たちの間違った行動に対する反省の声は大手マスコミからは全く聞こえない。私の知っている限り、「民主党を異常に持ち上げて、国民の判断を狂わせて、申し訳なかった」と反省の弁を述べたのは、田原総一郎氏ただ一人である。
選挙制度でも、マスコミが犯した大罪は拭いがたい。「小選挙区制度がより良い制度」という姿勢で、日本に不向きの小選挙区制度を積極推進したのはマスコミそのものである。
そして、小選挙区制度の問題点が次々に出てくると、「制度に問題がある」と言って、更なる制度改革を求めているのがマスコミである。
自分自身マスコミに長く席を置いたものとして、今、「マスコミを監視するための組織」を作り、問題の報道をしたマスコミを追及していくことが、必要になっていると痛切に感じる。
20130730
何故作らない、若者党
先の参議院議員選挙のテレビ報道でくつかの局で、若者を登場させて意見を言わせていた。色々な話があったが、共通していたのは、「投票する政治家がいない」「どうせ投票に行っても、政治は変わらない」という話が多かった点である。
今度の選挙の時に限らず、こうした意見が良く出される。特に、若者代表というような態度でテレビに良く出ている人にこうした話が多い。
筆者は、こういう人は、「民主主義とは何か」ということが理解できていないのではないかと思う。
リンカーン大統領のゲディスバーグでの演説や、それをベースにしたケネディー大統領のスピーチではないが、「人民の、人民による、人民のための政治」が民主主義である。
戦後の日本では、「人民のための」だけが強調され、何かと言えば、国や地方自治体に金銭やサービスを要求する傾向が強いが、民主主義は自分達で行動して、自分達で作って行くものなのである。
これも日本ではほとんど教えていないが、民主主義はベストの政治制度ではない。
有能な指導者がいて、きちんと計画を立てて、独裁的にそれを適切に実行して行くというのが、効率の上ではベストである。シンガポールを短期間で世界有数の国に造り上げたリ・クアンユーなどがその例である。
しかし、独裁は必ずと言って良い程、腐敗する。インドネシアのスカルノ、スハルトの両大統領などは、強い権限で国を指導し、前半期には良い政治を行っている。
しかし、権力者には、おいしい汁を吸おうとする人間が集まって来て、耳触りの良い話や、権力者が儲かる話を持って来て、本人はそんな積りでなくても、家族や一族郎党達が利権に蝕まれて行くのである。
今の中国を見れば、それが顕著で、建国時に立派な活動をした政治家の子供や孫が利権にまみれ、凄まじい資産を形成し、好き勝手をしている状態が良く見える。
独裁は腐敗する。だから、非効率で、問題も多いけど、腐敗が起きにくい民主主義が先進国で政治制度として採用されているのである。
不完全だが、ベターな制度の民主主義をより良いものにするにはどうしたら良いか。
それは、国民が積極的に参加し、問題点を補い、補完していくことである。
でも、日本では高度成長時代に、国や地方自治体がばらまきをしたことが習慣になっていて、未だに、国や自治体に要求することだけして、自分がどう補完する行動をするかという発想が極めて希薄なのである。
甘い福祉話や、できもしない、ばらまきを未だに選挙公約にしているような政党が票を獲得するのは、多くの国民がもらうことしか考えていないからである。
東北の地震の話が今でも、時々取り上げられ、瓦礫の処理や放射能の汚染処理がほとんど進んでないことをマスコミが指摘し、「国は何をしているのだ」という論調で報道される。
こういうと、非難されるかも知れないが、筆者は「国に要求すると同じくらい自分達で努力していますか?」と聞きたい。
大分前のことだが、東北のある主要都市に講演に行った時、季節外れの大雪が降った。その時、その市では臨時議会を開いて、補正予算を可決した。市役所の幹部は「雪が降ると、1回で2千万円の金が飛んで行くのです」と話をしていた。
市内を回ると、多くの家で、自分の家の前の雪すら除去せずにそのままにしている家が多かった。市の幹部は「昔は、自分の家の前や歩道だけでなく、車道も含めて、人達が除雪をしていたのだが、今は自分の家の前の雪すらどけずに、市に除雪を求めて来る」と言っていた。
政治や選挙でも、アメリカでは、多くの国民が無償のボランティアで自分が支持する政治家の運動員となって、活動をしている。そして、政治家も活動家も資金カンパを呼び掛ける。
政治に金がかかるのはどこでも一緒だが、日本は国民に無償の奉仕を求める代わりに、税金で多額の補助をするということをしている。これでは、金がいくらあっても足りない。
政治家が何故、60歳代、70歳代の人を優遇し過ぎるような政策を取るかと言えば、年寄りは選挙に行き、福祉を削るようなことをすれば、選挙に落ちるからである。
だが、今の日本では、マスコミが高齢化社会と言うので、それが浸透しているので、不思議に思うかも知れないが、60歳代、70歳代よりも、20歳代、30歳代の人の方が多いのである。
若者が投票に行き、自分達の意見を代表するような人に投票すれば、年寄りへの過剰な福祉は削られ、若者や働き盛りの人にもっと予算が配分されるようになるのである。
自分達を代表するような政治家がいなければ、そうした人を探して、祭りあげればよいだけである。反原発だけで当選したタレントが良いとは思わないが、若者の誰かが声を挙げて、自分達の主張を代弁する人達を政治に送り出せば、予算配分や政策など大きく変わって来る。
維新の会やみんなの党に、若くて政治に興味がある人が集まったのは、そういう志がある若い人が少なからずいるということである。
維新の会やみんなの党が伸び悩んだり、潰れそうな理由は2つ。
1つは、リーダーが天下国家のことよりも自分の勢力拡大を主にしていたり、古い政治家の体質を持ったままであること、もう1つは、新しい勢力の台頭を望まない人達がマスコミを使って、激しいバッシングをしていることでる。
政治家でも官僚でも、組合の幹部でも、既に利権を持っている人間は、それを削ろうとする人間は敏感に嗅ぎ分ける。そして、懐柔しようとする。それでも、無理だとわかると、マスコミにマイナス情報を盛んに流し、マスコミを使ってバッシングを始めて、叩き潰すというのは、これまでの常套手段である。
利用されていることをわからずに、新聞や雑誌が売れるから、テレビなら視聴率が取れるからということで、マスコミは叩き役となる。いや、マスコミ自体が大きな利権組織なので、それを壊そうとする人には激しく噛みつき、攻撃するのである。
そう考えると、ホリエモンや今の橋下大阪市長に対するマスコミの異常なまでの攻撃が理解できる。勿論、本人のガードの甘さ、言動の不備、下手さもあったが、犯罪者にでも対するような異常な攻撃は、権力者の必死の自己防衛の戦いと見ると、理解できる。
維新やみんなの党があてにならないなら、自分達で党を作ったら良いではないか。「若者党」、そんな党を作り、異常とも言える過剰な年寄りへの福祉に配分された予算を取り戻すことである。
筆者自身、65歳を越えていて、世間一般でいう高齢者だが、自分がその立場に立ってみて、今の福祉がいかに、過剰であるかがわかる。
個人金融資産の3分の2は65歳以上が持っていて、家も資産も持っている。その年寄りに、行政は一律に過剰なサービスをしているのである。
その話はまた、別に書くとして、異常とも言える過剰な福祉である。
政治とは、自分の主張を実現するために、議席数を稼がないと話にならない。
評論家はいらない。自己実現のために行動する人が必要なのである。
20130727
中国、韓国との間の摩擦を作り、助長した日本のマスコミ
参議院選挙が終わった後、日本のマスコミは異口同音に「中国、韓国は自民党大勝に冷ややかな反応」「日本の右傾化を警戒」と中国、韓国の反応を報道した。
だから、ほとんどの国民は中国、韓国がそうした反応一色と思っているだろうが、実際は全く違う。
長年の記者生活の経験と、見聞きする情報からすると、日本の新聞社、通信社、テレビ局の記者は、中国や韓国の政府高官や広報担当者の記者会見や、取材で、「安倍首相は憲法改正や自衛隊の増強に熱心ですが、その自民党政権が選挙で大勝したことをどう思いますか?」というような聞き方をする。
そう聞かれれば、「懸念している」と答えるのは当然の成り行きである。そして、マスコミは自分たちがそう聞いたことを示さずに、「中国、韓国が懸念をしている」「冷ややかな反応」と報道するのである。
今は、死語に近くなったが、日本のマスコミは「マッチポンプ」そのものである。自分で火をつけてから、大変だと言って、消火にあたる人間たちなのである。いや、消火にあたればよい方で、日本のマスコミは今でも、火をつけ回っているのである。
日本と中国、韓国の間の大きな問題として取り上げられるのは、領土問題と靖国、従軍慰安婦の問題である。
領土の話は別の機会に触れるとして、ここでは書かないが、靖国と従軍慰安婦の問題をこれだけ大問題にしたのは、日本のマスコミそのものである。
その経緯の一部を先週発売の週刊文春で池上彰氏が書いているが、靖国は、以前は天皇も日本の首相も、何の問題もなく参拝していて、中国も韓国も何も言っていなかった。
それを「戦争責任がある戦犯が祀られている靖国に、日本の首相や政治家が参拝するのは問題だと思いませんか?」と中国や韓国の政府高官や広報担当者に質問して、ものごとを大きくしたのである。
経緯を知っているが、中国も韓国も初めの内は、日本人の記者に聞かれて、最初の内は、「そうだとすれば、問題かも知れない」と言っていたのが、「そうだとすれば、問題だ」となり、そして、今では「問題だ」と言うようになったのである。
つまり、火をつけて、ぼうぼうの火事にしたのは、日本のマスコミそのものなのである。
従軍慰安婦の話も同様である。
どこの国でも軍隊が行軍する時、性のはけ口としての慰安婦が軍隊について行く。これは日本だけではなく、どこの国でも同じである。戦争も軍隊も、日本では戦後60年もの間、誰も知らなくなったので、そうした戦時の常識がわからないだけである。
そして、従軍慰安婦のほとんどの人は自発的に、自分の意思でそうした行動をする。部屋に閉じ込められている訳でもないし、常時、監視されている訳でもないので、嫌なら、逃げ出すこともできる状態なのである。
何万、何十万人といたであろう従軍慰安婦の中に、初めは、強制的に業者や、一部の軍人などに連れてこられた人が少数いたかも知れない。でも、これも、日本に限らず、どこの国でも起こることである。日本だけが特殊ではないのである。戦争とはそういうものである。
従軍慰安婦の問題がこれだけ大きくなったのは、執拗に「問題だ」と書き続けた日本の大手マスコミの記者がいて、その輪が次第に大きくなって行ったことにある。
そして、韓国はこれで、日本から賠償金が受け取れると考えたことで、政治問題化したのである。
今の大統領の父親の朴正煕が大統領の時に、日本と韓国が国交を正常化した。その時に、日本は膨大な資金を韓国に提供した。そして、その金で韓国は今の経済発展の基礎を築いたのである。
この時に、韓国政府は「従軍慰安婦の問題は、今後、賠償を請求しない」と約束した。それが、日本のマスコミの大報道の中で、「金が取れるのではないか」というような受け止め方となり、最近の韓国の裁判所の判決で、「解決済みではなく、賠償を請求できる」という話になって、問題が更に複雑になったのである。
日本のマスコミは靖国や従軍慰安婦の話だけでなく、例えば、TPPの話でも、この問題が取り上げる時に、農家や農協に取材に行き、「TPPで日本の農業が壊滅的な影響が出るのではありませんか」と聞くのである。
聞かれた方は、「そう言われれば、そうかな」と答えていたのが、次第に、「問題だ」となって行ったのである。つまり、問題をどんどん大きくしたのは、マスコミそのものの報道の仕方にあるのであるが、そんな取材の仕方をしているなど、ほとんどの国民は知らないので、マスコミの報道を信じてしまうのである。
私はTPPに賛成でも反対でもないが、世界の貿易の自由化の中で、戦後、一番利益を享受して来たのは日本である。
貿易で稼いで、日本は豊かになったのである。その日本が、貿易の自由化、国際化に反対するというのは、論理が合わないし、自由化反対で一番の被害を被るのは日本そのものだということも、日本のマスコミは伝えない。
記者を長く経験した人間は、「日本のマスコミが日本を悪くした」と思っている人間が多いが、それは事実で、特に、日本と韓国との間をこじらせた最大の犯人は、日本のマスコミだということを、日本人は知るべきである。
20130724
ネット検索をすると、アクセス者の個人情報が裸になるという話
少し前に、グーグルを検索などで使っていた中央官庁の役人から、役所の情報が誰でも見える状態になっていて、官庁の情報漏洩がわかり、マスコミも大きく取り上げた。
ただ、マスコミの取り上げ方は、役所の情報管理が問題というトーンであって、この問題の本質を伝えていない。
個人が検索エンジンで何か情報を調べると、その人が何に興味を持っていて、どんなことを調べたという個人情報がネットの検索サイト側に蓄積されていく。
サイト側は個人の基本情報を持っているので、検索経歴情報を重ねることで、その人がどんな人で、何に関心を持っているかなどがわかってくる。
そうなると、サイト側はそうした情報を下に、DMメールを送ったり、検索エンジンのバナー広告に、その人が興味がある情報を載せるようにする。
私自身のそうしたバナー広告を見せられたり、DMを送られた経験がある。初めは、どうしたと不思議に思ったが、少し調べ、コンピューターに詳しい人の話を聞いて、事情がわかった。
ネット社会の情報は片方向ではなく、双方向であり、アクセスしている個人の情報は丸裸になる。しかも、それが蓄積されて行くし、メールアドレスを経由して、その人が別にアクセスしている役所や会社の情報までに、容易にアクセスできるのである。
怖いのは、誰かが意図的にその作業をしているのではなく、システムがそうなっていることである。個人宛のDMメールも誰かが作業して送って来るのではなく、システムが自動で送ってくるのである。
こんな話もある。ある人が会社の同僚と、有名レストランに行ったという話を自分のブログで書いた。その人はブログでは固有名詞も会社の名前も書いていない。しかし、一緒にレストランに行った別の人が自分の会社の名前もわかる状態で、ブログに話を書いた。更に、別の人はレストランの名前とメニューをブログでアップした。
この3つの情報を重ね、ネットサイトの個人情報も加えて、最初の人は所属する会社も住所も把握されて、ストーカーに狙われたというのである。
CS放送で「パーソン・オブ・インタレスト」というテレビドラマがある。これは、アメリカ政府がテロ対策などで、個人のメール、携帯のやり取りなどを全部チェックしているので、そこから、誰か個人が命を狙われているということがわかる。そこで、このシステムを開発した人が命を狙われている人を助ける活動をするという話である。
元CIAの職員がアメリカ政府が個人のネットや電話などを盗聴しているというのを暴露して大きな問題になっているが、これは公然の秘密で、だから、「パーソン・オブ・インタレスト」のようなドラマができるのである。
日産自動車が差別的な情報を掲載している不適切なネットのページに広告を出したとして問題になったが、これも、サイトを1つづつチェックして、広告を提供するのではなく、アクセス数が多いサイトに自動的に広告が出るシステムになっていたから起きたのである。
担当者は自社の広告がどこのサイトに掲載されているか知らなかったのである。
コンピューター社会はこうしたシステムをどんどん開発して行き、想像もできないようなことがどんどん進行しているのである。
サイト側や企業は商売だから、コンピューターのシステムをどんどん進化させるし、省力化のために、人力ではなく自動でものごとが行われるようにしていくのは止めようがない。
では、政府が規制をできるかと言えば、ここまでコンピューター社会が進めば、それは無理である。ネットの怖さは、一度ネットに公開された情報や映像は誰も消すことができないということである。
それなら、個人はどう防衛するかと言えば、ネットのシステムがそうなっているということを知って、個人情報や個人が用意に特定できるような話はネットで提供しないことである。
いくつもの情報から思わぬところで、ひどい被害に遭う危険があるのだから、それを意識して、検索やメール、ブログを書くことなどを行うべきなのであるが、周囲の人たちを見ると、あまりに無防備で、個人の情報を平気で書いている。
私自身は、そうした意味で、フェースブックは利用していない。参加しろと散々誘いのメールやDMが来るが、無視することにしている。
20130723
1票の格差訴訟、訴えるだけでなく改革案を示せ
参議院の選挙が終わったと思ったら、弁護士集団が「1票の格差がある中での選挙は無効」という主張で、裁判所に選挙無効の訴訟を起こした。
弁護士というと、ドラマなどで、正義の士というイメージが強いが、多くの弁護士と付き合って来た経験から言えば、実際はどうしようもなく悪い奴、煮ても焼いても食えない人間も多い。
依頼人の金を着服して、勝手に使ってしまったというような弁護士は後を絶たない。欧米ならそんな弁護士は即、資格はく奪だが、日本はそんな制度のなっていないので、大きく罰せられることもなく、悪いことをした弁護士がのうのうとしている。
また、「政府のやることはすべて悪」「政府に対抗するためなら、どんなことをやってもよい」と考えている弁護士も多くいる。
今回訴訟を起こした弁護士たちがどんな人かは知らないが、人のやることを批判するなら、自ら改革案を示して、それで議論を巻き起こすならわかるが、批判だけをする人間があまりにも多い。
批判するのは簡単である。でも、改革して実行するのは大変である。利害関係者が多くいるからである。
民主党が批判者としてはもっともらしいことを言っていて、政権を獲得したが、自分が政権を取ったら、自民党よりも数段ひどかった。批判は簡単で、実行は難しいことを示した好例である。
日本の悲劇は野党もマスコミも弁護士も、政府の批判はしても、自ら提言して、改革の議論を起こす行動をしないことである。
衆議院も同じだが、1票の格差をなくそうとすると、大都市の議員の数を増やし、人口の少ない地方の議員の数を減らさないといけない。これには地方の抵抗は強く、マスコミは「なぜ、改革しないのだ」と言うが、地方を説得するのは、マスコミが言う程、簡単ではない。
では、1票の格差の是正、国会改革は難しいかと言えば、前にも少し書いたが、解決は簡単である。衆議院と参議院の違いをどうするかという大きな問題もあるが、これも一挙に解決できる方法である。
まず、衆議院は得票数に応じて、上位から150人を当選とし、選挙区で当選者は出せないが、合計で全国の投票総数の1割以上を獲得した政党には、比例配分で合計50人の当選者を出すようにする。その際に、当選者の割り当てをもらった政党は、選挙で得票が上位者から割り当て数だけ当選させるとするのである。
こうすれば、ミニ政党は消える一方で、地方などで地道な活動を続けている政党は一定の議席を獲得できる。また、何十万票と取っても落選する人がいる一方で、わずかの得票で当選する議員がいるという現状の矛盾はなくなる。
政治は数を一定数とらないと何もできない。ミニ政党は何もできず、税金の無駄遣いに過ぎない。ミニ政党が誕生しない制度を作らないと、政治は機能しない。地域で活動するミニ政党は協力して、全国的に連合組織を作れば良いだけだ。
この改革案だと、選挙区の区割りをどうするというような議論は不要になる。そして、1票の格差は完全になくなる。
こういうと、地方から「議席を大幅に減らすので納得できない」という声が出るだろうが、地方が議席を確保するためには、現在の選挙区をいくつか一緒にして、大都市に負けない票数の選挙区を作れば良いのである。
1つの県で数が足りなければ、2つの県が一緒になって、協力して議員を出せは良いのだ。
道州制の議論があるが、実行は進まない。でも、この選挙制度改革をすれば、県の実質的な統合が進み、道州制のような制度に自然に近づいていく。
改革をするには、そうした地鳴りを起こし、地殻変動をともなうようなものでないと小手先の手直しで終わってしまう。
参議院の改革はこれも簡単だ。
議員総数を百人にして、50人を全国の知事を兼任させる。知事は陳情などでどの人も頻繁に上京している。国会議員として活動する役割が乗っても、さほど問題はない。
それにしても、兼任だと時間が限られる。
それだったら、国会の議論を集中審議にして、凝縮して問題を議論すればよい。知事の兼任は国会の効率化にもつながる。また、知事として報酬を得ているので、国会議員としての報酬は不要になる。交通費だけ無料にすれば良いだけで、費用的にも、税金の無駄遣いが減る。
知事の参議院議員兼務は、衆議院で地方の議員が減る分の補完の意味にもなる。
日本の改革のダメなところは、その問題だけを議論し、修正しようとすることで、他の問題との関連を考えないことであるが、衆議院で議員数が減る分を、知事に50議席を与えるという両院にまたがった改革をすれば、地方も納得がしやすい。
参議院の残りの50議席は各職種に割り当て、そこからの団体推薦にすればよい。農業者に何人、漁業者から何人、サラリーマンから何人というようにし、医者、弁護士、会計士、学者、宗教家というような職種にも議席を配分し、選ぶのは、それぞれの組織に任せるのである。
こうすると、参議院選挙はなくなり、費用が大幅に浮く。そして、国会には、それぞれの分野から専門家、利益代表者が揃うことになるし、政党色はほとんどなくなり、参議院不要論もなくなる。
参議院には、アメリカの上院のように強い国政調査権を与え、大きな問題が起きた時、関係者を国会喚問し、各議員が協力して、ヒアリングや調査を行うようにするのである。そして、新しい法律を作ることが必要なら、議員立法で、法案を作って行くのである。
以上のような改革は憲法を改正せずに行うことができる。そして、多くの人が納得し、わかりやすい改革案であると思う。
20130919
間違いだらけの女性支援策、雇用差別法制定が第一
安倍政権は女性支援策の実行に熱心で、あれこれ案が打ち出されている。
これらは厚生労働省の婦人青少年局の考えに沿ったものである。だが、この婦人青少年局の考え自体が現実にそぐわない役人特有の考えに立つもので、もっと別のことをすべきだという意見は関係者に多い。
婦人青少年局は幹部の多くが女性で、役人の女性の目線で策が考えられている。
例えば、育児休業を1年から2年に延長し、更に延ばそうということなど、役人の発想以外の何物でもない。
中央省庁の役人、特にキャリアと呼ばれる幹部や幹部候補生は、自分の担当が2、3年で変わる。その上、育児休業の間は、別の人がきちんと後任になったりするので、何の心配もなく育児休業を取ることができる。
だから、休暇が2年が3年になっても何も不都合はないのである。
そして、育児休業が終って役所の戻る時は、全く新しい部署につくことができるので、育児休業を2年取ろうが、3年取ろうが役所の仕事の流れに悪影響はないし、本人も育児休業の間、仕事が滞らないかという心配をしないで済む。
だが、民間はこうは行かない。
民間企業では、かつては、幹部候補生の社員は色々な部署を経験し、将来、幹部になった時に、どのような事にもある程度、対応ができるというやり方で、社員のローテンションを決めていた。
ところが、今の民間企業では、そうしたゼネラリストは使い物にならない時代になり、どこかの部門のプロであることに加えて、社内全体を見渡せる知識、見識が求められるようになっている。
そうなると、どうしても1つの部署に長く勤務することになる。
まして、学校を卒業して就職し、その会社を辞めるまでの平均勤続年数が十年に満たない女性社員の場合、あれこれ勤務部署を変えることは現実的ではなく、同じ部署に勤務することがほとんどである。
となると、女性社員が育児休暇を取り、休暇明けで戻って来る場合、休暇取得中、きちんとした後任を配置することができない。だから、パートやアルバイトで補うか、他の社員達がカバーするしかないのである。
当然、育児休業を取ることは、同じ部署の他の社員の大きな負担になるし、休暇を取る本人も仕事のことが気になって仕方がないということになる。
社内の仕事の人はまだ良い。営業など外部の人と接する仕事をしている人の場合は、顧客などに影響や迷惑を与えるということになるので、2年、3年というような長期休暇など論外なのである。
そもそも、子育てを考えた場合、1歳、2歳の乳幼児の時は、母親が傍にいて、授乳やおむつの取り換えなど、こまめに面倒を見ることはどうしてもしないといけないことだが、その後、少なくても7、8歳になるまで、養育者が傍にいて、様々な世話をすることが、子供の心の発達の上で大切だと言われている。
面倒を見るのは母親でも父親でも、祖父母でも良いが、その年齢まで誰か大人がしっかり子供面倒を見ることが子供の発達の上で重要なのである。
現在は、祖父母が同居して孫の面倒を見るというのは、核家族化で一部の家庭を除いて難しくなって来ている。男性が年単位で会社を休むということも現実的ではないので、現実の話として、母親が対応するということになってくる。
こうした現実に即して、仕事を続けたいという女性の子育てをどうするかということを考え、智恵を出さないといけないのだが、現在の厚労省の施策は全くそうなっていないのだ。
では、どうしたら良いか。これも簡単である。
アメリカには、雇用差別を禁止する法律があり、性別、人種、年齢、学歴、結婚歴などで差をつけてはいけないということになっていて、この違反を厳しく取り締まる行政組織まである。このシステムを日本でも導入すればよいのである。
日本で当然のようになっている定年制も、アメリカでは本人の意思に反して、年齢で辞めさせたら、法律違反で、訴えられたら、会社は莫大な賠償金を払わないといけない。
勿論、一定年齢になって、能力的に仕事に対応することが無理になった場合は、会社は年齢ではなく、能力不足で解雇することはできる。
だから、女性が出産を機会に会社を辞めて、子供の手が離れるまで育児に専念し、その後、再就職をするということが、能力、経験さえあれば、それ程難しくなくできるのである。人によっては、その機会に大学院に行き直し、MBAの資格を取って、キャリアアップしたりすることもできるのである。
保育所不足が大きな社会問題になっているが、子供が7、8歳になるまで、少なくても小学校に上がるまで育児に専念できれば、保育所は大幅に少なくて済み、行政コストも大きく減額できるのである。
日本の行政の施策は、役人が頭が考えたものが多い。
かつては、役人も一般庶民目線で生活し、ものを考えていたので、国民が考えることとそう差はなかった。しかし、一流大学に進学するのに、塾に行った上、上位の私立の中高に行くことがかなり重要になっている現在のようになると、大企業も中央官庁もそうだが、そこで働く人たちは親が資産家や富裕層で、庶民感覚とどんどん離れて行っているという現象が起きている。
女性対策もその典型例で、役人目線ではなく、実際に働く女性目線、子供の立場に立って考えれば、アメリカのような雇用差別を禁止する法律を作るというような考えができるのである。
勿論、法律を作るだけでは問題は解決しない。子育て明けの女性が企業の採用に応募して来た時、家庭環境ではなく、本人の能力で採用選考するという発想が民間企業の担当者に徹底させないといけない。
アメリカでは、雇用差別を禁止する法律があるので、学歴や家族構成、結婚の有無などを採用選考で聞くことは、人事担当者はしない。落とした時に、それを聞いて、そのために落とされたと応募者が訴えた時、反論ができないからである。
20130907
憲法改正は国民の意識に従えばアッという間
安倍首相は60年放りぱなしの憲法改正問題に取り組むことに意欲的だが、マスコミは憲法改正に否定的で、そうした論調で報道するし、現行憲法を一字一句変えることに反対する政党もあるので、憲法改正の論議が進もうとしない。
法律は人を縛り、拘束力を持つので、どうしても保守的になり、変更はしないで済むなら、しないに越したことはない。
しかし、時代の変化とともに、法律や憲法の規定は世の中に合わなくなって来たり、補うことが必要になって来る。
大学で法学を勉強した者には常識だが、法律や憲法は、本来、時代の変化に合わせて変えて行くという性格のものであり、世の中が変わる以上、法律や憲法が変わるのは当然の話なのである。
だから、アメリカでもドイツでも、憲法は何回も改正されていて、60年間も一字一句も憲法が変わっていないという日本という国は、世界の中で異常な存在なのである。
東日本大震災の時がそうであってように、災害などの時に自衛隊は目覚ましい活躍をするので、7割を越える日本人が自衛隊は必要で、組織として必要と考えている。その一方で、太平洋戦争の悲惨な経験があるので、7割の人は憲法9条の戦争放棄を支持している。
だが、この2つのことは明らかに矛盾する。
憲法を素直に読めば、自衛隊は明らかに違憲であるのは、小学生にでもわかる話である。
でも、矛盾する2つのことを国民が支持しているし、違憲な組織は置いておき、税金で賄うことはできないので、何とか辻褄を合わせようとして、官僚が出した知恵が、「解釈改憲」である。
つまり、「戦争放棄は自衛権まで放棄したものではない」「自衛隊は自衛の組織であって、軍隊ではない」「だから、自衛隊は違憲ではない」。この子供だましというような馬鹿な屁理屈で、ごまかしをしたのである。
この結果、何かことがあった時に、献身的に行動してくれる自衛隊を、恥ずべきことに、何十年も違憲状態のままにして放置しているのが、日本人なのである。
官僚の屁理屈で実態と違うものを無理にこじつけて解釈でごまかすというのは、自衛隊だけでなく、色々なところで見受ける。
しかし、少し引いて考えればわかることだが、「解釈改憲」はとても怖いことである。
その時々の都合で、解釈を変えて、辻褄合わせをすれば、何にでも適応が可能で、昨日までの常識が解釈で明日にはひっくり返されるからである。
日本国民だけでなく、アジアなどの外国の人から見ても、日本は解釈改憲で、いつどう変わり、軍隊を海外派兵するかもしれないという不安が残るのである。
筆者は憲法を権威あるものとして、国民に守ることを義務付けるとともに、外国からも信用してもらうなら、どこからつついても、問題も矛盾もないものにしないといけないと考える。
そうした意味では、憲法の改正は避けて通れないことである。
地方自治とか、環境権など、憲法ができた時には、あまり考えられていなかったことを憲法に書き加えることは当然だが、経験論議が進まない最大の理由は九条をどうするかで意見がまとまらないので、憲法改正をするには、九条をどうするかが最大の問題なのである。
だが、九条の改正は簡単だと筆者は考える。
名称は自衛隊でも国防軍でもよいが、領土、領空、領海が侵略された時に、敵からこれを守るとともに、災害救助の時などに対応してもらう組織として、自衛隊を置くということをまず、きちんと憲法に明記するのである。
その一方で、戦争で外国を侵略しないための歯止めとして、日本の領土、領空、領海以外に出て行って組織的に行動するのは、国連の安保理や総会などの派遣要請があった時で、かつ、国連軍または、多国籍軍の指揮下で行動する時のみとするのである。
それでも心配だという人がいるなら、今回のシリア問題のイギリスやアメリカがそうであるように、国会で衆参両議院での賛成を義務付ける条項を憲法に盛り込んでも良い。
太平洋戦争の突入して行った時は、マスコミの怠慢で、多くの国民は、何が起きているかを知らされず、情報がないまま、朝日新聞などが戦争に行けと煽った。でも、この情報社会で、そんなことは無理である。
上記のように改正すれば、憲法を一字一句変えることもだめという狂信的な反対論者以外の多くの国民は、九条の改正に賛成をするのは間違いないと思う。
何のことはない。国民の意識をそのまま素直に反映した内容にするだけのことである。
戦後の日本はアメリカの核の傘の下で守ってもらっているにもかかわらず、米軍基地をなくせ、世界から核を廃絶せよというような主張をして来た。それがいかに矛盾しているかということに気がついていないか、気がついていないふりをして来たのである。
権利は主張し、文句は言うが、今の状態のままで、米軍がいなくなったら、どうなるかなどということはほとんどの人が考えない。
フィリピンが米軍を撤退させた途端に、中国に領土の島(環礁)を占拠され、今も返してもらっていないという話はほとんどの日本人は知らないが、国と国との対立とはそういうもので、パワ…バランスの上に成り立っているのである。
日本でも、もし、米軍がいなくなったら、中国が尖閣列島を侵略してくるのは火を見るよりも明らかである。
パキスタンが核を持った時に、日本人の若者がパキスタンに行き、核反対の行動をしたら、パキスタン人たちに取り囲まれ、「米軍の核で守られている日本が、核に反対する資格はない」と言われ、反論できなかったというのは、関係者の間では有名な話である。
世界の人が日本をそう見ているということを忘れてはいけない。
筆者に言わせれば、憲法改正など簡単である。
それよりも重要なことは、日本の防衛をどうするか、どういうスタンスで防衛と向かい合うか、その問題の方が遥かに重要な問題である。
軍隊を持たなくても、平和裏の交渉で国を守ることができるという、マスコミや学者、旧社会党の人たちが言ってきたことが、いかに現実離れをしているかは、尖閣列島周辺の日本領土を中国の船が何百回と侵略していることを見ても明らかである。
名前がなんであれ、防衛組織がもっとしっかりし、法律上も行動できるようになっていたら、北朝鮮に多くの日本人が拉致されることなど起きなかったのである。拉致しても、反撃などされないという安心感が北朝鮮にあるから、数多くの人が拉致されたのである。
戦後の日本が世界有数の経済力を持つ国になりながら、世界的に発言力がなく、世界から軽く扱われている最大の理由は、国とはなにか、国や国民を守るとはどういうことかという、組織防衛の根本で、意識が欠如して来たことにあると筆者は考える。
憲法を上記のように改正することを機会に、国民にもう一度、防衛を考えるということを国を挙げてしてもらわないといけないと思う。
自分のことは自分できちんとする。もうそうしたことを当然と考える国民がもっと多くならないと、憲法は改正できても、問題の根本は解決しないままである。
そういう意味では、マスコミの主流の意見が、旧社会党的であることが、一番の問題だと筆者は考える。旧社会党はほとんど壊滅状態になったが、マスコミ、学者、社会の中に、ドン・キホーテ的な旧社会党の亡霊は、今でも根強く生き残っているのである。
20130830
歳出大幅削減は福祉に大ナタを
消費税の値上げの議論が盛んに行われている。
各界の有識者の意見を聞くというセレモニーがなされているが、値上げを実施するための手順ということにしか過ぎないように思える。そして、意見を言う人の大半が、財務省の顔色を見ながら、予定通り、消費税の値上げに賛成の意見を言っている。
世論調査でも6話の国民が消費税の値上げに賛成だと、日経新聞が報じた。だが、中身を読むと、全く違う。財務省が言う消費税の値上げに賛成の人は2割しかいない。
4割の人は、大きな国の借金があるので、消費税を引き上げるのは仕方がないかもしれないが、実施の時期を考えろとか、実施の仕方を年1%づつにするなどの工夫しろや、悪影響を緩和する強力な対策が必要と答えている。
つまり、「財務省の主張する消費税の値上げに、6割の国民は反対している」のである。にもかかわらず、「6割の国民が消費税の値上げに賛成」と日経が見出しをつけるのは、日経自身が値上げに賛成だからである。世論を都合よくリードしようとするマスコミの常套手段である。
筆者は前にも書いたが、現時点での消費税の値上げには反対である。
「消費税の値上げは国際公約」という財務省の主張は嘘だし、海外のIMFなどの関係者から、消費税の値上げを促す話が伝えられているが、これらは、財務省の役人が日本のことを彼らの都合の良いように説明し、消費税値上げに賛成する話をするように仕向けられているにしか過ぎない。
消費税の引き上げに賛成の人の言っていることには矛盾が多い。
まず、膨大な国の借金があるからという人がいる。しかし、消費税の値上げで、膨大な国の借金は減らない。消費税を例え20%にしても、毎年の収支が少し改善するだけで、膨大な借金の削減には何も寄与しないのである。
毎年の収支をどうするかという話と、過去に積み上がった膨大な国の借金をどうするかは、全く別の議論なのに、それを混同している。いや誤魔化して話をしているのだ。
次に国際公約で、実施しないと、国債が暴落し、金利が大きく上がるという人がいる。消費税の引き上げは国際公約ではない。嘘を言ってはいけない。日本が約束したのは、財政の健全化であって、消費税の引き上げではない。
つまり、「日本は今後、こうした方策で、財政を再建して行きます」というシナリオを公表すれば、国際公約を守ったことになるのだ。安倍首相がこうしたことをきちんと説明すれば、ほとんどを日本人が所有する国債が暴落し、金利が大きく上がるなどということは起きはしない。
また、決断できない政治から、決断する政治にするためにも、消費税の引き上げをという人がいる。これもナンセンスだ。実施を1年延期するとか、年1%ずつに引き上げにするというのも、立派な決断で、決断できない政治ではない。
千兆円と言われる国の借金をどうするか。これは消費税ではどうしようもない。
解決策は一時的に臨時増税をするとともに、国の財産を処分して、国の借金を大きく減額するしかない。
前にも書いたが、戦争に負けて、マイナスの状態から再建した日本で、戦後70年近く経って、国には千兆円の借金があり、個人には1500兆円の個人金融資産があり、企業には2、300兆円の蓄えがある。
これを見れば、戦後、国と企業、個人の間の配分が間違っていたことが一目瞭然である。
これを正すのには、誰が考えても、個人の金融資産や企業の蓄えに臨時課税をして、半分から3分の1を提供してもらうとともに、国の財産を処分して、埋めるしかない。
個人金融資産の3分の2は65歳以上の年寄りが持っている。こんな金をあの世に持っていくことはできない。子や孫に過去のつけを残さないためにも、供出することに問題はないはずだ。
使い道がない金を多く持っているから、振り込め詐欺にかかるのだとも言える。
国の借金はゼロにする必要はない。半分から3分の1にすれば、他の先進国並みになり、日本の財政問題を海外からとやかく言われることはなくなる。
膨大な国の借金が減っても、毎年の国の収支は改善しない。
国の収支を改善するには、2つのことをしないといけない。1つは歳入の増加、もう1つは歳出の大幅削減である。
今の日本は税収が40兆円余りしかないのに、歳出が百兆円なのだ。
歳入増加の方法は、簡単だ。
まず、法人税と所得税を払っていない企業や個人から、しっかり税金を取ることである。今、きちんと税金を払っている人に増税するのではない。払っていない人や企業に、国民としての義務を果たしてもらうのだ。
企業で法人税を納めているのは全体の3割しかない。7割の企業は税金を払っていないのだ。資本金1億円以上の大企業でも、半分の企業が法人税を払っていない。こうした企業にきちんと税金を払ってもらうである。
資本金1億円以上の会社なら、赤字でも、売上げの1%、2%の税金を払ってもらうのだ。そして、個人も、所得のある国民全員に所得の最低1割は税金を払ってもらうのだ。税金を払っていない宗教法人や学校法人も当然、1割の税金を払ってもらう。
ざっくり言えば、法人税と所得税で、それぞれ30兆円、そして、毎年1%づつ上げ、十%になった消費税で十兆円、合計70兆円が歳入となる。
歳入が70兆円なら、歳出も70兆円にすれば収支はトントンになる。
歳出の削減の大きな対象は福祉関連予算である。
福祉予算は30兆円で、毎年1兆円づつ増えている。ここにメスを入れなくては、財政再建などあり得ない。消費税の引き上げなどでは焼け石に水である。
にもかかわらず、消費税の5%引き上げの内、4%を福祉に回すという話など、矛盾そのものである。
福祉を削るというと、新聞、テレビはとんでもないことだと、すぐに攻撃する。しかし、そうしたマスコミは福祉の現状を知らな過ぎるのだ。
年金など加えると、日本で福祉のために使われている金は年間に124兆円である。税収が40兆円しかない現状で、いかに福祉が異常に膨れ上がっているかがわかる。
福祉というと貧しい人対策というイメージがあるが、これはマスコミが作った間違った像である。1500兆円という膨大な個人金融資産を持ち、なおかつ、何千万円、億という不動産を持っているのが、65歳以上の年寄りなのだ。
その豊かな人に、苦しい財政の中から膨大な金が支出されているのだ。
大企業を定年まで勤めた人は、厚生年金と企業年金で、毎月50万円はもらっている。自分が貯めたのではない。自分が貯めた金はもらっている金の何分の1にしか過ぎないのだ。
その上に、この人たちは、老齢者だというだけで、健康診断を無料であったり、無料で弁当を週に数回もらったりしている。鉄道などの乗り物の料金も大幅割引だ。
細かく点検すれば、福祉の名の下の無駄遣いが山のようにある。これを見直せば、国の支出は大きく減る。
年金でも、65歳以上の人は自分が積み上げた以上のものを受け取っている。70歳代、80歳代は2倍、3倍の金を受け取っている。当然の権利ではなく、もらい過ぎなのだ。
厚生年金、企業年金など年金と名の付くものでの受け取りを、1世帯あたり最高20万円にするというようなことは、当然、しないといけない方策なのである。
健康保険も、その支払いのほとんどが老齢者のためである。
本当に重篤な病気になって手術というようなことなら良いが、そうでなく、少し調子が悪い、足が痛いというだけで、病院に行き、膨大な量の薬をもらい、検査を受ける。こうした無駄が健康保険財政をむしばんでいるのである。
アメリカの保険では、受診回数が増えるごとに、保険料が増えていくというシステムがある。だから、アメリカ人はランニングをして、医者にかからなくても良い体を作る努力している。
日本でも、普段の生活態度、病院の受診回数などで、保険料に差をつけるなどの方策も必要な時代になって来たと言えるし、健康保険の対象とするものと、そうでないものとの線引きも重要になってきている。
世界のどこの国でも、財政が赤字になると、公務員の数を大幅削減し、給料も大きくカットされる。それが行われていない先進国は日本くらいである。
日本の公務員は国、地方合わせて400万人。この人たちが、福祉対策や年金などを含めると、普通の国民の2倍近い恩恵を受けているのである。
地方に行けば、市役所の職員の年収は地域住民の2倍というのは、関係者なら皆知っている常識である。
公務員の人員を3割削り、年収を少なくても3割削る。これだけで、国、地方とも財政はかなり改善する。
財務省が発表する数字で、日本の公務員は世界平均で数が多くないというのがある。でも、これはトリックである。
日本には、旧公社、公団という役所に準じる組織が山のようにあり、その組織と、その関連組織を入れれば、数字は全く異なってくる。
消費税の引き上げで、財務省の応援を頼んでいるIMFは、日本の財政改善策として、公務員の大幅削減、給料カット、年金の廃止などを盛り込んだリポートを作っているくらいである。
20130829
非正規社員問題は従業員を正社員にするで解決
正規社員、非正規社員の格差が大きな問題になっている。しかし、官僚は「企業内の問題」という発想で、真正面から取り組もうとしない。
多くの官僚たちと長く付き合って来たが、彼らは自分たちに利益がある話、権益が拡大できる話には熱心だが、自分の利益に反する話には猛抵抗するし、利害が関係ない問題には、極めて冷淡で、真剣に取り組もうとしない。
非正規社員の問題でも、厚生労働省の態度はこれを解決しようということではなく、対策予算を獲得し、熱心に取り組んでいるふりをしているに過ぎない。
厚生労働省の本来の立場、法律の原則に立てば、非正規社員問題は真剣に取り組み、解決に全力をあげるのが当然だが、そんな様子は少しも見られない。
何故、当然、真剣に取り組まないといけないか。理由は簡単である。「同一労働、同一賃金」が労働法の大原則であり、その法律を遵守させる指導をしないといけないのが、厚生労働省だからである。
「同一労働、同一賃金」の原則は給料だけでなく、待遇も同一にすることを求めている。つまり、同じ質の労働を提供する者を正規と非正規に分けること自体が法律の趣旨に反しているのだ。
非正規社員の存在そのものが法律違反なのである。
労働者の側からこうした大原則について、おかしいと主張し、改善を求める声が出てきて当然だが、出て来ない。
なぜなら、労働者の代表である組合の幹部や、その上部組織の連合などは、正規社員である組合員の利権を守ることには熱心だが、組合員でない、非正規社員のことなど、関心の外だからである。
従業員を全員、正社員にしろというと、パートやアルバイトの従業員が多いサービス業や中小企業から、「無茶だ。そんなことをしたら、会社が潰れてしまう」という反論が出てきそうだが、そういうことを言う会社の経営者は、筆者に言わせると、経営者でいる資格はない。
筆者は20年以上にわたって、従業員数人の小さな会社を経営して来たが、雇った者は全員正社員とし、健康保険など3つの社会保険も全員に加入させて来た。
社会保険労務士の話では、筆者のような小さな会社で、社会保険を完備し、従業員全員を加入させ、保険料を負担しているところは少ないという話である。
確かに、社会保険料の会社負担は企業にとって、とても重い。経験では、社員に支払う給料の2割分程が保険料として、会社に上乗せされる感じである。
社会保険は旧厚生省と労働省に担当が分かれていて、両省庁が合併した後も、管理はバラバラで、支払いの方式も異なる。
企業なら合併したら、効率化で担当部署は統一し、人員の合理化を図るが、役所にはそんな発想は全くない。だから、役所の合理化は国民目線で厳しくしないといけないのだ。
社会保険のもう1つの問題点は、保険料率の改訂、つまり、アップに国会の審議は不要で、役人の独断でできることである。だから、筆者が20数年、会社を経営している間でも、料率は何回も大幅アップされた。
更に、その使い途は役人の裁量に任されていて、かなりの無駄遣いや、本来の用途以外に使うことがなされている。
かつて、「官僚は優秀だから、任せておけば、大丈夫」と言われたが、今は全く違う。国民の監視が絶対必要なのである。
社会保険の問題点はいくらでもあり、大改革は必要だが、ここではそれが主題でないので、このくらいにするが、会社を経営する以上、従業員を社会保険に加入させるのは当然で、それができない会社は市場から撤退しないといけないと筆者は考える。
日本の企業経営の大きな問題に、本来、市場から撤退しないといけない会社が潰れずに、市場に残り、無茶な安売りをしたり、劣悪な労働環境で人を働かせることがある。
大手都市銀行はかつて13行あった。それが、今は3つである。こうなったのは、金融の自由化で、世界で競争し生き残っていけないところは吸収合併されて、会社はが消えたからである。
ところが、その他の産業ではこうしたことが置きにくい。
その理由は、監督官庁がまさに護船団方式で、自分の役所の監督下にある企業を支援して、淘汰をさせようとしないからである。
理由は企業の数が減れば、担当予算が減るし、天下り先も減るからである。
だから、本来なら潰れるべき会社が生き残り、真面目に経営をしている同業他社の足を引っ張っているのだ。
本来なら、一度、倒産させて、徹底した合理化をした上で、新しい経営者の下に再生しないといけなかった東電やJALは政治力で、倒産を免れた。だから、福島原発問題は今でも迷走し、平気で嘘の情報を出し続けているのである。
では、パートもアルバイトも全員正社員にして、どう対応するのか。これも簡単である。
フルタイムの社員で、同等の労働をする正社員が月給30万円をもらっているとしたら、週3日のパートの人は労働、拘束時間、責任の度合いの割合で給料を受け取るのである。つまり、労働、拘束時間がフルタイムの社員の半分なら、月給は15万円にするのだ。
勿論、企業は現状がそうであるように、社員を総合職、一般職、工場作業員、店員などで、給料形態を変えることはできる。また、転勤ができる人と、転勤ができない人で待遇に差をつけることはできる。
ただ、同じ店員なら、同一労働をする者に対して、労働、拘束時間、責任の度合いなどの差で、給料に差をつけるのは良いが、フルタイムでないからと言って、時間あたりの給料を低くしてはいけなくするのである。
同じ店員や工場作業員であっても、良く働き、結果を出している人と、そうでない人がいる。この労働と結果に応じて、例えば、能力発揮度で5段階に分けて、給料や出世などに差をつけるのは、当然、問題ない。
ただ、その制度を明示して従業員に示し、働く者が、どうなったら自分がいくらの給料をもらえるのかがわかるようにしないといけない。
こうすれば、例えば、結婚、出産した女性社員が、育児休業の後、週3日の勤務で会社復帰するというようなことが可能になるし、子供の手が離れた時も、フルタイムに戻ることも無理なくできることになる。
現在、小売店や飲食店などでは、パートやアルバイトの方が優秀で、正社員の質はそれより下というようなことは珍しくない。でも、全員を正規雇用にすれば、こんな馬鹿げたことはなくなるのである。
そんなことは中小企業や、小売店、介護などの労働現場を知らない人の綺麗事という反論が聞こえて来そうだが、それは違う。こうした業種で、筆者が書いたように、全員を正社員として雇用し、きちんと経営している会社の例はある。
そうした会社に行くと、パートやアルバイト的な身分だった人が、より会社のことを考えるようになって、より良い提案が出てくるようになったし、モーティベーションが上がったので、会社は負担が増えた分以上のリターンを得ていると、経営者は話す。
もう一度書くが、「同一労働、同一賃金」は労働法の大原則である。そして、これを企業に守らせるのは、厚生労働省の仕事なのである。
日本の役所は、例えば、親会社の下請けいじめなどには口を出さない。なんのために、公正取引委員会は存在するのかと思えるようなことが、日本のいたるところで起きている。
例えば、トヨタは毎年、下請け企業に部品の納入価格の値下げを命令する。交渉ではなく、命令である。しかも、それをFAXで通知してくるのだ。
トヨタがそれを始めたので、日産やホンダなど他の自動車会社でも同じことを始めた。
トヨタは日本を代表する超一流企業とマスコミは褒めたたえるが、こんなことを平然としている会社がどうして超一流企業かと筆者は思う。
トヨタの名誉のために言えば、こうしたことをしているのは、自動車業界だけではない。ある電気部品メーカーの社長は、「決算で利益が出たことが新聞に乗ると、その日の内に、大手電機メーカーから、そんなに儲かっているなら、納入部品の価格を下げてくれという電話がかかって来る」と話す。
働く者を正規と非正規に分けて差別をする同じ発想が、親会社と下請けの間にあるのである。そうした差別をなくさなくて、どうして、日本の大企業が世界的な企業と言えるのかと言いたい。
20130827
車や家電、本の販売不振は消費者無視の戦略にあり
日本は20年にわって消費不況で、デフレが続いていて、どうしようもなかったのだと言われて来た。消費者が物を買わないのだから、企業は経営不振になり、リストラをしたり、非正規の従業員を増やすなどしてきて、それがまた、購買の減退につながってきたというのだ。
しかし、筆者はそれは違うと思う。筆者は「企業が買いたい商品を販売しないから、消費者が買わないのだ」と自分の生活体験を通して感じている。
例えば、車を例に取ると、買いたくないような小型の安い車と、目が飛び出る位高い車のどちらかしかない。従来はブルーバード、カローラ、シビックというような、1600、1800、2000ccの日本の道路に合ったセダンタイプの車が種類が豊富にあり、消費者はその中から選択ができた。
だが、今は、このクラスの車は車種が大幅に減らされ、消費者は選択肢が大きく減らされている。しかも、かつてのきれいな車のスタイルではなく、トランク部分が小さくて丸く、バンのようなスタイルのような車ばかりである。
そして、少し余裕ができたら買いたいと思っていたトヨタのクラウンは、以前の280万円が今や500万円と2倍近くしていて、消費者に買うなと言っているような販売戦略である。
車の販売店で店員に、「どうして、160万円から250万円くらいだった、従来の普通のセダンタイプを売らないのか?」と聞くと、「そうおっしゃるお客さんは多いのですが、メーカーがそうした車を出さないのですよ」と言う。
自動車だけではない。家電製品では、かつて、7、8万円で買えた冷蔵庫やエアコンが15万、20万円になったし、十万円くらいだったパソコンが15万、20万する。これも多くの消費者に、「買うな」と言っているような販売戦略である。
スマホやタブレット端末の普及もあるが、パソコンの戦略が間違っているのである。
どうしてこうなったかと言えば、筆者の理解では、80万部を越えるベストセラーになった三浦展氏が書いた「下流社会」(光文社新書)で、三浦氏が勧めた企業の販売戦略に多くの企業が従い、消費者にそっぽを向かれたのだと考えている。
「下流社会」は読まれた人も多いと思うが、一言で言えば、従来、上流2割、中流6割、下流2割だった日本社会が、上流が10から15%となり、中流が4、5割に減って、下流の人が5割近くになったというものである。
中流の人が減って、下流の人が増えたという分析は、鋭いもので、社会に大きなインパクトを与えた。筆者は、この三浦氏の分析は素晴らしいのであると評価する。
しかし、最後で三浦氏が、こうした社会で企業が取るべき戦略として勧めたことが間違っていたにもかかわらず、多くの企業がそれに従い、消費者に見限られたのだと考える。
三浦氏が何を勧めたかと言えば、まず、従来、6割を占めていた中流層が減り、下層が増えたのだから、安い製品を作って売ることである。しかし、それでは企業は従来の利益を確保できないので、次に1、2割の上流層には、より高級な物を作って売れと勧めた。
三浦氏がこう勧めたので、企業が右へならえをしたとは言わないが、マニュアル社会で、言われたことをその通り覚え、その通り実行してきた人が一流大学を卒業して、一流企業に就職するようになった社会では、「教祖」と言えるような人の話に多くの人や企業が従うという現象が起きるのである。
安い商品がどんどん出てくるようになると、「安いことは良い事」というような風潮が生まれ、マスコミも激安の商品や食べ物などが出ると、飛びついて報道し、企業は安値競争に陥り、企業や店は自らの首を絞めて行った。
安くするためには、素材を悪くするか、手を抜くかないので、死者を出すような激安高速バスや、飲食店が出てくる事態となった。
1割くらい減ったと言っても、中流層は国民の半分いるのである。
企業の最大の間違いは、その半分の人を無視する製造戦略、販売戦略を取ったことである。これでは、物が売れなくなって当然である。
別の日の日記で、今の日本では教育に金がかかるようになり、親が豊かでないと一流大学に行けないようになり、一流大学の学生は豊かな家の子たち中心となったということを書いた。
これは教育問題だけでなく、企業の大きな問題になっている。
というのは、一流企業は一流大学の学生を採用している。ということは、大企業の社員は普通の国民感覚がわからない富裕層の集団になりつつあるということである。
それが、マニュアルに従って、右へならえで、間違った戦略を取るのだから、物は売れなくなって当然である。
言われたことをその通り覚えて一流大学に行き、一流企業に務めた人がいかに消費者無視の商品を作っているかの例は枚挙の暇がない。
ガスレンジで魚を焼いていると、一定時間経つと、火が小さくなり、やがて消えてしまう。中まで火を通そうと、弱火で焼いていると、これも途中で消えてしまう。
ガス漏れが起きないようにということで、消防庁からの指導もあるのかも知れないが、自分で魚など焼いたことがない人が製品を設計する、消費者無視の典型例である。
戸を開けて一定時間経つと、ピー、ピー音が鳴って、落ち着いて掃除もできないくらい、うるさい冷蔵庫、洗濯の途中で、洗濯槽の中を見ようとすると、いちいち回転を止めないと、中を見たり、洗剤を入れたりすることができない洗濯機など、馬鹿げた商品が山のように出ている。
女性が靴を買おうとすると、普通の店では、24.5や25くらいのサイズまでしか置いていなくて、それよりも大きな靴を買おうとすると、苦労をする。
今の若い人は成長も良く、足のサイズが大きくなっている人も結構いる。にもかかわらず、26というようなサイズの靴はないのである。
消費者が変わってきているので、それに対応するという発想がないのである。
本も同じである。
出版不況と言われ、本が売れないということを言われて久しい。だが、筆者は本が売れない最大の理由は、出版社の編集者の編集方針が間違っているのだと考えている。
筆者は本が好きで、多くの本を読み、賞を取るなどして話題になった本は目を通すことにしているが、ここ数年、話題になったり、賞を取った本で良いと思えるものはまずない。
本をメインで読んでいるのは、50歳代、60歳代以上の世代である。この人たちが読みたいものは、自分の人生を思いだし、それになぞえるようなストーリー展開のものである。
しかし、ここ数年、賞を取った本は、現実には有り得ないような筋立てだったり、話題のための話題作りのようなもので、消費者が求めるものと大きくかけ離れているように感じる。
テレビ番組も一緒である。
世界で最低の番組と言われるくらい、中身のない、どうでもよいような番組を作って放送しているので、消費者のテレビ離れは進み、テレビ局は構造不況業種になってしまった。
では地上波を見なくなった人たちがテレビを見なくなったのかと言えば、違う。多くの人が中身のあるCS放送を契約し、そちらを見ている。CS放送を見ている人は十人に1人というところまで来たのは、地上波が消費者無視の番組を作ったためである。
何年か前に、トヨタ自動車が大きな赤字を出した時、現場の実情を知らない社長、副社長など首脳部が、現場の反対を押し切って間違った戦略を取ったためと言われ、その首脳部は事実上、責任を取らされて、更迭された。
トヨタに限らず、こうした例はいくらもあるが、その経営者は経理、財務や人事など現場を知らずに出世して行った人間で、机の上で、頭だけで考えて、計画を作るタイプである。
物が売れるようにするのは簡単である。消費者が求める物を作り、売ることである。
消費者の声を聞くというと、半プロのモニターの意見を聞いているという反応が企業からあるが、それではダメなのだ。本当の消費者が何を求め、何が不満なのか、社員が自分で歩いて、消費者の声を聞くようにしないといけない。
消費者は大きく変わって来ている。その変化に敏感になり、本当のニーズを掴めば、物は売れるのである。
手を抜いたり、人任せにしたり、机上で頭で考えるから、物が売れないのだ。
20130820
大卒検定で3割落第で大学改革
大卒者の新卒採用を13年担当し、累計で十万人を越える大学生の採用を担当して来て感じたことは、最近の大学生の質の著しい低下である。
テストをしてみると、小中学生でオール3くらいの成績の子なら解けそうが問題を解けない学生が半分近くいる。
その多くは、残念ながら不正解というようなものではなく、お手上げ状態で、誰でもが知っているような内容の問に、何も書けずに白紙に近い状態で答案を提出している。
不合格になった学生はそれでも仕方がないかも知れないが、面接選考を通して合格して、採用を決めた学生に成績書を提出してもらうと、お情けで落第せずに、どうにか卒業にこぎつけるという学生が少なくないのである。
筆者が採用を担当した企業は、合格するのはかなり難しい会社で、東京なら早慶、関西なら関学、同志社以上のクラスでないと合格しにくい所である。その会社で合格した人間でそうなのである。
前に書いたように、今の日本では高校で7割の学生が落ちこぼれる。それでいて、大学の進学率は5割を越えている。だから、3、4割の大学生は高校の授業について行けずに、落ちこぼれたまま、大学に進んでいる計算になる。
今の日本の大学は、入試試験に名前さえ書けば合格というところが半分以上と言われ、偏差値の高い上位大学を除けば、実質的には、誰でもが大学に進学できる全入状態である。
そして、上位の大学も含めて、箸にも棒にもかからない学生を除いては、大学は卒業させる体制なので、学生に落第の危機感がない。だから、ほとんどの大学生が勉強をせずに、遊び、アルバイトが本業というような状態なのである。
馬鹿げた行為をした写真を自慢げにネットで公開する大学生が結構いるが、ゆるゆるの大学の実情が、日本の大学生のレベルをその程度にしてしまったのである。
勿論、優秀な学生はいる。でも、そうした学生は例外のような存在なのである。
そして、できる学生でも、知識はあるが、アイデアや知恵がなく、暗記で良い中高大に進んだという感じの学生が多いのである。
高卒で就職したくない。働きたくないから、大学に行く。そんな大学生が大勢いる。だから、2、3割の学生はアルバイトも含めて、働こうとも考えすに卒業していくのである。
マスコミは大学生の2、3割が就職できなくて、大変。就職難で厳しいと書くが、それは全く違う。就職しない学生のほとんどが、する意志がない学生なのだ。
どうしてそうなったか。理由は簡単である。
少子化で子供の数がどんどん減少しているのに、大学の数、入学できる大学生の数をどんどん増やしているから、本来、大学に入るべきではない者が多く大学生になるからである。
また、上位大学も経営が厳しく、大学生はお客様という姿勢なので、できない学生を落第させるということには、極めて後ろ向きなのである。
大学生の全体の質の低下は、日本企業の質の低下につながる。
かつて世界を制した日本企業が今は欧米企業だけでなく、中国や韓国の企業に負けるようになった一因に、筆者は大学生の質の劣化があると考えている。
1980年代に日本企業はアメリカ企業を次々に打ち負かし、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた時、アメリカでは、企業から大学に対して、「日本に負けた大きな原因は、大学の教育のあり方にある」という強い批判の声が出された。
そして、これを受けて、アメリカの大学は教育の改革を行い、質を向上させたのである。
筆者は、20年にわたって不況に苦しんで来た日本を再生させる方法の1つに、大学を再生させることをしないといけないと考えている。
大学の質の向上を大学に期待するのは無理である。
少し良いアイデアを学長や大学幹部が考えても、無能で改革を好まない教授会が反対して、潰してしまうからである。
ではどうするか。これも簡単で、大学卒業検定を実施し、大卒の名前にふさわしくないレベルの学生は不合格にすることである。
現在の暗記中心で知識を問うような問題は一部で、自分で考え、アイデアを出すようなことについても、大卒者にふさわしいレベルを求めるのである。
今、それを実施すると、多分、大学生の過半数が不合格になるだろう。
そして、不合格者が多い大学には学生は集まらなくなり、自然淘汰が進むし、働きたくないからとか、遊びたいから大学に行くという者は大学に進まなくなる。
レベルの高い大学でも、必死になって学生を教育せざるを得なくなるから、嫌でも学生の質は上がっていくことになる。
東ドイツと合併する前の西ドイツでは、大学生で決められた年限で卒業できる学生は、全体の半数と言われた。半数はともかくとして、3割くらいは落第するくらいの厳しさにするのである。
こうすると、副次効果として、企業の青田刈り採用はなくなる。3割もの学生が落第するようなら、怖くて早期内定など出せず、企業の採用活動は卒業間際の2月、3月に集中することになる。
日本の大学の質の向上のための別の対策は、トップクラスの大学の大幅改革である。
筆者のアイデアは、7つある旧帝大の大学生の数を各学部百人に絞り込み、授業料を無料にし、全寮制で全人格的な教育を英語で行って行くのである。
そして、4年の内、1年間の海外の大学への留学を義務とするのだ。
校舎は今のような都心ではなく、秋田の国際教養大学のように、山の中の過疎の地区に持って行き、各学部とも日本人学生と同数の留学生を受け入れるのだ。
優秀な子供は国の財産であるという発想で、国が全面的な支援体制を敷くとともに、大学時代から異文化の人とのコミュニケーション、交渉力を養う訓練をするのである。
授業は現在の教授はカビの生えたような十年一日のような講義形式ではなく、欧米の上位大学のように、教科書や参考書は事前に予習してくることを前提にして、質疑、討議形式とするのである。
当然、これについて来れない教授、准教授、アルバイトをしたいので、東京や京都を離れたくないというような人間はドロップして行くことになる。これで、教授が不足することはない。古手が頑張っているので、有能な若手が遮られているということがこれで解消することになる。
では、その費用はどうするのかと言うと、旧帝大が都心に持っている広大は土地を売却して、建設資金に充てるとともに、残りの金はファンドとして運用し、毎年の費用の足しにするのである。
大学の移転は、今大学がある場所の再開発にもつながる。
現在、文部科学省は年間4千億円にのぼる私学助成をしている。これを廃止し、7つの旧帝大に振り向けるのである。
その代わり、私立の学校には、寄付を認め、学費に加えて、卒業生や父兄などからの寄付で、運営させるのである。
これまでの日本では、官僚が認可し、監督権を持つ財団や社団法人以外に寄付をしようとすると、寄付する人に税金がかかって来た。
これは寄付を認めると税収が減ることを避けるとともに、自分たちの天下り先だけに寄付の金を集中しようとしてきた官僚の発想から、そうなっていたのである。
でも、学校法人への寄付には税制優遇を認めるようにすれば、残らないといけない私立大学や私立高校には、寄付は集まって来る。
ここでも、良い大学は残り、大学として存続する意味のない大学は淘汰されることになる。
20130819
教育改革、小学生に卒業検定、教師に採点制度
学校群制度の導入が東京都立高校をガタガタにして、それが公立の小学、中学の崩壊につながり、子供に教育費をかけられない世帯と、豊かな家庭の間に格差を産み、所得格差が教育格差になり、一流大学には金がないと極めて入りにくくなっている実情を招いたと前に書いた。
学校群制度は公立学校の崩壊の引き金になったが、日本の教育をダメにしている一番の理由は、地域や学校毎に異なる事情を全く考慮せずに、1つのルールで一律管理し、なおかつ、問題が起きた時には、問題を直視しようとしない文部科学省の姿勢そのものにある。
そして、その下部組織とも言える各地区の教育委員会の、事実を隠蔽し、逃げまくるという無責任で、どうしようもない体質が、文科省の間違った行政に輪をかけて、現場を混乱させていることが、日本の教育の不幸につながっていると言える。
文部科学省だけでなく、どの省庁にも共通するが、現場の実情を知らない東京の中央官庁が作った全国一律のルールで、日本全体を管理しようということ自体が全く時代遅れになって来ているのに、官僚たちは既得権益を手放したくないので、それを守ろうと必死なのである。
他の省庁のことはともかく、公立学校の教育を改革して、私たちの世代がそうであったように、貧しい人が公立学校でしっかりした教育を受けられ、塾や私立学校に行くことなしに、東大や早慶に入れるような状態に戻すには、学校毎にもっと自治権を与えて、文科省や教育委員会の馬鹿げた管理、指導を大幅に減らすことが重要である。
自治権は現場の教師だけに持たすのではない。教師と父兄、そして、地域住民から構成される理事会が、その学校の教育方針を決め、問題が起きた時の処理にもあたるのである。
そして、生徒やその親は、それぞれの学校の教育方針を見聞きして、学校を選ぶ。どの地区の住民だから、どの学校に行くという制度も止めるのである。
現場の各学校の理事会が大幅な自治権を持つことは、大きな義務を負うということでもある。問題が起きた時に、嘘をつき、逃げまくる校長ではなく、事実を把握し、適切に対応する理事長がいれば、多くの問題は解決できる。
大きな自治権を持てば、現状のような、管理のために文科省や教育委員会が各教師や学校に課している膨大は資料による報告は不要になってくるし、それでも残る事務作業は、教師の資料を下に、しかりした事務職員が行うことにする。
そして、教師に大きな負担になっている部活のコーチ、監督業務からも教師を解放し、専任コーチの採用すれば、教師は嫌でも、子供の教育に時間を割くことになるし、「忙しいから」という言い逃れもできなくなる。
勿論、無能で事なかれ主義の教育委員会から学校が自治を取り戻し、教師に教育に割く時間とエネルギーを多くしても、それはスタートであって、それだけでは、これだけガタガタになった公立学校の再建はできるものではなく、加えて、いくつかの対策が必要である。
これも前に書いたが、教育の世界では、7・5・3という言葉がある。小学校で3割、中学で5割、高校で7割の生徒が落ちこぼれるということである。この落ちこぼれ対策をまずしないといけない。
上の学校に行く程、落ちこぼれの率が高くなり、高校で7割の生徒が落ちこぼれるのは、小学校で勉強の基礎ができていないからである。
現場で子供を実際に教えてみるとわかるが、小学校3、4年で多くの子供の落ちこぼれが始まる。算数で言えば、分数や小数が出てきて、その考えが理解できないことで躓きが始まり、算数嫌い、理屈嫌いの子供を産み、それが勉強嫌いを産んでいくのである。
「数学、算数は難しいから、落ちこぼれが出ても仕方がない」 そう思っている人は多いと思うが、それは違う。
筆者の体験で、中学で通知表の成績が「1」がほとんどで、「2」がパラパラという生徒に、小学校でわからずに卒業してきた算数を丁寧に説明すると、目の色が変わってきて、理解できるようになる。そして、数学がわかって来ると、他の科目の成績も上がって来る。
筆者はそうした生徒を何人も指導し、より良い高校に進学させている。
体験から言えば、小学校での指導にもっと時間を割き、他の子供が1年で理解できるものに、2年をかけても指導し理解させる。それが、落ちこぼれ対策の一番の近道である。
そのためには、理解できなくても、学年とともに進級させ、卒業させるという今のあり方を改めないといけない。
では、どうするかと言えば、小学校の生徒に卒業検定を受けさせ、理解できない者は、1年でも2年でも余分に勉強させ、きちんと理解してから卒業させることである。
今の教育現場の教師の教え方も、教科書も教育教材も、きちんと理屈や理論を教えるのではなく、「この通り覚えろ」というやり方である。
何故、そうなっているかと言えば、年間で覚えさせないといけない内容が多すぎることに加えて、教える教師自身が「この通り覚えろ」と言われて育った世代だからである。
要領の良い子供は、納得できなくても、暗記して対応できるが、要領が良くない子、理解が遅い子に限って、納得できないと先に進めないのである。そして、わからないまま先に進まれるので、数学、算数が嫌いになり、それが勉強全体嫌いになって行くのである。
他の生徒よりも年数をかけて卒業となれば、親が嫌でも、子供の教育に関心を持ち、放課後や土日、長期休暇期間の補講や、理解度別のクラス編成も、否応なく受け入れざるを得なくなって来る。
それでも、文句を言って来る親に対しては、教師ではなく、理事会がきちんと対応するのである。そのための理事会であり、学校の自治権なのである。
「当行の教育方針に納得できないなら、他校に行ってください」 公立学校ではそれが言えないので、苦しんでいるし、生徒や親も学校を選べないので、ひどい学校でも入らないといけないのが、現状であるが、公立学校でも選択の自由化を現状以上に進めれば、こうした問題も解決して行くのである。
「落第させたら、可哀想」「子供に傷がつく」 朝日新聞などはそう書きそうだし、そういう人も少なくないと思う。でも、それは違う。
中学で習うことは、小学校の基礎がしっかりしていれば、7割は文句なく理解できる。新しいことは3割くらいである。中学と高校の関係も同様である。
だから、小学校で1、2年余分に勉強しても、基礎がしっかりしていれば、中学、高校で遅れを取り戻せて、高卒時点では同じ年数で並ぶことも決して難しくない。
そもそも、理解できなくても、年齢で卒業させるという発想自体、一律管理の官僚の発想なのである。
子供は早熟の子もいれば、大器晩成型の子もいる。また、親や塾に教わり、かなり先に進んでいる子もいれば、ずっと遅れている子もいる。それを年齢が同じだから、そのまま進級させるという考え自体が間違っていると筆者は考える。
算数、数学の話をすれば、今は小学校で「X」で問題を解くことを教えている。そして、筆者たちが習った「旅人算」「流水算」という、数学ではなく、算数で考えて解くという指導がほとんどされていない。
学校で教えないから、書店に置いてある参考書、教材でも、「旅人算」「流水算」などの算数をきちんと説明しているものはほとんどない。
これが、子供の理解を大きく損なっている最大原因だと筆者は考える。
「X」を使わずに、頭で考える、その訓練が後々、物事を考え、整理していく上で、とての役に立つのだが、それを子供から奪っているのである。
ちなみに、大学生が就職しようとする時に、避けて通れないSPIテストは、「旅人算」や「流水算」など算数をしっかりやって来た人間には、簡単に解ける内容である。
私立中学受験をした者は、避けて通れないので、塾でその「算数」の理屈を教わる。でも、公立の小学校ではほとんど教えない。差がついて当然である。
生徒に卒業検定制度を導入するのだから、教える側の公立の学校の教師の指導について、採点制度を導入しないと不公平である。
公立の小中、高校の授業を何回も見たが、かなりひどい教師がいるのは事実である。指導される生徒に教師の指導法について採点させるのである。
単に良い、悪いではなく、もっと細かく具体的に点数をつけさせる。そして、通信簿で言って、生徒の評価が「1」と「2」の教師の授業をビデオで撮影して、それを何人もの専門家に見せて、問題点を指摘し、改善の指導をして行くのだ。
生徒に採点させると、人気取りの教師が良い点数がつくという批判が良くあるが、生徒は良い成績を取らないと、卒業できないのだから、甘い教師よりは、厳しくても指導のうまい教師に良い点数をつけるのは当然である。
更に、その教師が教えた生徒の平均点数が他の教師が指導した生徒よりもかなり低い場合も、ビデオ指導の対象にする。
そして、ビデオ指導をして、3年経っても、改善がない場合には、退職してもらう。
多くの学校で教師の授業を見たが、明らかに教師に不向きな人が結構いる。そうした人をいつまでも教師でおいておくのは、生徒だけでなく、本人にも不幸である。
卒業検定制度の話に戻ると、筆者は、小学校だけでなく、高校、大学にも卒業検定制度を設けるべきだと考えている。
教わる内容の7割以上を理解していない生徒、学生は卒業できないようにする。これを実施するだけで、教育現場は大きく変わる。
「高卒で就職したくないので、大学に行く」「他の人が行くから自分も行く」 そんな人や大学に行かなくなるし、「大学は遊ぶ場所」という現状は大きく改善される。
20130814
公務員改革は大臣に人事権を
日本は20年あまりにわたってデフレ、不況が続いていて、1980年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われ、アメリカを追い抜いたと感じた国民が多かった時代と比べて、今の日本人の自信のなさ、どうせ何も変わらないという諦めの蔓延は目を覆う状態である。
豊かな時代を経験していない若者世代は、日本に対する尊敬や自信など持ちようもないのも当然と言える。
80年代の絶頂から地獄の底に転落した最大の理由は、大幅に緩めていた金融を、ある日突然に、ギュッと閉めて、日本を窒息させた日銀の間違った施策にある。
確かにバブル時代には多くの行き過ぎもあった。日本人も調子に乗り過ぎた。企業の頑張りに加えて、バブルが起きた大きな原因は金融の超緩和にあった。
あまりに行き過ぎたので、何とか対策を打たないといけないと日銀幹部は考えたのは当然である。だが、徐々に締めていくならわかるが、ある日、突然、ギュッと閉めたのだ。その結果、膨れていた風船は破裂し、そこここで、多くの悲劇が起きたのである。
日銀を担当記者として取材した経験があるが、有名受験校から東大に進んで、日銀に入った日銀官僚は世間を知らず、高給を取り、仕事をしない集団である。それでいて、金融機関に対してなんだかだと難癖をつけ、嫌がらせをする。
それでも、何もしないなら、まだ、国への被害は少ないが、何かことを始めた時に、日本を揺るがすことになる。バブル崩壊はその典型である。
リーマンショックで世界がどん底に落ちた時、欧米の中央銀行は通貨をそれまでの3倍、5倍と刷って、金融緩和をして、危機に対応した。だから、倒産して、企業がなくなってもおかしくなかったGMやAIGが短期間で立ち直ったのである。
これに対して、日銀は政府の金融緩和要請に対して、これに対応しようとせず、世界の先進国の中で、日本だけが長く不況に苦しむことになったのである。
その状態は黒田氏が日銀総裁になって、少し解消されたが、欧米が数年来の金融緩和から解除に向かおうというタイミングでの金融緩和だったので、「世界からは何で今?」と不思議がられたのである。
日銀に限らず、官僚は中学高校、いや、小学校時代から勉強漬けで東大まで進むので、世間を知らない。一般の国民が何を考え、何を望んでいるかがわからないのだ。
筆者が中学、高校、大学と進んだ頃は、都立高校全盛時代で、都立日比谷高校から1年に200人近い生徒が東大に進んだし、その他の学区でも、西、戸山、小石川、両国、上野という都立から、1年に50人以上の生徒が東大に進んだ。
筆者もそうした東京の地区でナンバーワンと言われて都立高校で学んだ者だが、公立の中学校で頑張って良い成績を上げて、こうしたナンバースクールと呼ばれた高校に進めば、今の優名私立高校並の授業が受けられ、塾や私立に行かずに、東大、早慶にそれほど難しくなく入ることができた。
だから、同級生には家が貧しくて、服に継ぎがあたっているような生徒は何人もいた。そうした生徒が東大に進めたので、東大生が一般人の目線でものを考えることができたし、官僚になった後も、庶民目線、国民目線で仕事ができたのである。
しかし、学校群制度の導入で、都立が崩壊して、都立高校で満足な授業が受けられなくなると、有名私立高校に進んだ者が東大に進む中心勢力となった。
親に金がない子は私立に進めないし、有名塾にも進めない。その結果、東大生の親は全国の大学の中で、一番豊かな人たちの集団となり、東大から官僚に進む者は国民感覚からどんどん離れて行ったのである。
戦後の奇跡と言われた日本の復興に中央官庁の官僚が果たした役割は大きい。
しかし、それは筆者の経験したような普通の国民目線をもった官僚たちだったからで、施策もそれほど実態と離れていなかった。
だが、高度成長で日本が豊かになり、貧富の格差が大きくなり、かつ、安価で行ける公立高校が没落すると、東大、京大の生徒は親が豊かな人の子たちになり、庶民感覚とどんどん離れていったのだ。
80年代以降、日銀だけでなく、大蔵省(現・財務省)、通産省(現・経済産業省)、外務省など主要官庁が行った施策はことごとく実態と離れていて、日本をよりダメにしていったのである。
日本の農業を保護すると言いながら、やる気のある農民の手足をしばって、三ちゃん農家を保護することで、農業の零細化、高齢化を招き、日本の農業をダメにしていった最大の犯人が農水省というようにである。
官僚のすることは実態に合わなくなっただけでなく、自分たちの利権確保が第一の目的になり、官僚は今や、日本で最大の利権集団になったのである。
日本の改革で一番先にしないといけないことは、官僚中心国家、権力の一番上に官僚がいる今の日本の実態を変え、国民に実験を取り戻すことである。
日本のマスコミは何かというと、政治家のダメさ加減を攻撃するが、政治家はダメなら国民が選挙で落とすことができるという歯止めがあり、主権在民が確保されている。
しかし、官僚にはそれがない。誰のチェック機能も効かないのだ。だから、官僚は好き勝手をするし、政治が国を変えようとすると、最大の抵抗勢力になるのである。
官僚の抵抗で規制改革が進まないことを、マスコミは「岩盤規制」と書き、その改革の難しさを強調する。
だが、筆者に言わせれば、官僚の岩盤規制を崩すには簡単だ。法改正や大改革など要らずに、簡単に改革ができる。
それは各省庁の部長級以上の人事権を大臣に持たせることである。
日本の企業で大した実績や能力がない社長が、長く実験を持ち続けることができるの最大に理由は人事権を持っていることである。
人事権を持っている人間に逆らえば、降格や解雇、左遷という報復が待っている。だから、幹部は社長、会長のイエスマンにならざるを得ないのだ。
企業経営者は選挙によるチェックはないが、政治家にはそれがある。もし、誰が見てて不当と思えるような人事をすれば、まず、首相が更迭するだろうし、それがなくても選挙で落選の危機を迎える。
大切なことは主権在民である。国民がイエス、ノーと言い、選挙で落とし、自分たちの代表として政治を委ねる人たちを官僚の上に置くことが重要なのである。
官僚のもう1つの問題点は、セクショナリズムである。各省庁が協力して問題に当たるという発想など皆無に等しい。自分たちの利権確保が最大の関心事なので、権利だけ主張して、他の省庁と協力するという発想がないのだ。
他省庁とだけでなく、同じ省庁内部でも局が違うと、意見を戦わせて、より良い施策を決めて行くという習慣はなく、他局のことには口が出せない状態になっている。
こうした官僚の体質が日本がより良い施策を実行するということの大きな障害になっているのだ。これを改革して行くのも簡単だ。
公務員の採用を今の省庁毎から、人事院採用に一本化することである。そして、課長になるものは3つの省庁を経験すること、局長になるものは、3つの異なる省庁で課長を経験した者とすることである。
これだけのことで、セクショナリズムは大幅に減少し、各省庁が協力して物事にあたっていこうという機運が生まれることになる。
もう1つ、公務員のこれからの役割は、従来の発想にない柔軟、ユニークなアイデアを提供して、国民に選択肢を示すことである。
そうするためには、東大法学部出身者が中心の官僚は、時代に合わなくなっている。
国を管理していくには、当然、法律の知識は必要で、法学部出身者は一定数はいないといけない。
でも、言われたことを言われた通り覚え、過去の慣例をそのまま踏襲するタイプの法学部出身者がほとんどという現状では、これまでにないアイデアを出せなどと言っても無理である。
そこで、採用を色々な学部から均等に採用していくというように改めるのである。これも法律の改正など要らない。採用担当者の意識、基準だけ変えれば良いだけである。
最後に、公務員改革をするにあたって、一番の敵はマスコミである。
選挙に選ばれた政治家である大臣が局長や次官の人事に自分の意見を通そうとすると、「大臣ご乱心」というようなトーンで原稿を書いて、それを潰しにかかるのがマスコミである。
また、何かあると、「役所は何故、もっと厳しく監督、規制していなかったのだ」と書いて、官僚の権限が増すような原稿を書くのである。
だから、問題が起きると、官僚の利権がどんどん増えて行くのである。
政治は主権在民で、その主権を持つ国民が選んだ政治家に権限を持たせなくて、どうして、国民の希望する政治など行えるというのだと思うが、マスコミはそれがわかっていない。
政治家にきちんと仕事をしてもらうために権限を与える。そうなれば、国民を選び方も変わって来るし、ダメな政治家を落とすようになってくる。
「優秀な官僚に任せておけば、日本は大丈夫」という時代はとっくに過ぎて、過去20年間、官僚は間違いだらけだったのに、それが一番わかっていないのがマスコミである。
20130812
学者、評論家の消費税上げるべきとの大合唱の不思議さ
来年4月からの消費税の引き上げを予定通りするかどうかで、盛んに議論が行われているが、テレビに登場して、この問題を話す学者、エコノミスト、評論家で、消費税の引き上げを延期すべきという人はほとんどおらず、ほとんど全員が引き上げを主張する。
テレビで、こうしたものを見ていると、私などは逆に違和感を覚える。
これだけ大きな議論になっていて、意見が二分している問題で、どうしてテレビに登場する人は賛成論者だけなのだろうか。テレビ局は、賛成する人間だけ選んで登場させているのかとさえ、思える一方的な話である。
でも、何故、こうなるかと言えば、答えは簡単だ。
登場者はほとんどが財務省の息がかかっているということである。
個人的に話を聞くと、別のことを言う人でも、テレビでは引き上げを言う。
不思議に思って、話を聞くと、反財務省的な発言をすると、報復が怖いのだという。様々な許認可権や監督権限を持つ財務省に逆らうと、別のところで仕返しをされるというのだ。
財務省の嫌がらせの例は私も多く知っている。
財務省を批判する原稿を書き続けていたライターが、突然、税務査察をされて、取材のメモもすべて押収されてしまったなどという笑い話もいくらでもある。
消費税の引き上げを主張する人の論拠は皆同じで、「消費税の引き上げは国際公約なので、上げないと、国債が暴落して金利が高騰する」ということである。財務省がずっと言っていることそのままである。
だが、ここには財務省のずるい議論のすり替えがある。
日本の国際公約は消費税の引き上げではない。借金の多い現状を改善し、国家財政を改善することである。つまり、消費税を上げずに、別の財源を求めたり、歳出の大幅カットをきちんと打ち出せば、国債の暴落など起きはしない。
逆に、消費税引き上げ論者は、「低所得者への対策で、数兆円の歳出が必要」という。これなど、自分の言っていることが矛盾しているという意識などないのだ。
消費税を上げて、予定通り税収が増えても、対策費をつけるなら、財政の改善には全くならない。第一、対策を打たないといけない施策など実行してはいけないのだ。
以前、記者として、大蔵省(今の財務省)を担当して、税務担当の幹部と何回も議論をしたことがあるが、彼らの論理は、1%で税収はいくら増えるので、3%ならいくらの増収という机の上の議論で、買い控えが起きて、税収が予定通りにならないという普通の人の心理などを考える発想がほとんどないことに驚いたのを覚えている。
そして、「所得などを補足して所得税や法人税をかけるよりも、消費税なら商品やサービスに一律にかかるので、手続きが簡単」と真顔で言う。
彼らは国家財政のことを真剣に考えているのではなく、とにかく金を簡単に集めることにしか興味がないのだ。
でも、税金のことを少しかじった者なら知っているが、消費税のような消費にかかる税金は、消費者の買い控えが起きるので、税率を上げても、計算通り税収が挙がらないから、結局、また税率を上げて行くといういたちごっこになるのだ。
今、真にすべきことは、あわてて消費税を上げることではなく、財政健全化プランをしっかり描いて、国民にそれを説明して、応分の負担を求めることである。
前にも書いたが、財政を悪化させた最大の原因は、年寄り世代への過剰な施策である。
福祉の名の下に異常に膨れ上がったしまった施策を徹底的に見直しをしていき、不必要と思えるものは削っていけば、財政は改善していく。
そして、積み上がった過去の国の借金は、間にも書いたように、年寄りの持つ個人金融資産や不動産に課税をして、大幅に減らしていくのだ。
地方自治体の公務員の年収は、その地域の企業で働く人の平均年収の2倍というのは常識である。こうしたことも数字をきちんと公表して、削っていけば、収支は大きく改善するのだ。
国民の間でも、健康努力をしている人と、怠けて病気になる人では、健康保険料などに差をつけるなど、行政が行っていることに細かな見直しをして行く。こうした細かいことに積み重ねが重要なのであって、強引に消費税を引き上げることは拙速としていいようがない。
20130810
教育費の軽減は公立学校と、その教師の質の向上から
世界トップクラスの日本人の給料を上げるのは大変なので、支出を減らす工夫をすべきと書いた。そして、支出の大きい3つは住宅費、教育費、保険料だとも述べた。
住宅問題は先に書いたので、今回は教育費を減らす工夫を書くとする。
教育費が高い理由は子供を塾に行かせたり、授業料の高い私立に入れるためである。私立に行かせ、かつ、塾に行かせている例も少なくない。ダブルの負担だ。
私たちの時代には、塾や私立に行かずに、公立学校の授業だけで、一流大学に入ることができた。それが、今は公立学校の授業だけでは、一流大学に入るのが難しくなった。
理由は大学のレベルが昔よりも今が上がったのではなく、公立学校の授業内容と、教師の質が大きく落ちたので、公立学校の授業では大学のレベルに届かなくなったのである。
公立高校の質の低下は、東京都が学校群制度を導入したことがきっかけで、全国の公立学校が小学から高校までレベルが下がったのだが、その問題は今回は触れない。
それよりも、ここでは、どうしたら、公立学校の質を向上させることができるかについて、議論をしたいと思う。
私はここ6、7年、仕事をしながら、高校、大学への受験生の家庭教師をしてきたし、公立中学で放課後教師として、多くの中学生の勉強を見てきた。
だから、理屈ではなく、教育現場の実態や、子供達が何を悩み、苦しんでいるかについても、肌身で感じて来た。
教育の世界で7、5、3という言葉がある。
高校で7割の生徒が落ちこぼれ、中学で5割、小学校で3割が落ちこぼれるという話である。教育現場で子供達と実際に接すると、中学生、小学生の落ちこぼれは、7、5、3よりももっとひどいという印象である。
公立学校のレベルが大きく落ちた理由は、学校群制度以外にいくつかの理由がある。
まず、教師が猛烈に忙しく、子供の教育に割ける時間やエネルギーがとても限られていることである。時間とエネルギー取られる大きな原因は、モンスターペアレンツへの対応と、教育委員会へ出す諸々の書類の作成である。
1クラス数人のモンスターペアレンツへの対応で、教師は時間の7割を取られると言われる。また、教育委員会から要求される様々な書類の作成にも膨大な時間を取られる。この2つの無駄から教師を救ってやることが、教育の質の向上に大きく役に立つ。
2つを取り除く方法は簡単である。
モンスターペアレンツに限らず、学校でトラブルや問題が起きると、担当の教師自らが対応に当たらせられる。これを学校に理事会のようなものを作って、そこに対応させるのである。
学校が荒れて、トラブルが多発したアメリカの学校で取った対策は参考になる。
理事会もその1つで、父兄、教師、地区住民の代表者から作り、トラブル対応だけでなく、学校の教育方針の作成や、その実行に至るまで、ここで議論し、決定するのである。問題が起きたら、ここが事実関係を調べ、対策を決めるのだ。
現状は、モンスターペアレンツや担当の教師が直接やりとりをするので、問題がどんどんこじれていく。これを理事会という第三者が対応に当たることで、問題の本質を掘り下げ、妥当は解決策を見つけるのである。
教育委員会が要求する様々な書類の作成は、教師ではなく、事務職員に任せるのである。
学校へ行けばわかるが、教師は猛烈に忙しい一方で、事務職員は暇を持て余して、ほとんど仕事をしていない。有能な事務職員を雇って、彼らに書類の作成を集中して頼むのである。
学校で実態を見るとわかるが、公立の中学校では、教師が学校を出るのは、ほぼ連日、夜の9時、十時である。そして、夏休みなど長期の休暇もほとんど毎日、学校へ出勤っしている。
かつて、給料は安いが、夏休みなど長期の休暇がとれ、時間的には大いに余裕があると言われた教師の像は、今は大きく変わっている。
モンスターペアレンツ、教育委員会への書類と並んで、教師の多くの時間をとっているのが、部活の顧問や部長の仕事である。これも、専門家のコーチを雇って、教師を解放してあげることが教師の救済にもなるし、部活の質の向上にもつながる。
教師になりたいと思っている大学生が学校に教育実習に行って、教師の実態を知って驚き、教師になるのを止める人が少なくない。それが教師の質の低下の理由の1つでもある。
多くの雑用から教師を解放してあげただけでは、教育の質は向上しない。教師と教育の質を向上しないといけない。
現場で教師と児童・生徒を見ていると、教師は「理屈」や「論理」、「何故」を説明し、子供たちに納得させて、理解させるのではなく、「この通り覚えろ」という感じで教えている。だから、子供が腑に落ちていないのだ。それが子供の不理解、落ちこぼれにつながっている。
どうしてと思って、教師に話を聞くと、今、40歳代、30歳代の教師は、自分たちもそう教わって来たので、根本の「論理」「理屈」「何故」を教わっていなくて、どうしてよいかわからないのだ。
昔は、そうした学校の授業でわからない点を詳しく教えてくれる塾があったが、今の塾は、塾も「この通り覚えろ」というスタイルなので、子供はわからないままで、年だけとって行くのである。
また、教科書、参考書で、できない子供目線で作られているものはほとんどない。
できる者、わかった者の目線で出来上がっている。書いている著者、検定にあたっている者が、子供がどこがわからなくて、どうしたら、わかるようになるかという発想が欠如しているのである。
我々が小中学校で学んだ頃には、教師も教科書、参考書にも良質のものがいくらでもあった。それがなくなって来たのは、「素人目線」「消費者目線」がなくなったからだと私は考える。
私が子供に、一次関数でも比例、反比例でも、実際の世の中で使われる例を示して説明し、世の中に出ると、学校で勉強する数学は実際にはこう使われているという話をすると、子供の目の色が変わって来る。
でも、どの子供も「そんな教え方をしてくれたのは先生が初めて」と異口同音に言う。
英語で教えるbe動詞の変化表も、我々の時代は、1人称、2人称、3人称の単数、そして、同じく複数と6つの変化を習ったものだが、今は、areと変化するものはまとめて説明してある。そうなったのは、ゆとり教育で、教科書が薄くなり、どうして記述を減らすか考えた結果である。
つまり、教えられる者の立場でなく、作る側の論理でそうなったのである。
携帯でも車でも、家電製品でも、かつて世界を制した日本企業の製品が中国や韓国の製品に負けだした最大の理由は、ここにあると私は考える。その同じ間違いを教育の世界でもしているのだ。
公立の学校の教育の質を上げることを妨げている大きな理由に、誰も言わないが、「義務教育は無償」という考えがあると私は考える。
無償なので、税金対応となり、予算が限られて来る。だから、良い参考書などは使おうと思っても使えず、既存の業者の安くて、教師目線の教材しか使えないのである。
公立の学校の質を上げ、私立や塾に行かなくても良いようになれば、小中学校でも、教材や部活のコーチなどに、父兄が多少の負担をすることが可能になって来る。
「義務教育は無償が当然」という人は多いが、「タダより高いものはない」というのは、昔から良く言われた言葉である。「安かろう、悪かろう」も。
公立学校の質の向上策として、別のアイデアがあるが、それは別稿に譲るとする。
20141129
消費税再値上げ延期を間違いだと言い続ける愚かな人達
(財務省のPR担当さながらの学者、論説委員)
安倍首相の判断で、消費税の再値上げは延期された。しかし、延期決定の後も、新聞、テレビなどのマスコミに登場する学者、新聞社の論説委員、評論家などに、「消費税の再値上げ延長は間違いだった」という人が少なくない。
彼らがそういう理由は2つで、「日本経済の景気回復の足取りはしっかりしていて、消費税再値上げに耐えられる」ということと、「消費税を再値上げして、膨れ上がった国債の残高を減らして、財政再建をしないと、国債が暴落して、日本は大変なことになる」である。
この2つの主張は、財務省が言っていることそのままで、こうしたことを財務省のPR担当のように言い続ける人は、自分で考え、自分で判断できない人、または、財務省の嘘の刷り込み、説得に心底だまされている人達、更に、消費税再値上げで、メリットを受ける人達で、国民や国家を考えることができない愚かな人達であるとしか言いようがない。
いずれにしても、自分で自分に唾をしていることに気が付かない人達としか言いようがない。(質が落ちた官僚)
経済の回復の足取りがしっかりしていて、再値上げに耐えられるということを言う人は、実際に街を歩いていない人、経済の実態を見ていないで、役所が発表したり、役人が言っていることを鵜呑みにしている人達である。
大手マスコミの経済記者として、官僚と嫌という程付き合って来た筆者の経験では、役人、官僚という人達は平気で嘘をつくし、データは自分たちに都合の良いようにまとめたり、時には数字をいじったりすることは日常茶飯事である。
城山三郎氏が小説「官僚たちの夏」を書いて、日本の高級官僚の日本を思う心、志の高さを描いたことなどから、多くの日本人は、東大卒の主要官庁の官僚を信頼し、彼らに任せておけば、政治家が少しくらい間違っても、官僚が日本を良い方向に導いてくれると思っている人が少なくない。
しかし、城山氏が描いた通産官僚の姿は、戦争に負けて、どん底から立ち直ろうとしている時代の日本の官僚像であって、高度成長時代以降の官僚の実態は全く違う。それは、「ノーパンしゃぶしゃぶ」などでの接待などで話題となり、収賄で摘発された大蔵省(現財務省)幹部、日銀幹部などでも明らかである。
筆者の経験でも、筆者が若手の頃の官僚は古武士の風格があり、本当に天下国家を真剣に考えていた。しかし、筆者が40歳代になるあたりから官僚は大きく変わって来た。自分の都合、自分の省庁の利害でしか行動しない官僚が増えて行き、まともな議論ができなくなって来たのである。(国民は愚かだと思っている高級官僚)
官僚がなぜ、そう変わったか理由は簡単である。今の50歳代くらいより若い世代の東大出の官僚の多くは、有名私立の中高一貫校から東大に進んだ人が多い。そうした人たちは家が豊かで、両親も一定以上の教育を受けている上、自分は子供の時から、遊びたいこともせずに勉強に邁進し、東大まで進んだ人達である。
こうした人達は、高卒で中小企業で汗水をたらしながら働き、生活をしている人達の実態は知らないし、知ろうともしない。そして、小中高と、勉強ができない落ちこぼれは、努力をしない怠け者たちと思って、軽蔑して育って来たのである。
こうした官僚たちの目線は高いところから国民を見下ろしているというもので、「国民の多くは愚か者で、自分たちが指導し、間違えない方向に誘導しないといけない」と真剣に思っている。
サリン事件が起きた時に、実行犯の一流大学出身のオウム真理教幹部の言葉に、「愚かの国民は殺してやることが、彼らのためだ」というのがあった。当時、筆者は当時の大蔵省、通産省の若手官僚とその話を議論したことがあるが、多くの人が、「オウム真理教の人のその考え方は理解できる。自分もそう思う」と話をしていた。
こうした人たちが今、財務省や経済産業省のトップクラスを占めているのである。「官僚たちの夏」に描かれている東大出の官僚とはまったく違うのだということを認識しないと、間違ってしまう。(財政が再建して、国民滅ぶの愚)
「国民に痛みを我慢してもらっても、財政再建をしないといけない」これも財務省官僚が良く言う言葉で、それをコピーそのままに言う学者、評論家、マスコミの論説委員の人は多い。
だが、こういう財務省の論理は、「財政は再建したが、国は亡び、国民は塗炭の苦しみを味わった」ということになりかねない。国や経済は、そこで生活する人の健全な生活があって、初めて成り立つもので、国や国民を滅ぼしての財政再建など何の意味もないことを、勉強優等生で来た今の官僚には理解できない。
それは地べたを歩く国民とは別事件で生きて来たからであり、フランス革命の時に、国民が「明日生きるためのパンがない」と言った時に、「パンがなければ、ケーキを食べれば良いじゃない」と答えたマリー・アントワネットの心理と同じである。
前にも書いたが、欧州では、ドイツが主張する財政再建のために、国民に厳しい生活を求める考えに対して、「それは違うのではないか」という国民や政治家、学者が増えて来ている。財政が破綻してはいけないが、財政再建のために、国や国民が亡びるような施策は間違いだという論である。
日本のマスコミはこうした動きをほとんど紹介しないが、こうした声がどんどん大きくなっていて、「高福祉、高負担」を是としてきた欧州で、それは間違いだったのではないかという主張が強くなって来ている。(日本では無理、本格的な軽減税率の導入)
「財政再建のためには消費税の引き上げしかない」 これも財務省の官僚が言っていることだが、本当にそうだろうか。
日本のマスコミは官僚が言うことを無批判にそのまま流すので、それがいつしか国民にも定着していくが、官僚が言うこと、マスコミが言うことには間違いが多い。違うのではないかという発想で彼らの言うことを聞かないと大変なことになる。
欧州では消費税は20%台、30%台だが、食料品など生活必需品の税率は極端に低い。だが、この軽減税率の発想は日本の財務省にはほとんどない。万一、財務省がうんと言っても、何を軽減し、何を高い税率にするかで紛糾するのは必至で、徹底した議論の中でものごとを決めて行く習慣がほとんどない日本では、話がつくことはまずない。
万一どうにか話がついても、欧州のように広く生活必需品を軽減税率の対象にすることには絶対ならない。それには、財務省が猛反対をするからだ。
となると、すべての商品にまずは十%、やがて、20%台の消費税が導入され、多くの国民は塗炭の苦しみの底に突き落とされ、国の経済はどん底に落ちていくのは間違いない。(消費税の引き上げなくても、できる財政再建)
これも前にも書いたが、国民の半分は税金を払っていないし、会社の半分も税金を納めていない。これを日本で活動する法人も個人もすべて十%の税金を納めるようにすれば、財政問題はすべて解決するというデータもある。
日本には多くの税制優遇制度がある。1つの例だが、住まなくなった家を放置しておいても、そこに壊れかけでも家が建っていると、税金は6分の1になる。
だから、朽ちかけの家が手入れもされずに放置され、周辺住民に迷惑をかけている。人が住んでいない家には、普通の税金をかける。場合によっては、人が住んでいる家の2倍の税金をかける。こうした方がよほど現実に即しているが、そうならない。
既得権者が撤廃に反対するので、なかなかなくならないが、すべての税制優遇策をまずゼロにし、それをベースにして、優遇制度は一般国民から無差別に選んだ審議会のような会議で議論して、国民の3分の2が必要と思ったものだけ残すようにするのだ。
学者や評論家、マスコミの論説委員たちからなる審議会は、役所の代弁者になるので、まったく信用できない。裁判の時の陪審制度のように、一般国民の声でものを決めて行くのである。
勿論、アメリカの陪審制度のように、利害関係者が委員に選ばれた国民に働きかえるのは厳禁にしないと、「説明、レクチャーを」と言って、財務省などの役人が説得にあたって、国民を間違った方向に誘導しかねないので、これを徹底することは何よりも大切である。
20141120
悪夢、自公の過半数割れ
いよいよ選挙戦に突入の様子となった。
前回の選挙で、自民党が大勝ちしたので、自民党が議席を減らすのは、織り込み済みだが、悪夢は自公与党の過半数割れである。そうなった時の日本経済に与える打撃は国民が考えているよりも遥かに深刻である。
そして、例え、過半数を得ても、議席を大きく失うと、安倍首相の求心力は衰え、政策実行能力に陰りが出て来る。そうなると、したいこともできなくなって来る。そうした意味では、今回の選挙の結果は、日本の将来を考える上で、きわめて重要な選挙である。
筆者は決して、自民党も公明党も、安倍首相も別に好きではないし、その政策に疑問符がつくものも少なくない。ただ、民主主義下の選挙というのは、ベストのものを探すのではなく、比較してベターなものを選ぶというものなのである。そういう観点から、今の日本で自民党以外に政権を任せられる政党はない。
だが、日本国民も、それをリードする役割のマスコミもそれがわかっていない。
マスコミも野党も、今回の選挙について、「大義なき選挙」とか、「アベノミクスの失敗」という形容詞で語っている。野党が「今は選挙などしている時などではない。経済対策を打つ時なのに」と語ったりしていて、一見、説得力があるように聞こえるが、これなど、「今、選挙をされたら、自分の党は負ける。少なくても勝てない。もう少し先に延ばしてくれ」というのが本音である。しかし、多くの野党の人間が何人も言うと、聞く者に変に説得力を持ってきてしまうのが報道の怖さである。
かつての民主党政権下で、民主党と自民党、そして、公明党の3党合意で出来た消費税引き上げの方針を変更することに国民の賛否を聞くということに、どうして大義がないのか、筆者には理解できない。
今、選挙をしたら、自民党に有利だという考えが透けて見えると、マスコミは批判するが、日本の衆議院の政治制度は知事や市長選挙と異なり、きちんと決められた4年に1回ではなく、解散権は首相にある。解散権がある者が自分に有利な時期に解散をするのは当然なことで、それが嫌なら、知事選挙のように4年に1回と決めるように法律を変えるべきである。
制度の範囲内で行動することを批判するのは、おかしな話である。
野党だけでなく、マスコミも「大義なき選挙」「アベノミクスの失敗」というと、国民はそれに引っ張られて、自民党が大きく議席を減らすことはあり得ない話ではない。かつて、民主党政権が誕生した時の悪夢がまた、起きる可能性がないことはないのである。
自公が過半数割れをしたら、政権は民主党中心のものとなる。民主党の政権下の3年半はいかに日本に大きなマイナスとなったか、ご記憶の方も多いと思うが、大地震の時、福島原発事故の時、そして、沖縄問題でも、民主党政権の対応は、混乱に輪をかけ、国益を大きく損ねた。
民主党は元々、自民党にいた鳩山氏が自分が首相になりたいがために、莫大な自己資金を使った作った党であり、それに、自民党不満分子や、組合の支持を受けている旧社会党の流れを汲む人間、そして、目立ちたがり屋の弁護士などが合流してできた政党である。
それがために、議員それぞれの政策、主張は1つの政党とは言えないくらいに幅が広すぎて、政権与党として、きちんとした政策をまとめることなど、元々不可能な政党である。
それが何故、政権を取ったかと言えば、マスコミが自民党の政権を過剰に攻撃し、民主党を持ち上げて報道して、民主党が政権を取ったら、世の中が良くなるような錯覚を国民に与えたことにある。
そして、政権と取ってみたら、不必要な組織や予算の削減という名目の公開ヒアリングというパフォーマンスで、マスコミからは評判をとったが、実際は削ってはいけない組織や予算を削り、本来削らないといけない組織や予算の復活を許し、地震や原発事故という大災害時に政権与党の能力がないことを露呈して、国民の支持を失ったのである。
自分たちの応援で、実際に民主党が政権を取って、自分たちがしたことが間違えで、国民に迷惑をかけて申し訳ないと謝ったマスコミサイドの人間は、私の知る限り、田原総一郎氏など1人、2人で、ほとんどのマスコミ、評論家、学者は間違えたことさえ認めていない。責任を取らないのがマスコミ、学者なのである。
筆者は言いたい。民主党など野党がアベノミクスが失敗だったというなら、具体的な経済政策を提案すべきである。それができないなら、アベノミクスを批判する権利はない。
日本のマスコミは肝心なことを伝えず、政権与党や自分たちに都合の悪い知事、市長を攻撃する原稿を書くことに懸命なので、日本のマスコミの書くことは多くは信用ができない。
悲しいことに、今の日本で何が起こっていて、何がどう評価されているかを知るのには、海外の評判、反応と、ネットの情報、そして、新聞やテレビが報道しないことを書く一部の週刊誌などを参考にするしかない。大手マスコミがほとんど機能していないのである。
政治だけでなく、フィギャースケートで怪我をした羽生がどうして選手生命の危機がわかりながら滑るようになったかは、新聞やテレビは報道しておらず、週刊誌やネット情報を参考にするしかない。
羽生の話はともかくとして、海外の要人、識者、マスコミなどのアベノミクスに対する評価は基本的に高い。
世界第3位の経済大国が20年もデフレで世界経済の足を引っ張っているのを何とかしてほしいというのが、世界の論調であり、その対策の1つがアベノミクスであったのである。だから、海外からすると、やっと、日本がデフレ対策を実行し始めたということなのである。
その日本で、4月の消費税引き上げの影響で、立ち直りかけた経済の腰が折れかねないので、消費税の再値上げを先に延ばすということだから、世界の論調は消費税の再値上げ延長に賛成なのであるが、日本のマスコミはそうしたことはほとんど報道しない。
今の政権が官僚や既得権者の抵抗に遭って、思い切った規制緩和が出来ていないのは事実である。
だが、民主党を中心とする別の政権ならできるかと言えば、もっとできず、後退するのは火を見るよりも明らかである。例えば、自民党は農業改革を阻んでいる最大の原因である農協改革に取り組んでいるが、民主党中心の政権になれば、こうしたことも大幅後退するのは必至である。
「消えた年金」の問題に取り組み、解決をすると大見得を切ったが、ほとんど何もすることができなかったのが民主党である。消えた年金問題は、自民党の失政ではなく、担当官庁の制度設計の失敗の問題であり、手書き資料をコンピューター化していく過程で起きた問題であり、どの政党が政権を取っていても、起きた問題だったのである。
他党を批判するのは簡単である。でも、自分なら、こうするという対案を出し、それを国民に訴えないといけない。民主党なら、自分たちの政権時代の3年半の間違い、失敗を総括して、次に政権を取るなら、こうするということを明らかにしない限り、今の民主党に自民党を批判する資格はないと筆者は考える。
20141118
GDPの落ち込みを「予想外」という無能ぶり
今年7月から9月のGDPの速報値が発表され、2期連続のマイナスになった。
これについて、多くのエコノミスト、学者、評論家、政治家、官僚が「予想外」と言っているが、これを予想外という人は、いかに自分が無能であるかと、自分で示しているようなものである。
かなり以前のことだが、筆者は駆け出しの記者時代、地方支局に勤務していて、市長選挙があった。その県は自民党が強い地域だったが、自民党から2人の候補者が立候補し、社会党の候補と争った。マスコミは事前予想で、揃って自民党の1人の候補者の勝ちを予想していたが、結果は社会党候補が勝った。
マスコミの全予想が外れたのだが、選挙結果が報道されている街頭テレビの前で、普通のおじさんが、「自民党が2人も立てば、勝てる訳ないわな。それを自民党が勝つと事前予想した新聞、テレビの担当者は何を見ているのかな」と呟いた。マスコミの記者の目が色眼鏡で曇っていたのであり、素人の有権者の方がまともだったのである。
世の中にはこうしたことが多くある。エコノミストとか、学者、記者とか言われる人たちは、自分が専門家だという自負心があるので、どうしても、ものごとを冷静、客観的に見ることができない。「こうあるべき」「こうなるはず」という意識が強く、結果判断を間違えるのである。
前にも書いたが、スーパーや百貨店を歩けば、4月の消費税引き上げで、消費者の財布のひもが固くなり、それまでのアベノミクス効果で、少し良くなっていた景気が悪くなっていることは、素人目にも明らかである。だから、GDPがマイナスなのは当然の結果であって、それを予想外というのは、いかに自分の目が曇っていたか、街を歩いていない証拠で、自分で自分の無能さを言っているようなものである。
それにもかかわらず、自分の無能さを棚に上げて、GDPが発表になった後も、「景気は悪くなっていない」と言っているエコノミスト、学者、評論家が多いのは信じられない。そういう人には、「今すぐ、あなたは自分を恥じ、頭を修正しなさい」と言いたい。
前にも書いたが、財政再建のために消費税の引き上げが必要で、将来的にはヨーロッパ並みの20、30%台が必要と言っている学者やエコノミスト、政治家が多いし、その話をマスコミもその通り書くので、一般の人の間にも、そのいわゆる「常識」が広まっているが、これは財務省の広報宣伝活動が効いているためである。
消費に税金をかけ、その率を上げて行けば、景気は悪くなるのは当たり前の話で、景気を良くして、税収を増やすためには、消費に多くの税金をかけてはいけない、むしろ減税をしないといけないのである。そんなことは子供でもわかる論理である。
消費税を上げないといけないという人の論理は、所得が伸びない少子高齢化社会では、福祉に金がかかる一方で、所得税や法人税の伸びに期待ができないので、消費税に頼るしかないという説明である。その人たちはもう一方で、国の借金がGDPの2倍もあるので、これを減らすためにも、消費税を上げないといけないと言っている。
でも、少し考えれば、これは明らかに矛盾した話であり、財務省の屁理屈に多くの人がだまされているか、矛盾と知りつつ、財務省にいい顔をしたいから、その矛盾を隠してPRの乗っているのである。
国の借金が膨大でこれを減らさないといけないということは、増税分は福祉に回すのでなく、借金の返済に充てないといけないということである。ということは、消費税値上げ分は福祉の充実のために使ってはいけないということである。
日本の福祉がヨーロッパなどに比べると低い水準ということを言う人が結構いるが、自分が世間一般の分類で、高齢者になって感じることは、日本の福祉、特に老人に対する福祉は、やりすぎで、無駄が多く、ここを切り込むことが緊急課題であると痛切に感じる。
役所からは、所得に関係なく、無料の健康診断の案内などは頻繁に来るし、後期高齢者になると、週に2、3回無料で食事が届いたりする。公共の施設の利用料金は無料か半額である。低所得者だけに限定するのなら良いが、なぜ、全員にとなるのか理解できない。筆者の身の回りにいる同じくらいの年配の人は皆、こんなの金の無駄使いだと言っている。
しかし、老人福祉を削ると、選挙に勝てないという強い思いが政治家にあるので、無駄なバラマキが止まらないのである。
かつて、社会党が強かった時代、社会党、共産党系の知事や市長がこぞって、福祉の充実の名の下に、福祉のバラマキをして、老人対象に医療や公共料金の無料化などを行った。その結果、高所得で、高そうな高級毛皮を着ているお年寄りが無料パスでバスに乗って来たりしたのである。
当時、所得制限などをつけることは、みみっちいとされ、全員が対象になったのである。その時代の感覚が、マスコミ、役人、政治家にまだ色濃く残っていて、何かあると国や地方自治体に頼もうとする論調が今でも多い。時代が変わり、国や地方自治体は出せる金は限定的になり、それをいけに有効に配分するかということを考える時代になったにもかかわらず、何かあると、マスコミは「国や地方自治体は何をしているのか」と書くのである。
日本の新聞、テレビではほとんど報道しないが、老人だけが優遇されるような高福祉社会はおかしいという議論がヨーロッパの国では結構出ていて、福祉をどうするかという議論が盛んに行われている。
財政再建も、これまで言われていた財政の健全化の考え方が正しいのかという議論が結構出て来て、景気が悪くなっても良いから、税金を上げ、公的な支出を減らして、財政を健全化しろという考えは間違いではないかという意見が強くなってきている。
財政を膨らむままに放置するのは良くないに決まっている。しかし、これまでの考えを見直し、あるべき国や財政のあるべき姿をもう一度、財務省、大蔵省の宣伝下ではなく、自由に議論して、国民的なコンセンサスを作り直す時期に来ているのである。
その議論をする時に、財務省は客観的なデータを出すのは良いが、PR活動を熱心に行うことを禁止しないと、失敗した今年4月の消費税引き上げのような愚作がまた行なわれるようになるのは自明の理である。
20141114
消費税論議で目立つ財務省御用学者、御用マスコミ
安倍政権は消費税の再値上げを延期することを決めたようだが、ここしばらくのマスコミの登場してこの問題を論議する大学教授、エコノミスト、大手新聞社やテレビ局の担当者の話は、ほとんどが「経済の実態は悪くない」「消費税の値上げを延期したら、国債が暴落する危険が高く大変だ」というトーンで、話の内容はほとんど一緒、論理はワンパターンで、まさに財務省に洗脳されているとしか思えない内容である。
「今、景気は悪くない。4月の消費税値上げの影響は限定的」という話をする学者やエコノミストに言いたい。「あなたは街を歩いていますか。スーパーや百貨店に行って、消費現場がどうなっているか見たことがありますか」と。日本のGDPの半分は個人消費である。半分を占める個人消費がどうなっているかという視点が彼らにはない。
筆者は意識して街を歩くし、小売の店を回るが、4月の消費税値上げで、個人消費は大きく減退し、半年経った今もその影響は深刻である。値上げ前に土日だと、レジで長い行列が出来ていたスーパーの店頭では、今、ほとんど待たなくて会計をしてもらえるし、大手百貨店からは買い物を勧誘するDMや電話が以前と比べ物にならなくくらい来て、消費者がものを買わなくなっていることを表している。
消費税の延期に反対の学者やエコノミスト、マスコミの担当者が、財務省の考えそのままに、言うことに、「消費税を先送りしたら、国際公約違反で海外が失望し、国債が暴落し、金利が暴騰する」というのがある。
しかし、日本のマスコミはほとんど報道しないが、アメリカを初め、海外からは、日本に「消費税の再値上げの延期」を要請してきている。今、世界的にこれだけ経済が減速状態の時に、消費税を再値上げしたら、日本経済が悪くなり、世界的に悪い影響を与える」という考えによるもので、アメリカを代表する大手新聞も社説で、消費税再値上げの延期をすべきと書いている。
消費税の議論をするとき、財政再建の話が良く出て来るが、今、ヨーロッパでは、ここしばらくの間言われて来た財政の健全化という考えそのものが景気を悪くさせた原因であり、枠組みや仕組みを再度考え直すべきだという主張が大きな声になっている。
大蔵省、財務省の言うように、財政健全化に取り組み、財政構造は良くなったが、経済が決定的に悪くなったというのでは、本末転倒であり、彼らが言う財政健全化ではなく、別の知恵があるはずだという論理である。
東大出の人たちが多い財務省官僚は、子供の時から習った算数そのままに、「1+1=2」の発想である。しかし、算数、数学と違い、世の中では「1+1=2」にならないことが多い。消費税を2%上げたら、税収が2兆円増えるというが、増税は消費を冷え込ませ、税収が増えないことはいくらでもある。逆に、減税をすると、景気が良くなり、税収が増えることも珍しくない。
税収を増やしたかったら、減税をすべきということを言う人がいるくらいだが、子供の時から「1+1=2」の勉強しかしてこなかった東大出の財務省官僚はそれがわからないで、増税は計算通り税収増になると信じて疑わないのだ。
筆者は今、消費税を予定通り再値上げしろと言っている学者、エコノミスト、大手マスコミの担当者は3つのタイプがいると考えている。1つは財務省の顔色を見ながら、その意向に沿って話をしている人、2つ目は財務省の説明、レクチャーを鵜呑みにして、正しいと勘違いをして、自分の主義で話をしている人、そして、消費税の値上げで恩恵を受ける人である。
政治家に消費税値上げ賛成論者が多いのは、増税すれば、税収が増え、それにともなって、自分たちが配分を主張できる財源が増えると考えているからである。本来、再値上げに反対のはずの財界の代表も消費税値上げ賛成派なのは、海外との取引が多い大手企業は海外輸出で、消費税分が自分たちに戻ってくる戻し税に期待するからである。日本全体のことを考えているのではなく、自分の都合で意見を言っているのである。また、「今回の解散は大義名分がない」と言う評論家や学者、ジャーナリストが多くいるが、そうした人は消費税引き上げ論者であったり、批判のための批判をしている人たちだ。大きな方針変更の是非を国民の問うのは当然であり、「大義名分がない」という発想が筆者には理解ができない。
そもそも、少子高齢化社会で、税収をきちんと確保するには、消費税が一番良いということを、当然のように、学者もマスコミの担当者も言うが、筆者は違うと思う。
個人でも会社でも、その他、団体でも、収入の1割の税金をすべてから取るということにしたら、消費税でも、法人税、所得税でも、取る名称、形はなんでも、ほとんど差がなくなる。そして、税収不足は、これで解消するという専門家の計算もある。
今、個人も法人も半分程が税金を払っていない。これを止めて、全員、個人の法人も団体も1割の払えば、大きな税収増になる。法人で赤字の会社は税金を払っていないが、赤字の会社は売上高の何%の税金を払うと決めるのだ。「外形課税」と言われる考え方である。
売上高1千億円以上、1千億以下百億円以上、1億円以下の3段階くらいに分けて、税率を変えて、赤字企業に売上高の何%という形で課税するのである。こうすれば、中小企業に配慮はできる。そも売上高が百億円を超えている企業で、売上高の1、2%くらいの税金が払えない法人は消滅してもらうというくらいの厳しさは必要である。
税金を払えないような法人が生き残っているから、過当競争が起き、まじめに努力している優良企業の足を引っ張るのだし、社会保険に入っていないような法人が出て来てしまうのである。
個人も収入の大きさに関係なく、全員1割の税金を払うのだ。そして、利益、収入の多い儲かっている会社、個人には税率を増やせば、消費税だけ、将来的に、2割、3割にするという話はなくなる。
「広く薄く取る消費税が一番、公平で、税収の安定になる」。財務省の担当者はそういうが、個人、法人、消費すべてに1割の税金をかける方が、余程、広く薄く取り、公平で税収の安定になるが、その話はしない。役人は自分たちに都合の良い論理でしか話をしないのだ。
最近のマスコミの報道を見ていて感じるのは、今のマスコミは、役人に「あなたの言っていることは違うのではないか」というようなことを言って、財務省の担当者に議論をふるような記者がいないことだ。
子供の時から、教師から「言われたことをそのまま覚えろ」と言われて育った優等生だからである。だから、役所や企業のPR通りの原稿を書き、一般の国民に「消費税を上げないと大変なことになる」という財務省のPRを信じさせる発言や原稿書きをする結果になるのである。
記者のそうした性向を助長しているのが、筆者時代にはなかった最近のマスコミのシステムである。それは記者会見の場で、パソコンを持ち込み、会見で話をする政治家、官僚、企業幹部の話を顔もほとんど見ないまま、パソコンに内容を打ち込む姿である。
会見でもインタビューでも、話をする政治家や官僚、企業経営者は平気で嘘をつくし、同じことを言っても、顔や表現の仕方で、意味が違うことがいくらでもある。それを見分けるために、話をしている相手の顔や表現の仕方を集中して見るのだが、今の記者は神経の8割をパソコンの打ち込みに使っているので、その見分けができない。
そんな調子だから、まともな質問はできないし、言っていることがおかしいという反論、批判も弱くなるのである。情報を一刻も早くという発想から、このシステムが出て来たのだと思うが、1分1秒を争う報道は通信社に任せればよいのであって、それはほとんどのマスコミの使命ではない。
10分、20分遅れても、本質を見極め、発言者の嘘の論理に迫り、正しい内容の報道をするのがマスコミの役割だと思うが、現在のシステムではそれができなくなってしまっている。1日も早く、この制度を止めるべきだと思う。
20140718
愚かしいマスコミの集団安保論議
政府が集団的自衛権の解釈を見直すということを決めたのをきっかけに、マスコミを中心に集団安保の議論が盛んで、ツイッターで議論が過熱して、お粗末な発言をした共産党の地方議員が辞職するというおまけまで発生している。
ほとんどの新聞やテレビは言っていないが、集団的自衛権の議論をしている国は世界でも日本くらいである。世界のどこへ行っても、集団的自衛権など当たり前の話で、それが当たり前でないところに今の日本の異常さがあるのだ。
今の日本は友好国が攻撃され、日本に支援を求めて来ても、何もできない。
例えば、PKO活動で、一緒に行動しているオランダの軍隊が地元反乱軍に攻撃されても、救援で武器を使用することもできないで、陰に隠れて震えていないといけないのだ。つまり、友人を見殺しにするしかないのである。そんな国を世界のどこの国がまともに対応してくれるというのだ。だから世界で尊敬されないのだ。
では、なんでこんなばかげたことになっているかと言えば、戦後60年以上、憲法改正がタブーとなり、時代の変化に合わせて、憲法を変えるというごく当たり前のことが行われて来なかったからである。
でも、時代の変化に合わせて行政は行動しないといけない。そこで、役人が小賢しい知恵を出し、それに自民党ハト派という人たちが乗って、「解釈改憲」ということが行われて来たのである。
憲法を素直に読めば、自衛隊は違憲である。でも、自衛隊は必要だ。そこで、自衛のための武力は必要という無理な解釈をして、国民をだましたのである。
先日、ある物書きが「解釈改憲こそが、戦後の日本人の素晴らしい知恵だ」と発言し、それをマスコミが報道したりしていた。
飛んでもない話だと筆者は考える。解釈改憲というのは、その時々の政府の都合で、解釈が変えられるということである。昨日まで白と言って来たことを、今日から黒という、それが解釈改憲である。筆者は解釈改憲こそが、もっとも危険なことで、憲法について、正面から議論をしないといけない時期に来ているのに、それができないことにこそ問題があるのだ。
それは「憲法の一字一句いじらせない」と公言している国会議員や著名人が多くいて、議論のテーブルに着くことさえ、拒否している人が多くいる。議論にさえならないからだ。
前にも書いたが、きちんと議論すれば、憲法改正など難しくもなんともない。
自衛隊についてでも、憲法に自衛の軍隊としての自衛隊を明記し、それとともに、自国の指揮下では海外に出て行かない。出ていく時は国連などの要請による多国籍軍などの行動に限ったことにすると記せば、憲法改正に反対している人も納得できるはずだ。
こうしたことをきちんと明記しないから、国民の多くが拉致されても、何もできないで、お願いベースで交渉するしかないのである。監禁・誘拐された自国民を救済するために、特殊部隊が行動するということは多くの国で行われている。でも、日本政府は見てみないふりをするしかないのだ。
今でもこそ、政府も拉致に取り組みだしたが、長い間、拉致はないという立場に政府が立っていて、議論すら行われて来なかったのだ。理由は簡単で、拉致を認めても、どうしようもなかったからである。
そんな矛盾があるのに、憲法改正に反対する人は、議論することすら拒否している。それは、論理、理屈ではなく、感情で、憲法改正に反対してきた自分のこれまでの言動が否定されたことになるからである。
集団的自衛権の問題点などと、わかったようでわからないことを書いている新聞社がいの一番にしないといけないことは、「今こそ、国民の7割が納得できる憲法改正の議論をしようではないか」と呼びかけることなのに、それをしない。それは病的な反対論者を見ると、議論などできる訳がないと思っているからだが、それを呼びかけるのがマスコミではないかと思うのだが、日本のマスコミはそれをしようとしない。
憲法議論を見ると、最近のサッカーのワールドカップの話とよく似ているように思う。
国民を本当のこと、世界の常識を知らせないで、日本の国内でしか通用しない話をマスコミをし、国民もそれを信じている。だから、世界との差、世界の常識を知らされて時に、茫然とするしかないのである。
普段から必要な情報を伝えず、白痴ともいえるテレビ番組を流し続けているマスコミが、国民を情報から遠ざけているのである。
世界の常識、真実を国民に知らせ、左右の極端なことを言う2、3割の人は置いておいて、まともな議論が出来る7割の人の間で、コンセンサスを得られるように議論をする。これがまともなことなのだが、そんなことを提唱するマスコミすらない。
憲法解釈は自衛権だけの話ではない。例えば、努力しないで若い時に、遊びほうけていた人が年を取って生活ができないと言えば、生活保護が受けられる。若い女性が男と引っ付いて、子供が生まれ、男と別れて生活できないと言えば、生活保護が得られる。それは国民が健全な生活をする権利を有すると憲法に書いてあるからだ。
だから、国民の1割くらいの人が生活保護を受けるという異常事態になっているのだ。憲法を改正して、権利と同時に、努力義務を明記すれば、こんな異常事態は大きく是正される。
地方自治の話も環境の話も憲法に書き込まないといけない。でも、議論も出来ないので、それも行われないでいる。
法律は憲法でもそうだが、時代の変化に合わせて変えるものである。それが出来ないのは、国会で3分の2の賛成と、国民投票での承認となっているからである。これは簡単で、アメリカが自分が押し付けて憲法を将来、日本人が改正するのが難しいように、決めた規則だからである。
戦後の日本では、民主主義とは何かをきちんと教えて来なかった。
民主主義とは何か、簡単なことである。意見の違うことについて議論をし、最後に決を採り、51%を獲得した人たちの主張したことが決定され、行われるということである。
今の日本の憲法は、65%の人が改正を望んでも、それが出来ない。つまり、きわめて非民主主義的な憲法なのであるが、それすら、誰も言わない。
戦後の日本では、民主主義だけでなく、間違って教えて来たことが多くある。例えば、国際化である。
国際化とは、自国と他国の違いを理解し、その差を埋める努力を互いにすることである。だから、自国の文化、歴史をきちんと知ることがまず、国際化の第一歩なのである。でも、戦後の日本では、「人類皆兄弟」と言い、差を教えて来なかったし、自国の歴史、文化も教えて来なかった。
だから、外国人と接して、自国の文化や歴史の話を聞かれると、まともに答えられない人がほとんどで、外国人からバカにされるのである。
サッカーのワールドカップは日本を変える一つのチャンスだったが、まともな議論もないままに、うやむやになってしまった。日本は当分、変わらないということなのだろう。
20140626
日本をダメにしている最大の元凶、テレビ局改革は5年免許更新制度
テレビやネットで、今回のサッカーのワールドカップの完敗の原因分析がテレビ番組や取材者のネットの書き込みにないと前に書いたが、ここにきて、ネットにはサッカージャーナリストからの本音の書き込みが増えてきた。
原稿を読むと、筆者が書いて来たように、チームは空中分解していて、相手と戦うどころではなかったということを具体的なエピソードや事実を踏まえて書いている。
更には、以前は注目されていなかったというか、ほとんど取り上げて来なかった、その他媒体での事前の「このままでは、日本は大会で1勝もできない」という記事がいくつかあったことが、ここに来て明らかになった。ある夕刊紙は「ザックと本田を更迭しないと、日本の勝利はない」とさえ書いていた。
そして、その中で、サッカーの専門家が「本田が中心でいる限り、日本は勝てず、他の選手の良さも失われる」とさえ、言い切っている。見る人はきちんと見ていたのだが、それが事前に大きく扱われなかったことに不幸がある。
ザックも本田も惨敗の大きな理由だが、今回の惨敗の最大の原因はテレビ局の戦争中の大本営発表のような「日本は予選突破は当然、優勝を争う力がある」という馬鹿げた報道だった。1つのテレビ局だけでなく、NHKを含めていくつものテレビ局が、ありえない嘘を繰り返し放送するので、それを信じる事実を知らない人が増え、今回の不幸な結末を迎えたのである。
にもかかわらず、テレビ局サイドから、猛反省の弁は聞こえて来ない。
筆者は今の日本をダメにしている大きな原因にマスコミがあるとずっと言い続けて来たが、その中でも、テレビ局のひどさは論外である。サッカー報道だけでなく、先進国の中で最低と専門家から酷評される、今の日本のテレビ局の番組のお粗末さは何とかしないといけない。
マスコミの最大の使命は、今、日本で世界で何が起き、それをどう考えないといけないかという情報を提供することである。娯楽番組であっても、そこに情報、メッセージがないといけないが、今の日本のテレビ局の番組の8、9割は、お笑いタレントや、テレビ常連のその他のタレントを集めて、どうでも良い話の「井戸端会議」番組である。
それも、テレビ制作者の「視聴者はこんなくだらない番組を欲しているのだから、それを提供しているのだ」という上から目線の番組作りである。
何回も言っているが、9割の人が嫌いなAKB48の話を、「国民的アイドル」と勘違いして、事細かに報道しているし、メンバーを番組やCMに使い続けている。テレビ局や広告代理店で働く人は、周囲にいる普通の一般の人にAKBや武井咲、剛力彩芽をどう思っているか、聞いてみたらよい。
これらも世界の実力で40何位の日本サッカーを優勝争いが出来ると言い続けたのとまったく同じで、普通の日本人にはほとんど人気のない人間やグループを凄い、「国民的アイドル」と持ち上げ、取り上げているのだ。その証拠に、AKBでトップの人気と言われた前田敦子や大島優子がコンサートや個人的に活動をしたら、ファンが集まらなくて困るのであり、武井や剛力が出た番組が視聴率が取れないのだ。
どうしようもない「井戸端会議」のような番組を見続ければ、それこそ脳ミソが腐り、ものを考えない人が増えていく。少し意識ある人は地上波に見限りをつけ、BSやCSに避難するか、テレビを見るのを止めてしまっている。テレビ局は自分で自分の存在を危うくしているのだ。
新聞、雑誌は誰でも作ろうと思えば作れるし、政府の世話になる訳ではないから、他の害を及ぼさない限り、何を書いても自由である。しかし、テレビは違う。テレビは公共の電波を使う免許を得て、事業をしているのである。公共のものを使う限り、そこには国民に対して責任があるのだ。
でも、監督する総務省は、これだけひどい番組を作り続けているテレビ局に文句は言わない。マスコミに下手に何かを言えば、それこそマスコミに「言論の自由の侵害」と叩かれかねないからだ。
では、今のどうしようもないテレビ局を改革できないかと言えば、そうではない。問題解決は簡単である。テレビ局の免許を5年単位の更新制にするのである。
現在の経営陣も、新たにテレビ局を経営したいと思う人たちも、5年に一度、自分のテレビ局を経営するにあたっての方針、番組構成、メッセージなどを公表し、それらを役所だけでなく、国民の有志を含めて質疑応答を公開で行い、より相応しいと思う経営陣に、免許を与えることである。
こうすれば、番組の質が改善されるだけでなく、どこのチャンネルを見ても同じような番組、タレントのオンパレードの現状から、局によって大きな違い、差が出て、視聴者には好きな番組を選べるようになる。
新しい経営陣が競争に勝っても、テレビ局の一般社員はそのまま仕事を続けるので、社員が路頭に迷うことはない。更迭されるのは、部長以上の幹部クラスだけである。でも、経営陣が変われば、番組は大きく変わる。
こうすれば、ソフトバンクも楽天も、その他、新興で力のある企業はテレビ経営に進出してくるであろう。何よりも大切なことは競争である。そして、良い番組を提供しないと、経営陣、幹部は排除されるという危機感である。そして、一度競争に負けた経営陣も、5年後に再度挑戦できるので、新たに免許を得た経営者も安閑としていられない。
アメリカで実際にあった話だが、役所のごみ収集や清掃作業があまりにひどいので、市内をいくつかに分割して、それぞれの地区ごとに民間の新規参入を認めて、競争制にした。
それまで独占に胡坐をかいていた役所は、アッという間に、すべての地区で民間の業者に仕事を取られた。日本と違って、アメリカではこうして仕事を取られた役所の役人はレイオフである。危機感を持った役人たちは、仕事の改善に知恵を絞り、次の競争の時に民間企業と競り勝って仕事を取り戻したという。
元々、知識やノウハウを持っているので、危機意識さえ持てば、役人は良い仕事ができるのだ。競争がないこと、危機感がないことが、仕事に緊張感を欠く結果となり、市民の不満を呼んでいたのだが、市長の荒治療で役人が蘇り、指紋もサビースが向上してハッピーとなった。
テレビ局も同じで、何をやっても一度手にした免許は持ち続けられるという慢心が、今のようなテレビ局のひどい状態を招いていると言える。
20140625
サッカー惨敗に思うこと…辛いことでも、きちんと原因分析をして、改善を
予想通り、ワールドカップで日本サッカーチームは惨敗した。
だが、それを伝えるテレビ報道や、ネットでの取材者の書き込みを見ると、「負けたけどよくやった」とか、「日本中を沸かしてくれた」など、惨敗をどう受け止め、4年後に向けてどうチームを改善していくかという姿勢が見られず、このままでは、4年後も同じ光景が見られるのではないかとさえ思える応対ぶりである。
テレビが主力選手に感想を求めているが、マイクを向けられて本音を言う選手などほとんどいない。それは取材ではなく、単に立ち話をしているだけのことである。マイクなしに本音で気持ちを聞くのが取材である。
今の日本にとって、まず、必要なことは前の大会で予選リーグを勝ち抜いたのに、今回は何故勝ち抜けなかったか、その理由は何かという分析ではないだろうか。でも、そうした分析がテレビの報道や、取材者のネットでの書き込みにほとんど見られないのは不思議としか言えない。
仕事で大学生の採用を十年以上経験し、何千人という学生に面接し、選考をして来た経験からいうと、今の若者は全体として、本音は言わないし、問題があった時でも、徹底して議論をするというようなことは避けがちである。子供の時から、争いは好まないという姿勢で過ごしているので、そうなっている。
親も教師も勉強さえして、成績さえ良ければ、叱ることをしないので、叱られることにも慣れていない。だから、採用して上司が叱ったり、注意をしたりすると、ショックを受けて、直ぐに辞めてしまう者が少なくない。
そんな全体のムードの中で育った者がマスコミに入り、取材をし、原稿を書いたり、テレビでコメントをしているので、今回のような惨敗があっても、徹底した分析をしようとしないし、取材でも詰めをしないのだと思う。だから、敗因を分析し、次に向けてどうすべきかというような発想が出てこないともいえる。
筆者は何回も書いているように、敗因はザッケローニ監督の指導方針、作戦、指揮の仕方、事前の準備などの間違い、そして、すべきではない本田を中心にしたチーム作りが大きかったと思う。何回も言うが、試合を見ていて、チームがチームとして機能していなかったとさえ言える。
断っておくが、筆者は別に本田に恨みがあるわけでも、個人的に嫌いなわけではない。ただ、チームの中心になる資質がない選手で、1プレーヤーとして使う選手であるにもかかわらず、その人間が中心のチーム作りをしたために、チームとしてのまとまりがなくなってしまったのだと言っているのだ。
では、彼を1プレーヤーとして使えるかと言えば、それは無理だ。彼は自分に資質がないにもかかわらず、チームの中心でないと、気が済まない性格なのだ。だから、本田を外せというのだ。
選手として優秀であるということと、全体をまとめたり、司令塔になれるかということはまったく別問題である。たとえば、野球のイチローは選手としては優れているが、マリナーズ時代から選手としては浮いていて、他の選手とのコミュニケーションはほとんどなかった。
だから、川崎がマリナーズに入るという話が出た時に、他の選手から、「あんな日本人がまた1人入ってくるなど、勘弁してくれ」という声が何人もからあがった。
スポーツの選手にはそんな人は珍しくない。そうした人間をチームの中心にした監督が間違っているだけだし、本田自身、自分がリーダーの資質に欠けているという自覚がまったくない。だから、「4年後もワールドカップを目指す」というようなトンチンカンなことを言うのだ。
自分が浮いた存在だと気が付き、敗戦後、代表を引退した中田英寿と大きな違いである。何回も言う。本田がいたから、チームは勝てなかったのだ。
チームがチームとして機能するには、選手の心を一つにして、試合で勝つことに全力で向かうためのメンバー構成が必要だが、今回のチームにはそれが欠けていた。全体をまとめるキャプテン、試合でのしっかりした司令塔、控えの選手たちをまとめ、バックアップする姿勢を持たせる選手の存在、そうしたものがすべてに欠けていた。
代表は23人いるのだ。試合に出てフルに活躍できなくても、半分なら活躍できるベテランもいるし、守備でこの人を入れれば、背の高い外国人とのヘディングのセ競り合いでも対抗できる人も日本にはいる。ベテランだが、まだ現役で頑張っている中村俊輔や闘莉王などを選べば、チームの試合の仕方は大きく変わっていたと思うし、Jリーグで活躍して結果を出している、いわば旬の選手を何故、もっと選ばなかったのかと思う。
また、ロンドン五輪で4位になった時のメンバーをもっと選んで、若手に短い時間でも思い切りプレーをさせるということもすべきだったが、ほとんど選んでいなかったり、選んでも試合に出したりしていない。
ザッケローニの間違いの大きな点に、点を取ることに注力し、守備をどうするかという点が極めて疎かにしたことがある。ヨーロッパの予選でギリシャはとにかく守備を固めて、点を取られないようにして、カウンター攻撃で点を取るという作戦で勝ち抜き、今回のワールドカップでも、予選リーグを勝ち抜いた。
ネイマールやロッペンなど強豪国の主力フォワードのような一人で相手選手を抜いて行き、そのままゴールできるような能力のある選手がいない日本では、点を取られない守備体系は最重要課題なのに、それが疎かになったのでは、試合に惨敗して当然である。
20140624
やっと出て来た「サッカー敗戦の陰にマスコミの堕落」の原稿
かつて、マスコミの一員として、多くの取材をし、原稿を書いてきた者として、最近のマスコミの「企業や役所、スポーツ団体の広報媒体的な」あり方をずっとおかしいと感じていたが、今回のワールドカップに惨敗について、やっと、マス媒体に所属する人から反省の原稿が出てきた。
フットボールチャンネルで6月24日に横田路生氏が書いた「日本代表の停滞を招いたサッカー媒体の堕落。1敗1分は”メディアの敗北”である」という原稿である。
内容は筆者は言ってきたことと同様で、マスコミがサッカー協会の広報的な存在になり、事実をきちんと伝えなかったし、代表選手への取材でおかしいと感じたことでも、突っ込みをする記者がほとんどおらず、それが今日の惨状を招いたという内容である。
筆者はテレビ局にこそ、この姿勢が最も必要で、今回のワールドカップを振り返る時、是非、自らの報道について、懺悔の番組を作って欲しいものである。
マスコミは事実を伝えるのが役割であり、取材対象がおかしな言動をした時は、鋭く突っ込み、批判もすることが大切な役割だが、今のマスコミにはその姿勢がほとんどない。
サッカーの話ではないが、小保方晴子氏の記者会見を見ていて、現場にいた記者は何を取材しているのかとイライラした。あの記者会見の場に筆者がもしいたら、質問することはただ一つである。「STAP細胞があるというなら、今、ここでその証拠のデータ、写真、実験の様子を示すノートの3点を示してください。それが理研の研究所にあって手元にないというなら、それを手にしてから記者会見をすべきであったのであり、騒動から何週間も経って、証拠を何も示さずに、ただ、『STAP細胞はあります』とだけ、言葉で言うのはナンセンスで、今日は何のための記者会見なのですか」 でも、こんな質問、指摘をする記者は誰もいなかった。
それだけでなく、記者会見を受けてのテレビや新聞の解説でも、そうしたことを指摘する人は皆無に近かった。事実を事実として追求し、それを国民にきちんと伝えるというジャーナリストとしての原点が失われている、最近の取材者の姿勢がもろに出たのが小保方会見だった。
それだけでなく、評論家や漫画家などテレビで名前が売れている人、何人もがこうした小保方氏を擁護している発言をしていることなど、まったく理解に苦しむ。
取材者の取材の原点は「何故、どうして」という姿勢である。でも、今のマスコミ報道にはその姿勢がすっぽりと落ちているのである。
記者として長年取材をして来た一方で、ある団体の責任者として、マスコミの取材を数多く受けることも体験した筆者の経験から言うと、最近の若手の記者は「マスコミは高給だから」とか、「テレビ局や新聞社は一流企業だから、記入社した」という人が少なくない。新聞社、商社、銀行と受けて、新聞社に受かったので、記者になった。そんな話をする記者に出会い、驚いた経験もある。
筆者が就職する頃は、新聞社、通信社、テレビ局、出版社とマスコミだけを受けて、合格した会社で記者になる者がほとんどだったが、まったく発想が違うのである。
給料が高いから新聞社やテレビ局に入ったという人に、ジャーナリストとしての資質がなくても仕方がない。
サッカーの話に戻ると、事前報道では、日本応援一色ではなく、出場国の説明、特徴紹介などがもっとあるべきだったし、日本チームの問題点、弱点ももっと解説し、それをどう是正していくべきかというような話があってしかるべきだったが、それがほとんどなかった。
試合である以上、相手を知らないと話にならない。でも、今の日本のマスコミにはその姿勢がほとんどない。特にテレビはそうである。
アルジェリアが韓国を4対2で下したことを伝える日経新聞では、アルジェリアの選手はフランス在住のアルジェリアからの移民の二世、三世が多く、フランスでサッカーを長くしているが、フランス代表で出られない人がアルジェリアの代表となって出ているので、レベルが高いのだという話を書いている。
試合直後にこうした原稿を書くということは記者は事前に知っていたのだろう。こうした原稿、情報は重要だが、でも、事前にそうした情報を知らせて欲しかったと感じた。そうした情報があれば、試合の予想も見方も大きく変わったはずである。
スポーツの中継の解説で、最近、特に感じるのは、解説ではなく応援の話をする解説者が多いことだ。オリンピックの試合の中継では、行われている試合の適切な解説や分析を話しないといけない解説者がただ、「頑張れ」「まだ行ける」というような話ばかりをしている。それでは解説ではない。
でも、それは解説者の責任というよりも、そうした話をするようにテレビ局から注文がつくというのだから、テレビ局の責任である。
テレビ局は公共の電波を借りて放送をしている。そうした意味で、公共としての責任がある。今のテレビ局にはそうした公共性をほとんど考えていないテレビマンがほとんどである。それはサッカーだけでなく、今のどうしようもない番組のオンパレードを見ても、そう感じる。
日本サッカー協会の専務理事など幹部が2試合の後、ザッケローニ監督と長い時間話し合いをしたと新聞が伝えている。筆者に言わせれば、ザッケローニを選んだ時点で、今日の結果は予想されたのであり、彼を選んだ協会に大きな責任がある。
外国人で日本チームの監督になった人で、「日本サッカーの父」とさえ言われ、今でも多くの話が伝えられているクライマー氏や、病気で退任を余儀なくされたがオシム氏、日本をベスト16にしたトルシエ氏などは、原点に立ち返り、基本の話をし、選手に明確な方針を示して徹底させ、チーム作りに貢献した。
一方で、選手時代や監督としての名声はあるが、日本に本当に必要なことを説かずに、中途半端な戦略、チーム作りをして、監督として失敗したのはジーコであり、今のザッケローニである。
この2人に共通するのは、日本人の他の選手に人望がなく、チームの中心にしてはいけない中田、本田を中心にしたチーム作りをしたことである。選手として多少能力があっても、他の選手から歓迎されない選手を中心にすれば、チーム競技のサッカーでは、チームはバラバラになり、試合をする前に、負けた状態になっているのである。
1試合が終わった時点で、あるサッカージャーナリストや、かつての名選手、釜本氏が「本田を外せ」と原稿を書いたり、発言したりしていた。実情を知っているからである。でも、2人とも、「ザッケローニは本田が好きだから、外さないだろう」と付け加えあ。そして、現実にそうなり、無様な試合を繰り返したのである。
今回、多くの国で監督のことがクローズアップされている。コロンビアのように、他の国の監督に何人も排出している国もある。日本を破ったコートジボワールのフランス人監督は、「サッカー選手である前に、人間としての約束事、ルールを守ることを厳しく言い、それを守らない選手は置き去りにした」と話をしていた。
こうした監督だから、対日本戦でも、日本の良い点を消す作戦をきちんと実行した。だが、ザッケローニにこうした姿勢は見られなかった。
名声ではなく、ワールドカップでの実績で、次の監督を選んで欲しいものである。
20140623
事実を伝えない大手マスコミ、批判・分析を非難するサッカーファン
多くの人が日本時間の夜中に行われているサッカーのワールドカップの試合を見ていると思う。筆者もテレビの中継で(録画中継も含め)、多くの試合を見た。そして、感じたことはただ一つ。世界のレベルと日本のレベルがまだこんなにあるのかという、ため息にも近い想いである。
以前に比べて大分レベルアップしたと思っていたが、他の国の試合を見て、まるで役者が違うのだ。
コートジボワール戦で、ドログバが途中出場し、彼が動き出した時、テレビで解説をしていた岡田前監督が「彼だけ次元が違う」と言ったことなどは、まさにその通りで、勝ち抜いているチームを見ると、ドログバ級の選手が数人いるのだ。これでは、日本が勝ち抜いていくことなど夢のまた夢である。
強いのはドイツやブラジルなど世界トップクラスのチームだけでなく、予選敗退と予想されたいくつものチームのプレーを見ても、日本が対戦しても、勝てないだろうという動きをする選手が何人もいる。海外メディアが日本チームについて、「つまらない試合運び」「アイデアがない戦略」などと書くのは当然である。
このことは、欲目でなく客観的に見た多くの人が感じたことであると思う。フォワードの攻撃だけでなく、バックスの守りでも、また、個々の選手の能力だけでなく、チームプレーでも、現在の日本サッカーのレベルが世界の水準からかなり置いていかれた状態であることを多くの人が悟ったと思う。
にもかかわらず、「世界一を真剣に目指す」と冗談とも、笑い話とも取れることを言った本田を笑いながらではなく、真剣に伝え、その結果、事情を知らない多くの日本人に、その気にさせてしまったという意味で、本田も、それを伝えたマスコミも、その罪はとても大きいと言える。
事実を事実としてきちんと伝え、その上で頑張りを期待するというのなら話はわかるが、事実をきちんと伝えず、根拠のない空想とも言える期待を抱かせてしまったのは、国民を愚弄した行動とさえ言える。何回も言っているが、アメリカとの無謀な戦争を「勝てる」というニュアンスで国民を煽った軍部と大手新聞と、今のマスコミは何も変わっていない。
6月24日現在で、これまでの試合で最大の番狂わせと思われたのは、強豪のウルグアイとイタリアを破り、強豪がひしめき、死の組と言われたDグループで真っ先に決勝トーナメントへの出場を決めたコスタリカである。事前予想では、グループで最弱と多くの人が思ったチームである。
ところが、このコスタリカの頑張りは番狂わせではないと、先週末の新聞で書いたのは、ロンドン五輪で日本チームを率いて4位に入賞させた関塚元監督である。
関塚氏によれば、コスタリカは若手選手の育成に力を入れ、ユースの世界選手権で上位入賞を果たしていて、そのメンバーが今回のチームに多く含まれているといたので、フロックではないというのだ。
試合が終わって、それほど日を経ずにして、こうした話を書くということは、関塚氏自身は、事前にそれを知っていたということである。にもかかららず、事前報道がまったくなかったことである。
隣国韓国は、日本同様、日本敗退の見通しの戦いぶりである。
こうした事態になって、選手選びの段階から、海外組と国内組の選考で悶着があり、そのしこりがチーム作りで、統一感を持つことができなかった理由であると、韓国人のジャーナリストの人が書いている。
しかし、この韓国についても、日本のマスコミはこうしたことは伝えず、むしろ、監督が選手として活躍した「伝説の人」で、彼を中心にチームはまとまっていると報道していた。
本田の虚言を伝え、真の実力を伝えず、そして、肝心な他の国の情報を伝えなければ、国民が勘違いをしても仕方がないと言える。
日本が以前、ワールドカップで決勝トーナメントに進んだ時と今とを比べると、その差ははっきりしている。
日本が勝ち抜いた時には、中村俊輔や遠藤のように、チームに試合の上でのコントロールタワーがいて、彼らが全体を俯瞰してボールを回し、フォワードは細かいパス回しに加えて、高原や稲本などゴールに突っ込み点を取る選手がいた。
しかし、今の日本には、この試合を進める上でのコントロールタワーがいないのだ。
遠藤は年をとって、かつての動きが見られない。それ以上に、その能力や人望がないにもかかわらず、本田が自分が自分がという態度をとって、その役割をしようとしているために、ボールが他の選手に回らない。
本田が人望がなく、ビッグマウスでも、以前の切れがあれば、嫌々ながらでも、他の選手はそれなりに対応した。しかし、今の本田は、膝とバセドウ病の手術(かなり根拠のある噂だが)に加えて、所属チームで試合に出られないための試合勘の鈍りで、かつての輝きはなく、パスも自分のボールも簡単に相手選手に奪われている。
ゴールに突っ込む選手は岡崎や大久保など人はいる。しかし、肝心なボールが彼らに回らないし、守備などに力をそがれているので、ここぞというチャンスに動きに切れがなく、ゴールを割れないのである。
以前も書いたが、今の日本を立て直すためにしないといけないことは簡単で、監督をワールドカップでチームを率いた経験のある人に一刻も早く変えること、そして、まったく機能していなく、彼がいるためにチームの輪が乱れる原因である本田を代表から外すことである。
彼がいることのプラスとマイナスを比べれば、マイナスの方が遥かに多い。かつての中田英寿と同じように。中田はワールドカップの後、代表チームを去った。本田はどうするであろうか。
ザッケローニは欧州の有名チームの監督を務めた華やかな経歴を持つ。しかし、有能な選手が多く揃い、それをどう使うかという能力と、発展途上のチームを良いチームに育てあげるのでは、必要とする能力は違う。
トルシエ元監督がかつて、日本を予選リーグを勝ち上がるチームにしたのは、試合に勝つにはどうしたらよいかを考え、それを選手に徹底させ、自分の言うことを聞かなかった有名選手を代表に選ばなかったからである。
ネットの書き込みを見て、非常に気になることがある。
それは、嘘とも言えるマスコミの盛大なPRを信じ、日本の躍進を信じた人が多いのか、日本チームの現状を書いたり、問題点を指摘する発言をバッシングする風潮があることである。
問題点の指摘や批評は文句やイチャモンとは違う。問題点を指摘し、より強くなるためにどうしたら良いかということを言うのは建設的なことである。でも、そうした書き込みがあると、「後ろ向きなことは言うな」「非難をしてどうなる」というような文句を言う人が本当に多いのは、恐ろしいことである。
政治家の田中真紀子が外務大臣を務めていた頃、彼女の人間として、また政治家としての問題点をテレビで評論家が言うと、テレビ局にその発言を非難するクレームの電話やメールが殺到するため、テレビ局は出演者は田中批判は控えるように言い、それに従わない人は番組に呼ばなくなったということがあったが、全く同じ行動である。
今の日本に一番大切なことは現在の実力をきちんと把握した上で、どうしたら世界で勝てるチームを作っていくかという戦略プランを立てることである。そのためには、現状をしっかり分析し、多くの批評を活かしたチーム作りをすることである。
残念ながら、個人の体力、個人の総合力では、有力国の有名選手には、日本の選手はかなわない。でも、勝つ方法はある。それはある部分で優れた能力を持った選手を集め、その良い点を活かせるチーム作りをすることである。
アメリカンフットボールで京都大学が優勝をし続けていた頃、監督に強さの秘訣を聞いたことがある。その時に、監督が言った言葉はとても参考になる。「選手一人一人の総合力ではスポーツ推薦で上がって来た他のチームの選手にはかなわない。だから、京大の選手には、自分の強い部分だけでチームに貢献することを求めた。足の速い選手はその能力を徹する仕事をしてもらったし、体力がある選手には徹底して守る仕事をしてもらった。この分業作業で、大学でスポーツを始めた人が多いチームを日本一のチームにした」 今の日本サッカーには、この発想が一番なのではないか。
明日、コロンビアとの試合がある。筆者が一番恐れることは、日本が善戦し、引き分けたり、間違って勝ってしまうことである。コロンビアは決勝トーナメントに進むことが既に決まっているので、後の試合に備えて、有力選手を温存してきたり、試合運びでも本気で戦ってこないことは、過去の試合でもよくあることである。
日本サッカー再建のためにも、コロンビアに本気になってもらい、日本が実力通りぼろ負けになることが大切だと筆者は考える。なまじ、善戦したり勝ったりすると、問題点の分析、改革が遠のいてしまう危険があるのだ。
20140619
本田中心で失敗した日本サッカーチーム、再建は本田外しから
サッカーのワールドカップで、日本が予想通り、コートジボワールに負けた。
スポーツの世界では、イギリスのブックメーカーと言われる賭け屋がいて、世界中の人が賭けることができるようになっているが、この賭け率は非常に正確で、8~9割で当たる確率がある。当然である。世界中に人が大金を金を賭けているからである。
そのブックメーカーでの賭け率で、日本はコートジボワールに勝てないという結果が出ていて、結果は予想通りだったのである。世界ランクでも、自力でも日本はコートジボワールの格下だったのである。
にもかかわらず、事前に「日本が勝つ」と報道していた日本の新聞、テレビは、「予想外」というトーンで報道し、「次のギリシャ戦、コロンビア戦にはなんとしても勝つ」という話ばかりをしている。
日本のマスコミ、特にテレビは事実を事実として伝えず、国民に実態以上の期待を持たせ、結果が出て、がっかりさせるという戦争中の「大本営発表」のような報道を続けている。
これは今回のワールドカップに限らず、オリンピックなどでも毎回のことである。国民を煽り、そして、期待させ、がっかりさせるということを繰り返しているのである。
そして、事実を伝え、厳しいことを言う人間はテレビに出さず、景気の良い話をする人間だけを選んだ出し、かつ、彼らに「日本が負けるという話はしないでください」と注文をつけている。
「事前に厳しい話をすると、盛り上がらないから」というのがマスコミの人間の言い分である。
その結果、組み合わせが決まった時に、「予選リーグで敗退」を予想した週刊ポストには抗議が殺到したという。何も知らされない国民は期待だけしているので、現実を書くマスコミを許さないということとなったのだ。
でも、「景気の良い話をして、盛り上げよう」というマスコミの発想は違うと私は思う。事実を伝えれば、例え、6位入賞でも、「とても頑張った」という評価が出来るのに、入賞かどうかという選手を「金メダル有力」と報道するので、選手が頑張って入賞しても、国民は「なんだ」という反応になってしまう。国民だけでなく、選手にも気の毒な話である。
太平洋戦争では、実際は負け続けているにもかかわらず、朝日新聞を中心とする日本のマスコミは負けを正しく伝えず、悲惨な結果を招いたが、その教訓をまったく生かしていない。というか、その体質はあれだけの戦争の犠牲を招いたにもかかわらず、マスコミは何も変わっていないのだ。
自力が劣る上に、ザッケローニ監督のチーム作りや、事前戦略で大きな3つのミスをおかした。1つのそして、最大の理由は本田中心のチーム作りをしたことである。
サッカーに興味があり、少し事情を知っている人間は、8年前の2006年のワールドカップのことを覚えている。
イタリアで活躍していた中田英寿中心のチーム作りで、事前のマスコミ予想では、ベスト4も夢ではないという雰囲気だったが、結果は予選リーグでの敗退である。絶望感から、試合を終わった後、中田がグランドに寝転んでしばらく起き上がらなかったシーンを覚えている人もいるだろう。
なぜ、そうなったか。理由は簡単である。ジーコ監督は選手の自由にさせ、中田が自分が中心と名乗り出て、他の選手に指導、命令するような態度に出て、その彼に多くの他のメンバーが反発し、相手チームと戦う前に、チームがバラバラで、敵と戦うどころではなかったのである。
今回のチームを見ていると、8年前とまったく同じである。本田一人が気持ちよくプレーをしているが、他のメンバーとのボールの交換も良くなく、ボールコントロールの中心にいる選手としてまったく機能していないのは、試合を見れば、一目瞭然である。
コートジボワールとの試合で本田が点を入れたので、マスコミは本田を持ち上げているが、あれは見ればわかるように、きちんとしたチームプレーで取った点ではなく、偶然取った点だったのだ。そして、チームプレー、チームの司令塔という意味では本田はまったく試合で冴えていない。
香川の出来が悪いとマスコミは書いているが、香川は本来、現在、本田がいる位置においてこそ輝く人間で、香川の出来を悪くしているのは本田だとさえ言えるのだ。
イタリアの名門チームでレギュラーで活躍する長友がコートジボワールの試合で冴えなかったのも、同じ理由からだと言える。
中田も本田も良く似ている。外国人には受けるが、日本人からは嫌われるタイプである。8年前のジーコ監督も、今回のザッケローニ監督も日本人のチームメートが嫌う選手を中心に据えてことで、チームは機能しなくなったのだ。
ザッケローニの間違いはまだある。前回の岡田監督の時は、事前に強豪チームと練習試合を何回もして惨敗し、そこから、戦略を変えたことが功を奏して予選を勝ち抜いた。
だが、今回のザッケローニは弱い相手ばかりの練習試合を組んでいたので、その修正ができなかったのである。強いチームと練習試合をして惨敗し、軌道修正をし、強豪ロシアと対等の試合をして、引き分けた韓国と大きな違いである。
ザッケローニを監督に選んだ日本サッカー協会も、今回の不出来の大きな理由である。ザッケローニは欧州のクラブチームとしては名監督という評価があったが、ワールドカップの監督の経験がない。クラブの試合と国と国がぶつかり合うワールドカップは雰囲気も、戦略もまったく違う。そのワールドカップに経験のない人間を監督に選んで、ものの見事に失敗したのである。
日本人に人がいないなら別である。ユースチームを育てて結果を出している監督もいるし、2回もワールドカップの経験があり、実績もある岡田もいる。外国人でも、きちんと対応すれば、経験者が日本の監督になる可能性は結構あったのに、未経験のザッケローニを選んだのである。
コートジボワールでリードされたザッケローニは慌てて、選手が戸惑う采配をして、選手の自由を奪った。彼の罪は大きいと言える。だから、欧州のマスコミでは「ザッケローニ更迭か」という報道がすぐになされたのである。
8年前の時は、事前の期待が大きかっただけに、予選リーグでの敗退は、国民にショックで、サッカー熱は冷めて、日本サッカーはしばらく冬の時代を迎えた。今回もマスコミの煽りで盛り上がった国民にがっかり感だけが残り、サッカー熱が冷えることがないことを祈るのみである。
最後に、日本サッカー再建の方策を言えば、簡単である。
本田を日本代表チームから外すことである。外国では本田くらいの「ビッグマウス」はいくらでもいる。でも、日本人は違うのだ。特にチームプレーが要求されるサッカーでは、「腐ったリンゴ」は取り除かないといけないのだ。
日韓大会の時、韓国はワールドカップの監督経験豊富な名監督を、韓国チームの監督に招き、成績は日本を上回った。日本再建のためには、話題つくりの意味でも、同じくらいの名監督の招請が必要と言える。
そして、日本代表23人を選ぶ時のルールを作るべきだと思う。例えば、Jリーグの得点ランキングで、日本人として1位と2位を得た人間は、自動的に選ぶなどという誰もが納得するような規則を作るのだ。
欧州ではバックスでも、どれだけ相手の攻撃を防いだかという得点の仕方があり、ドイツ、シャルケでプレーしている内田はドイツのリーグでバックとして2位の評価を得たという。日本でも同じような点数の付け方をして、それで上位の2人は自動的に選ぶなどとすべきである。
勿論、右が得意、左が得意などの選手もいるし、監督の方針もあるから、23人全員を自動的に選ぶのは現実的ではない。ただ、十人くらいはそうした客観的なデータで選ぶべきである。
そうすれば、鳥栖の豊田などは23人に入っただろうし、大久保が選ばれて当然という話になる。チームプレーだけに、納得が重要なのだ。
そして、海外のチームにいる選手はレギュラーとして活躍している選手を優先するルールを作るべきである。前大会優勝で、今回も優勝の有力候補と言われたスペインが敗れた理由の1つに、所属チームでレギュラーでないGKのまずい守備がある。
その他の選手でも名選手でも、所属チームでレギュラーでない選手は、試合勘が鈍って、精彩を欠いていた人が多かった。
レギュラーでないということはそれだけハンディなのであり、選手の側も名声だけでトップチームに移籍して。、レギュラーが取れないという愚を繰り返さないことになるだろう。
20150706
何にでもいちゃもんをつける韓国とは距離を置けば良いだけ
九州の産業施設の世界文化遺産入りに韓国が反対の姿勢を示しただけでなく、ユネスコのこの問題を取り扱う担当部門の議長や副議長国を韓国の外相がわざわざ訪問し、文化遺産にしないように説得して回ったという。
ほんの数日前に、訪日した韓国の外相は日本の外務大臣と会談して、この文化遺産問題で反対をしないということで合意したばかりだというのに、この行動である。
世界文化遺産の話は、日本代表が会議で、強制連行して働かせた朝鮮人がいることを話し、施設の説明文にその旨を記すと発言したことで、世界文化遺産には認められたが、こうした解決の仕方は文章の表現の事で、今後、韓国が色々文句を言って来ることにつながり、日本として、大きな禍根を残す結果となったと筆者は考える。
世界文化遺産問題に限らず、韓国は様々な事で、日本に文句を言って来る。直接、日本とのやりとりの中で言うだけならともかく、韓国の首脳が外国に行って、日本の問題点をわざわざ言って回ったり、韓国を訪れる外国の首脳に日本の悪口を必ずと言って良い程、言うという念の入れ方で、従軍慰安婦問題だけでなく、世界で日本の評判を悪くして回っているのである。
こうした韓国について、日本の政治家の何人かが、日韓首脳会談を早期に実現して、仲直りをすべきと発言し、中には、わざわざ訪韓して、向こうの首脳に会って、早期実現を要望したりしているし、大手マスコミも、「早期に日韓首脳会談を実現すべき」と書く。筆者はこうした発想が全く理解できない。
最近は、こうした韓国の態度に腹を立て、本やネットの書き込みでも、嫌韓の発言をする人が目立ちだしている。だが、筆者は嫌韓の発言をする必要すらないと考える。
人との付き合いでも、「嫌う」という事は、まだ関心があるという事である。「好き」の反対は「嫌い」ではなく、「無関心」である。韓国に対する日本の態度は姿勢は、「嫌う」ことではなく、「無関心」になることである。
日本が韓国と付き合わなくても、特に問題がある訳ではない。韓国と取引のある企業などが少し困ることがあっても、全体としては、それは無視しうる規模の話である。日本が韓国に対して無関心になり、本格的に韓国と付き合うのを控えだしたら、韓国経済には大きな打撃である。日本企業の部品や、日本企業の技術がないと、輸出で儲けている韓国企業は大きな問題に直面するからである。
政治家で、日韓の首脳会談に熱心な言動をする人の多くは、日韓の間が正常化することに努力をしたという事で、日韓に関する利権に絡もうとしているだけのことである。これは日韓だけの事ではない。日中の事でも同様で、多くの政治家や企業経営者を連れて、中国や韓国を訪問した政治家は、利権狙いの匂いがプンプンする人ばかりである。
最近、アメリカの学者が、アメリカの外交雑誌に、「日本について、何かにつけて文句ばかりを言う韓国」について、その理由や背景を分析した論文を書いた。
それによると、第二次大戦後、韓国では「反日教育が徹底されたため、韓国社会の中では、反日が当たり前になっていて、マスコミもそうした傾向をより助長する記事を書き、反日感情を煽っている」こともあって、韓国社会で、韓国人が赤と白の色を使ったデザインの服を着ているだけで、「日本にすり寄る人間=許せない人間」という発想から、糾弾される異常さだという。
また、分裂した国家である北朝鮮に対抗する気持ちが強く、北への対抗意識から、より反日になっていて、こうした国とは、付き合いきれないという趣旨の事を書いているという。
戦後の日本では、旧社会党の発想で、「世界のどの国とも仲良く付き合っていこう」「何かでもめたら、日本が譲っても、仲良くすべき」というような姿勢と外国と付き合って来て、言わないといけないことも言わないで来た。しかし、その譲る姿勢が、今日の韓国の増長を招いたのである。
韓国が日韓併合や、従軍慰安婦などで日本を攻撃して来たら、戦後のどさくさの中で、韓国が日本領土の島を勝手に略奪してしまったことや、少し古い話だが、鎌倉時代の蒙古来襲の時の話で、韓国を批判すればよいのだ。日本の教科書を韓国が批判するなら、韓国の教科書で、徹底した反日の記述があることを問題にして、対抗するのである。
日本の学校教育では、蒙古来襲は台風のために、蒙古の船は沈没するなどして、日本は国難を免れたと書いてある。しかし、歴史を少し勉強した人には周知の事実だが、壱岐対馬では、男性は多くの人間が殺され、女性は性の奴隷として大量に連行されたのである。
そして、蒙古軍と言うが、実は攻めて来たのは、ほとんどが朝鮮の兵士だったのである。蒙古に支配された朝鮮の軍隊が蒙古の指揮されて、日本を攻めたのである。
他国と付き合う時のポイントは、譲ることではなく、主張すべきはきちんと主張して、相手の主張を押し返し、その上で、中間くらいの所で、納める姿勢が大切なのだが、戦後の日本にはそうした発想があまりになさすぎ、それが今日の従軍慰安婦なども問題をいつまでも揉める事にしている原因となっているのである。
隣国同士が、歴史上の話を取り上げて、相手を非難すれば、反対側にも相手を非難する話はいくらでもある。これは日韓だけでなく、フランスとドイツなどでも同様である。フランスとイギリスは百年戦争をした訳だから、互いに文句を言いたいことはいくらでもある。
でも、そうした事は、戦争が終わって、和平協定を結ぶ時に、過去の話は何らかの形で清算し、その問題は蒸し返さないという事で合意をするのである。
日韓の話も今の韓国の大統領の父親が大統領だった時代に、日本が多額の金を支払うことで、国交が正常化し、今後、そうした事で補償などは求めないことで合意をしている。その金と、日本からの技術協力で、韓国は経済発展をして、今日の世界十位くらいの国になったのである。
それを補償や謝罪を蒸し返すのは国際法違反出し、世界的に認めらないことである。日本はそうした韓国のおかしさをきちんと主張し、今後、今度の世界遺産の話のように、安易に譲らないことである。世界の常識では、国益に反することは、多少の痛みがあっても、譲らないのが当然だが、日本人は簡単に譲ってしまうので、問題が大きくなるのである。
20150702
偏向だらけで、言論の自由が言う資格がない今のマスコミ
自民党の議員が、今のマスコミはおかしいと言う発言をしたことを大手マスコミや野党議員が、「言論の自由を危うくするもの」として、糾弾している。
だが、マスコミに長く働いていた者として、言いたいのは、今のマスコミは偏向だらけで、「自民党議員の発言で言論の自由が危うくなる」という資格などない。
私に言わせれば、本質を突かれたので、怒っているだけなのだが、マスコミが「自民党はおかしい」と一斉に書くと、一般の人はそうかなと考えてしまうところが、本当は一番恐ろしいのだ。
新聞やテレビを見ていて、おかしいと思う人は多い。私の周辺にも、おかしいと言う人は少なからずいる。でも、大きな声を挙げないので、マスコミに従事している人間は、「批判はない。自分たちは正しい」と不遜にも思ってしまうのだ。
マスコミの偏向ぶりの例示は枚挙の暇がないくらいある。
例えば、日曜日の朝、TBS系列で放送している「関口宏のサンデーモーニング」などは、偏向の塊だと言ってよいくらいだ。原発問題だも、安保問題でも、社会保障改革でも、議論が分かれる話を取り上げる時、反政府的な人しか呼ばない。そして、登場する識者と称する人が全員、一方側の意見だけを言うのだ。
議論が分かれるテーマについては、賛成側、反対側双方の人間を登場させ、意見を言わせるのが、マスコミが声高に言う「言論の自由のあり方」だが、一方の意見しか取り上げないのだ。これを偏向と言わずして、なんというのだ。
テレビ朝日の「報道ステーション」は取り上げる価値するないくらいひどい偏向姿勢だ。この番組は一方の意見を取り上げるだけでなく、事実と違うことを、わざと捻じ曲げて報道するということも一度ならずしている。
そして、それを指摘されると、少し遺憾の意を表するが、確信犯なので、また、平気で同じことを繰り返している。
作家が自民党の非公開の勉強会で沖縄の2つの新聞を批判したとして、当該の沖縄の2つの新聞の編集責任者が会見をして、「言論の自由の危機」というような話をしているが、これなど、自分の顔を鏡で良く見ろと言いたい。
沖縄の新聞がいかに事実を捻じ曲げ、反政府、反自民の話を誇張して書いているかは、過去に何人もの人が事実を下に、週刊誌などで、告発している。自分たちの編集方針、態度こそ、「言論の自由を危うくするもの」なのだが、そうした認識すらないのだ。
事実を捻じ曲げて報道するのは、従軍慰安婦を故意に事実と違う事を何年にもわたって書き続けた朝日新聞のお得意とするところだが、そうした新聞社やテレビ局に、「自民党の議員の発言は言論の自由を脅かすもの」という資格などあると考えているところに、マスコミで働く人間の驕りがあると言える。
週刊文春、新潮という2大週刊誌の姿勢も最近は異常と言える。
大阪都構想の住民投票が僅差で、反対派が多かったことを表して、週刊新潮は「橋下衆愚政治の終焉」というような見出しで報じた 衆愚政治という言葉を知っていて、こんな言葉を使ったのだろうか。衆愚政治とは、耳あたりの良いことを言い、補助金をばらまくなどして、その力で、愚かな民の支持を取り付ける政治ということである。
橋下氏の政治姿勢や理念について、賛否両論があるのは当然だとして、彼が補助金などをばらまいて、愚かな民の支持を取り付ける行動をしたと言えるか。答えは明らかにノーである。
大阪都構想の結果について、出口調査で大手新聞が賛否の票をどうした人たちが投じたかを報じていたが、大阪都構想に賛成したのは、男性が6,7割、反対は女性中心。そして、年齢では、働き盛りの20歳代から50歳代の人たちに賛成が多く、年寄りに反対が多かったという。
週刊新潮の「橋下衆愚政治の終焉」という見出し、原稿は、大阪の働き盛りの男性のほとんどが愚かと言っていることになるのだ。分別があり、何とか行政改革をすべきではないかと考えた人たちを、週刊新潮は「愚かな人」と評したのである。投票した大阪市民の半分の人が「愚か」と言える週刊誌は、いつから、そんなに偉くなったのか。
橋下氏についての新聞、テレビ、週刊誌の姿勢は、それこそ「偏向」そのものである。
彼の意見、政策に個人的に反対なのは良い。しかし、マスコミが彼の政策、意見を、あたかも「橋下氏は異常」というトーンで、叩きまくる報道姿勢は「偏向」そのもので、「言論の自由を大きく逸脱している」。
大阪を何とか変えようとする彼の考えに、反対なら、対案を示せば良いだけであって、その生まれ育ちや、家庭環境などを書いて、彼の足を引っ張る姿勢は、偏向以外の何物でもなく、それこそ、言論の自由を侵害するようなことを誘発しかねない姿勢なのである。
そんなことに気が付かないくらい、今のマスコミは傲慢になってしまっているのだと言える。
傲慢と言えば、週刊文春がコラムで、「今週のバカ」という記事を掲載している。誰かを取り上げて、「今週のバカ」として書いているのだ。私はこの記事を書いている人間や、文春の編集部こそ、一番の「今週のバカ」だと思う。
一定の発言力がある新聞、テレビ、雑誌で、「今週のバカ」というタイトルで毎週、誰かを取り上げる姿勢は、「自分は偉くて、世の中、バカが多いから、そのバカたちを毎週取り上げるのだ」という、上から目線を感じる。私の周囲で、文春を読み人でも、この記事はいただけないという話をする人は多い。
繰り返して言う。マスコミはいつから、そんなに偉くなったのか。そして、偏向だらけの今のマスコミに「言論の自由」を言う資格はない。
20150518
既得権益者、マスコミ、老人、女性に負けた橋下大阪市長
橋下大阪市長が提唱した「大阪都構想」は住民投票で僅かの差で否決された。
新聞社の出口調査の結果では、働き盛りの20歳代、30歳代、40歳代などでは、構想に賛成が多く、60歳を超える人では反対がといても多かったという。また、男性は6割が賛成、逆に女性は6割が反対だった。更に、大阪の区ごとの賛否の内容を見ると、特定の区に反対票が多く固まっていた。筆者には、反対が多い区は特定の政党の支持者が多くいる地域ではないかと感じられた。
これらの内容から、筆者は日本では、「真の意味での民主主義が育っていない」と感じた。
筆者自身、橋下氏自身については好きでも嫌いでもないし、彼が提唱する大阪都構想の中身については、多くの議論があることは理解している。
しかし、自民、公明、民主、共産の各政党は、改革の必要という共通認識の下、内容で議論するのではなく、また、自分たちの改革提案をする姿勢もまったくなく、ただ単に「橋下氏が提唱する大阪都構想では行政改革にならず、むしろ、住民サービスは低下する」という論理だけで反対し、反対宣伝を繰り広げたのである。
かつて大阪に6年間住んだ経験から言えば、大阪市と大阪府のライバル意識は強烈で、大学、体育館など市立と府立のものが多くあり、行政の無駄が膨大であり、府と市が協力できれば、かなりの経費が削減できると感じた。
大阪に限らないが、行政の無駄は膨大で、これからの財政難の時代に、この行政の無駄をどう削減するかが、これからの日本での大きな課題であることは間違いない。今回の大阪都構想は、そうした本格的な行政改革の第一号とも言えるものだった。
しかし、反対宣伝行動をした各政党も、反対票を投じた人も、いかに行政改革をしないといけないかという意識が極めて薄かったのではないかと感じた。
行政改革でも、企業の改革でもそうだが、大きな改革をしようとすると、現在の制度、システムで多くの権益を得たいるものが、自分の権益が侵されるから、猛反対する。
彼らの主張は、改革提案が良い悪いではなく、「自分の既得権を脅かされる」ことへの反発でしかない。つまり、国や市などの行政や世のため、人のためではなく、自分の既得権を守ることに全力を挙げる。今回、反対の中心になった自民党や公明党、共産党などの市会議員は、大阪都になれば、自分の議席が危うくなる人たちである。
でも、彼らは巧妙だから、「自分の既得権が侵されるから反対」などということは言わずに、「その改革提案は国民、市民の多くの不利益をもたらす」ということを主張し、そして、マイナス情報だけをマスコミに流し続ける。
日本にとって大きな悲劇は、今、マスコミが本当の意味での権威や、既得権益者に対して、厳しく監視するような行動は極めて少なく、勉強不足もあって、既得権益者が流す、改革提案者のマイナス情報に(その多くは嘘であったり、改革提案に関係ない、提案者の個人的なことへの攻撃であったりするが)飛びつき、その嘘や本質に関係ないマイナス情報をそのまま流すことである。
この既得権益者の嘘や誇張のマイナス情報で、長野県の田中康夫元知事、横浜の中田元市長、そして、九州鹿児島県・竹原元阿久根市長など、既存の制度、システムに疑問を感じ、改革をしようとした人たちは知事や市町の椅子を去らざるを得なかったし、あれだけの力と情報発信力を持っていた小泉元首相ですら、マスコミの事実ではない嘘の情報、攻撃に嫌気が差し、自ら首相の地位を去った。
橋下氏についても、多くのマスコミ、ほとんどのマスコミと言っても良いが、反橋下であり、橋下批判の姿勢で共通していた。そして、その記事の多くが本質に関係ない、些細な行動や発言の揚げ足を取るような内容で、首を傾げる批判であった。
問題になった週刊朝日の記事などは、「品性を疑う」以外の何物でもなかったが、ほとんど同じ内容の記事が週刊文春に掲載された。読まれた読者もいると思うが、「橋下氏の先祖は被差別住民で、家ではなく橋の下で生活しているような人だったので、橋本ではなく、橋下という苗字で、『はしもと』と読ませるようになったのですよ」という信じられないような記事を自ら恥じることなく掲載したのである。
今の日本では、実はマスコミ自体が、最大の既得権益者であり、旧守派の最大勢力であると言っても良いのではないかと、かつてマスコミに席を置いた者として、感じる今日この頃である。
それにしても、今回の大阪都構想の住民投票で、感じる最大の疑問は、安倍首相のスタンスである。
菅官房長官は自民党大阪府連の行動に、不快感を表明していたし、大阪都構想に理解と支援の姿勢を示していたのに対して、安倍首相は終始、旗色を鮮明にせず、自らの意思をほとんど言わないで、地元の自民党市議団の猛烈な反対行動を黙認した。
住民投票に負けた維新の会は、自民党の安倍首相の行おうとしている制度改革や憲法改革などについて、理解を示していた橋下氏が政治家を辞め、リーダーでなくなることから、今後は野党色を強めるのは必至と言われている。
住民投票に負けたら、政治家を辞めると言い続けて来た橋下氏を支援することは、安倍首相がやろうとしている改革にかなりプラスであったはずである。
それが、支援はしないまでも、地元の市議団や府議団に派手な反対行動を自粛させるような発言、行動をしなかった。橋下氏不在は安倍首相にとって大いにマイナスだと思うが、不在にならないための行動をしなかったのである。
今の日本の政界は、あまりにお粗末だった民主党政権に対する国民の批判、怒りが収まっていないので、野党第一党である民主党の存在感がない。また、自民党内でも、安倍首相の地位を脅かすような人はいない。そうしたことが、安倍首相に慢心や驕りをもたらしたのかもしれないが、そうだとすれば、安倍首相は大きな間違いの行動をしたことになると筆者は思う。
また、大きな改革を行おうとする者は、事実ではない嘘の情報や誇張された情報で人身攻撃を受けて、挫折し失脚をしていくという図式は、大きな改革を実行しようする土壌を損なわせ、日本という社会から改革の芽を摘むことになると思う。悲しいことだと言える。
20150312
マスコミにない、「東北被災者に自主再建努力を促す」という視点
東北大震災から4年ということで、昨日のテレビはどの局も長い時間を割いて、東北の被災地の現状を伝えていた。今朝の新聞も同様だが、「4年経った今も、被災地はこんなにひどい状態」とか、「政府の方針が示されていないので、被災者達や地元自治体は途方に暮れている」というような内容がほとんどだった。
日本のマスコミだけでなく、外国の新聞、テレビも被災地の現状を取り上げていたが、その中で、ある外国のテレビ局の取材で、仮設住宅に住む母子の様子を放映していた。
その内容は、「4年経っても心の傷が癒えないので、何もする気になれない」という母親の話を紹介していた。それによると、4年経った今も全く働いていないということで、話をする母の横で、中学生らしき子供がゲームに夢中になっている様子が映っていた。全く働かずに生活するということは生活保護でずっと暮らしているということである。
更に、竹下復興大臣の「そろそろ、国だけでなく地元自治体も一定の負担をすべき時期」という発言に、仙台市長が反発という内容も報道されている。
どうしようもないくらいひどかった民主党政権の時でも、復興大臣はそれなりに仕事をしていた。しかし、地元と係るようになればなるほど、「地元は何をしているのだ」という気持ちになり、その趣旨をぽろり発言した大臣は2人も更迭された。
筆者は、国が何かをしてくれるのを、何もしないでじっと待っているという東北の被災地の現状をマスコミはもっとクールに、きちんと伝えないといけないと思うが、昨日のテレビの報道や今朝の新聞の記事を読む限り、そうした地元の甘えの構造を助長しているのがマスコミだという印象を拭えなかった。
筆者は大阪に5年在住したこともあって、関西に知人、友人が多い。だから、多くの知人が神戸の大震災に遭い、死んだり、家が崩壊したし、自分自身、震災直後の神戸に入り、被災地の現状をつぶさに見た。そして、被災者から復興の様子などについても、マスコミが報道しない多くの話を聞いたし、自分でも歩いてみた。
神戸と東北を比べると、色々なものが見えて来る。
まず、神戸の大地震は予測できなかった。ある日、突然来たのである。
これに対して、東北は明治時代以降でも、百年で3回今回と同じレベルの大地震と大津波があり、同じくらいの被害をもたらしている。つまり、東北の人たちにとって、地震と津波は予測可能だったと言える。
作家の吉村昭氏はもう20年くらい前に、2回の大地震のことを丹念に調べ、その状態を克明に本に書くと同時に、その震災への備えの必要性を訴えていた。でも、東北の人たちは、住民も自治体もほとんど何もしなかった。
それだけでなく、地震の後、大津波が来るという話に対して、「大防波堤があるから大丈夫」と言って、95%の住民が高台への避難をしなかっただけでなく、高台への避難をする人を嘲笑ったのである。
それでいて、津波を予想して避難を指示しなかったとして、自治体の長や学校や企業の責任者を被災住民が裁判に訴えている。自分逃げもしなかったのに、避難を指示しなかったという人を非難できないと思うが、違うのだ。
マスコミは東北大震災について、「かつて経験しない未曾有の大災害」というトーンで報道したが、全く嘘である。今回の震災の被害、津波の広がった範囲は明治時代、昭和の初期の大震災、津波とほとんど同じだったという検証もなされている。マスコミはそうした事実を報道しないといけないのに、それをせずに、お涙頂戴の姿勢だけなのだ。
震災の後の復興でも、神戸の時は、そのすぐ後に、地下鉄サリン事件があったこともあり、政府はその対応に追われ、マスコミの関心も2分されてしまい、今のように、4年経っても「被災者が可哀想」というような雰囲気ではなかった。
そうしたこともあり、また、県民性もあって、神戸では、国に頼らず、被災者は自分たちの手で復興に着手し、4年経った時点では、今の東北とは全く違って、もっと復旧が進んだ状況になっていた。
筆者はマスコミに、「東北の被災地はもっとしっかりしろ」という視点の報道があるべきだと思うが、被害者にそんなことを言うのは気の毒とでも思うのか、そうした報道は見たことがない。でも、そうした甘やかしの構造が、前向きに再建に努力しようとする姿勢や気力を削いでいるのだと思う。
交通事故や病気などで体が大きく傷ついた人がリハビリの訓練をする時、指導する人は甘やかしの言葉ではなく、厳しいくらいの叱咤激励と叱りの言葉を言う。周りで聞いていると、そこまで言わなくてもと思うくらいの厳しさだ。
でも、訓練を指導している人に聞くと、「甘やかしは本人のためにならないのです。なにくそという思いで、リハビリに励むようにすることが、本人のためだし、憎まれ役になるのが我々の役目なのです」という。
同じ視点、考え方が東北の被災地に対する報道にあって良いのではないか。
今日発売の週刊誌では、福島の原発被害の土地では、東電から補償金として、1億円以上の金をもらったという人がゴロゴロいるという話が紹介されている。また、以前、現地を取材している記者から、現地では補償金や支給の金で、高級品が飛ぶように売れているという話を聞いたことがある。でも、こうした話は新聞やテレビでは報道されない。
「被害者は可哀想。問題点を指摘してはダメ」 これが新聞、テレビの姿勢なのだ。でも、病気や事故へのリハビリではないが、もうそろそろ、叱咤激励の声、おかしいことはおかしいというスタンスが必要な時期に来たのではないか。それが復興への近道なのだ。
昨日、今日の被災地の報道をみて、感じたことを書いた。
20150202
一般人の認識と大きな差があるマスコミの後藤さん報道
イスラム国に誘拐されていた後藤さんが殺害されたことで、新聞、テレビ、週刊誌などは大きく報道をし、それこそ大騒ぎをしているが、その報道の仕方を見ると、周囲の色々な人と話をして一般の人が感じていることと、マスコミ報道との間に大きな差があるように感じじる。
身代金や死刑囚との交換を要求されていた時期、例えば、NHKはニュース時間のかなりの部分を使って、この事案を扱っていたし、ある時間帯のニュースでは、他のニュースは片隅に追いやられ、時間のほとんどがこの話に終始した。NHKに限らず、民放でも、例えば、TBSの「関口宏のサンデーモーニング」などでは、他の話をほとんど割愛して、この話題をずっと語り続けていた。
そして、その内容、報道のトーンは後藤さんは悲劇の人で、「何としても後藤さんを解放するように、政府は努力すべきである」というものがほとんどだった。
テレビ朝日の「朝までテレビ」では、テレビ朝日の社員のコメンテーターが「安倍首相が中東を訪問して、発言をし、地元の国々に200億円からの支援を行うことを話したことが、事態を悪化させたので、首相の対応として問題だ」という発言すらしていた。
誘拐され、釈放の対象となっていて後藤さんがフリーのジャーナリストで、マスコミ各社が仲間意識を持ったためにこうした報道の姿勢になったのかもしれないが、筆者が周囲の色々な人とこの件で本音で話をすると、国民の意識とマスコミの姿勢に大きな落差があるように感じてならない。
筆者が話をした普通の日本人の人たちは、「誘拐され、命の危険にさらされていること自体は気の毒だが、そもそも、後藤さんは戦場取材を主とするフリージャーナリストであり、命の危険があることを十分認識していて、そうした活動をしていたのであり、それに、国に何とかしろというマスコミの報道はおかしい」ということを異口同音に言う。
「国に何とかしろということは、その対策に税金を使えということですよね。なぜ、好き勝手な活動をする人の多額の税金を使わないといけないのか、理解できない」という人も多い。
「まして、後藤さんは、軍事専門会社を設立するためにシリアに行き、誘拐された湯川さんを助けに行くと言って、シリアに行ったのであり、大したツテもないのに、自ら誘拐されに行ったようなもので、会社命令や上司の指示で仕事で行って、災難に遭った人と分けて考えるべきだ」ということを言う人も少なくない。
後藤さんのこれまでの人生や仕事、家庭環境などについては、週刊文春や週刊新潮に詳しく書かれているが、何より奇異に感じるのは、後藤さんの母親という女性の態度、発言内容に強い反感を感じている人が多い。
週刊誌の情報だと、彼女は後藤さんが子供の時に、ご主人と離婚し、後藤さんは父親が引き取った。それ以来、母親は後藤さんとはほとんど音信がなく、自分は再婚もしている。そして、後藤さんが今の奥さんと結婚したことも、最近、妻との間に2人目の子供が生まれたことも知らず、マスコミなどに知らされて知ったという。
更に、新聞やテレビで発言している内容には、政府や関係者に多大の迷惑をかけて申し訳ないという謝罪の話はなく、週刊誌の報道だと、後藤さんの釈放の話よりも、原発反対に話の主眼があったという。そうした母親の姿勢も、一般の人の後藤さんに対する同情を薄くする原因となっている。
今回の後藤さんの件だけでなく、最近のマスコミやその周辺で仕事をする人たちの報道の仕方や発言内容、国民をどう認識しているかということでも、国民の実態と大きくかけ離れていて、消費者が求めていることと違うものを提供しているケースが多く感じてならない。
NHKの朝の連ドラで主役をした女性を中心にしたドラマをある民放が作ったら、視聴率が取れず、惨敗だった。それに対して、テレビ局や広告代理店の人の発言は「国民的人気女優を主役にして、どうして視聴率が取れなかったのか理解できない」というものだ。
また、AKBで中心的な活動をしていた前田敦子などが独立して活動を始めたら、コンサートをしても観客は集まらないし、ドラマで主役をしても視聴率は低水準で、これも、関係者は「どうして」と首をひねっているという。
こうした話を聞く度に、「だから、マスコミ関係者はダメなのだ」と筆者は思う。
NHKの連ドラで海女さん役をした女優の話では、どのドラマが好きで、ずっと見ていた人に聞いても、「主役の女性が良いから見ていたのではない」と何人もの人が言う。そして、「ドラマの設定と、脚本が良いので見ていただけで、主役の女性は、その後、他のドラマに出ても、特別これという魅力もないので、消えて行くだけだろうねとずっと思っていた」と付け加える。
AKBも同じで、AKBのファンである人に話を聞くと、AKBのメンバーである内は、ファンだった人も、そのタレントが独立すると、ファンでなくなったという人が少なくない。話を聞くと、彼らはその女性タレントが特段好きだというのではなく、いわば、「AKB現象」を楽しんでいるだけなので、だから、メンバーから離れた人には独断の魅力はないのだという。
そして、これは前にも書いたが、国民の9割の人がAKBが嫌いか興味がなく、たった1割のヘビーなファンがCD何枚も買い、コンサートに頻繁に行っているのであって、いわば、一握りのファンに囲まれた人たちなのである。だから、そういうグループの女性に、マスコミが「国民的な人気スター」というと、多くの人が違和感を感じるのだ。
勿論、筆者が話をする友人、知人、周囲にいる人たちが日本全体とかけ離れていることがあるかも知れない。
でも、仕事や個人的な付き合いで、中高生、大学生から、70歳代、80歳代までと幅広い世代の、しかも、色々な階層、環境の人と接する機会の多い筆者が、そうした人から聞く話が、日本全体の傾向と大きく離れているとは思いにくい。
筆者もかつてはマスコミで働いたことがあるだけに、ああした生活をしていると、どうしても情報や接する人に偏りができてしまうことは良くわかる。筆者自体、マスコミの世界から離れて、初めて自分が隔絶された世界にいたことを理解したのだ。
今でも覚えている。筆者が大手マスコミから離職をして、別の仕事を始めた時、記者時代に付き合いのあった、ある大手企業の課長と話をして、彼にこれまで、彼らが言っていたことと全く違う話を聞いた。
不思議に思って、理由を尋ねると、「あなたは今まで大手マスコミいたので、本音の話ができなかったのです。でも、今はそうではないので、本音の話ができるのです」と言われた。
マスコミで働く人間は自分が意識していない内に、特権階級となっていて、それと接する人たちも身構え、本音をなかなか言わなくなるのである。だから、こそ、多くの国民が何を考え、どのように行動しているかということには、神経を使って、その情報を得ないといけないのだ。
後藤報道を見て、そうしたことを再度感じた。
20141230
営業のトヨタよどこへ行った。営業担当者の上から目線に驚く
乗っている車が古くなり、買い換えようと思って、トヨタの販売店を3店くらい訪れたが、かつて「営業のトヨタ」と言われ、車を買う積りがない人にも買わせてしまうような、熱心な対応だったトヨタの系列販売店の従業員の対応があまりに、かつてと落差があり、営業らしからぬ対応に唖然とした。
筆者はいくつかのメーカーの車を買って乗った経験があるが、ここ20年くらいはトヨタの小型のセダンの車に乗っている。それは車の作りもしっかりしている上、販売店の営業担当者の対応も良く、嫌な思いをすることはほとんどなかったからだ。
ところが、筆者が使っていたセダンをトヨタが生産を止めてしまい、その結果、ずっと対応してもらっていた系列店には、セダンタイプの車がなくなってしまった。車に支障はないので、少し長く乗ってきていたが、タカタのエアバック騒動で、車が古くなるとエアバックなどにも支障が出やすくなるという話があったので、買い換えることにした。
買い換えるのは良いが、ずっと付き合ってきた店には、当方が望む車はない。仕方なく、トヨタの別の系列店を3店程訪ねたのだが、いずれの店も担当者に車を売ろうという営業マンらしい姿勢がほとんど見られなかったのだ。
まず、トヨタカローラの店に行った。店名にカローラがついているくらいだから、当然、カローラを展示してあると思ったら、置いていない。常時、置いているのは、ボックス型の車やハッチバックタイプの車だけである。
「車を見ることはできないのか」と聞くと、しばらくお待ちくださいと言って、店内の椅子に座るように言ったまま、30分くらい戻って来ない。やっと帰って来たかと思ったら、「他店にある車を取り寄せますので、1時間くらい時間をください」と言う。
他の店から取り寄せるなら、時間がかかるのは当然で、それなら、それで、最初からそういう話をして、別の日に設定し直すということを言ってくれれば、無為に30分も待つこともなかった。何より、30分も待たせた上、更に1時間待てということを平気で言う感覚が理解できず、結構だと言って店を出たが、すみませんの一言もない。
帰る途中、トヨタの別の系列のトヨタ店があったので、そこに寄った。
この系列店でも小型のセダンを扱っているので、車を見たいと言うと、「実車は置いていません」というだけで、営業らしい会話はゼロである。
パンフレットが欲しいというと、パンフレットはくれたが、何の話をする様子もなく、まして、別の日に車を見るように設定するというような話はまったくなく、パンフレットを渡すと去って行った。
(小型セダンを売る積りがない自動車会社)
車を運転してもう40年以上になる。ここ十年くらいは別として、日本で、普通のサラリーマンが車を買うというと、小型のセダンが中心で、トヨタのカローラ、スプリンター、日産のブルーバード、ホンダのシビックなどは町中で頻繁に見ることができた。
ところが、ここ十年くらい、自動車メーカーはかつて、一番買われていた1500から2000CCの小型のセダンに力を入れることを止めてしまい、1300CCの小さい車の他は、ボックスカーやハッチバックスタイルの車を中心に置き、セダンタイプの車は2500や3000CC以上の中型、大型クラスだけにしてしまった。
そして、トヨタは1500や1600,1800CCのカローラなどの車は作ってはいるが、熱心に売るつもりは全くなく、筆者が体験したように販売店に車すら置いていない対応なのである。
かつて、経済記者をしていて自動車業界を担当したこともあるので、自動車メーカーの人の本音の話を聞いたことがある。セダンタイプの車はエンジンルームと中央の座席部分、そして、トランクルームの3つの部分を別々に作って溶接をするので、その分、手間とコストがかかる。
これに対して、ハッチバックやボックス型の車は溶接が要らないので、手間がかからず、費用も安くて済む。だから、セダンは価格が高い大型や中型には残したが、小型は一応リストにはあるものの、利益が少ないので、本音では売る積りはほとんどなく、だから、店にも実車を置いていないのである。
そうは言っても、車を買い替えないといけない。予約しないと実車を見ることができないことがわかったので、別のカローラの店に電話をして、予約をして車を見ることにした。
車を見て、試乗した後、見積もりを出してもらった。担当者はスペアタイヤはいるか、リアワイパーはいるかなど質問をしてから、見積もりを出して来たが、それを見て驚いた。合計金額が当方が思っていたものよりも大分高いのだ。驚いてチェックすると、出して来た見積もりには、これに入ると、2年間の間の点検費用がかからないという十万円のパックと、車の塗装が長持ちする4万8千円のコーティングが黙って含まれていた。
15万円が乗れば、当方が考えていた価格よりも高くなるのは当然である。
見積もりを出してもらう話をした時、担当の営業マンは、5千円、1万円というような価格のスペアタイヤなどのオプションを詳しく尋ねていた。それでいて、この15万円相当のパックとコーティングは一言の話もなく、盛り込まれていた。
わずか3店の対応を体験しただけだが、世界一と言われるようになって、トヨタは何かが変わってしまったような気がする。何年か前に、東京新聞が「今、トヨタがおかしい」というような趣旨の企画のコラムを数十回にわたって連載した。とても良い記事だったが、それを読むと、トヨタが本当におかしいのが良く分かった。
そして、新聞で読んだだけだったことが、現実の体験となった。
今回の経験だけでなく、中古車が展示してある店や、新車を扱う店などに立ち寄る機会に、店の人と話をすることがあるが、筆者がセダンタイプの小型車が欲しいのに、メーカーがほとんど作っていないというと、どの店でも、担当者は「お客さんから、小型セダンが欲しいという話はよく聞きますが、メーカーが作っていないので、どうしようもないのです」と異口同音に言う。
今の自動車メーカーの姿勢を見ていると、消費者のニーズに合わせて車を作り売るのではなく、自分たちの都合で車を作り売っているような感じる。
これはマンションの扉から入らない30万円もするような大型冷蔵庫を作って、売ろうとする電機メーカーの姿勢と同じで、日本は消費不況というが、顧客が望む物を製造販売しようとしなければ、物が売れないのは当然である。
20141226
勉強嫌い、自信喪失を大量に生産している文科省の数学教育を改革する…その2
前回、今の学校教育での数学教育がいかに子供たちの負担、苦痛になっているかを指摘したが、現状を知る機会のない人のために、今の小学校の教育内容を少し説明しよう。
例えば、小学校で、今では数列を教えている。以前は高校で教えていた等差数列、等比数列などの考えを小学校で教えているのだ。また、「約束記号」という分野で、「3◎4=13、4◎5=17、6◎5=23の時、8◎6はいくつですか。また、(□◎4)◎3=96になるような、□を求めなさい」というような問題を理解させようとしている。
3づつ増えていくような等差数列や、4づつかけていくような等比数列は、数の不思議を感じさせるもので、数学が好きな生徒にとっては、面白い世界である。でも、それはほとんどの生徒にとって一生関係なく、興味もない世界の話で、それを小学校で全生徒に必修にするというのは違うのではないかと思う。
また、約束記号の話も、「3◎4=13」は誰かが勝手に、「3◎4の意味は3×3+4」と自分勝手な約束を作ったことを見つけ出す問題だが、こうした頭で考える概念のような問題、内容を小学生全員に教えて理解させようとしている文部科学省の担当者の頭の程度を疑いたい。
数学に限らず、国語でも社会でも何でもそうだが、物事の基礎の基礎、人が大人になって、普通の社会生活をしていく上での、必要最低限の知識や常識、倫理を徹底して身に着けさせるのが小学校の役割だと思うのだが、その基礎の土台のコンクリートをしっかり固めないといけない時期に、砂の上に5階建ての家を建てるような内容を教えて何の意味があるのだろうかと思う。
東京の公立の中学校で多くの生徒と接していると、計算の基礎の基礎、四則計算がほとんどの生徒があやふやである。少数、分数の概念をしっかり理解し、30問出して間違えなく計算でき、正解を書く生徒は、多分半分くらいしかいないだろう。
こうしたことになるのは、ほとんどの生徒にとって、一生無縁の数列や上記の「約束記号」などを教えるために時間がとられているからである。現状では、指導要領が改定される度に、こうした今までになかった概念、内容が教育内容に加わっている。
例えば、「図形の移動」だ。台形の周りを円や長方形を回転させたら、できる面積はいくらかというような内容が少し前の指導要領で入った。
数学が好きな生徒、将来、そうした知識が必要な分野の仕事をする人間にとっては、面白く興味があるかもしれない。しかし、ほとんどの生徒にとって、一生関係なく、そんな知識を持っていなくても、何の不都合もない。そんなことに時間を取られるなら、もっと、分数や少数の説明を丁寧にしてほしいと思う生徒が過半なのに、改定の度に、こうした新しい頭で考える、ほとんどの生徒にとって、どうでもよいような概念が入って来るのだ。
筆者は指導要領で、小学校1年ではこれだけの内容を理解させるというように、学年毎に理解しないといけない内容を定めている今の指導要領のあり方は、基本的に間違いだと思う。
数学は特にそうだが、個人によって理解に時間がかかる子と、さっと理解できる子の差が激しい。理解に時間がかかる子供には時間をかけ、すぐに理解できる子は先に進ませる。当然、同じ学年でも、勉強する内容が変わってくる。それが数学教育のあるべき姿だと思う。
国語や社会などは、前に習ったことがわからなくても、別の新しいことを覚えることはできる。しかし、数学、算数は習ったことの基礎の上に新しいことが乗ってくるので、前の基礎がわからないと、次に習うことはほとんど理解不能なのである。この数学の特徴を理解しないといけない。
それが、小学校4年ではここまで進まないといけないという義務があるので、教師は生徒の理解が進まなくても、先に進まないといけなくなってしまう。そうした教育の仕方ではなく、3年の内容を2年間かけて理解する生徒がいても問題ないというようにするのである。
では、3年の内容を2年かけた子がでは、ずっと他の生徒よりも遅れたままかというと、そうではない。筆者の体験だが、中学生に小学校の算数の基礎をやり直して説明し理解させると、半年くらいで中学の数学の問題も、理解が早くなり、短期間でキャッチアップしてくる。
今、個人的に頼まれて教えている高校生に、小学、中学の数学の内容を説明し直したら、数か月で中学の数学の内容の8割くらいが理解できるようになった。小学校高学年、中学、高校で、数学の成績がずっと「1」の生徒でそうなのだ。
数か月で、これくらいになったこの高校生は「グラフや文章題など、以前は見るのも嫌だったけど、やってみると、以外と簡単なのですね」と笑いながら言っている。
数学のできない子が躓くところは共通している。そして、それをどう説明すれば、彼らが理解ができるようになるかも、ほとんど共通の説明の仕方で良い。丁寧に意味を説明し、図を書き、具象から抽象をわかりやすく導くことだ。複雑な数字で頭が混乱したら、簡単な小さな数字に置き換えて考え直させると、理解できる。
問題なのは、こうした説明を学校で教師がしていないということである。でも、それは教師の責任ではない。高校レベルの知識を持つ生徒と、小学校の内容も理解できていない生徒を同じ時間に同じクラスで指導させようということ自体が間違いなのだ。
数学の7.5.3、落ちこぼれをほとんどなくす方法は簡単である。
まず、文部科学省の数学担当者や数学者だけでなく、他の教科の担当者や第三者を入れて、小学校、中学校、高校で基礎として、絶対理解しないといけない内容の「基礎コース」、できたら、これくらいは理解しておいてほしいという「発展コース」、そして、将来、理系に進む人のための「研究コース」の3つに分けた内容を作りあげ、学年ではなく、理解度でそのコースを選び、学ぶことである。
そして、どの段階の学校でも、基礎コースは必修で、これを理解できないと卒業できないようにする。
多分、半分近くの生徒がこれで終わるが、それで良いのである。筆者の推測では、基礎コースで終わる人が半分、発展コースまで進む人が3割、研究コースまで行く人が2割くらいだろう。これで、日本の理系教育に何の支障もないし、大学で文学部や法学部に進む人が、中学、高校で数学に無意味な時間を費やされることから解消されるのだ。
中には、初めは数学が嫌いや苦手だったが、基礎コースを徹底してやる内に、数学が好きになり、発展コースや研究コースに進んで来る生徒も出て来ると思う。基礎がわかれば、その上の内容も面白くなってくることは珍しくはない。
スペースの関係で、中学、高校での数学教育の内容の理不尽さを詳しく説明しないが、文系に進む人間に、高校で1問を解くのに、ノート1ページ分くらいのスペースが必要な膨大な計算をする、数列や三角関数などの問題を必修にすること自体、大きな間違いであり、時間の無駄以外の何物でもない。
小学校や中学校の算数、数学にはまだ、解く楽しさ、考える喜びがあったが、今の高校の数学の内容は、ひたすら計算を求め、方式を暗記し、膨大な時間を使って例題を解くということをしないと、入試で良い点が取れない制度になっている。
だから、筆者の知人、友人のお子さんで、小中学校時代は数学が好きで、得意だった人が、高校でこうした数学の授業に反発し、嫌いになったという人間が決して少なくない。
暗記力に優れ、自分をバカにできる人間でないと、高得点が取れない数学の指導内容など百害あって一利なしだと言いたい。数学の楽しさ、面白さを教えるのではなく、大量の数学嫌いを作っている、それが今の文科省の数学教育である。こんな指導要領を作っている人の顔が見たいものだ。
他の教科でどれだけ優れていても、数学が必修のセンター試験があるので、本当にバカのような問題のオンパレードの数学の問題で高得点をとらないと、国立の上位校に進学できない。
社会に出て、仕事ができる人間は、各科目平均的に万遍なく点数を取るタイプではなく、ある部門はからっきしダメだが、別の分野では他の人が関心するようなアイデアを出したりするタイプである。人事の世界でいう「とんがった人間」が社会で役に立つのだ。
でも、今の日本では、文部科学省の数学の指導方針で、こうした社会に出て役に立つタイプの生徒は、国立大学上位校に進むのはまず無理であり、日本全体の人材活用という意味でも大きな無駄をしているのだ。そういう意味でも、現在の文科省の数学の指導内容は早急に変えないといけない。
20141223
勉強嫌い、自信喪失を大量に生産している文科省の数学教育を改革する…その1
教育の世界で言われている、7.5.3という言葉をご存じだろうか。
数学、算数で、小学校で2割が落ちこぼれ、中学で5割が落ちこぼれ、高校で7割が落ちこぼれるという話である。7.5.3と言われて久しいが、数学、算数の教育内容は、どんどん詰め込み、概念の抽象化が進んでいて、現在ではこの比率が小学校で5割、中学校で7割、高校だと8、9割という感じではないかと、現在、小中学校の子供たちを教えていて感じる。
1970年代に数学の世界で有名な先生だった遠山啓さんが、「文部省の数学教育は間違っているし、改定の度に、どんどん悪くなっている」という文部省の数学の指導要領を批判する本を書き、関係者の間では少し話題になったが、彼がそう言って40年以上経ち、文科省による改悪は更に進んでいる。
中央官庁を記者として取材した経験から言うと、日本の役所は縦割りで、他の省庁が企画立案してものは、自分たちに大きな利害が関係なければ、他の省庁から意見は言わないようになっている。同様に、1つの省庁の中でも、他の局のことは多局は口を挟まないし、同じ局でも、担当課が違うと、他の課の人は意見を言えない仕組みなっている。
文部科学省の場合、同じ初頭教育担当でも、国語と数学担当者は担当が全く違うので、他の担当は専門外で、財務省や経済産業省の同じ課の中で、意見を出し合い、案を修正していくようなプロセスがほとんどない。その結果、1人、2人の専門家が自分の思うままに案を作り、それが文部科学省、ひいては日本全体の案になって、子供たちに押し付けられているのである。
どんな決められ方をしようと、それが結果的に良いものであれば良いが、今の小中校の学校で行われている数学、算数教育の指導方針、指導内容は最悪である。
筆者にとって小中学生は孫のような年齢なのだが、ボランティアで東京の区立の中学校の放課後教室で多くの子供の勉強を見ているし、頼まれて、知人の小中校のお子さんの勉強を見る機会が多いので、今の教育がどういう内容になっていて、子供たちがその理不尽とも言える内容に苦しみ悶えているのを日々接している。
数学が理解できないので、授業が苦痛になり、授業中のお喋りをする生徒が増え、それが学級崩壊につながっているし、数学が嫌いになるだけでなく、与えられた課題をクリアできないという挫折感を味わう者が多くなり、精神的に落ちこぼれを多く生んでいくようになっているのである。
いち数学の問題ではなく、多くの生徒の心に傷をつけているのが、今の数学教育の実態なのである。
それだけに何とか改革をしないといけないと思うのだが、役人のシステムから言えば、文科省が自律的に変わることはまず期待できない。とすれば、政治が変えないといけないが、力のある政治家にとって、小中学校の教育は孫の世代の話で、どんなのひどいことが行われているか、知りようがないから、話題にもならないのである。
何がどう悪いかと言うと、基本となる教育概念、姿勢、考え方が間違っているのである。
文科省で数学、算数を担当する人は数学が好きで、自分も学生時代に得意としてきた。だから、彼らにとって、数学は楽しいものであり、数学の世界の面白さ、数の不思議さを少しでも多くの人に知って欲しい、そうした考えで、企画立案されているとしか思えない内容である。
筆者も生徒、学生時代数学は好きだったし、数の不思議などにわくわくした人間なので、担当者のその気持ちはわからなくはないが、実際は多くの人にとって、数学は苦手だし、嫌いであり、数の世界の不思議さを聞かされても、「それがどうしたの」という世界なのである。
その嫌い、苦手な人、数学に感動しない人に、「ほら、数学はこんなに楽しく、面白いのだよ」という発想で、苦痛以外の何物でもない内容を押し付けているのである。
こういうと、「これから日本が生きていくには技術立国にしないといけないから、理系教育にはもっと力を入れないといけないのだ」という反論が返って来そうだが、これも、担当者の自己弁護の論理で、技術立国にするにせよ、それを担当する人間はせいぜい1、2割であり、それを十割全員に押し付けて良いということにはならない。
どんな世界でも、どんな物事でも、2.6.2の法則というのがある。これは人事を少し担当したことがある人なら知っているが、物事を理解し、どんどん手際よくさばいて行き、全体をリードする人は2割、そのリーダーの指導の下で、与えられた仕事をとりあえずこなして行く人が6割、残りの2割はいわば落ちこぼれで、他の人のサポートでどうにか、他の人に迷惑をかけないようにしていくかというタイプである。
学校の成績で、相対評価だと昔から、5段階評価で5をもらえる人は全体の5%、4が15%、3が60%、2が15%、1が5%というようになっているが、これは、2.6.2の法則とも符合する話である。
だから、学校教育では、筆者が学生、生徒の時代は教師は真ん中の6割の人を授業の標準にし、上位2割の人には進んだ別の課題を与え、下のできない2割の人には補講をするなどして、どうにか落ちこぼれないように対応してきた。
ところが、今の文科省の数学、算数の教育の指導要領の基本スタンスは、上位2割の人対象にするような教育を行うような姿勢で全員に接しているのである。
だから、教科書も、それに対応する参考書、問題集も、できない子がどこで躓くか、どこをどう丁寧に説明しないといけないかという、やさしさ、親切さが微塵もない。
その結果、多くの子供が小学校3、4年から既に落ちこぼれとなり、そのまま、中学、高校と進むので、ますますわからなくなって行き、英語や国語、社会で早稲田、慶応のトップ私大を受かるレベルの文系の学生でも、「数学は大嫌い、大の苦手。高校2年でなくなって、せいせいした」という人がかなりの割合を占めるようになってしまっているのである。
筆者が学校の授業に落ちこぼれている生徒、児童に数学を教える時、まず、することは小学校の基礎に返り、かつ、それを絵や図を使って、色々な角度から説明し、まず、「腑に落ちさせること」に努力をする。できない子、落ちこぼれ、自信を失っている子にとって、この「腑に落ちる」ということがとても大切なのである。
腑に落ちると、それまで苦悶に満ちていた子供顔がパッと明るくなり、見るのも嫌だった問題に自分から取組ようになってくる。だが、文科省の指導方針も、それに基づいて作らている教科書、問題集、参考書に、この「腑に落ちさせる」という発想が極めて乏しいのである。
また、数学、算数の教育で大切なことは、「具象から抽象へ」といかに丁寧に説明し、教えるかである。
数学が苦手な子でも、具体的なものを見せて、説明すれば、ほとんど全員が理解できる。この具体的なものを見せての説明から入り、次にそれを黒板に絵を書いて説明し、次第に数字だけにしていく。これが「具象から抽象へ」であるが、今の教科書、参考書にはこの部分でも、親切さが微塵もないのだ。
今、小学校でも、中学校でも数学、算数の授業で行われていることは、納得、腑に落ちさせることではなく、抽象的な説明のまま、「この通り覚えろ」というやり方である。
これは教師の能力や責任ではない。2割の生徒しか理解できず、ついてこれないような内容を詰め込み、教えないといけないとなれば、教師はそうするしかないのである。教師も文科省の指導要領の犠牲者だと言える。
現場の教師がもう1つ大変なのは、同じクラスの生徒の理解度が、1つのクラスでまとめて授業をするのが困難なくらい大きく開いていて、教師の努力ではいかんともしがたいレベルになっていることである。
また、今、今の現場の教師は自分たちが生徒の時に、「この通り覚える」と教わって来た人たちであり、しかも、自分が好きだから、数学の教師になっているので、できない子供の心理、納得がいかに大事かがわかっていないという面もある。
野球の名選手が必ずしも名監督、名コーチになれないということが言われている。
名選手と言われる人は子供の時から、野球をしているので、頭ではなく体で覚えている。だから、それを頭で整理し、理屈で他の人に説明することは苦手な人が多いのである。数学の教師に同じことが言えるのだ。数学が苦手で、自分の努力でそれを克服してきたような人に数学の教師をしてほしいと願う。
今の小学、中学の数学、算数の教育の内容の具体的な問題点はどんなことで、それをどう改革していくかは、長くなったので、次回、書くことにする。
20141219
バカバカしい憲法学者の憲法論議
昨夜、フジテレビBSの番組で、憲法学者3人が登場して、憲法そのものや改憲の議論をしていたが、あまりのバカバカしさに呆れた。その中でも、東大教授の話を聞いていて、こんな人が天下の東大の教授だと言っているから、日本はダメなのだと感じた。
彼の主張を一言で言えば、「憲法は崇高なもので、簡単に改正してはいけない」、「憲法や法律で認めらえた行為であっても、それが崇高な志に根差したものでないなら、それは政治家や政権が堕落することであり、やってはいけない」というようなものである。
冗談ではない。
法律にしろ、憲法にしろ、国を統治するために作ったもので、それは国民の上にあるものではなく、あくまで、過半の人が良いと思って決めたルールであり、道具である。だから、法律や憲法が時代に合わなくなってきたら、国民の賛成を経て、改正するのは当然であり、どこの国でも、憲法は何回も修正されて来た。
しかし、日本における憲法学者、法律家には、そうした発想は乏しく、時代に合わなくなっても、国に不利益になっても、「崇高な憲法は守らないといけない」というような発想の人が多いのだ。
筆者は自民党の改憲議論に賛成をする者ではない。
そもそも、戦争に負けた日本が戦勝国のアメリカに押しつけられたのが今の憲法であり、原文が英語で、それを翻訳したものだから、日本語として本当におかしな表現がいくつもある。
また、アメリカの原案に対して、当時の日本人の政治家や法律家が異議を唱えて、議論をした上に修正がされたので、全体として矛盾する内容、整合性がとれない部分が存在する。
そして、何よりも多くの国民が議論に参加し、その議論の中からできたものではない。その上、環境権や地方自治など憲法を作った時代に概念としてほとんど存在しなかったことが出て来ていて、今の憲法では対応できない。
これだけの問題を抱えた今の憲法を9条の戦争放棄条項を何としても、守りたいがために、「一字一句いじってもだめ」というような社民党や共産党のような主張をしたり、昨夜の東大教授のように「憲法は崇高なものなので、簡単にいじるな」ということを言う人を見ると、憲法以外のことでも、まともに対応できない変な人だと、筆者は考える。
極端に言えば、国民の大議論の結果、過半の国民が現在の憲法のままで良いという結論になっても問題ないのである。憲法をどうするかという議論を封印するから、色々なことがおかしくなるのである。
そもそも、憲法改正が何回も叫ばれながら、それが具体的な作業にならないのは、社民党や共産党のように議論を封じる、非民主的な立場の人が多いことと、改正賛成論者の多くの人が、一度に問題点を修正しようと意気込むので、国民全体としての意見がまとまらないのだ。
欧米の他の国のように、憲法は必要に応じて何回も修正すれば、問題点が出たり、時代に合わなくなったものは、その都度、何回でも修正すれば良いのである。こうすれば、7、8割の人が合意できる部分から改正をし、2、3年に1回、時代と国民の意見で変えていくことにしたら、今のような国をひっくり返すような議論にならなくて済むのだ。
例えば、衆議院と参議院に選び方も選ばれた人の役割も、ほとんど差がないのを変えて、それぞれに意味と特徴を持たせようとしても、憲法が今のままではできない。また、1票の格差の問題も、国民的な議論を経て、どう決着するかルールを作ろうとすれば、憲法に明記せざるを得ない。
選挙が行われる度に、弁護士グループが違憲訴訟を起こすが、でも、どうしたら良いか、彼らは対案を示してはいない。人口に合わせて議員の定数を決めるとなれば、首都圏の議員が全体の3割になり、国会議員がいない県も出て来る。これだと、地方は賛成できない。
また、人口に合わせて議員を選んでも、格差は必ず出て来る。1対1.4はだめだが。1対1.2はOKというような線引きを誰がするのだ。1対1.2でも格差であり、格差解消を言うなら、1.2の格差でも解消しないといけないはずである。1票の平等を言う限り、例え0.2でも格差はあってはならないはずである。
また、戦後の日本はお年寄りに極端に比重がかかった福祉政策をしてきたし、税制優遇などもしてきた。その1つの理由は若者は投票率が低いが、年寄りは投票率が高いということがある。選挙で落ちたら、国会議員でなくなるので、どうしても、投票率の高い年寄りに有利な施策にならざるを得なかったのである。
でも、現実に今の日本を支えている現役世代には1人2票の票を与え、引退世代には1人1票の投票権とするというような、ドラスチックな制度を取れば、福祉制度や子育て制度など抜本的に変わってくる。
でも、これも、憲法を改正して、1票に格差を与えるということを明記しないと、憲法違反になってしまう。
こうした話をする上でも、憲法論議をして、少しでも多くの国民が、こんなことを書き込んでほしいという意見を出せば、良いアイデアも出て来るし、より良い新しい憲法ができるのである。
今のマスコミや学者たちは、政府の批判はする。だが、ではどうしたら良いかという対案を出せというと、今回の選挙の民主党のように、対案を示せないのだ。だから、国民の支持が得られなかったのである。それと同じで、それでは、批判するだけのマスコミは、批判する資格がないと筆者は考える。
昨夜の番組を見ていて、感じたのは、これだけ消費が冷え込んでいる中、財政再建が必要なので、何が何でも消費税を追加引き上げをしようとする財務省の姿勢と、「憲法は崇高なもの」という東大教授の発想が極めて似ているということである。
法律や施策は国民をより豊かにし、幸福にするための道具、手段である。それ自体が目的ではないのに、財政再建そのものが目的のようであったり、憲法を変えないことが大前提のような発想は、実際の国民生活を知らない人の考え方である。
日本ではほとんど報道されていないが、最近、ベルギーで大規模なゼネストが行われた。趣旨は「財政再建主体の政策はおかしい」として、不況な時には、財政規律を守ることよりも、国民にやさしい政策をとってほしいということを主張してのゼネストである。
これまでも、何回か書いてきたが、今、欧州では、高福祉高負担の制度が維持できなくなってきて、どうやっていくかが大問題なっている。そして、財政再建のための財政緊縮を少し緩めて、国民に手を差し伸べてほしいという意見が強くなってきている。
日本のマスコミや大学教授、エコノミストたちは財務省の財政再建PRのレクチャーの洗脳されている人がほとんどなので、財務省のいう通りの報道をして、それが繰り返されるので、国民も消費税引き上げは、今すぐはともかく、やがては避けられないものと考えるようになっている。
でも、憲法改正の議論と一緒で、その道の専門家の「哲学問答」が前面に出てきているのを止めて、普通の国民の目線で考え、議論をすれば、よりよい対案が出て来るのである。
20141218
国民を愚弄するマスコミの憲法改正論議
自民・公明与党で衆議院で3分の2を越えたことから、憲法改正の話が進むことを危惧するという論調が共産、社民党などだけでなく、マスコミにもあふれている。
前にも書いたが、こうしたマスコミの論調は国民を愚弄するものであることに気が付いていないところが、マスコミで働く人の驕りの姿勢そのものが見えるのである。
憲法改正は衆参両議院で3分の2の多数で発議し、国民投票で是非を判断することになっている。
つまり、最終判断は国会ではなく、国民がするのである。政府与党が何を考え、どう動こうが、国民が政府の考えに賛成しなければ、憲法改正は行われないのである。マスコミの論調はここの部分が欠落しているのだ。
マスコミは安倍政権の右傾化をやたら強調するが、「与党に3分の2の議席を与えれば、憲法改正となって、日本はまた戦争への道を進む」という共産党、社民党的な主張、朝日新聞や毎日新聞、東京新聞、テレビ局で言えば、TBSやテレ朝の論調もほぼ同様だが、それは、「国民はバカだから、国会で憲法改正案が通れば、国民はそれに賛成してしまう」と言っているのに等しいことを、言っている人間自体が気が付いていないのだから、笑ってしまう。
国民を信頼していれば、「政権が3分の2を取ったので、憲法改正が心配」などという論調は出て来ない。
戦後の日本では、イデオロギーが大きく異なる自民党と社会党が二大政党である時代が長く続いたこともあり、真剣に議論をしないといけない、国の根幹にかかわる問題は意見の集約ができないという判断で、すべて先送りされ、議論をすること自体封印して来た。
でも、もう戦後70年である。主義主張が異なる政党の間でも、決断を避けて通れない問題については、議論を徹底的にして、最終判断は国民にゆだねるということで解決をしていく時期になっている。
スイスは少し重要な問題だと、国民投票をして、国民が判断をするシステムをとっている。日本も政治家に任せておいたら、いつまでも決められない問題は国民投票で結論を出すようにしたら、長年の懸案事項はすべて解決していく時期になっていると筆者は思う。
一票の格差問題でも、国会に解決しろということなど無理なのだ。各政党の意見がバラバラだから、統一案など出しようがない。それなら、各政党が対案を出し、それを国民に示して、国民に判断してもらえば、数か月で解決してしまう。
でも、そうするためには、憲法改正が必要である。筆者は憲法改正で、まず、いの一番にしないといけないのは、この国民投票法案の考えを憲法に取り入れることだと筆者は考える。
戦後の日本の大きな間違いは、自社対決の政治構造の中で、本音のことを言えず、嘘の建前論を政府与党は言わざるを得ず、嘘の建前が通説として、ずっと通って来たことにある。
例えば、沖縄問題だ。戦後、本土が独立した後も、沖縄はアメリカの統治下にあり、沖縄の日本への復帰は戦後の悲願の1つだった。だが、戦争で負けて取られた領土は平和裏には返って来ないのが、国際政治の常識である。
それを当時の佐藤政権は必死になって、沖縄を返してくれるように交渉した。それに対して、アメリカは返還するのは良いが、これまで通り米軍基地を使えることが返還の前提で、その中に、核の保有、使用も当然入っていた。
だが、日本では非核三原則があるので、それはできないだろうということで交渉は難航した。佐藤政権は沖縄を返還してもらうために、基地をこれまで通り使うこと、核の保有も使用も認めることを余儀なくされたのである。
だが、マスコミは非核三原則をうるさく言うので、沖縄にも非核三原則が適用されて返還されると、嘘、建前を言って、返還を発表したのである。
そもそも、沖縄に限らず、日本の本土の米軍基地や、日本に寄港する米軍の空母や潜水艦が核武装されているであろうことは、常識である。長く続いた冷戦時代の下で、日本防衛のために駐在する米軍が核武装していないと考える方が異常である。
しかし、戦後のドンキホーテ的な楽観論、建前論がまかり通っていた日本では、少し考えれば、わかる話を実際通りすれば、マスコミに袋叩きにされるのがわかっているから、あり得ない嘘で通さざるを得なかったのである。
沖縄の問題は、日本の安全保障に深くかかわった問題である。
だからこそ、国民的な議論をして、日本の安全保障をどうするか、国民投票で決めるべき課題なのである。それをしないから、あり得ないユートピア的な共産党の「話し合い外交で、外国の侵略は防げる」というお粗末な主張が存在し、その政党が議席を3倍増にもなるのである。
米軍に沖縄だけでなく、日本から出て行ってもらうなら、日本の安全保障をどうするか国を挙げて議論をし、国民皆兵制度である上、全国各地に核攻撃に対応するシェルターを備えて、国を守る永世中立型のスイスのような国を目指すのか、自衛隊を軍隊と認めた上で、核武装するのかなどのいくつかの選択肢から、国民に判断をしてもらうことが、実は沖縄問題の一番早い解決方法なのである。
でも、そうした議論をせずに、米軍が出ていけというだけだから、話が進まないのである。
戦後の自民党政治に批判的な人は、自民党は「米国追従外交」と言い続け、「米国の支配からの脱却」を言う。でも、今回の選挙の野党の主張と一緒で、アベノミクスを批判するなら、対案を出さないといけないのに、「米国追従」をいう人は、それを止めた時の対案を言わない。
米国追従を止めるなら、在日米軍は出て行ってもらわないと話にならない。自分の安全を他人に任せる国など、どこかに追従しないと、生きていけないのは世界の常識である。米軍が出て行った後、日本の国土防衛はどうするのか。その対案を示せない政党や人に、「米国追従」を批判する資格はない。
武力でクリミア半島を奪ったロシアや、ベトナムやフィリピンの島や環礁の領土を武力で奪い、尖閣列島も狙っている中国のような国に、米軍に頼らないで、どう対抗するか。「話し合いで」は解決にならない。これは対案でも何でもない。単なら、詭弁である。
こうした問題を議論をし、国論をまとめるためにも、筆者は国民投票が必要だと思うし、そのためには、憲法改正が不可欠なのである。
20160125
SMAPは国民的アイドルか?
週刊文春が取材をし、それに感ずいたスポーツ新聞が書いたことでSMAPの解散問題はマスコミが大きく取り上げる話題となり、NHKですらニュースで報道する事態となった。
この話の報道で筆者が気になったのは、新聞も雑誌もテレビも取り上げる度に、「国民的アイドル」という形容詞を必ずつけていることである。
確かに、SMAPは十本を越えるテレビ、ラジオの番組を持っていて、頻繁にマスコミに登場するし、百万人程の会員がいる。TVCMにも多く出ているが、広告業界の人の話では、SMAPをCMに起用すると、出演料は1人1億円、5人いるから、CM制作費を除いた彼らのキャラクター料金だけで、5億円だという。こうしたことから、SMAP関連の売上高は200億円を越えるという。
しかし、筆者が周囲にいる50年代から70年代の人と話をすると、皆、テレビや新聞、雑誌の報道で騒動は知っているが、「SMAPが存続しようが、解散しようが、自分には関係ない。どちらでもどうぞ」という反応である。
20歳代、30歳代には、それなりのファンはいるようだが、十代の人に聞くと、ほとんどの人が、「存在は知っているが、特に、彼らが出ているテレビ番組を見ようとも思わない」という。
確かに、関連売上げが200億円というのは、少ない数字ではない。
でも、人気が高かった松田聖子が結婚した時、芸能記者が「結婚を機に芸能界を引退ということはないですか?」と質問した時に、松田聖子は「私の関連の売上げは、年間500億円あるの。500億円というのは、従業員が何百人といる、かなりの規模の中堅企業の売上高と同じくらいよね。同じように、私関連のビジネスで生活をしている人はたくさんいるわ。そうした人たちの生活を考えたら、簡単に引退などできないでしょ」と答えたという。
かつて、歌に芝居にと活躍し、流し目で中年女性を魅了した杉良太郎が全盛の時に、ファンクラブの人数は200~300万人いたという。
つまり、売上高でも、ファンクラブの会員の数でも、SMAPは全盛時の松田聖子にも、杉良太郎にも及ばない。そして、テレビにはいつも出ているが、SMAPの歌で、歌える歌があるかと聞くと、20歳代、30歳代の一部の人を除いて、ほとんどの人が彼らの歌をほとんど知らないし、歌えても、せいぜい1曲という感じである。
上に書いた売上高でSMAPを上回っていた松田聖子も、ファンクラブの会員の数で上だった杉良太郎も、誰も「国民的アイドル」とか、「国民的スター」とは言わなかった。
杉良太郎は「中年女性殺し」と言われたし、松田聖子は単に「アイドル」と言われただけである。アイドルと呼ばれた若手歌手やタレントはそれこそ、千人を越えたいたのではないか。松田聖子はそれら「アイドル」の中で、トップクラスだっただけである。
レギュラー番組や出演CMが多い事は、人気が高いということには直結しない。
今の時代、タレントが所属するプロダクションが強い力を持っていると、そのタレントに人気があろうがなかろうが、また、才能の有無に関係なく、露出が増えるのである。
これも週刊文春の記事から、不倫騒動で騒ぎになったタレントのベッキーは出ていたCMは十本を越えていたし、レギュラーが番組も十本あまりあったという。でも、筆者の周囲で、ベッキーが良い、好きだと言う人はほとんど見当たらない。
今の時代、ファンがいようがいまいが、プロダクションが強いと、テレビの露出が増え、それとともに、知名度が高まり、いつの間にか、「スター」とか。「人気タレント」と言われるようになるだけのことであり、露出しているから、国民の多くが支持しているというのとは違うのだ。
だから、騒動のベッキーについて、芸能ジャーナリズムがつけた形容詞、「清純なイメージで人気がある」という言葉を読むと、筆者など噴出したしまう。
何十年という取材歴で、数千人の人の取材をし、企業の採用で、万を越える学生と面接して来た筆者からすると、会ったことがない人でも、テレビに出演して、10分くらい話を聞けば、その人がどんな性格で、どんな生活態度で過ごしているか、概ねわかる。そして、その後の、彼らの辿った道を見ると、筆者の感想に狂いはない。
ベッキーに直接、会ったことはないが、テレビなどに登場している彼女を見ると、「清純」とはおよそほど遠い人間である。少なくても、自分の周囲に彼女のような人がいても、絶対友達になろうと思わない人である。今回の不倫騒動が出て来て、筆者の感想は「やはり」である。
取材や面接などど万を越える人と接して来た筆者の、人を見て、どこをどう見て判断するかのチェックポイントはいくつかあるが、その内の1つ、誰にでもわかりやすいポイントを言うと、その人の目で、かなりも部分判断できる。
多くの企業のCMに出演している武井咲も、ベッキーも目が怖いのだ。これもテレビに良く出ている桐谷美玲もやはり目が怖い。テレビ東京のBSの朝の報道番組の中で、ニュースを読んでいる女子アナがいるが、彼女は顔の下半分、口の周辺で笑みを浮かべているが、目が怖く、直視したくない感じである。
こういうタイプの人は、誰も見ていなければ、平気で人を後ろからどつくような人なのだ。そして、どつかれた人が転んで、「誰がこんなことをしたの?」と言うと、近くを歩いている人を指さして、「あの人が押したのよ」と涼しい顔をして言うタイプなのだ。
目が怖いというのは、若かろうが、年をとっていようが、その人のこれまでの人生、今の生き方の象徴して表している。
人気のアパレル会社で、多くの直営店を持つ企業の創業経営者を取材した時、ビデオを回していたカメラマンが、取材後、「数多くの人のインタビューに付き合い、レンズから、その人を見て来たが、今日の彼程、冷徹で恐ろしい目を見たのは初めてだ」と話をしていた。
父が経営していた小さな繊維の企業を継いだ時、40歳を越える従業員全員を解雇したという彼の経営を見ていると、このカメラマンの観察に筆者は全く同感である。
話が少しそれたので、元に戻すと、最近のマスコミのタレントや俳優などにつける形容詞は、本当におかしなものが多い。
森光子が死んだ時、芸能マスコミは「国民的な人気の大女優」という形容詞をつけた。
冗談ではない。確かに彼女は舞台の「女の一生」で主役を長く演じたが、映画、テレビのドラマでは、彼女は主役の女優ではない。脇役タイプであり、少なくても「大女優」ではない。
彼女自身、記者のインタビューで、「自分は主役の女優を目指したが、主役女優に必要なものが自分にはなかった」と語っている。
好き嫌いではなく、大女優とか、大俳優と言われる人は、限られた人に贈られる形容詞である。品、格が必要であり、圧倒的な存在感、オーラがないといけないのだ。
女性なら、「大女優」とは、先頃亡くなった原節子とか、山本富士子のような人につける言葉であり、少し活躍し、主役を演じた人でも、大女優と言われる人はほんの一握りの人にしか使ったら、おかしい。
男優なら、高倉健、鶴田浩二、三船敏郎、市川雷蔵、古くは大河内伝次郎、片岡千恵蔵のようなような人でないと、大「俳優」と言うのはおかしいのだ。
今の若い記者だと、こうした人たちの事はあまり知らないだろうが、少なくても、記事をチェックする年配のデスクに言葉の使い方を指導してほしいものだ。
20151227
ラグビーブームに水を差す不可解な組み合わせと、おかしな審判の笛
ラグビーの日本代表チームのワールドカップでの活躍ぶりは世界のラグビー史上に残る快挙と言える。
ラグビーのワールドカップは、発祥の地のイギリスからは、サッカー度同様に、イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドが別の国として出場し、それに、強豪国のニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、アルゼンチン、フランスなどが優勝を争って来ている。
こうした強豪国はティア1と言われて、組み合わせや試合日程でも優遇される一方で、実力で劣るティア2と言われる国は実力で劣るだけでなく、組み合わせや日程で不利な状況に置かれ、なかなか勝てないというのが実情である。
日本が南アフリカとの大熱戦の僅か4日後に、休養たっぷりで初めての試合に臨むスコットランドと対戦し、大敗したのは、ティア2の悲劇と言える。
でも、だからこそ、日本が世界の強豪南アフリカを倒したのは、世界のラグビーファンからすると信じられない出来事であるだけでなく、日本と南アの試合は2015年のワールドカップのすべての試合の中で最も優れた試合の1つと言われるくらい名勝負と言われた。
こうした状況下で秋から始まった日本国内の試合は、それまで閑古鳥が鳴いたことが嘘のように、入場者数が1万、2万と入るブームとなっている。
それ自体は素晴らしい事なのだが、秋から始まった国内のラグビーの試合を見ていると、首を傾げることがいくつもある。
その最大のものは、トップリーグと称される国内のチームの対戦の組み合わせである。
ワールドカップのために期間が短くなったための措置として、今年のトップリーグではチームをABと2つのグループに分け、それぞれのグループで上位となった4チームが決勝トーナメントに進むというスタイルとなった。ところが、そのABの2つのグループ分けがおかしいのだ。
ワールドカップの日本代表チームへの選手の輩出状況は、パナソニック、東芝、サントリー、神戸製鋼がそれぞれ、4、5人を出していて、この4チームの実力ぶりは一目瞭然である 五郎丸で有名となったヤマハ発動機は日本代表には2人、それ以外のチームでは、近鉄やNTT、キャノンなど数チームから1人づつが代表に選手を出していて、それに続いている。
従って、チームを2つに分けるなら、強豪4チームが2チームづつAB分けるのが当然である。
ところが、ABの2グループに組み合わせを見ると、強豪4チームの内、3チームがAグループになり、Bグループには4チームの内、神戸製鋼だけが入り、そのBグループにワールドカップで人気が出た五郎丸が所属するヤマハ発動機が入っている。どう見ても、そこに協会の意図を感じる変な組み合わせである。
うがった見方をすれば、五郎丸が所属するヤマハ発動機を決勝トーナメントに進めさせるため、強豪が少ないチームにヤマハを入れたとも言える組み合わせである。
(ヤマハに有利な笛、最後はキャノン2人退場で試合は決した)
そのラグビー協会の意図を汲んだのかもしれないのが、ABそれぞれの順位を決める最終戦のヤマハ発動機とキャノンの試合では、筆者の目には、審判は明らかにヤマハに有利に笛を吹いていたと感じた。
ラグビーの試合の流れを決める重要な要素のオフサイドの判定がある。ところが、あるプレーがオフサイドかどうかの判断は微妙で、どちらとも言えることが少なくなく、笛を吹く審判の意思で、試合が決定することが珍しくない。
今年のワールドカップでも、準々決勝でのオーストラリアとスコットランドの試合は、審判の間違った判定で勝負が決した。世界のラグビー協会は後で、審判の判断ミスを認めたが、試合結果を覆すことにはならず、スコットランドは誤審で負けたのである。
ヤマハとキャノンの試合に話を戻すと、どちらとも判断できる場面で、ことごとくヤマハに有利に審判は笛を吹いていたと感じられた。
ラグビーでは危険プレーや意図的な販促には、10分間退場となるシンビンという措置があるが、ヤマハとキャノンの試合では、前半でキャノンに1人、後半開始早々で同じくキャノンに2人がシンビンで退場となった。
そして、それまで競っていた試合が、このシンビン判定で人数が少なくなったキャノンは、不利な判定にもかかわらず頑張っていた我慢の糸が切れ、それを機会に点数に差がつき、試合にはヤマハの勝ちとなった。
2人退場となれば、15人と13人で戦う。それは大きなハンディである。だから、2人目のシンビンの判断をする時は、誰の目にも明らかな状況でないといけないが、この試合の審判の判断は、そうでなかったと言える。
マスコミはワールドカップの活躍で、それまで人気のなかったラグビーに急に人気が出たと書いているが、事実は違う。日本でのラグビーは以前、サッカーなどよりも余程人気があり、十年、20年前には、大学の早稲田と明治、早稲田と慶応の試合、そして、7連覇、8連覇と強さを誇った新日鉄釜石や神戸製鋼の試合には、壊された旧の国立競技場に5万人からの観客が押し寄せた時期があった。
それがなぜ、人気がなくなってしまったか。、 明治大学から新日鉄釜石に行って活躍した松尾や、同志社大学から神戸製鋼に行った平尾のような世界で通用するスーパースターがいなくなったことや、ワールドカップでの不甲斐ない成績も人気がなくなった大きな原因と言われるが、筆者は、当時、特別のチームにことごとく有利に笛を吹く審判の異常とも言える判定がファンを離れさせた最大の理由と考えている。
平尾が属したいた同志社大学は大学で圧倒的な強さを誇っていたが、審判にことごとく相手の早稲田大学に有利な判定をされ、最後は選手がやる気をなくして、負けた。
この同志社の例だけでなく、当時は審判はことごとく早稲田に有利な笛を吹いていて、見ている者の気分を悪くした。筆者自身、それまでかなり熱心なラグビーファンだったが、この早稲田有利の審判の判定を見るのが嫌で、ラグビーを見なくなった。
断っておくが、筆者は別にアンチ早稲田ではない。しかし、スポーツの試合で、明らかに審判が片方のチームに有利な判定をすると、多くの人は不愉快になって、試合を見なくなる。
プロ野球が人気がなくなり、テレビの地上波でほとんど放送をしなくなった大きな理由の1つは、巨人だけに有利に判断をする審判の判定があったと言われている。スポーツの試合は同じ土俵で戦い、競るから面白いのであって、審判が一方のチームに一方的に有利な判定をすれば、競技の面白さはなくなっていくのだ。
うがった見方をすれば、日本のラグビー協会はワールドカップで人気が出た五郎丸の所属するヤマハを少しでも長く登場させるために、組み合わせも有利にし、審判も、その協会の意図に沿うように、ヤマハ有利の笛を吹いている。筆者には、そうしたものを感じられずにはいられない。
そういえば、ラグビー協会のトップは早稲田出身の森元首相であり、ヤマハの監督の清宮も、五郎丸も早稲田出身である。偶然かも知れないが、スポーツであってはならないことが行われているような感じさえする。
スポーツファンの目は厳しい。明らかにおかしいということがいくつか行われると、ファンは離れていく。かつて、人気を誇ったラグビーから何故、ファンが離れて行ったか。協会関係者はそのことを十分考えないと、ブームなどあっという間に、消えていく事を肝に銘じるべきである。
20151225
視聴者不在、大量時間水増しのテレビ局のフィギャアスケート番組
フィギュアスケート業界は羽生結弦の世界最高得点や、浅田真央の復帰など話題に事欠かず、彼らが参加したグランプリシリーズの大会やグランプリファイナルには多くの人の関心が集まった。
結果は、羽生は最高得点を更新するなど期待通りの活躍を見せた一方、浅田は年齢的な事やブランクもあり、グランプリファイナルでは最下位で終わるなど対照的な結末となった。
スポーツは強い者が勝ち、弱い者が負けるという冷徹な世界で、その競い合いがまた、見る者の心を刺激するのだが、こうしたファンの期待やゲームを見たいという心を踏みにじり、出場者の演技を見にくいようにどんどんしていったテレビ局の番組の作り方に、怒りさえ感じた。
そして、その視聴者不在の番組作りはどんどん拡大している。
フィギュアスケートはショートプログラムは2分あまり、フリーでも4分あまりで終わってしまう。そして、ショートとフリーは別の日に行われるので、演技者が6人しかいないグランプリファイナルでは、ショートなら20分足らず、フリーでも30分足らずで終わってしまう。つまり、多少の前触れや選手と選手の間の休憩時間を入れても、演技を報道する番組は1時間もあれば十分なのである。
ファイナルでないグランプリシリーズは出場者がファイナルの2、3倍いるので、全部を放送しようとすると、2時間くらいかかる計算になるが、有力でない選手と、有力選手の演技順は前半後半に分かれているし、有力でない選手の演技は、少しフィギュアを見慣れた視聴者からすれば、その差は歴然としているし、有力でない選手は視聴者にとっては馴染みも薄く、あまり見たいという意欲は湧かない。
だから、テレビ的に言えば、ファイナルでないグランプリシリーズでも、放送時間は1時間程で十分なのである。
ところが、今年のグランプリシリーズも、ファイナルも放送したテレビ局は2時間半とか3時間の放送時間を設定した。こうなると、どの時間にテレビを見てよいかわからなくなる。
大体このくらいかなと勘を働かせて、放送時間の半分くらい過ぎた時間にチャンネルを合わせても、まだ、見たい選手の出番は回って来ない。
何回も別番組との間でチャンネルと行き来させ、やっと主力選手の登場時間になったので、見ようとすると、演技時間の話を延々として、演技が中々始まらない。チャンネルはつけたまま、席を離れ、別の事をして、しばらくして戻ると、演技は終わってしまっていた。
まあ、それは仕方がないと思って、次の選手の登場を待つと、また、演技ではない、サイドストーリーを延々と放送したりフィギュアスケートに関係のないタレントのどうでもよい話をやっている。
スポーツ番組は有力選手が登場して演技をし、間髪を入れずに次の選手が出て来て、直ぐに演技をするから、緊張感も高まるし、演技同士の比較を素人の視聴者でも出来るのだが、間に水増しのサイドストーリーやタレントのどうでも良い話が延々と入ると、見ている方は緊張感がなくなり、シラケてしまう。
盛り上げないといけない所で、水を差しているのは、視聴者に見て欲しくて放送しているテレビ局そのものなのである。
この放送態度はフィギュアスケートだけに限ったものではない。サッカーなど他のスポーツでも、試合開始時間の30分、1時間前から中継を開始する。そして、試合が始まるまでの30分、1時間、どうでも良い無駄話が延々と続くのである。
テレビ局で働く人間は、視聴者がどうでも良い無駄話の間、視聴者がテレビの前を離れず、その無駄話にずっと付き合ってくれるとでも考えているのだろうか。そうだとすれば、頭の構造がおかしいか、視聴者を余程、小ばかにしたとしか言いようがない。
今年のフィギュアスケートのグランプリファイナルは外国で行われた。生で放送しようとすると、日本時間では朝の放送となる。忙しい朝に放送しても仕方がないと思ったのだろう、放送権を獲得したテレビ局は、放送時間を夜のゴールデンアワーに設定した。ということは、テレビのニュースでも、ネットでの速報でも、試合の結果が出ているのだ。
その結果が出ていて、新鮮さがほとんどないが、主力選手の演技だけ見て、結果を確認し、その演技の出来の良さや失敗などを確認したいファンに対して、テレビ局の姿勢は、上に書いたように、2時間半、3時間に水増しし、どうでも良いサイドストーリーやタレントなどの無駄話を延々をするのだ。
そして、結果が既に詳しく報道されているのにも関わらず、中継録画のアナウンサーも、テレビのテロップの字幕も、結果がまだわからず、「さて、どうなるのでしょうか」というトーンで番組を展開している。見ている側からすると、イライラから怒りになり、最後にも茶番に笑ってしまうというような、視聴者不在の放送姿勢である。
マスコミに長く身を置き、テレビ局の事情もわかっている筆者からすると、テレビ局は高い放送権利の金を払って放送するのだから、放送時間を長く使わないと、採算が取れないというテレビ局側の事情も理解できる。
それにしても、もっと視聴者視点に立った番組の作り方があるはずである。視聴者の視点に立った姿勢の欠如、自分側の都合でものを仕切って行くという姿勢が、視聴者のテレビ局離れを生み、それを加速させているのだという認識が全くない番組の作り方である。
今年のフィギュアスケートについては、グランプリファイナルなどを放送したテレビ局以外にも、テレビ局側のお粗末さが目立った。
羽生が世界最高点の演技を更新したファイナルのフリーが行われた日の夜のフジテレビのスポーツニュースでは、アナウンサーが「羽生がまた世界最高点を更新しました」という話から入ったが、その世界最高点の演4分半程の演技をきちんと見せず、さわりだけを見せ、「凄い」という話でスタジオにいる人間だけが盛り上がり、羽生についてのミニクイズを主演者にさせ、結果が当たる当たらないというようなバカげた構成に終始した。
夜のスポーツニュースという番組は、日中働いていて、例え中継があっても、仕事などで家にいず、夜、その結果や内容と知りたいと思う人が見る番組である。その番組の存在意味そのものを無視する番組構成だった。
もっとお粗末だったのは、グランプリシリーズの1つのNHK杯を放送したNHKの放送構成である。
NHKは話題の中心に浅田の復活ぶりをもって行くために、羽生が出演する男性の演技を午後の4時くらいからの時間帯とし、女性の演技時間を夜のゴールデンアワーの時間帯に置いた。
結果、翌日のスポーツ紙がどこも1面トップで大きく報じ、一般紙でも大きく報じた羽生の演技は多くの人が見られない夕方前の時間帯に放送することになった。そして、一番の盛り上げに持っていった浅田の演技は失敗に終わり、復活が難しいことを見せるだけのものになってしまった。
これは結果論ではない。フィギュアスケートは十代から光り輝き始め、十代後半から20歳代前半で花開き、20歳代半ば以降は引退か、引退しないまでも、衰え、順位を下げて行く時期である。
そうした中で、長いブランクを抱えた浅田が復活し、世界の強豪相手を打ち破って優勝することは、極めて困難であることは、フィギュアスケートを少しかじった人にも、わかっていた話である。
そんな簡単な常識を見通すことが出来ないで、放送時間を設定したとするなら、それは担当者の怠慢としか言いようがない。
フィギュアスケートに限らず、マラソンでもその他のスポーツでも、そのスポーツを中継するテレビ局の意向が、協議の開催時間にまで影響を与え、テレビ局の都合で競技の開催時間が変わると言われる時代である。それだけに、テレビ局側の人間に事実をしっかり把握し、結果を見通せる知識、判断力がないと、視聴者はどうでも良いものを延々と見せられる羽目になるのである。
20151217
異常な偏向ぶり、夫婦別姓裁判の日経新聞記事
最高裁で夫婦別姓問題と、女性の離婚後の再婚禁止期間についての判決が出た。
筆者の客観的な見方では、判決は極めて穏当な内容だと思うが、この判決についての日本経済新聞の報道の仕方はあまりにも異常な取り上げ方で、偏向した内容であると言わざるを得ない。
12月17日付の日経新聞はこの判決について、社会面の2つの面のほんとどを使って、「別姓願う女性落胆」という特大のポイントの文字を使って、女性たちがこの判決に不満であることを書いている。
更に、政治経済などを扱う第3面で解説記事を掲載し、その中で、「伝統に固執、変革を阻む」というタイトルで、女性編集委員の署名入り記事を掲載している。
その中身は、夫婦同姓であることが「悪しき陋習で、それを改革しようとするのを裁判所や社会が拒んでいる」という趣旨で原稿を書いている。
書いた記者も記者なら、それをそのまま掲載する編集長など幹部の神経も理解できない。その異常とも思える偏向ぶりに筆者は空恐ろしいものさえ感じた。
意見の分かれることについて、自分の意見を持つことは悪い事ではない。しかし、自分の意見が正しくて、自分の意見に組みしない側の人間は悪しき伝統の中にいる「頭の固い人たち」であると断言するのは、記者として明らかな越権行為であるし、新聞社が、そうした趣旨で記事をこれだけの面を割いて掲載すれば、それは日本の新聞社が掲げる「公正中立」の立場に反するものであり、自殺行為だと筆者は考える。
夫婦別姓問題は、意見が大きく分かれる問題である。世論調査でも賛成反対がほぼ半々である。
そして、別姓を認めても良いという人は少なくないが、では、別姓が認められて、それを自分で実行するかと聞かれると、実行すると答えている働く女性は2割にしか過ぎない。
日経の記事が大半の人が望んでいて、行政や裁判所がそれを認めないのだというような趣旨で原稿を書いているのは、明らかに事実違反である。
日経新聞の記事は従来からも、女性の権利、女性差別というような話については、かなり偏った傾向の記事を掲載して来たが、今回の記事は、以前にも増して、異常さが目立つと言える。
欧米のメディアは、自社は右寄りとか左寄りなどを認め、その立場で意見を言うことが少なくない。これはこれで良いと思う。しかし、日本の新聞はどこも、「不偏不党」「公正中立」を掲げていながら、どちらかに寄った記事を掲載している。それが問題なのだ。
筆者も知人の女性たちから、結婚による苗字の変更にともない、カードなどしないと名義変更などの手続きが大変だという話を聞いたことはある。
その時にも、その女性たちには言ったのだが、それは法律の問題ではなく、行政や企業の運用でいかにでもなる話で、それを新聞が「女性差別」と声高に言うのは違うと思う。
今、企業では働く女性が結婚した時、会社の活動で旧姓のままで通すということは、多くの企業で認めている。後は、パスポートを扱う役所や、カードなどの業界が、カードやパスポートなどに旧姓を併記する制度を導入すれば良いだけのことである。
高橋美恵子さんが鈴木さんと結婚したら、鈴木(高橋)美恵子とする表記の仕方を認めれば良いだけである。憲法問題ではなく、運用の仕方で女性の不便さのほとんどは解決してしまうのであり、それは実行しようとすれば、すぐにできることである。
世の中の多くのことは、憲法違反がどうのこうのというような事ではなく、こうした点が不便で困っているので、それを解消してくださいというような話し合いが行われれば、ほどんどが解決するものである。
日経の記事もそうだが、女性の権利や女性差別というような話になると、「日本が世界から遅れていて、国際機関から改善勧告を受けているのに、無視している」という話が必ずついて来る。この部分も我田引水で、自分に都合の良い話だけを書く傾向がマスコミには強い。
日経の記事を読むと、「夫婦別姓が世界の圧倒的な多数で、それを認めない日本は世界から取り残されている」というように感じるが、そんなのは嘘である。夫婦別姓を法律などで決め、それを実行している国は圧倒的少数派であり、ほんの数か国にしか過ぎない。マスコミに嘘は禁物である。
国連の勧告の話も、国連の各組織はそれこそ信じられないような数多くの勧告や決議を出している。
ご存知の方も多いと思うが、ILOは日本の社宅を廃止すべきという勧告を出している。これは「社宅は社員を特定の場所に縛り付けるもの」という前提に立っていて、いわば、「蟹工船」や「「タコ部屋」の発想から廃止勧告をしているのである。明らかに実態と異なる理解の上での勧告で、マスコミも日本政府も企業もこの勧告を問題していない。
国連の勧告がそんなに重要なら、日経新聞は社宅を廃止しろという記事を掲載しないといけないが、そんなことはしていない。自分の都合の良い話だけの時に、国連の勧告を使っているとしか言いようがない。
20151123
マスコミ、識者、評論家が負けた大阪ダブル選挙
大阪府知事、大阪市長のダブル選挙は、維新の会の候補が圧勝した。
マスコミ、評論家、識者と言われる人達は維新の会や、橋下前大阪市長が大嫌いで、橋下氏が大阪府知事になって以降、ずっと橋下氏と維新の会を叩き続けて来た。今回のダブル選挙でも、マスコミ、識者と称する人達は、ずっと反橋下、維新キャンペーンを繰り広げて来た。にもかかわらず、維新の会の候補が圧勝したのだ。
なぜ、だろうか。というか、マスコミ、評論家、識者はなぜ、ここまで執拗に、下品な、そして、異常なまでの反橋下、反維新のキャンペーンを繰り広げるのであろうか。
朝日新聞の社長交代につながった週刊朝日の記事では、「ハシモトは橋本ではなく、橋下と書く。これは橋下に住んだ賎民の一族だからである」とまで書いた。書いたフリーのライターは何を書いても自由だが、それを大手新聞社系の週刊誌に掲載する神経が全くもって理解できない。
週刊朝日では、この記事を見た編集部長が記事の異常さに気が付き、掲載中止を言ったが、部下の編集長が「どうしても掲載させてほしい」と言って、最後は上司の部長も折れて、掲載に同意したという。
人を評価するのに、その人の言動で批判するのは良いが、出自、氏育ちを持ち出して、それで批判するのはアンフェアであり、自由と平等、人権を最も強く主張して来たと自認する朝日新聞が、こんなアンフェアな記事を掲載すること自体、民主主義を否定する体質を告白したのと同様である。
今回のダブル選挙でも、ある有力週刊誌は、京都大学教授と哲学者と称する人の対談で、「維新は大阪府民を何回だ騙せば良いのか」という話を掲載した。
この大学教授も、哲学者も、自分が言っている事の意味が全くわかっていない。「維新が何回も大阪府民を騙す」という事は、「大阪府民が何回も騙されている、イコール、大阪府民はバカだ」とか、「頭の良い自分は騙されないが、頭の悪い多くの大阪府民は騙されている」と言っているのに等しいのだ。
こうした記事が出れば、大阪府民、市民は賛同どころか、反発して、反作用が働くということを「頭が良い」と自認する大学教授も哲学者もわかっていないのだ。その程度の人が偉そうに発言する事自体ナンセンスである。
では、マスコミや識者、評論家と称する人達は、なぜ、ここまで、橋下氏や維新を異常なまでに、執拗に叩くのであろうか。
理由は簡単だ。橋下氏や彼が率いる維新は、大きな改革を主張している。それに異常なまでに反対し、執拗に叩き続けるマスコミ、識者、評論家はその改革に反対な、守旧派なのである。
本来、マスコミや評論家は現状改革を持って主張し、国や地方を良くしようという発想の下に、行動し発言しないといけないのだが、今のマスコミは体制の上位に位置し、現状維持が自分にとって一番都合が良く、その現状を破壊しようとする改革者は敵なのである。
識者、評論家も同様で、現体制の中でのステータスであり、それが崩れてしまうと、自分のステータスの位置がなくなってしまうのだ。だから、執拗に異常なまでの叩き方をするのである。
マスコミが橋下氏を嫌いな理由はもう1つ。それは、通常の政治家のように、マスコミを厚遇しないからである。自分自身、マスコミに長くいた者の体験として、マスコミや政治家、官僚、経営者などから特別扱いをされている特権階級である。
悲しい事に、自分がマスコミにいると、その厚遇に気が付かないのだ。そして、その厚遇がないと、差別され冷遇されたと感じるのだ。小泉元首相がマスコミに異常なまでに叩かれた理由は同じである。それも、事実でない嘘のレッテルを貼って、何回も書いて、それをあたかも真実のように国民の間に浸透して行ったのだから、マスコミの罪は重い。
ある記事は「大阪の人はお笑いが好きで、吉本が人気がある。だから、維新もお笑い感覚で支持されているのだ」と書いた。飛んでもない。この記事を書いた人間はものの本質が全く理解出来ていない。
先に行われた、大阪都構想についての賛否を問う住民投票で、維新は1%の差で負けた。しかし、大手新聞社が、その投票の時、出口調査で、どういう人が賛成で、どういう人が反対かの分析をした。
その結果は、男性は6割が賛成、女性はその反対。30歳代から50歳代の働き盛りの人では6,7割の人が賛成し、年寄りが反対だった。日々厳しい仕事をし、現実にさらされている人は大阪都構想に賛成であり、そうではなく、自分の経済活動が少なく、マスコミに情報を頼っている主婦や年寄りが反対だったのだ。
大阪に住んでいる人や住んだことがある人は、大阪府と大阪市の二重行政の無駄は嫌という程、感じているし、大阪府も大阪市も職員組合や教職員組合が強い力を持ち、行政の実行に大きな影響を与えて、それが様々な形で歪みが出現していることを理解している。だから、改革に賛成なのである。
大阪を改革するのに、橋下氏や維新がいう大阪都構想だけが、唯一、絶対の改革案ではない。もっと、どう改革すべきかという議論があってしかるべきである。
しかし、国政における民主党と同じで、大阪での自民党は大阪都構想に反対だけで、対案を出さず、ただ反対で、その上、主義主張が違う、共産党や民主党と共闘して、維新と戦った。だから、府民、市民の支持を得られず、負けたのである。自民党の支持者の多くが維新候補に投票したという事も当然の行動である。
大阪自民が今後、どうするか。
府議会でも市議会でも維新は多数派ではない。大阪人が圧倒的に支持した維新の府知事や市長の足を引っ張る行動をすると、次の選挙でまた、厳しい結果が待っていると覚悟しないといけない。
今回の選挙結果について、一番反省しないといけないのは、マスコミ、識者、評論家である。でも、これまでの行動から彼らの言動が変わるとはまず考えられない。
そうした彼らに言いたい。「民主主義とは、国民の意思で決まるものであり、官僚やマスコミ、識者、政治家の意見、主張で決まるものではない」と。いい加減、異常なまので橋下、維新バッシングは止めて、是々非々でその内容の是非を書き、自分たちの対案を示さないと、自分自身、どんどん国民から遊離していくと。
20151120
監督の無能、無で負けた野球、侍ジャパン
ラグビーのワールドカップで日本が活躍した第一の功績者は、ヘッドコーチ(ラグビーでは監督と言わず、ヘッドコーチという)のエディー・ジョーンズ氏だと言われる。日本より格上で、体力でも技術でも優れている相手とどう戦うかを徹底的に分析し、その対策を嫌と言う程実行していった。そうした積み重ねがラグビーの世界で奇跡と長く言い伝えられると言われる、強敵、南アフリカを打ち破った結果につながった。
ラグビーの世界で有能な指導者と評価されているジョーンズ氏と比較するのは気の毒かもしれないが、野球、侍ジャパンの小久保監督は、あまりに無能、無策で、ミスミス勝てる試合を落としてしまった。
小久保監督の無能さは準決勝の韓国戦の采配だけでなく、予選のリーグ戦でも明らかになっていて、筆者は「今の小久保監督では、決勝トーナメントでは韓国やアメリカには勝てず、日本は敗退する」と周囲の人間に言っていたが、その不幸な予測が的中してしまった。でも、それくらい、小久保氏は監督としての能力を有しない無策の指揮者だったのだ。
野球に限らず、ラグビーでもサッカーでも、予選リーグがあって、そこで勝った上位チームが決勝トーナメントで戦うというスタイルの試合では、予選リーグ戦でいかに戦い、準備をし、作戦の演習をするかが極めて大切である。
予選では、チームの選手を広く使って、調子の良い選手、悪い選手の見極めをするとともに、色々な作戦を試すことなどもしないといけない。野球の場合では、ただ勝つだけでなく、得点を得るためにバントやエンドランを使って、決勝トーナメントでの接戦における練習をすることや、リリーフ陣を見極め、勝利の方程式を作ることなどをしないといけない。
また、日本を代表する選手でも、肩に力が入って、結果が出ていない選手には、肩の力を抜くようにアドバイスをしたり、チームバッティングをすることで、流し打ちなどの打撃をさせて、スランプから脱出するためにヒットエンドランを使ったりしないといけない。しかし、予選の全部の試合を見たが、小久保監督はバントはほとんど使わなかったし、エンドランや盗塁、バスターなどの作戦も皆無に近かった。
バントが当然と思える場面で、バントのサインを出さなかった事を、試合後、質問されると、小久保監督は「これだけに選手が揃ったチームで、監督はバタバタ動いてはいけないんだよ」と言っていた。予選リーグの意味を全く理解していない発言である。
それでも、予選リーグ戦で、日本が全勝だったのは、ひとえに選手が監督の無能、無策を補うことをしてくれたからである。加えて、日本、韓国、台湾を除くと、二流、三流の選手を寄せ集めたチームだったからである。これに対して、予選や準々決勝でのアメリカの試合を見ると、監督は現役メジャーリーガーがいない、限られた戦力でいかに戦うかを考え、試合をしていた。だから、予選リーグで日本に大敗しても、少しも慌てなかったのである。
準決勝の韓国戦で小久保監督は、考えられるありとあらゆる失敗をした。
まず、先発に日本ハムの大谷を起用したことである。結果的には、大谷は期待以上の好投をしたが、大谷は予選リーグでも韓国戦に投げていて、打てないまでも、韓国は大谷対策を準備していた。結果オーライだったが、スポーツで優勝するためには、結果オーライではいけないのである。
二番目の失敗は、間違って起用した大谷が好投をし、投球数が少ないにもかかわらず、7回で降板させた事である。相手の投手の出来が良くて、手も足も出ない状態の時に、その投手が途中降板すると、「ラッキー。これで打てるぞ」という意識になる。この意識を相手に持たせると、良い結果とはならない事が多い。
三番目の失敗は、3対0でリードしていた7回、8回に追加点のチャンスが何回もあったのに、バントなどを使わず、追加点を得て、相手を突き放す事ができなかった事である。
野球は心理戦とよく言われる。日本が追加点を奪っていれば、韓国側の戦意は大幅に損なわれ、9回の逆転劇は起こりにくかったと思われる。
そして、四番目の失敗は9回に楽天の則本が打たれて、ノーアウト満塁となった時に、起用したリリーフ投手の選択間違いである。小久保監督は無死満塁の場面で、楽天の松井を起用した。この起用を見て、筆者は一緒にテレビ観戦していた家族に、「これで日本は負けた」と言い、結果はその通りになった。
松井は将来性がある選手である。しかし、プロ2年目で、経験が少なく、かつ、コントロールが良くない投手である。もし、松井をどうしても起用したければ、9回の頭からのランナーがいない状態で起用でないといけない。無死満塁での起用は、負けが必死の起用法である。
最後の小久保監督の間違いは、9回裏、ランナーが出て、同点のチャンスになった時に、それまでの試合で全くと言って良い程打てず、スランプに陥っていた西武の中村を代打で起用したことである。
中村はパリーグの本塁打王であり、良い選手である。しかし、日本ハムの中田やDeNAの筒香がチャンスで良い打撃をしている事に焦り、自分を見失い、凡退を続けていた。そして、最後の頃には、自信をなくし、本来の打撃の思い切りの良さが失われ、当てて平凡なゴロを打つ、打撃になっていた。この選手を最後のチャンスに起用して、良い結果が出る訳がない。案の定、当てるだけの打撃で凡退をした。
筆者は予選リーグ戦から決勝トーナメントでの小久保監督の間違いを指摘してきたが、最大の間違いは、侍ジャパンの監督に小久保を起用した事にあると思う。
小久保は選手としては、それなりの結果を出して来たが、監督、コーチの経験はないのに、いきなり日本代表チームの監督になった。その小久保に良い監督を期待する方が元々、無理があるのだ。
この起用の裏には、小久保を何らかの形で遇さないといけないソフトバンクなどの思惑があったと見られている。
小久保は入団時に、将来の球団の幹部候補生を約束されたと言われている。それが、当時の球団の幹部と不仲になって、巨人に移籍をするはめになった。その時の借りがある考えたソフトバンク球団は、現役を退いた小久保を遇するポストとして、日本代表チームの監督を用意したという説がある。
しかし、過去のWBCやオリンピックで、日本代表の監督を務めた王や原が言っているように、日本代表の監督は勝つことが義務付けられた厳しいポストだし、他のチームの主力選手を預かるので、ソフトバンクを優勝に導いた秋山が日本代表の監督の就任を要請されたのに、固辞したのは、その大変さを知っていたからである。
逆に言えば、その大変さを考えないで、監督に就任した事だけで、小久保は監督の器でなかったと言える。
最後に、これだけの間違いをした小久保の間違いを指摘する解説がないのが不思議でならない。新聞は「悪夢の9回」「まさかの逆転負け」と書く。しかし、筆者に言わせれば、まさかの逆転負けではなく、「負けるべくして負けた試合」であり、そうしたのは、小久保監督の無能さと無策ぶりだったのだ。
筆者が小久保監督なら、自分の至らなさと無策ぶりを反省し、監督のポストを返上するが、小久保にはそうした神経もないのではないかと思う。
20150810
池上彰を神格化するマスコミの怖さ
ここ数年、テレビや新聞、雑誌、本などで池上彰氏の名前を見ない日はないくらい、池上彰氏は嫌という程登場している。特に、テレビは「わからないことは、何でも知っていて、わかりやすく説明してくれる池上彰先生に教えてもらいましょう」というトーンで番組作りをしており、池上彰氏の神格化をどんどん進めている。
こういう現象を見ていると、筆者は極めて危険な臭いを感じる。
何故なら、誰かを神格化すると、その人が言う事はすべて是となり、その人が否定的に見て、発言した事について、多くの人が、「〇〇先生が言うのだから、そうなのだろう」と無批判に受け入れてしまい、その影響が計り知れないからである。
マスコミが「万能知識人」として神格化した評論家の例として、立花隆氏がいる。彼が「神」になったきっかけは、当時、政治部記者だったら、誰でも知っていたが、書かないでいた田中角栄の金脈問題を、立花氏が雑誌に書き、それが田中角栄のバッシングのスタートとなり、ロッキード事件で角栄氏が失脚するとともに、立花隆氏は「先見の明がある万能知識人」という「神」になったのである。
そして、田中角栄問題だけでなく、彼が言ったり、書いたりする事はすべて正しい事となり、マスコミは無批判に彼を崇めるようになっていった。そして、大きな間違いを犯しても、マスコミの誰もがそれを指摘せず、彼の言う事は正しくなってしまったのである。
彼が言ったり、書いたりした事の中におかしな事はいくらでもあるが、1つその例を言うと、臓器移植における脳死の問題での彼の対応は、脳死や移植に賛成する側の人間も、反対する側の人間の双方の多くの専門家が、「立花隆の言動は間違い」と言っているにもかかわらず、彼の主張が通ったのである。
専門家のほとんどのがおかしいと言っている事が、神格化された人が言う事で、通り、おかしな決定が行われてしまう。神格化はそうした危険な事を引き起こすのである。
どんなに偉い企業経営者でも、政治家、官僚、学者でも、評論家でも、良い点もあれば、問題点もある。しかし、日本のマスコミは、良いか悪いかのどちらかで決めつける。そして、良いとなったら、徹底的に祭り上げて、神格化する一方で、悪いと決めると、良い点は全くと言って良い程、無視して、悪い点だけをことさら強調して、叩きまくる傾向が強い。
立花隆氏が叩いた事をきっかけに落ちた偶像になった田中角栄氏も、それ以前は「今太閤」と言われ、マスコミが神格化した。しかし、金脈問題で水に落ちた犬になった途端に、「悪」となって、バッシングの対象となり、彼が行って来た様々な功績はすべてマスコミで抹殺され、言及される事はなくなってしまった。
経営者で言えば、パナソニックの創業者の松下幸之助氏は「経営の神様」と褒めたたえられて、神格化されて来た。しかし、現実の松下氏はアイデアマンではあったが、同時代の経営者で彼を良く言う人はほどんどいない。彼が行ったおかしな事は、「経営の神様」の言葉とともに、抹殺され、語る事はなくなってしまった。そして、彼の著書とされる本(実際は側近の覆面ライターが書いた本だが)は経営のバイブルとなった。
今、京セラの創業者の稲盛氏が松下氏の後を継ぐ、経営の神様として、神格化が進んでいる。稲盛氏の経緯を知っている多くの人は稲盛氏の経営者としての問題点を多く指摘する。だから、彼の神格化に強い違和感を覚えるのだが、マスコミの神格化で、そんな声など消し飛んでしまっている。
ここ数年の例でいえば、マスコミが悪と決めつけ、バッシングした好例に大阪市長、橋下徹氏がいる。彼の言動に問題がなかったとは言わないが、現実に大阪を変えようと努力をし、案を出した。でも、マスコミの異常ともいえるバッシングの中で、僅差だが、その案は否決され、政治家としての橋下氏は力を失われ、それとともに、大阪市、大阪府の改革は遠のいてしまったのである。つまり、大阪改革の目をマスコミが潰したのである。
池上彰氏の話に戻ると、彼が今のように、まるで万能の知識人のように扱われ、マスコミの大礼賛の下に、スーパーヒーローになったきっかけは、NHKで社会部の記者をしていた池上氏がNHKの番組で、子供を対象にした番組で、ニュースをわかりやすく解説する役をしたことにある。
NHKには、ニュースや解説は小学校高学年、中学生にわかるように話をしないといけない、記者はそういう原稿を書かないといけないという原則論があるが、現実はどうしても、難しい原稿や話し方になり、理解できないという視聴者は少なくない。池上氏は子供相手にニュースの解説をして、好評を得ると、これを大人の視聴者相手にもやりたいと上司に訴えたが、受け入れられず、NHKを辞めてフリーになって、本来、NHKでやりたかったことを民放で始めた。
これがわかりやすいという事で、いくつもの局からお声がかかり、多くの局で番組を持ち、「ニュースをわかりやすく解説する」ことを始めた。難しく語られている事をわかりやすく説明するという役は、そうした役割の人や番組がほとんどなかったので、評判となった。
それはそれで良いのだが、マスコミの通例として、少し良い評価が出て来ると、「先生」と持ち上げ始め、「わかりやすい説明」しれくれる役割が、今でも、「わからない事は何でも池上先生に聞いてみよう」になり、そして、「池上先生の解説なら、言っている事は間違いない」というトーンになって来て、神格化がどんどん進んでいるのである。
では、池上氏は特別な知識や見識を持ち、余人をもって代え難いのだろうか。筆者は全くそうではないと考える。池上氏のように、大手マスコミで十年、15年記者をして、多くの事象、出来事を見聞きし、取材して来た人間なら、今の池上氏くらいの知識は持ち、同じくらいの話をできる人は、それこそ何十人といるだろう。
朝日新聞系や毎日新聞系のテレビ朝日やTBSの報道番組では、朝日新聞や毎日新聞のベテラン記者がコメンテーターとして登場している。中には、池上氏よりも話のうまい人は何人もいる。
では、そうにもかかわらず、マスコミは第二の池上彰氏作りをしないで、池上氏一人を神格化し、ヒーローにするのだろうか。
私はその理由は2つあると考える。その1つは、朝日新聞や毎日新聞の記者でテレビに登場する多くの人がその立ち位置が中立でなく、左がかった意見、主張を持っている人が多く、何でも解説してもらうには不向きだからである。その点、池上氏は左、右どちらにもあまり寄らず、マスコミが扱いやすいのである。
2つ目の理由は、池上氏のような役目をする別の人を新しく登場させ、その人が一定の評価を得るまでには結構の時間がかかる。そんな面倒な作業をするくらいなら、池上氏を神格化させ、自分の局も、出版社も新聞も彼に登場してもらう方が遥かに手っ取り早いからである。
断っておくが、私は池上氏そのものの存在や、彼が今行っている活動を批判している訳ではない。わかりにくい話をかみ砕いて解説するという事は誰かがしなくてはならず、そうした意味で、池上氏の活動は今の世の中に必要な事である。
にもかかわらず、私がこうした事を書くには、異常な神格化に危機感を覚えるからである。今の池上氏には驕りはあまり見られない。立場も比較的中立的で、左か右に寄って、おかしいと思える主張をしたりしていない。だが、神格化はやがて暴走を始める。そして、神格化された人の言動を批判する事はタブーになって来るのが世に常である。
そうした危険性が極めて高いのが、マスコミの神格化である。池上氏について、そうした事が起きない事を願うばかりである。そして、そうした危険性が高い神格化を、本来、権威を批判し、是々非々で論じないといけないマスコミが真っ先に神格化の役割をしている事が残念でならないのである。
20150807
間違った事を断言をする作家、評論家、記者
日本経済新聞の人気欄に「私の履歴書」というコーナーがあり、企業経営者や学者、官僚などが自分の経歴を書いている。現在、作家の倉本聰が書いている。テレビでかつて高視聴率を誇った「北の国から」の作者として知られる彼がどんな生い立ちの人か知らなかったが、彼が書いていることを読むと、事実確認をせずに間違ったことを断定的に言ったり、通常は恥ずべき事を恥じずに堂々と書いていることに驚かされる。少なくても知識人と言われる人の態度とはとても思えない事がいくつも出て来る。
具体的な事を1つ書くと、8月7日付の紙面で、日本が戦争に負けて、アメリカ軍が日本に進駐するようになった時の事を書いているが、「進駐軍のアメリカ兵に男は去勢され、女は乱暴されるとの噂が流れた。でも、そんなことは嘘だった」と書いている。これは全くの事実誤認、間違いである。
日本に進駐した米軍の兵士は、多くの日本人女性を集団で乱暴した。当時は、政府も警察もアメリカ軍に強いことは言えなかったので、事件は表に出なかったが、GHQがいなくなった後、何人もの人がその被害を語っている。九州出身の人気の有名作家は、米兵に自分の母親が集団で乱暴されたことを書物に書いている。
少し調べれば、こうした記事はいくらでも見ることができる。仮にも、物書きとして、色々なことを調べ、他の人から知識人と言われ、ある種の尊敬も集めてている人がこんな姿勢で良いのだろうか。
もっとも、日本では、作家とか、ジャーナリスト、評論家と称する人達、一般には知識人で、マスコミでは、一般の人よりは色々なことを知っていて、解説するような立場で登場する人に、こうした間違った事実誤認を平気で書いたり、話したりする人は後を絶たない。
小泉政権時代、年間1兆円づつ増え続ける福祉予算を抑えようとして、増加額を3千億円にした。減額したのではない。増加額を3千億円に抑えたのである。
これに対して、朝日新聞が「小泉政権は福祉予算を減らした」と書き、小泉が嫌いだった他の新聞社、テレビ、評論家という人達が、この朝日新聞の嘘を引用して、「福祉予算を減らした小泉」と言い出し、これが世間に一般に定着したしまった。
小泉が好きか嫌いかはどうでも良いが、現在の日本では、福祉予算が異常に膨れ上がって、国家財政を大きく圧迫している。国家予算の半分の税収しかなく、半分は国債発行で賄っている日本で、税収よりも額が大きい福祉予算改革は避けれれない緊急課題なのに、それがこの記事で福祉予算に切り込む事が極めて難しくなってしまったのである。
現在、国会で審議されている安保法案に関連して、ジャーナリストの鳥越俊太郎がテレビに登場して、「日本をどこの国が攻めて、占領するというのですか? そんなあり得ない事を前提にした法律を作ることはおかしい」という趣旨の発言をした。
社会党は今はほとんど消滅状態だが、旧社会党の考え方、発想は今でも、「進歩的文化人」と言われる作家、学者、評論家、ジャーナリストに色濃く残っている。鳥越の発言は正にその延長線上にある、ドン・キホーテ的な楽観論の典型である。
どこの国の人でも、圧倒的多数の人は戦争など望んでいない。しかし、ロシアがクリミアを武力で略奪したり、中国が南沙諸島を力で奪ったりするなど、理不尽な武力侵略は、人類が存在する限り絶える事はない。中国が日本の尖閣列島を奪おうと虎視眈々としているのは、多くの人が認識する事実である。こうしたことのために、どう国と国民、領土を守るかは重要なテーマなのである。
社会党的な発想は「どこの国とも仲良くし、紛争は武力ではなく、話し合いで解決すれば良い」というものである。それは理想だが、現実にウクライナやフィリッピンのように領土を奪われ、返せと言っても返してもらえない事はいくらでも発生するのだ。
ある日、中国軍が攻めて来て、尖閣列島を占領したら、どうするというのだ。中国軍関係の雑誌や新聞には、尖閣の武装占領の話は冗談ではなく何度も載っているのだ。こうした中国に対して、それを「話し合いで解決できる」というのは正に超楽観的な発想で、お人よしにバカがついている状態である。
永世中立国と言われるスイスでは、国民皆兵で、毎年、国民は何日間の戦闘訓練を受けているし、核攻撃をされた時の備えに、国の各地に核シェルターを設置している。「『話し合いで解決する』ことではすべてが解決できる訳ではない」、それがスイス人が歴史から学んだ教訓で、だから、こうした備えをしているのである。
戦争に負けてアメリカ軍に支配され、憲法を押し付けられ、映画でチャンバラを撮ることさえ禁止されるなど、生活の一挙手一投足にまで言及され、制限された日本だが、進歩的な文化人たちは「アメリカ軍が日本に民主主義をもらたした」とこじつけの論理を作り、「非武装の平和国家」という世界常識では考えられない超楽観主義の発想で、戦後70年を生きて来たのである。
その実は、日本が70年間、他国から侵略されなかったのは、米軍が駐留しているからに他ならないのに、これら「進歩的文化人」という人達は、その米軍に日本から出ていけというのだ。米軍が出て行った後の日本の防衛はどうするのだという詰めた議論もしないで、「話し合えば、非武装平和国家を攻める国などない」というあり得ない論理に立っているのである。鳥越の発言は正にその延長にあるものである。
フィリピンが中国に南沙諸島を略奪されたのは、フィリピンとアメリカの関係が悪くなって、駐留米軍がフィリピンを出て行った後、時を経ずして起きたのである。日本から米軍がいなくなったら、尖閣列島で同じ事が起きないという保証はどこにもないのだ。
「進歩的文化人」と称する人達の発想は、どうして出て来るのかを考える上で、今、日経新聞に連載されている倉本聰の「私の履歴書」はとても役に立つ。倉本は企業経営者の家に生まれ、当時、ほんの一握りの人しか入れなかった国立大学の付属小学校に入っている。中学、高校は資産家の子弟が集まる麻布である。そして、両親はクリスチャンである。
疎開した田舎で、同じ東京から来た別の小学生にいじめられたら、地元の腕力のある小学生に賄賂を贈り、いじめを防止したと自慢げに書いている。
庶民の貧しさ、日々の生活の苦労を知らない「お坊っちゃん」そのものの生い立ちが、現実離れした超楽観主義を生んだのだと理解できる。
そういえば、鳥越俊太郎も九州の上場名門企業、鳥越製粉の御曹司として、何不自由なく育って、毎日新聞の記者になった。現実を見ずに、あるべき理想像を自分で作り、それを根拠に人生を歩んできた人達だからこそ、出て来るのだと、倉本の私の履歴書を読んでていて感じた。
筆者はこうした、豊かな家に育って、庶民の現実を知らずに、理想論だけを言う、「進歩的左派人」を多く知っている。自分が困窮した事、困った事がなく育ったので、厳しい現実を詰めて解決策を考えるという習慣がないのである。こうした「進歩的文化人」は百害あって、一利なしであると言わざるを得ない。
20150719
安保法案が憲法違反だという法律学者の大いなる矛盾
安保法案の衆議院可決で、野党側は強硬に反対し、マスコミも政府を攻撃し、安倍政権の支持率は大きく下がったと大手新聞が伝えた。野党やマスコミが勢いづく最大の理由は、有力な憲法学者が「この安保法案は憲法違反だ」と言ったことにある。
しかし、これはおかしいし、憲法学者にそんな事を言う資格はないと私は考える。
憲法を素直に読んで欲しい。憲法に書いてある事を素直に読めば、自衛隊は明らかに憲法違反出し、「自衛のための0武力も持ってはいけない」ことは小学生でもわかる話である。これは当然の事だ。今の憲法を作ったアメリカは日本との戦争に懲りて、日本の非武装化を決め、それを実行するために、憲法を作り、日本に押し付けたのである。
ところが、憲法が出来て、それ程、年月が経たない時に、朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮と、それを支援する中国、ソ連との戦いに苦戦し、多くの死者を出したアメリカでは、「何故、直ぐ近くにいる日本人を戦いの場に出さないのだ」という政府批判が起き、アメリカは日本に再軍備を要求した来た。そして、自衛隊が出来たのである。
警察予備隊という名でスタートした日本再軍備の軍隊は、やがて、自衛隊と呼ばれるようになった。アメリカは当然のように、その日本の軍隊を朝鮮の戦場に行くように強く求めたが、当時の吉田首相は「非武装が前提の憲法は、あなたたちが作って我々に押し付けたのでしょう。その憲法がある限り、日本人が海外の戦場に行って、戦うことは不可能です」と突っぱね、アメリカは非武装を日本に押し付けた憲法を作ったことで強いしっぺ返しを受けたのである。
自衛隊が出来た事で、社会党や共産党は「自衛隊は憲法違反だ」と言って、政府を責め立て、大手マスコミもこの論調に従った記事を書き続けた。
この自衛隊の憲法論争に憲法学者は否応なく引っ張り出された。当時、多くの憲法学者は「自衛隊は憲法違反だ」と言った。だが、朝鮮戦争のような大きな戦いが起きて来ると、そもそも、非武装を前提とする憲法そのものがドン・キホーテで、非現実的なことは誰の目にも明らかだった。
だが、「非武装中立、戦争放棄」を党是とし、国民の苦しい戦争体験から、戦争はもう二度と嫌だという声を支持の基盤にして来た社会党にとっては、憲法を前日に合わせて改正することなど、とてもではないが容認できない。
当時、社会党は国会で3分の1くらいの議席を持っていた。この政党が「憲法改正は百パーセントノーだ」と言い、マスコミもそれを応援する形になったので、憲法改正が出来なくなった。
そこで、この矛盾をどうにか納めるために出て来たのが「解釈改憲」である。これは、「憲法は自衛のための武力までは否定していない」という、誰が考えてもおかしい茶番と言える論理を作って、憲法学者の多くもこれを支持したのである。つまり、多くの憲法学者はこの時に、心を売ったのであり、全く無理な論理を定着する努力をして来たのである。
私は、この解釈改憲が日本をおかしくした元凶だと考えている。法律、それが憲法でも、現実と法律が矛盾するようになれば、憲法を含む法律の方を変えるのが、法学の大原則である。世界のどの国でも、変わりゆく世の中に合わせて、憲法を変えている。
だが、日本では憲法を変えずに、解釈で捻じ曲げたのである。解釈で考え方が変わるという事は、その時々の都合や政治の勢力バランスで、解釈はどうにでも出来るということである。極めて危険な行為なのである。だから、解釈改憲ではなく、国民的な議論をして、憲法を改正すべきだったのである。
憲法の文言から、ありえない捻じ曲げで解釈改憲の発想を出し、それを認めて来た憲法学者が、今回の安保法案に対して、憲法違反だという資格などありはしない。また、解釈改憲をおかしいと思いながら、容認し、それで行動して来た大手マスコミにも、今回の安保法案を批判する資格などありはしない。
まして、多くの社会党議院を受け入れ、その体質を根強く残している民主党に、「政府のやり方は横暴だ」という資格などありはしない。解釈改憲をむしろ要求し、それを長年認めて来た自分達にこそ、問題をこじらせた原因があるからだ。
また、自民党内のハト派と言われる人たちや、そのブレーンと言えるような評論家やジャーナリストなどには、「解釈改憲こそが、日本人の知恵」と自画自賛する人間が少なくないが、自分たちが行った解釈改憲こそが、将来に大きな禍根を残すものだという認識がなさすぎるのである。
それにしても、今回の安保法案に対する政府自民党の対応はお粗末の極みである。
国会の参考人招致で、自民党など与党推薦で呼んだ憲法学者が「今回の安保法案は違憲」と発言したことなどが混乱に輪をかけた。憲法学者は誰がどんな論を展開しているかは、その人の本や普段の言動を見れば、一目瞭然なのに、そうしたチェックもせずに、反対する姿勢の憲法学者を呼んで、証言をさせてしまった。
政府自民党の対応のまずさはこれだけではない。
多くの日本人は、きちんと説明して、論理立てて話をすれば、理解する能力を持っている。安倍首相やその周辺がすべきだったことは、「今回の安保法案は合憲」という説明をするのではなく、「戦後70年、日本は戦争、紛争と無関係でいられた。でも、ウクライナや南沙諸島のことなどを見れば、そんなことは言っていられなくなった。現実に合わせた『世界のどこにでも存在する普通の国』にならないといけない」という論理で、自民党の論客や理解を示す評論家などを動員してマスコミに登場させ、話をさせることだったのだが、その努力をほとんど行わなかった。
集団的自衛権など世界の常識である。それを論議する事自体、戦後の日本がいかにアメリカの庇護され、現実を直視しない生活を70年もして来た事の証拠なのである。そんな国民を目覚めさせる努力をしなかった政府の戦略のお粗末さが、現在の混乱を招いた大きな原因でもある。
20150717
苦しい言い訳で、評判を落とした安藤忠雄
東京オリンピックのメイン会場のデザインが安倍首相の決断で白紙になり、デザインを決め直すことになったことは結構なことだが、デザインを決めた審査委員会の委員長を務めて、このデザインを強力に推進した建築家の安藤忠雄氏が行った釈明会見は見苦しいの一語だった。
彼は会見で「デザインは決めたが、建設費などについては関与していないので、建築費が高騰したことについて、私に責任を追及されてもどうしようもない」という趣旨の発言をした。そして、新聞もテレビもその彼の発言だけを伝えた。私は安藤の話は極めておかしいし、そのおかしさを追求し、新聞やテレビで発言を紹介する時でも、おかしいという批判を加えなければいけないのに、それをしないマスコミの姿勢が信じられなかった。
政治の話になれば、起きたことを報道するだけでなく、最後に、批判的なコメントを必ずと言ってよいほど付け加えるマスコミが、なぜ、今回の安藤氏の信じられないような釈明を報道する時に、なぜ、批判の話を付け加えないのだろうか。不思議でならない。
そも、家や会社の建物を建築家に依頼する時、建築家はどういうデザインにしたら、費用がどのくらいになり、どうしたら、価格を抑えられるかなどを勘案して、設計図を書くのは当然のことで、その建築家が「デザインは決めたが、建設費は知らない」などと言ったら、客は怒り出して当然であり、そんな事を言う建築家がいるとしたら、業界で食っていけなくなる。そんな事は誰でも知っていることなのに、そんな自明の事を捻じ曲げて釈明をする安藤氏は、国民をばかにした男である。
人間は、苦しい立場に立たされた時に、どう対応するかで、その人の人柄、人格がわかる。トラブルが起きた時に、会社のトップでも、逃げ回る社長もいれば、直ぐにマスコミの前に出て来て、「すべては私の責任です。申し訳ありません」と言って、逆に評価を上げる人もいる。
耐震偽装問題が起きた時の東洋ゴム、エアバッグ問題が大きくなった時のタカタの社長は長い事、マスコミの前に姿を見せず、話が大分こじれた段階になって、やっと登場した。それだけでなく、話の中身も責任逃れと言えるような内容だった。これと対照的なのが数年前のジャパネット高田の高田社長である。
もう何年か前の話だが、ジャパネット高田から顧客の個人情報が流失するという事件があった。こうした個人情報は、取り扱うのは下請けのITの会社の人間であったり、派遣社員だったりする。だから、いくつも有名企業から個人情報が流失しているのであり、ある意味では会社にとって不可抗力な話なのである。
だが、この時の高田社長の対応は素晴らしいの一語に尽きた。
流失がわかると、高田社長は直ぐに記者会見をして、「詳細や原因はまだわかっていないが、すべての責任は社長の私にあり、誠に申し訳ない」と謝罪するとともに、謹慎の姿勢を示すために、1年間、広告宣伝を自粛すると述べた。しかも、黒のスーツを来て、憔悴しきった姿を見せるために、ぼさぼさ頭で記者会見に臨むとともに、同席する社員にも、同様な服を着るように命じたという。
問題が起きた時の、社長の姿勢としてベストな対応である。問題が起きたばかりの時は、経緯や詳細はわかっていない。でも、それで良いのだ。「詳しいことは調査中で、まだ詳細はわかっていませんが、こうした事が起きた事は誠に申し訳ありません。責任は会社の代表者である私にあります。詳細が分かり次第、また、皆さまにお知らせいたします」。こう言って頭を下げれば、それで会社にたいする批判は収まるのである。
ジャパネット高田の場合、広告宣伝を自粛するという話がまた素晴らしかった。この会社は新聞、テレビに多額の金を支払って広告宣伝をしている。これを1年間自粛するという事は、広告で成り立っている会社にとって大きな痛手えある。しかし、それは同時に広告宣伝費が入ってこなくなる新聞、テレビにとっても大打撃なのである。
それがわかっているので、高田社長は広告宣伝の自粛を言ったのである。この結果、新聞、テレビは批判的なコメントや事件の詳細を報道することを止めて、逆に、広告宣伝を止めないで欲しいと要望するに至ったのである。
今回の安藤忠雄氏の言うべきコメントは、私がコンサルタントなら、以下のようにアドバイスした。「オリンピックの誘致にメイン会場のデザインは大きな力になるという事を聞いていたので、インパクトのあるデザインを選びました。でも、それが、今回のようなトラブルが起きるきっかけになってしまった事は、当事者として、誠に申し訳ありませんでした。この問題をどう解決するかは、もう私の手を離れて、政府のトップが判断する事態になっているので、私はその決定に従うだけです」 こう言えば、安藤バッシングは収まったし、さすが、様々な職業を転々としながら、独学で建築を学んで、有名建築家になっただけの事はあるという話になったのである。
そう安藤氏は、自分に対する批判をかわし、かつ、問題を解決するためのチャンスを自ら、言い訳会見でつぶしたしまったのである。
20160721
都知事選、どの候補もビジョンを示せないお粗末さ
東京都知事選挙まであますところ1週間あまりとなったが、テレビや街頭での主要3候補の話はあまりにお粗末で、自分が知事になったら、東京をこうするという青写真、ビジョンが全く示されていない。
ネットでも、「これなら、不遜で自信満々の塊のような人だったが、まだ舛添の方がましだった」という書き込みがいくつも出るのは理解できる、今の候補のレベルの低さだ。
知事というのは大きな権限を持ち、その人の考え方で、その都道府県の行方が大きく変わる。それだけに、「自分が知事になったら、こういう東京都を作る。そのためにはどういう風に東京を変えて行く」という具体的な話が必要なのだが、それがないのだ。
3人の言うことで共通しているのは、保育所を作るということだが、保育所を作るのは都ではなく、区や市である。だから、知事が「保育所を作る」ということを何回も言うのは、保育所に子供をなかなか入れられない母親の票を意識してのこととしか考えられない。
3人の中で、人前に出て喋れば喋る程、ボロが出て来てしまうので、選挙対策本部が露出を極力、減らし、話も出来るだけ少なくする作戦をとっているのが、鳥越氏である。
あるテレビ局の番組で、3人で討論会をする予定で、増田氏と小池氏は出る準備をしていたら、鳥越氏側から出演できないという連絡が入り、討論は打ち切りとなったという。
毎日新聞の記者あがりで、テレビのキャスターも務め、本来なら討論をするのなら、自分から出たいという立場であると思うが、テレビや街頭での話を聞いても、内容がなく、話に説得力がないのだ。
「道路予算を削って、保育所を作ります」 鳥越氏はある街頭演説で、こう話した。これなど、保育所問題の本質を何も理解していないとしか言いようがない話である。
保育所問題は予算だけの問題ではない。杉並区では、公園の敷地に保育所を作ろうとしたら、公園廃棄に反対の声が出て、保育所建設はストップしてしまった。
また、世田谷区は、それでなくても、厳しすぎる厚生労働省の設置基準により厳しい基準を上乗せしているので、保育所建設が進まない。更に、区長も担当部門も、「福祉法人は良いが、民間企業は営利目的なので、主体になることは望ましくない」と言っていて、新規参入したい企業の足を引っ張っている。
横浜市では、林氏が市長になって、とにかく待機児童をなくすと宣言して、厚生労働省の厳しすぎる基準を守ることよりも、簡易でもよいから、とにかく作ることが先という考えで、建設や認可を勧めたので、待機児童はほとんど解消された。
本質を理解し、どこの問題があるかがわからない人に保育所建設の推進などできはしない。
第一、道路予算を削って保育所をという発想は、今は政党としてほとんど消えかかっている旧社会党が、防衛費を削って福祉をと言って発想で同じである。予算にはそれぞれの経緯や意味がある。それをどこかを削って、他に回せば良いと安直に考える人を知事に怖くてできはしない。
まして、民主党の2年半の政権自体に公共事業費を大きく削ったので、手を入れないといけない道路やなどの施設は少なくないというのに、そんなことも理解できずに、道路予算を削ればと思い付きで言う無神経ぶりは、正に評論家の発想で、政治家、実行者、リーダーの発想ではない。
鳥越氏がこれだけお粗末なのに、マスコミの調査では、テレビで名前と顔を売ったこともあって、人気は高く、特に、60歳代、70歳代の人に支持が多いという。
この世代は美濃部知事、青島知事の治世のひどさを知っている人達である。そして、その人の投票したのも多い人達である。同世代の人間として言わせてもらえば、どうして自らの失敗に学ぼうとせず、名前を知っているから、ハンサムだからというようなことで、投票をしようとするのか、理解に苦しむ。
鳥越氏は論外だが、競争相手の小池氏も増田氏も、冴えない。
小池氏は自民党にいじめられているという同情を買う戦術だし、唯一の女性候補ということをアピールするなどしていて、これも、自分が知事になったら、東京をどうするという青写真が全くない。
小池氏について、とても気になっていることは、人相が月日とともに悪くなっていることである。筆者は易者ではないが、記者として、多くの人と接して来たし、その後、学生の採用面接で数多くの学生と面接して来た経験から、その人の顔や目で、かなりの部分で、その人の現状、心情がわかると考えている。
そうした点でいうと、数年前に比べて、今の小池氏の顔、中でも目つきが極端に悪くなっているのだ。何があったか知らないが、信用できない目である。
小池氏にがっかりしたのは、鳥越氏を病み上がりの人と言ったことについて、鳥越氏が「ガンサバイバーに対する差別だ」と噛みついた時の反応だ。
筆者なら、簡単で、「ガンサバイバー全体の話をしたのでなく、鳥越さんについて話をしたのです。ガンを克服したと言っても、多くの方は休養を取り、体に神経を使っています。これに対して、知事職は激務で、スケジュールは分刻みだし、体調を維持するために休憩を多く取ったり、休んだりすることが出来ない仕事です。年齢のこともあり、病気のこともあり、その激務が務まらないのではないかと真剣に懸念し、そうしたことを想定しないで立候補したとしか思えません」と答える。
増田氏は官僚上がりということもあってか、顔も話も地味で、人間としての魅力が感じにくい。知事職はリーダーシップやある種のオーラが感じられないと、票は集まりにくい。そうした意味で、短期決戦では、不利であることは否めない。
まして、参議院選挙で自民党も公明党もフル回転をした後で、都知事選挙に全力を挙げるという体制になっていない。これも増田氏に不利な状況である。
とは言っても、誰かを知事に選ばないといけない。
前にも書いたが、民主主義や選挙はベストの選択はほとんどない。ベターな選択をするしかないのだ。この人を選んだら、大変なことになるという人は消す。最悪な選択はしないという行動を是非してほしいものだ。
20160717
本質を理解・分析せず、国民を誤誘導するマスコミ出身者をリーダーにする愚
筆者自身も長年、大手マスコミに籍を置いた者だが、最近のマスコミの報道内容や姿勢を見ると、本質に迫り、理解し分析するということを本当にしていない。そして、そうした努力不足だけでなく、国民を誤った方向に誘導しようとする姿勢があまりにも強い。
以前も、マスコミの間違いはいくらでもあったが、今のマスコミの姿勢は意図的にそうしているような気がしてならない。そして、そのマスコミに左右されて、国民の選択が間違えるということが起きているので、マスコミの罪はとても重いと言える。
英国のEU離脱の話は以前にも書いたが、大手マスコミが報道するような、「英国民が間違えた」とか、「大英帝国への郷愁」、「お粗末な選択」ではなく、国、国民の利害を守るかどうかという判断だったのだが、そうした報道は極めて少なかった。
日本ではEU統合を理想、あるべき姿への道のように報道する新聞、テレビが圧倒的だが、事実は全くそうではない。
グローバリズムは強者の論理である。国境をなくし、経済行動が国境を越えて自由に行えるようになるということは、強い者が勝つということである。国を越えたの話では強いドイツ企業、アメリカ企業が勝つということである。
また、企業経営では、より安い賃金の労働者を雇えるので、企業にとってはとてもプラスだが、普通の国民は安い賃金の労働者に仕事を奪われ、貧困に転落し、EU統合やグローバル化が進めば進む程貧しくなるということである。
英国の投票結果だけでなく、アメリカの大統領選挙で、従来なら支持を集めにくかったサンダース議員があれだけ粘れたのは、こうした虐げられた中下位の国民の支持を集めたからである。
でも、豊かな家庭で育ち、一流大学を出て、大手マスコミで働き、30歳くらいで年収1千万円を超えるような年収を得ている記者には、中下位の人の痛みは理解できないのだ。
先の参議院選挙で、事前予想では、自民党が圧勝するということだったし、テレビの中継でも、ずっとそのトーンで報道していた。しかし、最終結果が確定してみると、自民党は思った程、票が伸びず、接戦と言われた選挙区はほとんどが野党が勝利した。
このことにも、大手マスコミはきちんと分析していないが、今週発売の週刊新潮は自民党や公明党の関係者への取材から、「自民党が圧勝しそうなので、勝ち過ぎると、安倍首相は経済政策ではなく、改憲に力を入れてしまうので、公明党が終盤にブレーキをかけ、自民党の圧勝を阻止し、丁度良いところで終わった」という分析を載せている。
極めて、納得力のある分析・説明で理解できる話である。でも、週刊誌にできて、どうして大手新聞、テレビでこうした分析、説明ができないのか、本当に理解に苦しむ。
この分析が百パーセント正しくなくても良いのである。物事が予想、予定と違う結果になった時、「何故だ」と思って、理由を探す取材をするのが、記者の仕事である。しかし、今の大手マスコミは、こうした行動が基本的に欠けているのだ。
だから、民進党の岡田代表が、「敗戦ではなく、善戦だ」と居直った時に、「違うでしょ。責任をとって辞めることを何故しないのか」という質問が出て来ないのだ。
選挙の後、あるマスコミが何故、自民党に投票したかというアンケート調査をした。その結果、安倍政権への支持と理由を答えた人は2割程度で、「野党に任せられないから」と答えた人が7割の上った。
この答えを聞いたら、野党最大の民進党の党首や幹部や責任を取って辞めないといけないのに、「負けていない。善戦した」と総括する党首、幹部が上にいる間、民進党に国民の支持は増えない。
今回の参議院選挙では、新聞、テレビなど大手マスコミは、「改憲勢力が3分の2を得るかどうかが最大の争点」とずっと報道して来た。これも大いなる間違いで、国民を誤誘導する話である。
上に書いた公明党の行動に見るように、公明党は与党で、自民党の政策には協力をするが憲法改正には極めて慎重な政党で、これを改憲政党と簡単にカウントするマスコミの姿勢は全く誤りである。
その一方で、民進党の中の議員にも改憲賛成の議員はかなりいて、今の憲法を一字一句いじってはいけないと主張しているのは共産党と社民党くらいなものである。
そして、まるで宗教を信じるように現憲法を後生大事にしている社民党はともかく、共産党は党是で、天皇制の廃止を謳っている。天皇制の廃止は憲法改正をしないとできない。また、共産党は政権を取った後は、共産主事者の独裁政治を謳っている政党である。これも現憲法ではできない話である。
つまり、共産党は基本的に改憲政党なのである。
歴史的な事実を言えば、今の憲法の制定時、国会の議論で、憲法の制定に唯一反対し、代表が「この憲法では国は守れない」と代表演説をしたのが共産党である。そうした事実にふたをして、憲法を守る政党、共産党などという演説を聞くと、この政党は信用できないと思うが、大手マスコミはほとんどこの事に触れようとしない。
共産党の話はともかく、今の国会では、今回の参議院選挙の前から、改憲勢力は3分の2どころか、圧倒的多数なのである。
ただ、憲法のどこを改正するかが人によって意見が違うので、まとまっていないだけである。だから、改憲についての議論を始める時期に来ているのである。こうした議論は始めてから、結論が出るまでに数年はかかる。時間が必要なのだ。だから、始めるべきなのである。
それを都知事に立候補した鳥越俊太郎氏は、「参議院選挙の結果、憲法改正の道が見え始めて来たので、危機感を持って、知事選の立候補した」と語っている。これなどは、全くものの本質を理解できていないことを示している。
時代が大きく変わり、中国や北朝鮮の行動、アメリカ大統領候補の言動などから、日本は自国の防衛をどう考えるか、どう取り組むか真剣に考え、議論しないといけなくなって来ている。
ということは、防衛そのものさえ、否定している現憲法では、国は守れないということであり、どう変えるかは別として、憲法を変えないと、日本は何も出来ないのに、「戦争への道」というマスコミが大好きなキャッチコピーに、国民が引っ張られているのだ。
鳥越氏は「自分はジャーナリストとして、現場を歩き、多くの物事を見て来たので、物事は理解している。だから、きちんと決断できる」と語っている。
だが、筆者が書いているように、見ること、評論することと、実行することは全く別の行為であり、求められる資質が大きく異なるのであるが、鳥越氏は全くそれが理解できていない。
長年、見て来て、自分が行動者としてもしっかり行動できるというなら、スポーツ新聞のベテラン野球担当記者は、一流のプレーヤーになれるという事になってしまう。現実には年配のベテラン記者は草野球ですら、プレーヤーとしては、レギュラーになれないレベルであることは誰にも理解できることだ。
鳥越氏はテレビに長年出ていて、名前も顔も売れている。親しみのある顔だし、話もわかりやすかったということで支持する人も少なくないという。
だが、彼と一定以上の期間付き合って来た人たちの話を聞くと、「自分の意見を持たない人」「人の意見に左右される人」という評が少なからずある。
テレビに出て話をしていても、話が抽象的で、現実にどうするという政策が見えて来ない。まして、鳥越氏は政策について、民進党や共産党とすり合わせをしていない。だから、もし、実際に当選したら、暴走するか、民進党や共産党の言いなりになるかのどちらかだと言う人が少なくない。
筆者は今回の東京都知事選挙は、都民の見識力が問われる選挙だと考える。
増田氏、小池氏ともに、正直言って、候補者として今一つである。だが、民主主義は前にも書いたが、ベストの選択ではなく、ベターな選択をする選挙であることを忘れてはいけない。
筆者が初めて選挙権を得たのは、美濃部氏が都知事に当選した選挙だった。美濃部氏は大学教授の肩書きで、昼のテレビの奥様番組で、コメンテーターとして毎日のように登場し、「美濃部スマイル」というほほえみで人気を得ていて、選挙に圧勝した。
筆者はテレビに登場する美濃部氏の顔ではなく、話の内容を聞いていて、「この人の言っていることはおかしい」と、大学生ながら、ずっと思っていた。そして、その美濃部氏が圧勝したことの大きなショックを受けたのを今でも覚えている。
「笑顔と肩書、家柄」だけあれば、当選するのかと。
東京都民は美濃部、青島氏という名前と顔は売れているが、中身のない知事に振り回された。その愚を繰り返してはならない。まして、話はうまいが、中身のないマスコミ出身者をリーダーにしたら、後で大きなツケが回って来ることになるのだ。
20160714
鳥越氏に見る、長年、記者をやって来たから判断力があるという驕り
東京都知事選挙に野党統一候補として、鳥越俊太郎氏が立候補した。
野党4党が宇都宮氏ではなく、鳥越氏を統一候補にしたのは、知名度頼り以外の何物でもなく、会見の様子を見ていても、鳥越氏は「参議院選挙で憲法改正の道筋が見えて来たのでとの危機感で、都知事選に立候補することにした」と筋違いのことを立候補の理由として挙げるお粗末さである。
会見でも質問に出ていたが、憲法改正に反対するなら、それは国政の問題であって、知事の問題ではない。そして、鳥越氏はこの質問にも満足に答えていない。
そも立候補に至った経緯は、TBSの元記者、杉尾氏が参議院議員に当選し、テレビ朝日の元記者、三反園氏が鹿児島県知事に当選したことに、大いに刺激されたようだが、「彼らが当選できるなら、先輩である自分も当選できるはず」という自分に対する過信すら感じる。
それはともかく、会見を聞いていても、「政治家としての経験が全くないのに、何十万人というマンモスの東京都の職員をリードしていけるのか」という質問に、「管理職の経験は全くないが、長年の記者歴で多くのことを見て来たから、判断力はある」という、管理とは何かということを全く理解できないトンチンカンな答えをしている。
外資系企業では中途採用は当たり前のように行われているが、一定以上の組織の責任者を雇う時は、組織をマネージして来て経験を必ず尋ね、そこでの成功、失敗の体験の有無を細かく聞いて、その話を下に、採用するかどうか決定する。
一定以上の組織を管理し、指揮するということは、それくらい経験と実績が必要で、そうした経験がない人間が知事になったりすると、かつての東京都知事の青島氏のように、何もできずに、官僚任せになってしまうか、逆に暴走するかである。
戦後の混乱期には、官僚も日本を再建しないとという意識の人が多く、日本再生に官僚は多くの貢献をした。しかし、戦後が終わり、平時になった後は、官僚が何をしたかと言えば、大蔵官僚や通産官僚の汚職事件や、大きな判断が必要な時の決定的な判断の誤りをするなど官僚任せはとても危険な行為である。未経験者を大きな組織の長にすることは、その愚を繰り返す危険性が大であるということである。
鳥越氏は「長年、記者として多くの事を見聞きした来たので、判断力はあるし、決断はできる」と答えているが、同じく長年、記者をやって来た筆者の体験から言えば、長年の記者歴は、評論家としての経験でしかない。
評論家は所詮、評論家で、プレーヤーではない。スポーツの評論家でも、スポーツマンとして、頂点を極めて評論家になった人は別として、スポーツマンの取材を長年した来た人がスポーツマンとして、一流のプレーが出来る訳がないことは自明の理だが、元記者として、ジャーナリストという肩書きがあると、本人も自分が一流のプレーヤーになれる経験を積んでいると勘違いしている人が多いし、国民も評論家とプレーヤーの違いを理解していない人が多過ぎる。
だから、理想の都知事候補という問いに、評論家の池上彰氏と答える人が少なくないのだ。彼は、世の中の事象を解説して説明しているだけであって、政治家でもないし、管理者として有能であるということでもない。この違いをしっかり認識しないといけない。
長年、経済記者をして来て、多くの企業の経営を見て来て、一流と言われる経営者達に多くのアドバイスを求められ、現実にアドバイスをしてきた筆者が、自分で独立して会社を設立して、経営者になった時、感じたことは、「自分は経営を全く理解していないかった」ということだった。それくらい、見て評論することと、プレーすることは違うのだ。
鳥越氏を野党が統一候補に担いだ最大の理由は、その知名度である。長年、テレビでコメンテーターを務めて来て、名前と顔が売れている。推薦の理由はその一点である。
だが、鳥越氏のこれまでの発言を聞いていると、戦後の悪しき民主主義の下で、教育され、育って来た、今の時代に取り残された、時代錯誤とも言える考え方が多い。
例えば、外敵から国を守るという話が出て来た時、鳥越氏は「防衛というが、日本を攻める国がどこにありますか?」と答えている。リスクマネージメントの発想がゼロで、こんな人が東京都知事になったら、それこそ、壊滅的なことになるのは必至だ。
個人の事を考えても、人はなぜ、生命保険や火災保険に入るかと言えば、その確率が何百万分の一でも、万一の事を考えて、月々何万円の出費は痛いが、リスクマネージメントで保険に入るのである。
それが、1千万人の東京のトップの知事にリスクマネージメントを知らない人が立つと考えるだけで、恐ろしいことだ。
戦後の日本では、マッカーサーの指揮下で民主主義教育が行われたが、それは極めていびつなものだった。
「人類、皆、兄弟。人種や性別が違っても、話し合いをすれば理解し、仲良くできる」「紛争も話し合いをすれば、解決する。武力は必要ない」「民主主義は最善のやり方だ」「自由は大切で、最も尊重しないといけない」 今の40歳代から70歳代にかけての人はこうした考えの下に、教育を受け、それをそのまま信じている人が今でも多数派で、特に、マスコミにはこの考えの信奉者が多数いる。でも、今では、この考えはかなりいびつで事実ではないことは、多くの人が理解して来ている。
まず、人種や宗教、文化によって、人の価値観は大きく異なる。大きな差があるのだ。
理解とは「人類皆兄弟だから、わかりあえる」のではなく、「差」を理解し、その差を意識しながら、互いに距離、溝を双方から埋める努力をすることから始まる。これを理解していない人があまりに多過ぎる。
紛争は何でも話し合いで解決するなら、イラクのクエート侵攻や、ロシアのクリミアや東ウクライナ占領は起きはしない。
戦前、日本でクーデターを起こした若手軍人が「話せばわかる」と言った、時の首相を「問答無用」と言って、銃殺したことなど起きはしない。
民主主義は最善の策ではない。次善の策なのだ。これも世界の常識である。
優秀な独裁的なリーダーがいれば、正しい認識の下、素早い決断で行動すれば、時間コストが省けて、より効率的である。
しかし、独裁はやがて、腐敗を招き、暴走へとつながる。だから、時間がかかり、コストがかかり、手間もかかるけど、次善の策の民主主義を近代国会は採用しているのである。
民主主義は金がかかるのだ。日本で国レベルの選挙をすれば、数百億円単位の金が必要だ。でも、それは民主主義を維持するために、必要な経費なのだ。だから、マスコミが参議院選挙に数百億円かかって、金の無駄だというような話をすることは、民主主義を理解せず、否定する発言なのだが、それマスコミはに気が付いていない。
また、人の利害、意見は対立する。自由な行動をとろうとすると、他の人の自由な行動とぶつかる。だから、多数決が必要になるのだ。民主主義は51%をいかに確保し、自分の主張を通すかが、重要なことなのだ。
議論し、投票をし、負けたら、多数派に従う。これも民主主義のルールなのだ。
かつて、東京都知事をした美濃部亮吉氏は「1%の人でも反対したら、私はそれを決断しない」と公言していた。この発想は、民主主義を根本的に否定するものなのだが、当時、ほとんどのマスコミは、その間違いを追及しなかった。だから、美濃部都政の時代は、都政が何もできず、止まってしまったのだ。
そして、唯一とも言えて、実行したのが、学校群制度で、これで、東京を中心とする教育はガタガタになったのだ。
話を鳥越氏に戻すと、彼は「参議院選挙で、憲法改正の道筋が見えて来たので、自分が立候補した」と語るが、マスコミ関係者や学者、野党には、憲法改正反対論者が多い。
でも、民主主義とは、51%を獲得した人の意見に従うというものである。まして、3分の2の国民が憲法を改正すべきというなら、それに従うのが民主主義である。
堂々と、憲法改正について、意見を戦わせ、国民に意思決定をしてもらうというのがルールである。過半の国民が憲法改正を主張するのに、「憲法は一字一句いじってはいけない」というのは、民主主義を否定するものである。
70年も憲法を一字一句変えていないという国は世界の主要国では、日本以外ない。時代は変化するし、変化に合わせて、法律は変えて行くものである。それを一字一句変えるなというのは、駄々っ子のようなものである。
今の憲法はマッカーサーに押し付けられたものである。これを国民に直接に問いかけをし、変えるべきところは変え、残すべきところは残す。いずれにしても、国民の民意で一度、憲法について意見を示してもらう。これが民主主義である。
民意が百パーセント今のままで良いというなら、それはそれで良い。少なくても、国民に意見を求めるということをするのが民主主義の根本である。
エリート、学者、弁護士、野党の人たちの「一字一句変えるな。改憲論議はするな」という発想は完全な民主主義否定だということに自分たちで気が付いていないのだ。
戦後の日本は70年間、戦争がなかった。それは、断じて憲法9条のためではない。日本に世界最強の米軍が核を保有して何万人も駐留していたからである。議論をする時に、感情論や「べき論」「はず論」ではなく、事実で議論をしないといけない。
パキスタンが核を保有した時、日本の学生がパキスタンに行って、核保有反対のデモをした。その時、多くのパキスタン人が寄って来て、「日本はアメリカの核の傘に守られているのに、核反対などという資格はない」と言い、日本人学生は反論できなかった。
日本の国内で行われている議論がいかに空虚であるかが、この1つの事実でもわかるはずである。
「憲法改正の流れができそうなので、東京都知事の選挙に出る」 この鳥越氏の発想がいかに時代錯誤で、ドン・キホーテ的かがわかるはずである。
20160712
テレビで名前と顔を売った人間が当選するという愚を繰り返すな
(テレビで名前と顔を売った鳥越氏の立候補)
東京都知事選挙に元毎日新聞記者でジャーナリストの鳥越俊太郎氏が野党統一候補に決まったとマスコミが報じた。そして、既に立候補を表明している弁護士の宇都宮健児氏に立候補を取りやめるように、共産党が働きかけをしているという。
初めの内に、立候補取りやめを言われた宇都宮氏は激怒したが、次第に軟化し、立候補を取りやめる模様だと、マスコミが報じている。
鳥越氏はテレビで番組のキャスターを務め、ソフトな雰囲気から人気があるので、民進党が大分前から、立候補を打診し、最初は断っていた鳥越氏も引き受ける事を決めたという。そして、鳥越氏の立候補を受けて、マスコミは有力候補だと紹介している。
筆者はこうした動きに、本当に違和感を覚える。
大手新聞の記者やテレビ局の職員として活躍したことに要する資質と、政治家に求められるものは全く違うはずである。それが、テレビで名前と顔を売った人は選挙に有利とばかりに、国会議員や県知事に担ぎ出されることが少なくなく、そして、その知名度ゆえに多くが当選している。(歴史的に記者出身者は知識や人脈で勝負していた)
歴史的に言って、大手新聞社やテレビ局の記者などマスコミ出身者が政治家になった例は少なくない。病で短期で辞めたが元首相の石橋湛山氏は経済雑誌、東洋経済の記者あがりであるし、戦後の政治では記者出身で大物政治家になった人は少なからずいる。
しかし、彼らはテレビで名前や顔を売ったということではなく、政治部や経済部の記者などの経験を通して、国会や議員に必要なこと、国会のルール、問題の処理のし方などに熟知していて、政治家に当選すれば、即、活躍できる知識や経験を持ち合わせていたから、活躍できたのである。
だが、最近の大手マスコミ出身者から国会議員や県知事になる人達の様子は、上記の戦後の記者の様子とは大きく異なり、テレビで名前と顔を売ったからということで、票が取れるはずということで担がれ、本人もそれに乗って当選しているケースがほとんどである。
今回の参議院銀選挙でもTBSの社員で名前と顔を売った杉尾氏が当選したし、鹿児島県知事選では、テレビ朝日の社員で、テレビでコメンテーターとして顔と名前を売った三反園氏が保守系の現職を破って当選をした。(美濃部、青島の愚を繰り返すな)
勿論、大手マスコミ出身者で、そこから政治家になっていけないということはない。しかし、ここ十年余りの間、杉尾氏や三反園氏のように、テレビで名前と顔を売って政治家になった人で、客観的に言って、政治家として活躍している人は皆無に近い。
ほとんどの人は、あの人は今、どこので何をしているのという状態である。
プレーヤーとしての政治家と、評論家としてのマスコミの人間では、必要な要素は異なるし、テレビで顔や名前を売ったからと言って、それで活躍できる程、甘くはないから、当然と言えば、当然のことだが。
少し古い話だが、テレビのコメンテーターとして名前と顔を売った美濃部氏が東京都知事となって、東京と東京の教育をガタガタにし、金持ちしか、一流大学に行けないという流れを作った元凶であることは歴史的な事実である。
また、放送作家として名前と顔を売り、同じく東京都知事になった青島幸男氏は知事としては全く仕事ができず、部下の局長、部長クラスの言うままに行動せざるを得なかったというのも、これまた、歴史的な事実である。
最近の舛添氏もその前の猪瀬氏も、マスコミ出身者ではないが、マスコミで名前と顔を売り、それで、都知事になった人である。そして、2人とも、知事になってみたら、欠陥品だったということがわかったのである。(テレビで顔と名前が売れている人、イコール有能ではない)
精神科医で、優れた社会分析をすることで知られる和田秀樹氏は「テレビの大罪」という本の中で、「今の世の中は、テレビによく出ている人、名前と顔を売った人は有名人で、偉い人という風潮があり、医者でも、テレビに出ると出ないとで、世間の評価は大きく異なる」と書いている。
でも、これはおかしな話である。テレビによく出るということと、優秀であるということは全く異なる事である。まして、テレビに良く出ていて、名前と顔が売れているということと、政治家として優秀であるということは、全く何の相関関係もない。
テレビで名前と顔が売れている鳥越氏と、小池百合子氏が有力な候補者だという今の状態は、都民が自分の目と耳で、判断するのを止めて、「テレビで良く見る人=優秀な人」という条件反射的な反応をしているということで、嘆かわしいことであると言える。
美濃部氏や青島氏の例を出すまでもなく、知事は間違った人を選ぶと、歴史的に大きな間違いをし、後世に禍根を残すことになる。
こうしたことをしっかり考え、都知事選では一票を投じてほしいと思う。
20160705
ポピュリズムという言葉で庶民の実態、意識を蔑視するマスコミ、学者
英国の国民投票でEU離脱派が勝利したことについて、日本のマスコミや学者は「ポピュリズム」という言葉で、庶民の感情を煽って、離脱派が勝利したというような解説をしているケースが少なくない。
こうした発想だから、「英国民は間違えた」「英国民の不始末」というような言葉がマスコミの記者から発せられるのだ。
ポピュリズムとは「一般庶民の不安や不満を煽って、既存体制と対決する政治手法」と解説されるが、筆者はこの言葉、発想にマスコミや学者の上から目線、思い上がり、庶民蔑視のスタンスを感じてならない。
確かに、一般庶民がアジテーターに左右されやすい側面はあるのは事実である。
しかし、そこには、煽られるための原因や実情があるからで、学者やマスコミが言うように、それをポピュリズムの名の下に、庶民、国民が間違った判断をしたという分析は不遜で傲慢としか言いようがない。
英国のEU離脱以外で、アメリカの大統領候補選を戦ったトランプや民主党のサンダース氏のことも良くポピュリズムの例として出されるが、アメリカの国民がアジテーターに煽られたから、彼らを支持したという認識を学者やマスコミが持っているとしたら、彼らはあまりに世の中を知らな過ぎる。
知っていて、ポピュリズムという言葉を使っているとしたら、言葉の使い方を間違っているとしか言いようがない。
アメリカでは、大学の授業料が日本の3、4倍かかり、しかも、大学生は日本と違って親に頼らず、自分でローンを組んで、借金をして大学に行くのが普通である。
つまり、卒業すれば、直ぐにローンの支払いが待っている訳で、きちんとして収入がないと、ローンの支払いが滞ってしまう。その上、この授業料のローンは自己破産でストップができないシステムになっている。
そして、カード社会のアメリカでは、多額の借金があり、支払が滞っている人がカードの使用に大きな不具合が生じ、カードが一種の身分証明書的な役割を担っているアメリカでは、授業料のローン問題は死活問題なのだ。
更に、日本と違って、公的な健康保険制度が整っていないので、普通の人は多額の保険料を支払って民間の健康保険の加入しないといけない。
アメリカの映画やTVドラマで、交通事故や急病で救急病院に担ぎ込まれた患者に対して、病院が健康保険への加入の有無を確認し、加入していないとわかると、診察を拒否することがよく描かれているが、普通の庶民は命の危険と隣合わせなのだ。
アメリカでは富の9割以上を国民の富裕層上位1%の人が所有すると言われるし、イギリスも似たような状況だという。富める者はますます富み、貧しい者はどんどん虐げられる、そして、それが親から子へと富の連鎖、負の連鎖となって行っている。
これに移民問題や日本や中国との経済競争が絡んで来るので、こうした点を指摘するトランプ氏やサンダース氏に支持が集まるのである。
これを彼らがアジテーターで、そのアジに国民が煽られていて、正常な判断ができていないということを言うのは、あまりにも世の中のこと、国民の実情を知らない、リッチな学者やマスコミの記者は、トップ1%の富裕層の仲間の人達としか言いようがない。
ポピュリズムということではなく、現状が問題なのであり、それを解決しようとしない政治にこそ問題があるのだ。
かつて学者やマスコミは、一般庶民の信頼を得ていて、彼らの言うことは多くは信じられていた。しかし、ネットで様々な情報が氾濫するようになった今の世の中は全く違う。
何か出来事が起きた時に、マスコミや学者が新聞、テレビで発言したり、書いたりすることに庶民がネットなどで「その解説は違うよ」と言っているケースが少なくない。ネットの書き込みや意見などを見ると、筆者には、一般庶民、国民の言っていることの方がまともなことが少なくないと感じられる。
最近の日本のマスコミや学者は、自分の意図によって国民をミスリードしようとしていることが少なくない。そして、それが少し意識ある人達からは見えてしまっていることに彼らは気が付いていないのだ。
1つの例で、安倍政権の安保法について、朝日新聞は憲法学者にアンケート調査したら、8,9割の学者が「安保法は憲法違反」と答えたと報じ、それが野党などの「安保法は違憲」という主張の根拠となっている。
しかし、朝日新聞はこのアンケート調査で、同じ憲法学者に「自衛隊は違憲かどうか」と聞いている。聞かれた学者はほぼ同じ比率で「自衛隊は違憲」と回答しているが、朝日新聞はこのことは全く報道しなかった。
普通の頭で考えて、素直に憲法を読めば、別に憲法学者でなくても、今の憲法は武力を認めていないのだから、自衛隊は違憲であり、安保法は違憲なのである。
むしろ、憲法上、違憲の自衛隊を、憲法を変えずに、そのままにし、なおかつ、自衛隊も必要だから、存在を認めさせようとして、「自衛のための武力は合憲」とい無理やりの説明をして来た、憲法学者やマスコミの方にこそ、問題があるのである。
その線上に立っているからこそ、朝日新聞は「自衛隊は違憲」という憲法学者のアンケート調査結果を無視し、報道しなかったのである。いや、できなかったのである。
そして、憲法学者としては知られた存在の慶応大学の元教授が「安保法に怒りを感じる」として、新しい政党を立ち上げたが、筆者に言わせれば、「自衛隊は今の憲法では違憲だから、少なくても、その部分だけでも、憲法を修正しよう」という主張をして来なかったこの元教授に、「違憲の安保法に怒りを感じる」などという資格はないと言える。
国民の7割以上の人が自衛隊は必要だと感じている。そして、同じく7割くらいの人が戦争反対である。
そもそも戦争に賛成だという人などほとんどいない。軍人ですら、戦争はないに越したことはないと、ほとんどの人が感じている。しかし、他国に侵略され、領土、領海、領空に攻め込まれた時には、守るしかない。だから、最低規模の自衛の軍隊の存在に多くの国民は賛成するのである。
この2つを共存させる方法など簡単である。
憲法9条を修正し、「戦争放棄」ではなく、「他国を侵略する戦争は放棄」に変え、「他国に攻め込まれた場合に備え、自衛のための軍隊を設立し、普段は災害などで国民が困っている時の救助活動を行う」という趣旨にすれば、大半の国民は納得し、賛成するのである。
こうしたことをせず、憲法上、違憲状態の自衛隊を継子の扱いのまま放置し、無理やり自衛隊は合憲としてきたマスコミ、憲法学者はそれだけで、国民をだまして来ただけの存在であると言って過言ではないとさえ言えるし、「憲法は一字一句変えてはいけない」と言って来た政党は、「頭がおかしい」とさえ言える。
法律は時代の変化に合わせて変えるものである。ただ、法律は人を規制し、縛り処罰するものだから、改正は慎重にしないといけないだけのことである。憲法は国の基本、根幹を示すものだけに、修正はより慎重にしないといけない。
でも、「一字一句いじってはいけない」という人の頭は、70年間、活動を停止したままなのである。
20160703
英国のEU離脱で、「支配層vs庶民の対立」を理解できない日経の記者
(俯瞰的、大所高所の視点がない日経の記者)
イギリスのEU離脱の国民投票から、1週間が経つが、新聞、テレビでの日経の記者、編集委員の発言、記事は相変わらず、「イギリスのEU離脱は間違い」「EUはあるべき姿で、推進すべき」という姿勢は変わっていない。
7月3日の日経の囲み記事で、ある編集委員は「英国の政治家、国民の不始末で被害を被る日本」という記事を書いた。編集委員は40歳代、50歳代の記者のベテランであるが、この人は2,30年の記者生活で何を学んで来たのか、いや、何も学んで来なかったのではないかとすら感じる。
戦後の日本は安全保障はアメリカに任せて、経済復興に専念し、世界第二位の経済大国にまでになった。アメリカの核の傘の下で経済だけに集中すれば良く、国民の勤勉さと政治家、官僚の指導力でここまで到達した。
しかし、そうなった後、安全保障をどうするか、国家とは何か、世界はどう動いたいるのか、地政学的に、どこの国とは利害が対立し、どこの国とは戦略的に友好国となるべきかという、国家としては当たり前の議論がほとんど行われないまま今の至っているので、40歳代、50歳代のベテラン記者がこの程度の認識なのだと思わざるを得ない記事、発言である。
まさに経済優先、エコノミックアニマルそのままの発言で、俯瞰的視点、大所高所から世の中をどう見るかという視点が欠如しているのだ。(世界の知識人は「国民が支配層にノーを言った」「EUという実験は失敗に終わった」と語る)
同じ7月3日の日経新聞は、今の世界有数の知識人と言われるイアン・ブレマー氏のインタビュー記事を掲載している。
この記事の中で、ブレマー氏は「英国民が離脱を選んだ背景は、多くの国民が国から大切に扱われず、『社会契約』が途絶えたと感じたことによる抗議という側面が大きい。投票結果はEUへの拒否であると同時に、支配階級層への拒絶を意味している」と分析している。
そして、「共通の価値観を持ち、超国家的なアイデンティーを持つというEUの野心的な実験は失敗に終わった」と断言すらしている。
7月4日の同じく日経の一面記事でフランスの歴史人口学者エマニュエル・トッド氏は「英国民が示したのは民主主義の強さである。英国が沈みそうな欧州から出て行くのは普通のことだ。英国ではアメリカ同様に格差が広がっている。離脱に投票したのは中間層の下位グループだが、グローバル化が進み、中間層とそれ以下の人にとって、苦しみが耐えがたい水準になったのだろう」と述べている。
同じ3日付の日経では、三菱ケミカルホールディング会長で経済同友会代表幹事の小林喜光氏が「今回の投票結果は、金融資本主義とグローバリゼーションに潜む格差社会の矛盾が現れたと思う。経済界はグローバル化を掲げてきたが、その従来のものさしでは通用しなくなっている」と述べ、そして、「今回の出来事は『歴史的な転換点』という捉え方をすべきだ。グローバル化で人口の1%が世界の富の多くを握る社会が出来たが、民主主義という数の論理の前に崩壊しつつある。英国の国民投票はそれに気づかせてくれた」と言っている。
こうした優れた分析の記事を掲載する一方で、多くの記者、編集委員が「英国のEU離脱は間違い、不始末」「直接民主主義は危険で、重要な問題は議員が時間をかけて議論し、結論を出すべき」というような、本当にお粗末な記事を掲載し、テレビで発言し、自分の見識の無さに気付いていないのだ。(「社会契約違反」ということをしっかり理解すべき)
ブレマー氏が言っている「社会契約」ということを日経の記事は説明をしていないが、話は簡単である。国民は普段、仕事に忙しく政治に多くの時間を割くことなどできない。だから、間接民主主義で政治家に代理で統治を任せている。
しかし、それは政治家が自分たちがより幸せになる行動をとることを前提に統治を任せているという「社会契約」の上での話で、政治家や官僚が国民がよりよい生活を送ることができなくなる行動をとるなら、「契約違反だ」として、政治家、官僚にノーを言うということである。
今回の英国のEU離脱は正に、過半の国民にとって、政治家、官僚の行動は「社会契約違反」であり、だからノーと言ったのだということである。だから、「さすが、民主主義国のイギリス」という発言となるのである。(グローバル化は弱肉強食の推進)
前にも書いたがEUが元々スタートしたのは、石炭や鉄鉱石が取れる産地を巡って領土争いが起き、それが二度にわたる世界大戦の原因になったという反省から、これらの土地の共同管理から始まり、欧州は経済統合をして、アメリカや日本に対抗しようというECという話だった。
多くの欧州諸国の国民にとって、それは理解できる話であり、反対する意見は少数派だった。だが、それが政治統合というEUに向かい出したことから、話の質が変わったのである。
EU議会で決め、選挙で選ばれていないEU官僚が次から次へと、色々な規則、ルールを決め、加盟各国にそのルールを実施するように命令するという今の図式を、多くの国民は「そんなことを、我々は任せた覚えがない。まして、社会契約違反の状態となれば、尚更である」「選挙で議員を更迭できないEU議会がものごとをどんどん決めて行くことは、反民主主義である」と考えるのである。
今回の英国の離脱の前から、上記のトッド氏は「EUはドイツ1か国に利するシステムであり、早晩矛盾が表面化し、崩壊する」と予言していた。トッド氏は歴史的な視点からものごとを分析していて、ソ連の崩壊もいち早く予言し、事実はその通りなっている。
戦後の日本は、歴史を大切にし、歴史の教訓から学ぶということをずっと軽視して来たので、このトッド氏のような考えを、ベテランの記者すら理解できないのである。
グローバル化は世界で規則を統一し、基準も同じものにするということである。
一見、良い事、効率的、便利なことに思える。だから、制限なしにEU内を自由に行き来できる現状を18歳から24歳の若者は歓迎し、残留に賛成の票を投じたのである。
しかし、グローバル化はそれは強いものは勝って、より強くなり、弱い者はどんどん弱って行くという弱肉強食の世界でもあるのだ。だから、富の9割以上をトップ1%の富裕層が持つという社会の出現となったのである。
家族の生活や、自分の仕事などを考えるようになる30歳以上の人にとって、「EUは何か違うのだ」と感じて当然なのだ。
イギリスのEU離脱は、戦後、日本、欧米が推進して来た、民主主義、グローバル化が実は圧倒的多数の国民ととって、幸せなものではなく、今のと違う、新しい形の別の民主主義の採用を考える絶好の機会を与えてくれたのである。だから、「さすが、民主主義発祥の国イギリスの決断」ということになるのだ。
決して、日経の記者が書く「不始末」でも、「間違い」でもなく、小林氏が言う「歴史の転換点」を表すものなのだ。外部の識者からはそうした分析が出ているのに、どうして、そうした認識に気付かないのか不思議でならない。
20160628
EU問題で、民意、民主主義を冒涜する日経の記者
(英国民は愚かだと言っている日経の記者)
英国のEU離脱について、日本の新聞、テレビは大きく報道しているが、この中で目につくのが、日経新聞の記者、編集委員の新聞紙上での原稿、テレビに出てのコメントであり、民意、民主主義を全く理解せず、冒涜とも言える発言、原稿のオンパレードである。
EU離脱が決まった日の翌日の朝刊で、日経の編集委員は「国民投票はその時の勢いに流されやすく危険である。重要な問題は国民投票ではなく、国会などで議員が時間をかけて議論し、決断すべきである」という趣旨の原稿を掲載した。
書いた編集委員もさることながら、この記事を掲載することを了解した編集長も含めて、日経の記者、新聞社は「民主主義とは何か」「民意とは何か」ということが全くわかっておらず、「国民はバカだから、間違った判断をする。だから、良識のある議員が議論して、重要な問題は結論を出し、国民はそれに従うべきだ」と国民蔑視、国民は愚かだと上から目線で言っていることに全く気が付いていない。信じられない暴論とも言える記事である。
テレビ東京には多くの日経の編集委員クラスが出てコメントをしているが、ある人間は、「英国人は歴史に残る間違いをした」「残留がほぼ確定ということで、残留派の多くの人が投票に行かず、こんなひどい結果となってしまった」というような発言をした。7割以上の人が投票に行っているのに、それを無視してこんなことを言っている。そして、彼に限らず、テレビに出ている日経の記者は多かれ少なかれ、同じような主義の発言をしている。
オウム真理教のサリン事件の時、旧帝大卒の教団幹部が「貧しい人間はこの世の中に生きていても仕方がないので、ポア(殺してあげる)ことが本人のためであり、教団はその人の救済という意味で、サリンを撒いた」という趣旨の発言した。
この時、筆者は旧大蔵官僚(現在の財務省)の数人の若手幹部とこの件について、話をした。筆者と顔なじみで、気安いいということもあったのだろうが、これらの官僚は真顔でこう言った。「オウムの幹部の言っていることは理解できます。国民はバカだから、我々大蔵官僚が重要な事は考え、決めて、国民はそれに従ってもらうのが良いのです」 日経の記者も大蔵官僚も、民主主義、民意というのが全くわかっていない。もう一度、ゼロから民主主義を勉強し直してもらいたいとさえ思う。
民主主義は主権者である国民が、その多数の意見でものごとを決めて行くことである。その決定が時には間違っているかもしれない。でも、たとて間違いでも、決定は国民がするのである。そして、もし間違った時には、その痛み、不都合を甘受し、次から同じ間違いをしないように学習していくのが民主主義である。
良く言われることだが、「優秀な独裁者がものごとを判断し、決定し、実行に移していくのが一番効率的である。しかし、独裁者は例え、登場した時は優秀で優れた判断、行動をしても権力の座は甘美で、やがて腐敗し、堕落し、国や国民を間違った方向に引っ張って行き、時には国が破滅するようなことになるので、例え、非効率でも、次善の策として民主主義を近代国家では採用しているのだ」である。この民主主義の原理原則がまったくわかっていないのが、日経の記者達である。
そも、今回、なぜ、過半数の国民がEU離脱を選択したのかという基本的な事について、日経の記者は全く理解していないし、ほとんど分析をしていない。
英国民を今回の結論を出した理由を一言で言えば、EUについての反発、拒否感である。
日経の記者は「EUは素晴らしいもの、向かうべき理想」」という前提で話をしている。しかし、イギリスだけでなく、欧州の他の加盟国の国民の間に、EUに対する反発、拒否感が多く存在する。
その最大の理由は、「自国の議会なら、国民が選挙権を持って、自分たちの意思で議員を選び、その選んだ議員が議論して決めることは、自分たちが選んだ議員なのだから、多少異議はあっても、問題があれば、次の選挙で落選させればよい。でも、EUは自分たちが選んだのではない議員やEU官僚が勝手の法律や規則を決め、それを加盟国に押し付けて来る。我々には選挙権も、拒否権もない。これはおかしい」ということである。
EUに多くの問題があり、やがて、EUは瓦解するということを言っている学者や識者は少なからず存在する。彼らの主張の第一は上記の、民意を反映していなくて、大企業、ドイツ、大手金融機関、上位5%の富裕層にとって良く、一般国民には必ずしもハッピーでないことを決め、実行しているということである。
日経の記者はこうした本などを読んでいないのだろうか。もし、読んでいないで、「英国民は間違った判断をした」というような発言をしているとすれば、あまりに不勉強だし、記者失格である。
読んでいて、そうした発言をしているのなら、こうした意見に全く触れずにコメントしていること自体、記者としてあってはならない行動である。
今、大手マスコミの記者になろうとすると、上位の大学を出ていないとまずなれない。そして、上位の大学に入るには、子供の時から塾に通い、勉強をして、有名中高に入らないと難しい。
だから、日本の大学の学生の親の年収を調べると、東大が親の平均年収は1500万を越えていて一番で、京大が二番という結果となり、早慶や関西の関学、同志社の学生の親の平均年収は千万を越えている。関西の立命館でも親の平均年収は千万を越えているという。
こうした裕福な家庭で育ち、上位大学に入って記者になった人間は、富裕層の人間である。だから、国民の痛み、苦しみが理解できないのである。
こう考えないと、今回の日経の記者たちの記事やコメントは全く理解不能である。
消費税の導入についても、日経の記者、編集委員が書く記事はいつも、財務省べったりのもので、「消費税は必要」の一色である。これも、消費税が一般国民にどういう影響を与えているかを理解できない富裕層だからこそ、そういう論調になるのかとさえ感じさせる。
20160308
事前は大カラ盛り上げ、事後は辛辣な批評。おかしなスポーツマスコミ
オリンピックのアジア予選で惨敗した女子サッカーチームについて、今になって、マスコミは佐々木監督と選手の間がうまく行っていなかったとか、選手間のコミュニケーションができていなかったというような事を書いている。
書いている内容を読むと、4年前のオリンピックの直後から監督と選手の間で対話がなく、意志の疎通ができていなかったという。
試合が終わった直後にこうした原稿やコメントが出て来るという事は、マスコミの担当記者は既に知っていたということなどなどなろうが、事前の報道は、日本が予選を突破できて当然というような報道で、問題点の指摘などは全くなかった。
今回の女子サッカーだけではない。オリンピックで日本人の有力選手が振るわなかった時に、直後に、体に故障があったとか、スランプだったというコメントが良く出て来る。これらも担当記者は知っていて、国民に知らせず、「金メダルが当然」というような大々的なカラ盛り上げ一色で、実態を知らない国民はそれを信じて期待をし、そして、裏切られるということが何回もあった。
女子サッカーと平行するように行われた卓球の世界選手権でも、新聞の書き方も、中継しているテレビ局のアナウンサーも、「何十年ぶりの金メダルが十分狙える」と、実態とかけ離れたありもしない、カラ盛り上げをしていたが、結果は、男女とも中国に完敗だった。
日本のスポーツマスコミはどうして、こんなバカげた事を繰り返すのだろうか。
卓球については、男女とも中国がオリンピックや世界選手権など世界大会で過去何年も負けなしで優勝をしているのは、少し卓球をかじった人間なら誰でも知っている。
世界のランキングでも、男女ともベストテンの上位はほとんどが中国人で、日本人は数人が入っているだけである。オリンピックの金メダリストやランキング1位の中国人選手に、世界のランキングが二十番台や十番台の日本人の選手が対戦している時、アナウンサーや解説者が「頑張れば、勝機はありますよ」なんてコメントを言っているのを聞くと、筆者などは「なんて寝言を言っているのだ」と噴出してしまう。
今回の卓球の世界選手権は、数年前まで全く歯が立たなかった中国人選手に、女子の場合は、日本人選手が善戦出来る位まで努力して上がって来たというのが正しい位置づけである。
男性の場合は、運よく決勝戦まで進んだが、中国人選手との間の実力差はまだ大分あるというのが実態である。そうした前提で報道したり、中継したりすれば、選手は銀メダルを誇りに帰国できるのに、「金メダルだ」と大々的カラ盛り上げをするから、銀メダルが霞んでしまったという感じである。
テニスの錦織が世界ランキングが4位になった時、日本のスポーツマスコミは「世界の4大大会での優勝が期待できる」と囃し立てた。
しかし、錦織を育てたアメリカのテニススクールの経営者は、「テニスでは上位3人とそれ以外の選手の間には大きな差がある。特に1位のジョコビッチの強さは他の選手と差があり、錦織が4大大会で優勝などということは、まず当分あり得ないことだろう」と新聞に原稿を書いていた。
そして、彼の予想通りに、錦織は上位3人の選手には歯が立たず、4大大会での優勝はまず、当分はあり得ない現状である。
スポーツ解説者が事前のテレビ番組で、日本人選手やチームの現状について、厳しい事を言うと、テレビ局のプロデューサーから「盛り上がらない話をしないでください」と注文が入り、現状を厳しく言う人は次第に声がかからなくなって来るという。
だから、サッカーでも卓球でも何でも、解説者が解説ではなく、応援団長的な話に終始している。そんな話なら、解説者など不要なのに。
筆者は、そのテレビ局の姿勢は間違っていると思う。
ほとんどの一般日本人は、日本人選手や日本チームが頑張って良い結果が出て欲しいと思っていると思う。しかし、だからと言って、現状の問題点や、客観的な実情を国民に知らせず、大々的なカラ盛り上げをするような報道の仕方は、マスコミとして、国民に劣勢の事実を知らせず、悲惨な敗戦に追い込まれた先の世界大戦と同じ姿勢であると言える。
きちんと実情を知らせ、その上で、実力差がある場合でも、善戦した選手を称える、それがスポーツマスコミの真の姿であるのではないだろうか。
20160303
うるさく、下品で、媚びを売るTVCM
日本のテレビ番組が先進国の中で、最も質が悪く、スタジオに少し顔の知れたタレントを何人も並べ、そのコメントで番組を組み立てるという方式で、どうでもよい井戸端会議のような内容を放送しているとは、日本に少し長くいる外国人から良く言われるコメントだが、筆者は最近のTVCMのあまりのひどさに驚くというよりも笑ってしまう感覚にさえ、なっている。
だから、テレビを見ている時は、手元にリモコンを置いていて、CMになると、音を消すようにしている。音を消せば、下品な声は少なくても聞かずに済み、不愉快さが軽減されるからである。
最近、TVで流されているCMは筆者の分類では、大きく言って、4つのタイプに分かれる。
1つは、健康食品や化粧品などのCMに多いのだが、利用者の「使って良かった」という声を、その人の顔出しで言わせているもの。2つは作っているサイドの人間はユーモアのつもりなのだろうが、悪ふざけに近い感じで、消費者を笑わせて、印象付けようとしている下品なCM。
3つは可愛子ちゃん系の女性を使って、媚びを売る感じで、商品を勧めるもの。そして、4つ目は声優の甲高い声で、商品の良さを絶叫するCMである。
1番目の利用者の顔出しで良さをPRするCMは、CS放送で多用された手法だが、最近は地上波やBSでも良く見かけるようになって来た。
CS放送は、番組の途中にCMを流さないことが基本なので、1時間の時間枠の中で、番組が46,7分で終わってしまう。このため、十数分が残される。地上波の普通のCMは15秒、30秒で作られ、長いものでも1分なので、普通のCMを流していては、とても時間がもたない。
加えて、有名タレントをCMキャラクターに使うと、何千万円の金がかかる。スマップを使うと、1人1億円、5人で5億円かかる。これが商品の利用者を使うと、商品をプレゼントするくらいで、ただで出てくれるから、安上がりなので、この手法が多用されるのだ。
こうした理由で、商品の利用者に、使ってみての良さを延々と語らせたり、化粧品なら、使ってみて、前と後でこんなに変わりましたという変化を、利用者の顔でPRするようなやり方が使われるようになった。
このタイプのCMを流す会社の宣伝担当者は本当に能がないと思う。というのは、どの商品も商品名と利用者の顔こそ違え、全く同じパターンなので、他社の商品との差別化が全くできず、頭にその商品の良さがまったく残らないことである。
そして、多額の金をかけて、他社と同じの工夫のないCMを流すことを認める経営者の見識の無さを考えると、とてもその商品を買おうとは思えないのである。
2番目のタレントと使って、ふざけた感じで笑いを誘おうというCMは、ストーリーや内容がとても笑えないから、ひどい出来なので、そうした意味で三流の喜劇となり、その場面が映っただけで、チャンネルと変えてしまうひどさだ。
3番目の可愛子ちゃんタイプの女性や女の子を使ってのCMは、媚びを売る感じで、見ていてとても不快である。というのは、制作者のテレビ関係者が、「消費者は、こうした可愛子ちゃんを出せば、うれしがって見てくれ、商品も買ってくれるはずだ」と上から目線で、消費者の趣味の悪さを笑っている様子が透けて見えてしまうからである。
何よりも、使っている女性タレントや女の子の選択の目がひどいのだ。上方志向が強く、中学、高校時代はスケバンであったか、いじめっ子であったであろうという事が見える目つき、態度なのだ。
4番目の声優が甲高い声で、製品の良さを絶叫するCMも少なくない。
CMを作る人は、テレビに関係する仕事をしている人間である。それだったら、どうPRしたら、視聴者の心や頭に記憶が残り、商品の購買に結び付くか考えるプロでないといけないはずだが、甲高い声で絶叫されると、うるさいと感じるだけということがわかっていない。
CMだけに限らないが、日本の声優の声のトーンは概して、甲高い。外国のドラマなどで、吹き替えのものを見ると、吹き替えをしている日本人の声優のキーが高く、原語で聞くと、多くのケースで元の俳優の声のキーが低く、心に響くような話し方をしているのとの差に驚かされることが多い。
声優は声で商売をする音のプロのはずなのだが、日本の声優は本当にキーが高いのだ。欧米では、俳優や歌手は低温で話したり、歌ったりする方が受けての心に響くという指導を受けるが、なぜか知らないが、日本は違うのだ。
こうしたひどいCMを数多く見せられていると、映像をバックに、渋い声の俳優が淡々と語りかけるCMに出会うと、そのCM提供会社のセンスの良さを感じて、その商品を買ってみようと思うのは、筆者だけなのだろうか。
筆者自身、企業の責任者としてCM作りをし、その年の優秀賞を受賞した経験を持っているので、CM制作に関わる広告代理店や、制作担当者などとは、色々な議論をした。
企業の責任者がしっかりした考えや意見を持っていないと、広告代理店の担当者は、「これが今の流行りです」とか、「こうしたCMなら、商品が売れます」と言って、彼らの論理や作ったものを押し付けられてしまう。
筆者の意見では、CMは何回も流されるので、飽きないこと、不快な感じを受けないこと、そして、ふっと笑みを浮かべたり、何度見ても悪い印象が残らない内容であることが大切である。
「この人、何歳に見えますか?」という問いかけで、年配者の顔がアップになる化粧品のCMを何回も流している会社の担当者など、CMは一回しか見ないものという感覚しかないのだろうと思ってしまう。
また、番組の内容、視聴者のタイプと、CMの製品や会社が全くそぐわないケースが少なくない。こうした時も、担当者のセンスを疑ってしまう。
20160206
犯罪、パワハラを野放しにするテレビ東京の異常さ
テレビ東京の人気番組「なんでも鑑定団」で、テレビ東京の下請けの制作会社のプロデューサーが、番組収録時には色々話をしている出演者の石坂浩二の発言部分を2年以上にわたって、ほとんどカットして、自発的に番組を降板するように圧力をかけていた問題は、週刊誌などが取り上げて騒ぎとなっている。
この問題でテレビ東京は「なんでも鑑定団」から石坂浩二を降板させる代わりに、BS放送で他の番組に出演させるという事で幕引きをしたという。
しかし、この問題について、テレビ東京は一貫して、番組にプロデューサーと出演者のもめ事という姿勢で、問題が発覚した後も、社長の会見でもまるで、他人事という感じの感覚で終始している。
テレビ局も新聞社もマスコミである。マスコミは政治家や経営者、芸能人などの問題については、厳しく批判するのに、自分の事については、甘いということは今までにもあったが、今回のテレビ東京の対応はあまりに異常で、お粗末すぎると言える。
筆者は石坂浩二のファンでも何でもないが、これは石坂浩二とプロデューサーの問題ではなく、もっと大きな問題なので、あえて発言する。
この番組の担当プロデューサーの態度はパワハラ以外の何物でもない。パワハラとは、権限を持っている上司、目上の人間が、部下、目下の人間に、その権限を不当に行使して、嫌がらせをする事であり、犯罪である。
パワハラやセクハラはアメリカで大きな問題となり、今では、その行為をした人間だけでなく、その行為を放置した会社や組織の責任を問われ、多額の賠償金を支払わないといけなくなっている。
アメリカだけでなく、今では、日本でも同じように問題として取り上げられるようになってきて、上場企業などでは、組織内でそうした問題が起きないように監視、指導し、問題が起きると、起こした人間を左遷、更迭するなどの対応をしている。
しかし、今回の騒動でのテレビ東京の対応は、問題のプロデューサーの行為がパワハラだという認識が全くない。そして、パワハラの被害を受けた石坂浩二の降板というだけで、プロデューサーには一切お構いなしという事で処理をしようとしている。
問題意識の欠如は異常としか言いようがない。
テレビやラジオでは、出演者は余程売れっ子で、テレビ局やラジオ局がペコペコするような相手以外だと、制作担当者が上位に立って、嫌がらせや、セクハラ、パワハラ的な行為は日常茶飯事であるという話は良く聞く。セクハラ、パワハラは行為が特定しにくいので、どうしても、問題が表面化しにくい側面がある。
しかし、今回の鑑定団の話は、当事者の証言から、異常なパワハラだと明確になり、当のプロデューサーの行為もさることながら、その行動を2年もの間、放置し続けたテレビ東京の責任は重大で、このプロデューサーの更迭は当然の事として、更に、テレビ東京の担当プロデューサーとその上司の部長、局長クラスの人間の責任まで明確にするなどきちんと処分をしないといけないのに、そうした行動が全く見えて来ない。
今回の騒動で、当事者の証言から、当のプロデューサーは石坂浩二に対するパワハラだけでなく、鑑定士に対しても、他の番組に出ない事を命令していた他、話を面白くするために、鑑定の中身にも横やりを入れ、1億円の価値しかない鑑定品に、何倍もの価格をつけるように、鑑定士に強要をしたり、逆に数万円の価値がある品に千円くらいの値をつけさせたというような横暴な行為も明らかになっている。
これはパワハラとは別の話で、番組制作上の大問題で、番組制作審議会などで取り上げ、テレビ東京が謝罪をし、当事者の処分をしないといけない話である。でも、見ていると、そういう方向に話が進んでいない。当事者の問題意識の大きな欠如が、事態の放置という事につながっていると言える。
これだけの問題にも関わらず、テレビ東京が何もしようとしないのは、「なんでも鑑定団」が視聴率を稼ぐ、人気番組だという事が最大の理由と言える。
でも、番組がヒットしたのは、このプロデューサーの腕が良かった事だけが理由ではない事をきちんと認識しないといけない。
元々、骨董品を鑑定するという番組は、イギリスのBBCの番組にヒントを得たことにあり、テレビ東京やこの制作会社の独自の発想ではない。
そして、番組をヒットさせるにあたっては、ずっと長く司会を務めた島田紳助の頭と舌の回転の良いトークがあり、骨董品に対する知識で、その島田の話を補完した石坂浩二の存在があった。更に、個性的な鑑定士たちの存在もヒットの大きな要素だった。
今回の騒動の問題プロデューサーの傲慢さは、番組のヒットはこうした多くの人の存在があっての事なのに、自分一人でヒットさせたという勘違いから起きている。
そして、人気番組であるがゆえに、それを制作する会社もテレビ局に対して発言力を持ち、テレビ局が及び腰になっているという図式が今でも続いているのだ。
こうした異常さをただすのは、マスコミとしてのテレビ東京、嫌、その社長の、大きな問題なのだという認識以外にない。テレビ東京は日経新聞の子会社で、歴代の社長はその多くが日経から天下って来る。
日経での出世競争に敗れて、本体の社長になれなかった人間が据わる椅子で、だから、自分の在任中は何もしないで、じっとしているというパターンが多いという。
そうだとしても、今回の騒動は、何もしないで、済ませるという話ではないのである。
20160810
言論の自由を一番侵害している新聞、テレビ
新聞もテレビ局の記者、コメンテーターも二言目には言論の自由を言う。少し前に、高市総務大臣がテレビ局の偏向報道を問題にして、テレビ局に課せられている言論の中立性に言及したら、新聞もテレビも高市大臣の発言を大々的に取り上げ、問題だと攻撃した。しかし、新聞もテレビも自らの言動を振り返った時、大臣の発言を問題にする資格はないというのが実情だ。
新聞はともかく、テレビは公共のものである電波を独占的に、しかも、ただ同然に利用している。だからこそ、テレビ局は報道の中立性が義務図けられている。
しかし、度々問題になるTBSの「ニュース23ショー」「関口宏のサンデーモーニング」、テレビ朝日の「報道ステーション」を筆頭に、特にTBSとテレビ朝日の報道番組は、関連会社の毎日新聞、朝日新聞の影響かどうかは知らないが、その報道の偏向ぶりが目立つ。
この2つの局は、先の東京都知事選挙でも、終盤の報道で、有力3候補の話を伝えながら、最後の候補者本人に一言言わせた場面で、小池候補にはほんの一言言わせ、鳥越候補にはその倍以上の時間を割いて、主張を放送したが、増田候補の話はカットした。筆者はこの放送を見ていて唖然とした。
テレビ局での選挙報道は、神経を使い、候補者の話を放送する時、時間や内容に差がついたり、突っ込まれたりする部分があってはいけないとして、編集段階でストップウオッチを持ちながら、ぴたりと同じ時間にするし、画像上も差が出ないように気を配ることが求められている。
しかし、都知事選挙でのTBSとテレビ朝日の姿勢は、そんな事には全く頓着せず、上記のようなことをしたのだ。それでいて、どのマスコミも監督官庁の役所も、それをおかしいと言わない。言われないから、構わないとばかりに、偏向を偏向を続けているという循環が続いている。
ヘイトクライムを取り締まる法律が出来た。
ヘイトクラム自身が良いとは思わないが、ヘイトクライムの定義自体が極めてあいまいで、本来なら、新聞、テレビはこうした言論の自由を弾圧する法律に反対しないとおかしい。しかし、今の日本では、新聞もテレビも、信じられない事に、こうした言論を縛る法律の制定にむしろ賛成なのである。
テレビ局の報道番組では、テレビ局の記者やアナウンサーの他に、コメンテーターと称する人が登場して、色々意見を言う。この時も、意見が分かれている話については、賛成派、反対派の双方の人を出さないといけないのだが、テレビ局では、片方の意見の人しか出さないケースが目立つ。
安保法でも、原発問題でも、何でもそうである。
上記の「サンデーモーニング」「ニュース23ショー」「報道ステーション」などでは、登場するコメンテーターが皆と言って良いくらい、反政府、親野党主張をする。
反政府、親野党の人が国民の間に多いということではないのは、参議院選挙などの結果を見てわかる。でも、テレビでは反政府の意見しか伝えないのだ。まず、反政府の話をしそうな人を選んで出演させる。そして、特に反政府でもない出演者には、番組の本番前に、番組のディレクターから、「○○の問題については、こうしたトーンで話をしてください」と注文をつける。
本番で、その指示通りに話をしないと、次から出演の依頼が来なくなるという話は、評論家などの肩書でテレビ番組に出ている人、何人もが本や雑誌に書いている。
医師で、鋭い世相分析をしている和田秀樹氏は、その著書で、「政治、経済など専門知識が必要な問題で、そうした分野に全くの素人の芸能人やタレントなどに、あたかもそれが国民代表の意見のような感じで、話をさせるのは、おかしい」と書いているが、筆者も全く同意見である。
和田氏は精神科医の立場から、テレビ番組の一般の人に与える影響に言及しているが、テレビの番組は本や新聞よりも、一般の人に与える刷り込み効果が大きく、そうした意味でも、放送内容には厳しい監視が必要だという。
筆者は、テレビ局の報道番組では、司会者もコメンテーターについても、資格制度を導入すべきと考える。政治、経済、社会問題、文化、イスラム問題、何でも良いが、その分野で一定期間、研究や調査をして来た人でないと、その問題について、コメントをしてはいけないというようにするのだ。
そうした経験がなくても、興味があって勉強している人もいるから、そうした人には、それぞれの分野についてのテストを受けさせ、一定の知識がない人にはコメンテーターや司会者の資格をなくするのだ。
芸能人が、テレビに出て、時事問題について司会をしたり、意見を言ったりするようになったのは、名司会者として一時、多くの番組を持った島田紳助氏の登場が大きな影響があったと言える。
彼は高卒で、特別、報道についての経験や知識があった訳ではないが、今はなくなったテレビ朝日の番組「サンデープロジェクト」の司会をして、その明晰さが認められ、活躍するようになった。
筆者もこの番組に出たことがあるが、島田氏は担当のプロデューサーが感心するくらい時事問題について勉強していたし、事前の準備もしっかりしていた。
そうした意味では、島田氏は資格制度が出来ても、有資格者だったと言えるが、今、テレビ局で芸能人が報道系の番組で司会やコメンテーターをしているのを見ると、どうしてこの人がというのが多い。
コメンテーターだけでなく、司会者にも資格制度が必要なのは、何かの問題について、ゲストを呼んで話を聞く時、司会者がしっかりした見識を持っていないと、ゲストの話に突っ込みが出来ないから、ゲストの言い放しになってしまい、ゲストのPR番組になってしまう危険性があるからだ。
欧米のテレビ番組では、何か事があった時、専門家を招く。その専門家は、その分野の問題について、本を何冊も書いたり、書く知識を持っているような人である。
しかし、日本ではそれが極めてあいまいで、好い加減なのだ。
大学教授という肩書の人に、政治、経済の話について、コメントさせているが、その人の専門は「江戸文化」であって、政治や経済の専門家ではないのに、大学教授という偉そうな肩書で、ディレクターの考える通りの意見を言わせていたりする。
今の日本で、一番名前と顔が売れている評論家的な人は誰かと言えば、池上彰氏であろう。
書店に行けば、彼の本が十冊以上並んでいるし、テレビで彼が登場しない週はないという感じである。言ってみれば、どんな問題でも、彼が解説し、テレビ局は彼の御高説を有り難く放送している。日本を代表する国立大学が教授の肩書まで与えて権威づけている。
だから、都知事選挙で都民に都知事に相応しい人というアンケート調査をしたら、上位に彼の名前が出ていた。でも、筆者は、これも異常なことだと思う。
池上氏はNHKの社会部の記者だった人で、政治、経済、ましてはイスラム問題やアメリカ政治の事など全くの門外漢である。それが、書店に並んでいる彼の本やテレビの番組ではそうした話について、堂々と解説をしている。
筆者も本を20冊以上書いているが、本を1冊書くには、当事者の話を聞くだけでなく、関係の本を十冊以上読まないと怖くて、本など書けない。
書店に並ぶ、数多くのテーマの彼の本が出来上がるには、その分野の事を真剣に勉強しなければならないし、一定の知識と見識を持つには、膨大な時間とエネルギーが必要なはずである。
それをいとも簡単に本や番組がいくつも出て来るところに、怖さがあるのだ。
その分野を専門に何年も研究したり、取材をして来た人でない彼のような人が解説したり、本を書いたりしようとすると、何人ものアシスタントに関係の本を読ませ、そのエッセンスを書いたものを彼が読むなどして、本を書いたり、テレビで解説するか、または、アシスタントが原稿まで書いて、彼は目を通すだけという感じになっているとしか思えない。
自分自身、その分野の専門家ではないので、本当の意味での問題点や、通常言われていることと、実態は違うというような時など、その点に気がつかない。だから、通説の解説になるのだ。世の中には通説が間違っているという事が少なくない。でも、彼はその通説を広める役割を果たしているのだ。
彼がテレビに頻繁に登場するようになったのは、わかりにくい話をわかりやすく説明するという技術に長けているということがきっかけだった。NHKで「子供相手のニュース番組」で説明をしていて、その技術がフリーになって、民放で活用されているのだ。
だが、彼は政治の専門家でもないし、経済、経営の専門家でもない。筆者の専門は経済、企業経営で、40年以上取材もし、勉強もして来たが、こうした分野についての、池上氏の解説には、首をひねる内容が結構ある。
池上氏がそのアシスタントとともに、一生懸命本を読むなどの努力をしていることは認める。しかし、だからと言って、まるで、「池上教」の教祖のような取り上げ方をするテレビ局や出版社に態度に問題はないか、はなはだ疑問である。
テレビが作りだした偶像がいかに好い加減なものであるかは、先の都知事選挙に立候補したジャーナリストという肩書の人間が証明したし、ハーフの経営コンサルタントとして、テレビでコメンテーターで多くのを解説していた人間が、実像は全くそうではなく、経歴も仕事も嘘だったという話などから理解できるだろう。
偶像を作り上げる事は、言論の自由を侵害することよりも、もっと恐ろしい事である。それは、その偶像が独り歩きし、強大な影響力を持つようになるからである。
20160808
価格未定で広告を打つ新築マンションの怪
超低金利の時代で、銀行の住宅ローンが史上最低ということもあり、今は不動産ブームで、銀行も建設会社も庶民に不動産を買わせることに血道をあげている。預金者からの預金の貸し先がない銀行では、住宅ローンは高額の融資物件ということで、不動産ローンの残高が異常に膨らんでいるという。
筆者が初めて不動産を持とうと思って、中古の戸建を買った数十年前には、銀行の住宅ローンは8%、9%が当然で、十%と2ケタの金利も珍しくなかっただけに、今の1%、2%の銀行ローンは正に隔世の感がある。
ただ住宅市場の先行きは、銀行や不動産会社が宣伝するような、「今が絶好の買い場」ではなく、今が「日本での最後で、最大の不動産バブル」で、今後は数年内にバブルの崩壊が起きると、多くの専門家が指摘をしている。
考えてみれば、当然で、不動産を買いたいと思う若い世代は、人口そのものが少なくなっている上、少子化で、一軒の家での子供の数が減っているので、自分で無理してローンを組んで、マンションや戸建てを買わなくても、親の家やマンションがやがて自分のものになる。運の良い若者夫婦の場合、互いの両親の不動産をともに相続することが確定などという例も出て来ている。
我々世代は、東京では通勤に1時間以上かかるのは当然で、郊外に家を買うことが当たり前だったが、今の若い世代は、遠い郊外の家に住んでは仕事にならないと考え、親の家が郊外にあり、そこで家賃なしに住める場所があるのに、会社までの時間が3、40分の東京区部の狭いマンションやアパートを借りて住むという若い世代もかなりいる。
だから、筆者が長く住んでいた東京郊外の、高級住宅地として多少は名前も知られた地区では、ここ十年くらいで、60坪くらいの中古戸建の家が平均で1千万以上値下がりしている。
筆者の家があったところは、駅まで徒歩で10分以内だったので、まだましだが、駅からバスで10分もかかるようなところでは、買った時に、7,8千万円した戸建住宅が、今は半値でも買い手がつかない地区まで出て来ていると少し前に日経新聞が書いた。
こうした郊外の不動産価格の崩壊はやがては、区部にも波及し、異常に高かった東京の不動産価格もほんの一部の地区を除いて、これから数年内に、大きく下がって来ることが予想されるという。
こうした迫り来る不動産バブルの崩壊を他所に、東京の区部では、マンション建築ラッシュである。
不動産会社にすると、商売で売らないといけないし、「超低金利」と「東京オリンピックまでは不動産ブームは続く」というキャッチコピーがあるので、どんどん建てているのだが、見ていると、さすがに東京区部でも、マンションの売れ行きに陰りが出て来ているようで、新築のマンションがなかなか売り切れない状態となりつつある。
まして、全体の戸数が多いタワーマンションでは、販売の苦労する所が増えているようだ。
タワーマンションは見た目が良く、眺望も良く、資産としても良いということで、一時期、人気を博したが、これも不動産に詳しい人の間では常識だが、「タワーマンションは普通のマンションと違って、大規模修繕が不可能に近い」物件で、年数が経つとともに、不良物件になって来る。
こうしたことが消費者にいきわたった訳ではないのだろうが、とにかく、どこもここもタワーマンションだらけとなれば、希少価値も薄れて来て、売れなくなって来て当然と言える。
相続税対策で、銀行に言われて、賃貸マンションを建設する人も少なくないというが、これも飽和状態になって来ていて、出来上がったは良いが、入居者がいないという物件も出て来ているという。
興味を持って、不動産の物件を見ていると、ここ数年来のことなのだが、新築マンションの宣伝の新聞広告やちらしで、「販売価格未定」というものが増えて来ている。
なぜ、わざわざ販売価格未定という形にしているのか、筆者にはわかりないが、ものを売るのに、「販売価格は決まっていません」というのは、手頃な価格ならば、買おうと思っている消費者に不親切だし、逆効果だと思うのだが、最近は、この「販売価格未定」というのがやたら目立つ。
そして、民間企業の行動について、何かと口を入れて来て、干渉したがる役所、不動産で言えば、国土交通省だが、こうした役所がこの「販売価格未定」というのを、「正常な取引に支障がある」として、文句を言わないのも、どうにも解せない。
マンションが売れ残った時に、価格を大きく引いて売り切ってしまうことがよくあるが、そうしたケースでは、当初の価格で買った人たちが、「自分たちは高く買い過ぎたので、その分、差額を戻せ」と販売のマンション業者に迫ることがある。
うがった見方をすれば、こうしたトラブルを避ける意味で、販売価格未定という宣伝の打ち方をしているのかと、考えたりする。
新築マンションの宣伝のちらしや新聞広告などを見ていて、最近、良く感じるのは、LDKを広く取った設計である。他の部屋もしっかりスぺースを取っているならわかるが、他の部屋を4畳とか、4、5畳というような狭い間取りにして、LDKだけドーンと広いのだ。
不動産業者に言わせると、「テレビの大型化などで、広いLDKが望まれているのです」というが、本当にそうだろうか。筆者ははなはだ疑問に思う。
世の中には、様々なニーズがあって、広いLDKを望む人がいる一方で、個々の住民の部屋をしっかり広くしたいと思う人もかなりいるはずである。それを、どの物件を見ても、LDKを広くしていて、その他の部屋や他のスペースにその分のしわ寄せをしているものがほとんどなのである。
これは車の話でも同じなのだが、新車を買おうと思って、自動車販売店に言って、担当者と話をすると、「今はSUVを望まれる人が多いので」という話を良くする。確かに、子供が小さく、車に子供を載せてドライブする時などには、SUVは便利かもしれない。
しかし、そうでなく、年配で子供が巣立ってしまって、夫婦2人だけの車を求める人も結構いるが、こうした人向けの、かつて日本で主流だった、1600、1800ccのセダンを買おうと思うと、これが本当に冷遇されていて、見本の車を見るのでさえ、苦労させられる。
「世の中には、様々なニースがある」のだという、商売のイロハのイを忘れた結果、車は国内ではどんどん売り上げが落ちている。
スマホなどに金がかかるようになったから、車は売れないとか、車を持つ必然性がなくなった若者が増えたというような解説もあるが、様々なニーズに対応した商品設計をしない業界は、車業界であれ、マンション業界であれ、やがて、消費者の厳しい対応にさらされるようになると、筆者は考える。
スーパー不況という事が言われて久しい。イトーヨーカ堂やセブンイレブンのセブン・アイグループはコンビニは好調だが、スーパーのヨーカ堂は不調で、店の閉鎖も順次行われていると聞く。
マスコミが名経営者と持ち上げた前会長は、スーパーの売り上げ不振をいつも憤り、部下に改善を指示していたというが、筆者は、この1つだけでも、解任されたこの前会長を全く評価しない。
ヨーカ堂に行ってみれば、わかるが、どの店も置いてある品の工夫がなくて、どの店も同じ考えで、かつ品が良くない割に価格が高いのだ。
創業者の伊藤さんが元気え権限を持っていた頃のヨーカ堂はこうではなかった。売り場の前線にいるパートの女性にも権限を与え、店ごとに違う工夫が見られた。それが、ヨーカ堂が勝って、どの店も同じで、品物が良くないダイエーが負けた大きな理由だった。
だが、今のヨーカ堂は悪かった末期のダイエーに似て来ていると筆者はみている。
筆者は市場観測という意味で、行った先々で、スーパーがあると、それが大手であれ、中堅、中小であれ、スーパーに入り、品揃えや、価格、商品の質などを見て回るのを習慣にしている。
こうしたことを繰り返していると、中堅のスーパーなどでは、色々な工夫をしていて、客が我先に買い物をする店が結構出て来ている。こういう店では、曜日毎にカードのポイントの倍数を増やしたり、商品の価格を細かく変えて、普通は暇なウイークデーには品揃えを良くして、客を引き付けたりしている。
商売は客のニーズをしっかり把握し、それに対応していれば、例え、構造不況業種と言われる分野でも、客の心をがっちりつかみ、繁盛するものである。
もし、解任されたヨーカ堂の前会長が自ら店をこまめに回って、店の問題点を見つけ、改善を指示していたら、ヨーカ堂は蘇っていたはずである。そうしたこともせずに、「なぜ、スーパーの業績が上がらないのだ」と文句ばかり言っていたのでは、会社は良くなるわけはない。
スーパーの話をしたのは、構造不況業種と言われるようになりつつある自動車業界に続いて、マンション業界も、そう遠くなく構造不況業種と言われるだろうという予感がするからである。
消費者の細かなニーズにきちんと対応すれば、不況業種であっても、生き残れるのが、筆者の見るところでは、そうした不動産業者がほとんどいないのだ。
ただ、ゼロではない。関心する不動産業者も中にはいる。
先日、機会があって、葛飾区でマンションを見て回った。
筆者が子供の頃、葛飾、江東、足立、荒川などはゼロメートル地帯と呼ばれ、台風が来る度に川が氾濫し、町が水浸しになった。今は川の治水管理が良くなったので、洪水はほとんどなくなったが、それでも、地震と、それにともなう津波で、東京の区部のかなりが水浸しになる恐れがあると専門家はいう。
その葛飾区で、川の近くのマンションで、1階を駐車場にして、部屋は2階から上としているところが数件あり、とても関心した。その一方で、大手のマンション業者が、そのそばに新築のきれいなマンションを作ったは良いが、1階から部屋を作っていた。
良く見てみると、マンションの1階は川の水面よりも低いのだ。だから、戸建の家でも、1階を駐車場にして、住いは2階と3階という家が何軒かある。筆者のように子供の頃に水害を忘れずに、家を建てた人がいるのだ。
堤防は確かにしっかりしているように見えるし、かなりの高さがある。しかし、堤防がどれくらい高くても当てにならないことは、東北の大地震が証明している。
こうした地区で、1階に住いを設けない業者と、1階から部屋を作って売る業者の差は、やがて、大きな差になって来るだろうと感じて、この地区を後にした。
20160807
オリンピックの事前報道で、実態以上に好成績を煽るマスコミ
リオのオリンピックが始まった。
事前の日本選手のメダル予想はかなり多く、新聞もテレビも、日本選手の活躍を期待するという感じだが、始まったばかりでも、サッカーは試合開始の8時間前くらいに到着したアフリカの国に負けるし、バレーボール女子も韓国に負けた。
そして、金メダルが確実とマスコミが報道した柔道の男女2人の選手は途中で負けて、銅メダルで終わったし、体操の内村選手は鉄棒で落下し、種目別で得意の鉄棒に出られないことになった。
今回に始まった事ではないが、日本のマスコミは新聞もテレビも、事前報道では、いつも景気の良い話ばかり流す。だが、実際に試合が始まると、マスコミの報道と実態はかなり違っていて、事前報道よりも大分悪い成績というのがほぼ常態化している。
そして、銀メダルや銅メダルを取った選手が「金が取れずに済みません」と頭を下げる様子が良く見られる。このような頑張った選手が可哀想と思えるシーンを何回も見ているのは、マスコミの事前の吹きすぎた気前の良い話が実態以上の期待を、詳しいことは知らない国民も抱かせてしまっているからだ。
筆者はスポーツは好きで良く試合の様子を見るし、事前の報道などにも目を通すが、例えば、体操の内村選手は、もう27歳で選手としては完全にピークを過ぎている。体操は体をかなり酷使するスポーツで、一定年齢を過ぎると、体に故障が多くなって来る。27歳の彼に、再度金メダルを言う方が酷なのだである。
柔道で初日に金メダルを期待された男女の2選手は、1年位前から国際大会で優勝するなどして、世界ランキングもトップクラスだということで、金メダル期待という事前報道となったが、事前の国際大会で優勝するなどの成績をあげた選手は、他国の選手にマークされ、研究されているので、勝てないことが少なくない。
それでなくても、オリンピックは魔物が住んでいると言われるように、独特の雰囲気があり、普段の実力が発揮できない選手も少なくない。オリンピック初出場という選手は、波乱が多く、要注意だということをしっかり報道するのが、マスコミの務めだと筆者は思う。
筆者は長く大手マスコミで記者をしていたが、記者になる前、1964年の東京オリンピックを学生として見ていて、マスコミ報道の無責任さを強く感じた。
1つの例が水泳背泳ぎの田中聡子選手である。事前のマスコミ報道では、彼女には金メダルという期待が強かったが、実際の試合では、4位に終わり、メダルを獲得できなかった。
彼女は東京オリンピックの前のローマ大会で銅メダルを取っている。東京は地元などので、金という期待はわからなくはないが、実力以上の期待は選手に気の毒だと、その時、テレビを見ていて強く感じた。
田中選手は筆者の記憶では、オリンピックの試合の決勝戦で、自己最高記録を出している。それで、メダルに届かなかったのだ。つまり、金メダル有力と書いたり、報道した新聞、テレビが間違っていたのだ。
筆者は経済畑の記者で、スポーツ記者ではなかったが、新聞、テレビの担当者に、「もっと、実態を報道しないと、選手が可哀想」と何回か言った事がある。そうした時の担当者の答えはいつも一緒だった。「事前に景気の悪い話を報道したら、盛り上がらないでしょう。盛り上げるためには景気の良い話が必要なのです」 でも、これは間違いだということは、過去の様々な出来事が実証している。金メダルの重荷が選手にいかに大きな負担をかけ、そのプレッシャーで多くの悲劇が発生しているのだ。
オリンピックのマラソンで銅メダルを取り、その後、金メダル候補として、有力だと報道され続けられた円谷幸吉選手は「もう走れません」という遺書を残して自殺している。これは極端な例だが、マスコミの異常な期待の大きさに潰された選手は枚挙の暇はない。
そして、実力以上の過剰な期待を報道するマスコミの姿勢が、やがては、ファンの落胆から、その選手やスポーツに対する失望につながり、人気の離散へとつながる危険性があると感じる。
日本ラグビーは先のワールドカップで大活躍をした。にわかのラグビーフィーバーが起きた。そして、オーストラリア、ニュージーランド、南アを中心に戦われているリーグ戦に、今年、日本チームも参加した。だが、結果は20回近く戦って、1勝しただけで終わった。
この日本チームのリーグ戦への参加はマスコミに大きく取り上げられ、期待もされたが、結果は実力の差を見せつけられ、イギリスのワールドカップでの健闘はフロックだったのかというような報道まで出て来た。
次の東京オリンピックの前年に、ラグビーのワールドカップは東京で開催される。今回のリーグ戦での日本チームの惨敗ぶりが、このラグビーのワールドカップ開催に悪影響が出ないことを望むばかりだ。
オリンピックでの日本人選手への過剰な期待報道は、「スポーツはお祭りなので、事前盛り上げが必要」という論理で説明されるが、筆者は、これはいちスポーツの話ではない、日本人の根ざした危険なものの考え方に由来していると考える。
それは、国力からも資源からも、絶対に戦ってはいけないアメリカと戦って、国土が灰になり、多くの人が死んだ、太平洋戦争にもつながると思うからだ。
冷静に様々なデータを分析すれば、アメリカと戦うという選択肢は最初から排除さえるべきだったのに、「神国なのだから、日本は勝てる」と言って戦い、自滅していったかつての日本は、軍部だけでなく、朝日新聞を中心とする新聞が、「日本は強い。対米英なにするものぞ」という趣旨で、国民を煽り、地獄への道に引っ張り込んだのである。
江戸末期の攘夷派の武士が「英米とは戦ってみないと、負けるか勝つかわからない」と言って、攘夷を掲げたのと同じ図式である。
今回の都知事選挙での小池氏の勝利を、マスコミは「小池氏はブームが起きるように演出し、都民の心を掴んだから圧勝できたのだ」と、「小池ブーム」かのような報道の仕方をしているが、筆者は違うと考える。
ブームが起きたというよりも、「他の入れる候補者がいなかったので、消去法で見ると、小池氏しか残らなかった」というのが実態だと思う。筆者が話をする人達の中では、そうした意見をいくつも聞いた。
「安倍政権も積極的に支持する訳ではないが、民進党があれでは、怖くて、政権は任せられない」として、参議院選挙で、自民党が過半数を獲得する議席を獲得したのも、国民の冷静な目からだ。マスコミが考える程、国民はバカではない。実態をきちんと報道しても、2016.08.03
財務省の解体を
現在の日本には多くの問題点があるが、その大きなものの1つが、今の時代に全く適合できないだけでなく、余計なことを次々にしているのが財務省で、筆者は財務省を分割解体すれば、日本は大分良くなると考えている。
財務省の一番の問題点は、日本の問題点を外国に吹聴して回り、世界の関係者に、「日本の財政は危機的な状況」という認識を受け付けたことである。IMF(国際通貨基金)が日本の問題点などを指摘した場合、その内容は財務省が普段言っていることと全く一緒である。
それも当然で、財務省がそう吹聴しているだけでなく、IMFなど国際機関に財務省からの出向者が必ずといって良い程いて、彼らが事情をよく知らない、それぞれの機関の関係者に日本の問題点を入れ知恵しているからである。日本の問題点を中国や韓国に告げ口し、相手が外交問題のするために多大の貢献をした朝日新聞と同じ図式である。
でも、現実は、先日のイギリスのEU離脱の国民投票など、世界的に大きな問題が起きると、円は急騰する。それは、円が世界有数の安全資産だからである。つまり、財務省が言っている、日本は大変な状態ではないことを、世界の為替の専門家が証明しているようなものである。
財務省の大きな問題点の1つは、国民やマスコミ、学者に間違った常識を植え付け、消費税を値上げし、財政を切り詰めないと、日本の財政はパンクすると多くの国民が信じ込むようにしていることだ。
なぜ、それ程までに消費税を上げたいかと言えば、自分が管理し、配分をする金が増え、それとともに、他の省庁や企業などに対して、上から目線で指示、命令できるからである。
経済評論家の三橋貴明氏や元財務省の高橋洋一氏がが本やネットで良く書いているように、日本経済の実態は、財務省が言っているような危機的な状況でもないし、消費税を値上げしなくても、財政問題は充分に解決が可能なのである。
まず、日本政府は千兆円を超える借金がある。それは事実である。
しかし、それは国民の借金ではない。日本の政府の借金のほとんどが日本人から借りているものであって、国民が借金をしている訳ではない。だから、財務省が記者相手に説明する、国民1人当たり、800万円からの借金があるという説明は全くの間違いである。
いや、財務省は間違いを承知で、国民に危機意識を持たせ、消費税を上げしないと、問題は解決しないと信じ込ませるために、国民一人当たり膨大な借金があると、事実と違う説明をしているのだ。
国には様々な財産があり、それを言わずに、借金の話だけをするのは、故意に国民を消費税値上げにへ導こうとする陰謀としか言いようがないが、それも平気でしている。
財務省など官庁を記者時代に担当した経験から言うと、一流大学を出た日本の官庁の官僚は、データや資料を自分に都合の良いように使う。ある部分を誇張し、自分の都合の悪い部分は無視をして、レクチャーする。
記者が少し勉強していて知識があると、そのおかしな説明に気が付くのだが、今の記者は勉強不足で、そのまやかしに気が付かない。
中にそれに気が付いた記者がいたとしても、財務省の役人は新聞社やテレビ局の幹部や論説員、編集委員などとも普段から接触をしていて、洗脳しているので、財務省の説明と違う原稿を現場の記者が書いても、デスク段階で、それはチェックされ通らないようになっている。
消費税を5%から8%に引き上げた時、安倍首相がその影響を心配して、引き上げに慎重な態度だったのを、「消費税の引き上げの影響は3カ月で消えます」と言って説得し、引き上げに踏み切らせたが、3カ月どころか半年、1年を経っても、消費税引き上げの影響は消えず、日本経済に大きな打撃を与えた。
更に消費税の引き上げで増える税収は福祉などの充実に充てると財務省は説明していたが、実際は3%の引き上げの内、2%、3分の2は国の借金の返済に充て、福祉に回したのは1%、3分の1に過ぎなかったのである。
財務省がこれだけ自分勝手に行動し、事実と違う事で国民に誤った認識を与えているのに、記者も政治家も学者も、ほんの数人の人を除いて、これを指摘し、問題にするという事をしていない。
理由は簡単で、財務省が自分の都合の良いように筋を作り上げ、それで解説しているので、「嘘も百回言えば、真実になる」の例えのように、ほとんどの人が財務省の説明を信じて疑わないのだ。
今、日本では日銀が大量に国債を買っている。以前、大量に国債を所有していた大手銀行などはどんどん放出し、残高が急速に減っている。
日銀は国の機関である。そして、日銀はお札を刷る権限を持っている。ということは、日銀が国債を大量に買い上げ、お札を刷って、これで代金を支払うという事は、国の借金がどんどん減っているということである。
元財務省のキャリア官僚だった高橋洋一氏によれば、国の財産なども勘案すると、今、日本政府の借金は財務省がいう千兆円を超えているのではなく、実質300兆円くらいだという。国の借金がGDP以下であれば、何も問題なく、極めて健全な財政状態なのであり、今の日本はそうなっているというのだ。
安倍首相が脱デフレを言いながら、それが実現できないのは、財政の収支バランスをとるという名の下に、財務省が歳出を大きくカットしていることと、消費税の引き上げで、国民の使える金が減っているためである。世の中に回る金が少なくなれば、デフレになるのは当然だが、そんなことさえ、財務省は知らないか、知っていても、黙り、国民をだましているのである。
日銀が国債を大量に買っていることについて、財務省の役人が問題点を吹き込んでいるためなのだろうが、学者やマスコミの記者達からは、そんなことをしたら、ハイパーインフレ、物凄いインフレになって、経済はメタメタになるという意見が聞かれる。
しかし、「失われた20年」で、これだけデフレが続いている日本で、お札が多少余分に出回っても、ハイパーインフレになる心配はないと言って過言ではない。そして、日銀が買い取った国債を、無利子の国債に切り替えることをしていくと、国の歳出の中で大きなウエートを占める国債への利払い費が大きく減額されるので、政府が実際に使える金が増えて来て、景気は良くなるのである。
古今東西の歴史で、政府が借金が多額になり、首が回らなくなった時に、どうしたかと言えば、国、政府の借金を棒引きにした、徳政令を出したのである。
江戸時代などの徳政令は、借金の証文は無効にしたので、金を貸した商人には大きなダメージがあった。しかし、今の日本では政府の一部である日銀が国債を大量に買い集めている。そして、借金をしている政府と、その借金のかたの国債を持っている日銀が同じ、政府の機関なのだから、一般の国民にダメージを与えることなく、借金を帳簿上、消しさることができるのだ。
つまり、誰にも迷惑がかからない徳政令が実行できるのである。
徳政令的に国の借金を棒引きにしてすべて解決というのだと、倫理的な綻びが出るという人には、富裕層に資産税をかけて、1600兆円以上と言われる個人金融資産や、ほとんど使われていない遊休不動産を税で召し上げて、国債を償却していく費用にすれば良いのである。
前にも書いたが、戦後の日本はゼロから再出発した。そして、今、政府には千兆円を超える借金があり、個人には不動産を除く金融資産だけで、1600兆円もあるということは、単に配分を間違えただけのことである。
歴代の政府は景気が悪くなると、国債を発行して公共事業などを行い、消費を喚起した。その結果、国民の懐は潤ったが、政府には膨大な借金が残ったという結果となったのである。
だから、ゼロから、1600兆円まで積みあがった個人金融資産の3分の1を税で集めても、国民には千兆円以上残る計算になり、高橋さんの試算のように、今の国の実質の借金が300兆円なら、個人金融資産に対する課税で、国、政府の借金はゼロになって、おつりが来る事になる。
個人金融資産のほとんどは65歳以上の年寄りが持っている。その人たちに、自分の子供や孫に負担をかけないように、課税させてくださいと言ったら、それこそ、国民投票をしたら、過半の日本人は賛成すること間違いなしと思われる。
筆者が昔、今の財務省、当時の大蔵省を担当している時は、大蔵官僚は今よりは大分、ましだった。財政問題や経済政策を議論をしても、真剣にそれに応じ、少なくても、こちらが少し勉強して行けば、嘘はつかなかったし、ごまかしもしなかった。
それが、今の財務官僚は、とにかく、何が何でも消費税を上げる事に血道をあげ、それが目的化し、そのためには、白を黒と平気で言う体質になってしまっている。
戦前の日本は、軍隊と内務省という強い役所があり、大蔵省と3つの強い省庁がいてバランスが取れていた。しかし、戦後、軍隊は解体され、内務省もいくつもの役所に分割され、大蔵省だけが無傷で残り、政府内で、最強の組織になり、首相や大臣の言うことを聞かずに暴走をするようになってしまった。
ではどうしたら良いか。簡単で、財務省を分割して解体することである。
まずは、逮捕権限を持ち、財務省の強い力の源泉の大きな部分である国税庁を財務省から分離し、厚生労働省の年金担当部局と一緒にし、国民から金を収集する組織を一元化することである。
この考えは前から強く言われているが、逮捕権を持つ国税庁の分離に財務省が猛烈に抵抗していて、実現できていない。でも、実行すれば、それこそ、行革になるのだ。
更に、税金や年金の支払いを銀行のCD,ATMで行えるようにする。こうするだけで、担当者は大幅に縮小される。また、税制のルールを簡素化し、中学生でもわかるように改めることだ。今のように、資料を読んでも、意味がわからないというようなやり方は改めるのだ。こうすれば、個人営業主や中小企業は税理士などに頼らず、自分で申告や支払いができるようになり、負担が大きく減る。
また、銀行や証券会社を監督する金融庁も財務省から切り離し、独立した役所とし、日銀の考査を担当する部局と一緒にし、金融監督庁とするのだ。これで、日銀、財務省と2つの役所から同じような検査、監査、考査をされている金融機関の負担は大幅に減少する。
つまり、財務省に残るのは主計局を中心とした部門だけとし、予算編成を専門に考えさせるのだ。それも、今のような単年度予算ではなく、3年単位、5年単位で予算を考え、余った予算は翌年に繰り越せるようにすることが出来るようにすれば、今のように、予算が余ったからといって、年度末の3月に何が何でも使い切ろうというバカな行動は亡くなって来る。
そして今のように、他の省庁に対して上から目線で接するのではなく、対等に知恵を出し合うというようにすれば、財務省もそれぞれの役所も長期ビジョンを持つように変わるし、日本経済全体にも良い影響が出て来るのは必至である。
20160802
米国が日本を永久植民地にするために作った憲法9条
都知事選も終わったが、野党統一候補の鳥越俊太郎氏も、彼を応援して演説した作家の澤地久江氏も、大学教授の山口二郎氏も、「安倍政権が続くと、憲法改正が行われ、9条が書き換えられ、日本は戦争への道を進むことになる。そうしたことは絶対避けないといけない。9条は何としても守らないといけない」と絶叫した。
こうした人たちの話を聞くにつけ、筆者は世の中の知識人やリベラルと言われる人たちは、歴史について全く知識がないか、知っていて、国民をだますために嘘をついているかのいずれかだと感じる。
現在の日本国憲法は日本が戦争に負けて、GHQと言う名の日本占領米軍が日本に一方的に押し付けたものである。この経緯については、多くの人が当時の関係者の話を聞いて本などを書いているので、詳細は避けるが、マッカーサーを中心とする米軍が英文の憲法案を日本政府に強制し、それを日本語に翻訳して出来上がったのが、現在の憲法である。
在日米軍のトップだったマッカーサーは日本軍との戦争に大変苦労し、初めは破れて逃げたこともあり、日本の軍隊の徹底破壊を指示し、軍隊をなくすだけでなく、軍艦も武器もすべて廃棄した。そして、強い日本軍が二度と復活しないように、憲法の中に9条を設け、戦争をしないことを謳い、軍隊持たない国家という憲法を作ったのである。
GHQの支配が終わり、マッカーサーが日本を去っても、米軍は日本に駐留し続けた。憲法を押し付けた時から、米軍には日本から引き揚げる積りはなく、当初から日本に居続けることが前提でいたのであり、そのための口実が憲法9条であるのだ。
「無防備の日本を外敵から守る」という建前で、実際は、日本が再軍備して、自分たちに歯向かう事がないように、監視のために日本駐留を続けているのである。
GHQで憲法草案や戦後の労働法など日本の法律を作った人達は、アメリカ人で言えば、左翼の人が多かった。だから彼らは、アメリカではまず無理な戦争放棄や、労働者の権利を強く謳った労働法などを作った。
当時は、国連が戦後の世界の平和や統治の中心になるという考えがあり、国連軍が出来るという意識もあったこともあり、理想論としても、日本に軍隊を禁止する憲法を作ったという側面もあった。
当時の日本の国会では、GHQの強権もあり、この憲法に強く反対することはためらわれた。それでも、反対した党と議員がいた。党は共産党である。共産党の代表者は現在の憲法への反対演説を行い、「この憲法では、国は守れない」と主張した。
今、共産党が「わが党は憲法をずっと守り続けて来た」というのは歴史的に真っ赤な嘘である。
個人で反対したのは、元東京都知事の父親、美濃部達吉博士で、押し付け憲法は民主主義の理念に反するという趣旨で反対している。
ところが、憲法ができて間もなく、隣の韓国で朝鮮戦争が勃発した。この戦争で米軍の軍人が多数死んだ。アメリカの大統領などの指導者は「なぜ、日本軍を出さないのか」とマッカーサーに迫った。大統領の指示を日本の当時の吉田首相に伝えると、吉田首相は「軍隊が持てない憲法を作ったのは、あなたでしょう。日本には軍隊はないのだから、出しようがありません」と、答えたのである。
つまり、マッカーサーは自分の私怨も含めて日本を軍隊の無い国家にしたのだが、それが自分に返った来たのである。慌てて、自衛隊の前身の組織を作る事を日本政府に命じ、朝鮮に行く事を迫ったが、ここでも、吉田首相は憲法を盾に海外に派兵などできないと主張し、日本人は戦争に関わらないで済んだのだ。
ただ、新しく出来た自衛隊はやっかいな問題を出現させた。それは、非武装、戦争放棄を謳う憲法と矛盾することである。
それを当時の社会党などから追及されると、政府自民党は「自衛隊は軍隊ではない」「憲法9条は自衛のための組織を作ることを排除していない」という、理屈にならない理屈を作り上げ、所謂「解釈改憲」をしたのである。この作業に何人もの憲法学者、官僚も関わり、裁判所もその考えに従ったのである。
しかし、誰の目から見ても、自衛隊は明らかに憲法違反である。この解釈改憲を「日本人の知恵」と評価する学者、評論家も結構いるが、「解釈改憲」は大きな禍根を残すことになるのである。
それは、「解釈改憲」を一度、許すと、それは二度、三度ということになり、憲法は解釈でどうにでも変えられるということになるからである。それこそ、再び戦争への道である。
安倍政権の安保法案について、「解釈改憲は違憲だ」ということを言う政治家、憲法学者が少なくなく、憲法学者は朝日新聞のアンケート調査に、8,9割の人が「安保法は違憲」と答えているが、この憲法学者の7割くらいの人が「自衛隊も違憲」と朝日新聞の調査で答えている。
つまり、きちんとした法律論から言えば、自衛隊は違憲のままなのである。それを「日本人の知恵」などと自慢のように言う人は、法律や憲法そのものを理解していない人達である。
そして、災害が起きた時に献身的に行動し、国民に支持されている自衛隊を違憲状態のままにしておいて良いのかという問題は、何も解決されぬまま、放置されたままである。
共産党や旧社会党系の社民党などの人達は、戦争反対を叫ぶ一方で、米軍の日本撤退を主張する。では、日本が外国から攻められた時に、どうするかと彼らに聞くと、都知事選挙に出た鳥越氏のように、「日本を攻める国がどこにいますか」と、何も考えず、能天気に答える本当に愚かな人達がいる。
共産党などは、「外国と戦争にならないように、普段から交渉をし、友好関係を作る」と答えるが、ロシアのクリミヤ半島略奪や、ウクライナの東半分の事実上の支配、そして、中国のフィリピン領土の奪取、イラクのクエート支配などについて聞いても、「友好関係を作れば、そうしたことは防げる」と、空想論を繰り返すのみである。
政治や防衛、外交というものは、想定されることは、その可能性が1%でも、それに備えた準備をするのが当然であるが、世界最強の米軍とその核の傘で、戦争もなく、平和を貪って来た人達には、そうした危機管理、リスクマネージメントという発想がないのである。
そもそも、戦後70年間、日本人が戦争に巻き込まれなかったのは、憲法9条のためではない。世界最強で世界最大の核戦力を持つ米軍が日本に駐留し、その武力を恐れて、誰も攻撃をしかけなかっただけである。
日本には非核三原則というのがある。しかし、この政府答弁も、憲法の解釈改憲と同様に、事実と全く違うのは明らかである。日本にいる米軍が核武装しているのは、まぎれもない事実であり、日本は戦後70年間、このアメリカの核の傘の下で、平和を享受して来たのである。
では、今後の日本の防衛について、どうするか。
答えは2つである。その1つは、これまで通り、米軍にいてもらい、核の傘で守ってもらうことである。日本を守るとともに、日本の本格的な再軍備に対する監視の意味で、日本に居続ける米軍にとっては、何も変わらず、従来の延長戦上のことである。
しかし、それを認めることは、沖縄などでも米兵の乱暴な行動は今後も起きることを覚悟しないといけないし、現在、東京を中心とする空域の支配権をアメリカが持っているので、羽田空港に離発着する飛行機は大きく迂回することはこれからも続くことになる。
伊勢志摩サミットの時、サミット開催の前に、アメリカのオバマ大統領はベトナムを訪問した。この時、オバマは飛行機でアメリカから日本の横田基地に着き、そこで休憩して、ベトナムに飛び立った。外国人が日本に来ても、入管手続きも一切ない。それが米軍が日本を永久植民地化している実態なのだ。
また、沖縄に限らず、東京や神奈川などにある米軍基地の近くでは、米軍機が日本の民家や施設の攻撃練習のための爆音にずっと悩まされ続けることになる。
ソ連が崩壊した時、アメリカでは、今後の世界戦略を考える時、最も恐れる仮想敵はどこかという研究をした。その時、一番の仮想敵として名前が挙がったのが、日本であり、第二がドイツだった。つまり、アメリカの指導者や戦略を考える人達は、第二次大戦の時の対日本、対ドイツとの戦いの苦労から、今後も、この二か国が自分たちの大きな敵になるという意識を持っているのである。
だから、在日米軍は日本と戦うことを想定して、日本の施設や民家を攻撃する練習をしているのである。だが、マスコミも政治家もこうしたことは、おくびにも出さないでいる。
日本の防衛をどうするか。2つ目の答えは、日本が自分で自分の国を守るプランをしっかり作ることである。当然、そのためには憲法改正が必要である。それこそ、解釈改憲をして行ったら、戦前の軍隊のように、歯止めが利かなくなり、返って怖いと筆者は考える。
歯止めのためにも、憲法を改正して専守防衛を明記し、「自国の利益のために、海外派兵することは禁止する」と明記すれば、良いのである。「海外に出る時は、国連の要請で、治安維持や機雷除去などの時で、国会での承認を必要とする」と書き込むのだ。
だが、朝日新聞、毎日新聞、TBS,テレビ朝日などのマスコミは、自衛隊を軍隊として認めることや、憲法改正に猛反対だし、共産党、社民党も反対である。そして、自衛隊を戦力として認め、自衛することを考えている人達でも、憲法改正には慎重な人が多い。
彼らの言い分は「憲法改正は国民の議論が十分なされていないので、改正は時期早尚だ」というのである。だが、筆者に言わせれば、70年間戦争がなかったのは、実際は核を持つ在日米軍の存在が理由で、憲法9条のためではないという事実すら、一般に報道されていない状態で、国民にどう議論させようというのか、「時期早尚」という人達の論理は理解できない。
鳥越氏は「日本が核武装するなんて飛んでもない」というが、軍事の専門家に言わせれば、核武装が一番安上がりの自国防衛だというのが常識だという。日本は能力的には、直ぐにでも核武装できる。そして、核武装すれば、自衛隊に必要とする費用はかなり節約できるというのだ。
広島、長崎に原爆を落とされた国が核武装するなんてと、感情的に言うのではなく、冷静に論理的に考え、議論すれば、国民感情も変わって来るのではないか。日本が核武装すれば、中国の尖閣列島などでの嫌がらせもほとんどなくなると専門家は予想する。
「核のない世界」という祈りという話は、現実に絶対起きえない話である。今後も核武装する国家はどんどん増えて行くだろう。第一、「核の無い世界を作る」と言って、ノーベル平和賞を獲得したオバマ大統領は、その7年の治世で、これまでのどの大統領よりも、核兵器の数を大幅に増やしたのだという事実を日本のマスコミは全く報道していない。
自国防衛、核武装が嫌なら、「米国のぽち」であり続け、首相が交代する度に、真っ先にアメリカを訪れ、「何をしたら良いか」「何をしてはいけないか」を聞きに行くという、今のアメリカの植民地状態を続けるしか方法はない。
そして、少し心ある政治家は、アメリカの逆鱗に触れた元首相の田中角栄や橋本龍太郎のように、スキャンダルまみれで、今後も失脚して行くのだろう。
でも、トランプが大統領になったら、それも出来なくなるかもしれない。
日本人が70年の太平の眠りから覚め、現実と向き合って、自国の防衛をどうするか、真剣に考える時期が来ていると筆者は考えるかが、皆さんはどう考えるだろうか。
20160801
準備不足ではなく、質が悪すぎた鳥越俊太郎
東京都知事選挙は小池百合子氏の圧勝で終わり、野党統一候補の鳥越俊太郎氏は大きく引き離されて3位という惨敗に終わった。
この選挙結果について、テレビや新聞、ネットで様々な解説がなされている。鳥越氏については準備不足を解説するものが多いが、筆者の見る所では、準備不足ではなく、鳥越氏の質があまりにお粗末であったということの1点に尽きるのである。
そして、その彼を統一候補とした野党執行部の人間の、人を見る目の無さが露呈されただけで、鳥越の質の悪さを事前に見抜いた選挙関係者は、皮肉な事にこれまで野党候補として、都知事選を戦って来た弁護士の宇都宮氏であり、彼に投票しなかった有権者であったのだ。
宇都宮氏は、野党統一候補が少しでも自民党系の候補相手に善戦するために、涙を呑んで選挙戦に出ることを辞退した。そして、終盤に鳥越氏の不利が伝えられると、共産党を中心に野党から鳥越氏の応援演説をするように要請された。
これに対して、宇都宮陣営は、鳥越氏に大きく3点について、質問状を送り、それに対する答が納得の行くものなら、応援するという姿勢に出た。
その3つとは、1つは、鳥越氏が当選したら、築地の移転問題を直ぐにストップし、関係者を入れてあるべき姿を抜本的に再検討すること、2つは、週刊文春、新潮が書いている鳥越氏の女性スキャンダルについて、速やかに記者会見を開き、週刊誌に書かれている事について、記者の質問を受け、単に「事実無根」というだけでなく、詳細を語り、納得の行く説明をすることであった。
宇都宮氏は「大手週刊誌があれだけ詳細について、報道している上、内容を読む限り、事実無根だとは言い切れないと感じる。記者会見で、きちんと納得の行く説明をするのが、被害女性に対する人権という意味でも筋である」と言い切っている。
3つ目は、鳥越氏が出席をしないのでほとんど実現しない、有力3候補のテレビでの公開討論に出席することである。
しかし、鳥越氏から明確な答はなく、宇都宮氏は鳥越氏に対する応援演説をすることを断ったという。
筆者の周辺にいる普通の選挙民から、鳥越氏が立候補した時、期待の声が結構聞かれたが、彼が演説をしたり、テレビに出て話をするにつれて、「この人、何か変」という反応の人が増え、鳥越氏に票を入れるという人はどんどん減って行った。
鳥越氏に対する人気があったのは、単にテレビで名前と顔が売れていたからである。テレビで番組を司会し、聞こえの良いコメントを言っていると、「物知り」「知識人」「物事の本質がわかる人」というように印象を持たれる。
鳥越氏の場合、ハンサムで、かつ、九州弁が混じった話しぶりも、視聴者の心をつかんでいた。しかし、テレビで話をするのは、世の中で起きた事について、記者の経験からコメントすることであり、それは鳥越氏だけでなく、一定年数、記者として経験を積んだ者なら、誰でもできたことである。
それが都知事になるとか、国会議員になるとなると、話は変わって来る。
様々な問題について、評論でなく、自分の意見を言わないといけないし、自分が詳しくないことでも、これまでの知識から類推して、一定レベルの話をしないといけないが、鳥越氏はそれがまったくできなかったのである。
筆者は前にも書いたが、評論は誰でもできる。少し、本を読み、新聞、テレビを見ている人なら、普通の人でも、結構な意見は言える。だが、知事とか国会議員候補となると、そうはいかない。自分の意見、自分の普段の見識が、議論や演説の中から透けて見えて来るのだ。
そして、鳥越氏のそれは普通の選挙民から見ても、呆れる低いレベルだったのである。
京都大学を出て、毎日新聞に入り、週刊誌の編集長にまでなり、その後、テレビの報道番組で司会まで務めたのだから、かなりの見識を持っている人と、一般の人が受け取るのは無理がないかもしれない。
しかし、ほぼ、同世代の筆者だから言えるのだが、団塊の世代以前の記者は余程の失敗をしなければ、大手マスコミで管理職にはなれたし、部長級以上には誰でもなれたのである。仕事をした、しないに関係ないのである。大卒は全員が管理職になれた世代なのである。
では、記者、ジャーナリストととして、鳥越氏は何をし、何を語って来たかというと、大阪社会部時代、一緒に仕事をした記者達からの感想は、「とにかく仕事をせず、恰好だけをつけていた人」というものである。
そして、サンデー毎日の編集長や、テレビ番組の司会を務めるようになってからの活動では、JALのよど号を乗っ取り、北朝鮮に亡命した元過激派のインタビューが有名である。
鳥越氏は彼らをインタビューして、「彼らの説明に矛盾はなく、目は嘘をついているものとは思えなかった。だから、北朝鮮による日本人の拉致はなかったと確信した」と原稿を書いたのだ。
本来の記者、ジャーナリストなら、元過激派のインタビューをする前に、日本で警察や被害者の会の人たちの話を聞いた上で北朝鮮に行く。そして、被害者達の話を下に、元過激派の言っていることの矛盾点をつくのが筋だし、当然、しないといけない行為である。
だが、鳥越氏はそうしたことは一切せず、元過激派の人間達の話だけを信用して、「北朝鮮の日本人拉致はなかった」と断言した記事を書いたのである。彼が記者としての資質がいかにお粗末で、基本ができていないかが、この1つだけでもわかる。
鳥越氏は選挙の演説やテレビのインタビューで、「記者として多くのものを見聞きした来たので、自分の直感を信じるし、物を見る目、聞く耳は持っている」と何回も言っていた。
しかし、北朝鮮にいる元過激派へのインタビュー記事は鳥越氏が記者として、あまりにお粗末であることを示しているのであり、「長く記者をした」イコール「見識のある人」と考えるのがいかに危険かがわかる。
鳥越氏はジャーナリストというのを肩書としている。そして、「自分はずっと権力を監視して来たし、権力の側にいたことはない」と良く言う。だが、これも本質が全く違う。
記者、ジャーナリストが権力を監視する行動をするのは当然の事である。しかし、同時に、野党に対しても、反権力の弁護士に対してでも、反権力の記者に対してですら、それらの人たちが間違った言動をした時には、それを厳しく指摘し、糾弾するのが記者、ジャーナリストのあるべき姿である。
だが、鳥越氏の言動を見ていると、単に「反権力」「反国家」「反体制」だけであり、そうした意味では、挫折した安保世代の体験から、何も学んでいなくて、そこで立ち止まっただけの年老いた老人だだったということが選挙戦を通して証明されてしまったのである。
そんな鳥越氏がジャーナリストという肩書で人前に現れること自体、ジャーナリスの恥である。
それがわかったので、都知事選の敗北を自分の失敗の原因としたくないと考えた、民進党の岡田代表は都知事選の結果が出る前に辞任することを発表したのである。参議院銀選挙の結果を理由にし、敗北はしたが、野党共闘で一定の成果が出たということにすれば、党内に影響力を残せると考えたのである。
さすが、東大出の元通産官僚である。それを、選挙投票日の前日の辞任を公表することは敵前逃亡と批判する鳥越氏や民進党の議員は、鳥越問題の本質が見抜けていないだけなのだ。
その鳥越氏は、「今後も政府、自民党、権力を批判して行く」と選挙後も述べている。同世代の人間として、彼にただ一言言いたい。「頭脳が停止したボケ老人はもう、人前でジャーナリストの肩書で何かを言うのを止めなさい」と。
最後に、マスコミの「自民党敗北」という報道について一言。
最近のマスコミは、先の参議院議員選挙での、「改憲勢力が3分の2以上になるかどうかが焦点」とか、イギリスのEU離脱の国民投票の結果を「国民が判断を間違えた」とか、「大英帝国への郷愁」などとトンチンカンな解説、分析をしているが、今回の都知事選挙での「自民党敗北」報道も極めてトンチンカンである。
小池氏は今でも自民党員である。彼女の元来の主張は党内でも右寄りで、安倍首相に近いとも言える。今回、自民党が小池氏を推薦しなかったのは、過去2人の知事が金にまみれて辞めざるを得なかったことへの反省から、国会議員ではなく民間人という事で候補を探していたからである。
まして、小池氏は週刊文春が少し書いたように、金については、かなり問題があるのがわかっていたので、推薦ができなかったのである。
だが、選挙戦が進むにつれて、増田氏では選挙に勝つのはかなり難しい事が分って来た。その増田氏に最後でテコ入れをすると、それは小池氏の足を引っ張ることになり、結果として、鳥越氏が当選する可能性が出て来るという読みが出て来た。
そこで、自民党は増田氏一色で戦うのを止めたのである。小池氏なら、自民党員だし、鳥越氏と違って、会話は問題なくできる。一説には、安倍首相と小池氏の間で、途中で手打ちが行われたという話もある程である。
先の参議院選挙で、自民党が勝ち過ぎそうになり、公明党がブレーキをかけ、接戦の地区で野党候補が勝ったのと同じような論理が働いたのである。こうした少し考えれば、わかる事をなぜ、新聞、テレビは報道しないのか、本当に理解に苦しむ。
まして、小池氏が勝つことで、東京都議会のガンと言われ、「小池氏を支援したら、一族郎党までも除名だ」という、結果的に小池氏を利することになった文書を配布した調本人と言われる、自民党都連の内田幹事長の力が弱まることになれば、それは副産物として大いに結構なことだ。安倍首相など首脳がそう考えても不思議はないのだ。
20160730
選挙制度を中選挙区制度に戻すことで、しっかりとした政治の復活を
日本の政治や政治家の質が悪くなったのは、選挙制度を中選挙区から小選挙区制度の変えたことが大きな理由があると言われる。
小選挙区制度の変える時に、ほとんどのマスコミ(大手新聞、テレビ局)は小選挙区制度の素晴しさを謳いあげたし、大学の教授たちも小選挙区制度にするようにほとんどの人たちが、マスコミに出て声高に主張した。
その最大の理由として、政権交代が可能な二大政党制の実現と、中選挙区制にすることで自民党にどうしても発生してくる派閥の解消を、学者もマスコミを挙げていた。
しかし、中選挙区から小選挙区になったどうなったかと言えば、国会議員の選挙区が都道府県会議員や中には市会議員くらいの規模での選挙になることで、国全体の事を考えるのではなく、自分の地元の事や、自分の選挙の当選のための行動に専念する、いわゆる小物政治家が多く誕生することになった。
また、各政党は定員が1人の選挙区には、自分の党から1人しか立候補させることができないため、候補者を決める際に、党本部が強い力を持ち、候補者を締め上げる結果となった。そして、党本部と喧嘩してでも出て、自力で当選し、後で公認を追加されるというような元気の良い政治家は、絶滅寸前となったのである。
更に、マスコミが叫んだ二大政党制による政権交代は実現したが、民主党の2年半の治世はあまりにお粗末で、今、多くの国民は積極的に自民党を支持するのではなく、自民党しか政権を任せられる政党はいないという消極的な支持で、自民党政権が続くことになり、二大政党制なでお夢の話となった。
そして、当選のためなら、大きな組織にいないという意識から、かつての自民党右派から旧社会党左派までという考え方が大きく異なる人が混在する民進党は、憲法や安保・国防、経済政策にいたるまで、党としての意見が纏めることができないお粗末な状態で、1つの党としての存在意義しか失って来ている状態である。
民進党が党としての意見の集約が出来ない状態の悪い部分が、そのまま出たのが先の参議院議員選挙での事実上の共産党との統一候補の選定と、明日投票日を迎える東京都知事選挙での社共統一候補としての鳥越氏の選定である。
かつて、社会党が国会で3分の1近くの勢力を持っている時も、一定の得票を持つ共産党との共闘はあり、自民党を打ち破ったことは何回となくあった。しかし、その場合は、社共の間で、主要な政策について、突っ込んだ議論をして、合意書を作り、その意見統一の下で共闘をした。
しかし、先の参議院選挙でも、今度の東京都知事選挙でも、そうした政策についての議論は全くなく、単に反自民というだけのでの統一候補となった。だから、今回の都知事選挙で、終盤になって鳥越氏が原発ゼロを公約に掲げると、民進党は慌てることになるのだ。
民進党は電力会社の組合の連合体が、その有力な支持層の1つであることもあり、原発については減らすことは言っても、ゼロではなく、活用するという方針である。だから、共産党に近い公約を鳥越氏が言い出した事で、党内が揉めだしたのだ。
政治については、ほとんど知識も政策も持たず、その場その場で思いついたことを言う鳥越氏は、反原発を言えば、票が増え、劣勢が挽回できると考えて、当初言っていなかったことを言い出したのだろうが、その言動が民進党のお粗末さを露呈する結果となってしまい、当初は留任が決まりの状態だった民進党の岡田代表が辞任することを決める1つの理由となった。
マスコミ、学者が小選挙区に変える大きな根拠として言っていた自民党の派閥の解消は派閥というものの実態を無視し、単に派閥を悪として決めつけ、攻撃して来た学者やマスコミの知識不足を表すもの以外の何物でもなかった。
少し冷静に分析する人は、中選挙区時代の自民党について、1つの政党ではなく、いくつもの政党の連合体と考えるのが実態に近いとみていた。
中選挙区時代の自民党は旧社会党に近い考えの人達から、憲法を改正して軍隊と持ち、核兵器させ持つべきだとする右派の人達、そして、その中間の人達の集団と、思想的には幅広く、かつ柔軟だった。
だから、政権を取っている派閥の人達の行動が、選挙などによって国民から支持されなくなると、その考えとかなり違う思想を持つ人達のグループが政権を握り、党の方針も国民の声に合わせて軌道修正するという柔軟さを持っていたのである。
安保改正を強力に推進した岸元首相が、学生などの反対デモで倒れると、経済成長第一主義の池田首相へと交代したし、田中角栄首相が金脈問題で退陣すると、自民党の中でも一番の左派と言える三木政権の誕生となり、田中金脈問題の徹底解明の行動をしたなどはその例である。
更に派閥は先輩が後輩を指導する場でもあった。当選1回生は政治の事情や常識をほとんど知らない。それを派閥の先輩が後輩に丁寧に指導して行ったのである。だから、当選回数を重ねる内に、自分の専門分野を持ち、役人と議論しても負けない政策通が誕生して行ったのである。
マスコミや学者は、族議員についても、まるで利権探しの権化のように言って、非難したが、これも実態と大きく異なっていた。
国会の審議は本会議では方針演説や代表質問くらいが行われるくらいで、法案などの詳細についての議論は、各分野毎(省庁毎)の委員会で議論される。そして、国会議員はそのどこかの委員会の所属となる。
だから、1つの委員会に何年も属すると、自ずからその分野についてかなり知識を持つようになり、1、2年で担当が変わって行く役人よりも知識や見識を持つ国会議員が多数誕生するようになって来た。
事情を知らない国会議員は役人に「この問題の経緯はこういう風になっています」と言われると、そのまま信用するが、委員会の長く所属し、何年もその分野での審議に関わっている議員は役人の説明に「違うよ。その経緯はこうだろう」と役人に注意するくらいの見識、知識を持つようになって来たのである。
それは、国会議員を表面上は立てながら、実際は、自分たちのやりたいようにして、法律なども自分たちの都合の良いように書き換えていた官僚にとって、とても、不都合なことである。
だから、マスコミを使って、「族議員=利権あさりの悪」という悪のイメージをばらまいて、それぞれの分野で知識や見識を持つ議員を叩き、マスコミがそれに乗せられたというのが実態に近いのである。
勿論、利権あさりの議員がゼロだった訳ではない。しかし、大ぴらにそんなことをすれば検察や警察が黙ってはいない。
ここ数年、東大出身者で省庁の役人に就職する人が大幅に減っているという。
その理由が、「以前は、若い内は自分たちの思うように、国策のグランドデザインが描くことで国を動かす仕事ができ、一定年齢になると、老後の心配がない天下りで一生安泰だったのが、今は国会議員が事情に詳しくなって、官僚の思うように政策立案できなくなった上、天下りに対する批判が大きくなって、それも細って来たので、2つの妙味がなくなったため」と学生達は言う。
中選挙区制度だと、1つの選挙区に1つの党から複数の国会議員が当選する。となると、党の組織頼みでは、自分の当選は覚束ないと思うから、自分の選挙部隊をしっかりしたものに作り上げる事になる。
つまり、足腰が強くなるし、普段から、自分の選挙民との対話にも熱心になる。その地盤があるので、党の幹部などと意見が対立しても、遠慮せず、自分の信じることが言えた。だから、元気の良い若手が多く存在した。
これに対して、小選挙区制だと、党主導の選挙となり、党の幹部に睨まれることは、公認がもらえなくなり、言いたいことも言えなくなってくる。党主導の選挙中心だと、国会議員の足腰はどうしても弱くなる。
だから、党は余計、テレビなどで名前と顔が売れている人を候補者として、引っ張りだそうという安易な考えになっていまい勝ちである。
自民党は公明党と連立政権になって、選挙で公明党の支持を得られるようになったが、その一方で、公明党に借りを作り、必要以上に公明党を無視できなくなり、遠慮するようになったという。
公明党の支持母体の創価学会は国内の信者の数が減少しだしたので、海外での布教に熱心で、それもあって、中国、韓国に対しては、彼らが日本に厳しい対応をしても、創価学会=公明党の反対で、自民党はきちんとした反論はしにくい状態だ。
こうした点にも、小選挙区のマイナス面が出ている。
20160729
2,3週間で東京都知事を選ぶなんて無理、選挙戦は3か月間に
日本の法律は一応、国会で決める事になっているが、実際は細部は役人が作っている。その結果、元々、国会で考えた立法趣旨と違う内容になってしまっている法律は少なくない。そして、一度、できると余程の事がない限り、変更しないのが日本の法律で、実態とかけ離ている法律が少なくない。
その代表例が公職選挙法である。公職選挙法では、あれはしてはダメ、これはしてはダメと細かく規定している。少し前に、ある衆議院議員が1本百円くらいの団扇を聴衆に配ったら、「買収だ」という話になって、国会で追及され、その議員は大臣を辞めないといけなくなった。
こんなのは、団扇を配った本人が悪いのではなく、1本百円の団扇を配っても、買収という考え方自体がおかしいのだが、細かい規則は役人が実態とは関係なく、頭で考えるので、こうなってしまう。
ちなみに、この団扇の話は、民進党の東京選出の知名度の高い女性候補者が同じようなものを配っていたことがわかったが、彼女の選挙事務所が作った団扇には、柄がついていなかったので、団扇ではなく、ビラという扱いとなって、法律違反でなかったという解釈になったという。
こんな実態とかけ離れた法律解釈がなされるのは、詳細を国会議員ではなく役人が作るからである。
東京都知事選挙は、最後に立候補した、いわゆる後出しじゃんけんが有利と言われるのも、知名度が高いタレントやテレビで名前と顔を売った人が候補者に担ぎ出されるのも、公職選挙法のためである。
有権者が1千万人以上いる東京で、1カ月足らずで、知事を選べということ自体無理で、それを公選法が決めているから、その人の見識、経験よりも、知名度ということになってしまう。
だから、二代連続して、途中で知事が辞めることになるのである。
筆者は東京、大阪、神奈川など、有権者が300万人など一定以上いる選挙区では、知事選挙は運動期間を3カ月に改正すべきだと思う。
そして、諸外国の大統領選挙などで行われているように、2回選挙を行うようにして、1回目で投票者の1割以上を占めた人を上から5人を選び、(1割以上の人が3人なら3人で良い)、その残った人で決選投票を行うのである。
1回目の選挙で生き残った候補者には、1カ月間、毎週末に、各テレビ局の報道番組に出演して、1時間議論を戦わせることも義務付けるとともに、週1回、公会堂などを使って、生の討論会を実施し、候補者は出場しないといけないとする。
こうすると、単にテレビで名前と顔が売れているだけという、タレント候補などは直ぐにボロが出て来るし、調子の良い事だけ言っている人は、「では、財源はどうするのか」とか、「言っていることは調子が良いが、それを実現するための、具体策は」という質問に答えられないので、口先だけということが分かってしまう。
2回選挙をするという話をすると、マスコミは直ぐ費用の話をして、税金の無駄使いという話をするが、それは全く違う。元々、民主主義とはコストのかかる制度である。主権在民を実現するために、費用はかかるのだということをきちんと理解すべきである。
良い知事が当選し、善政をしてくれれば、そんなコストは直ぐに回収できてしまうのだ。
最後に、選挙についてのマスコミの予想記事だが、これも最終的な選挙結果に大きな影響を与えていて、その内容で、毎回、当選者がひっくり返ることになるのが少なからずある。
公職選挙法では、優劣を数字で表すことなどを禁止しているが、かなり実態を示している、今のマスコミの表現の仕方は法律違反にならないという解釈になっている。
でも、本来の趣旨からいえば、今のマスコミの表現の仕方そのものは、法律の趣旨違反である。選挙期間を3カ月とし、最後の2週間は、どちらが有利不利とか、どちらがリードしているというような報道は法律で禁止すべきである。
どの候補者がどれくらい有利に選挙戦を進めているか、読者や聴視者は知りたいはずだとマスコミ側が言うだろうが、他の人がどうかではなく、自分の目や耳を信じて、候補者の話を聞くことで、判断するというような習慣をつけることの方が、民主主義教育にはなるはずである。
20160728
取材の詰めが甘い最近の記者、レポーター
新聞、テレビの記者やリポーターが話題の人間に対して取材で質問をする時、最近のこうした人たちの取材の詰めの甘さ、というか基礎の欠如を感じる。
週刊文春や週刊新潮が報じた鳥越俊太郎氏の若い女性に強引に関係を迫ったという疑惑の話でも、取材記者、リポーターの質問の仕方は、「週刊誌で報じられている事についてコメントをお願いします」とか、「報道についてどう思いますか」というような質問の仕方で、切り込み方が全く甘い。
質問の仕方は簡単で、「13年前、あなたは若い女性を自分の別荘に誘って、強引に関係を迫ったという事ですが、この女性を別荘に誘ったのは事実ですか」というように具体的に事実を確認する事なのだが、そうした質問の仕方をする人間がいない。
更に、「この女性の恋人の男性と、その件で、連絡を取り合ったということで、週刊誌はそのやりとりのメールを掲載していますが、この男性とやりとりをしたのは事実ですか」という事の聞くべきなのだが、こうした質問もない。
取材でも、裁判での弁護士や検事でも、抽象的な質問ではなく、こうした具体的な事実について聞いた行けば、相手はきちんと答えざるを得なくなり、やりとりをしている内に、ボロが出て来る。そうしたら、そのボロ、矛盾を更に聞けば良いのだ。
これは、鳥越氏への取材だけではない。一時期大きな話題になった小保方女子の記者会見でも同じだ。彼女が「自分はスタッフ細胞を何百回となく作ることに成功しました」と述べた時、「一回の細胞作製にどれくらいの時間がかかるのですか」とか、「最後に成功したのは、いつですか。そして、その時に、一緒に誰かいましたか」というように具体的に聞くべきなのだが、そうした詰めを何十人もいる記者、リポ―ターの誰一人しようとしない。
そして、基礎の基礎として、「それだけ成功したというなら、そのデータを記録した実験ノートがありますよね。それを示してくれますか」ということを聞かないといけない。
研究者はそれが博士号を持つ人でも、大学院生でも、実験を行う時は、出て来るデータを事細かにノートに記録して行く。それが理系の人にとっては何よりも大切な証拠であり、次に同じことを再現する時に有用なデータになるからである。
こうした事は、理系の研究者の取材を少しでもしか事がある人間なら、誰でも知っていることだが、こうした知識がほとんどない人が集まって質問をするので、発言者の嘘、矛盾が見抜けないのだ。
そもそも「何百回も成功しています」と言ったら、ああ、これは嘘だなと思わないといけないが、そうした取材者としての記者感覚を持っていない人たちが質問をしているので、嘘が見抜けないのだ。
画期的な実験に成功した場合、通常は何十回となく失敗をし、その失敗の記録の中から、どうしてうまく行かないかのヒントを探り、少しづつ条件を変えて、実験を繰り返し、次第に良いものが出来て行くというのが通常のパターンである。
ということは、失敗と成功の両方の記録を克明に記したノートが何十冊とないとおかしいが、そんな事はほとんどの人が質問をしない。
「私は何百回となく作りました」と言ったら、あっ、嘘だなと直感的に思わないといけない。これだれ画期的な事であれば、そうした細胞を作るのに、なかりの時間や手間暇がかかるはずである。何百回と言ったら、膨大は時間がかかっているはずで、それだけの時間はとてもなかったと思わないとおかしいのだ。
そして、「何百回となく作成に成功したというなら、その記録を見せてください。自分で出来たというだけなら、小学生でも言えます。少なくても博士号を持つ人なら詳細な記録、データがあるはずです」と直ぐ質問しないといけないのだが、こうした質問をする人もいなかった。
実際の話、彼女は数年間で2,3冊のノートしか書いておらず、しかも、漫画チックな絵を書いたいたということで、それだけで、博士号を持つ人、世界的な発明をする人としては信じられない行動パターンである。
テレビ局のリポーターは芸能の話題から、政治、経済のネタまで同じ人が取材をするのだから、基礎知識がないのは仕方ないかもしれない。まして、ほとんどの下請けの制作会社やフリーのリポ―ターに取材を任せているのだから、取材が甘くなったもやむを得ないかもしれない。
でも、テレビ局といえども、社員の記者はいるはずで、重要な案件にはこうした記者を派遣して、ポイントを外さない質問をすれば良いのだが、それすらしていない。
部門ごとに細かく分けて担当している大手新聞社の場合、それぞれの分野ごとの専門家がいるはずで、こうした記者にこそ、詰めた質問をしてほしいのだが、最近はどんな会見を聞いていても、厳しく切り込んだ質問というのを聞いたことはほとんどない。
なぜ、こうなるのか。
筆者が若い頃は、記者になって、人の知らない隠れた真実を追いかけようといようなタイプの人がマスコミを目指した。何でも見てやろう、聞いてやろうというような人種の人が記者を目指したのである。
しかし、新卒採用の学生面接を十数年にわたって行い、何万人の学生と面接した経験から言うと、今の学生は、銀行、商社など全く求める要素、資質が異なる業界と並行してマスコミを受ける。
そして、一流大学の学生で、受け答えに卒がなく、試験も出来れば、合格してしまう。だから、取材される側として、若手記者と接してみても、「えっ、この人が記者」というようなタイプ、およそ記者らしくない記者が多い。
彼らの質問もそれとないようなものだし、出て来た原稿もかったるいものになってしまうのである。
マスコミは斜陽産業だと言われるが、それでも、まだ、学生の人気は高いはずである。採用する側が大学名ではなく、求める資質をしっかり見据えて、採用活動をすれば、詰めが出来ないような記者はいなくなるはずである。
もっとも、採用担当者に話を聞くと、東大が何人採れた、早慶は何割というようなノルマがあるようで、記者の資質よりも、大学名を優先せざるを得ないという。こうした考えが続く限り、読者や視聴者にきちんとした情報を提供するのは難しいと言える。
ご批判、ご指摘を歓迎します。
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