索引
20160727
マスコミ、学者、弁護士が政治的に大きく偏向する理由
この週末に選挙が行われる東京都知事選挙には、長年、新聞社に記者として籍を置いた後、テレビ番組でキャスターを務め、顔と名前を売った鳥越氏が立候補しているが、先の参議院議員選挙でも、同じようにマスコミで、名前と顔を売った記者やアナウンサーが多く立候補し、何人もの人が当選している。
戦後の混乱期から経済成長が続いた頃にも、マスコミ出身で政治家になった人が何人もいたが、かつての記者上りの政治家というのは、政治部の記者出身が圧倒的に多く、記者として取材をする内に、政治の世界を知り、自分も政治家になろうとしたというパターンが多かったが、近年は、マスコミで顔と名前を売って、それを武器に当選するパターンで、かつてとは大きく様相が行って来ている。
そして、近年では、自民党か立候補するマスコミ出身者も居ない訳ではないが、数の上では、野党、民進党(民主党)からの立候補のする人の方がダブるスコア位の差で多い。
マスコミ出身者が第二の人生で、政治家になるのは個人の自由だが、野党から立候補し、当選する記者出身者がかなりの差で多いということは、現在のマスコミの体質そのものが、かなり反政府、反自民であることを示しているように筆者には感じられる。
マスコミは権力者である政府や首相、大臣、議員などの批判をし、暴走しないようにするのは、その役目の大きな部分である。しかし、ここ十年あまりのマスコミの様子を見ると、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、TBS、テレビ朝日は間違いなく、反政府、反自民であり、政府や自民党の失敗や問題点は、それこそ、重箱の隅を突いて報道する。
もっと言えば、事実を捻じ曲げて、読者や視聴者が誤解するような伝え方で、政府や自民党の問題点を大きく取り上げる。
TBSの「サンデーモーニング」「ニュース23ショー」やテレビ朝日の「報道ステーション」などは、正に政府、自民党叩きに徹していると言っても過言ではない番組作りをしている。そして、それを批判されても、報道の自由を根拠に一向に変えようとしない。
その一方で、野党、民進党、かつての民主党が大きな失敗や誤りをしても、その扱いは地味で、当然、大きく報道しないといけない事でも、ほとんど報道しないことが珍しくない。
筆者はマスコミに在籍していた時、健全な政府、自民党批判は存在していたが、今のように、最初から「政府、自民党=悪」という前提で、原稿を書いたり、番組を作ったりすることはなかった。それが今は、本当に極端に反政府なのである。
何故、そうなってしまったのか。その理由を考えて1つの事に到達した。
筆者は70年代安保闘争時代に大学時代を送った。卒業の年には、全学連の東大の安田講堂封鎖で、東大は卒業式が出来ず、東大生は卒業が遅れたという時代だった。
筆者より少し上の世代、60年代安保世代もそうだが、当時は、東大学長が反政府的な発言で学生を煽っていた時代で、学生の多くが全学連運動をした。
しかし、それは例えば、岸信介首相が実行した日米安保改定について、その改訂の内容を知っている学生はほとんどおらず、「政府、自民党=悪」であり、「政府のすることは間違っている」という前提で行動したのである。
そして、国会議事堂に何十万人が抗議デモに言った学生運動は、岸政府を倒しはしたが、首相が変わっただけで、自民党支配は変わらず、ほとんどの学生は挫折した。「アカシアの雨がやむ時」や「ノルウエーの森」の世界である。
そして、学生運動を熱心にしていた学生は、大手企業に就職することができなかった。当時は大手企業は、興信所を使った採用学生の身元調査をするのは当然の行為だったので、学生運動を一生懸命やっていた人間は直ぐにわかってしまったからである。
そうした大手企業の就職できない学生はどうなったか。
一部は地下に潜り、カリカリの運動家になったりしたが、そんなのはほんの少数派で多くは思想チェックが甘かった組織に潜り込んだ。そして、マスコミと大学の教員がそうした学生の大きな受け皿になったのである。
都知事選挙に立候補している鳥越氏が「大学に7年在籍し、毎日新聞に拾ってもらった」というニュアンスのことを自ら言っているのは、そうした事情を説明するものである。
マスコミにも、大学にも潜り込むことができなかった学生で、頭が悪くない法学部出身者は勉強して弁護士の資格を取った者も少なからずいた。
こうして、当時、流行った言葉で言えば、転向した人達の心情、行動はと言えば、基本は反権力であり、反政府であった。しかし、その一方で、自分たちが熱情で行動した学生運動がたわいもないものであり、「学生運動を展開すれば、革命が起きる」と信じていたのは、ユートピアであることも良くわかっていた。
だから、言葉では反政府、反自民的な事は言いながら、自分にも疚しさがあり、反政府であるとしても、それは、ある種、歯止めの効いたものであり、マスコミの政府批判の範囲に収まるレベルのものだった。
しかし、それらの人たちが管理職となり、学生運動を直接体験したことがない世代を指導するようになると、言った言葉だけが独り歩きをして、教えられた側の世代の人間は、てらいも自制も効かず、反政府、反自民の行動をするようになったのである。
こう考えると、今の新聞社、テレビ局が反政府、反自民の度合いがひどくなり、かなり変更した記事を書いたり、番組を作っていることが理解できるのである。
これは大学教授や弁護士などでも同じで、ポスト安保世代は、頭から「政府、権力は悪」と信じていて、確信的に、反政府、反自民の行動をするようになってきたのである。
安保体験者はもう70台以上である。そして、その人に指導され、結果的に洗脳された世代は40歳代、50歳代なのである。この人たちは今、新聞社やテレビ局で権力を持っているので、記事も番組も彼らの主張通りの内容になるのである。
しかし、それを見ている若い20歳代、30歳代は少し考える人なら、事実をねじ曲げて報道する40歳代、50歳代の姿勢をおかしく感じ、批判的になっている。だから、若い世代に政府、自民党支持派が増えているのである。
鳥越俊太郎は正に安保転向世代である。そして、心では多分、彼の中にはてらいはあるはずである。しかし、後輩を反政府、反自民で指導して来た手前、そんな事は口が割けても言えない。
だから、彼には記者として培った議論テクニックはあっても、真の信条、信念がないのである。だから、言う事がその場、その場で場当たりであり、コロコロ変わるのである。
また、筆者にも経験があるが、大手マスコミで記者をしていると、女性にもてるのである。鳥越氏は女性にはまめで、仕事で知り合った、少し良い女性には片っ端から声をかけ、誘っていたという、かつての同僚の話もある。だから、週刊文春が書いた以外にも、話はいくらでもあるのである。
万一、彼が知事になったら、健康面、信条の無さ、だけでなく、そんな話が次から次へと出て来て、また、短期間で選挙をしないといけなくなるだろう。
名前が売れているから、顔が売れているからというだけで、彼を都知事候補にかつぎだした民進党と共産党は万死に値するくらい罪は重いが、もし万一、彼が当選でもしたら、東京都民は過去の失敗から何も学ばない愚か者になってしまう。
他の候補者がそれ程良いとも思えないが、「鳥越以外の誰でも」という事態であることを理解しないといけない。
日曜日の結果はどうであろうか。
20160909
ネット広告のうるささと、ビッグデータが有効だという嘘
ネットで色々な事を検索している途中で、面白い記事などを発見して、見ていると、ネットの広告がうるさくてたまらない。単にバナー広告で、右や左の肩などに掲載されているのなら良いが、飛び出したり、動いたりするので、記事を読んでいたり、何かを探している時には、目障りで仕方がない。
また、最近はネット上の動画で、色々な人が自分の意見を言ったり、テレビの番組を録画したものを流したりしているが、これを見ていると、途中で画面がぶった切られ、広告が入る。その番組の内容に相応しい広告なら、まだわからないことはないが、全然興味のない車のCMだったり、化粧品や不動産の宣伝だったりすると、腹立たしいだけである。
テレビのCMについては、前にも書いたが、日本のTVCMは不思議なくらい甲高い声で絶叫するタイプのものが多いが、筆者はテレビを見る時は、手元にリモコンのスイッチを置いておいて、CMになった途端に、「消音」ボタンを押して、無音にする。
そして、番組が再開されたら、音をオンにして、番組の続きを聞くという事にしているので、甲高い絶叫調のCMや、バカのような利用者のダイエットや化粧で顔がきれいになったというようなCMはその内容を聞かなくて良いようにしている。これだけに不愉快さは大分解消される。
しかし、ネットの宣伝は、このリモコンスイッチがないので、不愉快で自分が全く興味がない宣伝でも、聞き続けるのを甘受するしかない。PCの音を無音にするという方法もなくはないが、テレビのリモコンに比べると、使い勝手が今一つなので、これも使いにくい。
テレビで番組をしばしば中断してCMを流しているので、パソコンでも動画などをぶった切って、CMを流しても、問題ないだろうとネット会社や、広告代理店、スポンサー企業は思っているかもしれないが、テレビとパソコンは全く違う。
パソコンの宣伝は、片隅にバナー広告というようなスタイルに慣れて来ただけに、画面全体で宣伝を流されると、とても違和感があるし、何でこんな広告を見せられないといけないのかという気になる。
筆者は、地上波の番組があまりひどいので、現在は特定の数番組を除いて、地上波を見ていない。テレビで見るのは、BS、CSだけである。
BS、CSではCSをメインに見ている。CSはほとんどの局が視聴者が有料で見ていることもあった、番組の途中でCMはほとんど流れない。こうして、CMとほとんど付き合わない生活をしているだけに、パソコンで、自分に関係ない宣伝を見せられたりすると、無性に腹が立つ。
勿論、ネットの会社は宣伝なしでは成り立たないので、宣伝を入れるのはわかるが、せめてバナー広告くらいにしてよと言いたくなる。
ネット社会になり、多くの人がパソコンで色々な情報を検索する。その検索歴をネット側が蓄積していて、この利用者はこうしたことに興味があるのだということを認識、識別して、その人向けの広告をネットでも配信するようになった。
いわゆるビッグデータの活用である。そして、ビッグデータを管理し、利用者に向いているCMなどを流すための仕訳などをしている会社が上場するようにまでなった。
テレビで、こうしたビッグデータ管理会社の社長が出て来て、「ネットユーザーにその人に合った宣伝を流す事で、売り上げが大幅アップしたと、スポンサー企業に喜ばれています」と話をしていた。
そして、日経新聞などは、こうした話は当然のこととして、ビッグデータの活用が必要であるような記事を書いている。でも、ビッグデータの社長の話も、日経の記事も、筆者はとても、その通り受け取れない。
むしろ、あなた向けの広告ですという感じで、自分が以前、検索した分野の商品やサービスを、それこそ、飛び出す広告で流されると、「うるさい。今は関係ないだろう」と思って、「何がビッグデータだ」という気になってしまう。
筆者の体験で言うと、少し離れた所に住む親戚の年寄りの人間が、直ぐ近くにいる40歳代の娘が入院することになり、高校生の孫の食事の面倒をみないといけなくなった。だが、この年寄りも病気を抱えていて、病院通いをしているので、孫向けの料理を作ってあげるのが難しいと相談された。
そこで、ネットでその親戚が住む地区の宅配の弁当業者について調べて、それが毎日届くような手配をしてあげた。
それから何が起きたというと、ネットで資料などを調べていると、宅配弁当の業者の広告がそれこそ、飛び出す広告で何回も流れたのである。
筆者自身は、スーパーで出来合いの惣菜すら買うのが嫌で、料理は自分で作ったものを食べている。出来合いのものは油を多く使っているし、味も濃い。更に、かつて、取材でそうしたものを作る現場を色々見ているので、出来合い惣菜は食べようとは全く思わない。
1つの例を言えば、コンビニの惣菜、弁当などは、盛り付けをした後、防腐剤がシャワーで流れる下を流してから出荷しているのである。
米飯業者と仕事で付き合うようになったら、彼らが本音の話をしてくれた。「駅弁を食べるなら、1500円以上のものを食べてください。それ以下のものは防腐剤の塊です。コメは炊いてから常温で置くと、半日で腐るのです。1500円以上もものは比較的短時間内に炊かれた米が中心ですから」 生活習慣に、こうした知識もあるので、宅配弁当など取ろうとは考えもしない。上記の事情だから、調べて手配しただけなのだが、うるさいくらいに、宣伝が流れたのである。
人間は色々な側面を持っている。たとえ話で良く言われる話だが、海外有名ブランドの服を買う顧客が、ユニクロで安い衣料も買うし、時には、百円ショップやコンビニで間に合わせる事もある。1人の人間がTPOで使い分けているのであり、人間は多面的なのである。
だから、そうした人が今、何をしようとしているかが問題なのであって、現時点で、安売りの服の事など考えている状態でない時に、安売りの服の宣伝をネット広告で散々見せられると、「今はそんな宣伝は見なくない」と不愉快になるだけで、宣伝は逆効果になることも十分あり得るのだ。
筆者は不動産の物件の検索をよくする。
自分自身、購入の意思がないこともないが、多くは定点観測で、どの地区で不動産の物件がどういう値動きをしていか、値上がりしているのか、値下がりしているのか、更には、出た物件がさっと売れてしまっているのか、なかなか売れないで残っているかなどど調べている。
だから、週に数回は不動産情報会社のネット広告を検索する。そのせいだろうが、ネットで調べ物や書き物などをしていると、不動産情報会社のそれこそ飛び出す広告が頻繁に出て来る。検索作業をしている時など、邪魔で仕方がない。
更に、「あなたにお勧めの物件」などと書いた広告が飛び出す広告で出て来る。
自分で買うというものについては、戸建なら、土地の広さ、家の広さ、間取り、駅からの距離、地区などによって、関心があるものも、全く無いものもあるが、ビッグデータはまだ、そこまで精度が高くないので、筆者が譲れない所などお構いなしに「お勧め物件」を送ってくるのだ。
時間がなくて、急いで調べ物をしている時に、自分の興味がない物件を「あなたにお勧めの物件」と飛び出す広告で送られて来た時の、受け取る側の心理をビッグデータの会社や広告代理店などは考えたことはないのだろうかと、不思議でならない。
日本では地上波のテレビの番組内容のひどさに、一般視聴者のテレビ離れが進んでいるという。主要テレビ局の広告収入は減って来ていると言われる。
それだけに、スポンサー企業も、代理店など広告にビジネスとして携わる会社の人も、ネットを重視に、そこでの広告に力を入れている。しかし、見ていると、CMを作る側も、流す側も、テレビ時代のままの感覚でCMを作り、そして、テレビのままの手法で流している。
自分自身がパソコンを使っている時に、どういう心理状態で、どんなCMは受け入れ、どういうCMは毛嫌いするかという事を考えれば、もう少しましなネットCMのあり方を考えると思うのだが、そうした発想がほとんど見受けられない宣伝ばかりである。
ユーチューブで歌手が歌っている動画を見たり、ダウンロードしたりする時に、歌の前に流れるCMを削除できるソフトがあり、筆者などは好んで、このソフトを使っている。好きな歌手の歌を聞くのに、自分に関係ないCMなど強制的に見せられたくないためである。
こうしたソフトが存在する事自体、利用者の心理状態を示すものだと考え、CMに関係する仕事をする業界の人間は、もっと、利用者サイドに立った、宣伝のあり方を見出して欲しいものだ。
テレビの好きな番組を録画する際に、テレビで流れるCMを削除して、番組を録画するというVTRをかつて、ある電機メーカーが開発した。視聴者の心理をよくわかった商品作りだと感心したら、間もなく、そのVTRは販売中止になった。
テレビ局がスポンサー企業からの強い要請で、その電機メーカーのCM削除のVTRを販売しないように要望した結果だという。利用者本位でない日本の企業社会の考え方を示すエピソードで、ネットの宣伝も多分、利用者本位ではなく、スポンサー企業本位の状態が続くのだろうが。
20160906
民進党立て直しのキーは、非正規労働者廃止実現への取り組み
民進党が次の代表者を選ぶ選挙に3人が立候補し、テレビに3人が出て自分の政策などを話をしているが、3人の話がいづれもぱっとしない。言っている事に新鮮味がなく、自民党に対抗して、本気で政権を取ろうという姿勢が見えないからだ。
だから、マスコミは一応、テレビの報道系の番組が3人を呼んで、意見を言わせているが、代表選挙全体として、全く盛り上がっていない状態である。
筆者は、民進党は党としての体をなしていないと考えている。
かつて、自民党にいた議員から、社会党左派と言われた人達まで幅広く、憲法問題でも安保問題でも、党としての意見をまとめる事が事実上不可能な人が混在し、党として、何をして、どう行動するかということが見えないからだ。
加えて、政権を取っていた時のお粗末な政権運営について、真剣に反省をし、何が問題で、どう改善すべきかという議論さえ、きちんと行われていない政党を、選挙民がいかに信頼することができるかという認識すらない。
まして、最有力と言われる蓮舫氏は、派閥の長でもなく、つまり、自分が党首になった後、何かをしようとした時に、彼女のために、真剣にサポートする部下的な人もおらず、ただ、長老たちが、彼女なら、看板として選挙を戦うのに適している上、経験的にも政策的にも未熟で、長老がコントロールしやすいという認識で、彼女を担ごうとしているというのだから、彼女が党首になっても、何も出来ないというのが見えてしまっている。
ただ、強く健全な野党というのは、政権交代の受け皿として絶対必要で、その核になり得る民進党には、頑張ってもらわねばならない。
一番良い方策として筆者が考えるのは、国の重要政策で意見が全く異なる人たちが1つの政党にいること自体問題なので、解党して、意見の一致を見る事が出来る人達で党を作り直すことだと思う。
具体的には、前原氏や長島氏など党内右派と言われる人達と、旧民社党系の人、それに、少し前に合流した旧維新の人達が、旧社会党系の人と袂を分かち、大阪維新の会と共同会派を作ることである。ここに、嫌われているが、小沢一郎氏らの党とも、既に言えない状態の党のグループの人達だが、合流すれば、政策面では、大きな相違はなく、党としてまとまって行動すること可能になって来る。
つまり、現在の議員から、旧社会党系の人と、原理主義者と言われる岡田前代表、菅元首相などを残して、分派することが、党は少し小さくなるが、健全野党になる一番の近道だと考える。
こうなれば、数の上でも、それなりの数字になり、すっきりした政党になるので、選挙で議員を増やすことも難しくない。そして、なにより、基本理念が基本的に異なる政党とは、統一行動はしない事だ。
自衛隊を「人殺しの組織」と公言し、「憲法を守る」と言いながら、現在の憲法が制定された時、唯一党として反対票を投じた上、党是で「天皇制の廃止」を謳っている、つまり、憲法改正を党是としている矛盾だらけの政党と、数合わせで協力しても、選挙民からすれば、1+1=2と感じられないからだ。
野党が協力しないと、選挙に勝てないからというが、それは違う。言っている事、している事に信頼がおけ、党としてバックアップして行こうと思うような政党になれば、かつて、政権が取れたように、選挙民が放っておかない。
ただ、現実には、解党や分党は難しいだろう。労働組合を中心とする組織の支援があるので、当選している人が少なくなく、党を割って出たら、選挙で落選の危険性があるということで、党を解体するという動きにはなりにくいと思われるからだ。
では、現在の枠を壊さないで、一番、選挙民の支持を得られる現実的な政策、行動は何かといえば、法律に謳っていて、日本では本来、大原則である「同一労働、同一賃金」を完全に実現し、「非正規と正規労働の区別をなくすこと」の実現1点に絞り、全力で行動することだと考える。
そうすれば、現状に苦しんでいる多くの非正規労働者に支持され、政党として、頼りになると見直してもらえる。
今、若者の「ワーキングプア」が大きな問題になっている。それは、非正規労働者が多く、フルタイムで働いても、手取りが十万円程にしかならない労働者が多いから、そうした現象になるのである。
筆者が若い時代でも、中小企業もあったし、零細企業もあった。大企業の下請けで、細々と仕事をしている会社もあった。小さな飲食店で働く人も結構いた。でも、昔は、短時間の学生アルバイトなどは別として、どんな小さな会社でも事務所でも、非正規という人は基本的いなかった。
フルタイムでその会社で仕事をすれば、今の金にして、20万円くらいはもらえていた。これなら、社会保険や税金を取られても、どうにか最低の生活はできた。だが、フルタイムで働いて、手取りが十万円前後では、人らしい生活など出来る訳がない。
今の安倍政権も、「非正規労働者の廃止」に向けて熱心に行動しようとしている。だが、非正規労働者をなくすと、コスト増になるとして反対する経営者団体と、非正規廃止は自分たちの既得権の侵害になると反対する労働組合の双方から協力が得られる、立ち往生している状態である。
ここで、民進党が憲法問題や原発問題など、どうせ党内がまとまらない問題にあれこれ言わないで、「非正規労働者の廃止」の一点に絞って、実現に向けて、具体的なアクションを起こせば、大きなインパクトになり、社会現象となること請け合いだ。
経営者に向けては、「昔も経営が苦しい中小企業もあったが、皆、正規労働者だった」と言い、零細企業の経営を圧迫している大きな要素である社会保険制度の減免措置の導入の働きかけをすることだ。
会社を経営するとわかるが、中小企業にとって、社会保険料は大きな負担で、それが支払えないので、社会保険に未加入だったり、労働者を非正規にする会社が少なくない。これを厚労省とともに、資本金や売上高などで中小・零細企業には減免する法律を作り、支援をしてあげれば、それだけで、非正規労働者は大幅に減少する。
労働組合は民進党の支持基盤であるだけに、こことどう交渉し、譲歩を引き出すかが、党としての存在を国民に示せる大きな試金石になる。労働組合が一番心配しているのは、非正規労働者をなくすと、正規労働者の賃下げなどのつながり、待遇の悪化になるという事である。
少し専門的になるが、会社経営を考える時、全体のコストに対する労働コスト、つまり、労働者のために支出する費用の総額、労働分配率というが、これは、ずっと会社にとって、業種や企業のよって異なるが、一定の数字だった。それが、長引く不況などで、コストの削減の中で、ここに手を入れて削りだした会社が少なくない。それが非正規労働者が大量発生した最大の理由である。
業界や会社ごとに、過去の労働分配率を調査し、そこは聖域として、経営者に手をつけないように約束させることで、労働組合の非正規廃止の同意を取り付けるのだ。
一方で、労働者の意識改革も必要で、日本の労働者は工場で働く人は別として、いわゆるホワイトカラーの労働生産性は先進国の中で最低水準である。これを引き上げる工夫を会社、組合、官庁など挙げて、協力してして、非正規労働者をなくすことにともなうコスト増を吸収するようにするのだ。
上に書いた事は、色々な問題が絡んでいるので、解決は大変である。しかし、民進党が党内にプロジェクトチームのようなものを作り、最優先課題として、党首が先頭に立って、これに取り組み、批判だけする政党でなく、解決策を提示し、関係者と協議しながら、解決策を見出す行動をすれば、国民の「民進党はダメな政党」というイメージの払しょくに大きく貢献するだろう。
社会保険問題は、引退世代への給付を減らさないで、必要な費用を現役世代に求めるから、労働者1人あたりの社会保険料はうなぎのぼりになっているのだ。
年寄りは農村など、受け取る側の人に多くの支持者がいる自民党に、この問題に改革させるのは難しい。福祉の充実を優先課題とする公明党にも無理だ。だが、そうしたしがらみの少ない民進党が、非正規労働者の廃止の運動の中で、社会保険制度の改革に取り組む姿勢を見せて、実現に向けての行動をすれば、政党としての信頼を取り戻す大きなチャンスになると思われる。
あれもこれもは、結局何もしない事につながる。自民党の歴代の首相の中でも評価が高い人は、あれこれ手をつけるのではなく、「1内閣1課題」の考えで、1つのテーマの全力で取り組み、一定の成果を挙げた人である。
民進党が取り組むには、格好のテーマと思うがどうだろうか。少なくても、選挙向けの看板として代表者に据えるなどという発想で女性議員を代表者に選ぼうという発想よりも、政党として大分ましと思うが。
20160901
民主主義にはコストがかかるのに、いつも金の話を書くマスコミ
東京都の小池知事が築地市場の豊洲への移転について延期したことについて、某大手新聞は「設備が完成しており、使わなくても費用が発生するので、1日延期すると、700万円の支出が無駄になる」と書いた。それだけでなく、「既に冷蔵庫などを発注した業者などから、損害賠償を求める声も出て来るのは、必至で、移転延期は大きな費用増加になる」ともつけ足した。
別の新聞は、「移転を数か月後に控えて、今のタイミングでの延期は問題が多過ぎる」とも書いた。
これらの記事を読むと、「移転延期は大きなコスト増になり、問題が多いので、予定通り移転を決めるべきだった」との印象を受ける。
小池知事は豊洲の見直しは選挙公約であり、それが支持されて当選した以上、延期は当然の決断だと思うのだが、英国の国民投票を暴挙と書くような今のマスコミには、民主主義の重さ、意味がわかっていないのだろう。
そして、もし、小池知事が移転を予定通り決めたら、移転延期を批判的に書いたこれらの新聞は間違いなく、「選挙公約はどうした」と書くに違いない。
いつも思うが、首相や知事が議論が分かれる事について、どちらかの選択をすると、新聞やテレビは必ず批判的な原稿を書いたり、コメントをしたりする。選択がどちらであってもだ。それなら、「あなたの新聞社やテレビ局は、どうしたら良いと思うのですかか?」と首相や知事が質問したら、記者も新聞社の幹部もどう答えるというのだろうか。「マスコミは権力を批判するのが役割で、解決策は首相や知事が決めること」という発想なら、マスコミなど要らない。批判する以上、意見を求められたら、代案を言えるようでないと、マスコミの記者などとは言えない。
マスコミは権力の横暴や暴走をチェックする機能を有している。だから、首相や知事、市長の決断や行動を批判的に報道するのは構わない。
しかし、欧米のマスコミは悪い事は批判するが、良い事は評価し、褒めた原稿を書いたり、テレビでコメントしたりするが、日本のマスコミは批判だけで、評価したり、褒めたりするのを読んだり、聞いたりするのは極めて稀である。
特に政権党に厳しく、野党に大甘なのも、日本のマスコミの大きな特徴である。
その上、上の豊洲の件でもそうだが、必ずかかる費用、金の事を書く。
最近の例では、都知事選挙に何十億円かかるとか、参議院議員選挙には百億円単位の金がかかると、必ずと言って良いほど、金の事を書く。先日、自衛隊が大掛かりな実弾演習をしたが、マスコミはこぞって、この演習の弾代は数億円と書いた。
金の話を書くのは、「こんなに費用がかかるのだから、そんな事はするな」と言いたいのだろうかと受け取られても仕方がない。
しかし、民主主義に選挙はつきもので、選挙に金をかかるのは当たり前である。選挙に金をかけたくないなら、北朝鮮のような独裁国家になるしかない。
日本では民主主義は理想で、ベストの制度であるかのような言われ方をするが、民主主義はベストの制度ではない。欠点もあるし、費用もかかる。決定に時間とプロセスがいる。でも、他の制度よりは、まだましということで、多くの近代国家が民主主義を「ベターな制度」として、採用しているのだ。
自衛隊の演習でも、実弾演習に金がかかるので、するなという論理なら、外国が攻めて来た時に、実弾を撃った事が経験がない自衛隊の隊員は、どうやって日本を守るというのだ。
選挙に巨額な金がかかるという話をいつも書いたり、言ったりするマスコミだが、では、どうやってその費用を節減するかというような論点で記事を書いたり、コメントしたりしているのを見たり、読んだりしたことはない。
例えば、選挙だが、なぜ、それだけの巨額な費用がかかるかと言えば、ほとんどが人件費である。また、選挙の度に看板を作ったりする費用もバカにならない。だが、この費用を半分にしようとすれば、簡単にできる。
まず、選挙の投票の仕方を今のITの時代に相応しくコンピューター化することだ。本人確認はマイナンバーや指紋認証などで行い、投票所のコンピューター端末で、候補者の名前と写真が出ている画面を投票者が指で選択して、投票するようにするのだ。
こうすると、コンピューターが瞬時に集計してくれるので、集計作業がなくて済む。また、投票用紙に選挙する人が候補者の名前を書く今の制度だと、きちんとフルネームで書く人ばかりではないので、その書いた用紙が有効か無効かの判断が難しく、これにも時間と手間がかかる。だが、上に書いた方法なら、投票用紙が無効か有効かなどの話はなくなってしまう。
慣れてきたら、いちいち学校まで行かなくて、銀行のCDとオンラインでつなぐようにすれば、全国どこでも投票できるようになる。こうすれば、便利になって、投票率も上がるのは請け合いだ。
選挙管理は人件費の塊のような制度で、夜遅くまで選挙管理委員会の人間が全国で残業するから、膨大な費用がかかるのだ。これをコンピューター化すれば、選挙管理の大半の仕事はなくなってしまう。
筆者も何回も選挙取材したので知っているが、どの自治体も選挙管理委員会の人は、普段はする仕事がない。ただ、選挙の時だけ極めて忙しい。それが、普段、仕事をほとんどしない口実になっている。選挙管理をIT化したら、選挙管理委員会の人間は大量に不要になる。これも大きなコストカットだ。
コンピューターの費用に膨大な金がかかるという事を言う人もいるかもしれないが、投票所に今、当てられている学校は、どこもコンピュータが配備されているので、それを使えば、新たな費用は掛からなくて済む。
更に、選挙の度の設置され、そして、取り壊される候補者用の看板だが、これなどは、常設してしまえば良い。これもコンピューター化して、候補者が立候補の届け出をすれば、受け付けた選挙管理委員会が候補者が用意した写真をコンピューターで、看板に表示するようにすれば、大量の枚数を印刷する必要もないし、何百か所もある看板に人件費をかけて、ポスターを貼る手間もいらなくなる。
こうすると、組合や企業の支援を受けていない一般の候補者と、支援を受けている候補者のポスター貼りの差別がなくなり、より公平な選挙戦になる。
こうした看板のIT化、常設化に一番反対しているのは、組織力がある政党である。だから、今のIT化の時代に膨大な費用がかかるアナログのシステムでやっているのだ。批判が好きなマスコミはこうした事にこそ、批判の目を向けるべきなのだが、それをしようとしない。
選挙がない時には、その看板は市役所や区役所などが広報版として、市民に伝達する内容のものを掲示すれば、選挙がない時でも、無駄にならない。
筆者がちょっと思いついただけで、これくらいの選挙費用大幅削減のアイデアは出せる。現役の記者やコメンテーターなら、もっと良いアイデアが出せるはずである。
まあ、権力チェックなどと言いながら、SMAPの解散劇も、有吉弘行と夏目三久の結婚の話でも、日本の新聞、テレビは強力プロダクションの圧力のため、報道しないといけない事を何も報道していない。何が権力チェック機能なのかと思うだらしなさである。
20160830
日本のTVCMはどうして甲高く、絶叫するのか
日本の最近のTVCMを見ていると、CMの話をしている声の主のトーンが甲高いものが多い。その甲高い声で、しかも、絶叫したり、「皆さん」と大声で呼びかけているものがあまりにも多い。
甲高い声や絶叫調のCMを作る側は、甲高かったり、絶叫調だったりすると、視聴者の耳の入ると思って作っているようだが、生理的には全くの逆で、甲高く、絶叫調のCMは耳が「うるさい」と感じて、自動的にシャットアウトしたり、例え、耳の入っても、不愉快だと感じて、少なくても、そのCMを見て、商品を買おうという購買意欲に結びつくものにはならない。
逆に、中年の渋い声の俳優や声優が、映像のバックで淡々と説明しているCM、今では滅多にお目にかかれないが、こうしたCMに接すると、筆者などはそのスポンサー企業を高く評価し、その商品を買ってみようと思ったりする。
でも、こうしたCMは今や絶滅危惧種である。
健康食品やサプリなどのCMで多いのが、利用者の話を映像込みで流すものである。「これを飲んで、3カ月で○○キロ痩せました」とか、「肌がきれないなりました」というような話を利用者が語るのだ。そして、必ず、「これは商品の効果、効能を示す話ではなく、あくまでも個人の感想です」という字幕が入る。
この字幕は過大広告にならないようにとの役所の指導の下に、入れるのだが、筆者などは、「この話を信用してはいけません」とテロップが流れているように感じてしまう。
現に医者と話をすると、ほとんど全員と言って良いが、医者は「健康食品、サプリの類いは百害あって、一利なしです。使ってはいけません」と異口同音に言う。
健康食品やサプリの最大の問題点は、原料に何を使っているかわからないことである。誰でもが知っている有名企業だから安心というのは全くの嘘だ。
どこの会社とは言わないが、日本人なら知らない人はいないというくらい有名な大手企業が、ウーロン茶の原料を中国で調達する時、どこの会社よりも、一番質が悪く、安いものを買い叩いて買って行くというのは、この業界では知らない人がいないというくらい有名な話である。
コラーゲンなどの原料も、日本の漁師が海で捨てるものを中国人が海上で買って行き、中国でそれを加工して、日本に再輸出するというのは、これも業界では有名な話である。
この会社が商品のTVCMで、「○○品質なので、安心して使っています」というタレントの話を流しているのを見ると、筆者など思わず吹き出してしまう。
中国人が加工段階で、どんな薬品を使い、どのように処理するかなど、まったくわからない。そんな原料の商品を日本人が、企業名が有名だからとか、頻繁にCMを流しているからというだけで買っているのだから、危険極まりない。
健康食品やサプリのCMで利用者の話を流すCMは、流す会社が少ない内は、新鮮さもあり、宣伝として、それなりに意味があったと思うが、今は、何十、何百という会社が、出演者が違い、製品が違うだけで、後は、全く同じタイプのCMを流している。
同じトーン、同じような話展開なので、CMに全く差別化がない。だから、CMを見終えて、しばらくして、CMと商品が全く結びつかない。ということは、その商品を買ってみようというマインドにほとんどならないということである。
まして、一社が青汁が良いと言って発売すれば、他の会社も同じく青汁を作ってCMを流すのだから、どの会社の製品が本当に良いのかなどという比較はできないので、今は、青汁やミドリムシのユーグレナが流行っているのだなという位の印象で終わりである。
こういうCMが出て来た背景には、BSやCSでは、1時間の枠の中で、番組の映像は45分くらいで終わってしまう。地上波と異なり、BSやCSは途中で頻繁にCMを入れるのを視聴者が嫌がる傾向があるので、どうしても、時間枠の最後に10分くらいの時間が余ってしまう。
これだけの時間をCMで持たそうとすると、通常の15秒、30秒、1分という長さのCMでは到底持たないので、時間を稼ぐために、視聴者に話をさせてというようなアイデアが出て来たのだと思う。
それにしても、後から後へと同じトーンで、同じように利用者が登場では、高い金を出してCMを流す効果はほとんどないと思うが、CM制作者のアイデア、発想がプアなのか、どこの会社も同じCMばかりである。
不思議なのは、スポンサー企業の担当者や経営者がなぜ、他社と違う、印象に残るCMを作れと指示しないかということだ。TVCMには多額の金がかかる。筆者なら、他社と同じようなコンテを持って来たら、作り直しを命じるが、そうしたことがないのだろう。毎日、同じトーン、同じ種類のCMのオンパレードである。
最近のTVCMを見ていて感じる他の点は、同じキャラクターをどこもかしこも使っていることである。今、TVCMで一番の売れっ子はマツコ・デラックスさんだそうで、数え切らないくらい数多くの会社のCMに登場している。
彼か彼女か知らないが、この人に限らず、同一人物をいくつもの企業がCMキャラクターに使っている。これも筆者などは首を傾げてしまう。
特定の1社のCMにしか出ていないタレントを使っている会社のコマーシャルを見ると、というか、そのタレントがCMで画面に登場すると、スポンサー企業の名前がぱっと思いつく。今では、こうしたCMを流している会社は極めて少ないが、刷り込みが重要なTVCMとして、遥かに宣伝効果が大きいと思うのだが、滅多にお目にかかれない。
逆にマツコ・デラックス氏のようにCMに出まくっている人を使う会社は、マツコ・デラックス氏の宣伝にはなっても、商品の宣伝になっていない、つまり、彼女?と商品のイメージが結びつかないということを考えないのだろうかと、筆者などは考えてしまう。
最近のCMで目立つ傾向の1つは、見ていて、不愉快になるCMが結構あることだ。
画面でキャラクター達が、勿論、きちんと演出されての上だと思うが、ふざけているのを流している会社がある。また、奇妙な恰好や化粧の人を登場させて、それで印象づけようというCMも少なくない。
でも、そうしたCMは印象に残っても、商品の購買に結びつかないと思うのだが、スポンサー企業は黙って金を出しているのである。
CMが印象に残るということと、商品の購買に結びつくというのは全く別の話である。
有名な話で、大分以前の話だが、エリマキトカゲを歩かせるCMが業界で話題になり、これを作った制作担当者は高い評価を得た。しかし、このCMはCM自体は当時、ほとんどの人の印象に残ったが、どこの会社のCMかという点では、全く印象づけが出来ず、商品は全く売れなかった。
今、公営ギャンブルの1つが盛んにTVCMを流している。ここ数年のいくつかのバージョンを見る限り、CM自体は印象に残るものを作っているように感じるが、この公営ギャンブルの売り上げ増に結びついていないようだ。これはCMの問題ではなく、競馬を除く公営ギャンブル自体が廃れて来て、年々、売り上げが落ちて来ていることが大きい。
こうした競技で頻繁にCMを流すのを見ると、何のためのCMと思ったりする。
筆者はTVCMを依頼する側として、制作に関与したことがある。
TVでCMを流そうとすると、広告代理店に頼まざるを得ない。TVのどの時間にCMを流すのかというTV局側との交渉は、代理店に頼まざるを得ず、広告代理店を使わないで、この作業は出来ない。
勿論、最初の案のままだと、誰も見ないような時間に割り振られるので、ここはダメと言って、突っ返し、数回の交渉を経て、どうにか、目立つ時間に流すCMを少しでも増やす努力をしないといけない。
また、スポンサーサイドに特にこれと言ったアイデアがあれば別だが、CMのコンテも出演キャラクターの選定、交渉も広告代理店が担当することになる。普通の企業の人にとって、これはまず出来ない事であり、彼らに依存せざるを得ない。
ただ、企業サイドが代理店任せにし過ぎると、彼らは好き勝手をしだす。
キャラクターの選定も「今、このタレントは旬で、当社なら、通常価格よりも安く使う事ができます」と押し付けて来る。CM対象商品とそのタレントが合うかどうかなど、彼らには眼中になく、タレントの所属プロダクションから頼まれているタレントを勧めて来るのだ。
CMコンテも、向こうで作って持ってくる。商品のイメージと違うと、かなり強く言わない限り、それで押し切られてしまう。「私達はプロですので、お任せください」というのが彼らの常套語なのだ。
筆者の場合は、勧められた、商品のイメージと全く合わないタレントを拒否し、何人のタレントを出させて、何人目かに、やっとイメージに合うタレントに辿り着いた。
そして、CMコンテは代理店が作ったものはいくつも見せられたが、どれも気に入らなかったので、自分サイドでコンテを作って、この線で作ってくれと頼んだ。このCMは好評で、賞も頂いたが、広告代理店サイドの制作アイデアでなかったためか、受賞の時の担当広告代理店の名前は空欄のままだった。
当方がそれを望んだ訳ではないのだが、受賞した他のCMにはどこも有名広告代理店の名前が入っていたので、筆者のような例は珍しいのだということがわかった。
20160824
米国のドラマの主役は4,50代、日本は2,30代の差
アメリカのTVドラマの主役を見ていると、勿論、若者向けのドラマもあるが、人気のあるドラマは各地のCSIにせよ、Ncisにせよ、Bones にせよ、クリミナルマインドにせよ、デスパレートな妻たちにせよ、主役は40歳代や50歳代の人が中心である。
アメリカのドラマでは、40歳代、50歳代の人が主人公であるので、主人公の親は60歳代、70歳代で、人生の黄昏時を迎えつつある親の老後の問題とか、若くからの親子の諍いによる距離感であったりする展開が自然に入って来る。
また、40歳代、50歳代の主人公の子供は既に中高生や社会人であり、学生なら、学校の進学問題、成績、友人とのトラブル、恋愛、そして、親との意識のずれや、同居をするしないの問題などが、家庭での日々のやり取りの中で出て来る。
更に、40歳代、50歳代と言っても、当然、まだ、仕事でも恋愛でもバリバリの現役で、仕事では若い部下とのやり取りや、もめ事が日常的に出て来るし、自分自身の中年の恋愛話も登場する。
つまり、主人公を40歳代、50歳代にすることで、非常に幅広い年齢層の、親、子、部下、同僚、そして、恋愛相手などが自然に登場し、話に広がりが出て来るのである。
これに対して、日本のテレビドラマは、かつて一世を風靡した「剣客商売」や「鬼平犯科帳」などの時代劇物は別として、現代劇はほとんどのドラマの主役は20歳代から、30歳代である。
その結果、どうしても、20歳代、30歳代目線でのストーリー展開なので、アメリカドラマのような年代の広がりも少なく、それぞれの年配者目線での話ができにくく、ドラマに広がりと奥行きがなくなって来るのである。
たまに、年配者の話が出て来ると、介護だボケだというような話になっていて、日本のドラマ制作者の発想には、50歳代や60歳代の人もしっかり生きて、生活をし、悩みもあり、恋愛もしてという発想が乏しいように感じられる。
どうして、こうした差が出て来るかと言えば、日本のテレビ局や広告代理店で働く人達と話をすると、彼らの発想、ターゲットはずっと、若者中心で来ていて、彼らにいかに受け入れらるかが、大きな関心事だったからである。
しかし、この日本のテレビ局や広告代理店で働く人達の発想は正しいのだろうか。筆者は違うように思う。消費者の中心は高校生などと公言するコンサルタントなどもいたが、こうした発想が今の日本のテレビの衰退を招いているように思える。
今、家でテレビの前に座り、長い時間テレビを見ている中心層は若者ではなく、年配者である。その人達に、若者向けのドラマやCMを流すから、多くの視聴者から、「今は見る番組がない」という声が上がるようになり、視聴者のテレビ離れが進んでいるのである。
もう何十年も前だが、アメリカの大手テレビ局のCBSがテレビの視聴者の中心が、50歳代、60歳代だという発想で、番組作りをした結果、視聴率も稼げ、人気番組をいくつも作ることが出来たという話がある。こうした見本があるのに、日本のテレビ関係者は発想の切り替えができないのだ。
マスコミは一切報じないが、今、大きなうねりとなっていることに、「夢グループ」の躍進がある。夢グループは、かつて一世を風靡した歌手や、かつての大物映画俳優で歌も歌ってヒットしている人を集めて、全国でコンサートツアーをやっていて、大盛況なのだ。
コンサートでは、一部、二部構成になっていて、一部で小林旭などかつての大物俳優たちに、「織田信長」などのドラマを演じさせる。そして、二部では、この俳優や、かつて人気があり、ヒット曲を持っている歌手を何人も集め、歌を歌わせるのだ。
会場は全国の公民館や市民ホールなどを借りて行う。
今、テレビで見る番組がないと言って、不満に感じている年配者中心に、どの会場も満員の状態で、「夢グループ」は稼ぎまくっているし、バラではなかなか稼げなかった、かつてヒットした曲を持っている歌手も集めて、それぞれのヒット曲を歌う事で、彼らにも収入になり、客も歌詞をそらんじている曲を一緒に歌えるので満足するという結果となっている。
夢グループは今では、テレビ番組のスポンサーにもなり、カラオケの機械を売ったり、カーナビまで作って、コマーシャルをするまでになっている。
筆者に言わせれば、夢グループは目の付け所が確かに良いが、これは少し考えれば、TV局の怠慢、視聴者本位の番組作りをしない姿勢が生んだ皮肉な結果だと思う。
今、日本のテレビ、中でも地上波は惨憺たる内容である。
どこの局も、NHKですら、タレントをスタジオに何人も並ばせ、どうでもよい「井戸端会議的な話」を司会のお笑いタレント中心に延々と話をするという番組だらけである。
どうしてこうなるかと言えば、こうした番組作りは制作費が安く済み、安価に番組が出来るからである。そして、制作はテレビ局の人でなく、下請けの制作プロダクションが安く請け負う。金もないので、他局でヒットした話やテーマを自分たちも真似るというやり方が横行している。
こんな番組ばかり作っているから、スポンサーが地上波に投入する広告料はどんどん減っているのは度全の帰結なのだが、テレビ局の人間は、「貧すれば鈍する」を地で行くままに、大きく傾き始めたテレビ局のあり方を何とかしようという努力の跡すら見えない。
最近、「フジテレビがテレビ事業から撤退」という噂がネットで流れた。テレビ局がテレビ事業から撤退してどうするのかと思うが、TBSもフジも、今や不動産収入が大きなウエートを占めていて、儲からないテレビ事業から撤退しても、会社は存続していけるという話なのだ。
でも、かつてテレビに関係した人間として言いたいことは、作り方、発想次第で、まだ、テレビはいくらでも再建できる大きなポテンシャルを持っているということである。要は、視聴者が真に何を望んでいるかという視点があるかないかだけの事なのだ。
まともにテレビを見たい人はBSかCSを見てくださいとでも、言わんげな姿勢は止めてほしいと感じる今日この頃である。
20160823
ネットで実態と異なる礼賛や非難は、誰かの操作と考える
週刊誌でもスポーツ新聞でもネットでも、今、SMAPの解散の真相は何だったのかという記事や書き込みが目立つ。そして、そのほとんどが、木村拓哉が悪者で、キムタクにSMAPを解散するような行動をさせた元凶として、妻の工藤静香が希代の悪女のように書かれている。
でも、それって本当だろうか。
書き込んでいる人のほとんどが、工藤静香に会ったこともなければ、この問題について、彼女が話しているテレビ番組を見た訳でもない。キムタクについても同様で、彼と会って話を聞いた訳でもないし、テレビで彼のトークを聞いた訳でもない。
ほとんどの人が週刊誌やネットに書き込まれている情報を信じて、2人をバッシングしているのだ。
筆者は前にも書いたが、SMAPは国民的アイドルだと考えていないし、それが解散しても、大騒ぎする話ではないと思っている。メンバー個々についても、誰についても、個人的な好き嫌いはない。 だが、今のキムタクと妻の工藤静香に対するバッシングは異常だと思えて来る。
個人に対するバッシングが凄かったのは、最近では、都知事選挙に立候補した鳥越俊太郎に対するものがある。筆者も彼に対する批判の書き込みをした。
だが、鳥越氏の場合、従来からテレビに多く露出し、色々発言して来たし、知人の記者仲間からの情報もあった。更に、都知事選に立候補してから、何回かテレビに出て話をしたし、街頭演説での話もマスコミが多く流した。
だから、例え、会ったことがない人でも、鳥越俊太郎がどんな人かは理解することは出来た。
筆者の知人の70歳代の女性は、それまでテレビに出ている男前の鳥越氏に好感情を持っていたが、立候補して、テレビに出て話をしている鳥越氏の話を何回か聞いて、「この人って、これまで持っていた印象と全く違う人で、こんな人には投票したくない」と語った。
彼女に限らず、彼がテレビなどに出て話をするのを聞いた人、何人からも、上の女性と同じ印象を受けたという話を聞いた。
特定の政党のカリカリの信者であったり、男前で知名度の高い有名人ありさえすれば良いというような人でなければ、彼の話を聞く内に、「何か変」と感じて当然の話であった。
だから、鳥越選対は、彼をテレビに極力出ないようにしたし、街頭演説も他の有力候補に比べて、回数を大きく減らしたのだ。「彼の話を聞いたり、彼に会った人が、支持するのを止める」のを防ぐための苦肉の策だったのである。
露出が多く、色々語った鳥越氏とキムタクや工藤静香は全く違う。キムタクも工藤静香も、SMAP解散問題で、マスコミにはほとんど露出していないし、話もしていない。にも拘わらず、凄まじいバッシングの嵐なのである。
情報の流れを見ていると、週刊女性の記事が大きいことが分かって来た。
多くの新聞、雑誌、テレビにとって、ジャニーズ事務所の問題は、下手に記事を書くと抗議され、後々、トラブルの原因になるため、どこもまともな取材をしていないし、しても、それを下に原稿は書いたいない。
週刊女性は、ジャニーズ事務所とそうしたしがらみのない例外的なマスコミということで、独自の記事を書いた。それが、キムタクが解散の言い出しっぺで、そう仕向けたのは妻の工藤静香だったという話である。そして、独自の取材をしていないテレビ局やスポーツ新聞、そして、ネットの書き込みなどが、「週刊女性がこう報じています」というような形で、または、週刊女性が書いた事を前提に、キムタクと工藤静香犯人説を流しているのである。
最近のマスコミやネットの書き込みなどを見て工藤静香悪者説の根拠は以下のようなことである。
(1)まず、工藤静香と結婚した後、彼女とキムタクの両親とは上手く行っていなくて、その影響でキムタク自身も両親と疎遠になっている。
(2)元マネージャーの飯島氏がSMAPをジャニーズ事務所から独立させようとした事について、工藤静香が猛反対して、当初、独立に同意していたキムタクに翻意させ、工藤静香自身が飯島氏に抗議の電話をするとともに、ジャニーズ事務所の首脳とも接触し、今回のような結果に導いた。
(3)工藤静香がキムタクと結婚し、子供が出来た時、飯島氏が子供に会いたいと望んだのに、なかなか会わせてくれず、実際に会ったのは、出産から1年も経ってからだった。
繰り返すが、筆者はキムタクについても、工藤静香についても、何の興味もないし、アイドルとして活躍していた頃の工藤静香については、むしろ、嫌いという印象だった。
でも、キムタクや工藤静香が悪者になっている根拠には、大いに疑問がある。
まず、15年ほど前に、キムタクには、今回のメンバー全体の事務所からの独立というのとは別に、キムタク単独で独立するという話があった。
これは、キムタクの両親が、稼いで人気絶頂にも関わらず、事務所からもらっている金が少ないという事に不満を持ち、父親を社長にした個人事務所に移籍させて、稼ぎを増やすという話だった。
この話は周囲の反対でなくなった。自分もタレントとして、人気のあった工藤静香は、当然、芸能界の事情に精通していて、人気者が独立した事をきっかけに、元の事務所からの圧力で干され、消えて行った例を多くしっているので、キムタクの独立に反対して当然であり、そうした発想のキムタクの両親とコミュニケーションができにくくなったとしても、それは当然の事と感じられる。
同様に、飯島氏主導のジャニーズ事務所からの独立についても、両親主導の独立の時と同じ危機感を抱いて、工藤静香が反対したのは、芸能界出身の妻としては、当然の行動であったと思う。
飯島氏と工藤静香の不仲は、キムタクと工藤静香の結婚に飯島氏が猛反対したことから、派生したもので、自分に害をなそうとした人間に、自分の子供を会せたくないと考えても、母親として非難されることではないように考えられる。
ネットの書き込みを見ていると、時々、SMAPのリーダーの中居をほめちぎる書き込みがある。「五輪での中継は素晴しかった」というような内容である。
大きなスポーツの祭典があると、中居のような人間をキャスターとして使うテレビ局があるが、スポーツについては、かなりの知識を持っていると自負する筆者から見て、中居の話が素晴しいなどと感じたことは1回もない。
大きなスポーツの大会の中継の際に、キャスターなりゲストなりで喋るのは、ある意味では難しいことである。中継を見ているほとんどの人は、スポーツのシーンそのものが見たいからテレビをつけているので、喋りが邪魔になってはいけないし、かと言って、ただ単に中継をしているのでは、喋りのプロのアナウンサーの方が良いに決まっているからである。
アナウンサーでもないこうしたタレントが出て来て成功するのは、多くの視聴者が知らない裏情報を持っているとか、その人の人間性が感じられ、多くの視聴者に支持されるというような時である。
中居について言えば、前者の裏情報は期待するのが無理だし、中継にプラスを与える人間性を多くの視聴者に感じさせるには、まだ、若か過ぎて無理であるし、幅広いファンがいる訳でもない彼に望むべくもない。
にもかかわらず、こうした中居礼賛のネットの書き込みが時々あるのだ。
筆者が気が付いた例では、フィギャースケートで金メダルを取った荒川静香についても、時折、彼女をほめちぎるネットの書き込みがある。「荒川さんの解説は素晴しかった」というような話である。
だが、フィギャースケートを少し知っている人で、荒川静香の解説を褒める人はまずいない。
同じような年代の女性では、村主章枝や鈴木明子の解説の方が遥かにうまいし、わかりやすい。もっと言えば、荒川の解説は解説になっていないのだ。テレビ局は金メダリストというだけに使っているとしか考えようがない起用である。
こうした書き込みを見ると、筆者は荒川さんや中居を支援する個人や組織がこうした礼賛の書き込みをしているのではないかと疑う。ネットは誰が書き込んでいるかわからない部分があり、こうした異常なヨイショ、礼賛を見ると、筆者などはファンか、事務所関係者が持ち上げ原稿を書いていると感じるのだ。
ネットの書き込みのこうした事例に筆者自身遭遇したことがある。
それは、学生の採用についてである。就活をするにあたって、多くの就活生が見るサイトに「みんなの就職活動日記」というのがある。学生が一定数、受験する企業について、個々のページを設け、受けている学生が自由に書き込みが出来るようになっているサイトで、受験生が情報を得られるようにと、作られているページである。
筆者も採用活動を十年以上やってので、このサイトを自分が関係している会社だけでなく、他の会社についても、よくサーフィンをしながら、見たものである。
ある企業のサイトで、学生が悪口や批判を書くことがある。一方で、批判に対して、それは違うという反論を学生が書くこともあり、この応戦で結構盛り上がっている。
裏事情を良く知っているので、タネを明かせば、悪口や批判については、受けている学生が嫌な思いをして書くことも勿論あるが、同業他社、つまり、ライバル企業の人事担当者が悪口や批判を書くことは珍しくない。
同様に、批判や悪口に対して、学生が反論することも勿論あるが、批判された企業の人事担当者が学生を装って反論するのが、通常である。
どの会社でも、人事担当者2、3人が学生を装ってこのサイトに登録して、こうした書き込みができるようにしている。それは、受けた学生の反応などを見るためだからだが、見ている内に、ついつい書き込みがしたくなる事があるのだ。
他社の人事担当者と話をすると、こういう話は良く出て来るし、そうした話がなくても、書き込みの仕方、内容で、それが学生が書いたものか、企業の人事担当者が書いたものか、少し経験を積めば、わかるようになる。
こうした例を書いたのは、顔が出ない書き込みがほとんどのネット社会では、礼賛も批判も、それに対する反論も、仕掛けが結構あるということを知って欲しかったからである。
そうした意味で、SMAP問題を見てみると、キムタクや工藤静香バッシングの元々の情報の出所がどこか大体わかって来るし、誰がどんな動きをしているか、ネットだけでなく、週刊誌やスポーツ紙も結構、特定の人に踊らされている、そんな感じがしてならない。
ネットの怖い一面である。
20160822
放置されたままの高校野球での投手の投球数制限
リオのオリンピックの陰で高校野球の夏の大会が行われていて、栃木の作新学園が優勝した。
決勝戦で負けた北海高校のエースは1回戦からずっと一人で投げ続け、優勝決定戦では疲労がピークに達していたため、強打の作新学園の打線を抑えることはできず、敗退となった。
高校野球での投手の投球数を制限したり、連投を禁止するというようなことはずっと言われて来たが、それこそ人権に最もうるさいと自負する朝日新聞が主催者サイドにいて、NHKも後援し、高野連や文科省も関係しているのに、何の対策もされないまま、ずっと放置されている。
そして、この問題は数年前には、結構、マスコミで議論をされたが、今はその議論もほとんど聞かれないようになり、甲子園での投手の連投は野放しのままである。
高校野球では、以前は、強力なエースが連投して勝つことをマスコミが美学のように讃えたため、チームの監督も、投手本人も連投するのが当然というような雰囲気があった。
また、プロ野球でも、エース級の投手の連投は当然のように行われ、昔の大エースと言われた西鉄(今の西武)の稲尾、南海(今のソフトバンク)の杉浦、中日の権藤などは、何日も連続して投げていた。
杉浦は38勝4敗という今では想像も出来ない勝ち星を挙げた。この年、パリーグで最下位は近鉄で、チームの1年間の勝ち星が杉浦一人の勝ち数とほぼ同数という記録だった。勝ち星もさることながら、その勝率が凄く、いかに優れたピッチャーであったかを示している。
杉浦の38勝が凄いと思ったら、数年後に稲尾は42勝を挙げた。稲尾は負け数も結構あったので、登板数は杉浦よりも多かった。
権藤は連投の連続で、「権藤、権藤、また、権藤、雨で休みで、また権藤」という事まで言われた。つまり、雨の日以外は、権藤が連投していたという意味である。
こうした連投はさすがに腕、肘や肩に大きな負担となり、大投手、杉浦は何回を南海も優勝に導きながら、200勝に後数勝届かず、引退となったので、名球会のメンバでなく、亡くなった時も、マスコミが大騒ぎをせず、チームをダイエー(その後、ソフトバンク)に売った南海電鉄は、杉浦を忍ぶ回顧録を限定で印刷して、ファンに無料配布するにとどまった。
権藤も数年で肩を壊し、素晴らしい才能を持った選手も短期間にマウンドを去っている。
プロ野球では、杉浦や権藤などの故障もあった上、優秀な投手は大事に使って、何年も活躍させる方が得というような発想にもなって来て、その日の投球回数が1回というような救援投手を除いて、連投は余程の事がない限り行われないようになって来た。
だから、大きく点差が開き、投手にも余裕があって、完投できるような状態でも、後の試合のことを考えて、8回、9回で交代というようなことが、自然に行われるようになって来た。
今は、日本の野球界では、投手は中5日で投げるのが当然になって来て、かつてのようにエースは20勝を挙げて当然というような常識が通用しなくなり、十数勝で最多勝ピッチャーになるようになって来た。
アメリカの大リーグでは、日本よりも1年間の試合数がかなり多いこともあって、先発投手は中4日で投げるが、その投球回数は概ね百球が制限回数というのが常識となり、その前後で、救援投手と交代という事になっている。
プロ野球でさえ、投手の肩や健康管理でこれだけ気を使っているのに、まだ、未発達の高校生が試合をする甲子園での大会で、何故、連投が当たり前のように行われているのだろうか。
理由は簡単である。主催者の朝日新聞、春なら、毎日新聞は甲子園球場を1日いくらで借りている。だから、例えば、サッカーやラグビーの試合で行われているように、準決勝と決勝戦の間に休みの日を入れると、無駄に金を支払わないといけなくなる。
そう、最大の理由は金なのである。朝日新聞や毎日新聞は外に向けては、人権などについては、極めてうるさく言う会社だが、自分自身が当事者となると、高校生の人権など無視したままである。
高校で活躍した野球選手はプロに入り、プロの選手としても活躍するケースが多い。高校野球はそうした意味でも、選手の名前と顔を売る大いなる機会なのである。
でも、体がまだしっかりできていない高校時代に無理をして、体を壊したら、何もならない。現実に、甲子園で活躍しないまでも、高校生で野球をやっていて、肩や肘を故障し、途中で選手生命を断念する人は少なくないという。
そして、一時期は、他のマスコミが甲子園での投手の投球制限を議論したこともあったのに、今は、その話する聞かれることがなくなってしまった。
マスコミ同士、互いに批判されたら嫌な事がどこでもあるので、他社の批判を止めたという事なのかもしれないが、そうだとすれば、政治家や企業を批判して論評する資格などない姿勢である。
20160817
正常な業者が経営できなくなった過払い金と言う名の巨大利権
神奈川県の中堅の老舗の消費者金融業者が倒産したという。倒産の理由は過払い金などの支払いが大きくなり、経営が成り立たなくなったのだマスコミは伝えている。この報道を見て、ネットの書き込みなどは、「元々ぼったくりだったのだから、潰れて当たり前」という感想が一般的である。
筆者はこの会社については何の知識も持っていないが、長年の記者の常識からすると、中堅の業者で老舗と言われ、長い年月、活動をして来た企業は、どの業界であれ、手堅くビジネスをして来たところがほとんどで、こうした業者が倒産するという事自体、今の過払い金という名の巨大利権騒動が異常であることの証明である気がする。
消費者金融の話は、過去に何回も取材した経験から言うと、マスコミが報道して、国民に定着した「消費者金融業者=悪辣な人達」という図式が実態とはかなり違うというのを感じる。
そも、過払い金というが、元々払い過ぎていたのではなく、そういう概念そのものがなかったという事を知らないといけない。
今は法改正されたが、消費者金融問題がマスコミの取り上げられるようになった頃、日本には借りた金の利息について、2つの異なる法律があり、多くの消費者金融業者が利息として取っていた年利数十%というのは、2つの法律の内の1つに基づいて計算されたもので、違法でも何でもなく、ビジネスとして問題なかったのだ。
そして、その金利に基づいて金を借りた人は、高い金利を承知の上で金を借りる契約をしたのである。
外国だと、「私は奴隷になります」という契約でも、契約し自らサインしたら、それを守らないといけない。でも、日本では、契約が強制ではなく任意で、本人が納得した上でなされたものでも、裁判になると、裁判所が「公序良俗に反する」という判断で、「契約は無効」という判断を下すことが少なくない。
サラ金問題は、マスコミが大きく取り上げて、連日のように、「消費者金融業者がいかに悪徳か」というトーンでテレビなどが頻繁に放送する内に、「消費者金融業者=悪辣業者」という図式が国民の間に定着するようになり、裁判所もその延長線上で、元々合法的だった契約を無効とし、「過払い金を支払うように」という判決をするようになったのである。
そもそも消費者金融業者はどうして登場し、多くの業者が存在するようになったのであろうか。
理由は簡単だ。小さな会社に勤めている人や、何回も転職をしている人などに対しては、銀行は金を貸してくれない。でも、どんな人でも金に困り、今すぐ、一定の金がいるという事態は発生する。
こうした言ってみれば、社会の弱者を対象に、小金を貸して、期限内に返してもらうという考えから、消費者金融業者は社会の必要なシステムの1つという登場し、重宝なので業者も増えて行ったのである。
だから、長年、会社に勤め、何百万円かの金を貯めた中年女性が消費者金融業者を始め、困った人に金を貸し、便利がられるということなども出て来たのである。
もう、40年程前だが、大阪でマスコミのが初めて大々的にサラ金問題というのを取り上げ、大きく報道した「第一次サラ金問題」が起きた時、筆者は大阪で大手マスコミで記者をしていたので、この問題を何回も取材をした。その時に、業界に詳しい関係者達が言っていた事が今でも、耳に残っている。
「サラ金業者には、法律に則って、まともに仕事をしている正常な業者と、テレビが取り上げる、十日で一割のような高い利息を取り、滞ると、ヤクザまがいのやり方で取り立てをするような違法な悪徳業者の2つが存在します。
一方、サラ金を利用する人のほとんどのは、短期に小金を借り、それを1カ月くらいの期間で返す、言ってみれば、まともな利用者がいるのに対して、最初から、借りた金を返す積りがない悪徳利用者がいる。サラ金問題は何かと言えば、この悪徳業者と悪徳利用者の殴り合いなんです。
でも、マスコミの取り上げ方は、全部のサラ金業者が違法な高利で金を貸し、ヤクザまがいの取り立てをする悪という図式で報道し、『サラ金業者=悪徳業者』というイメージが定着してしまったのです」
(1、2カ月で返済する正常な利用者)
取材をしてわかったのだが、正常な利用者は、1か月後にボーナスが入るが、その前にどうしても5万、十万の金が必要ということで金を借りる。最初から返済の宛てがあって借りているのだ。
この借り方だと、利息が年40%でも、月にすると、3.3%あまりである。ということは、十万円を借りて、3300円の利息である。この利息なら、ボーナスが入れば、問題なく払える。つまり、ほとんどの正常の借主には、年利などという発想はなく、精々1カ月か2カ月の単位で借りているのであり、利息も異常の膨れ上がることはなかったのである。
これに対して、悪徳借主というのは、最初から返す宛てがない金を借りる。返せないから、日にちがどんどん経って行って、利息も膨れ上がって来る。こうした利用者は初めは正常なサラ金業者から借りるが、直ぐに相手にされなくなるので、違法な高利を承知で違法な悪徳業者から借りる。
初めから返す積りがない利用者なので、少しくらいの取り立てには慌てず、平然と対応し、「金はない」というような受け答えをする。取りたてる悪徳業者は元々ヤクザまがいの人達なので、脅し文句は当然のように使う。
悪徳利用者はこの悪徳業者の脅しの言葉を録音するなどして、マスコミの持ち込んだので、そのテープがマスコミに流れるようになり、サラ金などと縁のない一般の国民は「サラ金業者はこんなにひどいのか」という認識となって行ったのである。
大阪でマスコミが散々、この話を流し、話題にはなったが、まだ、大阪ローカルの話だった。
そして、それから十年以上経って、今度は東京でマスコミがサラ金問題を取り上げるようになり、一気に全国区の話になって行ったのである。「第二次サラ金問題」の発生である。
筆者は大阪から東京に転勤になっていたので、この第二次サラ金問題も取材をした。大阪との違いは何かといえば、登場者が業者と利用者だけでなく、銀行と大蔵省(現在の財務省、金融庁)と、弁護士が加わった事である。大阪での第一次サラ金問題の時にも弁護士が関与していたが、東京では弁護士は重要な主役として登場して来るのだ。
消費者金融業者の多くは銀行から金を借りて、その金を利用者に貸し、その金利の差で儲けていた。今のような低金利の時代ではなかったが、それでも、大手消費者金融業者だと、銀行から数%の金利で金を借り、それを数十%で貸していたのだから、儲かって仕方がなかった。
それを見て、銀行は自分でも消費者金融ビジネスを始めた。ところが、「大手企業に何年勤めているか」というような銀行型の審査基準で、個人に金を貸した結果、大手企業に勤めてはいるが、ギャンブルなどで借金だらけというような人の餌食になって、焦げ付きがどんどん膨れ上がって行った。
そこで、自分で経営するのではなく、大手の消費者金融業者を買い取り、傘下に収めることを思いついた。当時の大蔵省の部課長などにあたると、大手の消費者金融業者は創業経営者が多く、裸一貫で成り上がって来た人がほとんどで、役所への対応も横柄で、役所は苦々しく思っていることがわかった。
これなら、消費者金融業者を大手銀行の傘下に収め、自分たちがきちんと管理しますと言えば、役所もハッピーだろうという感触を得た。
もう1人重要な役割を演じるのが、弁護士である。ドラマなどで正義漢として描かれることが多いので、弁護士に対する一般の国民のイメージは良いが、実像はと言えば、中には、そうした正義漢もいるが、多くの弁護士が必ずしも、そうした人達でないことは、付き合ってみるとわかる。
そして、仕事がなくて金に困っていたり、何とか仕事を探そうと必死の人も少なくない。しかも、東京の弁護士は過去の経験から、どのようにネタを提供すれば、マスコミが飛びつくか知っている。東京の弁護士は、テレビ局などに取材をさせ、大阪での第一次サラ金問題の時と同じような悪徳業者の脅しの声を収録させ、それをテレビに流させていったのだ。
先に書いたように大手の消費者金融業者の経営者は創業者が多く、しかも、金が儲かって仕方がなかったので、驕りもあり、不用心でもあった。そして、最大手の武富士の経営者の「盗聴事件」などもあって、悪徳業者だけでなく、サラ金業者全部が悪というイメージが定着し、サラ金問題は一気に大きな社会問題になったのである。
世論の流れが出来て来ると、日本の裁判所はそれに従う癖があるので、過払い金という概念を持ち出し、業者に2つの法律の間の金利の差を、払い過ぎていたということして、業者に返還をするような判決を出して行ったのである。
この過払い金の返還で、仕事にあぶれていた弁護士は一気に仕事が増えた。弁護士だけでなく、司法書士も返還交渉ができるということで、それまで細々と仕事をしていた司法書士が一気に年収1千万円を超える人がどんどん出てきたのである。
そして、テレビで弁護士事務所が過払い金の返還交渉を引き受けますという広告までやりだした。
このサラ金被害者=弱者、救済で名前を売ったのが、先の都知事選挙で出る出ないと話題になった弁護士の宇都宮氏である。彼の実態は別として、マスコミが作り上げたヒーローが誕生したのである。
社会問題になると、監督官庁の大蔵省も黙ってはいられなくなり、厳しく業者を監督し始め、行政指導の中で、会社を欲しがっている銀行に売ることを勧めるような行動となり、大手消費者金融業者はほとんどが銀行の傘下に入ることになったのだ。
消費者金融業者が銀行の傘下に入ろうが入るまいが、筆者にはどちらでも良いことだが、多くの正常な利用者には、これまで借りていた金が借りられなくなるという大問題が発生して来た。
まともな消費者金融業者の貸付担当の人の取材をしたことがあるが、彼らの話では、借りたい人と十分話をすれば、その人の会社がどこで、何年勤めたかなどに関係なく、金を貸して良い人かダメな人かはすぐ判断できるという。
肩書や所属企業などからではなく、自分の目で利用者を識別していたのである。
だが、銀行の傘下に入ると、次第に銀行的な審査の変わって行き、これまで借りることが出来ていた正常な借主のかなりの人が、借りることが出来なくなって来たというのだ。困った彼らは、違法な悪徳業者を利用するしかなくなり、それで、生活破綻をする人も増えているという。
また、マスコミがほとんど報道しないが、弁護士と過払い金請求を頼んだ、サラ金利用者との間のもめ事も頻繁に起きているという。業者から返還された過払い金の分配で、弁護士が多くを取り過ぎ、請求を頼んだ人との間で悶着が起きているというのだ。
中には、サラ金業者と自分勝手に話をつけ、その内容が請求者にとって、必ずしも有利な話ではないかったり、業者から多額の金を受け取って、業者本位の解決の仕方をしたというようなケースも少なくないという。
弁護士については、サラ金問題だけでなく、最近、新聞などが小さく報道している程度が、財産の相続事務を頼まれたお年寄りをだまして、多くの金を着服するなどの不祥事が多発しているし、テレビで名前を売った女性弁護士が依頼人から、決まった以上の手数料を取るなどの事件も起きている。
日本では、一度、イメージが定着すると、それがなかなか変わらない。銀行がえげつないという事は多くの人が知っている。しかし、多くの国民が実像を知らない弁護士について、マスコミはもっと実像を報道すべきであると思う。
20160816
不必要で、嗜好が偏った音楽を流すテレビ局、ショップ
現在、リオでオリンピックが開催されているが、NHKのリオの放送を見ていると、テーマミュージックとしている女性歌手の歌を流している。
ワールドカップで南アフリカチームを破り、一気に注目を集めた日本のラグビーの国内でのパナソニックや東芝などのリーグ戦をスポーツチャンネルで見ていると、これも、テーマミュージックと称して、女性歌手の間延びのした、そして、下手な歌が頻繁に流されていた。
このように、特にスポーツ番組に多いのだが、テーマミュージックと称して、歌が流されることがよくある。だが、聞いていると、この種の歌で良いと思えるものがほとんどない。曲も良くなく、歌手の力量も今ひとつのものが頻繁に流されるのだ。
テレビ番組だけではない。今、百円ショップやドラッグストアなどの店に入ると、音楽が流れていることがよくある。アスレチッククラブなどでも、大体常時、音楽がかかっている。筆者が良く利用した東京の郊外のある市の市営プールでは、館内にずっと音楽が流れていた。
また、先日、東京郊外にあるスターバックスの店に入ると、歌が流れていた。それも小さめのボリュームではなく、かなりのボリュームで流しているのだ。この店はその後、2、3回入ってみたが、やはり同じ系統の歌をかなりのボリュームで流し続けていた。
こうした店やクラブで流れている局はほとんどがロック系の音楽である。筆者はこのような音楽を流している店に入ると、何故、音楽を流すのか、そして、選曲は誰がどのようにしているのか、それは顧客のために流しているのか、また、従業員のために流しているのか、いつも考えてしまう。
(聞くだけで頭が痛くなる年配者が多いロック系音楽)
百ショップやスターバックス、市営プールなどは、利用者の年齢層は様々である。60歳代以上の人もいるし、中年もいるし、十代、20歳代の若者もいる。
言わずもがなだが、ミュージックは人によって好みがある。ロック系が好きな人もいれば、バラード系が好みの人もいる。そして、クラシックでないと駄目という人もいる。
音楽というのは、こうした系統は好きというだけでなく、こうした傾向の曲は耳にするだけで、頭が痛くなるという人も少なくない。
わかりやすい例を言えば、若者の多くが演歌系の歌や浪曲などは嫌いな人が多いだろうし、年配者はでは、ロック系の曲は、騒音としか感ぜず、かかっているだけで、気分が悪くなるという人が少なくない。
こうしたミュージックに対する嗜好が人によってかなり差があるのに、ショップやアスレチッククラブなどで、ロック系の音楽を流しているところが多いのを、経営者はどう考えているのか聞いてみたくなってしまう。
まさか、経営者が店を巡回していないくて、自分が経営している店でロック系の音楽がかかっていることを知らないというのではないだろうか。もし、そうだとすれば、その人は経営者として失格である。
テレビのスポーツ番組でテーマミュージックを決めて、それを流していることがあるのを冒頭に書いたが、テレビ局で働く人には「無音は許せない」と考えている人が結構いるような気がする。
今はあるかどうか知らないが、以前、長い事、放送されていたNHKの「こどもニュース」では、バックグランドミュージックとして、必ずと言って良いほど、わらべ歌や童謡を流していた。
編集者に話を聞いた事があるが、無音だと、間延びして、何か間が抜けている感じだというのだ。
アメリカの人気テレビドラマで「SCI」というのがある。人気があるので、ニューヨーク、マイアミなどいくつもの市の警察の科学捜査チームの活躍を描いたドラマが長く放送されて来た。
このドラマでは筋上、殺された被害者の死体の解剖というシーンが出て来るが、このシーンでは必ずと言って良いほど、音楽が流れる。その多くはロック系である。
こちらの方は、番組制作者の心理はわからなくはない。死体の解剖といういわば、グロテスクなシーンを番組の制作上、流さない訳にはいかないので、映すが、音楽を流すことで、さらっと処理しようと制作者は考えたのだと思う。
もう7,8年も前になるが、家族の一員の小学生や中学生の授業参観に学校に行ったことがある。
その中で、音楽の授業を参観していると、アメリカの曲を生徒に楽器で演奏させている。アメリカの曲を覚えるのは悪いことではないが、聞くと、授業の主体がほとんど外国の音楽だという。
今ではもう大学生になったこの子供たちが、まだ、小中学生の頃、横浜の山下公園に連れて行った時のことだ。「赤い靴の人形」の銅像があるので、「これが赤い靴の人形だよ」というと、子供たちは「それ何?」というのだ。驚いて、近くにある「青い目をしたお人形」の銅像を見せても、これも知らない。
驚いて、後日、教師に尋ねると、筆者たちが学校で学んだ「学校唱歌」や「童謡」などはほとんど教えていないという。
理由を聞くと、こうした曲の中には、歌詞に差別を意味する詩が入っているものがいくつかあり、解放同盟などからクレームが来る。いちいち調べるのは大変なので、全部教えるのを止めてしまったという。
例えば、我々が散々学校で歌った「蛍」という歌は、「あっちの水は辛いぞ」「こっちの水は甘いぞ」という歌詞に差別があり、教えることが禁止なのだということだった。この歌を散々歌った我々世代に、この歌が差別を教育した訳ではないのにと思いながら、不思議な思いがした。
そして、筆者はこれはいけないと考え、学校唱歌のCDを数枚買って来て、家でそれこそバックグランドミュージックとして流すことをしばらく続けたので、今、大学生の子供たちも、ほとんどの学校唱歌は覚えるようになった。
この子たちが中学を受験する時に、いくつかの学校を見て回った。その時、ある有名中高一貫校での入試問題で、学校唱歌の詩が書いてあり、「この詩が描いている状況を絵で書いてください」というのがあった。
その学校の教師に、「今、小学校では学校唱歌を教えていないですよね」と言うと、教師は少しも慌てず、「本来教えないといけないものを学校が教えていないので、それを家庭でしっかり補っているか、そうでないかとチェックする問題です」と答えた。
小学校で学校唱歌を教えない問題は、その後、おかしいという意見が出されて、少しは教えるようになったというが、学校で日本の唱歌を教わっていない子供たちが、今や20歳代の若者になっている。ショップやアスレチッククラブなどで、ロック系の音楽だけを流しているのに多く接するにつけ、学校唱歌を知らない世代がかなりいることと、何か関係があるのかと考えたりした。
20160815
SMAPやAKB48は国民的アイドルか
SMAPが解散することになったということで、テレビではその経緯などを詳しく解説している。それはそれで良いのだが、テレビの司会者などがSMAPの話をする時に、「国民的アイドルSMAP」と言っているのを聞いて、筆者は極めて違和感を覚える。
AKBの話をする時もそうである。テレビでは必ずと言って良い程、「国民的アイドル」という冠をつけて話をする。国民的アイドルとは、様々な年齢層の人、男女に愛され、レコード、今はCDだが、幅広く売れている人やグループということだと思うが、SMAPもAKBも全くそうではない。
若い人だけでなく、森光子の晩年や亡くなった時に、マスコミは「国民的女優」とか、「大女優」という言葉を頻繁に使った。筆者のイメージでは、森光子は舞台などでは主演もしたが、基本的に脇役女優であって、少なくても「国民的女優」とか、「大女優」とは全く別の人物像である。
好き嫌いは別として、昭和の歌手であり、俳優であった美空ひばりや石原裕次郎などを「国民的スター」と言っても、ほとんどの人に異論はなかったと思うし、俳優であれば、市川雷蔵や鶴田浩二、高倉健、女優であれば、原節子や山本富士子などを「大物俳優」「大物女優」「昭和を代表するスター」と言って、問題はなかったと思うが、SMAPやAKBは全くそうした存在ではない。
こういうと、テレビなどのマスコミ関係者は、「だって、多くの番組に出ているし、レコードは売れているから」と反論するだろう。だが、これも違う。今、テレビは芸能プロダクションが力があれば、その俳優やタレントにそれ程、多くの人から支持がなくても、毎日のようにテレビに出ているし、番組にも出演している。
SMAPの所属する芸能プロダクションは「嵐」など多くのタレント、およびグループを抱えていて、プロダクションが使ってほしいというタレントやグループをテレビ局が使わないと、人気のあるタレントやグループを、そのテレビ局の他の番組に出演させないなどの圧力をかけるという。
その威力にはNHKでも逆らえないようで、それ程知名度や人気がないタレントを常時、テレビに露出させ、次第に、顔が売れていくという手法を用いているという。
若手のタレントでは、武井咲や剛力彩芽がそうした芸能プロダクションのプッシュでCMに頻繁に出ているし、番組でも主演をするようになって来た。でも、筆者の周囲にいる幅広い年齢層の人の話を聞いても、武井咲や剛力彩芽を好きでファンだという人に、まず出会ったことがない。
だから、これだけ頻繁にマスコミに露出しながら、週刊誌などが行う好感度ランキングで、上位に名前が出た事がない。ただ、ひたすら、テレビに出て顔と名前を売っているという感じの存在なのである。
SMAPのことを考えてみて欲しい。
筆者は個人的には好きでも嫌いでもないし、どちらかと言えば、関心もないが、キムタクは背の高さは別として、一定水準以上のタレント性を持っていて、例え、SMAPというグループで売り出さなくても、1人のタレントとして、売れていたであろうと思う。
でも、リーダーの中居クンについては、売り出しの頃から、数多くのテレビに出ている彼を見て、筆者は今でも、彼の良さが何なのか理解できない。
だから、テレビ局がオリンピックの中継のキャスターなどとして、彼を使っていると、「何故、彼をここで使うのか」と疑問に感じ、その番組を見るのを止めてしまう。専門的な話が出来る訳ではないし、彼に特別魅力がある訳でもないので、スポーツの中継を見るのに邪魔なだけだからだ。
筆者は長年の記者生活と新卒学生採用活動などで、それこそ何万人の人と接して来た経験から、その人が学生であれ、経営者であれ、タレントであれ、顔が出て、しばらく話をしているのを見ていると、その人のひととなりや今の精神状態、生活態度などが大体想像できるし、その後の様子を見ても、筆者の感想は実態とそれほど差はない。
そうした目から見ると、中居クンは個人的に付き合いたくないタイプの人間の1人と言える。
少し前にあるタレントが、中居は自分の家を訪ねるようになったタレントに、貯金額十億円を超える通帳を見せるのが趣味だという話をしていたが、テレビで見る彼の雰囲気からすると、さもありなんと感じる。
SMAPの残りの3人については、SMAPのメンバーとして売り出し、名前と顔が売れたからこそ、1人の俳優として、ドラマなどに主演するようにもなったが、SMAPのメンバーとして名前と顔が売れていなかったら、そうしたことはなかったと思う。
SMAPでは、初期の頃にメンバーにいて、今はオートレーサーとなった森且行という人がいたが、彼などは、タレントを止めずにいたら、面白い存在になったいたと思うものを持っていたと感じた。
でも、タレント業のはかなさを感じ、プロダクションの猛反対を押し切ってオートレーサーになったという話を聞いて、彼なら、さもありなんと感じた。森はオートレーサーとしても成功している。
SMAP以上に国民的アイドルという言葉に違和感どころか、反発さえ感じるのがAKBである。
どこかの調査機関の調べで、AKBについて、多くの人に尋ねると、1割の大ファンがいて、6~7割が無関心。2~3割位の人が大嫌いというデータがあった。
この1割のファンが1人何枚もCDを買うので、CDは枚数的には売れているのだ。
もう4,5年前の話だが、筆者が勉強を教えていた中学生がいたが、彼がAKBのファンだった。彼にどこが良いのか聞くと、少し派手目の衣装で、若い女性が舞台で踊ったり、歌ったりするのが良いのだという。でも、1、2年経った時に、AKBの話を聞いたら、「もう卒業しました」と言って、関心がなくなっていた。
彼の話を聞き、同じファン仲間などの話を聞いても、若い女性がグループで踊ったり、歌ったりするのを見るのが好きというだけなのだ。だから、同じような若い女性のグループが次から次への登場すると、一定のファンが出来るのである。
そういうファン心理なのだから、メンバーが入れ替わっても問題ないし、グループから外れて独立した元メンバーが1人のタレントとして、活動を始めると、急速にファンが離れて行く。
センターを務めたメンバーが個人でコンサートなどをすると、客の集まりも悪く、歌も踊りもひどく、それを見に行ったファンは、落胆して帰って来るはめになる。そして、今、彼女は何をしているのという感じになって来ている。
どこかの企業がそうした元メンバーをTVCMなどの使っているのをみると、広告代理店に「人気タレントを安く使えますよ」と口車に乗せられたのだろうと感じ、その企業の経営状態は大丈夫かなと考えたりする。
タレントの話でなく、雑誌の話だが、かつて、NHKのTV番組の「今日の料理」や「お母さんといっしょ」という番組のテキストは百万部づつ売れていた。週刊誌も同様で、かつて、週刊現代や週刊ポストは日本で一番売れている雑誌で、7,80万部という発売部数を誇っていた。
1つのものに多くの人が共感を覚え、雑誌でも百万部を超えたのである。でも、今、雑誌の世界では、数十万部を売って頑張っている、週刊文春、週刊新潮などを除くと、多くの雑誌が、少し売れているもので、発売部数は精々十万部で、その他は数万部だという。
それだけ、国民の趣味,嗜好が多様化し、ヒットした歌が百万枚のレコードが売れたという時代は既に終わったのである。だから、これからの時代に、幅広い層の人が支持した美空ひばりや石原裕次郎のような人は出現しないのである。
つまり、「国民的」と言える俳優も歌手も、グループももう存在しない時代なのだ。それなのに、テレビなどのマスコミは極めて安易に「国民的」という言葉を使う。言葉で商売をしている人達なのだから、もっと、言葉は厳格に使って欲しいと思う。
20161017
会社がダメになる典型、東京電力
新潟知事選挙で、原発に慎重な姿勢な、民進党系の人が当選したこともあってか、今日、東京電力の株が大幅に値を下げた。原発の再稼働が厳しくなったという事を受けての株価急落だろうと、マスコミは伝えている。
筆者は何年もエネルギー業界を担当し、東京電力の歴代のトップ、役員とはかなり長く付き合ったが、福島の原発事故もそうだし、先頃発生した地下道のケーブルの火災による東京での大停電も、筆者が付き合ってきた当時の東京電力の人達からは信じられない、仕事の杜撰さが見て取れる。
地下ケーブルの話は、設置から35年経っているのに、一度も交換がなされていない事が、火事で明らかになり、しかも、35年も取り替えていないケーブルは、東電管内で数千キロに及ぶという事が事故をきっかけに露呈した。
これを受けて、経産省は総点検を指示したというが、こんなものは、指示がなくても、十年かと20年単位で、交換するのは当然の事で、そうしたルールがなく、単に、外目で見る、目視で問題がない場合は、交換をしないというルールだったとうのだから、呆れてものも言えない。
かつて、オール産業の中で、最もジェントルマンの企業はどこかという質問で、真っ先に東京電力が挙がっていたのが、嘘のような最近の東京電力の姿である。
では、何故、東京電力はかくもダメになってしまったのであろうか。
筆者が東電を担当している頃、2、30人いる役員は、1人、2人を除いて、東大出身だった。
今は事情が少し変わって来て、超大手企業の役員や社長にも、東大出身ではない人物が就任するようになったが、当時は、超大手企業の役員の大半は東大出だった。それにしても、東大出以外が1人、2人しかいない事が少し異様に感じられ、当時の東電社長に質問した事がある。
その時の、当時の東電社長の答えは以下のような内容だった。「電力会社にとって、最大のテーマは電力料金値上げで、これをいかにスムースにするかは重要課題です。値上げを審査するのは、通産省(現在の経産省)で、この幹部はほとんど全員が東大出身なので、同じ大学出身者で、大学の同期や先輩後輩が担当した方が、物事がうまく運ぶのです。また、値上げには有力国会議員も大きな影響力がありますが、有力者には東大出が多いので、この人達へのアプローチもスムースに運ぶのです」 今は国会議員も東大出以外の人が増えてきたが、かつては、有力議員には東大出身者が多かったので、こうした話になったのである。
筆者は、東電の社長と親しかったので、普通は言わない本音を言ってくれたと思うが、この話を聞いていて、説明はわかったが、何か割り切れないものを感じた。
筆者は東京で東電を担当する以前に、大手マスコミで地方勤務の時、電力会社を2つの個所で担当したが、その時の電力会社の幹部と東電の幹部の記者達への接し方の違いに驚いた。
大阪での関西電力やそれ以外の地域の電力会社の幹部は、その地域では、言ってみると、殿様企業で、記者への接し方でも、その他企業への接し方でも、非常に偉そうだった。だが、そうした勤務を経て、東京で東電を担当してみると、社長も役員、幹部も、言葉使いは非常に丁寧で、低姿勢なのである。
この違いにも驚いて、東電の社長に質問した事がある。以下はそれに対する答えである。「地方では、電力会社に匹敵する規模の会社は、その地域ナンバーワンの銀行位で、他にいないので、どうしても、周囲が電力会社に対して頭を下げるような接し方になるので、電力会社の社員も、それが当然と思うようになってしまうのかも知れません。
これに対して、東京では、電力会社の規模の他産業の会社はいくらでもありますから、特別な接し方をされる事はないです。また、当社にとっては、他産業の企業はすべて電力のユーザーなので、お客様に対して、丁寧な姿勢で接するのは当然だと思って教育をしているので、社員にもそうした姿勢が身についているのではないかと思います」
(人間は仕事で鍛えられるが、そうした場がない電力会社社員)
この説明も理解できる話だったが、東電を何年も担当する内に、色々な事がわかって来た。
まず、多くの産業を担当し、社長から、幹部、一般社員に至るまで多くの人と接して来た経験から言うと、電力の値上げを担当したり、通産省や国会議員の担当などの人を除いて、東電の社員の表情に、エネルギッシュとか、仕事に対する強烈な熱意というようなものは感じられず、言葉は悪いが、緊張感がなく、のんびりした表情の人が多い。
また、原発も何か所も見学したが、他の電力会社も東電も同じだが、原発で働いている電力会社の社員に、一度事故が起きると大変なものを扱っているという緊張感が全く感じられなかった。
無理もないのかも知れない。原発の状態はコンピューター制御で、その数値が表示された計器類の見て、問題がないかどうか点検しているというのがほとんどの仕事である。そして、この担当者は原発が立地されている土地の高卒の社員が担当しているが、地震や津波でもない限り、原発に大きな問題が起きる事はまずないので、彼らも何も変化のない計器類を見ているだけなので、退屈な毎日である。
東大出で本社から派遣されて来ている社員は、原発勤務の人は県庁や地元市町村などと接して、交渉などにあたっている人もいるが、第一線でそうした仕事をしている人は原発の施設にはおらず、いる人は高卒社員の管理業務などをしているだけで、今日も、明日も昨日も基本的に何もなく、仕事が大変で、いかに工夫して、問題を乗り越えるかというような事はほとんどない。
人間はどれだけ素材が良くても、鍛えないと良いビジネスマンにはならない。
かつて、安宅産業という総合商社が倒産したがあり、筆者は商社担当として、倒産処理に銀行から派遣されて来ている役員達と色々話をした経験がある。
その時、当時、大手銀行は13行あったが、中下位の銀行出身の役員と、住友銀行出身の役員が机を並べて仕事をしていた。この2人は東大の同級生で、学生時代、互いに良く知っていたという。
数か月経った頃、中下位出身の役員がこんな話を筆者にしてくれた。「住銀出身の彼とは大学の同期だったが、大学時代、明らかに自分の方が勉強が出来、物事の処理でも、自分の方が遥かに上だった。しかし、社会人になって、2、30年経って、一緒に仕事をしてみて、今は彼の方が遥かに仕事が出来る。当行と住銀の社員の鍛え方が全く違うというのを痛感した」 こうした話は安宅だけではなく、何回も聞いたし、筆者自身、目で見た事があるが、素材がそれだけ優秀でも、仕事でもまれ、鍛えられるからこそ、人間は成長するのだ。それが、仕事がのんびりしていて、鍛えられる場面がない状態で、十年、20年経つと、何かあった時に、とっさの対応ができないのだ。
東電がダメになった大きな理由は、毎日の仕事で鍛えられるという場面がほとんどなく、今日も明日も明後日も同じという状態で過ごしている社員が多いので、人間として、ビジネスマンとしての成長がないという事なのである。
電力会社は言ってみると、役所なのである。仕事のルールは決まっていて、それに従って仕事をする。大きく問題になる事もなく、東大など一流大学出の社員は、余程のミスをしない限り、出世して幹部になれる。それでは、素材が良くても、磨かれる事がないのだ。
電力会社は役所だというのは、担当部署がそれぞれの問題にあたり、他の部門がほとんど口出しをしないという慣行が続いて来た事でも、そうした事が言える。
筆者が電力業界を担当している時、東電の車内で、ほんの数人だが、他の社員のドブネズミ色の背広とは違って、バリっとした高級素材で明るい色の背広を着ている人を見かけた。目につくので、他の社員に彼らについて聞くと、「原子力担当です」という。
補足して説明してもらうと、原子力担当者は、専門知識が必要な技術的な事もあり、他の部門がほとんど口を出せず、担当副社長を筆頭に、理系の出身者が機器類を納入する大手電機メーカーなどとの交渉にあたっているが、電機メーカーにとっては、上お得意なので、接待がすごく、彼らの着る服はイタリア製という事だった。
ところが、日本の対米黒字が大きな問題となり、欧米の企業から商品を購入する事が奨励されるようになり、電力業界も海外の機器メーカーに納入価格などを試算してもらったところ、日本メーカーよりも、遥かに安い事がわかった。
その結果、これまで、日本の大手電機メーカーに接待され、メーカーの言うがままに機械を購入していた習慣にメスが入り、原発にもコストという事がやかましく言われるようになった。
前に、福島原発の施設は、最初の設計では、海上30メートルの高さに設置されるようになっていたが、それが25メートル削られ、5メートルの高さに建設され、その結果、津波の被害が出て、大きな惨事になったという事を書いたが、この25メートルの削りも、この原発のコストカットから出た事だと筆者は推測する。
本来の趣旨の無駄を省くという趣旨が、必要な高さまで削ってしまう結果となったのだ。これも、極めて、役所的な対応の仕方である。
これが民間企業なら、安全の観点から、高さの削りは絶対譲れないと主張する担当者がいておかしくないが、東京の豊洲市場の盛り土問題もそうだが、役所はコストの話が出て来ると、必要なものまで削ってしまい、それをどうしてもノーと言う人がいて、大きな議論になる事はないのだ。
そして、東京都もそうだが、こうした大きな問題が出て来た時、どうしてそうなったかという真剣な検証は行わず、担当者が自分が罰せられることがないような言い訳作りに奔走し、問題点の点検から、同じことを二度と起こさないような教訓にするという事をしないのだ。
場当たり的な対応に終始し、本質を議論し、問題を抜本的に解決しようという姿勢がないのだ。
これは日本航空にも言える。
事実上の倒産をして、民間企業の視点で改革が行われたというが、かつての日本航空も東電と同じで、エリート社員はほとんど東大出で、ここも、監督官庁の運輸省(今の国土交通省)や国会議員といかに付き合うかが最重要テーマで、それを担当する以外の社員は、社内の派閥抗争や組合問題に明け暮れていた。
だから、大きな事故が起きても、何故、そんな事が起きたのかという徹底した検証が行われないから、大きな事故を何回も起こしたのである。
筆者が航空業界を担当して感じたのは、東電を担当して感じたのをほとんど同じことだった。だから、筆者は、それ以来、日本航空しか行く便がない場所を除いて、他社が同じ路線を飛んでいる所では、決して日本航空の飛行機には乗らない習慣がついてしまった。
そんな筆者を冷やかす同僚もいたが、御巣鷹山の事故が起きて、彼らは「君の言う事は本当だったんだな」と言った。
20161011
地方議員が利権の巣だったのは昔から。取りあげなかったマスコミ
富山の市議会で政務活動費が本来の目的以外に不正に使われていたことが明るみに出て、十人以上の議員が辞職する騒ぎになっている。
東京の都議会の議員も自民党のドンと言われた内田氏が異常な権力を握って、彼に話をつければ、おかしな話も通ってしまうという事が行われ、それが、築地の豊洲移転の問題や、東京オリンピックの会場建設などにも、おかしな話が出て来るなどしている大きな理由だと、マスコミが騒いでいる。
今、東京のテレビ局などは連日、豊洲の移転問題やオリンピックの会場問題を取り上げているが、その中で、テレビに出ているコメンテーターたちが、「東京の都議会は何をしていたのか。チェックの機能が全くなされていなかったではないか」などと述べている。
筆者もマスコミで地方勤務があり、地方の県議会、市議会と、その議員たちを取材した経験があるが、地方の議会は県会も市会も町会もだが、議員の多くは建設系の会社の社長や役員などの出身者が圧倒的に多い。
どうしてそういう事になるかと言えば、地方にとっては、公共事業が大きなウエートを占めているので、県や市でも、かなりの予算規模になる。それを決める際に、大きな発言力があるのは地方議会であるから、利害が絡む建設系の会社の人が議員になって、自分の会社や関係会社に少しでも有利にしようとするのは、ある意味では当然の流れである。
そうした構図は日本のどこへ行っても同じで、地方議会の有力者が自分の会社や、自分の有力後援者のために有利になろうと画策するのは、いわば当然の流れである。
わかりやすい例を言うと、筆者の事務所は長い事、千代田区の一番町、麹町地区にあった。
この地区で小さなスーパーを経営している人が千代田区の区会議員となって長く、議会で自分の店が不利になるような話には、議会で何かにつけて文句を言い、ねちねちと質問をするので、区や都は彼の機嫌を損ねるような事は、しないようにして来たという。
その結果、この地区には、長い間、大手のスーパーが進出しようとしても、都や区の同意が得られなかった。この地区は高級住宅地と、事務所のビルという場所なので、普通に買い物が出来る商店が極めて少なく、住民は買い物に困っていた。それでも、スーパーが進出できなかったのだ。
それだけではない。住んでいる人は普段の買い物に困るので、バスに乗って、四ツ谷三丁目にある中堅スーパーまで買い物に行っていたが、都営の地下鉄がこの近くを通るようになった事をきっかけに、晴海から銀座を通り、四ツ谷駅経由で新宿まで行っていたバスが、四ツ谷駅が終点になって、四ツ谷から新宿の区間が廃止になってしまった。
その結果、住民は四ツ谷三丁目のスーパーへのバスを利用しての買い物ができなくなった。
バス路線と都営地下鉄が同じところを走っているなら、地下鉄の開通でバス路線が廃止になるのはわかるが、同じ路線を走っているのではない。だから、都営の地下鉄で、麹町、番町から四ツ谷三丁目まで行く事は出来ない。それでも、地下鉄の開通を理由に、バスは四ツ谷から先の運航が停止になったのだ。
土地の事情通に話を聞くと、有力区議会議員が都と区に猛烈に働きかけ、自分の都合が良いような決定へと都や区を動かしたのだという。
でも、この話は筆者がたまたまこの地区に事務所を構え、忙しい時には自分も寝泊まりしていたので、買い物をしないといけない時が結構あり、生活の必要上、色々話を聞く内に、わかった事である。
事情通の話は多分本当なのだろうが、有力区会議員の横車で、多くの住民が困るバス路線が変更された事など、マスコミは一切報道しない。理由は簡単だ。余程の事がない限り、区議会の事など普段、マスコミの記者は誰も取材しないのだ。
区議会だけではない。都議会についても同様だ。
今、豊洲の問題やオリンピックの会場問題で、内田という自民党都連の幹事長を長く勤めた都議会議員にスポットが当たっているが、光が当たる前から、彼が好き勝手やっていた事は有名だった。それでも、マスコミはずっとそんな事は取り上げて来なかった。
猪瀬氏が知事時代に、内田氏の横車にへきえきとして、知り合いのマスコミの記者に、内田氏の横暴さと利権構図ついて書いてほしいと頼んだが、「内田などという都議会議員の話など、ニュース価値がないので、記事になりませんよ」と言われて、相手にされなかったという。
バス路線を自分の店に有利になるように変更した区議会議員も、東京都が関係する工事に絡み、自分が関係する建設会社に工事をさせるように露骨に動いていた都議会議員も、「ニュースは国単位の話であった、ローカルの都や区の話は、記事にならない」というマスコミサイドの考え方で、長い事、取り上げられることもなかったのである。
批判したり、叩く人がいなくて、自分がする事がそのまま通るのであれば、当事者は図に乗って、どんどん自分に有利に物事を運ぶようになっていくのは当然である。
多分、全国の県や市町村を取材したら、バス路線を変更した区議会議員や、建設工事に絡んで好き勝手をした都議会議員と同じような例はいくらでも、出て来ると思う。でも、マスコミは、そんな取材をしない。
理由は簡単で、「地方の市や県の話をいくら取材しても、余程の事がない限り、全国区のニュースにならないから、取材をしない」という論理で動いているからである。
東京でこれだけおかしな事が行われていたのだから、自分の県や市でも、同じような事はあるはずだという連想の発想にはならないから、取材の動こうともしない。
アメリカの映画などを見ていると、地方の小さな市などのローカル新聞社が、その土地の有力者の問題行動を取り上げて、圧力と戦いながら、活動する話などが良く出て来るが、日本では、そんな話は起きそうもないのだ。
マスコミがこうなる理由はマスコミの構造そのものに原因がある。
大手マスコミに地方支局に勤務する記者は、新人でその地に配属された記者と、古手で記者としての意欲はもうあまり残っていない人で、余計な事はせずに、残りの会社人生をつつがなく過ごしたいという人の2種類しかいない。
新人で配属された記者は、数年で東京や大阪に戻るので、それまでの間は、言わば研修期間で、記者としてのトレーニングの期間という位置付けで、その期間中に、全国ニュースになる記事を書ければ、早く東京や大阪に帰れるので、そうした視点でしか、動いていない。
古手の記者は自分から積極的に動く事はないので、誰も、ローカルにとっては重要な問題でも、全国区にならない話だと、自ら動こうとはしない。
テレビは常に東京中心の情報発信だから、ローカルの話は、余程面白いと東京の幹部が思うものしか電波に乗らないから、地方のローカルテレビ局の取材担当者は、そうした価値観でしか動いていない。
地方議会を正常化するにはどうしたら良いか。
これは簡単である。職業としての県会議員、市会議員、町会議員をなくすことだ。
では、地方の県や市町村の行動をどうチェックするかと言えば、行政オンブズマンのような活動をする団体などを、国や県が補助金を出して活動を援助し、彼らに対しては、県や市町村の行政担当者は情報を公開し、説明する義務を負うようにすればよいのだ。
このオンブズマンの質問に対して、説明責任を厳密に求めるような法整備をすれば、それで、おかしな事はかなりなくなって来る。
そして、一般の県民や市町村民で意欲のある人に対しては、県議会や市町村議会は年に4回程度、夜間議会を開いて、県や市町村の幹部が県民、市町村民の質問に答えるようにするのだ。
欧米では、地方議会の議員は職業ではなく、別の仕事をしている人がボランティアでしているので、議会は夜間に開くというのは珍しくない。欧米で出来る事が日本で出来ない訳はない。
ただ、地方議会は既に利権の巣窟になっているし、議員を職業として飯を食っている人がかなりの数いる。これらの人の猛烈な抵抗を排除して、職業としての地方議員をなくすのは、国民全体が、東京や富山が異常なのではなく、全国どこも同じなのだという意識をもって、変えようとする意欲がなければ、変革など夢に過ぎなくなってしまう。
本来、マスコミがしないといけないのは、東京がおかしいという発想で、豊洲の問題などを報道するのではなく、全国どこでも、同じような事が行われているのではないかという視点で、地方支局を挙げて、同じような例はないかどうか点検する事ではないか。
それで、いくつもの地区で同様な話が出てくれば、全国的に改革を迫る動きになって来る。
20161005
何故、全員に数学の微分、積分、数列まで教えないといけないか
筆者には教員歴はないが、頼まれて家庭教師をした事は何回もあるし、ボランティアで中学校の放課後学習で生徒を指導した経験もあるので、学校教育の現場については、結構、知識がある。また、指導のために多くの教科書、問題集、参考書を読んだ経験を持っている。
そうした体験を通して言える事は、今の文科省の数学についての指導基準に対する疑問というか、現実の実態に合わない教育基準を決めている事に憤りさえ感じる。
日本の役所は文科省に限らないが、それぞれの問題の担当部局が企画立案をすると、それが課の案、省の案となり、そして、国の案になって、そのまま実行に移されるのが現状である。一応、課内の議論や局議、省議、次官会議、閣議などはあるが、「担当の専門家が決めた事なので」という論理で、ほとんど修正されずに、原案が素通りで承認される。
数学教育について言えば、一応、審議会などで、専門家の意見を聞いているが、役所の審議会というのは、役人が自分の案の正当性を持たせるために、専門家や識者の意見を聞きましたという形をとっているだけで、実態は役人の企画立案通りに通ってしまう。
その結果、小中高での数学教育は文科省の数人の役人の手で事実上、内容が決められている。そして、数学について言えば、(他の教科についても同じだが)、担当者は数学を良く理解し、数学が得意な人間なので、その自分のレベル、目線で物事を判断し、決めてしまっている。
ここに大きな悲劇があるのだ。
多くの専門家が指摘しているし、筆者の体験でもそうだが、今の学校教育では、数学、算数について言えば、小学校で分数、少数が出て来る頃になると、理解出来ない生徒が多く出て来て、3割の生徒が数学を良く理解出来ず、落ちこぼれた状態で、中学校に進む。
そして、中学校で5割の生徒が落ちこぼれ、高校になると、7割の生徒が教えれている内容を理解出来ず、落ちこぼれたままで卒業していく。
今の時代、余程の事情がない限り、ほとんどの生徒が高校まで進む、高校全入時代だが、そのほとんど義務教育に近い高校で、7割の生徒が数学を理解せずに、落ちこぼれて卒業していくという事は、指導内容、教育内容が生徒の実態に合っていないという事で、それをおかしいと感じない文科省の担当者の神経を疑う。
中学校の放課後学習というのは、普段の学習についていけない生徒や、成績は結構、優秀だが、家庭の事情で塾などに通う事が出来ない生徒が集まって来て、分からない所を聞いて来て、担当の講師はそれを教えている。
中学校の放課後学習で、筆者が多くの生徒から言われた事は、「先生、どうして普段の生活に全く関係ない、方程式でxだyだとかいう事を覚えないといけないのですか」という話である。
実際は方程式は普段の生活にとても関係ある事なのだが、普段の生活との関連という観点で教えていないので、生徒からはそうした疑問が出て来るのだ。
数学の学者で有名な人の遠山敬という人がいるが、彼などは自分の指導体験から、日本の文部省の数学についての指導の仕方は間違っていると、本にも書いているし、「文部省の役人に何回も改善を求めたが、聞いてもらえなかった」と言っている。
数学嫌いを多く作っている最大の理由は、実際の生活とどう結びついているかという観点の欠如である。数学は学年ととともに、具象から抽象になっていく。しかし、最初の内に、実際の生活にある事を徹底して具象的に教えれば、抽象的な数字の世界になった時に、自分の頭の中で具象が思い浮かぶので、抽象的な観念についていけるが、今の教育では、これが全くと言って良い程、欠落しているのだ。
具体的な例を2つ言う。
1つは座標軸の話である。これも、多くの生徒が、「何で、あんな生活に関係ないものを理解しないといけないのですか」と言う対象のものである。
ゆとり教育が導入される前の小学校の算数の教科書には、座標軸を理解するために、学校の下駄箱の話が書いてあった。
「座標軸は下駄箱と考えてください。下から何番目というのが縦軸です。横から何番目というのが横軸と理解すると、下から勘定して3番目、左から勘定して5番目にある自分の下駄箱は、座標軸で表すと、こうなります」 というような説明をして、子供達の頭の中に下駄箱のイメージを入れ込み、それが座標軸なのだと説明する事で、座標軸と意味と、x軸、y軸などを抵抗なく説明していた。それがゆとり教育で、教科書が薄くなるとともに、下駄箱の絵がなくなり、ゆとり教育が終わった後も、下駄箱は消えたままとなっている。
小学生を教える塾として有名な四ツ谷大塚の塾長の話を聞いた事がある。この時、彼は、「数学は具象から抽象をどう生徒に理解させていくかが最大のポイントなのです」と言って、例を話してくれた。
その例が2つ目の話である。
彼が言ったのは、「2メートルの紐から30センチの紐は何本取れて、何センチ余るでしょうかというような問題を子供の理解させる指導の仕方です」という例である。
彼の説明では、小学校1年生対象では、実際に2メートルの紐を見せて、そこから30センチの紐を切り取り、最後に何センチ残るか見せるという。それが、2年生になると、黒板に2センチの紐を描き、その絵の上から、30センチづつ切る状態の絵を書き、残りが何センチになるか、生徒に絵で理解させるのだ。そして、3年生になると、黒板の絵は紐でなく線になって行く。そして、4年生になると、絵はなくなり、数字と文字だけで解けるようになる。
こうした教育を小学校1年生からすると、少し複雑な問題に出会った時、自分で線で絵を書き、その絵を下に問題を解いて行くという事が出来、頭が整理されて、問題を解くことが出来るのだ。
数学、算数では、実際に自分たちの生活にあるものと、数学の問題を関連付け、なおかつ、具象で説明し、次第にそれを抽象化していくという過程がとても大切なのだが、今の学校教育で、初期の頃に、この丁寧な説明がほとんどなく、教師は「この通り覚えろ」というだけである。
だから、納得できず、府に落ちないから理解できないのだが、文科省の立案者は、自分は数学が得意なので、出来ない者の心理状態がわからないので、その説明を丁寧にしないといけない事が理解できない。
今の教育内容を見ていると、既に中学生で数列が出て来ている。
高校では当然のように、数列を教えている。微分、積分も必修である。でも、かつてのように、高校進学者が中学生の半数くらいだった時期と異なり、ほぼ全員が高校に行く時代に、全員に数列、微積分、三角関数を必修で教えるという教科の組み方自体、おかしいと筆者は思う。
数学が好きな人は数列の面白さ、数字の不思議さに見とれ、少しでも多くの人にそれを理解してほしいと考えるようだが、ほとんどの人にとって、数列など全く興味はない。微積分、三角関数についても、理系の会社では、測量や体積計算などで必要なのはわかっているが、普通の人の生活には、そうした事の理解がなくても、何も問題はない。
ましてや、大学入試のセンター試験で、数学はこうしたテーマについて、数多くの問題を出しているので、問題を見るなり、パターンでこの問題はこの解き方という感じで、どんどん解いて行かないと、時間内に問題が解けないようになっている。
数学は考える面白さを教える教科だと筆者は考える。だが、今の学校教育では、こうした事がほとんど配慮されずに、ひたすら、暗記をさせ、問題とパターン化して覚えさせる教育が行われている。だから、中学まで数学が好きだったという生徒が、高校になって数学が嫌いになったという者が少なからずいる。
高校で7割が落ちこぼれ、数学好きを数学嫌いにさせる、こうした教育は全くもっておかしいのだが、それをなんとも思っていないところに、文科省の数学担当者の頭の悪さと大いなる罪を感じる。
20160930
官僚、政治家に不作為の罪がない不思議な国、日本
皆さんは、「不作為の罪」というのをご存じですか。
不作為の罪とは、自分に悪意はなくても、権力を持っている人間が、当然、しないといけない事をしなかったり、結果的に、間違って事をした時には、罪に問われるというもので、外国では当然、そうした法律はあります。
日本の法律でも、不作為の罪はあります。
ただ、それは幼児の面倒を見ないといけない母親が、その役割を放棄して、遊びに行って、その結果、子供が死亡したとか、介護が必要な年寄りに対して、介護をせずに、死んだりさせたりした時に、罪に問われるというもので、一般の人に対するこうした罪だけで、官僚や政治家には、日本の法律は全く適用されないのです。
だから、エイズウイルスに感染した非加熱の血液製剤を使って、血友病患者の多くがエイズに感染した時、日本では厚生省の担当課長も、この問題の責任者だった大学教授も訴えられましたが、裁判では無罪になりました。
法律に記載されていない罪には問えないというのが無罪の理由です。
これに対して、フランスでは、同じくエイズウイルスに感染した非加熱の血液製剤を使って、血友病患者がウイルス感染した事に対して、日本の厚生省にあたるフランスの役所の担当幹部は有罪の判決を受けて、刑務所に入れられましたし、当時の担当大臣も罪に問われました。
血液製剤の話だけではありません。福島原発の事故でも、同じ事が起きました。
福島原発は、最初の計画、認可段階では、現在の立地よりも25メートル高い場所に施設が建設される事になっていました。海面より30メートル高い場所の立地です。
ところが、海面から30メートルの所ですと、海水を汲み上げるのに、かなりのエネルギーが要ります。つまり、コストが余分にかかります。原発に冷却水は不可欠で、重要な問題です。それにコストがかかり過ぎるとばかりに、東電は途中で、設計図を変更し、土地を25メートル削って、施設を作りました。
その結果、地震には耐える事が出来たものの、施設が津波でやられ、大惨事となったのです。当初の計画通り、海面から30メートルの所に原発を建設していれば、津波の被害がなく、原発は大きな被害を受けずに済んだのです。
こんな事が起きても、福島原発では、設計図を途中で変更した東京電力の役員、幹部も、その変更を認めた通産省の担当課長、部長クラス、エネルギー庁長官に至るまで、それを誰が変更し、誰が変更を認可したか、今日に至るまで、一切明らかにされる事はなく、不問に付されています。
福島原発の事故では、東電の元社長などが訴えられていますが、これは、当事者として危険な原発を建設して、多くの人に被害を与えたとか、事件当時の管理の仕方が悪かったというような事で、裁判になっているのであって、建設変更による被害という観点は抜け落ちています。
不思議な事に、この問題について、誰が設計図を変更したか、また、通産省の誰がそれを認可したかというような視点で、取材しているマスコミはありません。
欧米のマスコミ、特にアメリカのマスコミなら、しつこく取材を、それを本にしたり、映画にする人が出て来るのでしょうが、日本では、「不作為の罪はないから、そんな事を取材しても、意味ないよ」とばかりに、取材すらしないのです。
法律で罪に問える問えないとしても、倫理的に問題だったとか、経緯はどうだったとかという事を執拗に取材を、それを多くの人の前に明らかにする、それがマスコミ、ジャーナリストの使命だと思うのですが、日本では、取材記者や、大手マスコミそのものに、そうした発想が欠落しているのです。
アメリカで取材者が執拗に取材をして、明らかになった問題があります。
それは、日本に原爆を投下する前に、原爆の威力を調べるために、アメリカでは、軍隊を行軍させ、また、投下場所に家畜などの動物を置いておいて、原爆を投下したのです。
この結果、多くの兵隊が原爆病になり、亡くなったり、病気で苦しんだりしています。その話を聞いた人が徹底的にこの問題を取材し、本にするとともに、映画にもなりました。
マスコミの使命とはそうしたものだと思うのですが、日本では、「誰が福島原発の設計を変更したのか」という多くの人が興味を持つようなテーマですら、誰も取材しないのです。
日本のマスコミや記者は、「どうせ、罪に問えないのだから、取材しても仕方ない」とばかりに、倫理的に大問題でも、無視して調べようともしないのです。
罪に問える問えないはどうでも良い。事実を、真実を明らかにする事がジャーナリズムのあるべき姿だと思うのですが、そうした行動にならないのです。
福島原発の設計図の変更問題を聞いて、皆さんは何かを感じませんか。
そうです。東京の築地の魚市場の移転問題で揺れている豊洲の「消えた盛り土問題」と全く瓜二つではないですか。当初の計画が途中で、担当者の判断で変更され、それが大きな問題になったという事です。
この問題でも、多分ですが、誰が設計を変更し、誰がそれを認めたかという事は、最後まで明らかにならないだろうし、例え、明らかになっても、「罪に問えないから」と理由で、設計変更をした人は罪に問われないと思います。
でも、法律に不作為の罪はなくても、設計変更でこれだけ大問題になり、それによる被害、建設費の増額、場合によっては、魚市場としては使えなくなる事による費用の増大は莫大になり、それを民事で本来なら、東京都や都民が担当者を訴えないといけないはずですが、日本ではそれも起きないでしょう。
「法律に記載がない事で争っても勝てない」 そういう発想で。
でも、違うと思いませんか。官僚や政治家など、国家権力を持つ幹部が間違った判断をした事で、多くの人が被害にあったのなら、刑事は無理でも、民事で訴訟は起こされてしかるべきだと思います。
更に、権力ある人の間違い、判断ミスで、被害が多く出た時に、罪に問う、官僚、政治家対象の「不作為の罪」を罰する法律を議員提案でも良いから、どこかの政党が法案提案すべきだと思うのですが、そうした動きすら、日本では全く起きないのです。
絵になるので、ゴミ屋敷の話は時々、テレビで取り上げられますが、この取材に対して、その地区の役所の課長などのコメントはどれも一緒で、「ゴミ屋敷を罰する法律がないので、取り締まれないのです」というばかりでした。
でも、あまりにゴミ屋敷や危険な空き家が多く問題になって来たので、地方自治体が条例などを作って、そうした家を強制撤去するケースが出て来ました。
何を意味するか。国会が動かなくても、住民がうるさく言えば、地方自治体は条例を作ってでも、対応するのです。住民がガンガン文句を言えば、役所は動くのです。
これは国政でも一緒です。国民がお願いベースでばかり、役所と接するので、役所は上から目線でしか、国民と接しないのです。国民がもっと、要求を強めていけば、役所も対応せざるを得なくなっていきます。
これだけ、全国でゴミ屋敷や危険な空き家が増えて来ているのに、官庁がそれを取り締まる法律を作ろうとしない理由は簡単です。官僚は自分の利害に関連しない事案には、極めて消極的で、対応しようとしないのです。それが、自分の利害が絡んで来ると、さっと、法律を作ります。
官僚とはそういう人種です。
でも、本来は、法律を作るのは官庁ではなく、国会のはずです。その国会の議員が、国民に直結する法律を自分たちで作ろうという動きをほとんどしないのです。政府与党がそうした動きをしないなら、野党がそれを補うべきです。でも、野党もしないのです。
日本の野党は、憲法問題やアベノミクスの良し悪しなどをメインテーマにするのではなく、ゴミ屋敷問題でも、「迷惑防止法」のような法律を提案し、近隣住民に一定レベル以上の迷惑をかけた場合には、撤去できるなどの行為の裏付けとなる法律を作る努力をすれば、もっと支持が集まると思いますが、そうした行動を起こそうとすらしないのです。
だから、「積極的に支持する訳ではないが、他に選択肢がないから」という理由で安倍政権が支持されているのです。
野党が少しでも存在を高めるために、「迷惑防止法」や「官僚、政治家に対する不作為の罪に関する法律」などを作る動きがして欲しいものです。
でも、無理でしょうね。
最大野党の民進党が、国会で追及されたら、まともに答えられない二重国籍問題で大きな問題を抱える人を党首にしたし、行動力のある党である共産党は、バカの一つ覚えのように、憲法問題だけしか言わないのですから。だから、共産党は、党に期待した党員がどんどん離れて行って、赤旗の発行部数が大きく減少しているということです。
普通の人の日常感覚、皮膚感覚で行動する政党、そうした政党を作らないと、日本は良くならないでんすね。民進党も共産党も無理です。維新の会はマスコミに散々叩かれて、しぼんでしまいました。
橋下氏の言動に問題もありましたが、あれだけ異常にマスコミが叩いて、橋下氏を引きずり下ろしたのは、マスコミが自分たちの既得権益を壊す人だと直感したからです。そうです。日本ではマスコミは健全な監視者ではなく、正に第四の権力者で、多くの利権を抱えているのです。
20160926
人事の事がわかっていない人が解説する就活問題
就職活動については、大学生の重要なテーマなので、新聞、テレビ、雑誌、ネットなどで色々な人が解説したり、意見を言ったりしているが、採用を13年間担当した筆者の目からすると、その9割以上の話は実態とかけ離れている。
テレビドラマなどで、就活塾などに行って、人事の質問にはどう答えるべきだなどと特訓を受ける様子が出て来るし、作り話のボランティア活動などで、一流企業の採用を獲得したなどの話が出て来ると、「違うんだよな」という言葉がつい口から出てしまう。
まず、人事採用を担当したばかりの素人の面接官はともかく、採用を3年以上担当した人間は、学生の話だけで採点をする訳ではない。その人の顔、態度、行動様式、話し方など様々な角度から、その学生の実態、素顔を見ようとする。
20年とか、21年間、その学生がどう育って来たか、その人の人生観や価値観は、また、仕事や勉強についての考え方などについては、塾や大学のセミナーで少しくらい特訓をしたからと言って、大きく変えられるものではない。
就活塾やセミナーなどでは、「面接官の目を見て話をしろ」とか、「手は膝の上に置け」、「声は大きく、はきはきと話せ」などと言って、言ってみれば、枝葉末節の事が、さも大事なように説明され、指導されている。
勿論、面接の間、ずっと下を向いたまま面接官の方を見ようとしない学生がいたら、それは論外だし、椅子に胡坐をかいたような座り方をしていたら、「家庭でどんな育ち方をしたのか」と思うが、そんなことは出来て当然の大前提の話で、人事担当者はもっと重要なポイントを面接を通して探っている。
なぜ、人事担当者が考えていることと、就活評論家のような人の話に大きなずれがあるのかと言えば、解説者のほとんどが人事採用を長年やってきた人ではなく、就職情報会社で就活の営業をして来た人や、ジャーナリストで就職問題を取材して来た人間が説明をしているからである。
筆者は長年、ジャーナリストをして多くの取材をした後、独立してフリーのジャーナリストになり、更にコンサルタントの仕事をして、企業の経営者や幹部の相談に乗る内、頼まれて企業の採用活動を担当するようになった。
自分が大手マスコミで記者をした後、独立してフリーのジャーナリストになり、30年以上取材をして来て、自分の取材力や人を見る目などには自信を持っていた。しかし、自分がコンサルとして、企業の経営者や幹部と本音で話をし、その会社が抱えている問題などを議論する内に、企業の人がいかに記者という人種を信用せず、建前の話ばかりをしているかが、よくわかった。
自慢ではないが、記者としてはかなり特ダネをよく取るできる記者と評価をされていたと思うし、企業や政治家、官僚の信頼を勝ち得て、他社が知らない、かなりきわどい話も聞けてきた積りでいたが、それでも、コンサルになって企業や官庁の人達と本音で付き合うと、いかに距離を置いてられていたかとか、真の意味で彼らが心を許していなかったかが、逆に良く理解できた。
コンサルとして感じたのは、企業や役所の実態と、マスコミが報道することの乖離である。
企業の経営者や政治家、官僚は進行形の話について、どこかのマスコミにリークして、記事を書かせ、その反応で、どうするか判断するという事をよくやる。反応が良ければ、「その通りです」と肯定するし、反応が悪いと、「観測記事で、そんな事実はありません」と対応する。
つまり、企業や官僚、政治家がマスコミの記者を自分の都合よいように使っているのだ。
こうした反応を見るためのリークを除くと、新聞が「今、こんな事が業界で流行っています」という記事のほとんどが、その業界ではもう過ぎた話で、業界内の人間の関心事は別の事に移っている事がほとんどなのである。
つまり、新聞が傾向などについて書いた事を、そうかと思って、それを参考の行動しようとすると、それでは、ビジネスとしては手遅れなのである。
最近の事の例を1つ言えば、専門家の間では、日本での不動産バブルの崩壊がもう大分以前から言われている。それを最近の日経が少し書き出した。一般紙はまだ、そうした視点ではあまり取り上げていない。だが、かつてのバブル崩壊直前に起きた事と同様の事が、不動産業界で起き始めている。
つまり、一般紙が不動産バブル崩壊というような記事を書く頃には、事態はもうかなり煮詰まった状態になっているはずである。それにもかかわらず、最近、官庁の発表で地価が上昇という話を新聞は一斉に書いた。これを見て、これから、不動産に投資をしようとしたら、大変な事になる。
不動産の話はともかく、企業の人事担当者は仕事の性格上、どうしても、守秘義務があるので、人事を一定年数以上すると、どうしても、物事への警戒が強くなり、他人に本音の話を言わなくなるようになるし、記者が話をしている事について、違うんだよなと思っても、反論したりすることは滅多にしない癖がついている。
だから、記者やフリーのジャーナリストが取材をして、色々見聞きした話を書いても、事、人事採用については、本質を理解してもらう事は稀なのである。
採用を担当して就職情報会社の営業担当者とは、何人も付き合ったが、彼らは、多くの企業の人事担当者と付き合っていて、本人たちは採用の専門家と思っているようだが、でも、人事採用の実態はほとんど知らない。
彼らは採用のスケジュールや、どこの会社がどんな日程で採用活動をしているかとか、採用で苦労しているかというような情報は多く持っているが、人事が学生をどういう目で見て、採用の判断基準にしているかについては、ほとんど関心がなく、知ろうともしていない。
彼らの関心事は単に、就職関係で、少しでも多くの会社から仕事を得る事だけなのだ。だから、人事採用担当者が何を考え、どういう視点で、採用の判断基準をもっているかなど興味がないのだ。
それでいて、採用の関係の仕事をしているので、自分では何でも知ったような気になっているし、大学など人事に関係ない人たちからは専門家として、仕事の依頼が来るので、自分なりの解釈で説明をし、仕事をしているという感じなのだ。
大学の就職部の担当者は学生を指導する立場にあるが、多くの大学の就職部の人と付き合った経験から言うと、実態を理解し、学生を適切に指導している人は極めて少ない。
そして、実態を何も知らない、大学の学長、教授、企業経営者団体のトップたちが、採用について議論をして、スケジュールや基本的な考え方を決めていくのだから、学生にとって、不都合な事が決まって行く事が珍しくないのである。
今年の就職戦線は6月1日が面接解禁という事で、マスコミは一斉にそう書いた。しかし、実態はずっと以前から事実上の面接は始まっていて、6月時点で内定を得ている学生は多くいた。
そも、6月1日解禁という日程は最悪なのである。だから、ほとんどの企業が守らないのだ。でも、採用実務を知らない大学の偉い人と、企業経営者団体の長が話し合いをするから、こんなことになるのだ。
十年以上、企業の採用を担当し、それぞれの会社で採用を3年以上やって来た人たちと一緒に、1日に学生を30人程、面接をし、その内、半分とか3分の1を次のステップに進めるという議論を夕方にすると、3、4人で面接をしていて、選考に残す学生について、意見の違いが出るのは、十人、15人の学生の内、精々、1人か2人である。
その意見の違いも、こういう意味で、誰誰を残したいという異なった意見は、他の採用担当者にとって、説明されるまでもなく、理解できる話なので、意見の違いについてのすり合わせは、数分で済んでしまう。
人事採用担当者が採用したい人を一言で言うと、「地頭が良い人」「英語でいうスマートな人」(日本語でいう臨機応変な人)である。
地頭が良いというのは、大学のブランドが良い事とイコールではない。一流大学の学生でも、必死に受験勉強をして入った学生で、地頭が必ずしも良くない学生は結構いる。それは東大でも、京大でも、早慶も珍しくない。
逆に、大学のブランドが今一つでも、スポーツなど学業以外の事に熱中していたとか、受験に失敗したとかで、その他大学でも地頭が良い学生はいる。
地頭が良いと、入社後の教育研修に苦労しなくて済むし、入社後、どの部門に配属しても、それなりにきちんと仕事ができる。また、入社後、会社の事情で配置転換をして、全く違う仕事をしてもらっても、直ぐに対応できるのだ。
筆者が採用面接で接した学生で、こんな人がいた。上位の大学で3年間で、普通の学生の1.5倍くらいの単位を取っていて、しかも、成績はほとんどAだった。
その学生に「どうして、そんなに多くの単位を取ったの」と聞くと、「多くの事の興味があり、できるだけ多くの科目を取りました。学生の本文は勉強でもあるし」という。
そこで、「それだけ多くの単位を取り、しかも、良い成績を取ろうとすると、かなりの時間が取られたでしょう。部活やアルバイトなど他の行動は?」と聞くと、「授業に精一杯で、部活もバイトもする時間がほとんどありませんでした」と答えた。
この学生は、その時点で落ちた。
大学の初めの3年の内の1年目、2年目くらいの間は、そうした行動をしても良い。しかし、少し落ち着いたら、勉学以外の事に時間を使う余裕がないといけない。勉強だけをして来て、部活もアルバイトもして来なかった学生は、入社して他の人とうまくやっていけるとは思えないからである。
バランス感覚を養う、多方面で自分を磨く、違う世界の人と接するなどという事は、とても大切な事である。
英語でいうスマート、日本語でいう臨機応変な学生は、マニュアル時代で、教師がいう通り暗記して育って来た人が多い、今の時代に本当に少ない。
臨機応変であるかどうかは、学生時代にボランティアで何をしたとか、部活で何をしたなどという事とは全く関係ない。臨機応変かどうかは、学生が全く予想もしていない質問をして、その反応を見れば、一目瞭然でわかる。だから、筆者はボランティア活動だとか、部活の事などは聞いたりはしない。
まして、「君の特徴を言って」とか、「君の強みは?」などというどこでも出そうな質問などはした事がない。こんな学生が答えを用意していそうな事を質問する事は、時間の無駄だと考えている。
予想もしないような質問とは、例えば、四国の香川県出身の学生に、金刀比羅宮の話をして、「金毘羅って、元々、ワニを意味するクンピーラから来たという話を聞いたけど、知っている?」と尋ねるのだ。そこから、金刀比羅の話とか、弘法大師の話を聞いて行く。
ほとんどの学生はそうした事は知らない。だから、質問に答える内に、その人の地が出て来るのだ。
また、北陸出身の学生には、「北陸では、生活に本当に困ると、富山県人は△△になり、福井県人は○○になるというような話があるというけど、知っている?」と聞く。そして、「あなたはこの例え話をどう思う?」と質問したりする。
こうした思いもよらない質問にどう対応するか、その反応の仕方でその学生を見るのだ。
今の学生で少し出来る子は、臨機応変ではなく、表面を取り繕うということにかけては卒がない人が多い。小中高とそういう行動をして、教師の評価も良かったのだろう。しかし、学生時代には、表面を取り繕うことが出来ても、社会人になると、それが難しく、後々問題になる事が少なくない。
少し前に、大手の旅行代理店で、学校から学生旅行のバスの手配を依頼された担当者が、その手配を忘れてしまい、学校に爆破予告のメールを送って、旅行を中止させようとして、バレたという話があった。
また、東芝の不正会計問題は、社長が利益にうるさかったので、担当者が決算の数字をいじくって、数字の辻褄合わせをした事から出て来た事である。
最近の築地市場の豊洲移転の「消えた盛り土問題」も、建設費がかさんで、どうしたら、予算を少なくするかという事で出て来た話だと思うが、いずれも、物事の本質を考えず、表面を取り繕う事で処理しようという子供の頃からの習性が出てしまったのだと思う。
でも、面接をしていると、元々、臨機応変な人と表面を取り繕うのが上手い人とは区別がつく。にも、かかわらず、大手旅行代理店とか、東芝、東京都といった就職活動で合格するのが大変な就職対象に、こうした人が多く入社しているという事は、採用担当者の目が曇っていたのかもしれない。
もっとも、採用を担当していると、経営幹部から、東大生を何割採れとか、早慶は何割欲しいというような要望が来て、人事採用担当も、採用で点がついたりしている会社が少なくない。だから、学生本人は今一つでも、東大生だから、まあ良いかというような意識で合格させる会社も少なくないのが実情でもあるのだ。
20160921
死語になった常識、倫理
日本テレビの人気番組に「行列のできる法律相談所」というのがある。
今は司会者が変わったが、この番組が視聴率が取れる人気番組になったのは、島田紳助氏の絶妙な司会にあったと言って良い。ひな壇に並ぶタレントとのやりとりは、事前に考え尽くし、熟考の末に周到の準備をする事で出来た芸術話芸であった。
筆者も以前はこの番組を見ていたが、この番組で有名になった橋下徹氏が大阪府知事になり、別の弁護士も国会議員になった。番組から2人も政治家を誕生させたというのは、いかにこの番組がが人気があったという証拠でもあるとも言える。
「行列のできる…」の番組はNHKで土曜の昼、放送していて、笑福亭仁鶴が司会をしている大阪制作の番組「バラエティー生活笑百科」にヒントを得たもので、何かについて、それが法律的にどうかという事を説明する番組だが、2つの番組に共通するのは、番組の作り手が法律的な視点しか説明していない事である。
そして、それが法律に違反さえしなければ、何をやっても良いというような風潮を作るのに、結構、影響があるように筆者には感じられる。
(法律の外に守らないといけない常識、倫理がある)
学校で倫理や道徳などの授業を受けると、それを守らないで違反すると、刑務所に入らないといけない法律があるが、その外に、法律には違反しないが、人間として当然、守るべきものとしての常識、倫理があると教わる。
今でも、こうした授業はあって、日本人ならそうした指導を受けているのだろうが、テレビの人気番組などで、何かについて、それが法律に違反するかしないかという視点だけでの解説が続くと、「ああ、これは法律には違反しないのか。それなら、それに違反しなければ、何をやっても良いのだ」という意識の人を多く作るようになってしまっていると感じられる。
例えば、今はほとんどの人が携帯電話を使うようになったが、公衆電話で人との連絡をしていた時代、後ろの何人もの人の行列が出来ているのに、どうでも良いような無駄話を延々と話しているような人は、常識がないと非難された。
これは法律違反ではない。だからと言って、やって良いという事ではない。しかし、世の風潮が、法律違反かどうかという事だけが判断基準となると、常識外れと批判された時、「自分は法律に違反していないのだから、文句を言われる覚えはない」という居直りとなって来る。
政治家の小沢一郎氏が政治と金の問題で、金を受け取った事が有罪かどうか取り調べを受けた事がある。検察庁は明らかにかなり黒いグレーだが、ザル法の公職選挙法では法律違反を問えないとして、本人は起訴せず、秘書のみが有罪となった。
これに対して、検察審査会が2度にわたって、小沢氏の不起訴はおかしいとして、起訴すべきとの判断を示し、裁判となったが、結局はザル法なので、有罪には出来なかった。この時の小沢一郎の態度は終始一貫していた。
それは「俺は法律違反をしていない。だから、罪には問えないはずだ」という姿勢である。
同じ事が今回の話題になった二重国籍問題での蓮舫氏の姿勢にもあった。日本の国籍法は二重国籍ではなく、国籍は1つにするようにとなっているが、罰則はない。だから、自分は悪くはないのだと。
前の東京都知事の舛添要一氏は政治資金で家族旅行した事などを詰問されても、「自分は法律に違反していない」という態度で、何が悪いのだという態度に終始した。
元東大助教授だけに、法律には詳しく、ザル法の政治資金規正法なので、小沢氏と同様、逃げられると思っての行動だったが、こちらは、知事としての倫理が問題となり、不承不承、自ら辞職をした。
多くの有権者に票をもらって、国会議員や知事になる人間の行動規範の基礎が法律に違反しているかどうかで、倫理、常識という概念が極めて薄くなっているのだから、一般の人もそうなっているのだろう。
少し前に、筆者が体験した事なのだが、地下鉄に乗っていた時、その地下鉄は空いていて、ガラガラの状態だったのだが、年寄り用の優先座席に座っていた筆者の直ぐ横に、20歳前後の若い女性がいた。その女性は横にいてうるさくて仕方がないくらいの音量で、ウォークマンでロック系の音楽を聞いていた。
あまりうるさいので、筆者が「ここは優先座席で、電気機器類は使ってはいけない事になっている。その上、音楽は人の好みがあって、好き嫌いも激しい。あなたも私が大音量で浪曲を聞いていたら、イライラするでしょう。あなたがその大音量の音楽を聞きたいなら、優先座席でない他の席が空いているのだから、そちらに移ったら」と言っても、全く無視で、音楽を聞き続けている。
2、3回、同じ事を言ったが、その女性は反論をするでもなく、ただ、筆者の顔を見ながら、無言で音楽を大音量で聞き続けていた。そして、その顔には、「このおじさん、何を言っているの。私、法律に何も違反していないのだから、文句を言われる覚えはないわ」と書いてあった。
別の時だが、今度はJRの電車に乗っていて、筆者の連れが優先座席に座り、筆者はその前に立っていた。その時、電車は結構混んでいたが、筆者の連れの横に座っていた30歳位の女性がスマホを使って、盛んに何かゲームでもしている様子だった。
筆者は自分の連れの人間に話しかけるように、「電車では車掌が優先座席では携帯の使用はお控えくださいと言っているが、その携帯というのにはスマホが含まれる。今は、スマホは携帯ではないと思っている若い人が多いんだよね」と言った。
すると、その30歳くらいの女性は筆者の連れに何か耳打ちをして話をし、その内に、自分の降りる駅が来たので、電車を降りて行った。
後で、連れに「彼女は何を言ったの」と聞くと、連れは「携帯は病人に悪い電磁波が出るので、優先座席では使わないように言われているが、スマホはその電磁波が出ないように工夫されているので、優先座席で使っても問題ないの」と言ったというのだ。
この女性は言った事を本当に信じているのか、優先座席でスマホを使っている事を皮肉られたのが悔しくて、こじつけでそう言ったのかわからないが、いずれにしても、筆者が皮肉った後も、スマホを使うのは止めず、筆者に連れに、真顔で「スマホには電磁波防止装置がついているので、使うのを止める必要はない」と力説していた。
こんな筆者だから、そうした場面に出くわすのか知れないが、別の時、夕方の時間に郊外の道を駅の方に歩いていると、バリッとしたビシネススーツを着た、勤め帰りの30歳代半ばと思える女性がながらスマホをしながら、物凄い勢いで筆者の方に向かって歩いて来て、危うくぶつかりそうになった。
道路が細く避けようがなかったので、筆者はぶつかる寸前に、その女性の体の腕のあたりに手を当てて横に押して、間一髪、衝突を回避した。
すると、その女性は自分がながらスマホで人と衝突しそうになったという認識はなく、ただ単に、「あなた何をするのよ」という感じで、筆者を睨んだ。筆者が「ながらスマホで衝突しそうだったから、それを防いだのだ」と言うと、何も文句も詫びも言わず、無言のまま、筆者の顔をみながら、去って行った。
ながらスマホは法律違反ではない。しかし、ながらスマホをしていて、電車に触れそうになったので、電車が緊急停車をして、ダイヤが乱れるという事が東京の通勤時間では日常茶飯事のように起きている。でも、法律に違反していないのだからと、ながらスマホは止まらない。
常識だ、道徳、倫理だというような話をすると、今の時代に何を言っているのだと言われそうだが、医師で脳の事にも詳しい和田秀樹氏は「テレビは知らず知らずの内に、放送で言われている事が知らず知らずの人間の脳に刷り込まれて行くのです。だから、テレビ番組を作る制作者は、それを理解して番組を作らないといけないし、政府もそうした視点で、番組のチェックをしないといけないのですが、日本では全くそうした発想がないので、野放し状態です」という。
20160920
ネールアートを職場でするのは、真っ赤な背広を着るのと同じ
女性の間でネールアートが流行っていて、私生活だけでなく、最近は、職場でもネールアートをした指で仕事をしている女性が見られるようになって来た。
先日も、ある有名塾に行ったら、受付の女性がネールアートをした指で書類を渡してくれて驚いた。それどころか、先日、某民放の報道番組を見ていたら、司会の女子アナがネールアートをした指でパネルを指さしながら、説明をしていた。
それより少し前、NHKのBSの報道番組で、司会の女子アナがネールアートをしているのを見て驚いたが、こちらは視聴者の声に敏感に反応するNHKらしく、その女子アナは注意をされたらしく、次の回からはネールアートがなくなっていた。それだけでなく、少し後の番組改編で、その女子アナは番組の司会から姿を消していた。
元々、交代が決まっていたのか、ネールアートの件が影響したかは知らないが、さすがNHKと感じた。
マニュキュアは元々はアフリカなどで生活の必要から生まれたものだというが、それが、アメリカなどではエチケットととして発達した。女性だけでなく、男性も美容室などに行って、きれいに爪を切ってもらうことも広く行われ、場合によっては、透明のマニュキュアを塗ってもらうことも珍しくはない。
アメリカは富裕階級程、そうした身づくろいをするのがエチケットというような考え方があり、歯並びが悪い人がそのままにしておくのは、矯正する資力がない階級の人達か、エチケットがない人達という受け止め方をする人達もいるという。
女性のマニュキュアは身だしなみの一環として、アメリカ社会では職場でも定着し、役員秘書などはマニュキュアをしているのが普通という感じで、日本でも、外資系企業ではマニュキュアをしている女性を結構見かける。
しかし、日本企業の職場全体からすると、マニュキュアをしている女性は少数派で、していない人の方が圧倒的に多い。
日本では、マニュキュアというと、バーのホステスなどがしているものというイメージが長くあり、企業で部下の若い女性がもし、マニュキュアをして出勤したら、上司の部課長が文句をいうような事もあり、一般の女性がしにくい雰囲気があった。
加えて、爪は皮膚呼吸をしていて、爪にマニュキュアを塗ると健康に悪いという医者の話も、マニュキュアを少数派にした理由かもしれない。
ところが、一色に塗るマニュキュアと違って、爪に絵を書いたり、飾りをつけたりするようなネールアートが流行り出して、少し雰囲気が変わって来た。上に書いたように、日本企業の職場でネールアートをして出勤する女性がまだ、そう多くはないが、少しづつ出だしたのである。
筆者の感覚からすると、ネールアートは全くプライベートな場所、時間での遊び、気分転換というように受け止めるが、女性の感覚は違うらしく、職場にネールアートをして出勤する女性が少しづつだが、出だしたのだ。
どうも、今の上司は部下の女性が職場にネールアートをして来ても、文句を言わないらしい。そして、上記のように、テレビの報道系番組の司会者がネールアートをして登場するようになって来たのである。
こんな話を書くと、「自分の爪に何を塗ろうと、他人がとやかく言う事ではない」と反論する人もいるかもしれない。だが、筆者はそれは違うと思う。
自分の事で、他人に迷惑をかけている訳ではないから、どうしようと自分の自由だと言うなら、例えば、普通の日本企業の職場に、アフロヘアをして出勤したり、短パンやシースルーの服を履いて行き、自分の席で、その姿で仕事をしたら、皆から総スカンだろう。
女性だけでなく、男性が真っ白や真っ赤の背広を来て出勤したら、上司が直ぐに飛んで来て、「お前、バカか」と怒鳴るだろう。
自由の原則から言えば、どんな服を着ようが、髪型をどうしようが自由という事になるが、職場には、一般常識という規律があり、真っ赤な背広や短パン、アフロヘアを大手企業の職場でし続けたら、その人は間違いなく、左遷されたり、退職を余儀なくされる仕打ちを受けることになるだろう。
部下の服装や髪型にうるさい日本企業で、では何で、ネールアートに上司が文句を言って、止めさせないのだろうか。
考えられるのは、今の企業の部課長は部下を叱る事で揉めたくないという心理があるのかもしれない。また、真っ赤な背広やアフロヘアは目立つが、ネールアートなら、それ程目立たないので、腹では文句を言いたいが、黙っているのかも知れない。
また、「ネールアート」というネーミングが、芸術をいう文言が入っているので、文句を言う上司は「芸術を理解しない野暮な人」と言われるのが嫌なのかもしれない。
手元の事で、それ程目立たないから黙認という発想は違うと筆者は考える。
手元というのは結構目立つ。ましてや、その指で、来客に書類を渡したり、テレビ番組でその指でパネルの説明をすれば、嫌でも目に入って来る。
そもそもの話だが、ネールアートをしたい女性に言いたい事は、自分は楽しいかも知れないが、マニュキュアもネールアートも、日本人男性の多くは好きではないという事だ。少なくても、ネールアートをしている事で、男性のその女性への点が上がる事はまずない。
それなのに、結構の料金を取られるネールアートショップに行く心理が理解できない。同じくらいの金をかけるなら、気分転換をする事はいくらいでもあると思う。
年齢の行っている筆者などは、長い爪でマニュキュアをしたり、ネールアートをしている女性を見ると、「この人、家で料理などの家事をほとんどしないのだろうな」などと勝手に感じてしまうが、そうした筆者などは、今や日本では少数派になって来たのかも知れない。
20160916
演歌の作詞者、作曲者は30年前で思考停止状態
演歌が売れなくなって久しい。
一時期、宇多田ヒカルの1人のCDの売上げが、全演歌歌手の売上げを上回るなどと言われたこともあったが、筆者は演歌と言われれる歌を作る作詞者、作曲者の発想が時代に全く合わなくなり、国民の共感を呼ばなくなったことが売れなくなった最大の原因だと考える。
今でも、テレビで時々、若い演歌歌手が出て歌を歌っているが、今のこのご時世に、「あなたひとりに尽くします」「あなたなしには生きられぬ」とか、「港」や「波止場」などという単語が並んでいる歌をしかも、かつて歌われた演歌の曲の部分部分を持って来たようなメロディーばかりで歌われると、年の行った筆者でも、いくら何でも、時代錯誤と感じてしまう。
作曲者としてかつてはヒット曲も書いたことがある弦哲也氏が「何としても、もう一度演歌をヒットさせたい」と言っていたのを新聞の記事で読んだことがあるが、彼の最近の曲を聞く度に、時代が変わったのだという事を理解し、もっと街を歩きなさいと言いたくなる。
筆者が盛んに歌を聞いた十代、20代前半の頃は、歌は歌謡曲と言っていた。そして、当時の日本の歌謡曲は、もっと範囲が広く、歌の内容ももっとバラエティーに富んでいた。
筆者が大学生でアルバイトをしていた時、菅原洋一の「知りたくないの」がヒットし、テレビではなく、有線や当時あったジュークボックスという機械から音楽が流れるものから、歌の良さ、声の素晴しさで多くの人の心に沁み込んで行った。
この歌はアメリカの有名な男性歌手が歌った歌を、菅原洋一が日本の歌詞にして歌ったもので、素晴しいメロディーに加えて、彼の甘い歌声もあって、大ヒットした。
菅原洋一はラテンを歌っていた経歴があり、そのリズム感に加えて、素晴しい声で歌う事もあって、「今日でお別れ」「芽生えてそして」「誰もいない」などのヒット曲を歌った。その歌詞は、死ぬの生きるのなどと大声を挙げるのではなく、一人で淡々と、しかし、深い悲しみを歌う歌が多かった。
菅原洋一がラテンから出たように、当時はハワイアンから出た日野てる子、イタリアのカンツォーネ、フランスのシャンソンを歌っていた岸洋子、旗照夫などが、その味を日本の歌で出し、岸洋子の「夜明けの歌」旗照夫の「あいつ」、高英男の「雪の降る街を」などのヒット曲が出た。
また、戦後の在日米軍キャンプ巡りで腕を鍛えたフランク永井、水原弘などが、当時多くあったのど自慢で優勝をして名前をはせ、フランク永井は「低音の魅力」と言われた素晴しい声で、「おまえに」「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「大阪ロマン」などヒット曲を連発した。
同じく低音だが、フランクの吹き通った低音ではなく、少ししゃがれた低音で、水原弘は第1回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」から、「黄昏のビギン」「君こそわが命」「好きと云ってよ」などの歌を歌い、その歌のうまさで多くのファンを魅了した。
フランク永井や水原弘、菅原洋一に共通するのは、歌う世界の幅広さである。ラブソングあり、先立たれた妻を恋うる唄、そして、男女のやり取りを少し茶目っ気で歌う歌ありである。更に様々なリズムの曲を歌っている。
女性では、多くのヒット曲を歌った美空ひばりについては、説明の必要もないだろうが、今は関口宏の夫人の収まっている西田佐知子は「アカシアの雨がやむ時」で安保騒動で挫折した学生の心を歌う大ヒット曲の他、出せばヒットするという位のヒットソング歌手で、筆者でも知っている彼女のヒット曲は20は下らないだろう。
こうした個人で大ヒットした人がいる一方で、グループで歌い、大ヒット曲を生み出した行って人も少なくない。グループサウンドと言われた人達では、タイガースの「花の首飾り」など数々の良い歌を世に送り出した。
また、ロマン歌謡と言われるグループがいて、「ラブユー東京」などのロスプリモス、「小樽の人よ」の東京ロマンチカ、「知り過ぎたのね」のロスインディオスなどいくつものグループが出て、リードボーカルの魅惑の歌声で多くのファンを獲得した。
グループでも、学生っぽいとか、青年ぽさで歌を歌ったグループもいくつも出来て、「学生街の喫茶店」のガロから、「22歳の別れ」を歌った風、「神田川」のかぐや姫などがいる一方で、男女2人で歌ってヒット曲を出した、「白いギター」のチェリッシュ、「誰もいない海」のトア・エ・モアなども素晴しい曲を提供してくれた。
更に1曲を大ヒットさせたためだろうか、その歌手というと、その大ヒット曲しか頭に浮かばない人でも、素敵なヒット曲を送り出してくれた「折鶴」の千葉紘子、「みんな夢の中」の高田恭子、「あなたのすべてを」の佐々木勉などもいた。
映画俳優が歌を歌い、歌と映画の両方でファンを引き付けるというタイプの人も少なくなく、石原裕次郎、小林旭などは、それぞれ数十曲以上のヒット曲を世に送り出した。
また、外国出身の歌手が日本語で歌を歌い、それが大ヒットするという人も少なくない。多くの日本の歌をきれいな日本語で心の沁みいる歌い方で歌った「アドロ」「竹田の子守歌」などのスサーナ、「忘れないわ」のペギーマーチ、「雪は降る」のアダモ、少し下っての桂銀淑やテレサテンについては、説明の必要もないくらい、多くの日本人に愛された。
勿論、今の時代に演歌と言われる分野に属する歌もあり、村田英雄や三波春夫などはいたが、それは全体のほんの一部で、今のように、日本の歌と言えば演歌という感じでとらえられているのとは、全く趣を異にする。
筆者が若い頃、聞いて覚え、自らも歌ったヒット曲の多くは、you tube にアップされているので、それらを見つけてはダウンロードして、パソコンに収めたが、それらの曲は300を超える。そして、暇な時に、これらの曲を流して聞き、他の作業をしながら、自らも歌うことがある。歌詞は覚えているので、歌詞を見る必要はない曲ばかりである。
でも、今テレビを見ると、年老いた筆者には、とても良いと思えない今のJ-popと言われる人達の歌か、聞くに耐えない若者の演歌のどちらかしか放送されていない。
J-popでも、筆者が好きな歌手も勿論いるが、彼らの歌がテレビに流れる事はまずない。コンスタントのCDを出しているのだから、一定のファンがいて、それなりに売れているのだろうが、今のテレビは、力の強いプロダクションの関係者中心の番組作りなので、どうしても、偏ってしまう。
音楽って、もっと幅広いし、そうしてものを紹介すれば、歌謡番組は視聴率が取れないということはないだろうと思う。
今の時代でも良い歌が流れれば、ヒットするはずなのだが、そうした曲がどうして出て来ないのだろうと思っていたら、最近発売4カ月で有線放送ランキングで1位になる曲が出て来た。28歳とまだ若い歌手、林部智史のデビュー曲「あいたい」だ。
少し良い歌が出てくれば、多くの人の心を掴み、ヒットするのだ。
でも、今の時代、彼がヒットすると、物まね大好きな風潮から、同じような歌がいくつも出て来るのだろうなと思ったりする。二番煎じは誰も好まないのだが、それを今のテレビ局関係者や音楽関係者はわかっていない。
上に書いたように、音楽はジャンルが広い。そして、個人の好みも違う。作詞、作曲をする人達が狭い世界に限らずに、時代の遅れの古い演歌に拘らずに、良い歌を作りだして欲しいと切に思う次第である。
20160915
二重国籍が問題なのではなく、嘘を平気でつき続けた事などが問題
今日は民進党の代表者を決める選挙の日だ。マスコミの事前予想では、蓮舫氏が過半数に迫る勢いで、代表に当選する可能性が高いという。
前にも書いたが、二重国籍問題がこれだけ話題になり、蓮舫氏の応対が本当にお粗末であったのに、彼女が代表に当選しそうだという民進党の関係者の神経が理解出来ない。彼女が代表に当選するような民進党なら、今後、全く期待はできない。
一部の識者と称する人達の間から、「二重国籍の何が悪い」という蓮舫氏を擁護する発言が出ているが、彼らはものの本質を全く理解していない。
日本の国籍に関する法律では、二重国籍の人間は成人したら、どちらかの国籍に一本化するように求めている。罰則はない。罰則はないからと言って、50歳くらいまで、法律に違反して二重国籍の放置していたその姿勢そのものが、まず、国会議員に相応しくないのだ。
わかりやすい話をすると、NHKの受信料について定めた放送法に、罰則はない。だから、NHKが不払いの人から受信料を取ろうとする時は、裁判所に訴えを起こさないといけない。以前は、NHKは訴訟に消極的だったが、あまりに不払い者が多くなって来たので、少し前から訴訟を起こしだした。
そして、そのすべての訴訟でNHKは訴訟に勝利している。ワンセグなどテレビと言えるかどうか疑問のものは別だが、罰則がなくても、テレビを持っている者は受信料を払わないと痛い目にあうという事である。それが法律である。
その法律が悪法であるかどうかはどうでも良い。法律が法律であり、それが有効であるなら、日本人はそれに従わないといけない。法律がおかしいと思うなら、法律改正をすれば良いだけなのだ。
国会は法律を議論し、決める機関である。そのメンバーである国会議員が罰則がないからと言って、法律違反状態を何十年も続けている事自体が大問題なのだ。
蓮舫氏が民進党の代表者どころか、国会議員に相応しくない最大の理由は、平気で嘘をつき通したり、事の重大さを認識せず、だから、対応をきちんとせずに、問題が大きくなった後も、その場その場で、言い逃れをして、逃げることが出来なくなった初めて、謝罪をしたという適応力のひどさだ。
最大野党の代表者は、選挙の結果次第では、総理大臣になる可能性があるという事である。二重国籍問題の対応を見ていて、こんな問題意識が全くなく、だから、事実をきちんと確認せず、その場その場を嘘と方便の対応で終始した人が、一国を代表する首相になるという事を考えれば、何が問題なのかがわかるはずである。
つまり、人間として、また、国会議員としての資質、覚悟が全く無いという事が、二重国籍問題をきっかけに露呈したということなのである。にも、かかわらず、彼女を代表者にしようと、民進党関係者はしているのだ。
それも彼女ならイメージが良いからとか、彼女が代表になったら、御しやすいからという理由からである。だが、彼女がもし、代表になって、選挙になった時、演説会などで、「嘘つき」とか、「何十年も法律違反をして来た人間が何を言う」という野次にあったりしたら、イメージが良いどころでなくなるという事がどうしてわからないのだろうか。
一部の民進党国会議員の中からは、彼女の国会議員としての資質を疑問視する声が出ていて、二重国籍問題の事実関係がはっきりする前に、地方の党員などが投票した内容を見直すべきという声も出ているというが、それが全体の声になっていないのが、民進党のお粗末さの反映なのである。
蓮舫氏の最大の問題は、その場、その場を乗り切る事だけに、嘘と方便を使い、それが後で事実と違うという事がわかると、「自分はそうした意味で言ったのではない」とか、「編集者が自分が言った事と違う記事を書いた」などと、自己の責任、反省の姿勢がなく、自分は常に正しく、責任は相手にあるという姿勢である。
以前の雑誌や新聞の記事で、「自分は台湾籍だ」とか、「自分は日本在住の中国人です」と言っているのに、「自分はそんなことは言っていない」と平気で嘘をつく神経は、尋常な人間の発想ではない。
また、最近のテレビの番組で、二重国籍について聞かれると、「自分は生まれた時から日本人です」と答え、後で、当時の法律では、父親が台湾人なら、日本国籍がなかった事を指摘されると、「精神的にはずっと日本人でしたという意味で言ったのです」と言うのを言い逃れでなくて、何と言うのだろうか。
首相というのは、国家の重大事の時に、最終決断をする人間である。その首相になる可能性がある人間が、こんなコロコロ言う事が変わり、嘘を平気でつき、責任を他人に転嫁する人であって良いか、普通の常識で考えれば、直ぐにわかる事なのだが、民進党の党員や国会議員はわからないのだという。
普通の神経の人なら、二重国籍問題がこれだけ大きな騒ぎになったら、代表選の立候補を取りやめる。だが、蓮舫氏には、その自省も常識もない。
民進党に立候補している他の2人が人間として、また、国会議員として、代表に相応しいかと言えば、決して良い点がつくとは言えない。
しかし、先の東京都知事選挙でも、そうだったが、小池氏は決して、候補者として、高い点の人だったかと言えば、そうではない。他の2人の有力候補の内、鳥越氏は話にならないくらいお粗末さだったし、もう1人の候補者は、自民党の実力者がコントロールしやすい人間を担いだというのが見え見えだったので、消極的に選択として、多くの都民が小池氏を選んだのである。
民進党の候補者については、英語で言えば、「anyone but Renho」(蓮舫以外なら、誰でも良い)である。民主主義はベストの選択ではなく、ベターな選択をするものなのだ。
民進党の関係者にも、この都民の常識を期待したいが、民進党には、都民程の常識もないのだろうか。
20160912
党に反省を求め、自分は無反省な蓮舫氏
二重国籍問題であれこれと書かれている民進党の蓮舫議員が、yahooニュースの記者とのインタビューで、この問題について質問に答えている内容がアップされた。だが、読んでみて、まず、感じたのは、この人には反省、自戒という発想が全くないということである。
インタビュー記事の中で、「自分及び事務所の担当者の応対が悪く、問題を大きくしてしまった」とか、「自分の記憶違いで答えたことが事実と異なり、それが誤解に輪をかけた」というような、反省、自戒の言葉がまったく聞かれないで、話は全編、言い訳に終始している。
「台湾政府に問い合わせているが、返事がまだないので、台湾の国籍が残っているか、確認できていない」というのが、一貫して彼女が言っていることである。
だが、ネットで多くの人が指摘しているように、これだけの問題になっていれば、日本の国会議員が「至急事実を確認して欲しい」と真剣に求めれば、少なくても、数日で事実確認が出来ると考える方が普通である。
更に、「彼女が17歳の時に、父と台湾国籍を放棄の手続きに言ったが、台湾語だったので、自分はやりとりが理解できなかった」という彼女が言い続けている事についても、「台湾では20歳にならないと、国籍離脱の手続きは出来ない」というネット上での指摘に対しても、「自分は台湾語がわからなかったし、父に任せたので、事実関係はわからない」という答えのみである。
普通、社会で一定の責任ある立場の人であれば、少なくても、「自分が幼くて、父親任せで、細かい事実確認をしなかった事で、今となっては自分の至らなさを悔やんでいる」という話が入っていて当然だが、そうした趣旨の言葉はどこにもない。
更に、十数年前、蓮舫氏がまだテレビの司会者などとして活動していた時、雑誌「CREA」のインタビュー記事の中で、「私は台湾国籍です」と答えている事についても、「古い話なので、当時の編集関係者と連絡が取りようがないので、調べようがありません。私は『台湾国籍だった』と過去の話をしたつもりが、記事では現在形になっている。この経緯も古い話なので、今更、調べようがない」というような説明をしている。
雑誌でインタビューを受ければ、雑誌は送って来るので、必ず読んでいるはずである。
もし、彼女が言うように、「過去形で話をしたことが、現在形で書かれてしまった」という事なら、当時、雑誌を読んだ気が付き、出版社に異議を申し立てていたはずであり、そうしたやり取りがあったのなら、記憶に鮮明に残っているはずである。
そうした事もがないというのは、彼女が「自分は台湾国籍です」と答えたという理解をする方が常識であるが、読者がどう感じるかという発想すらない説明である。
もっと、言えば、十数年前でも、取材したライターや編集者は今でも生存しているだろうから、探すように出版社に依頼をすれば、直ぐにも、取材した人間や編集者は把握でき、事実関係が明らかになる。
筆者自身、それこそ、数え切らない取材をして、原稿を書いたが、「自分は台湾国籍です」というような発言なら、鮮明に覚えているから、十数年前の事でも、当事者の証言を引き出すことは難しくない。
そして、「二重国籍問題は、ヘイトスピーチと同じように、特定の国の関係者をバッシングする意図が感じられ、日本人の狭さを感じて、問題だ」というような趣旨の話さえしている。
この話に至っては、「バッシングは自分の落ち度、対応の悪さから出た話」から、「自分はバッシングされている被害者」という転換を図ろうという意図さえ感じ、こんの人が代表に当選がほぼ確実だという民進党という党そのものが、もう全く期待が出来ないという事を再認識させられた。
蓮舫氏は民進党の代表選挙に立候補するにあたって、「民進党が国民の多くから支持されていない状態をどう変えていく積りか」という質問に対して、「わが党が政権を取っていた時の間違いや、自民党の政策に対して、批判をするだけで、提言がないという体質をまず反省し、何が間違いだったかということをきちんと整理して国民に示し、政策提言もして、批判だけの政党というイメージから脱することが大切」という趣旨の話を繰り返している。
でも、党については、これだけ問題点を認識し、反省を求め、そこからの出直しを言っている人が自身が、自分の事については、全く反省、自戒、対応の悪さを悔いる発言が全くないのは、問題がこれだけ大きくなった中で、異常とも言える居直りであり、自己反省という言葉がこの人の辞書にはないのだとしか、言いようがない。
そもそも、この問題がこれだけ大事(おおごと)になったのは、ネットのサイトで、何人かが二重国籍問題を指摘した時に、書いている人たちが、「蓮舫事務所に問い合わせをしたが、質問に対するきちんとした答えがなかった」と言っているように、適切に対応しなかったことが最大の原因である。
ネットにせよ、新聞、雑誌、テレビにしろ、一般に公表されている情報は、その媒体や書いている人達が、右であれ、左であれ、特定の意図を持っている人達であれ、一定の影響力があるのだから、質問にはきちんと答えないといけない。ましてや国会議員である。答えるのが義務の仕事である。
例えば、質問した来た媒体が共産党の機関紙、赤旗であっても、創価学会の聖教新聞であれ、何十、何百万の人がそれを読んでいるのだから、質問を無視すれば、「質問に答えないのは、認めている証拠」と書かれても仕方がない。
相手がどんな媒体でも、少なくても国会議員なら、きちんと答えるのが義務であるはずだ。
大分前の話だが、宇野首相が首相になった時に、かつて愛人として付き合っていた女性が、そのことを雑誌に話をした事で、宇野氏は首相を辞めざるを得なくなった。
雑誌の取材者が「ずっと黙っていた話を今になって話すのは何故ですか」という質問をしたのに対して、この女性は「国会議員や大臣くらいなら、腹も立たないが、一国の首相になったという事で、こうした人を首相にしておいてはいけないと怒りがこみあげて来た」というように答えている。
この手の話はよく聞く。「国会議員に当選したまでは許したが、大臣になったので、許せなかった」と言って、新任大臣の過去のスキャンダルを暴露した人も少なくない。筆者の知人がある大手企業で常務になった途端に、もう十数年前の事で、関連業者から過去の問題を持ち出されて、それが週刊誌に載り、彼は役員だけでなく、その会社を辞めざるを得なくなった。
野党最大の党、民進党の代表ということは、選挙で自民党が負ければ、首相になるということが現実になって来る。蓮舫氏の言動を見ていると、代表選に立候補するのは、それだけの重みがある事なのだという認識が全くないと言って過言ではない。
あれば、二重国籍に問題でも、もっと早く、事実確認をし、自らマスコミに説明をし、情報公開をするはずだが、彼女はずっと逃げていただけなのだ。
だから、テレビで司会者を務めていた時に覚えたテクニックで、自分の都合の悪い話は誤魔化して答え、つじつま合わせの話をする内に、嘘がどんどん広がり、矛盾が更に出て来るという事に全く頭が行ったいないのだ。
民主党が政権を取った時、事業仕分けというのをマスコミに公開して行い、蓮舫氏はその仕訳人の中心にいた。その時の仕訳で、日本が国策として開発を進めて来たスーパーコンピューターの開発予算を削った。
「一番でないとどうしてもダメなのですか。二番じゃダメなのですか」という彼女の言葉は何度もテレビで放送された。
この時の予算削減は、日本のスーパーコンピューター開発に多大な影響を与えたというのが、関係者の共通の認識である。だから、この事業仕分けはスーパーコンだけでなく、子供の知能発達について、現場で子供と接して研究していた「子供の城」がなくなるなど多くの点で間違いが多かったと言われている。
だが、今、テレビで司会者がスーパーコンの事を質問すると、蓮舫氏は、「この問題を説明するには、1時間くらいかかるけどいいですか」と言って切り抜けている。
テレビはこの話題で1時間も使えないのは、テレビで司会者を務めていた彼女は一番良く知っているので、こういえば、質問は止まるとわかった上で、議論を終わらせているのである。
民主党政権の間違いをしっかり認識し、反省した上で出直すと言いながら、自分が関連した話は、間違い、失敗は認めず、議論さえさせずに、テクニックで終わらせているのが蓮舫氏である。
それにしても、彼女自身だけでなく、民進党の他の議員、特に彼女を代表に担ぎ出した人達などは、二重国籍問題が大きくなりかけた時に、なぜ、適切な対応をアドバイスしなかったのか不思議でならない。
問題が起きた時、早期に誠意をもってきちんと対応すれば、多くの問題は大事(おおごと)にならずに、解決するものである。
まあ、民進党の内部事情に詳しい政治評論家が、「蓮舫氏は民進党の中で嫌われている。その彼女が代表に当選しそうなのは、担ごうとしている人達が、彼女なら、御しやすく、それでいて、女性の代表というのは、選挙のイメージに良いから」という事で、代表に当選しそうだというのだから、適正なアドバイスをしてくれる人など、元々いなかったのかも知れない。
自民党のある国会議員が、「国会の議場の中で、一番汚い言葉で野次を言い続けているのは蓮舫氏。マスコミが伝えて来た彼女のイメージとの間には大きなギャップがある」という事を言っている。
テレビで名前と顔を売り、歯切れの良い言葉でマスコミ受けのする話をすることで、選挙でも多くの票を獲得して来た蓮舫氏だが、二重国籍問題などでの彼女の言動を見ると、中身が何もなく、マスコミが作り上げた虚像の中で、打ち震えているのが彼女自身なのかもしれないとさえ、感じてしまう。
選挙民ももっと、議員や首長などを選ぶ際に、しっかりした目を持たないといけない。都知事選挙で野党統一候補の鳥越俊太郎氏は小池氏の半分の票しか取れなかった。だが、あれだけお粗末な候補者に百万人を超える人が票を入れたという事実を、「選挙民の愚かさ」だと語る人もいる。
くれぐれもマスコミが作った虚像にご用心。
20170330
森友問題…クズ沼地跡に群がった同和、暴力団、辻元清美の利権
ここしばらくの間、テレビ各局や新聞社は連日、森友問題を取り上げ、国会でも野党が「格安で払い下げたことに首相及び、首相夫人が関与した疑い」と執拗に追及していた。
そして、マスコミ各社は新聞も、テレビも野党の主張をそのまま報じるだけで、問題の本質は何かを全く報道せず、印象としては、それこそマスコミ各社は「野党と結託して」、その尻馬に乗って、一方的な情報のみを流し、憎い安倍自民党政権を攻撃しているだけのように感じられる状態だった。
ところが、ネット時代というのは、情報をマスコミが独占していたかつての時代と異なり、色々な人が情報を個人で発信でき、書き込みをしているので、現地取材をしないでも、問題の意味するところがわかって来て、筆者にはこの問題の本質が見えた来た。
森友学園が取得した土地がどんなものなのか、近くの人や資料を持っている人が数十年前と現在の様子を航空写真でネットで公開したり、説明をしたりしている。
それによると、この土地は元々、深い沼地で、かつては、行き倒れや暴力団の抗争などで死んだ人が投げ込まれ、沼をあされば、人骨がいくらでも出てくる所といういわくつきの場所だった。かつては近くに精神病院もあり、そこの入院患者で身投げをする人もいたという。
それが、戦後、沼が埋められた。当然、産業廃棄物なども投げ込まれ、その上に土を乗せて、沼でなくなった。そこへ、同和や在日の人達がバラックを建てて、住み着いた、ごちゃごちゃとしたスラム街だった様子が写真に示されている。
ところが都市化の波が押し寄せ、周辺はどんどん開発され、住宅も建って来て、住宅地になって来たし、近くにいくつもの学校も建設されて、高級住宅地の印象も出て来た。
その一方で、伊丹空港がすぐ近くで、騒音がひどく、飛行機の離発着があるので、建物の高さ制限があるという問題の地域でもある。
筆者も大阪に6年住み、記者として取材をした経験があるので、事情はわかるが、空港の騒音問題は一時期、大問題で、運輸省(いまの国土交通省)は対応に追われ、賠償金を払ったり、土地を買い上げたりした。その一連の中で、この沼地を埋めた立てて、小学校建設用地も国土交通省のものになった。
国土交通省は土地をいくら持っていても仕方がないので、会社を作って、土地を払い下げをして行き、手持ちの不要な土地は、この小学校用地を除いてなくなった。
通常の国有地の売却の窓口は財務省、現地では、その出先の近畿財務局であるが、近畿財務局が処理をするというので、国土交通省は任せて、土地処理の会社も解散してしまった。
近畿財務局は大阪芸術大学に売却する交渉をしたが、いわくつきの土地ということでか、交渉は難航し、破談となってしまった。不要の土地をいつまでも持っていられないので、国土交通省は財務省近畿財務局に早く売るようにせっついていて、近畿財務局は焦っていた。
大学との交渉がうまく行かなかった理由はいわくつきの土地だということに加えて、土地の価格の問題があったようである。
いわくつきの沼地跡に加えて、空港騒音があり、とても高い値段では売れない。というか、籠池氏が超安値で手に入れたと考えた土地は、それでも高いくらいの土地だったのである。
しかし、土地の売買取引の価格は、周辺の土地の固定資産税の算定の際の基準になるので、周辺の住宅地からあがる税金を考えると、土地の価格を安くできないという悩みが近畿財務局にはあった。
そこで、近畿財務局が考えた手が、地中に産業廃棄物があるという点である。「本来の土地の価格は高いが、産業廃棄物があるので、その処理費用を差し引く」という理由で、購入者には安く払下げ、固定資産税には影響を与えないという一石二鳥の案だったのである。
現実に、隣接の用地を豊中市が買い入れ、公園にした時の価格が2千万円と森友以上に超破格だった。そして、この売却に、当時、民主党政権で国土交通省の副大臣をしていた辻本清美議員(地元選出議員)が関与していたという疑惑があり、あまりの安すぎるし、国の補助金を不正に使ったのではないかと、豊中市議会で追及されている。
辻元議員がなぜ、そんなことをしたか。それは、産廃の特殊理由で地元の市役所に格安で売却すれば、市役所に恩を売れる。国会議員と地元の市町村や県は、与野党に関係なく、持ちつ持たれつの関係で、恩を売る事は、何かの時に見返りを求めることが出来るのである。
加えて、産廃値引きはしても、産廃がない周辺の土地は評価額が高ければ、住民ととっては資産価値が上がる事で、大歓迎である。この地区は同和や在日の人たちが結構いて、彼らが票田の辻元議員は、彼らに利益のあることをしたと考えられるのだ。
そして、この周辺の土地の造成や産廃の処理などは、暴力団関係の企業や、籠池夫人のメールで明らかになった生コンクリート関係の企業や労組も関与していて、利権に絡んでいるという話である。
こうした複雑な土地なので、関係者は「表に出さないでそっと処理」ということだったのだが、辻元議員と親しい、左派系の地元市議が「右翼の学校ができるのは許せない」ということで、この問題を追及しだし、初めはローカルネタだったのが、オールマスコミが「安倍を引きずり下ろせる」と考えて、あっという間に全国ニュースにしてしまったのである。
辻元議員の頭が悪いのは、隣接地の売却に自分が関与していたとみられること、そして、いわくつきの土地で表面化すると、様々なところに影響が出ることをわかりながら、籠池夫人のメールにあったように、自分と親しい生コン業者の関係者を潜らせ、マスコミに嘘の証言をさせるまでしたと思われることである。
そんなことをすれば、自分の旧悪が暴露されると、普通は考え、自分は関与しないのが通常の考え方である。そして、メールが公表されて、その関与が疑われると、「自分や幼稚園には行っていない」と、すぐにばれる嘘を平気でつくことである。
大手マスコミで長年、記者をしていた筆者が今、マスコミの報道を見ていると、とても信じられない状態である。なぜ、ここまでひどく劣化してしまったか、不思議でならない。
蓮舫氏の二重国籍問題でも、最初にネットである識者が指摘し、ネット上では大きな問題になっていたが、新聞、テレビ各社はずっと無視していて、どうしようもなくなってから、報道するようになった。でも、それも問題が何ら解決もしていないし、戸籍謄本の提示すらされていないのに、その後のフォローもしていない。
今回の森友問題でも、籠池夫人のメールから、辻元議員の関与が疑われるようになっても、産経新聞を除く、大手新聞、テレビ各社は一切黙殺した。そして、いま、仕方がなくなって、テレビ数社が辻元氏のことを取り上げるようになったが、そこには、コメンテーターの「大した話ではないですよ」というコメントがついて、しかも、全体ではなく部分を取り上げるだけの扱いである。
新聞社は産経を除いて、未報道のままであるし、NHKも全く取り上げていない。
籠池夫人のメールだけでなく、関係したとみられる土建業者の社長が豊中市役所で首を吊って死んでいる。人の生き死にが出てきているのに、「大したことではない」と言ったり、取り上げない神経が理解できない。
大阪では、暴力団、同和、在日問題で、何かあると、「いつも月夜の晩ばかりではないですよ。ある日、川に死体が浮かんでいるなんてことがないように、注意してくださいね」という冗談とも本気ともとれる話が出てくる。筆者も関係者に取材をしていて、言われた経験がある。
自殺と言われて、殺された人の数は少なくないと言われている土地なのである。これだけ根が深い問題をしっかり取り上げず、現地の本質の取材もせず、首相夫人の寄付金や講演料などの話に終始しているマスコミ各社の態度が信じられない。
それにしても、安倍首相も気の毒である。親が決めた結婚とは言え、どうしようもないバカと結婚した不幸にはご愁傷様と言いたい気持ちである。
数多くの政治家や企業経営者の夫人とも付き合って来たが、政治家の妻で、これだけ出来の悪い人はまずいないだろう。何よりも、自分がいかに主人の足を引っ張っているのかということが、問題がこれだけ大きくなった今でも、気がついていない愚かさである。
大手企業経営者一族に生まれた人は、それなりの相手と結婚する。だから、そうした人たちが行く聖心女子大も甲南女子大も先生は「勉強なんてできなくても良いから、家事ができなくても良い。家庭教師もお手伝いもいる。でも、家庭マネージメントは自分がするしかないのだから、それはしっかりできるようにね」と指導するのである。
昭恵夫人は家庭マネージメント以前、人前に出ず、余計な事は一切しないように徹することだと思う。でも、この人は、自分の馬鹿さ加減について一生気がつかないだろう。
20170129
歴史を学ばず、時代の変化に対応できない大手マスコミと政治家
しばらくブログを書かない間に多くの出来事があった。
それらを通して痛感するのは、本来なら一般国民を納得させ、リードしないといけない大手マスコミの記者や政治家が、歴史に学ばず、大きく変わる時代の変化に追いついていけない愚かさをさらけ出している姿である。
その例として、韓国の人間が数年前に日本の寺から盗んだ仏像について、韓国の裁判所が、「日本人に500年前に盗まれた」と主張する韓国の寺のものだとする判決をしたことについて、日韓議連で自民党の額賀代議士が「日本政府は日韓友好のために、この判決に抗議してはいけない」と述べ、ネットなどで売国奴と批判されている事がある。
同じように、河野談話で知られる河野洋平氏が「駐韓日本大使を日本政府が召喚したのは誤りだ」と話している事があり、こちらも「韓国が言う嘘を認め、日本の名誉と信頼を大きく傷つけた河野が何を言うのだ」という猛烈な批判にさらされている。
歴史的に見て、韓国という駄々っ子を甘やかし、相手の言う事をほとんど鵜呑みにして、譲った結果が韓国を増長させ、却って日韓関係を悪化させたという発想も認識もない自民党のハト派と言われる人たちの愚かさを露呈している事に、気付いてもいないのだ。
(笑止、トランプに対抗するために、中国と手を組めと勧める日経の記事)
マスコミが歴史を学ばない典型例は、ここしばらくのマスコミの記者やプロデューサーの原稿や番組作りの随所に見られる。
1月28日の日経新聞の「大機小機」の欄で、この記事を書いている人間は「徹底したエゴイストのトランプ米国大統領に対抗するために、日中関係の速やかな改善に努め、協力して対抗すべき」という趣旨の主張をしている。
この欄は日経新聞の編集委員や大手シンクタンクのエコノミストなどが原稿を書くというが、この原稿を読んで、筆者は目を疑った。何故なら、アメリカに厳しい事を言われ、日本との関係も上手く行かないので、強く出て反発され、それならと中国にすり寄った結果、その中国にもケンモホロロの応対をされ、国の存亡さえ問われるような状態になっている韓国の二の前をしろと勧めているとしか思えない記事だからである。
戦後70年経って、アメリカやロシアなどの公文書公開や、研究者の調査などで、今、戦前、戦中の様々な事が分かって来ているが、その1つに、明治維新で近代化に成功した日本を警戒したアメリカが、資源がないという欠点を持つ日本が、資源を豊富に持つ中国と結びついて、アメリカを脅かす存在になる事を極度に警戒して、日中の分断に全力を挙げ、日本を戦争の追い込むための策を次々に繰り出し、我慢できなくなった日本が戦争にと突入して行ったというのが有力な説となっている。
また、中国共産党は戦争中、共産化したソ連と共謀して、日本に大量の工作員を送り込み、近衛内閣などはそうしたスパイの巣の状態となり、彼らの活動で日本政府はやってはいけない事を連発して、大敗戦に追い込まれたというのがわかって来た。戦争中だけでなく戦後も、中国共産党は日本に大量の工作員を送り込み、また、日本人のマスコミ、学者、政治家に働きかけて、日本が間違った方向に行くようにミスリードし続けているという事が中国共産党の公文書などで明らかになっている。
朝日新聞の間違った従軍慰安婦報道、靖国参拝問題なども、こうした中国共産党の工作活動の延長線上で考えると、納得が行く話である。
20161225
「国を挙げての反日は遺伝子。付き合わない事」呉善花氏の助言
ネットの時代の良さは、自分が知らない事を色々な人が解説したブログや対談、講演などがアップされている事だ。今のマスコミは偏っていたり、変に自制をしているので、マスコミ報道だけを見ていると、大局観が損なわれる。マスコミが報道しない情報をネットで補わないといけない時代になったのだと痛感する。
勿論、ネットには、明らかにおかしいという情報も氾濫しているので、良し悪しを見分け、選別をする知識やセンスが自分にないといけないのは当然だが。
韓国問題については多くの人がネットで様々な意見をアップしているが、その中で、筆者にとって一番、納得が出来て、ためになったのは、呉善花さんの解説だ。
韓国で生まれて成人してから、日本に留学し、以来、日本に20年以上住んでいる彼女は、韓国目線、韓国人の感情と、日本人の価値観、文化など双方を知っているので、非常に納得が出来るわかりやすい解説、分析をしている。彼女は自身の体験からとても役に立つ話をしている。
それによると、今の韓国人は、「日本支配でひどい目にあった」と徹底教育され、反日に染め上げられているので、基本的に誰もが日本が大嫌いである。ネットで多くの韓国人が書いている反日的な事は、こうした教育で育った韓国人の自然の声なのである。
しかし、日本に来てみると、日本人は誰もが親切で、食べ物もおいしく、治安も良いので、直ぐに反日感情が薄れ、日本が好きになる。
それが、2、3年経つと、今度は腹が立って、韓国にいた時以上に日本が嫌いになるというのだ。そして、その思いを書いて、百万部を超えるベストセラーになった日本帰りの韓国人もいるという。呉さん自身、日本に来て、2、3年経った頃は、本当に日本が嫌いになり、悩んで、日本を離れ、欧州で数年過ごしたという。
どうしてそうなるかと言うと、韓国では親しい友は、持ち物は何でも共有、困った時も自分の財産を分けてでも助けるのが当然なのに、日本ではそうでない事に、腹が立つというのだ。
具体的な話として、韓国では親しい友人になると、友人の筆箱から文房具を断りもなく、借りて使うのは当たり前。友人の家に言って、冷蔵庫にある食べ物を勝手に食べるのも当然、友人の服を借りて着るのも自然だというのだ。
そんな価値観で育った韓国人が日本で友人が出来たと思って、日本で同じ行動に出ると、当然、文句を言われる。しかし、それが当然の韓国人は、「あなたは私の友人ではないのか。裏切られた」という気持になるというのだ。
立身出世をして成功した一族の親戚が群がり、成功者も自分の富を分けるのも当然という価値観である。李王朝時代、500年以上にわたって中国の属国となり、ごく一部の貴族階級を除いて、8、9割の国民が奴隷状態で、極貧にあえいでいた国だからこそ、この価値観が出て来たのだと思われる。勿論、中国から来た儒教思想もあるが。
個人レベルでもそうなのだから、国レベルになるともっと強烈になって来る。韓国人からすると、中国は親父的な存在、日本人は弟と思える存在。その日本が兄である韓国以上に成功しているのだから、自分のものを分け与えるのは当然という思いなのに、日本はそれをしてくれない。だから、許せないという思いになるというのだ。
竹島くらいの小さな島1つくらいで文句を言うな。対馬は韓国にくれてくれて当然。九州、四国くらいくれないと韓国は納得しないというくらいの気持なのだという。これは良い悪いではなく、価値観、文化なのだから、どうしようもない。
韓国の歴代大統領が任期が終わる頃に、家族や友人に便宜を図って、汚職まがいの事をしていいたとして、辞めた後、弾劾される図式の原因が、この韓国人特有の価値観にあるというのである。
以下は歴史的な事実だが、李王朝時代の朝鮮では、国民は塗炭の苦しみに喘いで来た。当時の統計で、朝鮮人の平均寿命が20歳台、国民のほとんどがモンモウで、字が読めず、大半の人が満足に名前すらなかったというのが、日本の明治時代まで続いたという事が、その凄さを表している。
元々貧しい土地で僅かしか出来ない農産物の半分を中国に貢ぎ、その残りの半分のほとんどを1割くらいの貴族が独占し、8,9割の一般国民は自分の土地を持たず、流浪しながら、非情裏に貴族に殺さ、拷問されても文句も言えず、どうにか生きて来た民族である。
王族、貴族は少ないパイの取り合いであり、充分に自分たちが得るものがないので、互いに殺し合いをして来た。勝った方は負けた方の一族郎党、9親等までを殺すという事をしたので、反対側が勝った時は、その仕返しで同じ事をした。
そして、その勢力争いで自分が有利になるために、中国やロシア、日本など海外の国に援助を求めて来た。強い者に力を借りるのは当然で、自分が強いと思って頼った国が弱いとなると、別の強い国に頼り、それまで頼っていた国を否定し、裏切るのは当然の行動だったのである。
こうして、強い者にはひたすら媚び、それ以外に者、自分が文句を言える相手には、徹底的に高飛車になるという「事大主義」が遺伝子に組み込まれて行き、それが朝鮮の人たちの遺伝子になって組み込まれているのである。
でも、その李王朝を否定、批判する事は、500年の自国の歴史を否定する事になる。だから、韓流ドラマでは、李王朝の名君を描き、讃えるのである。韓国に5千年の歴史があり、かつては、日本はもとより、中国のほとんどを支配していたというような、ほとんど笑い話のような話を、大学の教授が本に書き、それを多くの韓国人が信じる理由がそこにあるのだ。
歴史の事実はひど過ぎる。だから、事実に目をつぶり、幻想で、こうあって欲しいという世界を描かないと、自分の国家、自分自身を否定する事になってしまうのだ。柔道も剣道も、忍者も寿司もすべて朝鮮人が考え、それを日本に伝えたというような吹き出すような話が堂々と、公式に公表されている。
対日本だけではない。ピザもスパゲッティもサッカーも韓国人が考えたのだと主張し、あまりの大風呂敷に、諸外国に笑われ、呆れられても、真面目に主張するのである。
その朝鮮は日韓併合で、日本が今の金にして数十兆円という金をつぎ込んで近代化をし、両班と言われる特権貴族制度を廃止し、学校を建て、教育を普及させ、普通選挙制度も、多くの法律も作り、近代国家になった。だから、当時の朝鮮人は日本人になる事がうれしくて仕方がなかった。
だが、その日本がアメリカに負けたのである。ここで自大主義が出て来るのだ。韓国人の意識としては、「アメリカに負ける日本に頼ったのが間違い」だったのだ。「日本人になった事が間違い」だった。ここから、日本を憎み、反日になって行くのである。
韓国を分析する人の多くが、初代大統領の李承晩が反日教育を始め、金大中や廬武鉉など左派の大統領がそれを助長したと言うが、歴史の根はもっと深いのである。
そして、アジア通貨危機で、韓国が危機状態になり、IMFの指導で立ち直った時に、財閥への集中がより進み、大手銀行のほとんどが外資に8,9割資本を握られ、折角、企業が稼いだ金は海外の株主に持って行かれるようになった。
一握りの財閥大手企業に勤める人は良いが、今の韓国では、一般国民は厳しい状態に置かれたままとなっている。国民の過半数が機会があれば、韓国を出て、外国に移住したいと考えているという異常な状態なのだ。
多くの国民の激しく怒っている。誰が大統領になっても、韓国の経済は変わらない。だから、国民の不満、怒りは収まらない。そして、その矛先が日本に向かうのである。
戦後の韓国では、日本は温存した李王朝をアメリカが廃止し、共和国になった。本当にひどい李王朝の統治だったが、それでも、王朝が精神的支えだったのである。それがなくなったのである。
一方で、北朝鮮では、金王朝が三代続いていて、圧倒的な独裁政権で、大国アメリカや、日本と対等にやりとりしている。本当にひどい北朝鮮の現状に目をつぶっても、金王朝に近親感を抱く韓国人が少なくない理由はそこにあるのだ。
次の韓国政権は北朝鮮と友和政策を取り、北朝鮮と連合国家形成という可能性が少なくないというのが専門家の見方である。これは事実上、北朝鮮による韓国併合である。
呉善花さんは言う。「日本は韓国に譲ってはいけない。譲れば譲る程、要求が強くなる」。だから、「日本にとって一番の策は、何もせずに、付き合わない事」だという。
でも、この事実がわからず、日本の政治家、官僚、マスコミは隣国なのだから、仲良くしないといけないといけないと言い、その発想の下、日本政府は交渉をしようとする。そして、譲り、より多く要求されるという泥沼にはまっているのだ。
ありもしない従軍慰安婦や強制連行で譲った事が間違い。河野談話、村山談話も間違い。何もしないで、傍観する事こそが、最善の方策だと言うのだ。
これまでは、アメリカが日韓が対立するのは問題だとして、協調へ圧力をかけて来ていたので、日本政府もそうせざるを得なかったところもあったが、韓国の異常さが次第にわかって来て、そうした圧力もトランプの出現で収まって来そうである。
「愛する」ことの反対語は「憎しみ」ではなく、「無関心」である。「嫌韓」は止めよう。「無韓」になろう。何を言って来ても相手にしない事。そして、挑発や過剰な要求には毅然として、「ノー」を言う事。そのためには、政治家にもマスコミにも多くいる親韓勢力を押さえる努力をしないといけない。
そう、日本が変わる良い機会なのである。
20161217
日露首脳会談の最大の成果は「国際政治の冷徹さを教えて事」
北方領土の返還に前進があるのではないかと期待された日露首脳会談が終わったが、日本の大手マスコミは「領土問題では何の進展もなく終わり、日本は経済協力だけ食い逃げをされかねない状態」と報じ、ネットでのコラムには、「安倍首相はロシアに北方領土をプレゼントした」と書くところも出た。
多分、そのマスコミ報道を受けて、野党は安倍政権に「日露首脳会談は失敗」と攻撃するであろう。では、本当に今回の日ロ首脳交渉は日本にとって、何も成果がなかったのであろうか。筆者はそうは思わない。
今回の首脳会談の最大の成果は何かと言えば、「日本国民に国際政治の冷徹さを徹底的に教えてくれた事」、そして、「安全保障をアメリカに任せて来て、戦後70年、国際政治を冷徹に見るという感覚を失った日本人の甘え切った精神構造に冷水を浴びせてくれた事」だと考える。
国際政治の原則は「戦争で失われた領土は平和交渉では返って来ない」という事である。欧米の国際法の専門家は「北方領土が国際司法裁判所で争われたら、確実に日本は負ける」とさえ言い切っている。
日本では、「ソ連は日ソ間の条約を一方的に破って、戦争をしかけ、不法に領土を奪った」という見方が一般的だが、世界政治の常識ではソ連がやった事は、戦時では当然の事なのであり、そもそも、全く信用できないスターリンを信用して、相互不可侵条約のようなものを結んだ日本の当時の政治家が間抜けだったのである。
日本人には、アメリカが沖縄を返してくれた事や、ソ連が西ドイツに東ドイツを返した事などから、ロシアも北方領土を返してくれる事を期待する空気が強いし、「日本固有の領土だから、ロシアが返して当然」という考えが強いが、これは全く国際政治を理解しない発想である。
アメリカが沖縄を返したのは、少し事情を知っている人なら知っているが、当時、日本の繊維製品がアメリカを席巻し、アメリカの繊維業界から猛烈な反発が出ていて、アメリカ政府は対応に苦慮していたという背景があった。
そこで、日本国内の繊維業界の機械を日本政府が買い上げる、つまり、製造能力を大幅に縮小して、アメリカへの洪水的な輸出を止める事を条件に、アメリカが沖縄を返したのである。「糸を売って、縄を買った」と言われた交渉を当時の佐藤首相がし、日本業界への補償などの取り組みは田中角栄などが通産省の知恵を下に考えたのである。
筆者はこの時に既に大手マスコミの記者になっていて、政府が買い上げた機械は、業者が自らの手で打ち壊したのだが、その打ち壊しの状況を取材したので、今でもよく覚えている。
更に、アメリカは名目的には沖縄を日本に返すが、基地の使い方はこれまで通りとするという条件を出し、日本政府がこれを飲む密約を結んで、沖縄は日本に返ったのである。
だから、日本のマスコミがよく書く、「在日米軍の7割が沖縄にあるので、この負担を減らして、本土でもっと負担してあげるべき」とか、民主党政権時の鳩山首相が「悪くても沖縄県外の日本、できれば、沖縄の米軍基地は海外に出て行ってもらう」という発想は、アメリカからすれば、「何、寝言を言っているのだ」という事なのである。まさにドン・キホーテ的は空想なのである。
沖縄や台湾は地政学的に極めて重要な地点なのである。
アメリカは幕末のペリーの時代から、沖縄の重要性を認識していて、この土地を狙っていたのである。だから、日本が自主防衛となり、核の配備でもして、アメリカと真の対等関係での同盟関係とでもならない限り、沖縄の米軍基地はなくならないと言っても過言ではないのである。
旧西ドイツがソ連から東ドイツを返してもらったのは、西ドイツのブラント政権が、アメリカの反対を押し切って、ソ連から長年、天然ガスを買い続けて、ソ連首脳からの信頼を勝ち取った上、ソ連が崩壊前夜で、経済がメタメタで、金が喉から手が出るくらい欲しい状態だったので、日本円で何兆もの金をソ連に出して、言わば、西ドイツが買い取ったのである。
そのドイツはと言えば、かつての中心的な国、プロイセンは戦争の結果、今ではロシアとポーランドなどの領地となり、そこに住んでいたドイツ人は財産を没収の上、追放されたのである。そして、追放された人達は領土の返還は無理でも、没収された財産の補償くらいして欲しいと叫んでいるが、ポーランド政府はこれを拒否している。
旧ソ連の支配下から脱し、今やドイツの衛星国のような状態になりつつあるポーランドでこうなのである。国際政治では、相手に譲歩を求めるには、こちらもそれに代わるプレゼントがないといけないのだ。
日本国憲法に書いてあるような、そして、戦後の日本人の中心的な考えとなった「人類皆兄弟」「世界の国どこも平和を愛し、話せば理解し、仲良くできる相手」という幻想は一日も早く捨てないといけないのだ。
今回の日ロ首脳会談でのやりとりや記者会見でのプーチン大統領の発言を聞いて、筆者はマスコミ報道とは異なり、極めて率直で、誠意を感じた。マスコミが報じるプーチン像とはかなり違う像をそこに見た。それだけ、安倍首相を信頼しているのだと感じた。
「領土返還をするには、相互の信頼関係がないといけない。日本とソ連、ロシアはずっと対立が続いていて、その信頼関係はまだ緒に就いたばかりである」「信頼関係が出来始めた時、クリミヤ、ウクライナ問題での欧米の対露制裁に日本も加わり、信頼を壊した」「これから時間をかけて、信頼関係を築いて行こう」「日本がアメリカと日米同盟を結んでいるのは理解するが、北方領土を返し、そこに米軍基地が出来たら、ロシアにとって大きな脅威となる」「1955年当時、二島返還で日ソ両国が合意したのを強硬に反対して、潰したのはアメリカだ」 こうした、これまでソ連、ロシアの首脳が言わない事をきちんと言っている。
安倍首相との二人だけの差しの会談では、多分、「ロシアが北方領土で譲歩したら、クリミアだけでなく、他の国との間で抱える領土問題に大きな影響を与える」という事は言ったであろうし、「そうした国々が納得するような、日本のシベリア、サハリン地区でのロシアへの経済貢献が重要だ」というような話をしたのだと思われる。
そして、二人の間で、多分、北方領土返還へのロードマップ、タイムスケジュールなどが議論されたのではないかと、筆者は推測する。でも、これは今は外に向けては絶対言えない話である。
いくら国民の支持率が8割という高い支持を持つ大統領でも、領土問題では一歩も譲るなという国民世論を無視は出来ないのだ。だから、「2.5島くらい返して良い」というようにロシア国民が納得するような協力を日本にして欲しいという事を言ったのだと思われる。
1955年当時、二島返還合意で交渉をまとめて来た鳩山一郎、河野一郎という日本政府首脳に対して、日本国内世論が四島でないと駄目と反対し、そのまま進める事が出来なくなったと言われたが、その後の公文書などの記録で、アメリカの当時のダレス国務長官が「二島で日ソで平和協定を結ぶなら、沖縄は永遠に返さない」と脅して、潰したという事が明らかになっている。
領土問題は、それくらい国際政治が複雑に絡み合った問題だという事を日本人は理解しないといけない。
日本の隣の韓国で政治的な混乱が続いている。そして、今、次期大統領の有力候補と言われる人は誰もが、現在の朴槿恵大統領よりは遥かに反日で、対日強硬派であり、誰が選ばれても、日本に次ぎ次と新しい要求を出してくるのは必至である。
ここ十、20年の日本政府は、相手の誠意に期待をして、譲歩を重ねて来た。それが村山談話であり、河野談話なのだが、韓国という国は、相手が譲歩したら、更にそこから、もっと要求して来る国なのだという事を早く認識し、冷徹な国際政治を展開しないといけない。戦後の日本で、一番欠けていたのが、この「冷徹な目」であり、「したたかな外交交渉力」なのである。
日韓の戦前問題は、朴槿恵大統領の父親の朴正熙政権との交渉で、今後、一切蒸し返さないという事で合意し、日本は多額の援助を与えた。それで、韓国は近代工業化に成功したのである。
だから、従軍慰安婦問題などを韓国が蒸し返して来た時に、「それなら、朴正熙政権との合意も破棄するという事になるので、戦前に日本が韓国に投資した、今の金にして何十兆円の金を返してくれ。合意の下で日本がした多額の経済援助も返して欲しい」と言わなければいけなかったのを、譲歩して村山談話、河野談話を出したので、韓国がどんどん付け込んでいるのである。
「冷徹な目」「したたかな交渉力」がないと、国は大きな損をするのである。
国際政治では、どの国の首脳も背景に世論を抱えている。一方的な譲歩は自分の命取りになる。だから、相手から譲歩を引き出すには、こちらも要求するところと、譲るところをきちんと整理し、したたかに交渉しないといけない。
それに今回の日ロ首脳会談は気付かせてくれたという事に、日本人はプーチン大統領に感謝しないといけないし、その冷徹な国際政治感覚と交渉能力が問われるのが、来年から始まるであろう韓国の新政権との交渉であると筆者は考える。
ただ、ここ数年で日本も大分変って来た。その最大の功績者は中国と韓国であると思う。彼らが対日批判を続ける内に、多くの日本人の中が「誠意をもって話をしても、話が通じない相手には、譲歩をしてはいけない」という事に気が付かされたのである。
そして、ネット社会の良さで、「じっくり学ぼう 日韓近現代史」「じっくり学ぼう 日本近現代史」「ひと目でわかる『日韓併合』時代の真実」「朝鮮人は何処から来たか」のように、日本の大手マスコミが絶対流さない歴史的な事実に基にした分析や解説が、平易な言葉で聞け、多くの日本人に戦中、戦後の実際を教えてくれる情報がネットで流れ、誰でも聞けるようになった事は大きい。
それにしても、日本の大手マスコミや、学者はこうした時代の変化に気が付かず、旧態依然のままである。そして、十万人以上の人が見ている「じっくり学ぼうシリーズ」などは、大手マスコミで取り上げる事はない。
百田尚樹氏が書いた「カエルの楽園」や橘玲氏が書いた「言ってはいけない」はベストセラーになりながら、大手マスコミはどこも書評で一切取り上げず、無視したままである。
戦前は右翼として、日本人を無謀な戦争に駆り立たるのに大きな力を発揮し、戦後は左翼として、日本を貶める記事を多く書いて来た朝日新聞を、減ったとは言っても、今でも何百万人の人が読んでいるし、歴史的に多くの嘘を描いている韓流ドラマをNHKを初め、多くのテレビ局がいまだに流している。
戦後になって、戦前、戦後に日本人がこれだけひどい事をしたという放送を流し続けて、日本人を洗脳した上、アメリカ占領軍の言論統制に大きな役割をしただけでなく、最近、アジアの諸国が日本にいかにひどいことをしたかという番組を流し、その中身があまりにも事実と違うとして、裁判で負けたNHKを、いまだに多くの国民がいまだに信頼しているという事を見ると、怒りよりも悲しくさえなる。
でも、今は日本人が大きく変わる過渡期に来ている。そうした時に、淡い期待を打ち砕き、現実の国益と国益の対立は極めて厳しいものなのだという事をしっかり認識させてくれたプーチン大統領に感謝すべきだと筆者は考える。
20161113
当事者の都合で辞めさせられない侍ジャパンの小久保監督
来春の野球の世界選手権とも言えるWBCを控えて、現在、侍ジャパンの強化試合というのが行われているが、日本チームの試合運びが全くぱっとせず、見ている野球ファンの不満が爆発寸前である。
ネットの書き込みを見ると、ファンの最大の不満、不成績の理由の第一が小久保監督の存在である。ネットの書き込みでは、書かれている事の9割は小久保監督のまずい監督の采配についてで、彼の監督としての采配に疑問を感じ、一日も早く彼が監督を辞任するように書き込んでいる。また、日本プロ野球機構にも、小久保辞任を求める電話やネットでの抗議が凄いという。
去年行われたWBSCプレミア12(WBCがWBSCになったのは、Sはソフトボールが野球と協力して行く事になったから)では、準決勝で韓国に敗れ、日本は三位に甘んじた。
その原因が救援投手の起用を基本的に失敗し、投手が打たれ出したり、四球を連発しても、小久保監督は何もせずに敗れた事に批判が集中し、一般マスコミも含めて小久保監督の辞任が取りざたされたが、周囲も彼を辞任の追い込まなかったし、小久保氏自身も自ら辞める事をしなかった。
そして、今、行われている強化試合でも、去年の失敗が全く学習されていないままで、四番に誰が考えても、DeNAの筒香で決まりなのに、成績が不安定な日本ハムの中田を据えるなど、監督采配には疑問が多く、初戦でメキシコに敗れた。
そして、昨日のオランダ戦は9回表に2点差のリードをひっくり返され、9回裏にどうにか同点に追いつき、十回に勝ち越して、とにかく勝ったが、救援投手の選択ミスは明らかで、勝てた理由も相手のエラーによるもので、去年のWBCそのままの采配で、来春のWBCでの苦戦を暗示する試合運びだった。
聞くところによると、小久保監督には、「四番は右バッターでないといけない」という変な持論があるという。でも、王選手にせよ、張本選手にせよ、超一流選手で四番を務めた人はいくらでもいる。四番が右バッターでないといけないというのは、何の根拠もないのである。
では、これだけ疑問だらけの采配をし、現実に勝てない指揮をしている小久保監督が交代しないのか。
理由は3つあると筆者は考える。
1つは監督適任者は、前ソフトバンク監督の秋山氏、日本ハムの栗山監督、広島の緒方監督、巨人の前監督の原氏など何人もいるが、その適任者は誰もあまり監督をしたくないのだ。日の丸を背負って試合をするというのは、経験者に言わせると大変なプレッシャーである。
プロ野球のシーズンでは6割くらい勝つと、大体優勝する。つまり、4割は負けて良いのである。だから、捨てゲームをしっかり考えるのが監督の重要な仕事である。
しかし、勝ち抜き戦の世界大会では、予選リーグはともかく、決勝トーナメントになると、1試合でも負ければ、それで終わりである。負けられないというプレッシャーは、あのイチローをして、胃腸の具合を悪くしたというくらいの緊張なのである。
小久保氏が居座る2つ目の理由は、WBCの日本側の実質的な興行主である読売新聞社の意向である。読売新聞社は暴力団との付き合いなど、きな臭い噂が絶えない原氏を巨人の監督職から解いた。表向きには、最終年の巨人の成績や監督など首脳陣の若返りを理由にしたが、原氏の監督在任中の成績は監督を辞任しないといけないものではなく、別の思惑が働いたと考える方が納得できる。
つまり、辞任をする事で警察など司法関係者には恭順の意を表し、更に表舞台から去る事で、週刊誌に叩かれることをなくして、嫌な噂が広まるのを防ぎ、禊を終えたと思える適切な時期に、表舞台に復帰させないと考えた深慮遠謀での監督退任だったと噂されている。
復帰の舞台は2020年の東京オリンピックである。
そのためには、それまで毎年開かれるWBCで監督の座に有能な人が座り、好成績を収めてしまうと、原氏を東京五輪で監督にする理由がなくなってしまう。だから、監督としては無能だが、選手に良い人材がそろっているから、それなりの成績を挙げられる状態が続くというのが、読売グループとしては一番良いのだと言う。
つまり、原氏の監督待望論が高まるための、捨て駒だという事である。
3つ目の理由は、小久保氏に美学がない事である。普通の意識の持ち主なら、去年のWBCでの敗戦で、自ら辞任を申し出て、慰留されても固辞し、監督を辞めるのが当然である。でも、小久保氏はそれをしなかった。
高校、大学とスタープレーヤーの道を歩み、プロ野球の選手として一定の成績を収めた小久保氏のような人は、常に光が自分に当たっていないと気が済まないのである。
ましてや、今のソフトバンク(当時のダイエー)に入団する時に、今はロッテにいる井口とともに、将来の監督の座も約束されて、入団を説得されたという噂がある人間には、それに代わる自分に相応しい座が必要と考えているのだろうと感じられる。だから、優勝してからでないと、辞任は出来ないと本人は考えているとしか思えない。
「監督もコーチも経験がなく、いきなり日本代表の監督になって、勉強不足でした」というような事を言って、去年の敗戦の時点でスパッと辞任していれば、ソフトバンクの監督の座はまた機会があったと思うが、侍ジャパンで、これだけお粗末が采配を続けていれば、それもなくなってしまう。
小久保氏には美学がないだけでなく、風も読む頭もないのである。
監督をめぐる人事というのは、最適な人の登用という事にはならず、当事者の思惑で決まるという事が少なくない。そして、それがファンの失望を買い、ファン離れを招くことが少なくないが、自らの権力の拡張などの思惑で動く人間が多いと、どうしても、おかしな事になる。
その代表がサッカーの名古屋グランパスの監督人事であり、野球のソフトバンクの監督人事である。
サッカーの名古屋は監督経験が全くない人間を監督に据え、しかも、GMの権限まで与えた。その結果、面白くない前任のGMとの間で人間関係がぎくしゃくして、球団内がゴタゴタして成績が急降下し、ついには二部に転落という事になってしまった。
野球のソフトバンクには、秋山という立派な指導者がいた。しかし、奥さんの病気、死亡という事で監督の座を降り、今の工藤氏が監督に座った。工藤氏も監督もコーチの経験もなくての監督就任である。
工藤氏は40歳を超えてまで選手を続け、200勝投手でもあるので、自分の考え、信念がかなり強固である。それはそれで良いのだが、それを選手に押し付けて来る。
ソフトバンクのレギュラークラスになると、ほとんどの選手がずっとスター街道を歩んで来て、自分の練習法や調整法などに自信と信念を持っている。それを工藤監督は自分流を押し付けて来るのだ。
そして、それに従わない選手は一軍の試合にあまり使わず、干すという事をするし、自分流に従うまで、文句や嫌味を言い続けるのだ。その結果がこれまでの優勝に大きく貢献した細川捕手の退団であるし、今年のシーズンで、途中までぶっちぎりの成績だったのが、夏場くらいからチームの成績が急降下し、日本ハムに逆転を許す事につながったのだ。
多くの選手が「また、優勝したら、工藤政権が長くなってしまう。それは嫌だ」と考えた事が、大逆転を許す結果につながったというのだ。
野球の盟主はずっと巨人が務めて来た。人気も金もあり、他球団の一流選手も多く引き抜いて来たし、新人の入団でもダントツの人気だった。しかし、それも長年の驕りと、野球人気の降下とともにおかしくなり、今はソフトバンクが新しいリーダーになりつつある。
ソフトバンクは良い選手も集まりだし、名実ともに、球界のリーダーになりつつある。そのソフトバンクで監督の座に不適格者が座っているのだ。
日本ハムの栗山監督は監督もコーチも経験もなく、いきなり監督の座に就いたが、彼の素晴しさは優秀な球団スタッフが用意したものの上に座り、その意向に沿って行動出来る事である。
日本ハムは当初、親会社の日本ハムから球団職員が派遣され、様々なアイデアの下にファンの増加策を考え、実行して行き、成功させた。そして、 今は親会社からの派遣ではなく、独自にしっかり仕事が出来るプロを外部から雇い、その人たちに思い切った仕事をさせ、親会社の援助で成り立つ球団から、自立した球団を目指している。
栗山はその球団の意図をしっかり理解し、自分もその線に沿って行動している。それだけでなく、選手との対話でも、相手の心情を理解し、じっくり話し、相手に納得してもらいながら、自分の考えに従ってもらっている事である。
今シーズン、ずっと不振だった中田が二軍に降格して欲しいと考え続け、ついには、それを監督に告げた時、栗山監督は「君はチームの中心選手だ。二軍の落とせというのは、自分の果たさないといけない役割を放棄しようとしている甘えだよ」と淡々と説き、中田にその甘さを気付かせ、奮起させられたという話を中田自身がしている。
そして、「この監督を男にしないといけない」と思って、甘えていた自分を反省し、蘇ったという。中田は癖のある選手である。コーチや監督、そして、かつて超一流選手だった評論家が、中田の問題点、修正点をあれこれ言っても、自分が納得しないと反発し、実行しないタイプである。
その中田に、自分を惚れこませるようにする栗山という人は将の器だと思う。中田だけでなく、大谷に対しても、的確にアドバイスをし、今シーズンのように、二桁勝利、20本以上のホームランという成績を残しても、「君の能力はまだまだ、こんなものではなく、もっとずっと上があるはずです」という手紙を書いて送ったという話は、スポーツの選手の心理を本当に理解した監督だと思う。
彼だから、高校からいきなり大リーグに行く決意が固かった大谷を、日本ハムに入団する説得が出来たのだと思う。それも、お願いベースでなく、その方が「君にとって得だ」という事で説得し、大谷がこだわっている二刀流も認め、ついには、誰も経験がない投手で二桁勝利と20ホームランという偉業につながったのである。
監督というのは、大変な仕事である。監督は大将や社長ではない。企業で言えば、部長クラスである。自分を解任できる権限を持った球団社長や幹部がその上にいる。そして、成績が悪ければ、トカゲの尻尾切りで首が飛ぶ。
しかし、そのやり方が適切ならば、良い結果が出せるし、勝利の美酒にも酔う事が出来る。ましてや、癖があり、プライドが高い一流選手が自分のためならと言う思いで、必死に全力を尽くしてくれるというような世界は他にはない。
リオオリンピックで、男子柔道が全階級でメダルを獲得したのは、井上監督の適切な指導方法、選手への接し方が大きな原因だと言われているし、以前、長く低迷していた日本の水泳をメダルをいくつも取れるようにしたのは平井コーチの存在が大きいと言う。
アマのスポーツの監督やコーチは報酬もたかが知れている。結果と選手の喜びの顔が最大の報酬だと言っても良いくらいである。
それに対して、プロスポーツでの監督は一定の報酬も得られる立場である。しかも、多くのファンが存在する。結果を出す事が義務とも言える立場である。
それならば、球団関係者の思惑で人事を決めるのではなく、もっとファンの立場に立って、人事をしないと、ファンは失望して離れていく。
かつてと異なり、今はネットなどもあり、一般のファンは多くの情報を持ち、目も肥えている。おかしなことをすれば、ファンはわかるし、失望もし、球団から去っていく。こうした時代になったにもかかわらず、球団の首脳は昔の発想のままなのである。
ラグビーのワールドカップでの大活躍で、多くの人の目を引き付けたラグビー界が、その後の協会の幹部の対応のまずさで、一流選手をサンウルヴスに集められずに、無様な試合を続け、試合に集まるファンの数を大きく減らす結果につながっている現状は、ファンの厳しさを示すものである。
監督が無能でも、良い選手が集まっているからそれなりに成績は収められるはずだ。そして、時期を見て原監督の復権などというような馬鹿な事を考えていると、ファンの失望を買い、ファン離れを起こしかねない。現に、今の強化試合の客の入りは今一つである。
今のファンは厳しいのだという事を関係者は忘れてはならない。
20161110
学者、マスコミが大好きな言葉「大衆迎合」という上から目線
今回のアメリが大統領にトランプが当選して事について、日本の大新聞は早速、「大衆迎合(ポピュリズム)の蔓延の懸念」というような書き方をしている。
イギリスのEU離脱も、前ロンドン市長などが大衆を煽って、離脱と言う間違った選択を国民にさせたと堂々とテレビで話す大手新聞社の編集委員殿もいた程だし、学者、エコノミストなどで同じような事を言う人が少なくなかった。
前にも書いたが、学者も記者も、エコノミストも「大衆迎合(ポピュリズム)」という言葉を使っている時、無意識に「自分はレベルの低い、教養のない大衆とは違い、知識もあり、年収も高いエリートなのだ」という意識でものを言っている、上から目線に気が付いていないのだ。
これも前に書いたが、オウム真理教がサリン事件を起こした時、教団の幹部は「貧しい人は長く生きていても、良い事はない。それなら、あの世に送ってやる事が彼らのためだ」と話した。
そして、当時、若手大蔵官僚(東大出のバリバリのエリートの20歳代後半の人間)と、この話をした時、彼とは本音で話しが出来ていた事もあり、相手も安心して言ったのだろうが、「オウム真理教の幹部が言うのは、その通りだと思います。国の政策でも、大衆はバカなので、放っておくと、飛んでもない事になる。だから、我々官僚があるべき姿を示し、それで国を動かしていく事が大衆のためなのです」と堂々と話した。
筆者は大衆迎合、ポピュリズムという言葉を学者や記者。テレビのコメンテーターから聞く度に、このオウム真理教の幹部と、大蔵官僚の話を思い出す。彼らは自分が間違っている事に全く気が付いていないのだ。
民主主義とは何か。簡単である。主権者の国民が考え、決定した事に政治家も官僚も従い、行動するという事である。このイロハのイが全く分かっていないのだ。
勿論、一般国民はそんなに多くの情報を持っている訳ではないので、政治家や官僚が情報を示し、あるべき姿を説明する事は大切である。でも、それらの情報を聞いた上で、どう選択するかは主権者である国民が決める事であり、官僚や政治家の考えと違う決定を国民がしても、政治家も官僚もそれに従わないといけない。それが民主主義である。
民主主義下での国民は時として間違った選択もする。しかし、それで痛い目を見るのは国民であり、そこから学習し、次の時には、より良い選択をする事につながっていく。少なくても、政治家や官僚が「国民は間違っている」と言ってはならないし、国民の意思に反する行動をしてはいけない。
それは民主主義を否定する事になるからだ。
それが嫌なら、中国のように、ほんの一部のエリートが指導する独裁国家に行く事である。
学者や大新聞の記者は、リベラル、国際化、自由貿易、EU統合、差別廃止、恵まれない人に優遇策を取るというような事が大好きである。それらは良いものだとして、どの国もそういう方向に向かうべきだと主張する人が圧倒的に多い。
それは、自分は身分が保障され、高給を取っているから、自由化で外国製品が多く国内に流れ込み、工場が閉鎖され、多くの人が仕事を失っても、自分には関係ないからである。可愛そうな難民は人道的に受け入れないといけないと彼らは主張する。それは、難民が多く入って来ても、自分の仕事を奪いはしないし、彼らが犯罪を犯す地区に住んでおらず、恐怖を抱かずに済むからである。
イギリス国民がEU離脱を選択したのも、アメリカ国民がトランプを選んだのも、普通に生活している中流から下流にかけての人達が、外国製品の輸入で工場が閉鎖されて仕事がなくなり、サービス業中心の仕事で収入が減ったり、移民の犯罪などと隣り合わせで、被害が出たり、恐怖に怯えているからである。
トランプを支持したのは「白人」「高卒」「年配者」がコアの人達である。つまり、外国製品の輸入で仕事を失い、移民に仕事を取られ、黒人や障碍者への優遇策で割を食い、低所得に甘んじている人達である。そして、大学を出ても、まともな仕事がなく、教育ローンを抱えて、苦しんでいる人達である。
オバマが8年前に大統領になった時、彼は「チェンジ」をスローガンにした。一握りの人が目が飛び出るくらいの高給を取り、豪邸に住んで優雅に暮らしている一方で、普通の国民は病気になっても、満足に医者に診てもらえない状態や、生活に困窮している事を変えようという事をオバマが呼びかけ、多くの国民がそれに期待をかけたのだ。
だが、2期8年が終わろうとしている今、オバマが言ったチェンジは何も国を変えなかった。自分たちの窮状も前のままだ。だから、エリートで高所得で、1回の講演で平均2千万円を得ているヒラリー・クリントンではなく、自分の腕で会社を大きくし、国民目線で言いたくても言えない本音を言ってくれるトランプを選んだのだ。
東京五輪の施設建設問題でも、一般国民の意識と、スポーツ選手や団体の役員やオリンピック組織委員会の人達の間には、大きな開きがある。
東京都の知事が小池氏に代わって、施設の見直しが取り上げられるようになってから、元JOC(日本オリンピック委員会)の職員で、今はコンサルタントをしているという人物が良くテレビに出て来るが、彼は「何故、オリンピックに3兆円かかって悪いのだ。世界平和に貢献するオリンピックにそれくらいの金は出すべきだ。自衛隊の経費より少ないのだから」とトンチンカンの事を言い続けている。
彼に限らず、川渕氏などスポーツ団体の長たち、組織委員会の森会長も含めて、ほとんど同じ発想なのだと思う。これは一般国民が考えている事とは全く違うのだという事に気が付いていない。
リオの五輪の時、東京も立候補し負けた。負けた理由としてIOCが指摘したのは、東京都民の多くが五輪を歓迎していないという調査結果が出た事が大きかったという。1964年の東京オリンピックは戦争による焼け野が原から奇跡の復興をした日本が、五輪を誘致できるまでになったという意味で記念碑的な出来事だったのである。
だから、ほとんどの国民がいくら費用がかかっても、見事復興した日本を見て欲しいと考えたし、国も五輪に合わせて、新幹線や高速道路を建設し、高度成長での工場廃液でどぶ川になっていた隅田川に巨大な金をかけて空気を吹き込み、きれいな川を蘇らせても、国民が支持したのである。
しかし、時代は変わった。今の日本は低成長で、賃金はマイナス成長であり、国家財政も地方自治体の財政も厳しい。だから、都民も今更、オリンピック誘致を望まなかったのである。
そこで、東京都は「新規に体育館などは極力、建設せず、できるだけ既存の施設でするコンパックオリンピックにする」と言って、やっと、都民が納得したのである。
ところが、誘致が決まると、この際、どんどん施設を作れ、いくらでも金はかけろという発想の人が中心になって計画を作るから、予算がどんどん膨れ上がって行ったのである。多くの都民が、「そんな事に3兆円もかけるなら、もっとやるべき事は他にあるだろう」と考えているのにだ。
普通の国民は苦労しながら、仕事、子育てをしている。だから、少しでも、自分達の生活が良くなる政治をして欲しい。オリンピックなどのイベントは二の次なのだ。これはEUの離脱を選択したイギリス国民、何かを変えて欲しいと考え、トランプを選んだアメリカ人と変わらないのである。
こうした草の根の国民が考えている事をすくい上げ、それを代弁する人、それを何とか政治に反映させようとする人を大衆迎合、ポピュリズムと言う学者、マスコミ関係者の方が余程、頭の構造がおかしいのである。
多くの国民が不満に思っている事を解決するのが政治家であり、官僚の仕事である。そして、一般国民が考えている事を映し出すのがマスコミの使命のはずだが、今のマスコミにはその視点はほとんどない。だから、新聞は読まれなくなり、テレビも見られなくなったのだ。
マスコミがそうなったのは簡単な理由からだ。それは、大手マスコミに就職する人は一流大学出でないとまず受からない。そして、今、一流大学に行く人のほとんどが親が大卒で一流企業の管理職とか、医者、弁護士という富裕層であり、小さな時から塾に通って勉強をし、一般国民目線を知らずに育った人が中心だからである。
そうして意味で、ネットに書かれている一般国民の声の方が余程、まともである。
今はバスケットボールの協会のトップを務めている川渕氏が「何故、新しい施設を作らないのか」と怒ったような顔をして記者会見をしていた事に対して、多くの人が「その後の施設の管理はスポーツ団体でして、都民に維持費を負担させないと言うなら、あなたの言う事に説得力はあるけどね」とネットで反応している。
これがまともな国民目線なのである。
新宿の都庁は維持費に膨大な金がいる。有名建築家に設計を依頼した結果、そうなったのだ。建築家は自分が特徴のある建物を造る事しか興味がない。それが自分の功績になるからである。それがどれだけ使う人にとって不便だとか、維持に金がかかるかというような事には興味がないのだ。
それだけではない。東京駅近くの旧都庁跡に建てた建物も総ガラス張りで、こちらも維持費が物凄くかかっている。施設は建設するだけの費用ではなく、その後の維持費が凄くかかるという事を、多くの都民が、都庁問題などから学習したのだ。だから、新しい施設の建設に反対なのだ。
草の根の国民の意識を吸い上げる政治家を大衆迎合、ポピュリズムというのは、自分はエリートですと言っているのと同じなのだという事を、もうそろそろ気がつかないといけない。
20161109
番狂わせではないトランプの勝利…マスコミと建前主義の敗北
アメリカの大統領選挙でトランプが大差をつけて、クリントンを破った。
アメリの主要メディアはクリントンの勝利を予想していたこともあってか、日本のマスコミは「番狂わせ」と報じているが、トランプの勝利は番狂わせではない。番狂わせでこれだけの差がつくわけがない。
日本のマスコミ人で当初からずっとトランプの勝利を予言していた人間がいる。元NHKのキャスターで今はフジテレビでコメンテーターをしている木村太郎氏である。
かなり早い時点で、トランプの勝利を断言していた木村氏に対しては、状況分析が出来ないマスコミ人として、批判する人が少なくなかったが、彼は早くからトランプの勝利を断言していた。
また、開票が終わって、司会者に「どうして、トランプの勝利を確信していたのか」と聞かれると、木村氏は「アメリカに行き、彼に会って、直感で、トランプ氏が勝つと確信した。記者の皮膚感覚です」と、アメリカで長く住み、アメリカ人を多く取材した来た事もあって、アメリカ人の心を理解している彼らしいコメントとしていた。
今の記者と接すると、この木村氏の言う皮膚感覚がない人があまりに多いのだ。
筆者は長年記者をしていたが、その後、2つの団体の事務方の代表者を務めたので、取材されるという事を何年も経験した。そして、今の若い記者、何人もと接して感じたのは、この記者の皮膚感覚、嗅覚が本当にないのだ。
今の記者のほとんどは、取材に来た時点で、狙い、結論が決まっている。そして、それに合わせて話を聞き、記事を書く。自分の狙いと合わないものはすべて捨てて、合ったものだけをメモし、それで原稿を書く。狙いに合ったものが3割で、合わなかったものが7割でも、7割を捨てて、3割で原稿を書くのだ。
筆者が現役の記者をしていた頃も、当然、取材に行く時点で、狙いは持って行った。しかし、取材対象の人の話を聞く内に、狙いが実情と違うとわかると、自分の当初の狙いを修正し、記事の結論を現状に合わせて変える事をした。今の記者はそれがないのだ。
だから、取材さら、記事が出たので読んでみると、こちらの話を何も聞いていなかったという感じの記事になる事が少なくない。当初からの狙いを動かさず、結論をそれに強引に合わせるのだ。
クリントンとトランプの選挙戦は、このアメリカでも日本でも、「トランプのような暴言を吐く人間が当選する訳がない」という前提で終始していたし、アメリカの主要メディアは元々、クリントン支持で反トランプだったのだから、その予想は眉に唾をして聞かないといけなかったのだ。
トランプが勝利して、日本のテレビ番組で、その結果をコメントする人で、木村氏を除いて、なる程という話をしている人は筆者が見た範囲ではいなかった。
筆者の意見では、アメリカ人の多くが建前主義で本音が言えない事、また、アメリカでは弱者救済の観点から、障碍者や黒人などが大学入学や就職などでも優遇されている、アファーマティブ・アクションと言う考え方があるが、これなどに多くの人がうんざりしているのだ。
中南米から不法に移民して来た人が麻薬を持ち込んだり、犯罪を多く犯しているのも事実である。しかし、それを言うと、おかしいとマスコミも学者も言う。でも、多くの国民はそうした建前、本音を自由に言えない事にうんざりしている。
そして、それを本音で言ってくれるトランプ氏に共鳴したのである。
日本でも同じような事がある。障碍者の差別になるからと言って、「メクラ」とか、「カタテオチ」という言葉をテレビやラジオで言う事は出来ないし、本や雑誌にも書けない。「ゴウカン」という文字をブログで書こうとすると、「問題表現があるので、修正してください」というコメントが出て、書くことが出来ない。「暴行」と「ゴウカン」では意味が全く違うが、「ゴウカン」が漢字で書けないのだ。
電車のホームから目が不自由な人が落ちて死んだり、大怪我をすると、「何故、ホームに柵を作らないのだ」とマスコミが必ず言う。ホームすべてに柵を作ったら、どれだけに費用がかかるのかという視点がない。障碍者を守るのが当然という論調である。
グローバリズム、リベラル、自由世界、差別がない世の中というような言葉、発想は、学者、知識人、マスコミが大好きで、それを推奨、実行する事が絶対必要という観点で発言し、原稿を書いている。
EUのように、大量の難民を受け入れたら、犯罪を多発するようになった事に、普通の市民は怒っている。でも、政治家、マスコミ、学者は「それは人道的にすべき事」として、問答無用で市民に押し付けている。
人道的に行動しないといけないなら、難民が発生しないような取り組みをしないといけないのに、それはしないで、発生した難民だけを引き受けろというから、「何かおかしい」と多くの人は思うのだ。
EUの通貨統合も、ドイツがただ一人得をする制度だし、国民に選ばれた人でないEU官僚が次から次へと、勝手なルールを作って、加盟国に押し付けて来るから、加盟国も国民が反発しだし、イギリスはEUからの脱退を国民が選んだのだ。
でも、学者、マスコミは「イギリス国民は間違った」という。一般国民からすると、「何言ってんだ」と怒り心頭なのである。彼らからすると、EUが何を押し付けて来ようと、高所得が保障されている学者やマスコミの記者は影響がないかもしれないが、一般国民は多大の被害が出るのだと思っているのだ。
世界の各国が自由に貿易が出来、自由競争が出来る事はあたかも良い事のように、学者やマスコミは言う。しかし、それは強者が勝ち、弱者が負けるという事につながる。だから、EUではドイツが独り勝ちし、ギリシャなどは国民の不満が爆発するのだ。
トランプが言っている事は極めて単純である。アメリカはもう世界の警察官であることを止める。どうしても、して欲しいなら、その費用はそれぞれの国で払ってくれという事である。
貿易でも、アメリカが損をするような事をする国には対抗手段を講じて、アメリカで自由に商売をさせないようにすることで、アメリカ人の雇用を守るという事である。
そういうと、学者や記者は「自由貿易を謳ったWTO違反だ」というだろう。
でも、トランプは単純明快なのだ。アメリカにとって、不利になるなら、WTOからでも何でも脱退しても良い。彼の発想はアメリカ人がかつてのように、自由に豊かに暮らせる国をもう一度作り直そうとしているのだ。
それに障害になる事には反対し、必要なら国際的な団体から脱退をしても良い。国際的な団体は多くの人にとって良いから出来たはずなのが、いつの間にか、加盟国にとって、必ずしもハッピーではなくなっているというのが彼の認識なのだ。
彼はアメリカ人にとってハッピーな国作りをし、国民を幸せにする、そして、それを阻害する国には報復をすると言っているのだ。
グローバリズムは格差を生むし、弱肉強食なのである。いくら努力しても浮かび上がれない人が多く作った。だから、貧しい白人が怒り、富裕層の代弁者のクリントンが大差で負けたのだ。
トランプの勝利は日本にとっても、重大な転換である。
トランプは基本的に「自国防衛は自分でもうしてよ」と言っている。日本人が従来の発想のままだと、百田尚樹氏が「カエルの楽園」で書いたような話になり、日本はC国に支配される事になるのは、必然である。
C国は話をしてわかる相手ではない。話してわかる相手なら、フィリッピンやベトナムなどから、島や岩礁を力ずくで奪い、軍事基地を建設したりはしないし、国際司法裁判所の判断にも従う。でも、それをせずに無視である。
にもかかわらず、マスコミも学者も「話し合いで」と言い続けている。世の中、良心的な相手ばかりではないし、第二の毛沢東になろうとしている指導者だから、その目的のためには、何でもするのだ。
戦争に負けた日本はアメリカの占領を受け、それが今でも継続している。その基礎を作ったのが、今の憲法であり、憲法九条である。憲法九条は、アメリカが日本を永久占領するために、アメリカが作り、非武装を謳った条文なのである。
アメリカはどうしてそこまでしたか。それは日本と戦って、本当に恐ろしかったのである。アメリカに全面対決し、戦争した唯一の国が日本だった。そして、戦ってみて、その勇敢さ、勤勉さに驚いたのだ。
この国に武力を持たせておくと、いつかまた戦わないといけなくなる。そんな事は二度としたくない。だから、日本を非武装にし、日本の強さの根源だった、文化、歴史、伝統を徹底的に破壊、否定し、嘘の歴史をNHKのテレビなどを使って、日本人に叩き込み、洗脳したのである。
その嘘の歴史の中から、南京大虐殺も従軍慰安婦も出て来たのである。
でも、戦後の日本にとっては、嘘の歴史を教えられようが、防衛はアメリカ任せで良かったのだ。
防衛に金をかけない代わり、ビジネスに専念し、戦争ですべてが破壊された国を一から作り直し、アメリカに大量の商品を輸出して金を稼ぎ、国を再建する事が出来たのだ。アメリカの属国、アメリカのポチと言われても、豊かな生活が出来るなら、それでも良かったのだ。
しかし、トランプは過去の経緯はともかく、日本に自立しろと言っているのだ。これは日本にとって、まさにコペルニクス的な転換である。「日米同盟は基軸」をトランプに再確認すると政府は言っているが、いくら話しても、トランプには根底で通じないだろう。
彼の基本はアメリカモンロー主義なのだ。
トランプの勝利で、日本は国のあるべき姿、構造をもう一度見直さないといけなくなって来たという事をしっかり、肝に銘じないといけない。明治の元勲達が、欧米の植民地にならないために、知恵を凝らし、日英同盟を作り、友人、支援国を作って、国の基礎、あり方を作ったような作業がこれから必要になって来るのだ。
20161104
車の自動運転の事故は誰が責任を取るか…議論されぬ大課題
車の自動運転の話がマスコミに多く出ている。自動車メーカーだけでなく、電機メーカーやネット関連企業まで開発にかなりの資金を投入し、開発を急いでいるという。
マスコミに登場する記事を見ると、自分が必要な時と場所に車が自動運転で来てくれるようになるので、カーシェアリングと合わせて、何人ものグループが1台の車をニーズに応じて使えるので、排ガスが多く、花粉以上に花粉症の最大の原因と言われる車の台数が大きく減少する事が予想されるし、利用者にとって、バカにならない維持費の負担が大きく軽減されると、新聞、雑誌の記事、テレビのリポートは良い事ずくめである。
でも、こうした報道では、一番先にマスコミが指摘しないといけない「事故が起きた時に、誰に責任になるのか。そして、賠償はどうなるのか」という問題がほとんど論じられておらず、問題点としては、カーシェアリングで利用者のマナーはどうなるかなど、どちらかと言えば、小さい問題を触れるのみである。
車の安全問題は大きな課題で、事故の時に、搭乗者の被害を少なくするという意味でシートベルトが考えられ、かつてはレースのドライバーしか使用していなかったシートベルトが、今では全利用者に義務付けられるようになり、それとともに、事故の時の死亡や重症の怪我が大きく減った。
一方で、事故の衝撃から、運転者を守るために開発されたエアーバッグは、タカタのエアバッグの事故をきっかけに大きく論じられるようになったが、衝突の衝撃で少量の爆薬が破裂してエアーバッグが膨らむという制度そのものについて、利用基準や問題点がほとんど論じられなかったツケが今になって出て来たと言える。
タカタのエアーバッグの事故で多くの車利用者は初めて知った事だが、エアーバッグについている爆薬は時間とともに劣化する薬品であるにも拘わらず、どのくらいの周期で交換するという基準が全くなかった。
それだけでなく、利用者のほとんどが事故の衝撃で爆薬が破裂して、バッグが膨らむというシステムすら知らず、事故をきっかけに、少なからぬ人が、「自分の目の前で爆発が起きていて、本当に安全なのだろうか」と不安を感じたという始末である。
エアーバッグはまだ、事故が起きないと膨らまないもので、普通、車を運転する上で、問題点を詰めないといけないというよりは、メーカーとそれを管理する役所の間で、詰めて議論し、基準を作らないといけない話だった。
だが、役所やメーカー任せというのは、問題が起きて初めて、「エッ、こんな事も役所と企業の間で詰めていなかったの」という事が少なくない。
その例が、地下のケーブルが燃えて、何十万世帯で停電が起きた東電の火災では、何年毎にケーブルを取り換えるという事さえ、詰めていない事が明らかになった。
この問題は、経産省も東電というか、電力業界に、ケーブルのビニールや金属の線は劣化するという発想がなく、従って、何年を目途に交換するという基準がなく、火災の後になって、経産省が全ケーブルの安全点検を指示しただけで、何年を目途に交換する基準を作ったという話は、事故の後すら、聞こえて来ない。
車の自動運転では、どれだけ良いシステムを作っても、事故は必ず発生する。
自動運転は当然、コンピューター制御だろうが、世の中では、コンピューターの予想外の事はいくらでも発生するし、無謀な運転をする人はいくらでもいて、こうした人の車と自動運転の車が衝突するという事はいくらでも発生しそうである。
日本の交通事故は、百パーセント片方が悪くても、警察の調べでは、事故の責任が百対0には99%ならない。現実には、例えば、車道に人が飛び出したように、一方が百パーセント悪くても、車の運転者には、前方不注視というような責任が問われ、ほとんどのケースで、責任は7対3とか、6対4というような事になる。
自動運転が進むと、自動運転の車を管理して、利用希望者を集め、利用者と時や場所などを管理する運営会社が出来て来るだろう。そうなると、事故の時、自動車メーカーの責任なのか、制御システムを作った電機系のメーカーの責任なのか、管理運営会社の責任か、はたまた運転者の責任なのか、それとも、s事故相手の責任なのか、問題は複雑に絡んで来そうである。
権利意識が強い人からは、そんな制度を認可した国の責任を問う訴訟を起きて来そうである。
車の事故は、現在の日本では、事故で死者が出た時の賠償は1億、2億円という世界で、自動運転で起きる事で想定される賠償金額はかなりの巨額になるはずであるが、そうした議論は聞こえて来ない。
科学者という人種は、科学的に開発をしたら、便利になるとか、こうしたものがあったら良いなと思うことにはチャレンジする事に生きがいを感じる人達である。
だから、結果的に人類に脅威をもたらした核爆弾も開発されたのだし、トイレがない部屋のような物と言われる原発も開発され、普及して行ったのである。狭い土地を高度利用したら便利だとして、考え出され、今ではどこでも見かけるようになったタワーマンションは、現状では大規模修繕が不可能と言える状態で、十年か二十年後には大問題になる事がわかっていても、その問題点と対応策を誰も詰めていない。
科学者の追及熱があるから、我々の生活に便利な品物が世の中に多く登場したのは事実である。
でも、そうした科学者の論理とは別に、文系の人の立場で、開発される事が予想される技術について、それをどう管理し、問題が起きた時には、どう対応するかというルール作りをしないといけないのだが、多くの事で、それが追い付いておらず、問題が発生した後で、対策を考えるということが頻繁に行われている。
しかし、車の自動運転は、当然、数多くの大事故が予想されるので、管理対策と事故が起きた時の対応、ルールを今からしっかり作らないといけないはずである。
筆者が思いつくだけでも、例えば、秋葉原で包丁も持って多くの人を刺殺した人間のような発想で、ある人間が自動運転の車を使って、新宿や渋谷の繁華街に、爆弾を積んだ自動運転の車を突っ込ませたら、どれだけ被害者が出るか想像もつかない。
「嫌、コンピューター制御しているから、人や他の車に衝突しそうになったら、衝突回避のシステムが作動するようになるはずで、事故は起きない」 科学者はそう言うかも知れない。でも、少しメカに詳しい人間が、自動運転のシステムを改変して、自分の思うように自動運転の車を走らせる事だって、充分ありそうである。
科学者や裁判官は、自分の価値基準で物事を判断する。だが、悪意で便利なシステムを悪用する人は世の中にはいくらでもいる。そうした事だって、充分考え、対策をしないといけない。そういう意味では、暴走したら、大惨事になる事は避けられない車の自動運転は、技術開発はともかく、実用化は、本当に慎重の上にも慎重にしないといけない事だと筆者は考える。
20161027
思い込みによる判決…NHK集金人には暴力的態度はないはず
NHKの集金人が集金に来て、玄関のドアをドンドン叩き、チャイムを何回も鳴らすなど暴力的態度で恐怖感さえ感じたとした人の訴えを裁判所が退けた。その判決理由が「NHKの集金人がそんなことをする訳がない」というものだった。
裁判官の大きな間違いは、世の中の人は皆善意で、「常識的に考えてそんなことをする訳がない」という思い込みで判断をし、判決をするケースが少なくない事だ。つまり、世間知らずのお坊ちゃまが多いという事である。
筆者自身、このNHKの集金人の態度を訴えた原告と同じ体験をしている。
何年か前だが、マンションの一室を事務所兼住居にしていた時、NHKの集金が訪ねて来た。
当方の名前も何も知らない集金人は、「マンションの部屋でテレビがないはずがない。視聴料を払ってください」というのだ。
当方は「私は今のテレビはあまりにも低俗なので見ない。例え、テレビがあったとしても、他の民放と違う役割のあるはずのNHKが民放と同じような番組作りをしているので、そのNHKに金を払う積りはない」と答えて、ドアを閉めた。
そうすると、その集金人はチャイムをそれこそ、5、6回以上連続して鳴らし、ドアをどんどん叩いて、「ドアを開けてください」と叫んだ。
ドアを開ければ、この裁判の原告が体験したように、ドアの隙間に足を入れて、ドアが閉まらないようにする営業の人がいる事は知っていたので、筆者はドアを開けずに、ドア越しに「NHKたるものが暴力的な態度で集金を強要するのはおかしい。暴力事案だとして、警察に連絡するぞ」と怒鳴ると、その集金人はドアを叩いたり、チャイムを押し続けるのを止めて、帰って行った。
NHKの集金人はNHKの社員ではない。委託契約の人が1件いくらの手数料で集金をしているのだ。だから、中には態度が暴力的であったり、この裁判の原告が感じたような恐怖感さえ感じさせる人の結構いる。それこそ、評判が悪い新聞の集金人と全く変わりがないのだ。
裁判官はそんな実態を知らない。何せ、法律の勉強だけして裁判官になったので、世間というものを全く知らない人が多過ぎるのだ。
同じような裁判官の自分の思い込みで、勝手に判断して、無罪の人を有罪にしてしまったケースを筆者は知っている。それは電車の中での痴漢の話である。
東京の通勤途上の電車の中で、あるビジネスマンが隣にいた女性から「この人、痴漢」と叫ばれて、電車を降ろされ、駅員の通報で警察に逮捕された。このビジネスマンは痴漢行為はしていないと一貫して主張したが、痴漢行為を否定し続けるのは悪質として、起訴された。
裁判で、被告の弁護士が「最近は、面白半分で、されてもいない痴漢行為で、隣にいる男性を痴漢として駅員に突き出す例がある」と主張すると、裁判官は「されていない事を騒ぎ立てる人がいる訳がない」という思い込みで、弁護士の言い分を退け、有罪判決を下した。
おかげでこのビジネスマンは仕事を失い、生活にも困るような事になったが、執念で被害者を装った女性が同じような行為をしている事を突き止め、上級審で無罪を勝ち取った。それでも、失った信用は返ってくる訳ではないので、被害は甚大だった。
最近は同じような体験をする人が何人か出て来たので、少し言われるようになったが、電車でされてもいない痴漢行為の被害にあったと言って、隣にいる男性を痴漢だと騒ぐ人、痴女というようだが、そういう人がいるという。
何故と理由を聞くと、「ストレス解消」と答えるという。
世の中には、色々な人がいる。人を貶めて、自分のストレスを解消する人さえ珍しくないのだ。その話を聞いて以降、筆者は満員の通勤電車に乗る時は、両手で電車のつり革や、棚のポールを握る事にしている。そうすれば、手が人の体に触れる事はないので、痴女の被害に遭う心配はないはずだと考えてでだ。
それはともかく、電車の中の痴漢行為は、客観的な証拠がなく、被害者の証言だけが頼りの事件となる。一方、加害者とされた男性も、痴漢行為をしていないという事を立証するのは不可能で、本来は水掛け論なのだが、こういうトラブルに巻き込まれて人の話では、電鉄会社の駅員も警察官も、被害女性の話を一方的に信用し、男性の話は聞こうともしないという。
本来、証拠がない、こうした事件は立件のしようがないはずだが、結構の件数が裁判に持ち込まれ、有罪判決も少なくないという。証拠を前提の立証主義という本来の裁判のあり方とはかなりかけ離れた話である。
多くの人が指摘をしているように、日本の裁判制度は問題点が多い。その内の1つが裁判官の資質の問題である。裁判官に問題の人が多いので、世間常識とはかけ離れた判決が出て来るのだ。
上のNHKの集金人の態度についての裁判や、痴漢裁判のような例で、裁判官があまりにも世間を知らずで、自分の思い込みで判決を出す人もいる。
また、自分の信条の基づいて、その方向で判決を出す人もいる。自分が反原発の思想の持ち主の裁判官が、証拠記録や証言とは関係なく、原発反対の人達に有利な判決を出したという例もある。
裁判員裁判は、こうした裁判官に少しは世間を知ってもらおうとスタートしたものだが、現在のところ、問題裁判官を少しでも教育、修正していくという狙いは全く機能していないように思う。
裁判官の再教育はもっと別の方法を考えないといけないのではないか。でも、それ以前に、多くの判決に世間が問題ありと思っているという事実を裁判官に伝え、問題意識をもってもらう事が先なのかも知れない。
20161026
また出た大衆迎合判決…津波被害の小学生遺族に賠償金支払い
東日本大震災による津波で小学生が死んだ石巻市の大川小学校の父兄が、子供を避難誘導しなかった学校側に落ち度があったとして訴えていた裁判で、仙台地裁は父兄の訴えを認め、石巻市に14億円の賠償の支払いを命じる判決を言い渡した。
筆者はこの判決を聞いて、また、裁判所が大衆に迎合する判決を出したと感じた。
裁判所は時々、大衆に迎合する判決をする。それは、訴えられたのが行政や大企業の時に、よく起きる。どうせ、賠償金の支払いは税金からや、貯えのある大企業の余剰資金から出るので、誰の腹も痛む訳ではない。それでいて、マスコミからは、「被害者の遺族の心情を理解した温情判決」と裁判所を褒める記事が出る。言ってみると、税金や大企業の金で自分の点数稼ぎをしているようなものである。
東日本大震災では、多くの人が亡くなり、数多くの事が語られたが、一番の根幹は何かと言えば、ほとんどの地元民が、国が作った巨大堤防を妄信して、7、80年に一度襲って来る大地震に対して、普段から、いざという時にどうするかという準備、心得をすることなく、いざ、津波が襲って来た時に、慌てふためいて混乱し、多くの人が死んだという事であると筆者は考えている。
自ら山手などに逃げる事をしないだけでなく、普段から、津波対策をしっかりし、避難の予行演習までしていて、地震が来た時に、実際に、山手に避難した幼稚園に対して、ほとんどの人が冷笑したという話まで残っている。
こういう状況の中で、児童を避難誘導しなかったという、小学校の校長以下、管理者を誰が責める事ができるというのだ。それにもかかわらず、学校の落ち度を認める判決を出したのである。
こういうと、死者、犠牲者に鞭打つのかと叱られそうだが、筆者は誰が悪かったという罪のなすりつけっこをするのではなく、地震・津波対応が間違っていた事を猛反省し、どうあるべきかを地域の人々、国、地方自治体が真剣に考え、議論しないといけないのに、それがないがしろにされている事にこそ、一番光を当てないといけないと言いたいのだ。
何かにつけて、大地震のその後を報道するマスコミも、可哀想とか、今でも心に穴が開いたままというようなトーンの報道がされるだけで、備えという事への反省、次回以降にどう生かすかという事が、本当に疎かになっているように感じてならない。
作家の吉村昭氏は、もう十年も前に、明治27年と昭和7年の東北の三陸地区の大地震の記録を調べ、体験者の話などを入れ込んだ本を書いている。そして、7、80年に一度大地震が来るので、それに備えないといけないと警告をしている。
筆者も読んだが、本当に良い本で、本来なら、宮城、岩手などの地区では、小学校、中学校で必修で読む教材にして、普段から、地震や津波への備えや警戒感を養わないといけないのに、そうした話は聞いたことがない。
そして、今回の大地震の後の対策はと言えば、また、巨大堤防を作ろうというような話で、ハードではなく、もっとソフト、心の問題、心得に取り組まないといけないのに、それが疎かになっている。今回の仙台地裁の判決は、そうした風潮を助長するものであるとさえ言えるのではないか。
今回筆者が言いたいのは、東北の地震対策の事よりも、大衆迎合の判決をすることで、裁判所や裁判官が自分への点数を稼いだ事の問題点である。
今回の大川小学校の判決を聞いて、直ぐに思い出されたのが、もう大分以前の事だが、兵庫県明石市で、花火見物に多くの人が歩道橋に押し寄せ、将棋倒しになって、子供9人を含む11人が死亡した事件である。この事件は1メートル四方に十数人が押し掛け、押し合いへし合いから倒れ込み、多くの人が人の重みで圧死し、200人を超える人が重軽傷を負ったというものである。
この事件でも、亡くなった人の遺族が地元の警察署や明石市などを訴え、裁判所は警察官や明石市などの落ち度を認め、5億円を超える賠償金の支払いを命じるとともに、警察官と警備にあたっていた会社の社員、明石市の担当者に有罪判決を出した。
でも、冷静に考えてみればわかるように、1平方メートルに十数人と言われるくらいの群衆が殺到する場所に、小学生の子供を連れて行った親に、地元の市や警備にあたっていた警察官や警備会社に、文句を言ったり、賠償を請求する資格はあるかと言えば、大いに疑問であるというのが、普通の人の感覚ではないだろうか。
それにもかかわらず、裁判所は遺族の多額の賠償の支払いを命じたし、警察官や警備会社の人間は有罪となって刑務所に入ったのである。これも大衆迎合の裁判所の点数稼ぎであると、筆者は考える。
警察や警備会社の警備に多少の不都合があったとしても、将棋倒しで、11人が死に、200人を超える人が重軽傷を負うような混乱状況など、誰にもコントロールなど出来る訳はないのだ。
日本の裁判は、変な思想の裁判官が結構いて、国民の普通の感覚とかなり異なる判決を出すことが少なくない。これを何とかしようと、一般の国民を裁判の判決に関与させる裁判員裁判が始まったが、高裁で一審の裁判員裁判の判決を覆す判決がいくつも出されている。
日本の裁判員裁判は、陪審員だけが議論して判決を決めるアメリカの陪審員制度と異なり、判決を議論する場に、裁判員も参加し、一般国民の裁判員に、法律についてや他の判例などを教え、一緒に議論して、判決を決めている。それにも関わらず、裁判員が関与しない高裁で、地裁の裁判員たちの議論や苦労を簡単にひっくり返す判決を出しているのだ。
おかしな判決を、国民常識に少しでも近づけるために導入した裁判員裁判の、元々の趣旨はどこへ行ってしまったのだろうか。
筆者は、裁判員裁判で判決を出した地裁の判決内容を高裁が覆す時には、高裁は少なくても、3人の裁判官の全員一致での判決というルールとすべきだと思うし、原告、被告の意思に関係なく、最高裁がその事件を必ず審査し、これも過半数ではなく、3分の2以上の裁判官の同意による判決とするなどの規則を作るべきだと思う。
そうでなければ、多くの時間と労力を取られる裁判員など、バカバカしくなって、する人間がいなくなってしまう。
法律家や法学者の中には勘違いをしている人が少なくないが、法律も時代とともに変わるのである。人を殺してはいけないとか、人の金を不当に奪ってはいけないというような事は勿論、永遠、不滅の真理だろうが、法律をどう解釈し、どう運用するかは時代の変化によって、変わるものである。
逆に言えば、何でも他人のせいにする今の風潮を変え、人間の本来のあるべき姿を求めるような判決を出して、国民を誘導するような判決があっても良いのではないのかとも考える。
少なくても、大衆に媚び、他人に過剰に責任を押し付ける風潮を助長するような判決はしてはならないのではないか。石巻の小学校の判決でそんな事を考えた。
20180222
納得出来ない日本のカーリング・チームの作戦・戦術
冬季五輪が間もなく終わる。
今日現在、日本のカーリングチームは男性は予選で敗退したが、女子が準決勝に進出し、世界ランクからすれば、善戦していると言える戦い方である。だが、テレビ中継を見ていて、どうにも腑に落ちない、納得できないのが、男女を問わず、日本チームの作戦、戦術だ。
断っておくが、私はカーリングについては全くの素人である。
しかし、中学、高校と部活をしっかりしていて、そのスポーツのレベルが高くて、東京都レベルではあるが、自身、都の代表選手にはなっていた。そして、社会人になってからも、スポーツは好きで、ほとんどのスポーツのルールは知っていて、観戦も多くしてきたし、試合を見ながら、ほとんどのスポーツについて、他の人に説明が出来るくらいの知識はある。
カーリングについては、今度のオリンピックだけでなく、過去の世界や日本での大きな大会で、中継のあるものは結構見ていて、ルールも試合の仕方も理解していたが、以前から、日本チームの戦い方に合点がいかなかった。
そして、今回、多くの試合を見て、その納得が出来ない、腑に落ちないという思いを強くした。
今回のオリンピックではカーリングの中継が多くあったので、見た人も多いと思うが、ルールなどを知らない人のために少し書くと、対戦するチームは4人1組で、AB双方のチームの選手が交互にストーンと言われる石を投げ、1つのエンドで1人が2回づつ投げるので、AB双方とも8回づつ投げる。
そして、ストーンを投げ終わって、サークルと言われる円の中に、相手のストーンよりも、より中心に近くあるストーンの数がそのチームの得点となる。
つまり、相手のストーンで中心から一番近いものよりも、自分のチームのストーンが3つ中心により近くあれば、3点取れる。そして、1試合は十エンドあり、合計の得点を競争する。
相手に1点でも点を取られると、取られた方が後攻になり、有利になる(ABそれぞれのチームが1エンドで8回づつ投げるので、最後に投げるチームは相手のストーンを蹴散らして、自分のストーンがより中心になる可能性はかなり高い)。
極端に言えば、後攻のチームは先行のチームのストーンをことごとく蹴散らせば、1エンドの最後の攻防では、先行のチームの最後のストーン1つだけが、サークル内に残る形となる。後攻のチームはそれをはじいて、ストーンをサークルの外に出した上で、自分の投げたストーンがサークル内に残れば、1点が取れるのである。
だから、上記のような戦い方をすれば、後攻チームが常に1点を取って、十エンドを終えて、5対5になり、延長戦になるというようなスポーツである。
ただ、上に書いたような戦い方だと、変化もないし、面白くもないので、ゲームでは、初めの頃は、投げたストーンはあえて、サークルの中に入れず、サークルの手前に置いて、相手にストーンを投げにくくした上で(ガードを置くというような言い方をする)、自分のチームのストーンを何個もサークル内に置くという作戦を取るので、うまく行けば、1エンドで4点も5点も取れることもある。
カーリングの難しさ、面白さは、試合をする内に40メートルあまりあるコートの氷の状態が、照明の熱やブラシでスイープする内に変化し、それによって、ストーンの曲がり方も変わって来るという事である。だから、一流の選手でも、自分の思った所にきちんと狙い通り投げられる確率は6、7割というレベルである。
日本チームの戦い方で、私が納得できない、腑に落ちない最大の点は、ガードのストーンを配置する事に熱心となり、その結果、その内に相手のチームのストーンがサークル内に貯まって行くのを放置し、1エンドで3~5点と大量に点を取られる事がしばしばあるという事である。
解説者の話を聞いていても、1つのストーンで相手のチームのストーンを2つも3つもはじく事を狙うように言っている事がよくあるし、現実に日本チームがその通り行動する事が結構ある。
この作戦が狙い通り決まって、相手の石を何個もはじき出し、自分の投げた石が中心に残る事もたまにはある。それは、見ていて格好良いし、してやったりという感じになるが、上に書いたように、一流の選手でも、思い通り投げることが出来る確率は7割程度であり、氷の状態や石同士が当たった後、どう動くかなどを予測できる確率はもっと低い。
つまり、失敗する確率が4割位あるという事である。そして、失敗した時に、このやり方だと、相手に大量点を取られることになる。現実に日本が負けた試合では、1エンドに大量点を取られているこがほとんどで、接戦で負けたという試合は少ない。
更に言えば、日本は今回準決勝に進んだ女子チームでも世界のランキングは6位である。決して、メダル常連国ではない。
それだったら、挽回不可能な大量点を取られるようなリスクを負ったような戦い方を避け、通常は手堅い試合運びをして行き、ここぞというチャンスの時に勝負に出るような賭けをするように、作戦を使い訳をするのが、あるべき姿であると思う。
笑ってしまうのは、テレビ中継で解説者がガードにストーンを置くように言い、選手がその通り行動し、そして、解説者が「狙い通りの場所に置けましたね」と言っているのを、その後に投げる相手チームがガードの石とサークル内にある石を一緒にはじき出されてしまう事が少なくない事である。
ガードがガードの通りの役割を果たす確率もそう高くないのである。
スポーツは確率のゲームである。どんなスポーツでも、その確率に合わせて行動するのが一流チームや一流選手の戦い方である。
例えば、野球では3割打てれば一流打者と言える。つまり、十回の内、7回失敗しても、3回成功すれば、一流打者である。しかも、1回の打席では、2ストライクを取られても良い。3ストライクを取られる前に、ヒットを打てば良いのである。
かなり打者に有利に出来ている。それは本当に詳しい人はともかく、普通のファンにとっては、投手戦よりは、打撃戦の方が見ていて面白いから、そういうルールになっているのである。そして、一流の選手はそのルールや確率を良く理解していた。
かつて、スーパースターと言われた読売巨人軍の長嶋茂雄は、2ストライクまでは、投手の球に山を張っていたという。球はインコース、アウトコース、そして、直球、変化球の組み合わせしかない。つまり、インコースの直球、アウトコースの変化球というような絞り方をすれば、4つの分類から1つを選べは良い事になる。
それを2ストライクまで出来るのだから、4分類の中の2つを選んで、その打ち方で投手の球を待っていたというのだ。しかも、十回の内、7回まで失敗して良いのだから、かなりの確率でヒットが打てることになる。
長嶋は相手投手がギリギリのコースに投げた良い球をクリーンヒットしたり、ホームランを打ったりすることが良くあった。
それが出来たのは、上に書いた考え方、ルール、確率を理解し、山を張っていたから出来たのである。長嶋に限らず、どのスポーツでも一流選手はこうした工夫をして、成功確率を高めていたし、現在でもそうしている。
そういう観点でみると、日本のカーリングのチームは確率に逆らって行動しているとしか思えない。
試合を見ていて感じるのは、監督やコーチが選手のレベルよりも高過ぎる作戦、戦術を要求していて、選手がそれについて行っていないという事である。
20180213
多様性を言いながら、偏った価値観を押し付ける日経の紙面作り
絵本作家ののぶみ氏が作詞した「あたし おかあさんだから」という歌がネットで大きな議論になり、炎上騒動にまでなっている事に関連して、2月12日の日経新聞は、詩人・社会学者という肩書の女性の考えを「ダイバーシティー進化論」という見出しで掲載している。
このコラムを読んで、この社会学者と称する女性の意見もさることながら、こんなに偏った意見を掲載する日経新聞の神経を疑ったし、何よりも、多様性が大切だと言いながら、一方的な価値観を押し付ける紙面作りに信じられない思いがした。
ダイバーシティー(多様性)とは、一方的な価値観を押し付けるのとは真逆の考えで、人には多様な人種、性別、宗教、価値観などがあり、それを尊重し、様々な人がいる事が会社や社会の発展につながるし、差別もなくなるというものなのに、このコラムは一方的な価値観で決めつけているからだ。
「あたし おかあさんだから」という騒動を知らない人もいるだらうから、簡単に書くと、この歌は、独身時代にはハイヒールを履き、爪も伸ばしてマニュキュアを塗って仕事もし、独身ライフを楽しんでいた女性が、結婚して子供を作ってからは、爪も短くし、なりふり構わず、睡眠時間を削って子供のために、必死におかあさんをしているというものである。
この歌をNHKの歌のお兄さんが歌い、テレビなどでも流れたことから、ネットを中心に、「子供を持てない女性の気持を考えていない」とか、「そんな古い母親の価値観を押し付けるのか」というような批判が出て、作詞者ののぶみ氏の対応があまり要領がよくなかった事もあって、批判が多く寄せられ、炎上騒動になったというものである。
日経のコラムを読んでいない人のために、この社会学者と称する人が紙面で言っている事を書くと、彼女は、「(批判が多かったのは)『子供のためにすべてをささげて自己犠牲に励む母』対『自分のことだけを考えるキャリアウーマン』二項対立図式が独善的であること」とし、「母の自己犠牲の程度が極端で、俗世を離れ、一切の我欲を捨てるべしという、修行僧か修験者のような子育てを推奨する点だ」と分析している。
そして、作詞に謳われているような母では、子供の「健全な巣立ちも自立も困難なるのではあるまいか」とまで述べ、「極論すれば、この国では『理想の母親』になることは、『人として当たり前の自由や権利の放棄』に結びつくほど苛烈だ」と信じられない論理を展開している。
更に、日本は「『美しい』『正しい』母親像の称揚によって、女性たちに『自発的に』自由を捨てることを強いて来た」とまで書いている。
全く一方的な、しかも偏っていて、事実として間違っている価値観の押し付けの記事を書く社会学者と称する人の神経も疑うが、それを「あたし おかあさんだから」を批判している人の立場に百パーセント立って、作詞した人をバッシングしているとしか思えない、日経新聞の編集姿勢に大いに疑問を感じた。
ちなみに、ネット上のこの「あたし おかあさんだから」という歌に対する反応は、批判する人が多くいる一方で、それと同じくらい批判している人を批判する人も多く、まさに賛否両論で、ネット市民の反応の方が、社会学者と称する女性の分析よりは、遥かに健全で、バランスがとれている。
人には様々な考え、価値観がある。例えば、憲法9条についても、「アメリカに占領されていた時代に押し付けられた日本弱体化政策の一環で作られたもので、普通の国になるために改正すべき」という人もいれば、「憲法9条があったから、日本は戦後70年、平和だった」という人もいる。
筆者自分の主義主張は別として、両方の言いたい事は国民の一定の賛同を得ている事も事実である。
また、歌謡曲で、恋人と別れた後、「後も見ないで前を向いて行く」という歌もあれば、「私、いつまでもあなたが帰って来るのを待っています」という歌もある。真逆の考え方だが、それぞれに支援する人がいる。そうした違う価値観、考えを認めることがダイバーシティー(多様性)なのである。
「あたし おかあさんだから」の歌の歌詞に関連して、かつて、さだまさし氏が作って歌った「関白宣言」がネットで話題になっている。
これについても、「そんなことをいう人は信じられない」という人も言えば、「あれはパロディーだよ」と笑っている人もいる。筆者はもう大分前だが、この歌を最初にテレビで聞いた時、「男の悲しい願望」「実際に起こり得ない話を笑って、さだまさしが書いて歌った」と感じた。
当時は今のようなネット時代ではなかったが、当時でも当然、批判する人はいた。でも、多くの人が「悲しき願望」「あり得ない話」と受け取り、笑いながら聞いたのである。
同様に、かつて、テレビで大ヒットした「101回のプロポーズ」というドラマでは、学歴も、社会的な存在でも、また、容姿が冴えない男が、何もかもなくした後、素敵な女性にプロポーズして、相手の承諾を得るという話である。
このドラマが大ヒットしたのは、多くの男が冴えない自分を理解しながら、「あり得ない夢を主演の武田鉄矢と一緒にしばし見る」と考えたからである。
日経のコラムを書いた社会学者と称する女性は、写真から見ると、この「関白宣言」や「101回のプロポーズ」が世に出た時には、もう物心がついていたと思われるが、今回の「あたし おかあさんだから」と同様な反応をしたのだろうか。
日経に限らないが、新聞やテレビでは、〇〇学者とか、△△大学教授という肩書の人を登場させ、何か意見を言わせる事が多い。筆者が若い頃には、なるほどと参考になる話が結構あったが、今では、この人何を言っているのかと、首を傾げる事が少なくない。
日経新聞が常設コラムとして一面を割いて掲載している「経済教室」という欄には、毎回のように大学教授が登場するが、その6、7割は、何を言っているかわからないとか、あなたの言っている事はおかしいと思えるようになって来た。特に東大とか、京大という大学の教授のコラムが特にひどい。
今やネットの時代で、マスコミが報じない事でも様々な専門家が多くの事を書いているし、マスコミの報じ方がおかしければ、専門家だけでなく一般の人もマスコミのおかしさを書くようになって来て、しかも、マスコミの言う事よりも、ネットの書き込みの方が、具体的なファクトを書き込み、遥かに説得力がある話が多くなってきている。
マスコミの嘘に多くの人が気が付き、それがつい先日の沖縄の名護市長選挙のような結果につながって来ているのである。
勿論、ネットにも嘘の書き込みはあるし、極論も少なくない。でも、多くの異なった意見、情報を並行して読めば、その具体的な内容、データから、読む人間は比較して、どちらがより説得力があるか、わかるようになって来た。
ネット時代はまさに多様性、ダイバーシティーを推進しているのである。
マスコミが絶対的な情報量を独占して、庶民に伝えるという時代はとっくに終わっている。でも、新聞、テレビで働いている人達は、この事実に目をつぶり、情報独占時代の発想のままで紙面作り、番組作りをしている。まさにドン・キホーテ状態である。
日経新聞は経済専門紙という事で多くの読者を獲得しているが、その一方で、文化欄、家庭欄が結構面白いという事で、以前は好んで読む人が少なからずいた。
それは経済記者になりたくて日経に入ったは良いが、午前零時まで毎日のように仕事をする経済記者の仕事に仕方に疑問を持った社員が、出世を諦める代わりに、のんびり記事を書ける部署を選んで異動する人が結構いた事によるものだと、記者時代に、日経の同僚記者から聞いた事がある。
しかし、最近の日経の経済記事以外の社会面や文化、家庭欄の記事には、かなり偏った内容もものが目立つようになって来た。今回の日経の「あたし おかあさんだから」についてのコラムは、まさにその典型例である。
特に、女性の社会進出や、社会的な地位、夫婦別姓などというようなテーマになると、最近の日経新聞は異常なまでに自己主張的な記事が目立って来た。
女性が結婚、出産後、仕事に復帰する人もいれば、専業主婦で良いと思う人もいる。全員が社会復帰を望んでいる訳ではない。まさに人様々である。そうした異なる価値観を認める事こそがダイバーシティーなのである。
保育所に子供を預けられないので、仕事に思うように復帰出来ないという待機児童問題はマスコミではよく取り上げられる。
しかし、マスコミが書かず、一方で、最近のネットの情報で、保育所に願書を出して合格した人の中で、東京の地区によっては、2割くらいの母親が子供の入園を辞退しているという。
行政当局者のそれを認める発言まで載っているので、嘘ではないようだ。
なぜ、辞退するかと言えば、子供を保育園に入れれば、フルタイムで働くことが求められ、復帰したばかりの時は、週に2、3日くらいからの働きをしたいという人が多いという事である。納得が出来る考え方である。
日経新聞がしないといけないのは、「あたし おかあさんだから」の歌を批判することや、保育園が足りないと他のマスコミのように叫ぶ事ではなく、保育園を利用する母親にフルタイムの働き方だけでなく、週2、3日働く人も利用できるように柔軟の行政姿勢を求める事ではないだろうか。
それこそ、ダイバーシティー進化論である。
20180210
本質を理解せず、トンチンカンな事を言う人が多い仮想通貨問題
日本での仮想通貨取引業者大手のコインチェック社から560億円の仮想通貨が盗まれた事をきっかけに新聞、テレビの大手マスコミでもネットでも、仮想通貨について毎日のように報道がされているが、そのほとんどが仮想通貨の本質を理解しないでの議論なので、トンチンカンな話が多い。
他の事では結構まともな事を言っている経済評論家やジャーナリストでも、「政府の信用と言う裏付けのない仮想通貨はやがて消えるし、手を出してはいけない」とピンと外れの事を言っている人が結構いる。
また、テレビやネットでの議論の多くは、損をした得をしたとか、今後、儲かるかどうかという視点がほとんどで、近い将来、社会を大きく変える仕組みであるという視点がほとんどない。
筆者もつい最近まで仮想通貨の本質を理解していなかったので、あまり偉そうな事は言えないが、少し勉強してわかった。仮想通貨はIT,ネット社会の進展とともに、世の中の仕組みを根幹から覆す大きな変革の基になるのは間違いない、大きな意味を持つものなのである。
短期間に利益を狙うという発想で接する性格のものではないのである。
土台、儲け話は、マスコミが取り上げるようになった時には、初期の頃に参入した人が利益を出して売る時であり、そこから新規参入をする人は、高値掴みをして、損をするタイミングなのである。
仮想通貨の考え方を最初に言い出したのは、ノーベル賞を受賞したオーストリアの経済学者ハイエクである。彼は1970年代に「通貨の非国営化」「中央銀行の廃止」というようなことを言った。
彼の考え方では、通貨を国が発行し管理していると、役人がそれを自由勝手に使い、無駄遣いをし、役人の数を不必要に増やしたりする。
そして、その無駄はやがて国民が尻ぬぐいをして負担しないといけなくなるので、通貨を国の管理ではなく、民間が自由に発行できるようにして、しかも、複数の通貨が競争し切磋琢磨すれば、国民にとってハッピーであると考えた。つまり、通貨を民間が自由に発行できるようにしたうえで、自由競争させるべきとしたのである。
このハイエクの考えを具体化して考え方を述べたのはナカモトサトシと名乗る人で、彼が2008年にネット上で、考え方を述べ、これを読んだプログラマー達が刺激を受けて、実際に仮想通貨が登場する事になったのである。
一般の人にわかりやすいように、極めて乱暴に言えば、首都圏で電車に乗る時に、多くの人がsuica やpasmo を利用している。そして、これは電車だけでなく、スーパーなどで物を買う時にも利用できるが、仮想通貨はこのsuica や pasmoをもっと広く、航空券や演芸鑑賞チケットなど多くの場面で使えるようにするとともに、メンバー同士が相互に送金できる機能をつけた上に、他のカードとの互換性を持たせたものと考えれば良い。
ハイエクが言うように、政府は国民を管理し、自分の都合に良いようにルールを決め、そして、勝手に途中でそのルールを変え、国民は大きな負担を強いられている。
役人や政治家が国民を第一に考え、最適な制度運営をしてくれれば良いが、実際はその逆である事がしばしばである。そして、多くの規制のルールを作り、国民を縛っている。
例えば、銀行業務をしようとしたら、政府の許可が必要で、多くの条件をつけられ、余程の事がないと許可はもらえないし、日本国内では、金利1つとっても、財務省・金融庁の言う通りしないといけないし、大きかろうが小さかろうが、銀行は同一金利を守らないといけない。
だから、一度許可を得た業者は既得権を持ち、利用者が不便だとか不合理だと思うような事も変えられず、利用者はその業者のルールに従わないといけないのである。
でも、上の例で言えば、suicaを発行しているJRが金融機能をつけて、利用者に年間に5%のポイントをつけたら、利用者は5%の金利を得られるのと同じになり、人気になる事は間違いない。
また、新規に事業を起こしたいと思っている経営者のアイデアをsuicaの会員に公開し、良いと思うアイデアに会員は出資できるようにしたら、会員はその会社が大きくなった時に、出資した金が何倍にもなって返って来るようになる。
JRだけでなく、ANAも宅急便のヤマトも同じように自社の仮想通貨を発行し、利用者はその仮想通貨で支払いをしてもらう上、利用者にポイントと言う名の金利をつけたり、新規公開株の購入権や、新規募集の不動産販売物件の優先購入権など多くのサービスを乗せていくようにしたら、その会社の仮想通貨は利用者がどんどん増えていく事になる。
大手企業だけでなく、例えば、地域農協が仮想通貨を発行し(つまり、会員を募集し)、利用者はメンバーになれば、農産品の購入が出来るだけでなく、会員相互に送金が出来るし、その通貨でスーパーなどで買い物が出来るようにするという事でも利用できる。
仮想通貨と言うからピント来ないだけであって、上に書いたようにsuica に金融機能を持たせた上、会員相互が送金などが出来たり、様々な特典がついているサービスを利用できるようにしたものと考えたら、理解が早いのではないだろうか。
仮想通貨は現在千種類位あるというが、多くの会社が独自の仮想通貨を作っても良いし、1社だけでなく、いくつかの会社が連合で仮想通貨を作っても良い。それは今のカードを考えれば、わかりやすい。
では、仮想通貨は従来の銀行やカード会社のカードや、現在の通貨とどう違うのあろうか。
現在のカードは手数料が無茶苦茶に高い。飲食店でカードを使うと、店側はカード会社から代金の3、4%の手数料を取られる。これが仮想通貨になると、ほとんど手数料がかからなくなる。
飲食店は利用者がカードで支払いをした時、飲食店側は実際の入金は1か月後である。しかし、仮想通貨だと、長くても5分、10分で入金となる。店にとっては大きな魅力である。
銀行を通して送金する場合でも、日本国内でメガバンクと地銀の間で送金したら、数百円取られるし、海外送金なら、何千円などあっという間に飛んでいく。これが仮想通貨だと、数円で済むのだ。
何故、こんなに差があるかと言えば、銀行は役所が許認可した寡占状態でビジネスをしているからであり、現在の金融システムを維持するのには大きなコストがかかるからである。
日本の銀行は世界でもないくらい多くの場所にATMを設置している。この設備の費用は莫大だし、利用者がこれを利用しようとすれば、その度にコンピューターが稼働していて、大きなコストがかかっている。
試算した人の話だと、日本の銀行が金の出し入れ、送金などのシステムを維持するのに、年間数兆円のこすとがかかっているという。だから、手数料が高いのはある面では仕方がないのである。
これに対して、仮想通貨だと、銀行が使うような大型コンピューターを自社で多額の資金を使って購入する必要はない。取引や入出金の度にコンピューターを動かす必要もない。
また、銀行だと顧客のデータ管理が重要で、それを一元管理し、ハッキングされないように厳重に守っている。これにも多くのコストがかかる。
これに対して、仮想通貨はネット上データだけでやりとりするので、コストがほとんどかからない。顧客情報はブロックチェーンと言われる、独自の分散型台帳技術で管理されているので、このデータが改ざんされる心配はないし、集中管理ではないので、センターが攻撃されるから守るのに大変という事もない。
現在発行されている仮想通貨には、単に換金機能だけでなく、不動産取引などの時に、契約書の相当するものをオンライン上に記録されるというような機能を持っているものもある。こうしたものを利用すれば、取引の度に書類を作る必要もなくなり、ペーパーレスが大きく進む事になる。
世界に目をやれば、イギリスの中央銀行は仮想通貨を発行すると決めたし、オランダの中央銀行も発行する事にしているという。中国も中央銀行が発行するという。当然、日銀も発行を真剣に検討している。
これを聞くと、今既に通貨を発行している中央銀行が何故、あえて仮想通貨を発行するのかという疑問が出ると思う。理由は簡単である。現在の通貨の発行と維持には大きなコストがかかっているが、仮想通貨に移行すれば、印刷や贋金作りからの防御の費用が不要になり、コストが大幅に減る。
そして、民間の企業や団体がどんどん仮想通貨を発行し、色々なサービスを乗せて来るようになったら、多くの人が従来の通貨を使わなくなって来る。そうなれば、現在の通貨はどんどん使われなくなって来てしまう。
背に腹は代えられないとばかり、中央銀行が使い勝手の良い仮想通貨を発行し、従来のただ換金機能として出しているだけと言う通貨とは違う、様々な機能を乗せた通貨にしたものにする事が予想される。
仮想通貨の普及はやがて銀行や証券会社が不要な時代になる。JRやヤマト運輸が発行する仮想通貨が資金調達や新規創業企業への融資などの機能を持つようになれば、高い手数料をとって、それ専業のサービスをする会社は誰も相手にしなくなる。
現在、大企業は自社の社債を発行して必要な資金を調達し、銀行から金を借りる必要がなくなって来ている。仮想通貨はその考えを更に進め、従来のお札を介在して資金調達をするのではなく、トヨタが仮想通貨を発行し、資金調達に応じる人や会社はその仮想通貨を買う形で、資金を提供するようになると考えるとわかりやすいのではないか。
自分達が不要になってしまうという危機感があるから、中央銀行と同様に、銀行も仮想通貨を発行する事を考えており、三菱UFJ銀行は今年の秋に発行する事を決めている。
銀行の仮想通貨が出て来た時には、現在の換金機能だけという通貨とは全く違って、上に書いたsuicaに様々な機能を乗せたカードという感覚に近いものになって来るだろう。
そうしたものを出さないと、銀行の存在意義がなくなって来るので、生き残りに必死なのだという事である。銀行が今後、大幅リストラをするという話が新聞紙上に出ているが、仮想通貨の普及は銀行の多くの機能が不要になったり、大幅簡略化される事につながり、それとともに、行員が大規模に不要になるから、人員削減をしないといけないのである。
現在、メガバンクは年間1行あたり、数千人の大卒社員を採用しているが、多分、5年後には採用は今の何十分の一、何百分の一になっているであろう。
現在、仮想通貨は混乱し、価格も乱高下している。だが、これは近い将来、国民にとって必要不可欠なものになる事と、無関係で起きている話である。
今の混乱は数年で数百倍、数千倍になり、多くの億万長者を誕生させたという事を聞いた人が、自分も儲けたいという欲で、なけなしの金を投入し、暴落で大きな損を出した事から起きているに過ぎない。
大損をした人はネットなどで顔出しで、恨みつらみを言っているが、急激に値上がりしたものは急激に値下がりするのは当然で、単に欲の皮が突っ張っていたというだけの事である。
そも投資に全財産を賭けるなどという事など、投資の基本的な姿勢として大きな間違いであり、やってはいけない事である。顔を出して文句を言っているのは、自分がバカですと言っているに過ぎないと言ったら、言い過ぎだろうか。
そもそも、仮想通貨は値上がりで儲けるものでも、短期で売り買いする性格のものでもない。その利便性を使うもので、結果として、企業の新規公開などで儲けたり、その仮想通貨が人気を呼んで、価値が上がる事もあるかも知れないという性格のものである。
また、問題を起こしたコインチェック社の管理システムが問題だったという事も、急成長した業界が急拡大に会社の対応が間に合わなかったという事に過ぎない。こうした新興の業界では、自分がそれを使う時には、業者を選ぶという事が極めて大切な事であり、この会社は金融庁の審査に通らない所謂、見なし業者であり、とかくの噂があった所である。
更に、利益に対する税率が高いという事も問題になっているが、どんな投資案件でも、初期の頃は税率が高く、それが普及するにつれて、分離課税で利益の2割の税金で良いというのになって来るのである。
税金の事を考えないで、投資を始めるというのは、絶対あってはならない姿勢である。
20180207
眞子様の婚儀延期について憲法を持ち出す日経編集委員の異常さ
秋篠宮家の眞子様の婚約・結婚が延期になった。
事実上の結婚取りやめである事は誰の目にも明らかである。
ところが、それを報道した今日(2月7日)の日経新聞の井上亮編集委員はこの問題についての解説記事で、信じられない原稿を書いている。
彼は「結婚は両性の合意のみ基づいて成立するものである」との憲法の条項を取り出し、「家柄や経済力などを問題にして、結婚相手の男性やその家族を問題視するのは、民主主義国家の恥であり、レッテル張りは悪しき前例を残す」という論理を展開し、結婚相手の小室家の事を書いた週刊誌を批判している。
彼は自分の娘が無職のプー太郎を結婚相手として連れて来た時にも、憲法の条項を取り出して、同じことを言って、その結婚を認めるのであろうか。
この婚約・結婚延期の報道についてのネット上のコメントを見ると、圧倒的多数の人が、この延期、事実上の破談を歓迎し、きちんと事前調査をしなかった宮内庁のお粗末さを批判している。
そして、「一般の家庭でも、結婚する男性がきちんとした経済的な基盤がなく、結婚して家庭を築いていく見通しが立たない状態で結婚というのは、周囲が反対して当然である」と何人もの人が書き、「ましてや、国民の象徴である天皇一家の一員で、国民の税金で生活している皇族は、相手を選ぶに際しては、もっとしっかりした自覚を持って欲しい」と書いている人までいる。
この一般の国民の書き込みの方が余程まともで、社会常識であり、日経の井上編集委員は、あまりにも世の中や社会常識というものを知らなさ過ぎるとしか言いようがない。
皇室に限らず、普通の国民でも、結婚については「釣り合わぬは不縁の基」とことわざに言うように、双方の家の格、経済力、社会的な地位などが重要なポイントとなり、明らかに格差がある場合、家族や親族から反対の声が出て、破談になるケースが多いし、万一結婚したとしても、不幸になる事が少なくない。
ましてや、皇族や一流企業の経営者、医者、弁護士、高級官僚などの世界では、今の時代でも、双方の家の格や経済力などを下に結婚を決めて行き、親の意向が大きな影響力を持っているのは厳然たる事実である。
上流階級では、結婚は双方の家の繁栄に利する縁組というのが重要な要素である。結婚は閨閥作りが最重要な事であり、恋愛が最重要な事ではなく、結婚とはそもビジネスなのである。そして、そうした上流階級の子女の多くは、子供の時からそうした事を教育されて育っている。
だから上流階級の家庭では、親が決めた相手ではなく、親が反対する相手と結婚したいという場合、「どうしてもというなら、反対しないが、その時は家族との絶縁を覚悟してね」と言われ、現実に絶縁状態になることも少なくない。
そうした意味でも、秋篠宮家は子女教育が不十分だったとさえ言える。
今の時代はネット社会で、多くの事がネット媒体に自由に書かれるようになって来た。
皇族についても、眞子様の結婚相手の小室家の事も多くの人が書き込みをしていて、その多くは週刊誌の報道を裏付ける内容である。
友人、知人、周囲にいる人の話を総合すると、週刊誌が書いた事はかなり真実に近く、そうした人と皇族が結婚しようとした事自体、間違いだったと判断される。
日経の編集委員は、小室家について報道した週刊詩を批判しているが、今回の婚儀延期は、単に週刊誌が書いたからではなく、多くの一般国民が自由に書き込みができ、見聞きした事を書けるネット時代では、ネットの書き込みが具体的な内容を書いている場合、逆にとても説得力があり、ろくに取材もせずに記事を書いている新聞記者の原稿よりも、余程信頼できる書き込みが少なくないと言える。
かつてのように、大手新聞の編集委員、論説委員が書いた原稿、解説を多くの人が有難がった時代はとっくに過ぎ、最近では、大手新聞の編集委員の解説記事に一般の国民が論拠を持って反論できるくらいの情報を持ち出した。
テレビの報道番組でも、多くの国民の感情、常識と異なる説を展開するリポーターやコメンテーターの発言は、ネットでかなり具体的に反論され、その反論の方が説得力がある事が少なくない。
そして、そうした偏った報道を続ける番組を放送するテレビ局やコメンテーターを使う局や番組について、スポンサーに不買運動まで呼びかける書き込みさえ出て来ている。
そうした時代に、異例の皇族の婚儀延期というという事に、憲法の条項を持ち出せば、多くの国民がひれ伏すと錯覚していて、しかも、社会常識から逸脱している記事を書く記者、そして、それを恥しくもなく載せる新聞社の感覚がいかに時代に合わなくなっているかという事を、大手マスコミで働く人は早く気が付くべきである。
20171026
野党分裂が自民党圧勝を招いたという愚かな分析・論評
今回の衆議院議員選挙の結果について、ほとんどの大手新聞、テレビは「野党の分裂が自民党を利したのであり、国民は自民党を積極的に支持したのではない」という論評をし、学者、評論家も同様な分析を示している。
そして、反自民、反政府の旗色鮮明な朝日新聞だけでなく、日経新聞までもが、選挙区毎に自民党候補の得票数と複数の野党候補の得票数の合計を比べた計算をして、「野党共闘が出来ていれば、自民党の辛勝で終わった」との記事まで書く始末である。
筆者はこの「野党が食い合いをしたから、自民党が勝ったのであり、自民党を抑えるために、野党共闘をしないといけない」というトーンの分析、意見に大きな違和感を覚える。
そも、いくつもの政党が存在するのは、経済政策、安全保障、憲法問題など重要テーマについて、意見が異なるからであり、こうした重要問題での違いを無視して選挙協力をしたり、与党を倒して政権を取った時に何が起きるかは、歴史が示している。
かつて、8つの党と会派が協力して自民党を排除して政権を握った細川首相時代、政権運営について、幹部の利害が対立し、意見もバラバラで内部分裂を起こして、短期間に内閣は崩壊した。
また、マスコミの異常とも言える支援報道で自民党を倒して政権を取った民主党は、自民党出身の右派から、共産党より左と言われる旧社会党左派の議員まで含む組織であったため、重要課題について党としての意見をまとめることすら出来ない上、東日本大震災、福島原発事故などでは、管理能力の無さが一気に表面化し、2年半で国民から見放されたのである。
野党の共闘についてだが、かつて、社会党が国会で3分の1程の大きな勢力を持っていた時、地方の首長選挙や県単位で、社会党が共産党と共闘をして、自民党候補と戦い、勝った事がいくつもあった。
しかし、この時は、重要テーマについて、社共でかなり厳しい議論をし、政策協定書を作った上で、選挙協力をした。だから、革新性知事が誕生した後も、このしっかりした協定書があったので、知事として大きなトラブルも起こさず、任期を全うしたのである。
今、新聞、テレビ、評論家が言っているのは、このギリギリ詰めた「政策協定書」なしに、「とにかく自民党を倒すためには、野党が共闘しろ」という事であり、これで万一、野党が勝った時には、細川政権や民主党政権と同じ軌跡を辿るのは火を見るより明らかであるが、こうした事には一切言及していない無責任な発言なのである。
今回の選挙結果について、大手マスコミや学者、評論家、そして、政治家までもが、「野党が負けた最大原因は民進党を分裂させた前原民進党代表と、希望の党を腰砕けに終わらせた小池東京都知事」と論じて、2人を厳しく批判している。
でも、これも違うと筆者は思う。
民進党は上に書いたように、自民党右派出身で改憲論者から、憲法は一字一句いじってはいけないという左翼の人間までいた組織であり、重要テーマについて、何一つ党としての結論を出せず、民主党政権時代のお粗末さだけでなく、野党になった後でも、政党としての体をなしておらず、あのままの状態で選挙戦に臨んでいたら、見るも無残な大敗を喫していたのは多くの人が言っていた事である。
この悲劇的な事を避け、一人でも多くの民進党議員を当選させるためにはどうしたら良いか、この事を考えて、前原氏が考えたのは小池氏との協力だったのである。
前原氏自身、右から左まで異質の人が多く存在する民進党が1つの党として行動するのは無理という発想があり、組織を割る必要があるという認識があり、大半の議員は小池氏が作った希望の党に合流し、旧社会党の左派の人やそれよりも更に左というような人は別の党を作れば良いと考えていたのだと思う。
筆者の想像だが、この事は支援組織の連合の幹部も、小池氏も、そして、今回、立憲民主党を作った枝野氏との間でも、暗黙の合意があったと思われる。
ただ、小池氏が記者の質問から出た「選別」という言葉をそのまま不用意に使った事から、「上から目線」を批判され、人気が尻つぼみになってしまったのは計算外だったのであろう。
小池氏は言い方を間違えただけで、言いたい事は至極当然の事だった。「政党は重要なテーマで意見が同じ人達が集まる組織であり、憲法問題や安全保障、経済政策などで大きく異なる人が一緒になっても、何も決められなくなってしまうので、党の基本姿勢に賛成して頂ける方に参加していただきたいと思っています」 こう言えば、良かっただけである。マスコミ出身者としては言葉選びがお粗末だったという事である。
ただ、結果として、右から左までの人が1つの党にいるという事態は、分裂で解消した。そして、穏健保守的な人が希望の党に行き、旧社会党的な発想の人が立憲民主党に集まったので、非常にわかりやすくなった。
勿論、希望の党には当選したいがために、自分の政治信条を変えて、参加し当選した人もいるので、希望の党は今後、分裂する事は起きると思うが、それもごった煮状態からの分解で、自然の事である。
筆者は5年後、十年後に日本の政治史を論じる時、日本の政党再編という意味で、前原氏の今回の希望の党合流という決断は高く評価される事になると考えている。
マスコミ、学者、評論家は二言目には「安倍一強」とよく言う。まるで悪でもあるように。
では安倍一強はどうしてできたのであろうか。理由は簡単である。小選挙区制度のお蔭である。
そして、小選挙区制度はどうして誕生したか。これも因果関係ははっきりしている。「政権可能な二大政党を作るために、中選挙区制度を小選挙区制度にしないといけない」、こう叫んで、強力に推進したのは、他ならぬ大手マスコミと学者、評論家達だったのである。
中選挙区制度の下では、1つの選挙区から同じ党から複数の議員が当選する。そこで同じ政党内でも激しい選挙戦が行われる事になる。その結果、派閥が生まれた。マスコミ、学者は派閥を批判し、これを潰す事に注力し、それもあって小選挙区制度が誕生した。
派閥にマイナスの面があった事は事実である。しかし、逆にプラスの面も多くあった。
派閥の長は大きな力を持ち、党の代表者、自民党の場合は即、首相にも、ズケズケ意見を言えるだけの存在であった。党の方針を決定する時でも、派閥の長は強く意見を言い、それが盛り込まれた。
そして、首相に失敗があったり、選挙に負けたりしたら、別の派閥の長が首相にとって代わって政権を担う事になった。だから、一強にならず、自民党の出身の首相は党内の実力者に常に気を配り、配慮をしていて、一強にはならなかったのである。
派閥のもう1つの良い面は、派閥の先輩が後輩を指導し、選挙の戦い方、組織の作り方、選挙民との接し方などを教えて行った。更に政策の勉強なども派閥単位で行われ、勉強会としての機能も持っていたのである。
中選挙制度下の自民党を考える時、1つの政党だと思うと間違える。派閥は1つの党であり、自民党は複数の派閥=党からの連立政権だと考えた方が実態に近かったのである。
だから、派閥の長は次に自分が政権を取った時は、何をやるかを常に考えていたし、右寄り過ぎて失敗をした後に登場する首相は、中道に軌道修正し、経済運営に力を入れるなどして、国民の信頼を再度、獲得して行ったのである。
党内に次の首相候補が何人もいて、本人も回りもそれを意識して行動していた。
しかし、小選挙区制度になると、党の代表者が強力な力を持つようになる。1つの選挙区から1つの党からは1人しか候補が出せないので、それを決定する立場の代表者には誰も逆らえなくなり、一強が誕生しやすくなったのである。
同じ党から競合する候補がいないので、議員は自分を候補者に選んでもらうために、常に党の代表者の顔色を伺うようになってしまう。更に、強大な党は候補者になれば、当選に大きく近づくので、地道な選挙活動、地元対策などを疎かにするようになり、お粗末な議員が与野党とも多く誕生する事になって行ったのである。
小選挙区制度で政権交代な二大政党制という発想はアメリカやイギリスを見て、考えたのであろう。しかし、世界に目をやれば、欧州のほとんどの国がそうであるように、1つの国にはいくつもの政党が存在する方が一般的である。
何千万、億単位の国民を2つだけで分類するという方が不自然である。
トランプ大統領が誕生したアメリカの大統領選挙で、民主党では大本命のクリントンが社会主義者を自認するサンダース氏に追い上げられ苦戦した。サンダーズの善戦は、二大政党では汲み切れないために、政治に不満を持つ国民の意識の表れであると言える。
欧州の多くの国では、環境問題を党の中心に置いている政党もあるし、特定に地域の利益を代弁する政党も存在する。そして、保守、中道、左派と人の考えは様々なので、1つの国に5、6つと政党が存在する方が普通なのである。
では、政党が5つも6つも存在する国では政権交代はないかと言えば、そんな事はない。
欧州の多くの国では、第一党が過半数を得る事は少なく、第一党と第二党、または第三党が政策協定をして、連立政権を組んでいる。そして、第一党が失敗すれば、選挙に負け、別の党から首相が誕生するのである。
日本の不幸は、旧社会党も現在の民進党もきちんとして党の方針や理念、政策がなく、与党、自民党を批判するだけで、国民の不満を集め、多くの議席を得て来た事である。
戦後の日本の政治体制を55体制と言うが、これは、1955年に旧社会党が左派と右派が合併して1つになったのに対抗して、保守も危機感からそれまで仲が悪かった自由党と民主党が合併して、自由民主党が誕生し、保守同士、革新同士の競争がなくなってしまった事である。
そうした意味では希望の党の誕生は、穏健保守の誕生と言う意味では意味がある事であり、立憲民主党も旧社会党が復活したと考えれば、わかりやすいことで、マスコミが批判的に言う「三極」というのは決して悪い事ではない。
今度の選挙報道で一番気になる事は、ほとんどのマスコミが「立憲民主党が大躍進」と報じた事である。本当に立憲民主党は大躍進したのであろうか。
解散前、民進党には衆議院に88人の議員がいた。前の衆議院議員選挙で民主党は惨敗したが、平均的に言えば、支援団体の連合や市民団体は、百人くらいの議員を誕生させる力は持っていた。
それが立憲民進党、希望の党、そして、無所属の3つに分かれて選挙戦を戦った。希望の党の民進党出身でない当選者が20人くらいいるので、それを引いた旧民進党の当選者は百人弱であり、旧民進党は選挙前の勢力をほぼ維持したと言えるのである。
マスコミが報道しているように、希望惨敗、立憲民主大躍進ではないのである。3つに分かれ方が当初の予定と違ったというだけの事なのである。
また、立憲民主党は政治理念で筋を通したと評価するマスコミ、評論家、国民が多くいるが、これも間違いである。
前原氏が民進党の議員の希望の党への合流を提案した時、小池氏は既に、憲法改正と安全保障の話を柱として言っていた。だから、前原氏の提案を議論する議員総会で意見が紛糾すると思ったら、全会一致で賛成となったのである。
そして、希望の党に入れない人が結構いるという事が明らかになって、初めて、立憲民主党が出来たのである。筋を通すなら、前原氏の提案に「それは筋が通らない。行く人と行かない人を分けるべき」という事を言うべきだったのだが、そんな人は一人もいなかった。
選挙では、希望の党のゴタゴタで、最大の支援団体の連合、つまり、労働組合や市民団体は希望の党を支援しづらくなり、多くは立憲民進党や無所属の人を支援した。そして、合計で百人程が当選したのである。
一般の選挙民の側でも、社会党は事実上消滅してしまったが、旧社会党的な考えの人を支援したいという人は少なからず今でも存在する。特に60歳代、70歳代の人、中高年の女性が主な支援者である。
ネットなどの情報にはほとんど無縁で、朝日新聞、毎日新聞、TBS、テレビ朝日、NHKを中心に情報を得ている人達である。
いつミサイルが飛んでくるかわからず、戦時にいつなってもおかしくないと言われる中、韓国に観光旅行する人達でもある。また、実態は駐留米軍に守られた戦後70年の日本の平和を、憲法9条があるから戦争がなかったという人達である。
立憲民主党では新人や元の議員が多く当選したが、それは組織の力であり、候補者は首を挿げ替えられただけなのである。決して、立憲民主党が大躍進したのではない。
民進党はトータルで言えば、結果的に現状を維持した。民進党として戦えば、50人を下回るとさえ言われた事に比べると、合計で百人の当選は、前原氏の作戦が大成功したとさえ言えるのである。
今回の選挙結果に政治史的に大きな出来事が2つあった。その1つは共産党の議席が半分近くにまで減る大惨敗をした事である。もう一つは公明党の議席が2割近く減った事である。でも、この事について、新聞、テレビも大きく取り上げようとはしない。
共産党の大惨敗の理由は簡単である。旧社会党の事実上の消滅の後、野党第一党を担うべき民主党(のちの民進党)があまりにも頼りないので、旧社会党を支持してきたように人達の票が共産党に流れていただけで、共産党の支持者が増えていた訳ではないのである。
逆に、共産党は党員が大きく減り、機関誌の赤旗の発行部数も激減している。
この理由も簡単である。社会の底辺で恵まれていない人達が社会を変え、自分の生活を良くしてくれる存在として共産党を支持し、手弁当で応援し、無料で選挙活動も行って来た。
しかし、共産党の議員は恰好良い事は言うが、自分たちの生活は一向に良くならない。支持者は高齢化し、若者で入党する人があまりいない状態なので、党員は減って行っているのである。
社会の底辺の人に良い生活をなどと格好良い事が共産党は言うが、共産党という組織は官僚的で、組織の上にいる人間が下の人間を命令し、怒鳴りつけ、それをなんとも思わない組織である。
記者として多くの政治家や活動家を取材したが、例えば自民党だと、国会議員が古手の県会議員や市会議員に敬意を払い、敬語を使って対応するのはいくらも見たことがあるが、共産党は国会議員は県会議員や市会議員を顎で使っている。
そして、組織の上に立つ国会議員は東大など一流大学出身者が占めている。少しも民主的でも、下の意見を吸い上げる組織になっていないのである。活動家が失望し、その家族が活動家の親の姿を見て、共産党を嫌いこそそれ、好きにならないし、党員にならないのは当然である。
共産党は野党共闘に熱心だが、これは単独で選挙区の候補者を出すのが財政的に難しくなって来たのが最大の理由で、野党共闘で自民党を打倒しようというのが第一の理由ではないのである。
公明党の議席減は、こちらも創価学会員の数が大きく減少している事が大きいと言われている。
最近、テレビで創価学会のCMが良く流れている。企業でもそうだが、それまでCMをあまりしていなかった会社が盛んにCMを打つようになった時は、会社が大好調な時か、逆に危機的な状態で何とかしないといけないという場合のいずれかである。
創価学会は三代目会長の池田大作が組織の部長時代に会員を大幅に増やし、その論功行賞で本命ではなかった池田氏が会長になったと言われている。池田氏が会員を大幅に増やす事に成功したのは、在日の人と同和の人を多く会員に引き入れたためだと言われている。
でも、今の時代はネットで色々な情報が流れるようになり、マイナスの情報も多く出て来るようになって、何か違うと脱退する人が増えているという。そうした事が今回の選挙結果につながったとも言える。こうした大きな変化に何故、分析のメスを入れないのか。マスコミの怠慢である。
今回の選挙の大きな特徴の1つは大手新聞やテレビがネット情報に負けた選挙であると言える。
大手マスコミはずっと森友・加計問題をしつこく報道し、安倍首相は説明責任を果たしていないと言い続けた。そして、今回の解散を「意義なき解散」と攻撃した。
事前予想でも、自民党の大勝利を必要以上に報道し、大勝利に批判的な人が自民党に票を入れなくなるようにする事前工作(過去の選挙戦では有効だった)もした。
しかし、8割の人がネット情報を見る時代になって来て、森友・加計問題は安倍首相が批判される事をしていない事は、事細かにネット情報で解説されてしまったし、自民党を勝たせないようにしようという大手新聞社やテレビ局の事前報道は「大手マスコミの誤誘導に気の付けよう」というネットでの注意喚起などもあり、成功しなかった。「意義なき解散」も、首相には憲法で保障された解散権がある事は分かり切った事であり、だから、時の政権が自分にとって有利な時に解散というのは、これまでいくらでも行われて来た事もネットなどでは指摘されている。
衆議院議員の任期が4年なのに、平均2年半で選挙があるという厳然たる事実を無視して、安倍首相だけを攻撃するマスコミ、評論家を多くの国民が信じなくなった。それが今回の選挙である。
つまり、大手マスコミよりもネット情報を信じる国民が増えて来たということであり、大手マスコミがネットに負けた初めての選挙であったと言える。
日本は派閥連立の自民党政権であったため、世界の他の主要国に比べると、歴史的に首相の在任期間が短かった。だから、日本の首相の知名度は世界的にとても低かった。それは、国際的な会合に日本の首相が出て行く時、大きなハンディだった。
初めての参加者と何回も参加している首相では、発言力も扱いも全く異なる。そうした意味で、日本の首相も5年、6年在任しないと、世界的に存在感はなくなってしまうのである。
今の安倍首相はサミットなどでも、大きな発言力、存在感がある。アメリカ、ロシアの大統領とも気楽に話し合える。
次に代わる人も含めて、日本の首相は長くその地位にいて、しっかりした政策を実行してほしいものである。在任期間が5年、6年と続けば、自分が主張し実行した政策の結果が出て来るまで、首相の地位にいる。だから、より、責任が出て来るのである。
在任期間が長いから飽きて来たではなく、長いのだから、きちんと結果を出せというように国民が言うようにならないいけないのである。
20170504
天皇制が維持できなくなる恐れという大嘘
天皇のご発言を機会に、天皇制の維持の話が問題になり、国会でも与野党が議論を行った。
数日前の日経新聞にはこの問題について、自民党の高村副総裁と民進党の野田幹事長の意見が掲載されていた。その中で、野田氏は天皇制を維持するための方策として、女性宮家の創設を強く主張している。
記者が「旧宮家の復活で男系維持ができるという意見があるが」と質問したのに対して、野田氏は「どういう候補者がいるなどの具体的な話を聞いた事がない」というような事を言って、問題にならないというような態度で一蹴していた。
だが、この野田氏の話は全く違う。事実を知っていて切り捨てたなら、政治家としてあまりにもお粗末だし、事実を知らずに発言したとしたら、政治家として、あまりに不勉強である。
ネットでは事実関係を詳しく調べた人の話や当事者の発言が出ているが、現代史研究家の水間政憲氏は「十一の旧宮家は戦後、GHQの命令で民間に強制的に降下させられたのだが、過去数代の天皇の血を引く旧皇族の男系男子が現在、百二十人もいる。その内、八十人あまりは三十歳代以下であり、幼児も少なくない。この旧宮家の人を活用すれば、天皇の血統が絶えるなどという事はあり得ない。男性がいないので、血筋が絶えると騒いでいる人はあまりに不勉強だ。また、女性宮家を作らないと、天皇制が維持できないと言っている人は、別の目的があって言っているとしか思えない」と具体的な事実で、女性宮家の創設者の意見を論破している。
更に、自信が旧宮家出身でマスコミにも登場する慶應大学講師の竹田恒泰氏は同じく、ネットの番組で「十一ある旧宮家全部を復活するというのは財政的にも現実的ではないと思うが、現実的な男系男子の補充の仕方としては、一つは皇太子の娘である愛子様を含めて、現在の女性皇族で未婚の方が旧宮家の男性を婿に迎えることで、結婚による民間への降下を防ぎ、かつ皇族に男系男子を補充する事、二つは旧宮家の男性の幼児を皇太子や秋篠宮など宮家の養子にすることで、男系男子を補う事、三つは男性がいなくて絶えようとしている現在の宮家に、旧皇族の男女の子供を夫婦養子として迎え、その宮家を維持させるなど、十一の旧宮家を復活させなくても、出来る方法はいくつかある」と現実的な話を話している。
更に竹田氏は、「旧宮家の人達は、天皇制の維持について、それとなく話をする機会を持つが、男系男子の伝統を絶やさないために、いざという時に協力するのは当然の責務だと意志をほとんどの人が持っている」とさえ言い切っている。
なお、水間氏によると、旧皇族の男系男子百二十人あまりには、直系に近い順に、皇位継承権の順番がついていて、竹田氏は百二二十人中、百八番で、「逆立ちしても、皇位継承者になることはあり得ないし、その事は自分が一番知っている」という事であり、自分の利益のために発言しているのではない事を示している。
水間氏と竹田氏の話を初めからしっかりヒアリングしていれば、女性宮家の創設や、女性天皇、女系天皇などの議論は、ほとんどしなくて良い事になり、審議会のような形で時間をかけて議論した事や、国会でも与野党が議論をした事が、全く不必要だったという事になってしまう。
少なくても、議論をするとしても、テーマが全く違っていて、竹田氏がいう3つのケースなど具体的な方策を議論を煮詰め、もっと具体的な固有名詞の話にすべきだったという事である。
天皇制をどう維持していくかについては、小泉政権時代にも議論がされたが、少し調べれば、直ぐにわかる水間氏の話のような事実を、何故調べようともしないで、議論をしたのか全く理解できない。
結局、血統が絶えるという事を言う事で、女性宮家の創設や、女性天皇、女系天皇を作ろうとするのは、何か別の意図があるのではないかという思惑があると受け取られても仕方がないと言える。
表面的には男女で区別すべきではないと言いながら、男系男子の二千六百年の伝統を崩すことで、その実態は、天皇制の崩壊が真の意図なのだという事を言う人の方が説得力のある話になってしまう。
女性宮家の創設などの問題を少し複雑にしているのは、これまで天皇を尊敬し、保守派的な発言をしてきた人の中に、善意から出た行動かも知れないが、女性宮家や女系天皇を作らないと、天皇制度を維持できなくなると本心から信じている人がいて、女性宮家の創設などを主張していることだ。
漫画家の小林よしのり氏などである。
小林氏はその著書「戦争論」で、GHQが広め、多くの日本人が信じさせられて来た日本悪論が違うということを漫画で指摘し、たくさんの人に影響を与えて来た人である。その彼が信じた専門学者が悪かったのだとも言えるが、女性宮家や女系天皇に固執している。
水間氏や竹田氏などの具体的な事実で、論破されて、自説が負けてしまっているにもかかわらず、プライドで既に負けている論争を続けようとしている事は残念としか言いようがない。
天皇制を議論する時、何故、男系なのかという話は、ずっとそれで二千六百年続いて来たからという説明がほとんどで、何故、女系ではダメなのかという説明が意外となされていない。
皇室の話になると、たとえ話がしにくいとか、不敬になってはいけないのでというような思惑が出て、話をわかりにくくさせているようだ。
歴史的にみれば、元々は天皇も皇后も皇族でないとなれなかったし、天皇は男系男子でないといけなかった。しかし、藤原氏が天皇を脅かすような力を持つようになると、皇后に自分の娘や孫を入れるように天皇に迫り、天皇も認めざるを得なくなって来た。
放っておくと、天皇の娘に藤原氏の男性を結婚させ、藤原氏の子が天皇になるという可能性も出て来た。それを阻止する理屈付けが天皇は男系男子で、天皇の血を継いだ男でないといけないという事であり、つなぎで女性天皇が出来ても、次には男系男子に戻すという事が行われたのだと言える。
そして、女帝である孝謙天皇の寵愛を受けた僧侶、弓削道鏡が天皇の地位につく事への野心を持ち、道教を愛した孝謙天皇もそれを支援し、男系男子が崩れてしまう危機があったが、和気清麻呂の機転でこれを阻止するという出来事もあり、何かある度に、こうしたことが語り続けられ、男系男子が守られ来たのである。
何故、女系天皇や女性宮家がダメなのかという説明は簡単である。
例えば、皇太子の娘である愛子様を、皇太子の次の天皇にしたとする。愛子様は外国人と結婚し、金髪や黒人の子を産むことも充分あり得る。そうした時、女系天皇を認め、第一子制度なら、金髪の娘が次の天皇になるということになる。
これをほとんどの日本人が、心から自分たちの天皇として認めるかという問題である。
もっと極端な話を言えば、北朝鮮のスパイが学習院に入学するなどして、愛子様と親しくなり、結婚する事だってあり得る。そうすると、その北朝鮮のスパイの父親に指導された子供が愛子様の次の天皇になり、北朝鮮の指令で動く日本国天皇が誕生する可能性だってあるという事である。
そんな可能性は数%でしょうと言うかもしれない。でも、安全保障とかリスク防止というのは、数%の可能性でも阻止しないといけないという事である。
20170424
劣化が激しいマスコミと左翼
大手マスコミで長年、記者として活動した者として、最近の新聞、テレビの大手マスコミの劣化は目を覆うばかりで、どうしてしまったのかと首をひねる位のひどさだ。
最近の例で言えば、NHKがニュース番組で貧困問題をとりあげて、女子高校生を登場させた。母子家庭で貧しいので、生活が苦しく、食費も切り詰めているし、家でパソコンも買えないから、授業で先生がいうパソコンの指示についていけなかったというような話を放送した。
これに対して、話が少しおかしいと思った人がこの女子高校生について調べたところ、スマホを持っていた、ツイッターに色々書き込みをしていることがわかった。そして、好きな映画を何回も見たとか、高価な物を買っているというような事を、この女子高校生が書き込みをしていて、それだけ余裕があるなら、パソコンなんて文句なく買えるだろうし、とても貧困だとは思えないという批判がネットで猛烈に書き込まれた。
NHKは別の報道番組で、やはり貧困問題を取り上げ、別の山梨の母子家庭を取り上げ、母親がパートで収入が十万円で、児童手当も入れても収入が20万円程で、家賃と高熱費に15万円かかるので、満足な食事もできないという内容を放送した。こちらも家族に高校生がいる。
これについても、ネットを中心に、親子4人の母子家庭で山梨で、家賃と高熱費になんで15万もかかれるのだ、車にも乗っていて、とても貧困家庭とは思えないというような批判が多く寄せられた。
マスコミで色々取材をし、報道して来た経験を持つ人間として、このNHKの2つの報道については、基礎調査が全くできていない事が理解できなかった。取材の猛烈な劣化である。
貧困などの問題を取り上げれば、こうした批判が出て来る事は容易に想像できる。だから、こうした問題で、当事者を出演させる場合には、家庭の状況を詳しくヒアリングし、毎月の収入、支出も詳細に聞き、突っ込みが来る問題点がないかどうか確認してから、当事者として登場させるのは基本の基本である。それが全くできていないのだ。
そもそも、家に行けば、どんな生活をしているか直ぐにわかる。本当に生活に困っているか、そうでないか。また、子供の持ち物や身につけているものなどを少し神経を使って観察すれば、突っ込まれない人かどうかなど直ぐにわかる。
また、貧困家庭の高校生なら、自らアルバイトをすれば、月に十万くらいは稼げる。家が貧しくて高校生でアルバイトをして、家計を助けている人など筆者の知っている範囲でもいくらでもいる。スマホは今や若者にとって必需品かも知れないが、月に1万円近くかかり、親に迷惑がかかるからと言って、使っていない高校生もいくらでもいる。
普通の生活者目線でこうした事を1つ1つ確認してから、報道するのが当然の姿勢だが、それが全くできていない。記者、取材ディレクターとして、イロハのイが全くできていないお粗末さである。
報道内容がお粗末過ぎて、毎回、ネットでは、お粗末な内容を紹介されているTBSのサンデーモーニングで、少し前に、森友学園の籠池理事長夫人と安倍首相夫人の間のメールで登場した民進党の辻元清美議員の疑惑について、先日、司会の関口宏に質問された元朝日新聞記者でフリーのジャーナリストが「少し調べれば、全く問題ないというのは自明の理で、何も問題はありません」と解説していた。
これについて、ネットで面白いアップがあった。
ユーチューブのチャンネルで、この元朝日記者の話に続けて、森友問題を詳しく取材したマスコミでも知名度がある人が、パネルと使って、この土地の問題の経緯を詳しく説明し、「土地の評価額を下げたくない近畿財務局の思惑で、価値のない訳ありの土地を籠池氏は高値つかみさせられたのであって、政治家の関与など入る余地は全くない」と明快に話す内容が続いてアップされている。
そして、最後に維新の会の国会議員が国会で、この辻元議員の問題を取り上げ、「これだけの疑惑があるので、国会でもきちんと調査すべき」と質問している様子が加えられていた。
3人の話を聞けば、取材も何もしないで、「少し取材をすれば、何も問題がないとわかる。自明の理だ」と辻元議員を擁護している元朝日新聞の記者が一番お粗末である事は、それこそ自明の理である。取材もしないで、直ぐに突っ込まれる事を平気でいう神経が、記者として基本的な資質がない事を示しているとさえ言える。
まあ、番組担当のディレクターから辻元の弁護の話を頼まれたのかも知れないが、自分が取材をしていないなら、「自分は取材をしていないので、コメントできない」と断るのが筋であるが、それもしないで、直ぐに反論されるバカな発言をしている。
最も、筆者が現役の記者時代から、朝日新聞の記者には、ろくに取材をしないで、「べき論」「はず論」で経営者や政治家、官僚に質問をし、バカにされている人は少なくなかった。でも、とても優秀な記者もいた。
だが、最近の朝日新聞の様子もみると、まともな人がほとんどいなくなったとしか思えないひどさである。最近の朝日のひどさは、これだけ批判されながら、突っ込まれないように注意しようという姿勢が全く見えないことだ。
韓国籍の人間が事件の容疑で警察に拘束され、他の新聞、テレビは容疑者が韓国籍と報道している中、朝日新聞だけが、韓国籍の部分を省いて報道しているのだから、既に末期症状である。
最近、新聞、テレビの報道内容をみていると、世の中で起きている事を多くの国民に知らせるという役割を全く果たしていない事が目に余る。
数年前から欧州では難民を受け入れたのは良いが、難民と住民との間のトラブルが多発し、BBCもCNNもアメリカの大手テレビ局も何年も前から、この問題を取り上げていて、ネットでは詳しく報道されているが、日本の新聞、テレビはほとんど紹介しないなどというのは、その典型的な例である。
今月、台湾の発展に大きく寄与し、今でも台湾で学校の教科書に紹介され、毎年、彼の功績を讃えて記念式典が行われている日本人技師、八田與市の銅像の首が切り取られる事件が起きた。
この事件について、テレビはほとんど無視したし、新聞もべた記事で「日本人元技師の銅像の首が切られた」とだけ報道し、その技師がどんな人か、台湾でどう評価されているかについては、ほとんど説明がなかった。
日本が東日本大災害の被害に見舞われた時、国単位で一番の義援金を贈ってくれたのは台湾である。強制ではなく、多くの台湾の個人の寄付を寄せ、総額も大きく、東北のある病院はその義援金を中心とした金で、施設を立て直す事が出来たという話すらある。
この台湾の人々の親日ぶりの大きな理由の1つが八田の存在なのである。
自ら設計し、関東大震災で日本が大きなダメージを受けて費用が捻出できなくなり、中止になりかかったダム建設を、上司と掛け合いながら、苦労して東洋一のダムを完成させ、台湾の農業発展に大きく寄与したのが八田である。
終戦後、蒋介石が支配するようになった台湾では、日本統治時代に作られた銅像はことごとく破壊されたが、ダムの周辺の住民が尊敬する八田の銅像を隠して保存し、後にそれを再建したという逸話まで残っている人である。
そして、今回の事件でも、犯人は中国と台湾の統一を掲げる政党の元市会議員だったが、台湾政府は事件を恥じて、八田の命日の5月8日までに、銅像を修復し、記念式典に間に合わせると発表している。これだけの話がある人の銅像の首切り事件を報道しないマスコミとは何なのかと考えてしまう。
台湾の話は中国が文句を言いそうだからとか、日本統治時代の話だからというようなことで、報道しないとしたら、マスコミがマスコミでなくなってしまっている。ネットで、「マスゴミ」と言われても仕方のない対応である。
台湾からの寄付で再建できた病院については、NHKが特集で大きく取り上げた。しかし、その放送の中に、病院再建の資金の大半が台湾からの金だったという話はカットされた。病院の敷地に、台湾からの援助金で病院が再建されましたと書いた碑が立っているにもかかわらずである。
マスコミとは広く情報を伝えるからこそマスコミなのであり、政治家や経営者などにも取材が出来る特権が与えられているのだ。マスコミはとにかく情報はできるだけ多く、色眼鏡なしに発信するのが使命であり、その情報をどう判断するかは受け手の国民がする事である。
だが、伝える情報を自ら選び、議論の起きそうな話はカットし、そして、伝える情報にもバイアスをかけて流す。それが今の日本のマスコミである。そんなマスコミは既にマスコミとしての資格はないとしか言いようがない。
マスコミの劣化もひどいが、最近は左翼の劣化がひどい。
左翼はいつの時代にもいた。日本を旧ソ連や中国に売り渡そうとして活動した左翼活動家の話は枚挙の暇がないが、日本共産党の元議長の野坂参三などは旧ソ連、中国のスパイだけでなく、戦後、日本を支配したGHQ幹部にも深く食い込み、凄まじい破壊工作をした。
野坂だけでなく、かつての左翼は行動力があり、かつ、理論的にも議論しても、かなり知識があり、論争しても、負けそうなくらい勉強をし、論が立っていた。
それに比べると、今の左翼は敵ながら、あまりのお粗末さにもっとしっかりしろと言いたいくらい、お粗末で勉強もしていないし、議論しても、普通のおじさん、おばさんに論破されてしまう程度のレベルである。
国会前でデモをして、マスコミが大きく取り上げた若者集団、SEALDSのレベルの低さはネットの動画など見ていて、気の毒なくらいである。でも、これも、取材し取り上げるマスコミの記者が少し詳しく話をすれば、どの程度の人達か直ぐにわかる話である。
それを新聞、テレビがまるで若者代表のように取り上げるので、本人たちもどんどん勘違いをしていった。でも、その結果、テレビなどに出て、少し議論をすると、あまりの不勉強さが出て来て、呆れられ、次第にマスコミも取り上げなくなって来て、解散してしまった。
元々、共産党の支援を受けた人たちという推測はあったが、このレベルの人達しかオルグできないとすれば、共産党の力も落ちたものである。
共産党と言えば、幹部の国会議員が自衛隊の予算を「人殺しのための予算」というような事を、テレビの討論番組で言って、役職と解任されるという事があった。
共産党の勢力をそぐという意味では良いことだが、こんな事を言えば、袋叩きに遭うという認識すらできない頭のなさは、共産党の劣化を示す話として、後世に残るエピソードになるだろう。
筆者も記者時代、共産党の議員とは結構付き合ったが、市会議員レベルでももっとましだった。共産党はオブラートの包んで本音は言わず、表面はにこやかで、隠れて破壊活動、反日活動をする人達である。それが公開の場で「人殺しの予算」などと言ったら、単に「お前バカ」というだけの話である。
森友学園問題で、はしなくも自身の疑惑が出て来てしまった民進党の辻元清美議員は、カリカリの左翼だが、自分の配下とも言える左翼の市会議員が森友問題に火をつけて、マスコミに売り込みだした時に、自分の疑惑にまで火の手が及ぶと考えなかったのか不思議でならない。
ちょっと考えれば、自分に火がつきそうだという事は容易に想像がつくと思うが、そこまで頭を巡らすだけの知能もないのかという程度である。
そして、民進党の蓮舫代表にも言えることだが、問題が発生した時に、きちんと問題を把握して、問題点を解決し、二度とその問題で攻められることがないようにしないといけないのに、それをしていない。
蓮舫氏は二重国籍問題は未解決のまま放置状態であるし、途中段階で、その場その場で言い逃れをするために、平気で嘘を言った。そして、その蓮舫氏を二重国籍問題がありながら、代表に選ぶ民進党ももう末期症状である。
最近でも、自民党の中川議員の不倫騒動が持ち上がり、蓮舫氏が会見でこれを批判し、「人間として問題」という話をしたが、ネットでは、「自分の二重国籍の方ももっと問題」と何人もから書き込まれる始末で、攻撃すればする程、自分に返って来ていて、話にならない。
辻元議員も森友学園に自ら行ったと明言した会見をしたにもかかわらず、「自分は森友学園の敷地は近くにも行っていない」と言ったので、その矛盾する話を2つ並べてネットで流される始末である。
蓮舫氏はかなり不十分なままだが、一応記者会見をした。しかし、辻元氏はいまだに雲隠れしたまま会見すらしていない。
最近になって、民進党の同僚議員からの声として、「辻元氏はテレビに出たりして、口八丁手八丁なイメージがあるが、事前に周到な準備をし、リハーサルをしないと対応できない人で、ぶっつけ本番で、何が出て来るかわからない記者会見などとても無理」という話まで出て来ている。
蓮舫氏もそうだし、辻元氏もそう、そして、元都知事の舛添氏もそうだが、いずれも、「朝まで生テレビ」で名前と顔を売り、一躍有名になった人たちである。そうした意味で、不完全な出来損ないを、一流品のように見せて、国民に売り込んだ田原総一郎氏の罪はとても重いと言える。
今の時代、ネットユーザーには検索能力が高い人が少なくないし、一般の人で地元の人などは貴重な情報をアップしたりするので、筆者などは自ら詳しく取材をしなくても、それらをみれば、どの情報が嘘で、何が本質であったかなどというようなことが、自宅にいてわかってしまう便利な世の中になった。
かつては、何か事件が起きて、新聞、テレビの報道では意味が良くわからない事が、翌週の週刊誌、文春、新潮の解説で理解できるという事が少なくなかったが、今はネットで、それが数日で解説の情報がアップされるのだ。
そして、少し話題になったユーチューブの動画なら、何十万人の人が見ている。だから、マスコミがいかに隠そうが、嘘の情報を発信しようが、視聴者を自分の思う方向に誘導しようとしようが、それが違うという事が直ぐにわかってしまう。
かつて、マスコミが情報を独占していた時代と大きく異なって来たのだという認識がマスコミで働く人の側にないというのが、今の実情である。だから、直ぐにばれる間違った情報を平気で流すのだ。
ユーチューブやその他のネットは本当に便利なもので、少しわからない事があれば、調べれば、詳細なデータがすぐ出て来る。そして、事情に詳しい人の書き込みもある。書いてある内容を確認しようと思えば、役所のデータなども、瞬時に検索できる。
北朝鮮が「1年で立派な高層ビル群を建設した」と誇って発表した立派な街並みは、実は壁だけ作った模型のようなものである事が、2,3日後には、グーグル写真で明らかになってしまう時代である。
だが、日本のメディアも含めて、現地に取材に行った記者が、北朝鮮の人間に「このビル群を1年で完成させた」と説明を受けた時に、「おかしい」と感じないで、大々的に報道する姿勢こそ、記者としてのお粗末さを示すものと言える。
高層ビルは1棟作るにも建設に数年はかかる。それをあれだけの街並みを1年で作ったと言われた時、何かおかしいと皮膚感覚で感じないといけないのだが、それが今の記者には出来ない。
筆者が以前書いたように、「言われた事をそのまま暗記して、一流大学に進学し、学歴でマスコミ就職した、自分の頭で考えず、スイッチのオン、オフで行動する乾電池式のロボット」だからである。
自分で考え、常識で判断すれば、それはあり得ないと思うというような単純な事すら出来ない人間が記者をしているのが現代である。
20170411
地道な取材をせずに、「はず」「べき」で報道する今のマスコミ
今のマスコミがお粗末になってしまった原因の一端を前回書いたが、今、新聞、テレビの報道をみると、本当に「プロ不在」の集団であり、こんな情報で報道していて、よく恥ずかしくないのか不思議でならない。
最近の米軍のシリア爆撃の件でも、北朝鮮問題でも、米中首脳会談の件でも、「素人の司会者」が「素人のエセ専門家」に解説をしてもらっているので、本質、真実が何も見えて来ない。多くの視聴者、読者を惑わせるのは、「専門家と称する素人」の解説である。
テレビで時事解説で大活躍し、本も多く書いているが、専門性が全くなく、ただ単に世に流布している本や情報を読んで、わかりやすく解説している人が、大学教授の肩書を持ち、日本を代表するジャーナリストとなっているなどという事など全く理解できない。
また、元外交官でインテリジェンスの専門家と称する人が、こちらも多くの本を書き、ネットでも何にでも発言し、解説をしているが、本質の的を得ているとは思えない説明をしている。
司会者が少し知識があり、勉強していれば、その彼らの解説を聞いて、疑問に思った事を質問する突っ込みをするが、司会者自身がお笑いタレント上がりであったり、モデルあがりの司会者であるような状態で話を聞くから、明らかにおかしいと思う説明がそのまま通ってしまう。
今の日本では「本質を伝えないマスコミ、真実がわかるネット」という感じである。ネット情報には勿論、おかしなものも少なくなく玉石混淆だが、内容を読めば、それがインチキかポイントを突いているかは少し知識があれば、理解できる。
森友問題は、前にも書いたが、問題の小学校用地は沼を産廃などで埋め立て、その後、同和や在日などが住み着き、それを買い取った、いわくつきの土地で、産廃処理費用などを入れると、タダでも誰も買いたくない所を、財務省が1億円で売ったというもので、籠池氏自身が被害者でもあるものである。
関西では、道路一つ隔てた対岸の土地で、土地の価格が倍半分などという所は全く珍しくない。小山を切り開いた所で、大阪側は高級住宅地、京都側は学校の窓ガラスほほとんどが壊れている荒れた同和地区で、雰囲気も土地の価格も全く別などという所もある。
こんな事は少し取材をすれば、直ぐにわかるのだが、今の記者は地道にコツコツ足で取材をする事をせずに、12億円の評価の土地が1億円で売られたなら、そこに「不正があったはず」という前提で出発しているので、「不正がなかった」という話がいくらあっても、すべてカット対象の情報となってしまうのだ。
だから、問題の全容がほぼわかったこの週末になっても、フジテレビが籠池氏の娘を登場させ、「安倍総理夫人は嘘をついている」という話を延々とさせているお粗末さである。
倒産しかかっている学園側は何とでも言う。それをまともに取り上げ、それを大きな見出しで報道するテレビ局の姿勢は「頭がおかしくなった」としか思えない姿勢である。
豊洲問題も、地下水を飲み水に使う訳でもないのに、「食品を扱う場所なのだから、厳しい基準であれうべき」という理屈で、飲み水基準を求めた共産党に躍らせれて、その基準で水質を検査するから、基準値の何千倍というような話になってしまう。
その基準が何かと言えば、その水を毎日20リットル、70年間飲み続けて病気になるというレベルであり、市場として使うには、そんな基準など全くナンセンスなどだが、マスコミ的には、その基準が何かという話はどこかに飛んで行ってしまっている。
土壌汚染に何千億円も都が負担するようになったのは、「何か不正があったはずだ」という前提で取材をするから、基準が何かなどどうでもよくなり、ネグる対象になってしまっている。
問題をこじらせたのは、それを自民党の都議のボスとの闘いを有利に進める手段として使おうと考えた小池知事が、石原前知事に疑惑ありというように報道するように仕向けていることにマスコミが乗り、その通りに報道するから、話がおかしくなってしまうのだ。
豊洲問題では、東京ガスとの用地取得に関与した浜渦元副知事が記者会見し、それをテレビが中継していたので聞いていたが、「用地買収交渉が難航しているので、解決してほしい」と石原知事に言われ、こじれて話を解決し、買収する事で基本合意した時点で、自分は石原知事から、その問題の担当を外され、細部の詰めは担当者が行ったという、彼の話は、企業や役所ではよくある話で、納得できる経緯である。
難航案件の交渉は相手の責任者との人と人のぶつかり合いで、肝胆相照れせば、合意に持っていける。そして、細部の細かな詰めは担当部局の担当者があたるというのは、一般によくある事である。
しかし、質問している記者が、企業や役所という組織で仕事をしたことがないので、この論理が理解できないのだ。
更に、浜渦氏が少し触れていたが、東京都は臨海部を埋め立て、その再開発で利益を出そうとしていた。その目玉が都市博だったのだが、鈴木知事の後を継いだ青島知事が、都市博を中止し、これによって、臨海部の再開発が大幅に狂って、大きな赤字となってしまった。
それを埋めるために、豊洲の再開発をし、現在の築地の用地を売却すれば、赤字は埋まる、つまり、豊洲開発は赤字の埋め合わせに必須だったという話は、前からあったが、その一環であったと事だと、東京都の担当者が豊洲にこだわった理由がより理解できる。
しかし、臨海部の歴史、都市博の経緯など、今の記者は取材もしていないので、そんな話が出て来ても、興味すら示さない。まして、取材をしようとは露にも思わないのだ。
シリアへの米軍の空爆の話は、ネットで中東の専門家が解説をしているが、対イスラム国もあり、シリアのアサド政権が倒れる事は米軍も望んでいない。しかし、サリンガスを使うのはやりすぎで、米軍は「やり過ぎだ」とお灸をすえただけの事というだけの話であるというのが専門家の見立てである。
シリアの反政府軍は、いくつも集団が寄せ集まったもので、アサド政権が倒れたら、それに取って代われる人間はいない。フセインを殺して大混乱になったイラクの再現はこりごりなのだ。
でも、テレビに出て来る解説者は新聞で記事を書く記者に、シリアの政治情勢を解説する人は誰もいない。悲しくなるくらい情報を持っていない人が説明をしているのだ。
米中首脳会談も一緒だ。新聞やテレビでの解説では、何があったのか全くわからない。これもネットで中国の専門家が詳しく解説している話が一番説得力がある。
この話は何年か前に長谷慶太郎氏も本に書いていたが、中国を1つの国と見ると間違える。6,7の軍区に分かれていて、それぞれにボスがいて、大きな権力と金を握っていて、国家主席と言えども、迂闊に出だしは出来ない。
その上、今の中国は習近平派と江沢民派の激しい権力闘争があって、それに胡錦涛率いるグループが絡んで、複雑な様相を呈している。北朝鮮を支援しているのは、江沢民派であり、習近平の力が及ばない軍区だというのである。
だから、習近平がいくら北朝鮮を締め付けをしようとしても出来ないし、就任してもう5年も経つ、金正恩が未だに中国を訪問して、習近平と会談をしていないという事も理解出来る。
極端に言えば、習近平は「自分の面子させ立てば、北の事は好きにしてくれてよい」という事を言ったというのは十分考えられることである。
ただ、金正恩を排除するのは良いが、体制まで壊すと、国家が崩れ、難民の群れになって中国に殺到するので、それは勘弁してくれという事で、トップの人間が変わっても良いから、体制は壊さないでほしいという話だったのではないかという事である。
金正男氏の暗殺は、金正恩氏の後釜として、彼を考え、アメリカが彼を抱え込もうとしたのを北が察知し、殺したのだと説があるが、説得力がある話である。
前回、今のマスコミの記者を出来の悪い乾電池式のロボットと書いた。
誰かがスイッチを入れないと動かないし、入れたら、スイッチを切るまで壁に当たって、先に進めなくても、同じ場所を何回でもぶつかって行く。自分で考え、情報を集め、判断し、本質を見抜くという機能など全く持っていない。
上司の命令、スイッチを入れる人の意志は絶対で、その通り行動する。考える人、指示以外の事をする人は余計な人であり、排除されるのである。
TBSのワシントン支局長として、韓国自ら従軍慰安婦施設を作り、運営していたというデータを見つけ、報道しようとして、上司に没にされた山口氏が左遷され、退職せざるを得なくなったというのが、今のマスコミの実態を象徴しているとさえ言える。
誰かが何か情報を出して来た時、この情報の提供者は何者で、何の意図を持って、この情報を出してきたか考えるのをまずしないといけないのだが、相手がどれだけおかしい人、胡散臭い人でも、レクチャーされ、それが政府や首相を叩けると思ったら、何でも食いつき、思惑は気にしない、それが森友問題、築地問題に共通する図式である。
行動する現場の記者が出来の悪い乾電池式のロボットで、指示、命令を出すデスククラスが反日、反政府思想で洗脳された40歳代から50歳代の暗記得意型の優等生で、「日本は悪であり、中国、韓国には永遠に謝り続けないといけない」と子供の時から暗記教育で刷り込まれた人たち、これが今、マスコミの現状である。
でも、ネット時代で、テレビに対する広告宣伝料金がテレビに対するそれを上回って来たという事自体、テレビを中心とするマスコミが崩壊しかかっている事を示している。
ただ、ネットを全く見ない中老年が2、3割しめているので、減ったとは言っても、嘘ばかりを書く朝日新聞は今でも5,6百万部は売れているし、民進党は選挙で2,3割の議席は取ってしまうのだ。
李明博元大統領の竹島上陸をきっかけに、テレビで韓流ドラマが姿をほとんど消していたが、この4月から、NHKを含めて、各局韓流ドラマを復活させ、昼の時間帯など、BSをつける、どのチャンネルも韓流ドラマだらけである。
「韓国はもう良い。付き合いたくない」 そうしたネット市民も大方の意見など、テレビ局は聞く耳を持っていない。
非ネット市民が絶滅しない内は、日本は変わらないのだろうか。
20170409
全大手マスコミが反日、偏向報道になった理由を分析…反日教育をされた乾電池式ロボットが管理職
森友学園の土地払い下げ問題から始まった騒動では、安倍総理婦人の関与について、国会で民進党を中心とする野党が異常とも思えるしつこさで連日取り上げ、大手マスコミのこれも野党と結託しているとしか思えない報道の仕方について、ネットを中心に批判が集まっているが、籠池夫人と安倍総理婦人との間のメールで出て来た民進党の辻元清美議員の疑惑が出て来たことに対して、産経新聞を除いては、新聞もテレビも全く無視して報道しないことに、ネット市民の怒りが爆発し、それまでも言われていた大手マスコミの反日、偏向報道が広く認知されるようになって来た。
少し時間が経って、一部のテレビでは辻元問題について、アリバイ証明のように簡単に触れたが、評論家に「これは大した問題ではないですよ」と言わせて、ネットで出ている大火事を消火に回る役割をしている始末である。
でも、辻元問題を取り上げるマスコミはまだ良い方で、NHKや朝日新聞、毎日新聞は無視したままで、東京新聞に至っては、「辻元攻撃は女性蔑視、差別」というトーンで見開き2ページで大々的な記事を書いて、辻元弁護に回るという異常さである。
森友問題だけでなく、築地市場の豊洲への移転問題でも、石原知事時代の前の青島都政時代に、500億円もの費用をかけて、築地の現状を改築で出来ないかを検討したが、狭い土地で営業をしながらの改築は無理という結論になり、豊洲移転は石原知事就任以前に規定路線であったことは、当時のマスコミ報道や都庁での議会などのやりとりではっきりしていた。
東京ガスから東京都が取得した価格も、汚染土壌もあって、坪50万円で、当時の相場80万円よりも割安だったという話もあるが、これなどはマスコミは誰も論じないで、汚染除去費用だけがクローズアップされている。
そして、小池知事が当選した途端に、森友と同じ手法で、土地取引に疑惑があったのではないかとか、有毒化学物質が検出され、安全ではないという理屈で、小池知事が決まっていた移転時期を延期し、そして、都議会の百条委員会に石原知事などを喚問するという事を行い、あたかも疑惑があったかのような印象付けを行い、「すべての悪は石原元知事」という論法で突き進む小池知事に、オールマスコミが追随し、むしろ騒ぎを大きくしている。
豊洲問題に火をつけたのは共産党で、飲料水として使う事のない地下水を毎日20リットル、70年間飲み続けるという審査基準を適用させようとした共産党のプロパガンダに、小池知事が乗ったことが物事の発端であるが、ネットはともかく、新聞やテレビはその事は報道しない。
最近は復興大臣の記者会見で、極左過激派の行動家で肩書フリージャーナリストを名乗る男が記者会見に出て、15回にわたってネチネチと大臣をいびり、ついに切れた大臣が激高して大声を出した事について、どの新聞、テレビも質問者がどんな人間で、どんな事を言って大臣を怒らせたかには全く触れずに、「被災者をないがしろにする発言」と叩きまくる報道に終始している。
政治家として、こうした過激派のさばき方を心得ない大臣もダメだが、過激派の活動家がどうして記者会見に参加出来たかについて、誰も論じない。推測では、大手マスコミの人間が参加できるように便宜を図ったと思われる。それこそ大問題である。
森友問題だけでなく、豊洲問題でも、復興大臣の話も、物事の両面を取り上げず、片面だけを取り上げ、そして、一方の当事者を徹底批判している、それが今の大手マスコミの姿である。
筆者は20年近く大手マスコミの記者として、企業や官庁、政治家を取材し、その後、フリーとなって、同じくらいの年月、同様な取材対象を取材して来た経験がある。その経験からすると、朝日新聞や毎日新聞は大分以前から、報道にかなりの偏向があり、それは報道の世界では広く知られていた。
しかし、それに対して、産経新聞や読売新聞、NHKは中立または右寄りと言われる姿勢で報道し、マスコミ全体としては、それなりにバランスが取れていた。
ところが、最近の森友、豊洲、復興大臣の事だけでなく、多くの事案について、それまで右寄りの姿勢とみられていた読売、NHKまでも反日、偏向報道をするようになってしまった現状を見ると、日本のマスコミはどうしてしまったのかと不思議でならなかった。
そこであれこれ考えを巡らし、そうなった理由を自分なりに推理し、結論らしきものに辿り着いた。
筆者はフリーのジャーナリストとなって15年くらい活動した後、経営コンサルタントの仕事を依頼され、取材と平行してコンサルの仕事をするようになって行った。コンサルの仕事は経営および人事の関係が多く、その延長線上で企業の採用業務を13年間担当ようになり、毎年万を越える学生と接するようになった。そして、日本人が大きく変わって来ているのを実感した。
その一方で、コンサルの一環で、ある2つの団体の事務局の責任者の仕事を合計7年担当したので、大手マスコミの記者の取材を多く受けるようになり、記者達の変化についても認識するようになった。
記者がどう変化したかについては、筆者の知人の大手マスコミのデスクから、15年から20年くらい前に聞いたエピソードがわかりよいので、それを紹介する。
このデスク達の話の1つは、ある支局に東大出の新人記者が配属されて来て、筆者の知人は支局長として応対したという。この新人記者は、当然、配属は警察担当となり、事件、事故の取材をしていたが、新人さんが配属されて3か月くらい経った時、夜、結構大きな火事が市内にあった。
大手マスコミの地方支局というのは記者の1人が交代で宿泊勤務をして、事件事故の対応をすることになっている。しかし、記者には県庁担当や市役所担当などがいるから、夜中でも少し大きな事件、事故があると、宿泊勤務ではない、警察担当の記者が取材のために出動する事になる。
地方の県では県庁所在地でもそれほど大きくないので、夜大きな火事があれば、誰でも知るようになる。ところが、この東大君は火事の取材には顔を出さなかった。翌日になって、支局長が東大君を捕まえて、「昨夜はどうして取材に来なかったんだ?」と訊くと、この新人君は涼しい顔をして、「だって、泊りの記者からも、デスク、支局長からも電話がなかったので、用はないと思ったんですよ」と答えた。
「俺たちが新人の頃は、警察担当は救急車やパトカー、サイレンの音を聞いたら、昼でも夜でも、飛び出して、何があったか確認していたよな。今は違うんだ」 元支局長の知人はこう嘆いた。
別の知人で大手新聞社の社会部のデスクをしていた人が、地方支局でデスクをしていた時の話はこうである。やはり、その支局に一流大学出の入社2、3年の記者がいた。この記者にある狙いで取材を依頼したら、その記者は何日間か取材をして原稿を出して来た。
読んでみると、その知人のデスクの持っている知識とどうも違う。疑問に思って、彼は何件か電話取材をしてみると、事実は記者の書いた原稿と真逆の状態であった。
そこで、その記者にそれを告げると、その記者は「だって、デスクがこのテーマで取材しろというから、その線に沿って取材をし、原稿を書いたのですよ。原稿が違っているなら、指示が間違っていたという事でしょう」と平然と言ったという。
取材してみると、テーマに合致した事象が3割、反する事象が7割出て来た。そこで、この記者は7割をカットし、3割の話で原稿を書いたというのだ。
「俺たちが若い頃には、デスクに命令されて取材に行って、取材テーマが事実と違ったら、帰って来て、デスクにその話をして、狙いが間違っていたことを説明して、真実の事を元に原稿を書くのは当然の行動だったのに、今の記者は7割をカットして、3割で原稿を書くんだよ」 この知人は吐き捨てるようにそう言った。
筆者も同じような体験をいくつもしている。ある団体の専務理事をしている時の事だ。誰でもが知っている大手週刊誌の記者が取材に来た。
話を聞いていると、既に頭の中で原稿が出来上がっていて、その線で質問をしてくる。それが事実と違うので、背景などを説明すると、メモを取ろうともしない。自分の原稿に必要な部分だけメモしている感じで、「自分の思いが百パーセント正しく、そうでないことは間違い」という発想なのだ。
彼の前提が間違っているので、それを訂正しようとしても、自分の前提は百パーセント正しくて、そうでないものは嘘という考えに拘り、話を幅広く聞こうとする姿勢は1%もなかった。そして、その週刊誌の記事が出たら、案の定、彼の考えの下の原稿で、筆者の話は自分の都合の良い所だけピックアップして使っていた。
別の日のことで、大手新聞社の経済部の記者が取材に来た。
話をしていて、どうしても記者という感じではなく、銀行員と話をしている感じで、経済記者としてのセンスがないのだ。もう30歳代後半の人である。
思い切って、「あなたは当初から記者志望だったのですか?」と訊くと、彼は「いえ、大手銀行に入ろうと思ったのですが、落ちて、新聞社に受かったので、入社しました」と答えた。
筆者が若い頃、銀行とマスコミという受け方をする人間はまずいなかった。求める資質が全く違うからだ。広告代理店と新聞社、出版社というのならわかるが、今の新聞社はこうした人間を記者として採用するのだと、不思議に感じた。
採用担当として、大学生と接っしていても、学生達が大きく変化しているのを感じた。
筆者が採用を担当した会社は学生に希望が高く、一流大学の学生が多く説明会に参加する会社だった。だから、必然的に、2次、3次面接あたりになると、残っている学生は旧帝大、早慶の学生が中心という感じだった。
彼らと接していると、2、3次以降の選考に残る学生の1割くらいの人は、筆者が若くて現役だった時でもかなわないだろうなというくらい出来る学生である。一流大学で成績がトップクラスで、部活でも部長を務め、英語もかなりできる。何より、話をしていても、頭の回転が速い。
かつ、会話をしていて意見が異なり、議論をするようなことがあると、「人には様々な考え方があり、とても参考になります」と言って、自分の説をごり押ししない。かと言って、自分の説を引っ込める訳ではなく、対立をさらっと体をかわし、話題を変えたりするのだ。
自分が若い頃に、これが出来たかと言えば、そうだという自信がないくらいの見事さである。ただ、こういう学生は1年に受けに来る数万人の内で、ほんの数人である。
だが、選考に残った学生でも、多くの人はこういう感じではなはない。
まず、指示をしないと動かない。指示をしたら止めろと言わない限り、それをし続けている。相手が上司であったり、採用担当というような大きな権限を持っている人間だと、相手の指示は絶対に近いという感じである。
筆者が若手の記者時代にそうであったように、20歳くらい年上のデスクなどと意見の違いで議論をし、論理的に反証をして食い下がるというような感じの若者はまず、見かけない。
筆者は「出来の悪い乾電池式のロボット」、その言葉を当時思いついた。高性能ロボットではない。上司が乾電池のスイッチを入れると動き、切ると動きを止める。自分の意志や考えよりも、上司のスイッチがいの一番なのである。
筆者よりも十歳くらい年下の知人に、こうした話をすると、その人は「私が小学生くらいの時から、先生が言った事を疑問に思って質問すると、『余計な事は言わないで、俺の言った通り、その通り覚えたら良いんだ』と言われ、質問する生徒は怒られたり、疎んじられたりするようになったんです」と言った。
筆者が小学生の頃、先生にとことん質問し、先生も熱心にそれに答えてくれたのと大きな違いで、その頃から日本は変わってしまったのだと感じた。
考えてみると、筆者が小学生の頃、日本は戦後の混乱期で、まだ貧しく、皆、必死に生きていた。小学校では教師が1人泊りという勤務があり、土日も当番の教師が1人出ていた。夜や土日に誰が出ているかはわかるので、話をしたい教師が担当だと、夜や土日に学校に行き、何時間でも教師と話をしたものだ。
でも、十年後の人達は高度成長期になり、世の中が忙しくなり、企業も即戦力を求めるようになり、何故、どうしてというやりとりをしている暇がなくなって来て、教師が「余計な事は言わずに、言われたことをその通り覚えろ」というようになってしまい、それが今も続いているのだ。
先の戦争に行き、戦った日本人は大正生まれの人がほとんどである。この人達は、命令で戦地に赴き、3人に2人が死んだ。そして、帰還して来た人の多くは、戦争についてほとんど語る事をしなかった。言いたい事は山ほどあったと思うが、戦後のアメリカ占領軍のプロパガンダの話を聞き、それが世の中に定着して行く中、何を言っても無駄と思い、口を閉ざしたのである。
昭和一桁や終戦くらいまでに生まれた昭和の戦前世代は、戦中、戦後の混乱期にひもじい思いをし、辛い思いもした。しかし、この世代は戦前の教科書が黒く墨を塗られ、昨日まで習っていた事が嘘だったとして、GHQのプロパガンダで教育された世代である。
だから、日本や日本政府を信じられず、反政府、反国家となり、実態もわからないまま、安保闘争をして挫折したのである。戦争について多くを語っているのはこの世代である。実体験もないのに。
筆者もこの世代だが、筆者は子供の頃から歴史の本が好きでよく読んでいたので、GHQのプロパガンダはおかしいと感じ、その線で指導しようとする小学生時代の教師、日教組の闘士には批判的であったし、安保条約も新聞で中身を読んでいて、当時言われた改悪ではなく、改善と感じたので、大学生の時、安保闘争にも加わらなかった。
安保闘争に参加し、負けて挫折した多くの人は、反政府の活動を止め、普通の会社員、公務員、自営業者になった。しかし、自分達が小中学、高校で習った事は、「日本=悪」であり、「日本政府は信用出来ない」という事である。
それでも、昭和一桁や終戦前生まれの昭和世代は、それでも、戦前の事を知っているので、GHQが宣伝していることもどうも、嘘っぽいという事も同時に知っていた。
だが、この戦前生まれの昭和世代が上司で指導された世代、今の40歳代から60歳代くらいまでの人達は、戦前を知らず、GHQ教育をそのまま信じて育った人たちである。
戦前昭和世代はまだ、何故、どうしてを思い、生きて来た。しかし、それらの指導された40歳代から60歳代の人は、「余計な事は言わず、言われた事をその通り覚えろ」と言われて、育った人達である。
十年くらい前に、ボランティアで中学校の放課後学級の教師をしたが、出来ないと言われる子は、納得が出来ないと、そこで立ち止まり、先に進めない。それに対して、成績優秀者は納得できなくても、その通り覚える。丸暗記である。
本当に優秀な一握りの人は丸暗記をしながら、嘘と本当の見分けがつくが、多くの優秀者は言われた事を丸暗記するので、それが血になり、肉になってしまっているのである。
マスコミの進む多くの人は他の業界に行く人に比べて、意見を持ち、議論などしたい人が多い。それだけに、世に出ている多くの本や雑誌、新聞などで、戦前の日本はひどい事をしたという事を学ぶと、それが次第に自分の中で不動のものになって行ってしまうのである。
筆者は、全マスコミが新聞社、テレビ局がここ数年で急に、ほとんど反日、反政府の偏向報道に変わったのは、戦前昭和世代が引退し、その人たちに育てられた40歳代から60歳くらいまでの人が責任ある地位の管理職に着くようになったことが理由であるように感じる。
朝日でも、毎日でも、NHKでも、おかしい、違うと思う若い記者はいくらでもいると思うが、巨大、岩盤のような40歳代から60歳くらいの反日、反政府、偏向世代には太刀打ち出来ないのである。
沖縄の反基地闘争に本土から行っている人には、公務員、教師を定年退職した人が多いというのは、彼らは反日、反政府、偏向教育で育ち、職場でもそういう指導を受けて来たからである。
今、ネットの時代になり、多くの人が様々な情報を発信し、GHQのプロパガンダのほとんどが嘘だったという情報、データがいくらでも出ているが、反日、反政府で凝り固まった人は、そうした情報をみようともしない。見たら、信じて行動して来た自分自身が否定されてしまうからである。
反日教育をされて育った韓国人がネットなどで嘘と知って、自分が否定され、立て直すのに大変だったという話が時々出ているが、これと同じである。だから、呪文を唱えて見ないのだ。
ただ、今の日本では、これはマスコミだけの問題ではない。国会議員、地方議会議員、公務員、会社の管理職、教師、大学教授にも、マスコミと同じ理由、同じ構図で、多くの反日、反政府の人が同じくらいの割合でいると考えて間違いない。
だから、文部官僚の考えで、歴史の教科書から聖徳太子を消そうという動きになるのである。
日本社会のありとあらゆるところに、世代の塊として、岩盤のように存在するこれらの人を取り除いたり、変えて行くのは、しないといけないが、大変な努力と、時間がかかる作業である。
20170330
森友問題…クズ沼地跡に群がった同和、暴力団、辻元清美の利権
ここしばらくの間、マスコミの報道では新聞もテレビも、大阪の森友学園の小学校用地の払い下げに関連して、安倍首相やその夫人が関与したのではないかという内容一色で、国会でも野党はその問題ばかり取り上げ、安全保障の危機など真剣に議論しないといけない問題が議論されず、異様な雰囲気だった。
野党は今、一強と言われる自民党政権を攻撃して、少しでも得点を挙げたいのは当然としても、マスコミも野党の尻馬に乗り、完全に野党の言うことを是として、政府攻撃の態度に終始し、野党に都合の悪い話はほとんど伝えないという姿勢は、およそ信じられない状態である。
ネットなどでは大きく議論されている民進党の辻元清美議員の問題も、産経新聞を除くと、他の大手新聞は全く黙殺しているし、NHKを含むテレビ各局もほとんど無視して報道していない。
その上、テレビで維新の会の議員から、そうした話が出ても、その発言を妨害するような司会の仕方をしたり、コメントを言う人間に「あれは大した問題ではないですから」と言わせるなどという、異常とも言える今の日本のマスコミの報道姿勢が大きな問題として、逆に大きく浮かび上がらせる結果となったのが森友問題の一番の成果とも言える皮肉ぶりである。
マスコミが情報を独占していた時代はともかく、今の時代はネット社会で、一般の人や関係者がいくらでもネットに書き込み、発言する時代で、ネットでの書き込みや航空写真などを色々検索すると、そも森友問題とは何であったかが理解できる。
そして、こうしたネット社会に全く対応できていないだけでなく、基本取材をきちんとしていないで、どうでもよい事だけを大きく騒ぎ立てている今の大手マスコミの報道内容が、本質と全くかけ離れたものである事が良くわかる。
こうしたマスコミの取材態度、姿勢は既に多くの国民の不信を買っているし、遠からず、一般国民から総スカンを食らうでああろうことは必至である。
情報通や少し取材をしたまともなジャーナリストの話では、問題の小学校用地は元々は深い沼地だったという。戦前は行倒れの人や、ヤクザの抗争で死んだ人間を投げ入れたりしたという話で、地元の人は「沼をあされば、死体がいくつも出て来る所」と言っていたいわく付きの場所だったという。かつては近くに精神病院もあり、入院患者の投身自殺もあったという話である。
そんなところだったが、戦後になって、宅地化が進み、問題の沼も埋め立てる事になり、廃材などが投げ込まれ、その上に土を被せて沼を潰したという。
そして、その土地に同和の人や在日の人などがバラックを建てて、住み着いたという。1960年当時の写真というのがネットにアップされているが、本当に掘っ立て小屋のような家が密集しているのがわかる。
その上、この地区は伊丹空港の近くで、騒音が凄いだけでなく、飛行機の離発着があるので、建物の高さ制限がある。筆者も関西に以前、記者として6年間住んで、取材をしたことがあるので、事情は大体わかるが、空港の騒音問題は社会を揺るがす問題となり、運輸省(今の国土交通省)が周辺の土地所有者に賠償金を払ったり、用地を買い上げたりしたので、いくつもの土地が運輸省の持ち物となった。この沼地の跡も、運輸省の所有となった。
国土交通省はこうした土地を多く所有していても仕方がないので、関係会社を作って、土地の払い下げを行い、ほとんど売り切ったので、会社も解散した。
1つ残ったこの学校用地は国有地の払い下げを行う財務省の出先の近畿財務局が担当し、大阪の芸術大学に払い下げる予定だった。しかし、少し調べれば、いわくつきの土地だとわかるので、交渉は決裂し、この土地だけが残ってしまい、近畿財務局は国土交通省から早い処分を求められ、焦っていた。
(隣接地の売却は辻元氏の口きき?で、2千万円の価格)
この地区は周辺に今でも同和や在日の人達が結構いる上、土地の造成や産廃処理には暴力団関係の会社が関与する事が少なくないという。つまり、暴力団、同和の利権が絡んだ場所だったのである。
つまり、マスコミが報道するように8億も9億円もする優良な土地ではなく、元々価値の極めて低い土地だったのである。籠池氏は大きく値引いた価格を聞いて「神風が吹いたと感じた」と述べているが、神風どころか、それが適正価格だったのである。
その証拠に、この学校用地の隣接地で、同様に国土交通省が所有していた土地を豊中市が公園用地として2千万円で購入している。ここも8億、9億というような評価額だったが、同様に産廃などが埋まっているという事をなどを理由に大きく減額しての売却だった。
そして、この豊中市への売却に関与したと言われているのが辻元清美議員である。売却当時は民主党が政権を握っていて、辻元氏は国土交通省の副大臣をしていて、口利きをして、8億、9億の土地を2千万円で市が買うことができるように動いたというのだ。
これは豊中市の市議会で「不正があったのではないか」という疑問が出て、質問されている。
筆者の取材体験から言うと、国会議員は与野党に関係なく、地元の自治体や有権者のために動く。恩を売る事で、何かと見返りが得られるからである。
2千万円はともかく、籠池氏が買った1億円くらいの価値の土地に対して、なぜ、財務省は8億や9億の値段をつけたのであろうか。
それは固定資産税が関係している。近くの土地が安く売買されると、それが評価基準となり、固定資産税が安くなってしまう。それでは、少しでも税金を取りたい財務省は困るのだ。更に評価額が高いことは、土地の所有者には財産が増えることになり、悪いことではない。
いわく付きの土地は安く売らないといけないが、評価額は高くしないといけない。その矛盾することを解決する方法として、財務省が思いついたのが「産廃が埋まっているので、撤去費用が多くかかる」という理屈である。
評価額は高いが、産廃の処理という特殊事情があるので、安く売りますという言い訳ができるのだ。
辻元議員が隣接地の売却に関与したと見られているのは、地元の市に恩を売ると同時に、周辺に住む有権者に、「私が頑張って、評価額は高くしたからね」と言って、役に立つ議員という事をアピールするためだったと見られているという話である。
こんないわくだらけの土地の売却話は、そっと秘密裏に処理する事である。それが、地元、豊中の市会議員で、辻元議員と親しい左派系の人間が「右翼の学校ができるのは許せない」と、売却に不正があると騒ぎ出したことから、話は大きくなって来た。
初めは関西ローカルの話だったが、安倍首相を叩けるということで、東京のテレビ局、大手新聞がこれに乗ったので、あっという間に全国区の話になってしまった。
それにしても、理解できないのは辻元議員である。隣接地の払い下げに関与したと見られる上、小学校用地の産廃処理作業に、自分と親しい業者の頼んで、さくらの作業員を忍び込ませ、マスコミの取材に答えさせたという話など、自ら墓穴を掘る行動をしている。
親しい市会議員が取り上げようとしたら、「あそこは色々あるから、取り上げんといて」というのが普通だと思うのだが、頭が悪いとしか言いようがない。
先に述べたが、籠池夫人のメールから辻元議員の疑惑が浮上したが、ほとんどのマスコミは無視だし、触れても、「大した話ではない」と言い続けている。
しかし、さくらを忍び込ませられた業者の社長は、豊中市役所で首を吊って死んでいる。警察は自殺で処理したというが、自殺に見せかけて殺すということなど、ヤクザやその筋の人のとって珍しいことではない。
「いつも月夜の晩ばかりと違いまっせ。朝になって川に浮かんでいるなんてことにならないように注意しなはれ」 関西で暴力団やその筋の人達が冗談とも本音とも言えるようによく言うセリフである。筆者自身、そういわれた経験があるし、「誰々の死な、あれ、自殺や事故と違いまっせ。殺されたんですわ」と言って、具体的に固有名詞の話をされたこともある。
こんな土地柄で、関係者が死んでいる。それでも大した事ではないと言えるのだろうか。
話は違うが、以前から言われていたことだが、今回の事で、安倍首相夫人のバカさ加減が改めてクローズアップされた。
政治家、それも首相の妻たる者、身の律することを心掛けないといけないし、犯罪と関係ないことでも、人から誤解されたり、疑われたりすることは現に慎まないといけないのに、全く能天気であるし、彼女の辞書には、反省とか、教訓という言葉がないのではないか。
仕事柄、多くの政治家夫人や経営者の妻と接したが、これだけ出来が悪い人は見たことがない。いくら親が決めた相手とは言え、安倍首相が気の毒になる。
夫人の実家は森永製菓の経営者の家庭というが、どんな教育をしたのであろうか。
今更、バカは治らないから、少なくても首相の迷惑にならないように、人前に出ることは慎むべきである。そして、世の中には、話をしても分かり合えない人、最初から思惑を持って接して来る人が少なからずいるという事実を知るべきである。
20180320
池坊家を「日本で最も格式の高い家の1つ」と常識外れを書き、新興宗教の広告を掲載する日経新聞
最近、マスコミの劣化を指摘する話が多いが、その中心は自社の方針の下、嘘を平気で書いたり、事実を捻じ曲げて書く朝日新聞であったり、偏った方針の下に番組作りをするTBSやテレビ朝日、そして、ここしばらくは、おかしな放送をするNHKが対象であったりする。
だが、おかしなマスコミの中に最近、日経新聞が堂々と仲間入りして来た。
仕事の都合上、どうしても読まざるを得ないために、長年、日経新聞を読んで来た者として、感じるのは、朝日やTBSに負けないくらい、最近の日経新聞の記事、記者、編集者の劣化である。
前にも書いたが、眞子様の婚約の延期が決まった時に、日経新聞は編集委員は解説記事で、「結婚は両性の合意のみで決まるというのは憲法が保証した権利であり、第三者がどうのこうの言って、結婚を妨げるような行動をする事は、歴史上、大きな禍根を残す。あってはならない事」と言う趣旨の事を書いた。
皇族に限らず、企業経営者や政治家、高級官僚など所謂、上流階級では、結婚相手は親や親族が相手を選んで、家同士が釣り合いのとれた者同士が結婚していくというのは普通に行われている事であり、今でもごく普通に当然のように実行されている。
安倍首相が足を引っ張りまくりの昭恵夫人と結婚したのは、彼女が菓子の森永製菓の社長一族の娘で、閨閥作りだったために、親に勧められて夫婦になったからである。普通、こうした大きな会社の社長の娘ともなると、自分の行動の仕方などを親から教育されるものだが、昭恵夫人の親はそうした事をして来なかったのだろう。安倍さんは貧乏くじを引いたとしか言いようがない。
安倍さんの話はともかく、普通の庶民の家でも、生活基盤のないフリーターを娘が連れて来て、この人と結婚すると言ったら、大半の親は猛反対をするし、それで結婚が壊れる事は少しも珍しくない。
これを憲法違反だなどとは誰も言わない。
良し悪し、法律がどうのこうのではない、社会常識、行動規範なのである。
それを憲法を持ち出して、眞子様の結婚に反対した人間に猛然と文句を言ったのが日経の編集委員で、筆者などは日経新聞、どうしてしまったのと感じる記事だったのである。
憲法が絶対で、それさえ守っていれば、世の中すべてうまく行く。戦争もなければ、他の国に攻め込まれもしない。社会生活も上手く行くという、ネットでいう処の「脳内お花畑」の発想の解説記事で、この原稿を書く編集委員も編集委員だが、それを掲載する編集者の神経も理解出来ない。
「あたし、おかあさんだから」の歌の歌詞がネットで議論を呼んでいた時に、日経新聞は詩人、社会学者という肩書の女性に、「ああした歌詞を書くような風潮は、女性を虐げたられて来た日本の歴史から生まれたものである」というような信じられない論理展開で、「だから、日本では女性が活躍できないのよ」というような話を書かせていた。
日本が歴史的に、他の欧米諸国に比べて、女性が虐げられて来たというのは全く事実に反するし、歌の歌詞ひとつで、こうした原稿を書く人の神経もわからないし、それをそのまま掲載するデスクの発想も理解できない。
そんな思いでいたら、この週末、日経新聞の日曜日のThe STYLE というカラーページ内の記事で、池坊のお花の家元で、相撲協会の評議会議長である人の娘のインタビュー記事と、それに関連する記事を載せていたが、その記事の書き出しを読んで、絶句してしまった。
そこには、「池坊家は日本で最も格式の高い家のひとつ」という表現があったのである。
この話は多分、インタビューされた池坊の家元が言ったのだと思うが、それを聞いた時に、取材記者が「エッ?」と思わないといけない。
そして、それについて、そう話した家元に質問をしないといけないし、それでも、納得できないなら、社に帰って、調べるなどして事実の裏を取らないといけない。しかし、この記者、ライターはそうしたことをせずに、聞いた事をそのまま、疑いもせずに書いている。
ここ50年位の学校現場では、教師は生徒に「ごちゃごちゃ言わずに、この通り覚えろ」と言い続け、生徒の質問を遮り、疑問を無視し、それでも、質問をする生徒を叱ったり、疎んだりする扱いをして、教育をして来たので、日本人がおかしくなったという話を先に書いた。
企業で多発する不祥事の根幹は、いわばロボットを育てた戦後の丸暗記教育にあると筆者は見る。
戦後丸暗記教育の結果、少し要領の良い生徒や所謂、出来る子は、文句を言わず、疑問も感じる事無く、教師から言われた事を真実として、疑わずに丸暗記する習慣が身についてしまった。
50年以上続けば、教えるベテラン教師もそうしたやり方で教わって大きくなった人なので、それがおかしいという発想すら持たなくなっているのである。
そして、このような教育を受けた子が早慶、東大など一流と言われる大学を出て、上場企業やマスコミに就職するものだから、「真実は何か」とか、「この事の本質は何か」という、いちから考えるという習慣が出来ていない人が大企業に溢れる事になる。
マスコミでは、「物事には裏がある」とか、「誰かが何か強く主張している時には、何か思惑があるはずだ」という、記者として基本中の基本である、物事を疑ってかかって、調べてみるという基本的な習慣が、記者の身についていないのである。
そうした人が取材して原稿を書くから、事実や本質と全く違う方向の話になって違うし、大手企業に入ったり、官僚になったりすると、怒られる事、失敗する事を極度に恐れるので、表面だけを取り繕うために、データの改ざんなどをするようになるのである。
それがいくつも大手企業でデータ改ざんがなされる不祥事が多発している理由だし、官僚のデータ改ざんもその延長線上にあるのである。
官僚のデータ改ざんは今回の財務省だけの事ではなく、ここ十年、20年を例にとっても、何件もあった。かつては、身内の恥は分かっても、内々に済ませたし、組織の恥は外に出さないという習慣があったので、一般国民が知らない内に終焉していたという事も少なくなかった。
また、わかっても、良いか悪いかは別として、それ程大騒ぎをせずに、済んでいた。
民主党政権時代、大臣が長妻氏の時、厚生労働省は年金問題で2数百か所のデータを書き換え、改ざんした。今回の財務省の十数か所の数十倍である。だが、この時、書き換えをした担当者は減給処分になったが、大臣も次官も局長も一切責任をとっていない。
それが自民党だと、大臣が辞めろ、首相は辞めろとなるのである。
役所の公文書のデータの改ざん、書き換えは犯罪行為である。しかし、法律には具体的な罰則の記述もなく、戦後丸暗記教育を受けた者にとって、どうという事はないという発想なのだ。
戦後教育の話は別項で書いたので、これ以上、言及しないで、日経の池坊家の家の格式問題に話を戻すと、原稿では、「池坊家は小野妹子の子孫であり、日本で最も格式の高い家のひとつ」という話の流れになっている。
小野妹子は遣隋使として、聖徳太子が書いた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」という書面を持参し、烈火のごとく怒った隋の煬帝とやりあい、当時の日本の面目を保ったと歴史で習った人である。
この小野妹子は元々、今の滋賀県の豪族の出で、当時の12ある身分階級の内、5番目の位と中位の人だったが、この遣隋使での活躍が評価されて、妹子は後に12階級の最上位の位を与えられている。
しかし、これは家として、格が上がったのではなく、一代限りの扱いだったようで、小野妹子の子孫はそんな上位の位に位置されておらず、数代後の人達は、官位で言うと、四位、五位の位の扱いであることが歴史書、小野家の家系図などに記されている。
官位は時代とともに少し変化をしているが、四位、五位は決して高い身分ではない。
公卿と言われる人は基本的に三位以上の人達であり、四位、五位だと、特別にお呼びがかからないと、基本的に宮廷に参内できないし、しない身分であり、特別な任務が与えられたりしない限り、天皇に会って、話をする機会もない人達である。
今の時代、勲章で勲三等以上もらう者は皇居に呼ばれ、天皇自らの手で勲章を与えられる。それ以下の人は官僚など天皇以外の人から与えられるようになっていて、言わば、格が違うのである。
小野妹子がどれだけ活躍したかどうかは別として、四位、五位の平均となった小野家を「日本で最も格格式が高い家のひとつ」とは人は言わない。
お茶の千家はお茶の組織では最上位で、お花の池坊家と同じように歴史のあり、普通の日本人なら名前を知っている家である。そして、一族から皇族に嫁ぐ人が出て、皇族と姻戚関係を持つようになったが、千家を「日本で最も格式が高い家のひとつ」とは言わない。
同様に、現在の皇后、美智子妃は日清製粉の社長の娘だったが、皇后を出したからと言って、正田家を日本で最も格式が高い家とは言わない。正田家は舘林の庄屋の家柄であり、地元では名門だが、日本全体として、名家という部類には到底入らない。
同様に、絵画や能などの世界で頂点に位置する家柄の人は、その世界の人からは尊敬されるが、これをもって、「日本で最も格式が高い家のひとつ」などとは言わない。
五摂家という言葉がある。関白摂政を務めた代表的な日本の名家の5つの家を表している。
藤原家、近衛家、九条家、鷹司家、一条家、二条家である。旧公卿の流れで言えば、「日本で最も格式が高い家」と言ったら、普通、この五家を差すのではないか。
また、江戸から明治になり、旧大名は家族に処せられた。
爵位は公公伯子男という階級があり、大きな大名の家の当主は公爵、侯爵などの爵位を与えれた。
後の大大名でも豊臣秀吉の時代には、大した家柄でない人間が武功を立てて大名になった。こうした人達も、江戸時代に2百年にわたってお殿様であり続け、次第に日本の名門の家の仲間入りをするようになった。
従って、例えば、加賀百万石、前田家の子孫の家を格式の高い家とか、徳川家の末裔を名家と言うなら、多くの日本人が納得するだろう。
しかし、お花の池坊が「日本で最も格式が高い家の一つ」と言うと、何言ってんだと感じるのが、普通の感覚であり、少なくても、記者なら、それくらいの知識を持って、格式が高いと言われた時に、疑問をぶつける態度くらい示して欲しいものである。
この週末の日経新聞は、池坊の話以外にも、それこそ突っ込みどころ満載の紙面だった。
その1つは、日曜日の紙面に深見東州の本の広告が全6段で出ていた事である。
深見東州は知る人ぞ知る、新興宗教、ワールドメイトの教祖である。
彼はみすず学苑という塾を経営し、それをベースにいくつも会社の経営者となった。その一方で、新興宗教の教祖となり、教祖様として活動している。多くのイベントを開催し、信者を増やしている。
新興宗教は立正佼成会などを中心に、その業界団体を作っている。深見東州は記者のインタビューに答えているが、彼の宗教はその業界団体に入れて欲しいと言っても、断れ続けているという事である。宗教の世界でそういう扱いなのである。
新聞社やテレビ局は広告が減って来て、それまでタブーだった業界や企業の広告を載せ出し、その都度、その事に光が当たって、テレビなどで取り上げられて来た。
例えば、戦後、電力業界が原子力発電所を建設し出した時、それを促進した読売新聞には電力業界の広告が載った。これに対して、原発に反対した朝日新聞や毎日新聞には電力業界の広告は載らなかった。だが、金の魅力に負けた朝日新聞、毎日新聞は途中で反対の姿勢を止めて、広告を載せるようになった。
この広告と、それに引き換えの反対の記事を書かないという取引で、朝日新聞や毎日新聞など大手新聞から、原発反対の声は一気になくなり、日本の各地に原発が建って行くのである。
今、こうした歴史的な事実からして、朝日新聞や毎日新聞には原発反対を言う資格はないと筆者は考える。最初から推進していた読売新聞はともかく、最初は猛烈に反対しておきながら、途中で金の魅力に負けて、賛成に回った新聞社に偉そうに反対を叫ぶ資格はないのである。
広告について議論を呼んだ業界には、この他で、消費者金融業界がある。これも当初は新聞もテレビも問題ありとして広告を載せなかったし、テレビも放送しなかった。
それが金の魅力に負けて、途中で広告を載せるようになって行ったのである。サラ金問題では、新聞社、テレビ局はサラ金叩きに終始したが、サラ金を世の中に広めた一番の中心的な存在は、大手新聞、テレビであると言っても過言ではないのだ。
そして、今、マスコミや評論家は何故か口を閉ざして言わないが、筆者的には原発、サラ金と変わらない大きな問題として浮上しているのが宗教についての広告である。
創価学会は少し以前から、テレビCMをかなり活発に始め、新聞広告も載るようになって来た。
ただ、好き嫌いは別として、創価学会は信者数千万人と言われる大組織であり、多くの国会議員も出している。だから、国民にそれだけの支持があると言われたら、ある種の説得力はある。
しかし、新興宗教は別問題である。
かつて、テレビ朝日の「朝までテレビ」にオウム真理教の教祖、麻原彰晃が登場し、他の出演者と議論をして論破した。
日本人の多くは宗教の事を知らない。戦後、タブーとして教えて来なかったからである。だから、普段偉そうに話をしている評論家、学者が麻原のようなエセ宗教家と議論すると、簡単に負けるのである。
そのテレビを見て、オウム真理教に入ったという若者は少なくない。「朝までテレビ」および、それを仕切っていた田原総一郎が日本にオウム真理教の被害を広めたと言っても、言い過ぎではないのだ。
そうした意味で、新興宗教の広告は極めて危険であり、取り扱いに注意が必要である。それが、あっさりと日経新聞に全6段で登場したのである。
本の出版広告の形をとっているが、本人の顔写真を大きく掲載しており、実際は新興宗教の教祖の広告そのものである。
創価学会も幸福の科学も教祖の本の紹介という形で、新聞社は大分以前から広告を掲載しているが、それらは4、5段の4分の1、5分の1という大きさの広告で、しかも、字だけの地味な広告だった。
それば、今回の深見東州の本は全6段で、しかも、本人の写真を大きく載せ、誇大な略歴まで掲載している。こうした広告はこれまで余り見た事はなく、新興宗教の広告としては、ある段階を越えた大きなエポックメーキングのものであるように筆者には感じられる。
もっとも、調べてみると、朝日新聞など他の大手新聞も数年前から、深見東州の広告を載せている。
ひどいのが文藝春秋社で、この会社は数年前に、深見東州の事を厳しく批判する記事を週刊文春で書いた。それが、それからしばらくして、深見東州の広告が週刊文春に掲載されたのだ。
雑誌の編集長をした経験がある筆者の体験からすると、起きたであろう事は、叩いて欲しくない深見側が金を出す事で叩きを止めさせるような話を持ち出し、文藝春秋社は広告の金を受け取る事で、攻撃を止めたのである。
今、正義の士のような態度で多くの人や企業を批判する週刊文春も、金には弱く、深見東州の金の力に負けたのである。
他のマスコミの話はともかく、経済新聞社という特殊性で、他の新聞社と比べて広告にそう困らないであろう日経新聞に、大々的に新興宗教の教祖の広告が載ると、時代は変わったのだと感じてしまう。
日経新聞をとっていない人や、とっていても、気が付かなかった人のために深見東州の広告について少し説明すると、まず、日経新聞は先週土曜日の紙面で、一面全てを使った深見東州が経営する塾、みすず学苑の広告を載せた。これは塾だからという言い訳が出来るので、まだ良しとしよう。
しかし、日曜日に今度は大きな顔写真付きで、深見東州の本を紹介する全6段の広告を載せたのだ。そして、何よりも問題なのは、深見東州の紹介の文字である。「著名なカリスマ経営者として知られる深見東州は25歳で大学受験予備校を創業した。更に37歳で海外の家具屋、ホテルなどを買収し、国際的なビジネスマンになった。
信仰に基づくチャレンジを続け
、全てを成功させている…。著作は290冊を超え、カンボジア政府顧問(上級大臣級)、カンボジア大学総長、公益財団理事…など多くの公職を務める」
日本電産やユニクロ、京セラなどの創業経営者がカリスマ経営者と言われれば、嫌いであっても、反論は出来ないだろう。でも、深見東州をカリスマ経営者として紹介するのは、違うのではないか。少なくても、企業経営を取材するライターの間で、深見東州をカリスマ経営者と考える人はまずいないだろう。
相手が持ち込んだ原稿でも、掲載する以上、修正させないといけない表現ではないか。
東京などでは、私鉄のガラスの窓などに張り付ける形での深見東州の広告を時々、見かける。
筆者も何回か見たことがあるが、それとほとんど同じ内容だが、私鉄などの広告はもっと誇張されていて、「世界的な声楽家、オペラ歌手として、高い評価を受けている」「海外大学で博士号取得、海外の多くの有名人と交友がある」というような内容になっている。
今回の日経の広告の著者略歴はそれに比べると、少しおとなしいが、本人ついて、同じ写真を使っているので、電車で広告を見た事がある人は、その広告を思い出すような作りになっている。
新興宗教の広告を載せる事の怖さは、国民への影響である。
戦後の丸暗記教育を受けて来て、本質を理解しようとせず、言われた事をそのまま信じてしまうような人には、オウム真理教が「朝までテレビ」で一挙に信者を拡大したような危険が存在する事である。
更に、大きな問題は、彼の新興宗教の広告を掲載した事で、他の新興宗教が広告を出したいと言って来た時に、断れないという事である。
例えば、眞子様の相手の母親が信じていると言われ、教団関係者で殺人事件があった「大山ねずの命神示教会」が広告を出したいと言って来たら、どうするのであろうか。
深見東州の宗教は良くて、「大山」はダメという話は通らないだろう。
そして、それは宗教のタブーを破った事であり、底なしになるという発想が新聞社にない事を意味する。時代は変わったのだと、腹を括って広告を載せたのなら良いが、そんなことなど考えず、多分、安易に、塾のみすず学苑とセットで広告を載せたのだと想像される。
新聞やテレビは影響力が大きく、公器とよく言われる。しかし、今の新聞社、テレビ局やそこで働く人を見ると、そんな自覚など全くないように思われて仕方ない。
20180318
実は女性活用先進国、日本
今のマスコミ報道では、日本は女性が活躍できない、女性差別があるというのが常識になっていて、日経新聞などは「国会議員に占める女性の比率とか、企業の役員、管理職に占める女性比率が欧米どころか、途上国にも劣っていて、恥ずかしい」という論調で原稿を書き続けている。
そして、ひどい話では、女性が虐げられているから、女性がレイプ被害を訴えても、警察がまともに取り上げないというような事まで言う人がテレビのコメンテーターとして出て来ている。
こうした新聞記事やマスコミ常識が海外に伝わり、国連の機関などから、「日本はもっと女性を活用しろ」といような余計な勧告を受けたりしているし、外国メディアが「日本での女性の性被害」といような観点で取材をし出したりしているのである。
朝日新聞が嘘を書いて、それが世界に広まった「従軍慰安婦問題」で、日本が国連機関で非難されたりしている事のイメージもあって、こうした話になってしまっているのである。
では、日本は本当に女性が活躍できないのか。女性は虐げられているのだろうか。
日経新聞が書くように本当に女性が差別され、虐げられているなら、男性と同じ選挙権がある女性がもっと立ち上がるはずだし、そうした女性の声の後押しで、女性議員や地方自治体の首長がもっと増えるはずである。
でも、そうならないのは、日経の記事や今のマスコミの常識に、嘘があると考える方が逆に信憑性があるのではないかとさえ言える。
長年、記者をした体験や反省からすると、自分が書いた特ダネだと思った記事が、実は官僚や企業経営者の思惑に利用されていた事も少なくないし、原稿で思わぬ余波や影響が出て、それで被害に遭う会社や個人が出た事を知って、愕然とした事がある。
マスコミに従事する人間はそうした自分の言動の余波、影響を知らないといけないのだが、今のマスコミ関係者にはそうした反省、自覚はほとんどない。
数日前に発売された週刊文春などは、「安倍首相夫婦の犯罪」という過激な見出しと、合成写真で、事実でない事を、読者にあたかも事実であったように錯覚させる原稿、写真を掲載していて、明らかにマスコミの領域を超えるプロパガンダツールに成り下がってしまっている。
文春だけでなく、朝日新聞や最近の民放、TBS、テレビ朝日、そして、NHKに至るまで、今や、ネットで「マスゴミ」と言われる存在になってしまったのは、マスコミ出身者として、本当に恥ずかしい限りである。
おかしいと思える事が発生した場合に、事実で権力者を批判するのはマスコミの仕事である。
しかし、事実を捻じ曲げてはいけないし、自分の主義主張のために、自分に都合の良い部分だけ集めて、嘘の結論を原稿としたり、放送したりするのは、明らかにルール違反であり、それこそ犯罪である。
女性活用、女性差別の話に戻すと、歴史的に見ると、日本は実は欧米に比べて圧倒的な差で、女性活用先進国である。
「源氏物語」や「枕草子」のように、千年以上前に、女性が後世まで残る秀逸な小説や随筆を自分の名前で書いて、それが今も評価され、残っている国は世界に日本以外ない。昔の和歌集に女性の歌が多く収録されている。こんな時代に多くの女性の活動の記録が残されているのも日本だけの話である。
こんな古い話でなく、600百年程前の江戸時代の庶民の学校だった寺子屋では、教師の半数は女性だった。これも欧米諸国ではありえないことだった。
外国の小説や映画を観ると、「ボバリー夫人」とか「ライアンの娘」といようなタイトルが目に付く。これはどういうことかと言うと、つい百年位前までは、欧米では女性には個人として人格、自立権がほとんどなく、「〇〇の娘」とか、「〇〇の妻」という立場でしか、社会的に存在しなかったのである。
日本と統合する以前の李氏朝鮮では、一般庶民の女性の多くは名前も与えられず、しかも、結婚するのは働き手である子供産むための道具というように見られていて、妊娠する能力があるかどうかが大きな意味を持っていた。
このため、女性がその成人しかけると、父親や男の兄弟がセックスをして、妊娠できるかどうか確認し、妊娠した状態で他の男性と結婚していくという習慣があった。
結婚した夫にとっても妻は従属物で、しかも、生まれた子供は自分の種ではないので、その子は奴隷のように他の売られるか、過酷な労働を余儀なくされた。妻も夫の言うなりの生活をしたのである。
だから、この時代の庶民の女性のチマ・チョゴリという服は乳房が丸出しの服だった。妊娠、出産した事が女性として一人前であることの証明であり、自分はそれをした女性だというアピールが、この服装につながっていたのである。
当時の朝鮮では、女性だけでなく、男性も国民の7、8割を占める庶民のほとんどが字が読めなかったのである。
これに対して、それよりも前の日本の江戸時代には、日本人全体で識字率が50%以上あり、7、8割を占める一般庶民は、女性も男性もあまり差がなかった。
朝鮮だけでなく、当時の欧米も女性の多くが字の読み書きが出来なかった。それに比べて、日本は遥かに女性の人権があり、男性と対等な存在だったのである。
江戸時代の女性の話をする時、女権を声高に言う人とか、日本に批判的な日本人から、「離婚は男性が好き勝手に妻を離縁できる三下り半という制度があった。これは女性が虐げられていた証拠だ」という話が出て来る。
しかし、これも嘘である。
古文書などを調べると、江戸時代に一般庶民が離婚する時、男性が言い出すのと、女性が言い出すのは半々だった。そして、女性が言い出して離婚した時、その妻にはほとんど別の好きな男性がいて、離婚後、さっさと、その別の男性と一緒になるケースがほとんどだったのである。
つまり、三下り半は男性横暴、勝手の習慣ではなく、単に離婚成立のための書類に過ぎなかったのである。だから、離婚の半数は女性が主張して、夫である男性が渋々、三下り半を書いていたのである。
もっと、言えば、男性に別に好きな女性が出来て、妻と別れた時、離縁された妻には、夫や再婚相手の女性の家に行って、集団でその家の家財道具を破壊しまくる事が許される習慣があった。これは庶民だけでなく、武士階級にも認められていた。
友人、家族など何人もで相手の家に行き、道具や家の建具などを破壊しまくったという話がいくつも記録されている。他の男に妻を寝取られた男性には、そんな権利はなかった。日本の女性は歴史的に強かったのである。
日本は古代から女性の力が強く、労働者としても男性と伍して仕事をして来た。
力仕事などが中心の古い時代に、そうした事が不得手な女性が、男性よりも所得水準が低いのは仕方がないが、それでも、歴史的に見て、ずっと長い間、日本の女性は男性の6、7割の金を手にしていたのである。女性の一家にとって、女性は貴重な稼ぎ手だったのである。
日本には通い婚の習慣があった。源氏物語などを読むと、そうした事が書かれている。
これは、今、女権家が言うような、男性が好き勝手をしていたという事ではなく、女性は一家にとって貴重な稼ぎ手だったので、結婚して家を出られては、困ったのである。だから、結婚しても家に留まり、夫が通って来るというような事になったのである。
時代劇映画などを見ると、女性の意見は通らず、男、夫、父親が何もかも決めていたような描き方をする風景が良く出て来るが、これなど全くの嘘である。
庶民だけでなく、武士の世界でも女性、妻の力は強かったのである。
大名や大身の旗本などで、娘が自分の意思のそぐわない結婚をさせられる話も出て来るが、これは今の時代に、政治家や企業経営者の娘が、親の決めた結婚をさせられるというのと全く同じで、結婚は閨閥作りに重要な位置付けだったのである。
そして、親の決めた結婚をした時、女性は妻となり、母となった後は、家の中でかなりの力を持っていたのである。これは今の上流階級でも同じである。
夫の足を引っ張りまくりながら、バカ丸出しで好きに行動している、菓子の森永製菓の社長家の出身の安倍首相夫人、昭恵氏を見れば、閨閥結婚した女性に自由がなく、夫にかしずいているというのがいかに嘘かがわかるだろう。
日本は歴史的にみて、欧米と比べても、遥かに男女同権の国だったのである。
映画やテレビで時代劇を見て、女性は可哀想と思うのは基本的に間違いである。
時代劇には本当に嘘が多い。農民は虐げられ、町民は権力者である武士に勝手に切り殺されるシーンなどが出て来るが、歴史的な事実は全く違う。
江戸時代も中期以降になると、武士はみだりに刀を抜く事が出来なくなった。街中で武士が理由もなく刀を抜いたら、その武士は切腹、家は取り潰しとなるくらい厳しい処分を受けていたのである。
ヤクザが好き勝手をしていて、庶民が泣いていたというのも嘘。ヤクザは名主に怒鳴られたら、手も足も出せずに退散していたというのが歴史的な事実である。
だから、人口百万人で当時、世界一の大規模な都市だった江戸で、今の警視庁と裁判所を合わせもった組織である江戸町奉行所の人数が数十人で済んでいたのである。
では、どうして時代劇がそういう嘘を書き、それが今も通っているかと言えば、明治時代になって、江戸時代よりも庶民の生活が苦しくなり、不満が高まったので、明治政府は「江戸時代はこんなにひどい時代だった。それに比べれば、今は遥かに良い」というPRをしたのからである。
それに使われたのが講談、浪曲、落語、時代劇小説で、こうして「水戸黄門」「清水の次郎長」「遠山の金さん」が誕生し、その延長上に、「鬼平」などの時代劇があるのである。
話を女性の事に戻すと、男性とそれ程差がない労働力で、かなりの稼ぎがあった女性の力が落ちたのは明治維新以降、工業の近代化で、女性が得意とする家内工業的な機織りや細工物作りが機械化され、市場での地位がどんどん小さくなってしまったからである。
これは日本だけでなく、欧米でも同様である。
それでも、まだ、家庭内の女性の力は強かった。それが男性中心で女性が従の存在になって来るには、戦後の高度成長時代に、サラリーマンである夫が長時間労働、外で働き、妻はそれを専業主婦として、それを支えるというのが普通になって来てからである。
つまり、女性の力が弱くなったのは、2、3千年の歴史の中で、僅か戦後の6、70年の短い期間の事なのである。
それも、高度成長時代、バブル時代のように、夫が長時間労働をして、過労で家の事など何も出来ない時代はとっくに終わり、今の若い世代では、男性の家事分担は当然のようになって来た。
今や結婚しても、出産しても、女性が仕事を辞めないのが珍しくないようになって来るた。それが保育所不足という事に反映されているのである。戦後の夫、父親中心社会が終わり、今はかなり男女平等になって来たのである。
日経新聞が書く、議員に女性が少ない、企業経営者や管理職に女性が少ない話はどうだろうか。
これは、そうした事を望まない日本女性が多い事も大きな理由である。
政治に女性の意見をもっと入れるべきという女性の考えの下、戦後の国会議員選挙では女性が大量に当選した。でも、そのブームは短期間に終わった。
理由は簡単である。外からは良さそうに見えても、実際に入ってみると、そんなに魅力ある場所ではない事がわかってしまったのであるし、政治や企業経営の論理の世界では、感性中心で行動して来た女性にはとっては何かが違ったのである。
政治でも企業社会でも、議員になったり、管理職、経営者になるという事は、義務と責任が重くなり、長時間拘束が続き、私的な生活がどんどん削られて行く事が女性達にもわかって来た。
今から十数年前、大手電機メーカーで、これからは女性が活躍する時代だという人事部長の認識の下、女性の活躍の場を広げ、女性の管理職、チームリーダー作りを促進した事がある。
この会社はその数年前まで、女子社員が結婚したら、会社を辞めるのは当然で、「寿退社」する時は、退職金が割り増しになるという制度まであった。その会社が時代の変化に対応しようとしたのである。
で、その話はどうなったかと言えば、その経緯をつぶさに見聞きしたので、知っているが、この運動は短期間で終わった。理由は女性社員から大きなブーイングが起きたのである。「自分達は出世して、責任が重くなり、勤務時間も長くなる事など望んでいない。大手企業に社員として勤務して定時に帰り、一定の給料をもらいながら、仕事と家事、育児を両立する事を望んでいる。余計な事はしないで欲しい」 そういう声が女性社員から人事部、経営者に強く寄せられたのだ。
人材派遣会社大手のテンプスタッフの女性創業者は、高校を卒業した後、男中心企業の典型である、ある日本を代表する企業に務めていて、もっと仕事がしたいと思って、退職して、豪州に行った。そして、そこで人材派遣の仕事がある事をし知って、帰国して会社を興した。
彼女は自分の体験から、会社の幹部、経営層はすべて女性にしようと考え、女性を登用していった。しかし、会社の規模が一定以上になった時、それを止めて、幹部は男性に切り替えた。
理由を聞くと、彼女、篠原さんはこう言った。「女性にとって、家庭と仕事のどちらかを優先させろ、選べと言ったら、家庭を選ぶのです。幹部の部長級の人でもそうなのです。それでは、会社は経営していけないので、仕事を優先する男性に幹部を切り替えたのです」
(忙しい家事・育児と仕事に時間差をつける雇用差別禁止法)
こういうと、また、女権家から、「家庭の事にも十分に時間が取れるように、会社も配慮すべきなのよ」という声が聞こえてきそうだが、会社経営はそんなに甘くはない。
そもそも、人には1日には24時間しかない。
家事もしっかりして、仕事もしっかりしようとしたら、睡眠時間を削るしかない。そんな事をしたら、短期間なら別だが、何十年もと考えたら、体が持つはずがない。
保育所や学校、その他、助けてくれる機関はあっても、最後は自分がやらないといけないのだ。子供は病気もするし、不良になったり、イジメを受けるなど問題も起こす。これをケアし、仕事もきちんとして行く事は、一部のスーパーウーマンには出来ても、ほとんどの女性には無理な要求である。
育児での子供が待ったなしで、相手都合であるように、仕事でのビジネスも相手主体であり、お得意から、時間を指定されて納入しないといけなくなったり、会合時間が決まったりするのは、少しも珍しくない事である。自分都合で管理などできないのである。
だから、仕事はしたいが、責任は持ちたくない。残業をしないで帰れる範囲で仕事をしたいという女性が多いのである。
勿論、仕事も家庭も両立するために、行政や政治、そして、夫が支援出来る事は少なくない。
政治、行政で言えば、筆者が以前、書いたように、アメリカのように「雇用差別を禁止する法律」を作り、中年女性が子育てが一段落した後、能力さえあれば、大企業に再雇用、新規採用される制度を作る事は是非しないといけない。
家事と仕事がともに忙しい時期に、その両方をさせるのではなく、家事、育児が戦争状態の時期は家事、育児に専念させ、それが一段落した後、中年になって、再度、仕事を出来る環境を作ってあげることは政策的に、子作りの促進にもつながり、やるべき事だと考える。
でも、日本の厚労省はそれを推し進めない。
理由は簡単で、育児に忙しい時期、仕事で手を抜いたり、閑職で仕事が出来る公務員は、それが出来ない民間の事情をいくら説明しても、理解できないからだ。
女性に限らず、男性も含めて、労働のあり方を変え、長時間労働やサービス残業をなくしていく土壌作りも政治、行政が出来る分野である。でも、厚労省はそうした時代に合わせた労働のあり方の変化に取り組む事には極めて消極的だし、野党もより良い社会を作っていくための改善案を提案するという姿勢でなく、労働組合の利害のまま、改革そのものを潰しにかかる姿勢である。
こうした議員を選び、どうしようもない官僚を放置しておいて、ルール作りなど夢のまた夢で、国を変えようとするなら、どうしたら良いかを考えないといけない。
女性自身に出来る事は、家事を分担してくれる男性を伴侶に選ぶ事、そして、男性の両親がそうした事に理解のある舅、姑になるかどうかきちんと見極める事である。
そうした事を疎かにして相手を選んでおぃて、旦那が協力してくれないと言って、文句を言っている女性が多いように筆者には感じられる。
女性活用の話をそれを盛んに推進しようとする、日経新聞の女性記者や厚生労働省の役人などと話をしていて感じる事は、ダイバーシティー、多様化の時代と自ら言いながら、自分の価値観に多くの日本人が合わせて当然と思っている人が多いと言うことである。
人間は男性でも女性でも、出世やリーダーになる事を望む人もいれば、そうした事を望まない人もいる。仕事に重要な価値を見出す人もいれば、男性でも仕事は程々にして、趣味や自分のやりたい事に重点を置きたいという人もいる。
筆者と同年齢だが、歌手の小椋佳は東大を出て、大手銀行に勤めながら、歌手としても活躍をした。電通に勤め、部長職まで行きながら、有名小説家になった人もいる。彼は小説が売れた後も、会社を辞めずに、小説と仕事を両立した。
彼らは仕事はそれなりにして、一定に成果を挙げながら、仕事第一ではない生活を送ったのである。
両人とも、音楽や小説という仕事以外に費やす時間を仕事に振り向けていれば、役員、社長になったかもしれない。でも、そんなことよりも音楽や小説の方が大切だったのである。
女性が企業で管理職や役員になったり、議員になったりしているのを見て、こんな風に自分はなりたくないと思う人も少なくない。
女性らしさ、女の部分は消え、良くない男の典型そのもののような言動の人が多いのである。そうした人を見ると、少しものを見る力がある女性は失望し、自分はこんな人にはなりたくないと思うのである。
仕事、政治などは論理の世界である。論理よりも感情が先に立つ女性が多いのも事実で、こうした女性には自分は苦手と感じる人も少なくない。
仕事で、感性が大切な部分もある。1スタッフとして、そうした部分で女性が活躍できる分野はある。
だが、出世をして、部長、役員となったり、議員になっていけば、感性だけではやっていけない。論理が苦手では務まらないし、駆け引きや交渉も、時には張ったりも重要である。こうした事が得意な女性もいるが、苦手でうりたくないと思っている女性も多くいる。
ダイバーシティーの時代とは、様々な価値観、人と違う意見、文化、習慣を認め、その差の集まりである企業や国、地方などの集団が単一価値、文化にない、より良い次元の高い社会と作って行くという事である。
そのためには、自分と違う価値観、仕事観、生活感を持っている人が多く存在するという基本の基本を認識しないといけない。全員が会社で出世を望んでいる訳ではないし、管理職などなりたくないと思っている人もたくさんいるのを是非、忘れないで欲しい。
20180316
「アルバイトを除いて、従業員は全員正社員に」の運動を何故しないのか
昨日、午前中の様子を見て、森友問題で外人の日本売りが始まったと書いた。
為替も株価も午前は円高、株価は下げたが、午後に持ち直し、1日としては結局、現状維持で終わった。ネットなどでの「安倍首相に問題ない」という情報も少しは役に立ったのかもしれない。
しかし、為替も株も日本売り含みであり、少なくても、細かい事情を知らない外国人は、マスコミの情報や野党の国会などでも質問などで、不安含みである日本に警戒を始めていて、株では外人は大きく売り越し始めている。
マスコミが異常だという話は昨日も書いたし、今日は正社員問題を書きたいので、簡単に留めるが、今日の日経新聞の朝刊のスポーツ欄を見て、信じられない記事が目に入った。
パラリンピックの記事で、6段を使って、かなり長い記事で「韓国、カナダに完敗」というアイスホッケーの結果を報じている。
冬季五輪での日本チームと韓国チームの試合を放送していて、NHKの男性のアナウンサーが「日本が勝ちました」ではなく、「韓国負けました。韓国負けました」と、韓国が主語で、韓国の敗戦を沈痛な顔で伝えていた事は先に書いたが、今日の日経では、日本の関係ない韓国チームの敗戦を6段記事で書いているのだ。
日本と関係ない国の話でも、優勝候補の国やチームの話を取り上げたり、新しく出て来たスターの事をかいたりする事はある。
五輪で優勝した頃の韓国のキムヨナの話を大きく取り上げても誰もおかしいとは感じない。
しかし、それ程強いチームではなく、特に話題性があるでもない外国である韓国の話を、これだけの長さで書く記者、それを掲載する編集者は何を考えているのかと、理解不能で首を捻ってしまった。
こうした記事に接すると、NHKに在日の社員が千人いるとか、フジテレビの社員は大半が在日とかいうネット上の噂話が妙に信ぴょう性を帯びて来て、日経にも多くの在日の社員がいて、その人のために、韓国が主語の話を書くようになったのかと勘ぐってしまう。
また、朝の民放のワイドショーで、フジテレビは女子レスリングのパワハラ問題で、昨日、栄監督が所属する志學館大学の学長が記者会見した模様を紹介していたが、細かい上げ足を取って、学長の発言をずっと批判し続けていた。
前にも書いたが、係争になっている問題は双方に言い分がある。片方だけが悪く、もう一方は少しも悪くないという事はまずない。それを一方的に片方の肩を持つ報道姿勢は違うと感じる。
テレビ局はいつから裁判官になったのかと言いたい。
放送法では、放送では「公平、公正でないといけない」と定められている。今のテレビはどこの局も違反しっぱなしだが、今日のフジテレビはあまりにもひどい内容だった。
マスコミの話はもう止めて、本題に入ると、本日の新聞で、宅急便のヤマト運輸が「契約社員の運転手3千人を正社員にする」という事が紹介されていた。
採用環境の改善で、きつい労働、辛い労働に人が集まらなくなって来ていて、運用業界や建設業界は大変だという事は言われてきたが、ヤマト運輸はその対策も含めて、契約社員3千人を正社員にして、人材を確保するという事にしたのである。
筆者は、そもそも同じ労働をしていて、正規、非正規の身分の違いを認める事はおかしいと常々思っている。それこそ憲法や労働法には「同一労働、同一賃金」の考えがあるはずである。
これを放置しておくことはおかしいし、それこそ、働き方改革の真っ先に取り組まないといけないテーマである。安倍政権の働き方改革でも、野党は「裁量労働」を批判するなど、批判、非難だけしているが、それこそ野党が中心になって、「正規、非正規の差別をなくせ」という事を主張して、安倍政権の働き方改革に追加させるような事をすべきなのだが、こうした建設的な事を日本の野党はしようとしない。
そも、何故、正規と非正規があるか。理由は簡単である。正社員の首は簡単に切れないが、非正規社員は簡単に辞めてもらう事ができるからである。
中小企業やブラックな企業は別として、一定以上の規模の会社では、正社員を解雇するのは至難の技である。一方で、時期的に好不況があり、不況期に多くの社員を抱えたままでは、会社は倒産してしまう。そこで、不況期の従業員縮小策として、いつでも解雇できる非正規社員やアルバイトを抱え、好況の忙しい時に備えるという事になるのである。
これがアメリカなどでは、不況で仕事がなくなると、正社員を解雇するの事は簡単にできる。だから、好不況の波のために、非正規の従業員を抱えないといけないという事はしなくて済む。
こうして、好不況の時のためのバッファーとして、出来て来た非正規、正規の区別だが、その内に、非正規社員が総人件費として安上がりなために、会社によっては、正規社員を一度辞めてもらい、非正規として雇い直すというような事がいくつも企業で出て来て、格差社会を作る一つの原因になって来た。
この正規、非正規の区別をなくすという事について、野党は正面から取り組もうとしない。「人にやさしい社会の実現」とか、「弱者のために戦う」などと、野党はきれい事は言うが、実際は全く正面から取り組む姿勢が見られない。
理由は簡単だ。この問題に取り組もうとすると、直ぐに、不況の時、経営が悪くなった時に、会社が正社員を解雇する事が出来るように法改正をするという話が出て来る。そして、それは野党の最大の支援団体である労働組合、連合の利益に反するからである。
連合は恰好良い事は言うが、実際は正規労働者の代表であり、非正規社員の待遇改善、格差是正など本気で取り組む姿勢ではないのだ。
では、正社員の解雇は今のように、会社が倒産でもしないと出来ないというように、世界の主要国で一番という位厳しく会社を縛っておいて、非正規社員を全員正規にしろと言ったら、会社は成り立たなくなってしまう。
筆者は20数年、小さな会社を経営したが、従業員数人の超零細企業でも、社員に問題があった時でも、経営難の時でも、従業員を解雇しようとしたら、本当に大変だったという事を何回も経験した。
物事はいいとこどりなど出来ないのだ。何かをしようとしたら、マイナスな事も出て来る。物事には何でもプラス面とマイナス面の両面がある。
裁量労働の話でも同じだ。日本企業が世界と戦うには、裁量労働の導入は避けて通れない。しかし、それをすると、長時間労働、サービス残業や過労死などが出て来る可能性がある。
しかし、だからと言って、裁量労働はダメというような、日本の野党のやり方では、日本企業は外国企業に負けろと言っているようなものだ。
両者の間を取った解決策はある。少しも難しくない。
裁量労働について言えば、欧米の常識のように、大卒の所謂ホワイトカラーは原則、裁量労働にし、工場労働や現場作業などの所謂ブルーカラーや、一般職は上司の指示管理の下の時間管理とする。
そもそも裁量労働という言葉が悪い。ホワイトカラーは「労働の自主管理」「自主管理労働」という名称にするのだ。そして、ホワイトでもブルーでも、過労死やサービス残業、長時間労働については、厳しい罰則をつけて、厳密に取り締まるのである。
過労死や過労労働にともなう自殺者などが出た時、その直属の上司である部課長は、原則、その職を解き、会社ではなく、第三者の手による詳しい調査の対象とし、管理・指導に問題があれば、その内容に応じて、その上司は解雇や降格、減俸処分とするのだ。
そして、そうした事を起こした会社には大きな罰金を課すとともに、政府や地方自治体などの公共関係の仕事から、3年間は締め出すのである。
一定以上の規模の会社は多かれ少なかれ、国や地方自治体、公共機関の仕事をしている。その仕事から外されるというのは、会社にとって大きな損失であるだけでなく、こういう理由で外しましたと公表するようにしたら、良い学生は就職しなくなり、企業にとってダメージは大きい。
アメリカでは、企業が問題を起こした時に、大統領令で、こうした企業の公的な仕事からの排除が出来るようになっている。日本も外国のこうした良い点を真似たら良いのだ。
社員の有給休暇については、全社員平均、部局単位平均、部課平均、個人とそれぞれに、常時、きちんと記帳することを義務付け、どの区分でも、取得率が7割を下回った場合は、その責任者、部課なら部課長、全社なら社長を処分対象とし、実情に合わせて、職を解くことは当然とし、内容によっては、解雇や降格、減俸などの処分対象にするのである。
社員に有給休暇を取らせないと、部課長は出世できない。長時間労働が露呈されたら、減給、場合によっては降格、解雇となれば、管理職も必死に取り組むようになる。
本来、労働基準監督署と言う役所は、そうした事をするために作られたものなのだが、日本の労基はその機能を果たしていない。また、地区によっては、労基は左翼系の人達のたまり場というような所もあると言われている。だから、こうした役所に大きな権限を与える事に企業も大いに抵抗をするだろう。
でも、現状がそうなら、大改革をして、使いやすい組織、働く人にとって良い組織にするというような対策を取れば良いのである。
筆者がいう、「官僚独裁国家」ではなく、多くの一般国民が納得できる規則、組織作りにして、官僚が好き勝手をするのではなく、企業だけでなく、官僚組織についても、常に監視の目を光らせ、問題があれば、労基の人でも、厚労省の人でも処分されるようにすれば良いのである。
サービス労働、長時間残業なども同様な考えで、厳しく取り締まるのである。
官僚の横暴、独断には、「行政裁判所」のようなものを作り、国民や企業が官僚の行為で損失や迷惑を被った時には、簡単に訴訟できるようにし、事実関係の究明で官僚やその組織を罰するようにすれば、官僚の独断専行は大分収まって来るはずである。
絶大な権力を持つ官僚を抑え、真の意味の主権在民にするには、この「行政裁判所」のような組織、システムは不可欠である。
労働問題だけでなく、政府の方針に対して、こうした対案、改善案を考え、政府の方針を良い方向に変えて行くのが、本来の野党のあり方だと思うが、日本の野党は政府の案の細かな問題点をあげつらうだけで、建設的な改善、改革を原案に盛り込んでいくという事で、国民の役に立つ作業を全くと言って良い程しない。
それでは、無能野党と言われるだけで、いつまでたっても、政権など取れない。
正規、非正規の話に戻ると、学生アルバイト、及び、短期の臨時派遣を除いて、従業員は全員正社員とするのである。勿論、一般職、総合職などのように、仕事の仕方や役割によって、複数の給料体系を作るのは良しとする。
現在、いくつも企業で取り入れられているが、全国転勤をする社員と、しない社員で給料体系が違うという事などは問題なしとするのだ。
そして、仕事のパフォーマンス、成果に応じて、それぞれの給料体系の中で、給料を支払い、昇給、昇格をさせるのである。
アメリカでは雇用差別を禁止する法律がある。学歴、社歴、年齢、性別、職歴、人種、宗教、病歴などで差をつけたり、雇用に差別をしてはいけないというのである。あくまで、雇用も解雇も、昇給、昇進、降格、降給も仕事の結果でするのである。
日本でも、この考え方を基本にするのである。こうすれば、高卒で結婚、出産をし、35位になってから、大学、修士の勉強をして、40歳になって専門家として仕事を再開するというような女性もどんどん出て来る。
こうした事を考えずに、日経新聞が書くように、単に女性を出世させろ、女性を活用しろというような事を言うから、仕事をしたい女性はいつまでも結婚、出産が出来なくなり、結果として、多くの人が高年齢出産となり、障害児の誕生比率が上がって来て、家族が大変な思いをするのである。
一度、会社を辞めても、能力に応じて、再雇用してもらえる。新規に一流企業に就職できるとなれば、仕事が一段落した時点で女性は結婚、出産に踏み切り、育児をして、子供の手が離れた後、仕事に復帰する事になる。こうなると、保育所も今のような数がいらなくなる。
結婚、出産も増え、子供の数も増えて来るし、何よりも、女性が仕事をしながら育児という二重の重みに耐える必要もなくなるのだ。
「保育所を作れ」ではなく、「雇用差別をなくして、能力があれば、中年になっても雇え」と主張する方が余程健全なのである。
不況時や会社の経営悪化での解雇はこれを認めるようにする。
但し、会社が乱用しないように、きちんとルールを作り、このルールに違反した会社は上記の様な罰則を適用するのである。
解雇のルールとは、アメリカでは経営悪化にともなうリストラの場合、雇用期間の短い社員から解雇するというようになっている。また、経営が立ち直って来た時には、新規に雇用する前に、解雇した前従業員を採用する事を優先するというようになっている。
そして、会社都合で解雇された人間については、今の日本でも職業訓練が無料、もしくは安価にしてもらえるが、この制度を充実させるとともに、他社への雇用や仕事がない間の給料保証の制度をきちんとするのである。
社員の行状に問題があって解雇する時は、口頭で注意し、それでも直らない時は、文書で警告し、それが3回になったら、解雇できるようになっている。
ただ、解雇された時、仕事もしないで、失業保険をもらっている人を増やしてはいけない。だから、仕事を失った人には、職業訓練をして、短期間内に仕事を再開する事を最優先させるのである。
欧米では職業紹介所が紹介した仕事を何回も断ると、失業手当がもらえなくなる国もある。まず、手当ありきではなく、まず、仕事ありきにするのだ。そして、元いた会社が雇用を再開した時には、新しい仕事を辞めて、元の仕事に返る権利を個人に持たせるのだ。
裁量労働の話でも、雇用の話でも、運用と罰則をしっかりする事が何よりも重要だが、日本で今のままで、官僚が好き勝手な運用をしだして、気が付いたら、役人に都合の良い話になってしまいかねない。
規則作りはこれまでのように、学識経験者の意見を取り入れて適正なものを作ったという審議会方式は止める事が第一である。
筆者もある審議会の委員になった事があるし、多くの審議会の事を取材をした事があるが、最終案は役人が既に作っていて、審議会の委員は議論をしたというアリバイ証明として使われているだけである。
実は審議会方式というのが、官僚独裁で、官僚が自分たちに都合の良いものを作っていく、官僚の隠れ蓑なのである。だから、こうした審議会方式は全面的に止めて、それこそ、国会で公開の場で審議するのである。
日本では参議院と衆議院というダブった2つの院があって、差が良くわからず、無駄になっている。
そこで、例えば、参議院はこうした公的なルール作りや罰則作りなどの審議の場所にするのである。国会は各省庁に合わせて、衆参とも委員会が設置されているが、この参院の委員会で各省庁のこうしたルール作りを議論するのである。
意見を言いたい人は誰でも文書、口頭で意見を言う事ができるようにし、密室ではなく、広い議論をするのである。重要な案件なら、国会の委員会での議論だけでなく、国民、市民集会での公開討論をする事にして、それに広く国民を参加してもらうのである。
アメリカでは、例えば、臓器移植のルールを作る時、大学の専門家が原案を作り、それを下に、公開の議論の場、テレビの番組などで、様々な専門家が議論に参加し、1、2年の時間をかけて、最終的な案を作り上げた。世界基準となった「ハーバート基準」はこうして誕生したのである。
これに対して、日本では厚生省の審議会で密室の議論をして、基準を作った。その結果、臓器移植賛成派、反対派の両派から反発される案が最終案となってしまった。
ルール作りの国会の委員会の議論は、これまでのように、常時、首相や大臣を常時出席させるという、馬鹿げた制度を改め、国民に選ばれた議員中心で、それに各省庁の専門家や、その分野の利害関係者、識者が議論に加わる事とする。
野党が質問して、政府与党が答えるという質疑中心、揚げ足取り、そして、スタンドプレーの場ではなく、建設的に制度やルールを作っていくものにするのである。運用で問題があった時も、この委員会で調査し、議論をするのである。
あくまでも、野党が質問し、与党、政府が答えるというのではなく、与野党関係なく議論し、建設的に案を作って行くのである。
アメリカの上院は問題があると、公聴会を開いて、関係者を呼んで、質問して調査をする。
この時は、与党も野党もない。呼ばれた関係者を証人席に座ってもらい、与野党の議員が次々に質問をしていくのである。何党が何分というような、日本の国会のような非現実的なルールもない。だから、同じ質問をダブって質問するという愚かな事も行われない。
アメリカの上院はこうした仕事をするので、法律の専門家、経理の専門家など何かしらの専門家が多くいる。そうした人が中心にいないと、こうした仕事は出来ないからだ。そして、人口が日本の2倍以上いるアメリカで上院の定数は百人と、日本の参議院よりも遥かに少ない。
ちなみに、アメリカの上院の定員百人は、50の各州から2人づつである。
日本で議員の選挙での1票の票の格差という裁判が、弁護士達からいくつも起こされているが、アメリカは州によって、人口はかなり違う。それでも、上院は各州から2人づつなのである。ここに日本のように不毛な違憲論争はない。
アメリカ下院は人口比例に基づいて議員数を決めているため、少ない州は1人、多い州は50人以上というようになるなどしているが、上院は全く違う考えで作られているのである。
上院と下院の区別がついているのである。でも、日本ではこれがないので、参院は無駄と言われてしまうのである。
参院が無駄と言われず、税金の無駄使いと言われないためにも、参議院に衆議院と異なる従業な役割を当たえるのは意味のある事だと考えるが、どうだろうか。
でも、現状では、この改革はできない。
なぜなら、憲法に参院と衆院の役割の違いを明記していないので、そこに手をつけようとすると、必ずと言ってよいように、弁護士、学者達が憲法違反の訴訟を起こして来るからである。
GHQの占領下で、やっつけで作られた占領憲法を、70年近く一字一句変えずに持っているから、どんな改革をしようとしても、必ず憲法という壁に突き当たる事になるのである。
選挙の1票の格差で訴訟されると、裁判所は平等を強く謳っている現在の憲法の下では、格差は違憲と言わざるを得ない。でも、正確に平等などという事は不可能であるのは誰でもわかる事である。
1対2は違憲だが、1対1.5は合憲と誰が言い切れるのだろうか。1.5は違憲として、それでは1.2は合憲か違憲かというような議論をしていったら、永遠に解決などできない。
ゴミ屋敷を撤去しようとすると、個人の財産権の侵害という訴訟を起こされ、これも裁判に負けてしまう。面倒な事をして、裁判に負けたらバカバカしいので、役人は何もしないのである。
憲法改正は何も憲法9条だけの問題ではない。参議院に衆議院と違う機能を持ってもらうのにも、ゴミ屋敷を迅速に処理するのにも、生活保護を適正に管理・運営するにも、何か改革に手を付けようとすると、必ず、憲法問題が出て来る。だから、憲法改正が必要なのである。
安倍首相の間違いは憲法改正を9条から入ろうとしている事である。
参議院の改革とか、ゴミ屋敷問題の処理など、多くの国民がそれは良いねと思う改革の案が出て来ても、憲法という壁の前に前進できない。
それなら、9条は横に置いておいて、国民のほとんどの人が納得する点から憲法を改正していくようにすれば、護憲だ改憲だという議論は全く違うものになると思う。
そして、憲法を一度に大改革しようとするから、大変なのだ。
衆議院や参議院の選挙の度に、1つづつ、必要な憲法改正のための国民投票をしていくのである。1票の格差や生存権にともなう生活保護問題など、何か議論する時に、憲法問題になっているような問題は何でも、今の議論に決着をつけるために、憲法改正をコツコツとしていくのである。
全体の条文を直すのではなく、アメリカのように、修正第何条という形で加憲をしていくのである。そして、修正条項と原文が異なる時には、修正条項を優先すると明記すれば、良いのだけである。また、他の法律と改正憲法が異なる時には改正憲法条項が優先すると、憲法に明記するのである。
こうすれば、法律改正が面倒だから、憲法をいじりたくないという話もなくなって来る。
そして、修正条項が十、20と溜まって来た段階で、全体がかなりいびつになって来ると思われるので、その段階で全体の文面を改訂すれば良いのである。
憲法改正の話はまた、別の機会に詳しく書きたいと思う。
20180315
外人の強烈な日本売りが始まった…官僚、マスコミ、野党連合の安倍打倒運動で
3月15日の午前中、東京外国為替市場は一時、円が対ドルで50銭あまりの円高となり、株価も値を下げた。
アベノミクスを好感して、外国人の日本株買いが進んでいたが、最近の森友問題の官僚、オールマスコミ、そして、野党連合での安倍政権打倒運動で、日本の政界に混乱が起きるだろうという事に嫌気をさした外国人が、これまでの利益を確定し、今後の株価の値下がりに備えるために、日本売りに入りだしたと言える。
アメリカのトランプ政権の不安定さや打ち出す施策に対する疑問から、ここしばらくは、「世界の不安定時期の円買い」で円高基調が続いているが、欧米の主要国の中では、最も安定している政権と見られて来た日本の安倍政権が不安定になり、首相が代わるかも知れないという不安感は、外人の日本売りを誘っている。
現に、海外の投資家から日本人の金融専門家に安倍政権に対する質問が殺到しているというし、統計的にも外人の日本株売りが顕著になって来ている。
一般の人にとっては、為替が円高になろうが、株価が下がろうが関係ないと思っている人が多いだろうが、円高は自動車、電機など日本の主要企業にとっては大きなダメージで、業績の下方修正は余儀なくされるし、日本売りは様々な所でマイナスの影響が出て来る。
去年以来の森友問題は一旦、収まるかに見えたが、先週、朝日新聞が報じた財務省文書の書類改ざん問題で再度火が付き、日経新聞、NHKを含むオールマスコミが「安倍政権揺らぐ」「安倍政権、厳しい政権運営」などと報じる事で、内閣支持率も低下し、安定だった安倍政権の足元がぐらつき始めて来た。
財務省の内部事情に詳しい複数の人間の話では、今回の書類改ざん問題と朝日新聞の報道は、財務省の傍流である理財局や、近畿財務局という地方組織から出た問題ではなく、財務省の中心である主計局や官房の幹部などの思惑から出て来た話のようだということで、その情報通や筆者の見方では、財務省が総力を挙げて安倍政権打倒に動き出したとも言え、政権と官僚の全面戦争の様相を呈して来た。
虚偽の報道やその報道姿勢が疑われて、主要な読者である年配者からも、購読の中止をする人が相次いで、発行部数の減少が止まらず、経営的に追い込まれている朝日新聞と財務省と思惑が一致して、共闘を組んだという図式とも言える。
前にも書いたが日本はずっと官僚独裁国家だった。
表面は政治家が政治をしているように見えて、実際は官僚が統治の絵を描き、それを政治家に遂行するように求めて来た。
吉田茂、岸信介、佐藤栄作、池田勇人、福田武夫など、戦後、多くの中央官庁の幹部から政治家になった人が首相になっていた時期は、この官僚と政治家の連携はスムースに行き、日本の復興に大いに力となった。
この図式は戦後の復興期や、日本がまだ貧しかった時期には有効だった。
国民全体で豊かになろうというコンセンサスがあり、細かな所では意見の衝突はあっても、大筋では政治家と官僚の利害が一致していたからである。
そして、官僚出身者ではない人が総理大臣になった後も、橋本龍太郎、竹下登というような政治家に対しては、官僚は彼らをうまく取り込んで自分の味方につけ、自分達の考えを実行させたし、政治家の方も官僚から出て来るアイデアに乗っていれば、政権運営が安定するので、官僚の神輿に乗る事をよしとしてきた。
しかし、日本が戦後、奇跡の復興をし、世界第二位の経済大国になった頃から、政治家と官僚の利害に食い違いが出て来て、実行する政策にも齟齬が出て来た。
竹下も橋本も当時の大蔵省の意向のまま消費税を導入したり、引き上げをすることで、経済運営はおかしくなり、他の要因もあって、力はありながら、短命で政権の座から降りざるを得なくなった。
特に、ここ20数年は、官僚主導でやる事なす事が上手く行かず、日本はバブルの頃には世界のGDPで13%程のシェアを持つに至ったのが、その後の長びく不況、マイナス成長で、世界におけるシェアは最盛時の3分の1近くになった。
自ら、ゼロから考え出す能力はなく、海外の事例を参考にし、法律の専門知識で政治家や国民を統治して来たエリート官僚たちは、経験した事がない事態にはどう対応して良いかわからず、やることなす事うまく行かなくなり、日本は不況から脱出できない状態で、20数年を過ごして来たのである。
その結果、高度成長、バブル時代に多くの日本人が感じていた幸福感が、今は感じられなくなり、特に好況時を知らない若者からは不満が強く出るようになった。それは政治への厳しい批判となって、自民党が政権の座から降り、民主党政権誕生につながったのである。
しかし、民主党に政権を任せてみたら、評論家として批判する事には長けていても、実際の政権運営にはあまりにもお粗末な集団である事が露呈し、そこに、東北の大震災や原発事故が発生し、それでなくても無能な民主党政権はなすすべがなく、国民に大きな負の遺産を残したまま、短期間で政権の座を失ったのである。
民主党は今は3つの政党に分かれているが、そのお粗末さは民主党政権時代以上のものがある。
この政党の国会議員の最大の問題は、失敗、間違いを反省し、そこから学ぶという事をしていない事である。学習能力がない人、反省する発想がない人、対案を出す能力がない人に、何割かの国民が票を入れている事に、筆者は理解が出来ないが。
国民は積極支持ではないが、他に選択肢がないという事で、再度、自民党に政権を委ねた。
しかし、政権に復帰した自民党はしばらくは安定感に欠き、海外からは「日本は大丈夫か」という不安の声が聞こえ、国際的に交渉する上でも、守勢に回らざるを得なかった。
それが、第二次安倍政権で自民党政権は安定し、日銀との協調でのアベノミクスは海外からも好感され、世界から高い評価を受けた。日本は世界の主要国の中でも、最も安定した政権とみらえるようになり、対外交渉もスムースに行くようになり、企業経営も経済も順調になって来たのである。
ところが、第二次安倍政権で安倍首相は、それまで実質的に日本を支配して来た官僚の考えがおかしいと思う点が多いと感じて、官僚主導の政権運営ではなく、政治家による政権運営に切り替えた。
中でも、官庁の中の最高勢力である財務省に対する安倍首相の不信感は強い。
それは、実施を渋る安倍首相に対して、「影響は3カ月で収まり、大した事はない」という財務省の説得で行った消費税の引き上げで、折角、軌道に乗り出した経済や消費がガタガタになった事で、安倍首相は「財務省は信用できない」という思いになり、主要官庁から官邸に秘書官や補佐官として出向している官僚の中での財務省の人間の陰は一番薄くなってしまった。
それでも、財務省は冷遇に耐えた。それは来年に迫って来た消費税の再引き上げを何としても実行したいという思いがあり、安倍首相の協力は不可欠だと考えたからである。
だが、財務省の目からすると、最近の言動からして、安倍首相は消費税の再引き上げを行わないのではないかというように映りだして来たのである。
最近の日銀人事でも、財務省が最も嫌うタイプである、早稲田大学の若田部教授を副総裁に任命するなどした事に対しても、財務省の安倍首相に対する不信感は強くなって来たのである。
そこに森友学園の書類の改ざん問題が出て来たのだ。
森友学園への土地の払い下げ問題は、前にも書いたが、タダでももらいたくないと言われる、いわくつきの土地を売ろうとした近畿財務局の担当者がまずお粗末で、その交渉過程で、詐欺師的な言動の籠池前理事長から、安倍首相や昭恵夫人や自民党の政治家の名前が出て来た事で、近畿財務局の職員は籠池氏に便宜を図っただけという事案であり、首相や自民党の政治家が交渉に直接関与した事実はない。
籠池氏の依頼で近畿財務局に自民党の政治家の秘書が問い合わせをしているが、これは陳情、請願に対応する憲法に保証されたごく普通の行為であり、野党議員も誰でも国会議員は毎日のようにやっている。
しかも、近畿財務局はその自民党政治家の秘書からの問い合わせに、「ノー」という返事をしたという事が書き換えをする前の文書に記されている。
森友学園も加計問題もかつてのリクルート疑惑や戦後の混乱期の造船疑獄のような贈収賄事件とは全く異なる、法律的に犯罪になど初めからならない案件なのである。
しかし、自分の地元に右翼教育をする学校や幼稚園があるのを嫌った野党の辻元清美議員の部下ともいえる革新系の市会議員が、土地払い下げで問題ありと騒ぎ出し、それを野党が取り上げ、それを朝日新聞やテレビ局が取り上げた事で、あたかも大疑獄事件のような報道になったのである。
かつての時代だったら、このオールマスコミの疑惑もどきの事案で、間違いなく安倍政権は倒れていたと思われる。
しかし、今はネットの時代である。いくらオールマスコミが大疑獄事件のように報道しても、ネットで専門家や地元の関係者が詳しい事情を書き込んだり、発言して事実がわかるにつれて、マスコミや野党の方がおかしいという認識が進み、先の衆議院議員選挙でも自民党は圧勝したのである。
それにしても、最近のマスコミは異常としか言いようがない。
朝日新聞や毎日新聞、そして、TBS、テレビ朝日というテレビ局は以前から反自民、反政府、反日だったので、その報道の仕方はまだ筆者にも理解できる。
しかし、筆者が現役の頃は良い新聞で、独自の良い原稿を多く掲載していた東京新聞が大きく左傾してしまった。共産党の幹部から「赤旗よりも左」と冗談で言われる紙面作くりをするようになったのである。官房長官の記者会見に毎回発言し、質問ではなく、自分の左翼的な発想を披歴する記者が何ら処分を受けずに、在籍しているなど異常としか言いようがない。
更に、かつては保守系と目されていたNHKや、週刊誌の文春や新潮が、何故かは知らないが、最近は、反自民、反政府、反日の姿勢を強めている。今日発売の週刊文春と週刊新潮の見出しを新聞広告で見ると、赤旗の見出しと言われてもうなづきたくなる文字が躍っている。
NHKは先の平昌五輪で、日本と韓国の試合で、日本が勝った時を報道する時、アナウンサーは「韓国敗れました」と連呼した。日本を主語にしないで、韓国を主語にして報道したのである。
聖教新聞は日韓問題を書く時、日本人なら当然、「日韓問題」と書くところを、「韓日」と書いていて、完全に韓国の立場に立っている。この宗教団体は信者に在日や部落出身者が多く、そうした人を信者に加える事で勢力を拡大したという経緯があるし、宗教団体の新聞なので、まだ無視しても良いが、日本の公共電波であるNHKが韓国の立場に立って放送するなど前代未聞である。
この件だけでなく、ここ数年のNHKの左傾化、反日、反政府、反自民の姿勢は理解に苦しむ。これで公共放送と言えるのだろうか。事実は知らないが、NHKの職員の内、千人が在日だというネットの書き込みもある。それなら、アナウンサーの韓国が主語の放送も理解できるが。
週刊文春、週刊新潮の左傾化は理解できなくもない。
以前は新聞の報道で裏事情がわからなかった事が、2つの週刊誌の解説で、「ああ、そういう経緯だったのか」と納得できる事が多々あったが、今は、ネットがその役割をしてくれている。
しかも、週刊誌は週1回の発売で、事情を知るには少し待たないといけなかったが、ネットでは直ぐに納得できる解説が見つかるのだ。
だから、以前は毎週、文春と新潮を買っていた人がこれらの週刊誌を買わなくなり、発行部数も落ちて来ている。筆者も以前は毎週両誌を買っていたが、もう数年前から買わなくなった。読み手がある記事が本当に少なくなった。見出しで気になる記事があれば、本屋で数分立ち読みをすれば良いだけである。
そして、最近はその立ち読みすらなくなって来た。
週刊誌は商売である以上、買わせる見出しにしないといけない。それが反自民、反政府になって行ったのではないだろうか。経営層の左傾化も言われている。
だが、今のマスコミはオール左翼的、反自民であり、国民全体で2、3割位しかいない左の人達という少ないパイを取り合う戦術が良いとは、筆者にはとても思えないのだが。
筆者は前にも書いたが、安倍首相は好きではない。
彼の進めて来た政策で違うと思う事はいくらもある。しかし、では、他に誰がいるのかという選択で考えると、少なくても、例え、60点、70点でも、それよりも高い点数を取れる人がいない以上、当面、彼に政権を委ねるしかないのではないかと考える。
財務省の安倍政権打倒運動は、それに思い切り舵を切った朝日新聞とともに大きな賭けである。戦う以上、財務省はあらゆる手段を使って、安倍政権の批判を様々な形で出し、色々な人、学者、ジャーナリスト、評論家、企業経営者、政治家など多くの応援団を駆使して戦いを挑むだろう。
逮捕権を持つ税務署を抱える組織の強さは見た以上に手ごわい。安倍首相や政府要人、自民党の国会議員に傷つく人は結構出て来るだろう。
だが、この戦いに負けたら、朝日新聞は廃刊に追い込まれるだろうし、財務省解体も現実味を帯びて来る。財務省解体は官僚独裁国家の終焉を意味する大きな出来事になるだろうし、そこから、日本はやっと主権在民、「国民が第一」の道を歩きだすことになるだろう。
かつて、記者として今の財務省、当時の大蔵省を担当して、何百人という大蔵官僚と付き合った筆者からすると、尊敬できる優秀な人を多く知っているし、かなわないと思った人にも何人か出会った。その筆者からすると、今の財務省官僚のレベルの異常なまでの低下が信じられない思いである。
ネットで、自民党や維新の若手議員が森友問題で、財務省官僚とやりとりをした人の話が載っているが、彼らは財務省官僚の対応のお粗末さ、レベルの低さを痛感したと書いたり、発言したりしている。
今回の改ざん問題でも、役所が公式に作った記録で、安倍首相の文字が間違っているし、維新の会の議員の苗字は全く違う人の名前になっていたりしている。また、経緯を説明する文章のまとめ方のお粗末さは、このレベルでよく財務省の役人が務まるなという低レベルである。
興味がある方はネットで財務省の文書の全文が公開されているので、読んでみたら良いと思う。
お粗末な文書を書く方も書く方だが、公式に役所の書類にするものをチェックして、誤りを正すことすらしていないのお粗末さである。
日本の役所は、かつては日本の事を第一に考え、私利私欲は二の次だったと言われて来た。だが、今の中央官庁にあるのは、私利私欲、省益が最優先で、そこには天下国家という発想など、微塵もない。それを露呈したのがノーパンしゃぶしゃぶ事件だった。
あの時は、大蔵官僚の余りのレベルの低下に多くの人が驚いたが、今回の森友問題では、ノーパンしゃぶしゃぶ事件の比ではないひどさである。
今の世界で、もし安倍政権が倒れる事になったら、日本にとってどれだけのマイナスか判らない程、大きな影響が出るだろう。
それでなくても、戦後、政治的に二流国であることを余儀なくされて来た日本がやっと、アメリカやロシア、中国などと対等に近い形で交渉できるようになったのには、安倍首相の存在が大きい。
嘘で固めた情報、誇張した表現で実態と違う事を言うマスコミや、私欲で政権打倒に動く人達の言葉に国民が同意した時、日本国民は後で大きな後悔の念を抱く事になるだろう。
今回の森友文書改ざん問題は、それくらい重い、これからの日本を左右する大きな問題になって来たのである。
20180314
官僚独裁国家、日本での官僚のおごり、怠慢、あせり
官僚独裁国家というと、ほとんどの人が「嘘」という反応をすると思うが、筆者の50年以上のジャーナリスト歴および、20数年の及ぶ会社経営歴から言うと、日本は官僚独裁国家と言って、言い過ぎではないと思う。
そして、かつての官僚は独裁で大きな権限を持ち、国民を抑えて来たが、かつては、それなりの見識や国を思う気持があったが、今の官僚はそれもなくして、私利私欲に走り好き勝手をしだした。
専門家の間では、かつて、エリート官僚は天下国家を考えていたのが、バブルの破裂の頃から、私益、省益中心の発想に変わったと言われる。戦後の復興期が過ぎ、企業も大きくなり、人材も育って、役所に手助けをしてもらう必要がなくなって来たとともに、官僚はする事がなくなり、自分の利益、保身、省益だけを考えるようになったというのだ。
森友学園の財務省の文書改ざんの話などは官僚の思い上がり、好き勝手のし放題が如実に出た案件で、今後、詳細が明らかになるにつれて、官僚のお粗末さぶりが明らかになって来ると思われる。
筆者と同じように、日本は官僚独裁国家だという感想を持っている人は沢山いる。
クロネコヤマトという宅急便を日本に普及させたヤマト運輸の創業者の小倉康臣氏は、その官僚独裁国家と戦い続け、その壁を打ち破って、宅急便を日本に広めた人で、その自伝に官僚がいかに横暴で、上から目線で企業者に対応し、様々な嫌がらせを官僚からされたかを書いている。
また、大手旅行代理店の創業者の澤田秀雄氏は、創業経営者としてはまだ若いが、小倉氏のような古い時代ではなく、今の日本についても、官僚独裁国家だと言い切る。
澤田氏は広く世界を見ようと考えて、高校時代にアルバイトで金を貯めて、ドイツの大学に進んだ。そして、大学在学中に欧州など数十か国を訪ねて、日本と比較して感じた事は、「日本がいかに官僚独裁国家であるか」という事である。
普通の生活をして官僚と接する機会があまりない人や、官僚と交渉や仕事を一緒にした事がない人などは、そうした思いを抱かずに済むだろうが、接する機会があると、痛切に感じるのだ。
江戸時代から明治時代になった時に、それまで武士だと言って威張っていた人たちが官僚になった。
士農工商で、自分たちは一番上の階級だと思っていた人たちが官僚になったので、農工商の一般国民を自分達よりも下の身分の人達という意識で、国民に上から目線で接し、国民も官僚に陳情、お願いベースで接したので、上下関係が顕著になったという歴史的な経緯はある。
上級武士出身者は地位の高い者程、自分を律しないといけないという事を厳しく言われて育ったので、威張り散らすというような態度ではなかったが、明治維新の中心になった下級武士たちは、権威も力もなく貧しかった人がいきなり、地位と権力を手にしたので、好き勝手をやったのである。
明治維新の中心になった薩摩と長州では、薩摩はその中心にいた西郷も大久保も、私利私欲に走る人ではなかったので、金や権力にはこだわる事はなく、政府の最高実力者だった大久保利通は、暗殺された時、預貯金がほとんどなく、気の毒に思った明治天皇が家族に御下賜金を下されたという記録まである。
一方の長州出身者はというと、井上馨や伊藤博文などは金と権力に執着し、今でいう贈収賄はやり放題、好き勝手をして、巨額の財産を手にしたと言われているし、人の妻にも手を出し、愛人にしたりしている。
それでも明治時代は、江戸時代に教育を受けた武士が中心で官僚を形作ったので、見識も常識もある人が多く、まだ良かった。
それが、明治から大正、昭和に進む内に、次代のエリート官僚を育てるために東大、京大などを作ったが、この旧帝大出身者は知識は身に着けたものの、見識、教養、身の律し方などが疎かになり、弁は立ち、知識は多いが、本当の意味でのリーダーとしての資質に欠く人が多く、日本をみじめな敗戦に導いたのである。
明治のリーダーたちは、例えば、日露戦争が避けられないと知ると、世界の大国、イギリスにアプローチをして、日英同盟を結んで味方につけたし、戦う相手のロシアの足元を脅かすように、共産革命をしたレーニンなどの指導者達に支援を行うなどの工作をしている。知恵があったのである。
これに対して、明治以降旧帝大で教育を受けたエリート官僚は、俯瞰的に世界を見る見識もなく、情報戦を戦う発想もなく、国際連盟を脱退し孤立して、敗戦に日本を導くのである。知識はあるが、知恵が全くないのである。そして、それは現代の日本の官僚にも全く当てはまる事なのである。
日本のエリート官僚はその多くは東大法学部出身者である。これが最大の問題なのだ。
法学部出身者は細かな法律規則をずっと大学で学んで来た人達である。法律の文言の意味、この条文はこうした意味を持っているというような事をずっと勉強して来ている。つまり、法律については誰よりも知識がある。
これに対して、ほとんどの国民は一部の専門家を除くと、法律についての知識は極めて乏しい。
だから、国民が困っている事を陳情に行っても、官僚は「法律でこうなっていますので」と言って、簡単に退ける事が出来る。国民の要望を断る言い訳に法律を使うのである。
こうした事がゴミ屋敷や猫屋敷などがそこここに出て来たり、全国の家の3分の1が空き家となった原因である。
国民が困る事が出て来て、それまでの法律で取り締まる事が出来ないなら、新しい法律を作って、対応すれば良いものだが、官僚はそれはしない。
官僚は自分たちの利益になる事には直ぐに対応するが、自分たちに一文の得もならない事は、それが国民にとって大きな問題であっても、対応しようとしないのだ。
法律を変える事は、本来は政治家の仕事だが、日本では法律の実際の作成は官僚がしている。
1つの法律を変えるとなると、その他のいくつも法律に影響が出て、変えないといけなくなる事も少なくない。官僚にとって、これが面倒なのだ。だから、自分に利益がない事だと、動かないのだ。
加えて、法律を変えるとすると、新しい事を覚え直さないといけない。それもまた、結構な労力なのだ。そんな面倒な事は出来るだけしたくない。だから、法律を変えようとしないのである。
大学で法学を学ぶと、時代の変化によって人達の生活が変わったら、法律も変えるという事になっていて、欧米の多くの国では、憲法も一般の法律もいくらでも変えるが、日本では事情が変わろうと、国民が困ろうが、憲法も法律も変えないのである。
法律の専門家であるエリート官僚が法改正の動きをしないからである。
国を治めるのには当然、法律は必要で、官僚には法律に詳しい人は不可欠である。でも、全員が法律の専門家である必要はない。今の時代でも、組織にITの専門家は一握りいれば良いのと同じで、官僚には法律の専門家は、ごく一握りの数だけいれば済む話なのである。
リーダーには俯瞰的にものを見る力が必要だし、長期的な視点で物事を考え、立案する発想も必要だ。広く、世界の歴史についての教養、過去の戦争の経緯、戦略、戦術などへの知識も必要である。また、現状を革命的に変えるゼロからの発想力も必要である。
でも、法律の細かな条文を覚える事を習って勉強して来た法学部出身者には、こうした資質がない人が少なくない。日本で改善は出来るが、改革は出来ないと言われるのは官僚も企業も法学部出身者が中心にいるからだという人もいるくらいである。
法学部出身者は重箱の隅を突くのは得意だが、ビジョンを作ったり、グランドデザインを作るのは不得手である。でも、東大出のエリート官僚は万能だと宣伝されて来たので、不得意なこういう事もする事になり、それが20年続く不況を生み出す事につながったのである。
官僚は新しい法律を作ると、事細かに規則を作って行って、国民の生活、仕事を厳しく縛るのである。
例えば、政治家は友人、知人にも年賀状1つ出す事がでない。法律で禁止されているからである。年賀状を出す事が選挙活動にあたるという理由からである。普通の国民は、年賀状をもらったからと言って、恩を感じて、その人に投票しようとしたりしない。でも、官僚はそれでも国民や政治家の手足を縛るである。
選挙民に1つ百円くらいの団扇を配ったとして、大臣の椅子を棒に振った政治家がいたが、これも選挙民に対する買収だとして禁止されているからである。
でも、普通の国民の常識では、祭りや集会で、百円の団扇1つもらったからと、それを恩に感じて、その政治家に投票をするなどという人はまずはいない。でも、官僚はそうした法律を作って、政治家も国民をも縛っているのである。
法律だけではない。官僚は法律の他、各省庁ごとに政省令というのを作っている。法律の実施要領のようなものである。それだけでなく、局長通達などというような通達を地方自治体などに出す。こうした政省令も通達も国会の審議は要らず、官僚が勝手に作れるのである。
ご存じの方がどれ位いるかは知らないが、健康保険や労働保険の保険料率は官僚が勝手に決められる。そして、官僚は都合で勝手に数字を変えて来るのだ。筆者が会社を経営していた20数年の間、社会保険料は毎年のように上がっていった。
そして、それは役所から送られて来る1通の書類で有無も言わせずに、その時から支払わないといけなくなるのだ。
成立の時に、1人当たりの負担は2千円程度と言われた介護保険は、今や平均で8千円位にまでと何倍にもなっている。「小さく生んで、大きく育てる」 これは役人と本音で話をすると、出て来る言葉である。一度、法律を作れば、政省令、通達で彼らが勝手に大きくして運用し、役人の好き勝手の暴走が始まるのである。
学校の校舎を作る時には、文部科学省の規則で、天井の高さ、窓の大きさ、どちら向きにいくつ作るまで決まっている。地方のよって事情が違うというような配慮、発想は官僚にはない。有無を言わさず、官僚の言う事を守らないといけないのだ。
彼らの発想は全国一律である。いくつも細かく分けると、それを覚えるのは面倒なので、1つのルールで押し通す。だから、地域の特殊事情など認めないのだ。
古い寺院などがある京都は景観が大切だが、京都だけに特別の法律を作る事もしないし、県が独自の条例を作る事にも賛成しないので、地元がどれだけ反対しても、景観を台無しにする高い建物が建ってしまうのである。
また、官僚は質で考えると面倒なので、全べて数字、量で考える。
働き方改革で裁量労働が問題になっているが、これは量の発想から質の考え方に変える事なのだが、厚生労働省の役人は基本的に量で管理し、質での管理は苦手なので、裁量労働には消極的である。もっと言えば反対なのだ。だから、官邸の指示に無言の抵抗として、でたらめなデーターを出したのである。
死刑の基準というのがある。永山基準と言われるもので、死刑は2人以上殺した人間が対象となるとなっている。ここにも量の発想で質の発想はない。1人殺しただけでも、残忍な殺し方をすれば、死刑があってしかるべきだが、東大法学部的な発想では、質は一切考えないのだ。
こうした東大法学部出身者が日本を支配しているから、日本は世界の成長に後れを取りだしているとも言える。
貧しい人に生活保護の金が出ているが、これは憲法で国民は健康で豊かな生活をする権利があると書かれているからだ。この時の国民は「日本人」という意味である。
しかし、厚生省は地方自治体に「在日外国人にも生活保護の金を出すように」という局長通達を出したので、外国人も金をもらっている。詳しく調べた人の話では、在日韓国、朝鮮人は60万人余りがいるが、この内、40数万人が仕事をせずに、生活保護で生活しているという。この人の計算ではその金は年間兆円単位に上るという。
本来、政治家が国会で議論し、決めないといけない事を官僚が勝手に決めて、通達を出して、地方自治体に実行させているのである。
官僚がなぜ、これだけ好き勝手をしているか。出来るかと言えば、身分が保証されているからである。公務員は余程の事がない限り、解雇されない。一生身分が保証されている。更に、日本では大臣にすら人事権はなく、官庁の人事権は官僚のトップである事務次官が持っているのである。
日本の一番の悲劇は、この、身分を保証され、選挙でえらばれた政治家の言う事を聞かない官僚が国をコントロールしている事である。東大を出て官僚になったというだけで、当然のように好き勝手をしているのである。
今回の森友学園をめぐる文書改ざん問題は、国会で答弁した佐川国税庁長官の発言と事実が違うので、発言に事実を合わせようとして起きた事であるようである。朝日新聞やそれに追随するその他の大手マスコミが言ったり、野党が言っているように、安倍首相が指示したものなのではない。
今、ほとんどの大手マスコミに財務省の今回の文書改ざんのデーが行き渡ったが、これは財務省のあまり余りのひどさ、好き勝手さに怒った官邸が文書を入手して、マスコミに自ら流したためであると言われる。
佐川国税庁長官は都内に豪邸を持っているが、この土地は所有者が差し押さえられたものを佐川氏が不当に安く入手し、そこに家を建てたと言われている。こんな事は調べれば、直ぐにわかることで、こんなバカげた事を少し前までの財務省、大蔵省官僚はしなかった。
それをするところに、今の官僚の傲慢さ、不遜さ、そして、質の低下が表れている。
財務省官僚が自分たちの都合で公の文書を勝手に改ざんすることなど今回が初めての事ではない。
財務省、かつての大蔵省は、少し前、ノーパンしゃぶしゃぶ事件を起こし、エリート官僚が何人も辞任に追い込まれた。それをきっかけに、銀行局、証券局が切り離され、金融庁が出来た。でも、財務省官僚は全く懲りていなかった。
会社でも役所でも、組織なら何でもそうだが、その組織を管理し、支配するなら、人事権と予算を握る事である。
アメリカでは大統領が変わると、中央官庁の役人は、日本で言えば、主要課長以上は新大統領が任命していく。だから、政府に対しては官僚は従うし、嫌なら官僚を辞めれば良いだけである。
アメリカでは政権交代がしばしばあるので、一般の官僚はともかく、一定以上のポストの官僚は大学の教職と、シンクタンクの仕事と役所の間を行き来している。一定の専門性を身に着けているのだから、生活費は得る事ができるのだ。
官僚独裁国家を是正し、主権を国民の手に取り戻すためには、アメリカのように、大臣に人事権を与える事がまずは改革の一歩だと思う。そして、財務省という役所を解体する事である。
社会保険庁の社会保険料徴収部隊と、国税庁を一体化させて歳入庁にする。こうすれば、税金や社会保険料の徴収が一体化され、取り残しも大幅に減って来るし、人員も大幅に減る。
そして、予算作成のための予算庁を作り、国家資産管理は管理庁などでも作って、管理すれば良い。
国有財産の払い下げは、新聞社やNHKなど大手マスコミも不当に安く入手している。国民の財産である国有地を払い下げる時は、国民の代表者からなる審査会などできちんと審査してから決済するようにしないといけない。
消費税の再値上げは当然、凍結である。
税金が上がるからとして、控えられている消費は少しは上向く。家計と国家管理は全く発想が違うのだが、東大法学部出身者の財務省官僚には、それが理解できていないので、政府から指示された枠の中で、予算をどう作成していくという事務作業だけを予算庁にしてもらう。
そして、会計を単年主義から複数年主義に変えれば、予算の圧縮につながるし、国の財政をどうするかについては、財務省官僚ではなく、国会で議論しを決めることにしないといけない。
今回の森友学園のデータ改ざん問題は結果として、財務省の解体につながるとすれば、野党のバカのような、そして、無意味な追及で国会、そして、経費を大きく浪費した事も無意味ではなくなって来る。
20180313
異常なオールマスコミの反安倍報道
森友問題で財務省の文書が書き換えられていた問題で、全ての新聞、テレビが大問題で、安倍首相は政権運営が厳しくなり、安倍3選にも暗雲が垂れ込めて来たと報道している。
こうした報道を見て、筆者は非常に違和感を覚える。
文書を書き換えたのは近畿財務局の現場の官僚であり、それを指示したのは近畿財務局の上司で、更に、その上司に書き換えを求めたのは当時、財務省本省の理財局長だった佐川国税庁長官だったのであり、安倍首相が指示したのではない。
しかも、森友学園の籠池前理事長と近畿財務局の担当者とのやりとりの中で、籠池氏が安倍首相や夫人、そして、自民党の政治家4人の名前を出し、「自分はこうした大物を知っているので」と自分を大きく見せるために言った話のメモから、安部首相や政治家の名前を削除したというものである。
籠池氏がいかに詐欺師的な体質の人間であるかは、国会の証言やマスコミへの発言でわかっている。詐欺師は自分をおおきく見せるために、有名人、大物の名前を挙げる。しかし、名前を挙げられた人間に非はない。単に名前を言われたに過ぎない。
名前を挙げられた鴻池議員などは、2百万円を持ってきて、よろしくと言って来たので、金を突っ返したとマスコミに取材に応えている。それで批判されたら、たまったものではない。
批判されるべきは安倍首相や名前が挙がった政治家ではなく、削除や文書の書き換えを指示した財務省の幹部であるはずであり、財務省や官僚たちであり、首相や政治家ではないはずである。
ところが、全てのマスコミがあたかも安倍首相が削除や書き換えを指示したかのように、国民が受け取れる報道の仕方であり、そして、政権運営が厳しくなったと責任を追及する姿勢で報道している。
かつて長く、大手マスコミで記者をして来た者として、このオールマスコミの報道の仕方は話にならないというレベルで、本当の異常であると言える。
森友問題でもし、安倍首相の責任が問われるとするなら、彼がリベートなどを受け取り、便宜を図った時、明らかに犯罪行為があった時だけである。そうした事実はないという事は過去1年以上に及ぶ国会審議で既に明らかになっているのに、何故、これだけ大騒ぎをするのであろうか。
前にも書いたが、森友の土地払い下げ問題の本質は、元々沼を埋め立てた場所に、戦後の混乱期などに、在日や部落というような人達がバラックを建てて住み着いて問題となったので、行政が別の土地を手当てするなどして、立ち退かせたといういわくつきの土地であるという事である。
しかも、周辺にはバラックにいた在日や部落出身者などが多く住んでいる上、土地の真上は飛行機が伊丹空港に離発着の度に、騒音を立てながら行き来する所であり、建物に高さ制限があり、利用価値がほとんどない場所である。
だから、タダでももらいたくないと地元の不動産業者が言うような場所であるため、運輸省、今の国土交通省が買い上げて、空き地にしていた場所であり、直ぐ近くの同じ経緯の場所は地元、豊中市が事実上タダで、いや、補助金を入れれば、金をもらって市が払い下げを受けて、公園にした場所である。
だから、本来は公園にしたり、緑地にして放置しておくべき所だったのである。
それを収入を少しでも確保して、点数を稼ごうと考えた近畿財務局の人間が、わざわざ国土交通省から土地を取り上げ、それを森友学園に売ろうとしたのである。
タダでも貰いたくない土地と地元の不動産業者が言う場所をどう売るか。タダで売ったら、国土交通省から取り上げた意味はないし、安く売ったら、周辺の地価が下がってしまう。これでは不動産売買による税収が下がるし、周辺の問題ありの人達から「地価を安くした」と、猛反発を食らいかねない。
そこで、土地の値段を異常に高くつけた上で、産業廃棄物などが埋まっているので、その除去作業に多額の金が必要という変な話をつけて、大幅値引きをしたというのが事の真相である。
払い下げの当事者で、文書の書き換えを命じられた近畿財務局の担当者は自殺をした。
自殺をしたという事で、不正を命じられて、それに反発したり、悩んだりしての自殺という話にマスコミはしているが、自殺した人には申し訳ないが、元々の問題の出発点は、いわくつきの土地を自分の点数稼ぎで売ろうとした当事者にあるである。それを自殺者の遺族が、自殺をした人間を悲劇の主人公のように言い、また、それをマスコミがその通り報道している事も異常である。
森友が払い下げを受けた場所の近くの同じ性質の土地で豊中市に払い下げされ、公園になった場所の売却でも、森友と全く同じ手法が使われている。
しかも、その土地の払い下げをしたのは、民主党政権時代で、当時、国土交通省の副大臣か政務官をしていたのが、今は野党になっている辻元清美議員で、彼女の口利きで地元の市に、タダで払らい下げられたのである。
直接、払い下げに関与した辻元議員については、マスコミはほとんど報道せず、単に名前を挙げられただけの安倍首相や自民党の政治家が問題視されている。しかも、追及する野党の先頭に、その辻元議員がいるのである。そうした図式を明らかにせず、安倍政権の政権が揺らぐと報道するマスコミとは一体なになのかと思ってしまう。
今のマスコミの記者やレポーターの劣化については、本当に目を覆うものがある。
冬季オリンピックで活躍して帰国したフィギャースケートの羽生選手にインタビューしたフジテレビのアナウンサーは真っ先の質問で、「韓国料理で何がおいしかったですか」を聞いた。五輪レベルで優勝を争う選手は、食事に厳しい制限があり、食を楽しんでなどいられない。
だから、羽生選手は質問を拒絶するように、「答えません」と言ったのである。こんな質問をする人間を取材に行かせるテレビ局もテレビ局だが、取材のイロハが全くわかっていない。
記者の劣化は、ネットでは頻繁に言及されている東京新聞の女性記者にも見れる。
官房長官の記者会見に出席して、毎回、質問ではなく、極左の自己主張をしていているだけでなく、左翼団体の会合に出席して、「安倍政権を打倒しましょう」などと発言しているような記者を現場に配置している新聞社があるのだ。
記者の劣化はスポーツでも、経済でも、政治でも凄い。
トンチンカンな質問をする記者が本当に増えたし、肝心の読者、視聴者が聞きたい事を聞かない。羽生選手についての質問で、誰もが聞きたい話は、「足は大丈夫ですか、足の回復具合はどうですか」という事なのに、誰もそうした質問をしない。
少し前、IPS細胞問題で理研の女性研究員が大きく取り上げられ、どうもそれがねつ造だと言われだした時の記者会見で、当事者の女性研究員が「自分は何百回と細胞を作った」と述べた時、筆者が現場にいれば、ただ一つだけの事を聞いた。それで、この女性が真実を言っているかどうかは直ぐにわかる質問である。
それは「それでけ作成に成功したというなら、今日、当然、その様子をメモした実験記録、日記を持って来ていますよね。当然、写真も撮っていますよね。それを見せてください。手元にないなら、それを手にしてから記者会見をしてください。自分はやったとだけ言って、証拠がなければ、誰も信用できませんよね」という質問である。
でも、誰もそうした質問をしなかった。
筆者は理系の研究員や理系の院生の生活を知っている。彼らは研究室の実験現場に張り付いて、克明な日記をつける。その日記は何十冊になる。そのデータこそが彼らの財産であり、自分の実験の証明になる。でも、理研の女性研究員の記者会見に臨んだ記者は、そうしたイロハのイを知らない人達ばかりだった。
相撲の貴ノ岩が受けた暴行が問題になった時、テレビ局のベテラン女性リポーターが相撲協会寄りの発言をし続けて問題になった。
この女性リポーターがいつも言っている事は、「私は相撲協会の人間に確認しました。そんなことはないと言っています」という言葉である。
問題が起きた時、官僚でもスポーツ組織でも、官僚というべき立場の人は、自分の組織防衛から、まずは否定の発言をする。そして、記者やリポーターはその否定を受けて、それが真実かどうか、裏取材をするのが常識である。
それを相撲協会の事務局の人間に聞いて、否定されたら、「協会はそんなことはないと言っています」と、そのまま堂々とテレビで発言する姿は小学生のレベルでしか過ぎない。
女子レスリングで伊調選手がパワハラを受けたという話でも、マスコミの報道の仕方が極めて不可解であった。
もめ事があった時、当事者双方の言い分が違うのは当然である。それを片方の当事者の話だけを聞いて、「取材をして真実が明らかになりました」というトーンで、一方の言い分だけを垂れ流している。これは取材ではなく、小学生のやりとりである。
マスコミに長くいると、取材を受ける側からおだてられるし、時には接待も受ける。でも、私が記者になった当時は「経営者も官僚も政治家も君に頭を下げるし、下手に出て来る。でも、それは君に頭を下げているのではなく、マスコミという会社の看板に頭を下げているのだ。誤解してはいけない」と、口を酸っぱくして言われた。
でも、今の記者にはそうしたスタンスは見受けられない。
前に書いた、戦後丸暗記教育が企業の不祥事の原因というところでも書いた事が記者やマスコミ関係者にも当てはまる。
「真実はなにか。問題の本質は何か。裏に隠れた事情は何か。発言に嘘はないのか」 こうしたいちから疑って、真実を追求する姿勢が今のマスコミには全く見られない。
単に安倍首相を追及すれば、それで読者や視聴者ついてくると考えているのだ。
断っておくが、筆者は安倍首相は決して好きではない。彼の問題点はいくつもある。しかし、少なくても、彼がやってもいない事、彼に責任がない事で追及、非難されるのは、明らかにおかしい。
森友問題で批判されるべきなのは、問題を起こした近畿財務局であり、それを取り繕うとして次々に問題を大きくしていった財務省なのである。
政府は官僚を管理する立場にあるというのは建前で、官僚は文科省の前川前次官のように勝手に暴走している。それを政治家、首相の責任というのなら、アメリカのように中央官庁の主要課長、局長、審議官レベルの人事権は政権に与えないといけない。
でも、今の日本では余程のミスでもない限り、政治家は局長、次官の首一つとれない。これでいて、政治家、首相の責任を追及するのは本当にお門違いである。
まさに官僚天国、マスコミ天国である。
20180312
今こそ、官僚は優秀で真面目という嘘の神話を捨て去る時
戦後、日本人の間に「官僚は優秀で、真面目で、官僚が優秀だから、政治家が少しくらいダメでも、日本国家は盤石で、官僚に任せたおけば、国はちゃんと回って行く」という神話が定着し、それが前提で多くの事が語られて来た。
しかし、長年、官僚を取材し、官僚に多くの知己がいる筆者からすると、その神話は全くの嘘であり、日本をダメにし、問題だらけにしたのが官僚であり、今、簡単に解決するような問題がなかなか解決できないのも、その理由の多くは官僚が改革に動こうとしないためであると感じられる。
ソフトランディングが可能なのにもかかわらず、急激なバブル崩壊を起こし、多くの日本人が苦しんだのは、日銀官僚が大きく誤った政策をしたからであるし、失われた20年と言われる長期の不況に苦しんで来たのも、官僚がことごとく間違った処方箋を書き、それを推進したからである。
また、第二次安倍政権になって、首相が躊躇する中、財務省官僚が消費税引き上げを強引に推進して実施し、折角、良くなりかけていた景気の腰折れを引き起こしたのも、経済を知らない財務省官僚の誤った判断のせいである。
第二次世界大戦で日本が負けたのも、軍官僚という今の役人に相当するエリートたちが大局を判断できずに起こした戦争であり、戦争の遂行や、戦争を終わらせるにあたっても、信じられないような幼稚な判断、現状認識で、日本人だけでなく、アジアの人に大きな犠牲を強いたのも官僚の責任である。
戦後の日本では、軍が暴走して、止められなかったという常識が定着したが、日本の軍隊での現場の軍人や現場の指揮官は優秀で、世界の多くの国の軍隊の中でも、最も規律正しく行動し、戦いでも不利な武力などでも信じられないような善戦をしていた。
にもかかわらず、悲惨な戦争に突入し、戦争に入った後も、誤った判断、行動をしたのは、陸軍士官学校や陸軍大学、海軍大学を優秀な成績で卒業した、いわゆるエリート官僚が間違った判断、行動をしたためである。
そのへんの事情は半藤一利氏の日本軍分析に詳しいし、日本で軍人教育を受けて、戦後、朝鮮戦争での韓国軍の指揮官として数々の軍功を立て、アメリカの軍人たちからも尊敬された白 善燁大将の回顧録で、日本軍のエリートたちのお粗末さは結構詳しく書かれている。
軍人が間違えたのではなく、軍のエリート官僚が間違えたのを是非、認識して欲しい。
日本人は一日も早く、「官僚は優秀で、真面目であり、彼らに任せておけば日本は大丈夫」という誤った神話を捨てないといけないと感じる。
では、官僚は優秀で、真面目という神話はどうしてできたのであろうか。
筆者の理解では、城山三郎氏が通産省の事務次官をモデルに書いた「官僚たちの夏」という小説の影響が大きいと思うし、筆者も若い時に、この小説を読んで、通産官僚は凄いなと感じた事を覚えている。
しかし、その後の人生で多くのエリート官僚と付き合うとともに、彼らと本音で議論し、過去の実施政策やその後の結果などを検証してみて、官僚がして来た事は間違いが多く、日本に大きな悪影響を与えたとか、時には致命的な判断間違いをしたという事が結構あるのを知った。
官僚が優秀だという神話作りに大きな役割を果たしたのは、戦後の日本の奇跡の復興を分析したイギリスの雑誌「エコノミスト」の記事、「日は昇る」の中で、日本の奇跡の復興の原因として挙げた7つの理由の中に、「優秀な官僚の適切な判断、行動」が入っていた事も大きいと言われる。
この記事は本にもなり、筆者は高校生か大学生の時に、その本を読んで、なるほどと納得したのだが、これも浅過ぎる分析である事を後年知った。
外国の特派員たちというのは、日本人でも欧米の人でも一緒だが、その国に駐在していても、政治家やトップ官僚、経営者達を直接取材することは極めて稀であり、ほとんどは現地の新聞、テレビ、雑誌を見て、基本知識を得た上で、その国のジャーナリストと交友して、彼らの話で不足分を補うのである。
つまり、現地の国の新聞、テレビなどのマスコミが書く事が彼らの知識のほとんどなのである。
だから、先のアメリカ大統領選挙のように、アメリカの大手マスコミがヒラリー・クリントンに肩入れをして、開票日当日まで、クリントンが勝つという前提で放送していたような時に、ほとんど全員の日本人特派員が間違えるのである。
戦後の日本では、今の財務省(旧大蔵省)や経済産業省(旧通産省)、外務省などのエリート官僚はほとんどが東大を優秀な成績で卒業した人達であった。今の若い人達では、東大以外の大学を出た人の比率が上がって来ているが、それでも、トータルで言えば、エリート官僚は東大出身者が圧倒的多数である。
日本人には東大出身者というと、頭が良いというイメージがあり、実態はよく知らないのに、頭の良い彼らに任せておけば、間違いないという固定観念が出来てしまっている。
勉強が出来るという事、つまり、試験で良い点を取るという事と、頭が良いという事は全く別問題であるのに、その差についての認識がない。
特に戦後の日本の試験制度、入試は暗記力が強い人が良い点数を取れるような問題であり、暗記が得意な人が東大、京大などのトップ大学に入りやすいという事を理解して欲しい。
筆者が高校を卒業した年に、自分の高校の同期生から60人が東大に入った。
その時の事は今でも覚えているが、60人の内、頭の回転の速さ、判断の確かさ、他の人間と違う判断基準などが別格で、「あいつなら、東大に受かるのは当然だよな」と皆が納得した生徒は十人余りであり、その他の合格者の多くについては、「そんな奴っていたっけ」と、印象が薄い人がコツコツ努力して合格点に届いたという感じだった。
近年、十数年、企業の新卒採用の仕事をして、現在の多くの東大生、京大生などと接し、彼らと飲食をともにして、様々な話をする機会があったが、彼らの話では、東大では入学時点で、東大生は大きく2つのグループに分かれるという。
1つのグループは、小学校時代から塾の四ツ谷大塚に通い、模試などで優秀な成績を挙げている常連で、数学オリンピックなどの代表でもある人達。彼らは入学時点で互いに顔見知りであり、入学式時点で、互いに笑顔で談笑している人達である。
もう1つは地方の高校などで頑張って成績を伸ばして入試に合格した人達である。東京の高校でも、筆者の出身校で頑張って東大に受かった人達のように、コツコツ勉強して合格した人も、後者のグループに所属する。後者の人達は、自分と同じ高校の同級生などを除くと、入学式の時点で友人はほとんどおらず、ゼロから友人、同級生作りをする。
この2つのグループが一緒に東大の授業を受けると、後者のグループの学生達は、大きな挫折を感じるという。
天才タイプに近い前者の学生たちは、教授の宿題を数時間でこなし、涼しい顔で次の授業を受け、しかも、教授の質問にも的確に答える。宿題以上の勉強をして来て、言葉の端々にその知識が出て来る。
これに対して、後者のグループの人達は、宿題をこなすのに、夜遅くまで時間をかけて睡眠不足で次の授業に臨む事になる。そして、自分が6時間、7時間かかった宿題を前者のグループの人達が2、3時間で仕上げ、かつ、教授が求めたもの以上の勉強をして来ているのにショックを受け、自分は間違った所に入ってしまったと、強い後悔の念と挫折に襲われるという。
筆者が数百人の東大生と採用面接で接した体験から言うと、前者に入る人は十人に1人もいない。そして、そうした学生は企業の採用面接に受けに来ながら、中央官庁の採用選考にも参加している人が少なくない。
興味を持って、彼らにどちらを選ぶか聞くと、優秀で、人間力もあり、頭の構造が別格と筆者が思える学生は例外なく官僚にはならないと言う。「霞が関ツアーで色々な役所を回りましたが、現役の官僚に覇気はないし、仕事も面白くなさそう。そして、話を聞くと、優秀な人ほど、2、3年で役所を辞めて行っているという事です。そんな滅びゆく組織に入りたいとは思いません」 異口同音に彼らが言う事である。
今の財務省、旧大蔵省の担当して取材した経験から言うと、大蔵省の入った時点で、何年組の次官候補は誰と既に決まっている。卒業時点で東大法学部で首席だった者は、仕事をする前にほぼ次官のポストが約束されているのである。
各年次にこうした次官候補がいる。本人も周囲もそれを意識している。しかし、その多くの人と接してみた筆者の感想は、この人は間違いなく次官が務まる器、頭の回転の速さ、胆力などをその得ていると思える人は十人に1人いるかいないかである。
東大法学部を首席で卒業し、大蔵省次官を務めた後、半官半民の大きな組織で社長を務めたある人物は、人間として最低で、常識のかけらも備えていなかった。次官時代、彼はある事で大きな判断ミスをした。また、彼は大蔵省の課長時代に後輩、部下を麻雀の誘い、彼らから多額の金を巻き上げていた。
上司で、将来の次官候補の課長に勝つわけにはいかないという思いを、部下や後輩が持っているのを知って、自分だけ好きに勝負の進行をして、荒稼ぎをしていたのである。
日本が戦争末期の時に首相を務めた東条英機は陸軍士官学校や陸軍大学で首席を務め、頭の回転の速さ、知識力、記憶力では秀でたものを持っていたが、総合判断力、人間力で問題があり、ある陸軍の幹部は「あんな小物が首相になるようだと、日本も長くないな」と言ったという有名な話がある。
日本の軍隊で名将と言われた人は陸軍士官学校や陸軍、海軍大学で十番から20番くらいの人達に多かったという。ある程度の頭、知識はないといけないから、トップグループである必要はある。しかし、名将には、それ以上にものを俯瞰的に見る力や部下の統率力、グランドデザイン力などが重要なのである。
しかし、日本の官僚にはこうした事についてのチェックが皆無なのである。
東大法学部を卒業して官僚になる人のほとんどが、法律、規則で国民を支配しよう、管理しようと考え、国民をがんじがらめに縛る法律を作ることに血道を挙げる。
法律は建前では国会で作られる事になっているが、実際は政治家が考えた方針を下に、官僚が文案作りをする。そして、その過程で、政治家の思い、方針を骨抜きにし、自分たちに都合の良い事が出来るように法案を細かくいじるのである。
「…が…」となっていた原案を「…も…」というような気が付きにくい細かな修正を行い、本質を変えてしまうのである。その結果、例えば、本来は震災地の復興にだけ使う予定の巨額の復興予算が、官僚が他の目的で自由に使えるようになってしまったのである。
彼らが作った法律のために、選挙活動でネットを自由に使うこともできないし、政治家は知人友人に年賀状を送る事もできないのである。
現在、日本で3分の1近くの家が空き家で、荒れるに任せる空き家が大きな問題になっている。
では、どうしてこうなったかと言えば、建設省(今の国土交通省)は、更地の土地と比べて家を建てた土地には税金を安くした。加えて、住んでいない空き家は住んでいる家に比べて、税金を何分の1にした。
どうしてこうした事をしたかと言えば、戦後の日本で持ち家政策を推進して、とにかく、どんどん家を作らせるように仕向け、税制でこれを支援したのである。
そして、古くなり、住みにくくなった家も空き家にして、マンションなどに移り住めば、空き家の固定資産税は大幅に安くなる事で、マンションを買いやすくしたのである。
なぜ、こうしたかと言えば、建前的に良く言えば、ハウジングメーカーや建設業者の支援であるが、その実は、恩を売る事で、自分たちの天下り先を確保したのである。
そして、今や時代に合わなくなったこの税制を変えようとはしない。国民にプラスになる事は自分たちの天下り先を少なくする事であり、自分たちにメリットのない事には取り組まないのである。
欧米でがん治療に効果のある治療薬で、日本で販売が認められていない薬は結構あるし、今は販売が認められて来たものでも、長年、認可されなかったものが少なくない。
そうした薬を癌患者が使おうとすると、保険が効かないし、日本の医者は公式に使う事ができない。これは癌患者にとっては死活問題である。だから、何とかしてほしいと、医者に言うと、海外から並行輸入の方法があると教えてくれる。
患者が個人で並行輸入した形にして、使うことには文句は言わず、黙認はする。でも、公式には販売を認可しない。理由は簡単で、面倒臭い並行輸入などする人はほんの僅かであり、こうする事で日本の製薬会社の利権を守っているのである。製薬会社は厚生官僚の大きな天下り先であり、政治家に立候補した時などに大きく献金してもらう先だからである。
財務省が消費税の税率アップに血眼になるのは、自分たちが自由に動かせる税収を増やしたいためであって、税収を増やして、財政を健全化しようとしているのでは全くない。
税収を増やす最大の道は景気を良くする事である。企業も個人も金を使う事を渋っている時代に景気を良くする方法はただ一つである。財政を出動させ、公共事業や教育などに予算を振り向けるために国債を増発する事である。
こういうと、財務省の宣伝に慣れ親しんでいる人からは、GDPの2倍以上の借金がある日本で、これ以上国債を増発するのは無茶という反論が聞こえてきそうである。
日本では、国や地方自治体には1千兆円を越える借金がある一方で、国にはその6、7割の財産があるし、個人の金融資産は1千兆円を超えている。また、企業の内部留保はその半分近くある。
つまり、どういうことかと言えば、国全体としては貧しく、危機的な状況ではなく、極めて健全であるということなのだ。どうして、そうなったかと言えば、戦後の政治、行政で、単に配分を間違えたので、所在が偏っているというだけなのである。
そして、これを是正し、あるべき姿にすることは少しも難しくない。
まず、今、1千数百兆円と言われる個人金融資産の7割くらいは65歳以上の年寄りが持っている。彼らは十年、15年で多くの人が死ぬ。そうすれば、相続税で国には3分の1程の税金が入って来るのである。もっと回収を多くしようとするなら、相続税率を上げれば良いだけである。
また、前にも書いたが、政府が日銀券とは別に、巨額の通貨を発行し、それで国民が勝っている国債を買い戻させ、処理してしまうという手もある。日本では国債を持っているような国民は国債を売ったからと言って、それで手に入れた金をぱっと使う人はほとんどいない。
精々1、2割が使われて、残りのほとんどが国債が銀行預金に名目変更されて、退蔵されるだけである。財務省や学者が心配する通貨の大量流出で超インフレになる心配もない。そして、国の借金は他の欧米先進国並みに、大きく減り、見た目が財政健全になるだけである。
財務省が本当に国の借金を減らす事に純粋に熱心なら、それに簡単に貢献できる方法がある。それは、社会保険庁と国税庁の統合である。これで、十年単位で考えると、人件費は大幅に減り、財政の健全化に一番貢献できる。でも、何回も叫ばれながら、財務省はそうした事はしない。自分たちの利権が失われるからである。
警察がヤクザ撲滅キャンペンーンをして久しいが、これは一見、正義が行われているようにみえるが、実際はヤクザ利権がおいしく見えたので、その分野に警察官僚が利権争いで殴り込みをかけたということなのである。
そして、日本人ヤクザの勢力を大きく抑えた結果、何が起きたかと言えば、東京の新宿などでは、中国人マフィアが巨大な力を持ち出し、周辺の商店街も警察も手が付けられなくなってしまったのである。
こうした官僚の行動に国民のためという発想はない。あるのは、自分の利権、権益、天下り先の確保である。
利権に一番血眼になっているのが文部科学省である。
多くの官庁が天下り規制で、天下り先が細っている中で、文部科学省だけが、堂々と大学に官僚が天下りをしていて、あまりにも目に余るので、問題が指摘され、その責任をとって辞任させられたのが前次官の前川氏である。
そうしたら、こともあろうか、森友、加計問題で、あたかも首相の圧力があったという話を作って、恨み返しで、安倍政権を批判する行動に出た。
20数年間、畜産学部の親切を認めなかったのは、獣医師団体からの要請に基づいて行われた利権確保行為であり、政治家がこれに風穴をあけようとするのは当然の事である。
獣医学部の新設を認めない一方で、普通の大学の数はどんどん増やし、少子化で子供の数が減っているのに、自分たちの天下り先を確保するために、大学新設はどんどん認めて行った。その結果、定員割れの大学が全体の3分の1以上と言う状態となり、そうした大学は中国からの留学生を入れて、どうにか、経営を回しているという状態である。
こんな事をやってきた文部科学省の前次官を、まるで正義の士のような扱いで報じるマスコミは、本当に頭がおかしいとしか言いようがない。
別項で書こうと思うが、日本は官僚独裁国家なのである。
今、政治がそれを是正しようとしている。森友問題での報告書改ざん問題も、厚生労働省の働き方改革での杜撰なデータ問題にしろ、その政治からの改革にうろたえ、抵抗しているのが官僚たちからのマスコミへのリークなのである。
本来なら、官僚こそ共通の敵で、彼らの利権を奪い取らないといけないのに、安倍憎しで、官僚の思惑に乗って、踊らされている。それが大手マスコミと野党なのである。
官僚の文書改ざんで倒閣を目指すという野党の愚かさ
森友学園への国有地売却問題について、当事者である近畿財務局の報告書に改ざんがあったという朝日新聞の報道に勢いを得て、テレビなど大手マスコミは、大問題というトーンで報道し、野党は安倍政権打倒を目指すという信じられない目標を立てている。
この森友問題に対する朝日新聞やテレビなどを中心とする大手マスコミと野党の追及の仕方の異常さの根幹には大きく言って2つの事がある。
1つは、以前も書いたが、そもそも森友学園へ払い下げをしようとした土地そのものが、とてもいわくつきの場所で、タダでも誰も欲しがらない場所を近畿財務局が無理して売ろうとしたものの、安い値をつけて周辺の地価が下がる事を恐れため、タダのような土地に高い値をつけ、土地の整備費がかかるので、値引きをして販売をするという、インチキの図式を書いた事がそもそもの発端である。
つまり、そもそもが近畿財局のチョンボなのである。大手マスコミも野党もそれを知りながら、何とか安倍首相との関連ありとしようとして、騒いだものの、何も犯罪性のある事は出来来なくて、もう終焉して良い事をいまだに騒いでいるという事である。
朝日新聞に至っては、従軍慰安婦の嘘報道などで謝罪をし、嘘の体質がばれて、購買部数が大きく落ち込み、更に、その問題の報道姿勢を安倍首相からも批判されため、このままでいけば、会社が立ちいかなくなる危険性が高いとみて、安倍政権打倒を掲げるという危険な賭けに出たのだと言える。
虚偽のものでも、問題がないものをあたかも問題があるように見せたものでも、朝日が書けば、テレビ新聞が報道してくれたという過去の経験に頼り、政権を打倒すれば、少なくても、その成果を高らかに謳う事で、部数の減少は止まると考え、会社の倒産を安倍政権打倒で免れようとしているのである。
筆者に言わせれば、極めて危険な賭けである。この賭けに失敗すれば、朝日新聞という歴史ある新聞社が崩壊する可能性はかなりあるように筆者には感じられる。
そして、その朝日の賭けに新聞、テレビが乗ってついて行き、その後を野党が追っているというのが今の図式である。野党も大手新聞、テレビも、自分たちが騒ぎ、政権を厳しく追及すれば政権が揺らいだ十年、20年前の時代感覚のままで、それに悪乗りすることで、存在感を示そうとしている。
今はネットの時代で、事情に詳しい人が色々な解説をしている。だから、かつてのように、大手マスコミが騒げば、政権を揺るがす事が出来たのが、今はそうならない時代になったのだが、マスコミも野党もこの時代の変化に気が付いていないのである。
2つ目は、官僚というのは、少し付き合った人間なら、その習性はよくわかっているが、相手によって対応が変わるという事であり、相手に力があったり、力がなくても、文句をガンガン言いそうでもめそうな人間なら、官僚の方から便宜を図ってくれたり、親切な対応をしてくれる体質の人達である。
また、自分が責められ、責任をとらされることを極度の恐れ、保身的な体質がとても強い人達である。だから、彼らが作る文書も、自分たちに都合の良いような流れで書くし、実際のやりとりとニュアンスが違う文書を作って、上司にあげるなどという事は全く珍しくはない。
それを官僚は正確で、事実をきちんと報告書に書き、それを政府高官の圧力で、事実を捻じ曲げた改ざん文書を作ったかのような報道の仕方、国会での追及の仕方を見ていると、「あなたたちは官僚と付き合った事がないのですか」と聞きたくさえなる。
官僚は相手が政府高官だから、首相だから、その意向を汲み取って、忖度して対応する人種ではない。少し権力のある人、うるさそうな人なら、誰でも、親切な応対をするし、便宜を図る人達なのである。
具体的な例をいくつか書くと、筆者は遥か昔、地方勤務の時、四国の香川県で駆け出し記者をしていた。当時、香川からは、後に首相になる大平正芳氏が自民党の大物政治家としていたし、野党、社会党の成田知美委員長が出ていた。
6年間、この土地で勤務したので、県庁や市役所の幹部などとも親しくなったので、大平対応、成田対応なども細かな話を詳しく聞いた事がある。
大物大臣クラスの大平氏でも、地元の市町村からの道路や港湾整備などについて、陳情を受ける。そうした時に、大平氏の地元秘書などがその陳情の対応をするが、国、つもり建設省(今の国土交通省)も県も大平氏の意向を受けて、それこそ忖度して、予算をつける時に、当然のように配慮してくれる。
この官僚の配慮は与党、自民党の大物政治家に対してだけではない。野党の党首である成田氏からの要望、陳情にも忖度し、予算優遇をした。別に首相相手でなくても、買収などがなくても、官僚は相手が少し力があれば、対応するのである。
そんな古い話でなく、今の話を言えば、日本の各地方自治体では、多くの課で共産党の赤旗を公費で買っている。これは買わないと、地方議会で共産党がその買わない部課の問題点をつつき、部課長に嫌がらせをされるのを知っているからである。
忖度は別に首相に対してだけでなく、野党である共産党に対してもあるのである。
共産党は「国からの政党助成金を受け取らない唯一の清潔な政党」というのを売り物にしているが、政党助成金を受け取らなくて良い理由は地方自治体への赤旗の押し売りによる上りがあるからである。地方自治体の官僚が共産党の忖度してくれるのを知って、押しつけているのである。
筆者自身の経験を少し書くと、会社を経営していて、法務局だったかどこかの役所に書類を出しに行った事がある。普通は、司法書士だか行政書士に書いてもらい処理してもらう内容だったが、フォーマットが簡単だったのと、時間があったので、筆者が自分で書いて持って行った。
ところが書類を提出し終えた後、筆者の後から来た人間が呼び出しを受けて、提出した書類してもらって帰って行くのに、いつまでも、筆者は呼ばれない。
窓口の人間にどうなっているか聞いても、「対応が終わったら、呼びますので待ってください」と言うのみである。
1時間くらい待たされていると、顔見知りの行政書士が書類を持って来て、提出し、受け取って帰って行くのを見たので、自分はいつまでも書類が戻って来ないと言うと、「行政書士か司法書士の判がないので、放置されているんですよ」と教えてくれた。
長く待たされて頭に来ていた筆者は怒って、「どうなっているんだ」と大声を出した。
すると、奥の方から所長らしき人が出て来て、自分の部屋に筆者を通した。そして、筆者に事情を聴いた後、所長室で部下の非礼な応対を謝るとともに、部下を呼んで、筆者の書類を至急処理するように指示したので、直ぐに書類は出来上がって来た。
ちなみに筆者はこの所長に自分の経歴などは話をしていない。ただ、長く待たされ、大声で怒鳴っただけである。そして、その所長は帰りがけに、再度、頭を下げて謝り、「私の謝罪で勘弁していただき、今日の非礼はお忘れください」と言って、備え付けの安物のお土産の品をくれた。
官僚にとって、もめ事はタブーであり、上司に問題事案ありと報告があがる事は絶対避けねばならない事なのである。そのためなら、対応も変えるし、頭も下げるのである。
筆者はこれに類した経験はいくつもしている。官僚の対応に困っている人は是非、実験してみてほしい。役所で大声で怒鳴ると、それまで高飛車だった役人の対応がガラッと変わること請け合いである。
官僚が作る文書は事実の報告書と見たら、間違える。基本は作文なのである。
旧大蔵省、今の財務省など多くの役所を取材し、大きなテーマについて、それぞれの役所が案件をどう処理していったかを見て来た者の目からすると、役人の作る文書はそれぞれの過程で書き換えが行われ、最終的に何通りもあって当然である。
彼らは何回も文書を書き換える。少し大きな案件なら、何十回でも書き換えは行われる。それは上からの圧力のためではない。彼らが状況に応じて、物事を処理していくか、そして、その処理の仕方が後でどこからもクレームがつかず、公正に処理されたかを記すために、最後に見た目、きれいな解答を作るために、何回も下書きをするのである。
森友問題で何回も書き換えをしたのも正にそうであり、かつ、元々、無理案件を処理して、誰も買いたくないような土地を高く売ろうしてして、失敗した責任を取らされないようにするには、報告書はどう書いたら良いのか、それに腐心をして書き直したというのが、現実の姿ではないだろうか。
20180308
頻発する企業不祥事の遠因は戦後の丸暗記教育
日産自動車、神戸製鋼、川崎重工、スバルなどなど、日本を代表する企業でのデータ改ざんやルール違反の製品納入などの不祥事が相次いでいる。
一つの企業で起きた話なら、その会社の特殊事情ということは言えるが、日本を代表する会社でこれだけ次々にデータの改ざんや納入する品質以下のものを意図的に作ったなどという話が出て来ると、個々の企業の話でなく、日本全体に大きな理由があるはずと考えるのが普通だと思うが、学者もマスコミの論調もそうした原因を考える発想がないのが不思議でならない。
筆者は数年前までの十数年間、大学生の新卒採用を担当して、数万人の学生の面接をした経験を持つ。また、その後、ボランティアで東京の公立中学校の放課後の補習授業の教師を数年した。こうした経験から、今の若い人たちのものの考え方、発想、行動習慣を知る事が出来たし、現在、学校の教育現場でどんな教え方をしているか、そして、それに生徒たちがどう対応しているかも見聞きした。
この経験から、今、様々な企業で起きている不祥事の大きな原因の1つに戦後の丸暗記教育があると、確信を持って言う事が出来る。
メーカーの検査データの改ざんの話は専門的な事があって、素人には少しわかりにくいかもしれないが、ここ1、2年のこうした大手企業の不祥事の第一のケースとして、報道されたの旅行代理店、JTBの話は誰でもわかる話である。
ある学校のバス旅行を引き受けたJTBの若手担当者がバス会社にバスの発注を忘れてしまった。後になってこれに気が付いたが、日程的にもう間に合わない。そこでその担当者が考え、した事は、学校に爆破を予告するメールを送り、騒動でバス旅行を中止になるようにして、バス発注を忘れた自分のミスを覆い隠そうとしたというものだった。
最初、この話が報道された時、多くの人が、少し調べれば、直ぐに嘘とばれてしまう話だし、メールは警察が調べれば、アドレスからすぐに送り手が分かってしまうので、こんなお粗末な事はする訳がないと考えたが、これを実行した担当者は日本を代表するトップ私大を卒業した、一般的に言わば、優秀な大卒者だった事がわかり、二重に世間を驚かせた。
他の企業のデータ改ざんの話でもそうだが、今の企業の担当者の共通の発想は、問題が起きた時に、それを表面的にどう繕い、自分が怒られない、罰点を受けないようにするにはどうしたら良いかというものであり、それに血道をあげるのである。
そして、少し考えれば、やがて嘘とバレてしまうような稚拙なインチキをして、とりあえず、自分への風当たりを避けようというものである。
なぜ、そうなるか。それは学校の教育現場の発想がそのままなのである。
筆者は終戦前の生まれで、戦後の混乱期に小中学校の教育を受けた。しかし、この時期は、混乱がありながら、教師は熱心に子供を指導していたし、生徒が疑問に感じた事を質問すれば、教師は生徒が納得いくまで、時間をかけて説明してくれた。
当時は教師が交代交代で学校に泊まり込みをしていたし、学校が休みの週末には当番で出勤している教師がいた。自分が気に入りの先生がいる夜や日曜日には、その教師と話をしたい生徒は学校に行き、時間を気にせずに、教師と話をする事ができたし、教師も生徒が来る事を歓迎し、生徒との語らいを楽しむ教師も少なくなかった。
しかし、筆者より一回りくらい若い人達以降、つまり、今60歳になる人以降の人に話を聞くと、学校教育の現場が様変わりしている。
教師の説明がわからず、生徒が質問をすると、「余計な事を考えず、教師が言った事をそのまま覚えれば良いのだ」と言われて怒られたというのだ。つまり、疑問を持つ事、何故と考える事を否定され、教師の言う事を理屈抜きで丸暗記をしろと言われて、小中学校を過ごしだしたのである。
高度成長が始まり、企業は一定以上の知識を持って、企業が要求する仕事がこなせる社員が必要になり、教育現場に丸暗記でとにかく知識を詰め込む事を求め、文部省をその要求に応える教師を教師に求めたのであり、時代とともに、その度合いが徹底し出したのである。
そして、その教育を受けた人間が教師になって教え、更にその教師に教えられた生徒が成長して教師になって、更に子供を教えるという三世代を経る内に、「本質を見る力」、「なぜ、どうしてと考える習慣、力」、「言われている事を疑ってかかる習慣」が教育現場から全く欠落してしまったのである。
東京の公立中学の放課後学習で子供と接していて衝撃的だったのは、時間と距離を計算する問題について質問された時だった。
ある生徒が「先生、これキソジだよね」というのだ。私はその意味がわからず、その生徒に聞き直すと、生徒はアルファベットのT字を書いて、その横棒の上にひらがなの「き」、そして、縦棒の左右に「そ」と「じ」を書いたのだ。
これは1時間に5キロ進む人が3時間歩いたら、何キロ歩いたでしょうというような問題を解く時に、この「キソジ」をT字とともに覚えろと教師が教えているという事だとわかった。そして、問題の種類ごとにTの字の上と左右に書くひらがなを教え、その通り暗記しろと数学の教師は言っているというのだ。
驚いて、この話を大学生や既に社会人になっている若手社員にぶつけると、皆、異口同音に同じような教育を受けたというのである。
こうしたエピソードはいくつもあり、そのどれもが、ものの本質を考え、理解させるという教育ではなく、本質を考えず、丸暗記で覚えるというパターンが徹底されているということである。
疑問を発する事を許されず、記憶の仕方まで指示されて、本質ではなくテクニカルで丸暗記するそれを強要されて育った生徒が、高校から大学に行き、社会人になるのだから、教師に代わった会社の上司や取引先の人に怒られないようにするには、とにかく表面、上辺だけを取り繕う行動パターンが普通になり、その習慣が嫌でも身についてしまっているのである。
より疑問を持たず、教師に言われた事を言われたままに、暗記の仕方も教師の言うままに覚えた生徒が優秀で、教師の覚えがめでたく、そして、考えず、丸暗記に徹した生徒が一流高校、大学に行き、一流企業の就職して行くのである。
この図式を見ると、次々に出て来る企業不祥事の病根に、この疑問を感じさせずに丸暗記を強要する今の学校教育が問題の根底にある事が見えて来る。
前にも書いたが、筆者の知人の大手新聞社のデスクが、数年前に体験した事だが、東大出の新人にある記事を書くように依頼して取材に行かせた。取材を終えた帰って来た記者は原稿を出した。
しかし、その記事を読んで、そのデスクは「常識的に考えて、そんな訳があるはずがない」と直感的に感じて、当事者に電話をして、記事の内容を確認したら、事実は書いてある記事と180度反対の内容だったという。
そこで、取材した東大出の新人記者に尋ねると、「だって、デスクに取材の趣旨、方向を言われて取材に行ったので、その通りの原稿を書いたまでですよ」と涼しい顔で答えたという。
よくよく聞くと、取材をしてみて、当初の取材意図に合う事実は全体の3割で、7割は意図と180度違う内容だったという。そこで、この東大君は意図に合わない7割を捨て、意図に合う3割の材料で原稿を書いた事を認めた。少しも悪びれた様子もなく、ごく当然のような態度で。
そのデスクも筆者も、自分が若い記者だった頃に、デスクに指示されて取材に行ったら、実情は当初の狙いと違う事はいくらでもあった。しかし、その時には、デスクにその旨を説明して、現場の事実を元の原稿を書いた。
それが今の若い記者は、当初の取材の狙い、意図が現状と違っていた時は、原稿を現状に合わせて書くのではなく、事実に関係なく、原稿を当初の狙い、意図に合わせる事に努力しているのだ。
ここしばらく、事実が違うのにと首をひねる原稿が、大手新聞に掲載されることが少なくないが、こうした原稿の氾濫は上記、東大君の行動、思考パターンを見れば、いくらでも出て来る事は簡単に予想される。そして、それは、企業の相次ぐ不祥事に合い共通するものである。
60年も続いて来た、本質を考えず、疑問ももたせず、丸暗記で覚えさせる教育を変えるのは、時間がかかると思うが、これを変えないと、大手企業の不祥事はこれからも次々に出て来るであろう。
20180301
国会もマスコミも、本質素通りの裁量労働についての議論
働き方改革の方針の下、裁量労働の拡大をめぐって、厚生労働省のデータに多くの不備が見つかったことから、国会は紛糾し、マスコミも政府を追及し、法案の撤廃を求める野党議員の話をメインに据えて報道している。
しかし、国会の議論もマスコミの報道の仕方も、本質を全くついていないし、重箱の隅を突いている話ばかりである。そして、野党もマスコミも、そも裁量労働をどうすべきかという本質論や、海外の国では、裁量労働はどうなっているかなどの情報をほとんど出さずに、単に安倍政権攻撃だけに終始している。
私個人の意見を言えば、裁量労働という言葉自体がまず、バイアスがかかった誤解を生みやすい表現だし、世界の常識であるいわゆる裁量労働を否定したら、今後の日本に未来はない。
労働時間や賃金について、日本の労働省は工場労働者も事務所で頭脳労働をする人も全て、ずっと時間管理という量で管理する考えを取って来た。理由は簡単で、時間で管理すれば、管理やチェックが簡単で、問題の発見もしやすかったからである。
しかし、工場労働者などブルーカラーの労働者は、ベルトコンベアの流れなどに従って作業をしたり、上司の指示でその日の仕事をどうするかを命令されてする人には、この量の管理は向いているが、事務所で頭脳労働をするホワイトカラーに対しての、この労働の量の管理というのは全く不向きで、これまでにも何とかならないかという、改革を求める声は強く上がっていた。
でも、改革をしたくない厚生労働省は積極的に取り組まず、ずっと放置して来たのである。
何が問題かと言えば、仕事が出来る人が4時間で出来る仕事を無能な人は丸1日かかったり、場合によっては2、3日かかったりする。
これを労働時間の量の管理ですると、無能な人ほど多くの給料をもらえることになるからである。
また、頭脳労働のポイントは、仕事の本質をとらえる目であり、それをどう処理し、より良い結果を出していくかというアイデア、ひらめきや実行力が重要になってくる。
優秀な人は自分が与えられた仕事、課題について、勤務後の夜や休日にも考え、より良いアイデアを色々考え、時には休日を利用して、仕事の関係ある職場や店などを訪問したり、本を読んだりして、自分の仕事を組み立てていく。
こうした行為は全く自発的なものであり、行為が良い結果に結びつくという保証はない。だから、その行為を「休日勤務をして、これだけリサーチに使いました」などと言って、残業代や休日出勤手当を要求する事には無理がある。
しかし、より良い結果を出すために出来る人間はそうした事に時間を惜しまずする。だから、裁量労働なのである。
そもそも、ホワイトカラーの給料は、そうしたリサーチなども含んだ給料だから、質の管理であり、量で管理することなどおよそ不可能なのである。
欧米では、事務所で働く人は2種類に分けられている。ホワイトカラーと言われる人たちと、その補助職のクラークと言われる人達である。日本流にいえば、総合職と一般職のような感じである。
欧米では、日本の総合職に相当するホワイトカラーの人については、量ではなく、質で管理する。
日本のように新卒で仕事経験がない人を総合職として採用して、ゼロから仕事を教えて行くのではなく、欧米では、そのポジションごとにどんな仕事をするかが決まっていて、その部門の責任者は、その仕事に相応しい人を内外から募集し、最適な人をそのポストの据える。
そして、そのポジションについた人は、上に述べたように、夜の自宅や休日にも頭と体を使って自分の仕事の処理を考え、結果を出して行くのである。
そのポジションでしないといけない仕事は決まっているし、給料も仕事の内容に応じて決まっている。そのポジションに座った人は自分がしないといけない仕事をどういう順番でいつまでにどう仕上げるかはその人に任されていて、上司は大枠管理で、細かな事には口を出さない。
与えられた任務を期限内に処理すれば良いので、早く処理が出来れば、早く帰れるし、終わらなければ、残業したり、自宅に持ち帰ったりするのも、個人の自由である。結果が全てなのである。
筆者自身、外資系企業で部長職で仕事をした事があるが、自分の仕事が終わった人は夕方4時、5時に帰って行くし、仕事が残っている人は夜の十時、11時まで事務所で仕事をしている。事務所でずっと仕事をするのは効率的でないと思ったら、家に帰って食事をした後、家で夜、続きの仕事をすることも珍しくない。
仕事が早く処理できないで、いつも夜遅くまで仕事をしている人間は無能は人間であり、優秀な人ほど早く帰るのである。同僚がまだ仕事をしているから、先に帰るのは気が引けて出来ないという発想はそこにはない。
だから、例えば、ウイークデーの昼間、子供の学校や部活で時間を割きたいと思う人は、先に数日残業をして仕事を処理しておいて、子供のために昼間に時間を割くこともできる。これはその人の仕事の仕方であり、上司はそうした事で文句は言わない。
クラークはこうしたホワイトカラーに仕事を助けるアシスタントであり、上司の指示と命令で仕事をする人であり、仕事の内容によって給料が決まっているし、上司は時間管理もしてし、残業は上司の指示でする仕事の仕方である。
だから、上司の指示でクラークが残業をすれば、残業手当がつくが、指示をした上司には残業代はつかない。その上司が日本流の言い方で言う管理職である必要はない。量ではなく質で管理する職だから、量の発想でカウントする残業代がつかないのである。
欧米では、日本でいう部長クラスの部門長に、その部門の総予算が与えられていて、その部門長がその予算の範囲内で誰を雇い、誰にどの仕事を任せるかは一任されている。部下を採用する権限、解雇する権限も与えられている。
総予算が決まっているので、その範囲の中で、誰を雇い、どう使うかは部門長の裁量なのである。
そして、部門長はその部門全体の仕事の出来栄えと、予算管理の仕方で評価されるので、仕事が出来ない無能な人間を使っていれば、自分の首が飛んでしまうという結果となる。
ホワイトカラーとは、自分で自分の仕事の仕方、時間管理、仕事の仕方の順番が管理でき、最適な仕事の仕方をする人達であり、きちんと結果が出せない人は、より最適な人に取って代わられることになる。これが日本でいうところの裁量労働である。
日本で欧米のような裁量労働が広がって行かない最大の理由は、厚生労働省が質の管理をする自信がなく、量の管理に長年拘って来た事にある。
日本の役人は、自分で管理できない、コントロール出来ない事は極端に嫌う。そして、法律、規則でがんじがらめにする。その規制が官僚が民間企業より優位に立てる有力な武器となり、天下りの際の強い力となるのをよく知っているので、なかなか放そうとはしないのだ。
更に、頭脳とアイデアで勝負する典型的な職場である広告代理店で、上司の指示で長時間労働をさせられ、過労でノイローゼとなった若い女性社員が自殺をするような事件が起きるような仕事の仕方がまだ蔓延している労働環境こそが、日本で質の管理に進まないもう1つの大きな理由である。
筆者は今回の厚生労働省のいくつもの不正データの発見は、量の管理に拘り、質の管理への移行を自分の権限を狭められると感じた厚労省の役人が意図して作ったり、データ発見も、彼らによる意図的なリークとさえ感じられる。
自分がしたくない事を政治家から命じられた官僚は、こうした形で抵抗をして、政治家の意図を潰して行くというのをいくつも見て来たから、そう思えるのだ。
では、日本で裁量労働を潰して良いのだろうか。
筆者はこれは世界の常識に逆らって、これからも従来の量の管理をしていけば、日本には未来はないと考える。
日本では、欧米の例に倣って、改革をしようという事を政治家や学者などが言い、マスコミで大きく取り上げられた事が何年も経って、事実上潰された事がいくらでもある。
例えば、年金の運用を自分で管理できるとして十年以上前に大きな話題になり、マスコミでも大々的に報道した401k、年金の自主運用という話は、その後、全く進まず、全体としては、事実上、お蔵入りになった状態になっている。
進まない理由は「社員に自己管理で運用させて損をしたら、どう対応するのか」という会社の管理職や労働組合などからの素朴な疑問に対して、明確に答えられないために、説得をせずに、面倒臭いものにはふたをしたのである。
「自己責任」という基本的な概念が極めて乏しい日本では、弱者は救済しないといけない、弱者が問題になりそうな事は実行しないという発想が今でも罷り通っていて、改革を遅らせているのである。
改革をすれば、リスクは当然出て来る。そのリスクをどう少なくする工夫をしていくかが知恵なのだが、日本は面倒臭い疑問が出来ると、改革自体を止めてしまうから、改革が一向に進まないのである。
では、欧米的な意味での、真の裁量労働を進ませるにはどうしたら良いか。
これはセクハラ、パワハラ問題にも共通するのだが、会社の風土を変えないといけないし、部課長クラスに強く意識改革を求めないといけない。
欧米では、セクハラ、パワハラが社内で問題になると、指摘された加害者本人だけでなく、その上司、会社全体にも責任が及び、会社は多額の賠償金を支払う事になる。当然、こうした問題を放置した上司は左遷されたり、責任を取って解雇されたりする。
こうした発想を労働時間、裁量労働にも取り入れないといけない。
簡単な事だ。部下が過労死したり、ノイローゼになって休職になったりしたら、その上司の部課長に大きな罰点が付き、左遷され、出世コースから外れる、部下が自殺などを起こした場合は、直属の上司は基本退職というルールを作れば良いのである。
残業時間が長い社員がいれば、その上司の部課長に大きなマイナス査定がつくようにするのである。そして、サービス残業が発覚したら、その部課長は左遷、減俸、降格などの処分をする社風を作る事である。こうした事を徹底すれば、部課長の意識は大きく変わって来る。
ペナルティーをきちんとつければ、人間は罰点を食らうのが嫌なので、行動が変わって来る。それを、曖昧にしたままで、精神論だけ言うので、意識改革は進まないのである。
有給休暇についても、部課ごとに社員の取得率を毎月社内で公表し、所得率が低い部課の責任者には、最低の評価が与えられるようにするというルールを作るのである。
日本人のホワイトカラーをブルーカラーと同じような管理をしているという、これまでの仕事の仕方を変えないと、日本は世界に取り残されるし、ホワイトカラーの生産性が欧米に比べて大きく劣る、日本の生産性を上げないといけないという大きな課題は、いつまでも残ったままである。
本来、裁量労働をめぐる国会の議論やマスコミの取り上げ方は、徹底するには、どうした罰則、ルールを作って、日本企業の管理職の意識改革をしていくかという話にしないといけないのに、データがおかしいというだけの事で政府を攻撃する事に終始している。
怒られながら、下を向いたまま、舌を出しているのは官僚なのに。
20180413
戦前から亡国、反日が明確な方針の朝日新聞
朝日新聞が安倍政権打倒を目指して、森友、加計問題などを執拗に報道しており、それに影響されて、他の新聞社、テレビ局も、それこそオールマスコミで、この問題を大きく取り上げてて、連日のように「大問題」という姿勢で伝えている。
これらの問題は、受託収賄などの犯罪性があれば、勿論、厳しく追及しないといけないが、公表された財務省の公文書などでも、安倍首相の関与がない事が逆にはっきりして来て、少し良識のある人なら、国会で連日取り上げる問題でない事は明確であると受け止められている。
極端に言えば、首相や大臣が何かの案件に何らかの関わりがあったとしても、そこに贈収賄などの犯罪行為がない限り、それは批判され、追及される事ではないのである。
しかし、「嘘も百回言えば、本当になる」の喩のように、連日のオールマスコミの報道は、情報弱者と言われる年配者中心に反安倍の考えが根付き、今では自民党支持者にも不安感が広がり始めている。
こうした風を受けて、自民党の内部で、強すぎる安倍一強政権に対する潜在的な不満が表面化し出し、3選ほぼ間違いがないと言われて来た安倍首相の、自民党総裁選挙での再選が怪しくなって来ている。
だが、安倍首相を降ろすのは良いが、その後はどうなるのか。無責任で政権能力がない事は先の2年半の民主党政権で実証済みの野党は、立憲民主党が政党支持率が1ケタ台、希望や民主党は1%という支持率と国民の支持もないし、自分達も政権を狙う気は全くない。
一方で、今の自民党にはこの人に任せておけばと思える人は安倍首相以外に見当たらない。
候補者に名前が挙がっている中で石破氏は今、自分の派閥ですら満足にまとめきれず、有力者で退会者が出ようとしていて、世論の支持とは裏腹に、永田町では彼の眼はまずないとみられている。
現在、最有力で、安倍退陣ならまず間違いなく次期総理と言われるのが岸田元外相である。
しかし、彼を首相に選出したら、彼は消費税増税派であり、来年の消費税は間違いなく予定通り実行され、東京五輪を前に日本は大不況の突入するのは必至である。
それだけでなく、岸田氏は問題集団、旧宏池会の代表でもある。
宏池会は池田勇人元首相が作った派閥で、池田氏は高度経済成長を指導し、日本の今日の基礎を築いた名首相である。「貧乏人は麦を食え」発言は、誤解されているが、あの言葉は彼が言ったのではない。
当時、まだ、日本が貧しい時代で、野党の人間が国会で「満足にコメも食べれない日本人がいる」と追及したのに対して、池田元首相は「貧しくてコメが買えない時は、(より安い)麦もあるでしょう」と言ったのである。
これに対して、質問した野党議員が「貧乏人は麦を食えというのか」と言ったのだ。これがいつしか、池田元首相が「貧乏人は麦を食え」と言ったと伝わり定着したのである。言ったのは野党議員で池田氏ではない。これもマスコミの嘘である。
池田氏の後、宏池会は暗愚と言われた鈴木善幸元首相、大平正芳元首相、そして、IQの高さと英語力だけが自慢で酒乱で、田中角栄元首相から「英語屋」「通訳」とバカにされた宮澤喜一元首相と、いずれも落第点の首相を輩出している。
それだけでなく、宏池会は宮沢談話、河野談話と、後世の日本に大きな汚点を残し、今もそのバカな談話で日本が苦しんでいる愚かな行為をした人達の集団である。
池田首相以降の宏池会の最大の欠点は、その場しのぎの対応で、相手に合わせて行動するというハト派的気風である。だから、絶対譲ってはいけない対中国や対韓国相手に譲ってしまい、その事で何十年も日本が苦しみ、迷惑しているという事である。
かつて、首相候補がきら星のごとくいた自民党も今は、まともな首相候補がいない。だから、安倍首相が5年も続けているのだし、もう少しやってもらわないといけないのだが、皆でその安倍首相の足を引っ張り、日本を不幸の道へ引きずり込もうとしているのである。
宏池会の話はともかく、朝日新聞の幹部は「安倍政権を打倒してみせる」と公言しているようである。そして、その宣言通りに、少しの真実を織り交ぜた嘘で、連日安倍批判・攻撃を繰り返している。
この少しの真実を織り交ぜ、大半の嘘で、間違った結論を導いて、人々に嘘を説いて説得していくというのは、共産主義者が最も得意とする手法である。
筆者も大手マスコミに長くいたので、朝日新聞の記者に知人も多いが、常識的な人も結構いて、最近の朝日新聞の紙面作り、その姿勢にずっと首を傾げて来た。
しかし、少し詳しく調べると、朝日新聞は戦前から、その中心思想が「日本を滅ぼして、ソ連の指導の下、廃墟の中から共産党革命をする」というもので、その思想に基づいて、終始一貫した行動をしていた事がわかる。確信的な日本亡国主義者達なのである。
戦争中に、ソ連のスパイとしてドイツ人ジャーナリスト、ゾルゲと、朝日新聞社で十年以上記者を務めた後、当時の近衛首相のブレーンで、中国問題の専門家という肩書だった尾崎秀実が逮捕された。
尾崎は拘置所の中で多くの手記を残し、家族宛てにも手紙も数多く書いている。そして、その中で、自分がスパイであった事を認め、その考えを記している。
左翼系の人はこの手記は拷問で警察が書かせたと主張しているが、当時の事情を知れば、それが嘘だとすぐわかる。ゾルゲもスパイである事を認めているし、その後の調べで、彼はソ連共産党員であり、秘密警察の一員である事も明らかになっている。
ソ連は戦後、ゾルゲの功績を高く評価して勲章を送っているし、今でも多磨霊園にあるゾルゲの墓にロシアの要人が足を運んでいて、墓に花が絶える事はない。
また、ロシアは尾崎の遺族が望むなら、尾崎に勲章を贈る用意があると発表している。ロシアにとって、スパイとしての功績がなければ、こうした事を発表したりしない。
更に、取り調べの冒頭、警察がスパイとしての容疑であると告げると、尾崎は「自分は政治家であり、政治家としての信念で行動した。政治家である事を認めてほしい」と語っている。尾崎が書いた手記や手紙も論理が明快で、自分が確信犯で行動した事を明確に述べている。
ゾルゲは駐日ドイツ大使に深く食い込んでいて、ゾルゲを逮捕した時、日本政府はドイツ政府から猛烈な抗議を受けた。また、尾崎は首相の片腕である。彼らを取り調べした警察官が戦後、本を出して、尾崎とのやり取りを詳しく書いているが、「拷問を加えるなんて、とても出来る雰囲気ではなかった」と述べている。
やりとりも微に入り細に入りであり、それを読むと、真実だろうと受け止められる内容である。
ゾルゲと尾崎は日本の情報をソ連に流しただけではない。日本政府の方針決定に深く関与し、路線を変更させ、日本を泥沼の戦争に突入させるように仕向けて行ったのである。
朝日新聞関係から逮捕されたのは尾崎だけだったが、当時の朝日新聞の中には共産党員、共産主義者が多数いて、尾崎と連携して、日本を泥沼に誘導する紙面作りをしていた。
そして、朝日新聞出身で国会議員になった男、風見章は、近衛内閣の秘書官長、今でいう官房長官を務めており、オール朝日連合で、日本滅亡の行動をしたのである。彼は戦後、社会党の国会議員になっている。
終戦から5年経って朝鮮戦争が起きて、アメリカがそれまで、むしろ支援していた共産党を取り締まりだし、日本の各界から共産党員やそのシンパを排除する、いわゆるレッドパージをした。この時、朝日新聞社でレッドパージにあって追放された人間は200人を越えていた。いかに朝日新聞が共産党員、マルクス主義者の巣であったかが、この数字を見ても理解できる。
日本を泥沼に引きずり込むために尾崎や、朝日新聞の現役記者や幹部たちは何をしたのか。
真珠湾攻撃に際して、日本が対米に宣戦布告をした時の昭和天皇の詔勅では、「対米交渉で、日本は我慢と譲歩を重ね、交渉をして来たが、相手の態度は理不尽でもう我慢の限界を越えた。この戦いは自国が存在していくための自衛の戦争である」という趣旨を明確に述べている。
ところが、その数日後に、近衛内閣は突如、大東亜共栄という言葉を入れて、アジアの諸国を欧米の植民地政策から救う戦いであるという全く違った内容に変わった方針を発表した。大東亜共栄という発想はそれまでにもあったが、政府の方針として明確に打ち出したのはこの時が初めてである。
現在、右翼の人達から、「太平洋戦争というのは、アメリカが戦後、日本の行動を矮小化するためにつけた名称で、日本の行動の本質はアジア諸国の、欧米植民地からの解放であったのであり、大東亜戦争とすべきである」という発言がある。
しかし、この大東亜戦争、大東亜共栄圏という言葉、思想は、共産主義者が日本を泥沼に引きずり込むための思想であったのだという皮肉な話なのである。
当時、日本は今の中国大陸に進出していた。
今の概念と全く異なり、当時の中国大陸、当時の言葉で言えば、シナ大陸、清国滅亡の後のシナ大陸には今のように統一した国など存在せず、シナ大陸の北部は蒙古、満州が広い領土を持ち、南はチベット、ウイグルなどが別の国を構成していた。清国が滅んだ後の孫文から蒋介石に至る中華民国の国民政府は、シナ大陸のほんの一部を支配しているに過ぎなかった。
そして、国民政府も統一して領地を支配していたのではなく、各地に軍閥と言われる雇われ武闘集団がいて、群雄割拠の様態だった。言ってみれば、戦国時代の日本のような状態だったのである。
明治維新後の日本は、アジアの諸国が次々に欧米諸国に植民地になって行っている状態に危機感を持ち、当時、江戸時代の日本と同じように鎖国状態だった隣国の李氏朝鮮に開国、近代化を勧めた。隣の国が外国の植民地になったら、のど元に匕首を突き付けられた状態となり、それは避けたかったのだ。
しかし、李氏朝鮮は、列挙に侵食され、見る影もない清国の属国であり続けた上、李氏朝鮮の支配者は無能な皇帝に変わって妻が権力を持っていた。そして、皇帝の父、つまり妻にとっては舅がそれに対抗して、凄まじい権力闘争を繰り広げ、相手を殺しまくっていて、日本の勧めを無視し続けた。
嫁、閔妃も舅も、自分を有利にするために、時には清国にすがり時にはロシアにすがったりしていた。
日清戦争は李氏朝鮮を他国に侵略されないように、清国から独立させるために、日本が清国と戦った戦争である。そして、それに勝利すると、南に出て来たいロシアと利害が対立したので、ロシアと戦ったのが日露戦争である。
ロシアとの戦いは、日本にとっては精一杯の戦いで、あの時、戦争を終えないと日本はパンクしていた程、財政は逼迫していた。一方で、大国ロシアはまだ余力があった。だから、日露戦争後も、満蒙および、北部シナ大陸で、ロシアと緊張状態が続いていたのである。
共産革命を経て、ソ連となったロシアにとって、自分達と対立する日本軍がシナ大陸の北部にいる事は目の上のたんこぶだった。一方で、欧州戦線では強いドイツと戦っている。勢力の二分は痛い。だから、日本の中心の部隊がシナ大陸にいるのは、なんとしても避けたかったのである。
日本には南部に主力を移して欲しかったのである。このソ連の要望に応えて、日本軍に南進させるために考えられたのが大東亜共栄圏だったのである。
日本が南進すると、英米と決定的に対立して、全面戦争に突入する。そして、これは強い日本を弱くする絶好のチャンスであり、戦争に負けた後の日本に共産主義革命を起こす絶好の機会だったのだ。
ソ連と戦う日本がいなくなることは、ソ連は主力部隊をドイツとの戦争に向かわせる事でできるようになる。そして、予定通り、日ソ不可侵条約を結んで、欧州に主力部隊を派遣し、対ドイツ戦で勝利したのである。
戦争末期の日本では「鬼畜米英」という言葉良く使われ、米英との戦争に勝つというのがスローガンになっていた。この「鬼畜米英」という言葉は尾崎秀実が考えたと言われている。そして、「アメリカとの戦争に勝利を」と紙面で国民を煽りまくり、戦争の拡大に消極的だった軍部に、戦争をせざるを得ないように宣伝して行ったのも朝日新聞なのである。
当時の日本では、通常、「英米」と言っていた。それをひっくり返して「米英」にした。強く資源が豊富なアメリカと日本を戦わせる。そのために、「英米」ではなく、「米英」にし、それをスローガンとして、日本をアメリカとの戦争に引きずり込んだのである。
今でも、ちらしが残っているが、「大東亜共栄圏」「鬼畜米英」をスローガンにした大講演会が朝日新聞社の主催で各地で催された。
では、何故、朝日新聞社にそれ程多くの共産主義者がいて、日本の国民、軍部を意図的に煽り、アメリカとの戦争に駆り立てたのだろうか。
これを理解するには、明治維新から大正デモクラシーの流れを理解しないといけない。
明治維新で近代化し、欧米に追い付き追い越せだった日本では、近代の民主主義国家の発展段階の途上で、他の欧米諸国と同様に、国民は誰でも選挙権があるのではなく、税金を納めている一部の富裕層だけが選挙権を持っていた。
近代化、工業化を急いだので、当然、金は必要で、政府は貧乏で、今のように国民に福祉をなどと考える余裕などなかった。産業革命による近代化は、どこの国でも、厳しい状態で生活する事を余儀なくされた貧しい人を多く生み、そうした人の窮状を訴える社会運動家などが出て来て、大正デモクラシーとなって、一般国民の権利拡大を要求するようになって行ったのである。
そうした時に、ロシア革命が起きた。
実態はともかく、民衆が主権の国家が出来たとアピールしたのである。これが日本だけでなく、欧米でも歓喜をもって迎えられ、世界に共産主義を広め、国民主権の社会を作ろうという意識になって行ったのである。
この共産主義革命で、世界の一般民衆が救われるという神話が言われ、世界で多くの人が信じて、特に学歴の高い人、悲惨な国民の現状を何とかしたいと思っている人の間に、共産主義が深く広く浸透して行ったのである。
当時の日本は明治維新の時の利権で、薩摩、長州出身者が強い利権を持ち、大久保や木戸、伊藤博文、の後輩たちが政府の権力を握っていて、権力の座をたらい回しにしていた。これに対する他の地域の反発もあって、政界も混乱していた。
学会や官僚の世界でも、記者の世界と同様に、共産主義を賛美し、その実現を真剣に考える人が多くなり、学者では東大、京大に共産主義者の教授達が誕生したし、官僚も革新官僚と言われる人たちが登場して来た。
ソ連崩壊や、今の中国の権力者の腐敗ぶりを知っている今の日本人とは異なり、当時の日本人にとって、共産主義はもっと人気があり、自分がその信奉者であるという事を言っても、批判されたり、白い目で見られる事がない時代だったのである。
だから、朝日に限らず、多くの新聞社に共産主義者が多くいたのである。大正デモクラシーを日本に広めたのは記者と弁護士だと言われる。ともに、共産主義を信じ、それを日本でも実現しようと真剣に考えていた人が、一般の国民を1つの方向に誘導して行ったのである。
そして、軍隊の中にも英米と仲良くして、近代化を進め、国を豊かにしようとする人達と、共産主義者が実権を持った共産主義国家で、計画経済を作り、それで日本を豊かにしようという人達の2つの流れが出来たのである。これが皇道派と統制派という2つの対立するグループを生み、お神輿である天皇の取り合いとなった。
そして、その権力闘争の中で、二・二六事件などで皇道派は軍隊の主要な地位を追われ、統制派が中心となり、革新官僚や共産主義者の新聞記者と徒党を組んで、日米戦争、破滅への道を歩んでいくのである。
その運動をした多くの人は、純粋に共産主義は良いものだとして信じた。しかし、尾崎やその他、朝日新聞に巣くっていた共産主義者は、真剣に日本という国を亡ぼす事を考えていた。
日本人なのにどうしてと思う人も多いと思うが、彼らの論理だと、対米戦争に負ければ、日本は荒廃し、支配階級もいなくなる。そこで、ソ連の援助で共産主義国家を作り、国民にとって幸せな国にするという、信じられない考えを持っていたのである。
これはレーニンが考えた発想で、これを「敗戦革命」という。
尾崎は一高、東大を出て、朝日新聞に勤めている。
家が豊かでないと、当時、そんな教育は受けられなかった。共産主義を自分も信じ、自分の周りの多くの共産主義者を置いた近衛首相は、皇族でありながら、共産主義に共鳴し、それが素晴しいものだと信じていた。
こうした人達に共通するのは、家が豊かで、自分は貧しい事を知らないので、貧しい人、虐げられた人を見ると、自分の豊かさに罪悪感を持つようになり、上から目線で、貧しい人を救おう、日本を解放しないといけないという発想につながっていくのである。
ソ連になど行って、共産主義の実態を見れば、その嘘がすぐにわかるのだが、頭で考え、構築した発想は、冷徹に事実を見るという記者として、なければならないスタンスを持たずに、「日本はこうあるべき」「こうないとおかしい」という論理、理屈が先にあって、それに社会や国民を合わせて行こうとする発想、行動になるのである。
また、例え、共産主義になった中国やソ連に行っても、そこには、中国人、ロシア人だけでなく、欧米から集まった共産主義者がいる。この筋金入りの共産主義者に論理で説得され、時には異性の活動家に体を使っての説得、色仕掛けを受け、溺れて行ったり、弱みを握られて宣伝部隊員になって行くのである。
尾崎も中国に行き、アメリカ人の女性ジャーナリストで、中国共産党に深く食い込んでいた共産主義者、アグネス・スメドレーと親交を持つようになり、彼女にゾルゲを紹介されている。
ソ連で共産革命が起きた時、欧米先進国の首脳は衝撃を受け、自分達に革命が及ばないように防御姿勢で身構えた。一方、ソ連側は共産主義を広めようと、国際的な広報部隊であるコミンテルンを組織し、世界各地の共産主義者を支援し、それぞれの土地で、自分達の指示通りの行動をするようにして行った。
日本共産党はコミンテルン日本支部として設立され、長い間、ソ連及び中国から多額の資金援助をもらっていた事が、ソ連崩壊による政府文書の公開で明らかになっている。
また、北朝鮮の日本代表部である朝鮮総連は、日本共産党内での朝鮮人の勢力が強くなり過ぎ、朝鮮人に主導権を奪われる事を恐れた日本人党幹部が、党の規則に国籍条項を入れたために、日本共産党員として活動できなくなったので、分離して朝鮮総連を結成したのである。
つまり、朝鮮総連は日本共産党の一心同体から分離した組織なのである。
コミンテルンから援助を受けた共産主義者が活動して成果を挙げたのは日本だけではなかった。
最近の研究で、日本と戦ったアメリカのルーズベルト大統領の周辺には数多くの共産主義者がいて、日本との戦争に向かうように、アメリカ内部で活動していたという事が明らかになっている。
尾崎など共産主義者に散々利用され、自分も共産主義を信奉していた近衛首相は首相を降りた後、終戦の半年前に、天皇に上奏文というのを出している。
その中で、近衛元首相は「今の日本には軍部、官界、産業界、マスコミなどに多くの共産主義者がいて、ソ連の世界侵略戦争に利用されている。敗戦による共産革命の危機が迫っている。散々、利用された自分が言うのはおかしいが、今の内に対策を打たないと大変だ」と訴えている。
この近衛上奏文についても、左翼の人は「気が触れて書いたもので、信用できない」と言っているが、終戦まじかになって、自己保身も何もない。心から反省して、天皇に伝えようとしたと受け取るのが普通の感覚だと思う。
戦争が終わった後、朝日新聞社は「戦時中、対米で戦えと国民を戦争に駆り立てた事を反省し、これからは戦争が起きない国作りに協力していく」という趣旨の社告を出している。
しかし、これは偽装にしか過ぎない。
元々、確信犯的に、日本を敗戦に導き、その荒廃した地で巨さん主義革命をソ連の指導も下で行う」という「敗戦革命」の信奉者達が会社の中心にいて、確信的に「敗戦革命」を進めて行ったのである。
そして、日本は負けたが、朝鮮戦争で日本防共の防波堤になったので、日本で共産主義革命を起こすのは無理になってしまった。それならどうしようかと考えて、とにかく、日本を貶める行動に徹して来たのである。
それが具体来て出て来た例の1つが靖国問題である。
最初は中国人の要人が誰も問題にしておらず、戦後、天皇陛下も歴代の首相も参拝していた靖国神社について、「A級戦犯が祀られているのに、どうして抗議しないのだ」と中国要人に、会見で迫り、彼らが「もし、そうなら、それは問題だ」と答えると、「中国要人が強く抗議」という記事を書き、日中双方で煽りを続け、問題がなかった靖国を争点の1つにしてしまったのである。
従軍慰安婦の話もそうである。
今の朝日では、吉田某という人が書いたのを信じて、紙面に載せたと言っているが、吉田を焚きつけて、どんどんそういう発言をするように仕向けて行ったのは朝日新聞である。また、この問題が現地調査で嘘とわかっても、その取材記事を没にして、逆に、朝日の女性記者が国連の人権委員会に嘘の内容の報告書を提出して、国際社会の間で従軍慰安婦を定着させてしまったのである。
朝日のこの有名な女性記者がアジアに取材に行った時、現地の人が従軍慰安婦の話は嘘だという事を言うと、この女性記者は「嘘でも本当でもどうでも良いの。日本が悪いという記事を書くのだから」とその現地人に言ったという話まで残っている。
朝日新聞で定年まで記者をしていた長谷川熙氏が「崩壊・朝日新聞」という本を数年前に書いて、朝日新聞の内部がどうなっているかを書いている。
それによると、共産主義者が福岡の西部本社の代表者になったり、大阪本社の役員になったりしていて、長谷川氏が在籍している時でも、幹部が「社内にはマルキストじゃない人間はいないわな」と公言したりしているという。
こんな朝日新聞がどうして、従軍慰安婦の話で謝罪する記事を書いたのだろうか。
不審に思って聞くと、ある情報通がこんな話を教えてくれた。
朝日新聞のトップたちは、消費税が8%に上がる時、新聞は軽減税率を受けられると思っていたが、適用されなかった。そこで政治部人脈で、自民党の大物に探りを入れると、従軍慰安婦の報道に安倍首相が不快感を持っているので、軽減税率の対象にしなかったのだと答えたという。
そこで朝日新聞の首脳は消費税の減免対象にしてもらおうと、従軍慰安婦問題での謝罪記事を掲載したという。でも、嘘は多くの関心ある人は知っていたし、マイナス50点をマイナス20点にした行為を良しとして、軽減税率の適用になる事はなかった。
朝日新聞の首脳はこの仕打ちに怒って、最近の安倍降ろしの執念のキャンペーンになったというのだ。
この話が本当かどうかは知らない。事実であったとしても、誰も裏打ちなどしてくれない話だ。
でも、亡国の行為を繰り返しながら、自分達が生き残るためなら、膝も屈するという事でも何でも平気でするという姿勢が良くわかる話である。
筆者はマスコミ出身者だが、マスコミの嘘、間違いについて、もっと厳罰化するように法律を変えるべきだと考える。
これは官僚の行為で不利益を被った人が訴える事が出来る行政裁判所のようなものの設置と同時に、マスコミ被害賠償法とでもいうべき法律の設置である。
個人でも国でも自治体でも誰でも、不利益を被った場合にはマスコミの会社、当事者、記者、番組のディレクターなどを訴え、訴えた人の主張が正しければ、多額の賠償金を払わないといけないという法律を作るのである。
こうでもしないと、今の朝日新聞やテレビ局のような確信的な誤報垂れ流しは続き、今や不動産会社となっていて、マスコミ部門での収入が減っても経営が揺るがない状態になっているマスコミは、少しの事では堪えないのだ。
こういうと、言論の自由弾圧だという事をいう人がいると思うが、弾圧されたくなかったら、もっとまともな真実を報道すべきであり、今のようなマスコミなら言論の自由などなくて良いとさえ言える。
言論の自由を言い訳に嘘を流す事が言論の自由なら、そんな自由はいらない。
20180411
実際にあった事実をきちんと教えない今の日本の教育
韓流ドラマは嘘だらけというのは定説で、事実をその通り描いたら、あまりに惨めなので、こうありたいという願望で歴史ドラマを作っていると言われている。
李氏朝鮮の時代には、国民の9割は奴隷状態で、粗末な家に住み、風呂に入るという習慣は基本的にないので、垢だらけ、泥だらけの姿だった。普通の人はトイレで便をするという習慣がなく、ノグソが一般的で、町中のそこいらじゅうに糞が落ちていて、町中に悪臭が漂っていた。
1割ほどの貴族、支配階級である両班達は、9割の国民を人として扱わず、搾取の限りを尽くした。そして、無理な税金を取り立て、それを払えない人に対しては、手や足の骨を一本づつ折るという折檻をして、苦しむ叫び声が街に響いていたという。
衣服は染料を買う金がないので、9割の国民のほとんどが白い服を着ていたが、白い色なので、泥と垢が余計目立つ状態だった。
こうした韓流ドラマ程ではないが、日本の歴史ドラマや時代劇、そして、学校での歴史教育も、本当にお粗末で嘘だらけである。
そして、何よりも、実際にあった事をきちんと教えないという姿勢が筆者には理解出来ない。自分達の先祖の正しい姿を知らずに、どうして今、これからの日本、日本人を語るというのだ。
日本の時代劇ドラマをテレビなどで見ていると、武士が刀を振り回して好き勝手をして、町民が困り果てている様子がよく出て来る。これは歴史的な事実と全く違う。
江戸時代も中期以降になり、世の中が落ち着いて来ると、武士が街中で刀を抜く事は基本的にご法度となった。理由もなく刀を抜いた武士は重いお咎めを受け、切腹、御家断絶も珍しくなかった。
武士は精神鍛錬をし、いつも世の模範となり、嫌な事、苦しい事にも耐えねばならないという考えで、いつも泰然としていないといけなかった。だから、怒りや不満で刀など抜いてはいけなかったのだ。
そうした事を知っているので、町人の方でも少し不良や気が荒い人達は、「刀が抜かない武士」をからかい、駕籠かきはわざと乱暴な籠の担ぎ方で、からかったりしたという。
それでも、武士は我慢した。それが真実の江戸時代の武士の姿である。
金を借りる時も、農民、商人、職人、武士という人の中で、武士が一番金利が高かった。
江戸時代の人間は現実主義者で、農民や商人には、いざ、貸した金が滞った時に金の代わりに差し押さえる土地や店、商品がある。職人は腕さえ一人前なら仕事さえすれば、金は入って来た。
しかし、武士は担保になる土地も店もない。コメが不作の時には、報酬も減らせるかもしれないし、給料以外の副収入は全くない。貸し倒れの危険性が高く、それだから、金利が一番高かったのである。
鬼平犯科帳などを見ると、押し込み強盗が頻繁に出て来る。しかし、これも実際は滅多になかった。
江戸は夜は街ごとに木戸が閉まって、よそ者がその地区に入って行く事は難しくするなど、町全体を防衛体制状態にしていたので、強盗が民家に押し込むというような事はかなり難しかったのである。
強盗や殺人が滅多にない治安の良い街だったので、今で言うと、警視庁と東京地方裁判所を兼ねた町奉行所には、与力、同心など治安にあたる者は数十人しかいなかった。牢屋に入る罪人が極めて少なく、治安はとても良かったのだ。
韓流ドラマもそうだが、日本の時代劇についても、「あれはフィクションで、作った物語を楽しんでいるので、事実と違っても良い」という人がいる。
しかし、そこまで知って見ている人は、そうは多くないように感じる。
筆者はかつて、ある企業経営者と話をしていて、「鬼平犯科帳の世界はほとんどフィクションですよ」と言ったら、その経営者は「そんな事はない。私は池波正太郎先生を信じていますから」と猛烈に反論された。
事実でない時代劇ドラマは、嘘の歴史、事実と違う嘘の習慣、生活を心に刻み込んでいるのである。
学校で習う歴史の授業では、「明治維新で日本は近代化が出来、欧米に急速に追いついて行った」という事になっている。
それを国民に広く定着する手助けをしたのが司馬遼太郎氏で、彼が唱えた歴史観は「司馬史観」という名前で、今の多くの日本人の歴史認識の基本になっている。
しかし、ここ数年、明治維新について、これまで言われて来た事に、異議を唱える本が何冊も出されて来た。明治になって、西郷や大久保という維新の志士たちがリーダーとなって、日本の近代化を進めたというのは嘘で、明治維新がなくても、日本の近代化は出来たという事が言われ出した。
「明治維新はクーデターで、西郷はテロリストだった」 というような本まで出て来ている。
そも明治維新とはなんであったのか。
ある人はイギリス、フランスなどの国が幕府、官軍の双方について、双方を戦わせ、両方が疲れ果てた時に、一気に攻めて日本を植民地にする積りで、薩長をけしかけたのだという。
映画やテレビで描かれている徳川幕府の重臣は無能で、欧米の使節に対応が出来ず、右往左往したように描かれているが、実際はそうではなく、かなりしっかり、国難に対応していたのである。
例えば、ペリーが浦賀沖に来た時、幕府の重臣達は1年後に来るように答えた。
そして、ペリーが再度来た時、どうなっていたかと言えば、その1年足らずの間に、徳川幕府は江戸湾にお台場を築き、次に艦隊が来た時には、艦隊に対して大砲が向かっていて、艦隊は江戸湾に入る事が出来なかったのである。
1年足らずで、こんな対応をした国は日本の他にはない。
少し前の時代だが、ポルトガル人が種子島に銃をもたらした時、地元の領主は3丁を買った。1丁が今の金にして1億円くらいだったという。
大儲けをしたポルトガル人は数年後、再び種子島に来て、銃をまた売ろうとした。しかし、日本人は買った銃を見本に自らの手で銃を作り、数年で、世界で一番銃を保有する国になっていた。それを知って、欧米諸国は日本を植民地にするのは大変だと感じたのである。
ちなみに、江戸を離れたペリーはアメリカに帰ったのではなく、琉球に行っていた。そして、琉球で乱暴狼藉、好き勝手をしていた。相手がひるむような対応をしなければ、日本本土も琉球と同じ目に遭っていた事は間違いなかったのである。
歴史的な事実として、幕末近くになると、日本周辺には西欧の艦隊が多く行き来した。それに各藩は危機感を持っていて、情報収集を行い、対策を協議したりしていた。日本の今の歴史教科書が教えるように、ある日突然、黒船が来て、日本人がビックリしたというのは嘘でなのある。
多くの各藩では、藩校に家来の子弟を通わせ、身分の上下に関係なく教育をして、その結果を公表した。そして、親の身分が低くても、成績の良い者は江戸の藩邸に送って、進んだ勉強をさせ、藩についての改革提案などを出すように求め、重用したりしている。
各藩の改革はどんどん進んでいたのである。
幕末の藩では、佐賀藩と東北の庄内藩の武器は最新鋭で、西欧のそれに劣らない内容のレベルに達していて、この両藩が戦った東北の戦いでは、力が拮抗していて、なかなか決着がつかなかったという。
佐賀藩の武器は海外からの輸入ではなく、自分の藩で製造したもので、旧藩でも、そうした力を持ったところまで出て来ていたのである。
薩摩長州が中心の官軍は会津藩に攻め込んだ時の事は、白虎隊の話などで語られているが、本当に語り伝えられないといけない話については、ほとんどほとんどの日本人が知らない。
戦いが終わった後、官軍は会津の街に居座り、街を人を荒らしまくった。「会津に処女なし」という言葉がある。この時の事を表したのである。十歳くらいの女の子から六十代の女性まで、徹底して官軍の性的な被害にあったのだ。それも、何日も。
会津藩の悲劇は更に続く。藩の武士とその家族は会津の地を追われ、青森の極寒の不毛の地に行くように命じられた。満足に作物が獲れないその土地で、万単位の人が飢えと寒さで命を落とした。
官軍の狼藉は今の新潟県でもひどかった。
どこの街でも少し歴史がある所なら、江戸時代から続いている老舗の店があるが、新潟市には江戸時代から続いている老舗は存在しない。
商店はどの店も、その後、店を維持していく事が不可能なくらい、徹底的な収奪に遭ったのだ。
江戸時代には町民の教育機関として寺子屋があったというのは知られているが、その寺子屋の実態はあまり知られていない。
江戸時代、日本の人口は3千万人程である。この人口で寺子屋は全国に1万5千から2万あったという。ちなみに、人口が4倍になった今の日本で小学校の数は2万校である。江戸時代の寺子屋の数がいかに多かったかがわかる。
寺子屋に基本的に7、8歳で入り、6年間勉強をした。毎月、1日、15日、25日が休み、それ以外では五節句、年末年始だけが休みで、授業は昼休みを挟んで、朝の8時から午後の2時までだった。
教師は豊かな町人、医師、神官などがなったが、授業料は今よりも遥かに安く、教師側はボランティアに近かったという。教師の半数は女性だった。
教師の公的な資格はなかったが、教師、当時の言い方だと、師匠になると、名鑑に載るので、尊敬されるのが、報酬のようなものだったという。
教える内容は読み書き、そろばんという事に加えて、その子供の親の職業に合わせて、子供に農民には農民の基礎知識、商人の子供には商人に必要な知識の教育と、その子供の合わせた教育をした。
教材は「商売往来」「百姓往来」などというタイトルで、もの凄い数の教材が寺子屋にはあり、その中から必要な知識を教えて行った。
また、漢字5文字からなる漢詩スタイルの「童子教」「実語教」で、倫理や人としての心得なども、小さな頃から暗唱させ、少し大きくなってから意味を教えて、心に刻み込んで行った。
幕末の頃には就学率は8割位で、日本人の識字率は8割で、当時の欧州の識字率はイギリスで2割、フランスは1割くらいだった。
苗字の話についてだが、教科書には江戸時代の町民、農民には苗字がなかったが、明治になった、苗字を名乗る事が認められたので、皆、自分の苗字を選んだとなっている。
しかし、これも嘘である。
江戸時代には、町民にも苗字があった。しかし、江戸時代が20年近く経った1801年に、苗字帯刀令が出て、農民、町民は苗字帯刀が禁止されたので、公的には名乗らなくなったに過ぎない。
だから、明治時代になって、苗字を名乗って良くなった時、ほとんどの日本人は元々の苗字を名乗ったのに過ぎない。新しい苗字を選んだ人は極めて少なかったという。
戦後の日本の教育の最大の間違いは、考える事、疑問を持つ事を軽んじ、丸暗記、詰込み教育、「言われた事をその通り覚える事」を子供たちに強要した事である。
物事には原因と結果がある。何かが起きる時には原因があり、その出来事がまた別の事に波及し、新しい事を派生させて行く。こうした物事の流れを考え、追う習慣が身に着くと、新しい事に出会っても、考えて類推が出来るようになる。
しかし、戦後の日本では、「何故、どうして」を問う事を教師が事実上、禁止し、考える事を禁止してしまったため、子供達、そして、やがて成人した人達が自分の頭で考えず、命令の通り動くロボットになったしまったのである。
命令通り動くだけでなく、事実が命令と異なった時でも、命令に合わせて、事実の方を捻じ曲げて処理し、表面を取り繕うという習慣が身についてしまったのである。
企業の相次ぐ不祥事、官庁のデータ改ざん事件、嘘の報告などは、こうした教育が徹底された結果、当然のように起きて来たのである。どこかの企業、特定の役所の特殊な話ではないのだ。
加えて、日本の、そして、日本人の過去、あった事、そして、その原因と派生した事を関連付けて考える事を教えず、歴史は年表だけの暗記だけにしてしまったので、本当の歴史や、そこで活動した人が何を考え、どう行動したかが見えなくなってしまったのである。
島原の乱を例にとると、重税とキリスト教弾圧に抗議した農民を中心とした人達は、島原藩や唐津藩の軍隊を相手に4か月間戦った。この事を聞いた時、何か不思議だと感じないといけない。
まず、反乱軍の数は3万7千人である。
3万7千人という数字は、第一次の元寇で、攻めて来た元とその手下の高麗軍を合わせた数である。日本を襲った未曽有の危機の時の敵方の数と同じくらい凄い数字なのである。
また、川中島で上杉謙信と武田信玄が戦った時、両軍合わせての人数と同じ数である。とてつもなく多い数字なのだ。1地方の反乱で、そんなに数が集まったのは何故だと考えないといけない。
島原藩や唐津藩は、最初は甘く見て、同じくらいの兵で攻めて、撃退された。
でも、甘く見たにしても、農民中心の反乱軍に正規の武将の軍隊がなぜ、そんなにてこずったのかという疑問が出て当然である。後半になると、反乱軍は籠城するが、初めの内は籠城ではなく、城外で戦っているし、島原藩の城も攻めている。
島原の乱は反乱の理由として、重税とキリスト教弾圧への抗議を教わる。つまり、反乱を起こした方が大いなる被害者だという解説が日本での教科書の定説である。
でも、キリスト教会は、ここで死んだ天草四郎などの教徒達を聖人にもしていないし、殉教者にもしていない。何故だろうか。これも考えないといけない。
こうした疑問を持って資料を少し調べると、色々な事が分かって来る。
まず、重税に苦しんだというが、最初のトラブルは信者側が代官や周辺住民に、キリスト教への改宗を迫り、拒否する代官を殺害した事などから起きている。代官に限らず、周辺住民で強制されてキリスト教に改宗させられ、反乱軍に入らされた者が結構いるのだ。
そして、何よりも、代官との交渉では宗教の話はしていても、何故か、年貢の話はしていないのだ。つまり、年貢が重すぎるから反乱を起こしたという話がどうも違うのだ。
この地区は小西行長、有馬晴信というキリスト教大名の支配地だったが、関ヶ原の戦いで、小西行長は処刑され、領主が変わった。そして、以前の小西、有馬の領主の家臣のかなりの数の者が農民となった。
つまり、農民とは言うが、つい数年前まで武士だった人が多くいたのである。
そして、彼らは熱心なキリスト教徒で、自分だけが信仰するだけでなく、他の人に信じるように強要して行き、トラブルが発生していたのである。
戦いが起きた時、反乱軍側には3千丁の鉄砲があったという。物凄い数である。一説には、ポルトガルなど外国が武器を支援し、日本に内紛を起こさせたという話もある。
いつまでも城を陥落させられない事に怒った将軍、家光は周辺の大名に攻めさせるのではなく、江戸から老中、松平信綱を司令官に任命して送り、遂に陥落させた。
戦いの最後の方に、何故かポルトガルの船が城に向かって砲撃している。ポルトガルの支援を期待していた反乱軍に、この砲撃が与えた影響が大きかったようで、最後は反乱は鎮圧された。
当初、反乱軍に支援したと言われ、その後、反乱軍からも支援を期待されたポルトガルは、反乱軍の城に向けて砲撃しないといけない理由があったのである。
反乱軍を応援し、武器も与えたが、そこを幕府に指摘され、日本での利権を失いそうになったので、反乱と関係していていないという事を示すために砲撃したと解釈するのが普通だろう。
島原の乱だけでなく、日本におけるキリスト教の布教禁止の話は、教科書や、こうした題材を扱った小説で、「理不尽なキリスト教弾圧」というトーンで語られる事が多い。
しかし、キリスト教の牧師は単に宗教の布教にだけ日本に来たのではない。
他の東南アジアやアフリカ、中南米の例でもそうだが、宗教はその土地を支配し、植民地にし、搾取するための1つのツールとして使われたのである。
欧米人が描く、この時代の映画「ミッション」などを見ても、バイブルを片手に持ち、もう一方の手で剣をもって、「キリスト教を信じるか、さもなければ、死を」と現住民に迫るシーンが出て来る。
キリスト教の牧師が日本に来るようになってから、日本人の女性が誘拐、拉致され、海外に売られたという話が結構な件数ある。日本人が関与していたケースもあるし、ポルトガル人だけでしたケースもあるようで、日本に来た宣教師も海外に売られる日本人女性の話を書いている。
キリスト教の牧師はただ善意で日本に来たのではないのである。
20180409
学校と、その分野の権威が書いた本で、嘘を教わり続けた戦後の日本人
よく指摘される事だが、韓国の学者が発表したり、本にしたりしていて、韓国の学校で普通に教えていて、多くの韓国人が信じている話には、吹き出すような嘘が多い。
韓国人によれば、「寿司」も、「剣道」も「柔道」も「空手」も「桜」も、全て韓国が発祥の地であり、韓国、朝鮮人が日本人に教えたことになっている。
また、韓国には、日本や中国を遥かに上回る5千年の歴史があり、古代には中国大陸のほとんどを韓国・朝鮮人の祖先が支配していた。更に、日本の天皇の祖先は朝鮮の血筋であるなどと本に書いたり、話をしたりする韓国の大学教授がいて、多くの現代の韓国人が、そうした事を教わり、それを信じている。
だから、日本や欧米に行って、この嘘を否定されると、韓国人は自分のアイデンティティーを否定された思いになって、キレて猛反発する人が少なくない。
今の日本では、こうした韓国のほら話を笑っている日本人が少なくなく、その嘘を信じている日本人は少数である。
でも、多くの韓国が信じているこの嘘を、日本人は笑えるだろうか。筆者は日本人も似たり寄ったりで、とても笑えないと考えている。
戦争に負けた後の日本は、マッカーサーが率いるGHQに支配され、その考え、理屈の下に作られた、本来の日本の実情や歴史、文化とは違う事を、あたかも事実であるかのようにして教えられた。
そして、やむを得ずか、進んでかは別として、GHQ支配に協力した多くの日本人がいて、ある意味ではGHQが考えた以上に、GHQ思想に忠実なストーリーで、日本人を教育し、それが70年経った今も続いている。
今、日本で販売されている教科書や参考書、本には、このGHQが考えたストーリーに即した話が中心的に書かれていて、日本人は今もそれを真実として教わっていて、占領が終わってもう60年以上経つのに、そのままの教育がなされているのである。
更に不幸な事に、宮沢元首相が鈴木内閣の時の官房長官として、「宮沢談話」を出した事をきっかけとして、日本で日本人に教えるために作られる教科書、参考書に、韓国・北朝鮮、中国に配慮する「近隣条項」という化け物が、文部省の指導の中に強力に存在するようになって、今に至るも、歴史的な事実や、文化、芸術にいたるまで、韓国、中国に配慮して、記述するようになり、事実が今尚、どんどん捻じ曲げられているのである。
また、日本人の学者の中には、その後の遺跡発掘などで、重要な新事実が発見されたりしているのに、自分の従来の説を覆す事をよしとしない人が少なくなく、歴史や文化などのあり方を大きく変える発見をことさら無視して、明らかに間違いとなった、これまで教えて来た事に修正を加えず、そのままにしている人が結構いる。
そして、本来、新事実を下に教科書や参考書などを修正していかないといけない立場の文科省は、もっとひどく、意図的に新事実を無視したり、逆に、覆い隠そうとしたりしている。だから、自分で少し勉強でもしない限り、多くの日本人は、学校や本で習った嘘をいまだに信じている人が少なくないのである。
例えば、日本人のルーツの話では、筆者が学校で習った教育でも、縄文時代は狩猟生活であったのが、弥生時代は中国、朝鮮経由で渡来人が稲作をもたらし、弥生時代は農耕の文化となり、人々の生活は安定したとなっていた。
しかし、その後の発見で、縄文時代に既に稲作がされていて、その稲作は朝鮮半島経由ではなく、中国南部から遥か昔に伝わっていたというのが、今では学者の間の常識となっている。
また、縄文遺跡からは、世界最古とされる打製石器、磨製石器が見つかっている。
つまり、金属がまだ農耕具に使われていない時代に、石を加工して尖らせ、工具として使っていた事が分かったのである。それが世界最古のもので、そこから、縄文文化というのは、世界最古の文明ではないのかという説さえ出ている。
世界最古というのは凄いことである。
決めつけなくても良いから、こういう説があるという事だけでも教えたら良いと思うのだが、文科省や学者は全くこうした事を説明しようとしない。
更に、習った教育では、縄文人と弥生人は別の人達で、稲作を伝えた半島の人達が日本に住み着いたので、顔つきも服装、生活様式も変わったとなっていたが、今の定説では、日本人が縄文時代と弥生時代で大きく人種的な変更はなく、同一の人種、民族であるというようになっている。
つまり、大陸、朝鮮半島から多くの渡来人が来て、稲作などの進んだ技術を伝え、それで日本が進んだ生活様式になったというのは嘘である事がわかって来たのである。
勿論、当時は他の大陸でも、国家という概念がまだあまりはっきり存在していなかったので、人の自由な行き来はあったものと思われるが、我々が学校で習ったような大規模な民族移動によって、人種や生活様式に大きな変化があったというのは、間違いである事が分かって来たのだ。
つまり、縄文時代と弥生時代を区別すること自体、あまり意味がなくなって来ているのだが、そうした遺跡などからの発見による事実を文科省は、何故か極小化し、従来通りのまま教えている。
今の教科書は何でも、進んだ文化、技術は中国、韓国経由で、彼らが日本人に教え、日本人は教わったたというトーンで貫かれているのである。
別の話だが、邪馬台国はいまだに、東大説と京大説で、その存在場所が九州と近畿地方の2つのままで教科書に載っているし、参考書などもそのままである。
しかし、魏志倭人伝や漢書など中国の歴史的な資料を丹念に読むと、邪馬台国がどちらにあったのかという論争自体が無意味になってしまう。
素直に資料を読み、常識で判断すれば、日本列島にはかつて、多くの小国が存在していた。
それが次第に統一されて行った。しかし、邪馬台国の時代でも、日本は1つの国に統一されていなかった。邪馬台国の南には別の国があったと、中国の古い文献、資料は示している。
つまり、何百という国が統合されていったとしても、まだ、1つになっていなかったのである。
倭国、当時の日本から2つの代表団が来て、中国の皇帝の前で、「自分達こそが倭国の代表」と言って譲らず、言い争いをしたという記述が、中国の古い歴史の資料に記されている。
様々な事を総合すると、当時の日本列島には、九州に強く、強大な国が存在している一方で、近畿地方にもう1つの強大な国が存在していた。そして、その2つの国が日本全体を2分しているのではなく、その他にも2つの国に完全に統合されていない別の国もあったと考えるのが、素直な解釈である。
そして、やがて、その強い2つの国が統合され、日本を代表する大和朝廷が誕生したというのが、わかりやすい説明である。
話がそれるが、今、学者は大和朝廷という言葉を使わず、大和王権という言葉を多用する。
これが曲者なのだ。王権という言葉を止めさせないといけない。
日本人にとって、王様と皇帝、天皇の区別がつかない。でも、中国語や韓国人のとって、これは明確な差があるのだ。
「王」は日本人が考える一国の支配者ではなく、皇帝の僕の一地域の藩主のような意味なのである。だから、韓国の新聞は今でも、日本の天皇の事を「日王」と書くのだ。
これは蔑称なのである。日本に対する侮蔑、天皇に対する侮辱なのである。
それはともかく、どこの国でも、おとぎ話や古くから伝わる民話などに、歴史の真実が隠されている事が多い。だから、神話やおとぎ話は大切にされ、子供に引き継ぎ、伝えられて行っている。
しかし、戦後の日本では、そうした事が日本人と日本人の歴史と民族に誇りを持つ事につながり、それはGHQの占領政策に反するとばかりに、教育現場から排除され、教える事がなくなった。
特に天皇、朝廷に関連する事は教育現場から排除された。そして、GHQが去った今も、今度は文科省や日本の学者の手で、その排除が続き、時には強化されているのだ。
大国主命の国譲りの神話や、桃太郎の鬼退治の話は、おとぎ話だが、これは国家統一の作業をしていく上で、禅譲をしてくれた国もあったし、戦って支配下に置いた地域もあったという事を示している。
桃太郎伝説は、今の岡山県と香川県にその話に由来する地名が、今でも存在する。
今の推理では、岡山の吉備地方に製鉄技術を持つ強い国があり、それを大和朝廷が攻めて、鬼、つまり、敵軍を制圧して、支配下に置いたという事だろうと言われている。出雲地方を支配していた大国主命に対しては、戦わずに傘下に入る事を勧め、大国主はそれに従った。それが大国主命の国譲りである。
ちなみに、遣隋使や遣唐使の派遣や、中国皇帝への朝貢の話だが、これを今の教科書は、偉大で進んだ文化を持つ中国の皇帝に配下として、使いを送って、貢物を送ったという感じで教えているが、これも全く嘘である。
中国大陸の皇帝は、自分が世界の中心であり、貿易や行き来をするのでも、朝貢をするということにしないと認めないというスタンスだったので、行き来、貿易を行うために、朝貢というスタイルを取ったに過ぎない。
実際は、年始の挨拶位の位置付けだったのである。
もっと、言えば、遠くから多くの国の使者が皇帝の所に来るという事が、皇帝の権威付けであり、渡航費のかなりの部分を中国側が持った時もあるという。
当時は、技術的、物理的に、行って帰って来るのも大変な時期で、行って帰って来るのは4人に1人という大変な旅行だった。それでも、行ったのは、行く事で、持ち帰るものが高く売れるので、権力者が自分の資力を肥やすために続けたという事情もあった。
本当に進んだ文化を吸収というのは、初期のほんのわずかな時期だけである。
だから、菅原道真は権力者の私利私欲のために、多くの犠牲者を出すのはダメという事で、使節を送る事を止めたのである。でも、それ利権を持つ者からは恨まれ、讒言を受けて、九州に左遷されたのだ。
邪馬台国の話に戻ると、中国の皇帝から送られた金印が発見されているという事は学校で習っている。しかし、金印とは何かという事は学校教育では説明がない。
中国は自国周辺の国をABCのランク付けをして、そのランクに応じて、金、銀、銅の印鑑を送っている。そして、金を送る国は少なく、中国側が自分達と対等に近い大国にだけ、金を送っている。邪馬台国、当時の日本の代表国は中国側から、そう認識されていたのである。
でも、学校や教科書、参考書ではそれを教えない。
数年前に、日本人の民間の研究家が「韓国人は何処から来たか」という本を出して、話題になった。
彼は東工大を卒業して、民間の企業で技術屋として長く働いたが、自分の身につけた技術を活用して、日本人、韓国・朝鮮人、中国人などのDNA検査をして、その結果から、推理を立て、それを下に本を書いたのである。
筆者が学校などで、長く聞かされて来た話に、「朝鮮、韓国人と日本人のDNAは8、9割が一緒」というのがある。
しかし、この本の著者、長浜氏はDNA検査の結果、「日本人と韓国・朝鮮人は全く異なるDNAで、別の民族」という事がわかったとしている。
つまり、我々が長く教科書で教わって来た、大陸、朝鮮半島から稲作や金属工具などの技術を持って来た渡来人と、従来からいた縄文人が混ざって、今の日本人が出来たというのは、嘘であることが近代の技術、DNA検査でわかったのである。
長浜氏の研究では、現代韓国人女性のDNAは日本人の女性と似ている部分があるが、男性は全く別だという。
また、長浜氏は1万5千年の昔、朝鮮半島に住んでいた古代人のDNAと今の韓国朝鮮人のDNAとを比較してみて、全く別の人種、民族であるという結果を導き出している。
歴史的な事実として、朝鮮半島では、1万5千年前の古い遺跡は見つかっているが、その後、ずっと長い間、人が住んでいた事に伴う遺跡や遺物の発見はなく、遺跡、遺物的にはずっと空白時代が続き、朝鮮半島の特に南半分には、古代の長い間、人が住んでいなかったらしい。
古い時代は地味が豊かで、緑も多い場所などは人が住み着くが、自然環境が厳しく、緑も少ない所には人は住まなくなる。半島の南はそうした地区だったというのである。
長浜氏の研究とは別に、中国の古い資料を見ると、その後の朝鮮に存在した国、新羅の新しい王に、倭から来た人が就いたという表記がある。つまり、日本人が新羅の新しい王になったというのだ。
これはどういう事か。
倭、今の日本と、新羅や百済が全く別の国で、対等な国で、民族も別なら、こうした事はあり得ない。
歴史的な遺物や史跡、そして、DNA検査などから想像されることは、倭、つまり、日本人が無人の地域、朝鮮半島の南に渡って行き、生活し出したという事である。そして、彼らは次第に国を形成し、それが新羅、百済などとなったというのである。
これも歴史的な事実として、当時、九州の南部の火山が大噴火して、火山灰が九州を覆い、住んでいた人が避難せざるを得なかった。この時に、九州にいた人の一部が半島に移住したというのだ。
倭、当時は日本は大和朝廷が統一していたが、日本も新羅も百済も同じ、倭人の国なら、新羅に倭人、つまり、日本人が王として渡って行くという事があって不思議はない。
古い資料で、新羅や百済は皇太子が日本に送られ、人質になっていたことがわかっている。
人質と言っても、牢屋に入れられる訳ではなく、日本の戦国時代に、徳川家康が今川義元の元に人質として送られたのと同じように、家康が義元に忠君を示せば、かなりの自由行動が認められていたのと同じで、新羅や百済の皇太子は、日本で教育を受け、父親が死ぬか退位して、自分が王になると決まると、自国に帰って行ったのである。
ある時、王になるために、新羅に帰国した皇太子が、隣の百済を攻めた。滅ぼされそうになった百済の皇太子は日本にいたので、大和朝廷に援軍を要請し、大和朝廷は百済支援のために大軍を半島に送った。
これに対して、新羅は大国、倭が攻めて来ては勝ち目がないと判断して、唐に援軍を要請し、倭と百済、唐と新羅の軍隊の戦いとなった。これが白村江の戦いである。
韓国の今の教科書では、白村江の戦いは、日本が韓国を攻めて来た、そして、韓国人は勇敢に日本人を破ったとなっているが全く違うのだ。
唐の軍隊は倭、日本の軍隊の十倍以上と言われ、倭、日本・百済連合軍は負けて、百済は亡び、倭、日本は直轄地として持っていた任那を失い、倭人は朝鮮半島から撤退を余儀なくされたのである。
一方の勝った新羅は百済の領地も得て、半島の南半分をほぼ手に入れる事が出来たが、唐に大きな借りを作り、以降、唐の属国のような状態となった。そして、その後、半島の北に位置する高麗に攻められ、やがて滅亡するのである。
百済、新羅が滅亡し、高麗が朝鮮半島を支配するという事は、それまで倭人の国家が支配していた半島の南半分が、倭人の国でなくなったという事である。
新羅、百済の倭人系列の男は殺されたり、奴隷にされた。女性は北や大陸から来た男達の相手となり、その混血が今の朝鮮半島の人達の元となったというのである。現代のDNA検査はこうした推理を当然と思われる結果を示している。
だから、今でも韓国人の女性は日本人女性と似た遺伝子を持っている。
しかし、男性は全く別の遺伝子なのである。また、朝鮮半島では、北と南で女性の顔つきが全く異なる。これはこうした事情によると言われる。
こんな事を書くと、今の韓国人は真っ赤になって怒るだろう。しかし、DNAや遺跡、中国の古文書などがこうした事を裏付けている。
もっとも、韓国人はいくら資料、データを示しても、自分達に都合の悪い話は認めないので、彼らにこれを主張する事は意味がない。ただ、日本人としては、記憶しておくべきことである。
学校で習った事に、「日本には文字がなく、中国から伝わった漢字で日本人は文字を得た」といのがある。これも今では全くの嘘である事がわかっている。
漢字が中国から伝わる前に、日本には文字は存在した。
「神代文字」と言われる文字で、全国各地の神社や洞穴、岩戸などからその文字は数多く見つかっている。神代文字は1種類ではなく、各地区によって、文字が異なり、数多くの古代文字の総称が「神代文字」なのである。
中国で漢字が作られて行く時に、月にしろ、鼻にしろ、実際の形から次第に今の字に変化していくのを示した図があるが、これと同様に、各地の古代文字を見ると、物事の実際の像、姿を似せた所からスタートして、文字が出て来た様子が良くわかる。
また、神代文字の中には、今のひらがなや、中東の古代文字などにとても似ている文字も見つかっている。更には、現在のハングルに近い文字も存在している。人間が考える事はあまり変わらないようだ。
この古代文字「神代文字」は最近の発見ではなく、遥か昔にその存在が確認され、多くの学者が研究をしている。そして、江戸時代に有名な学者がかなり系統だった研究をして、それを本にして出している。
こうした神代文字に対して、一部の学者からは、後世の人間が作った偽物という主張もされている。
しかし、今はDNA鑑定などで時代考証が出来るので、岩に書き込まれた神代文字が後世に作った偽物ではなく、当時のものであったという鑑定もされていて、各地の資料の一部に偽物はあったとしても、日本全体に広く、そして数多く存在する神代文字は、実際にあったのだというのが定説である。
では、そうした文字が存在したにも関わらず、何故、漢字を自国の文字として受け入れたのであろうか。
はっきりした理由はわかっていないが、筆者の想像では、全国各地に自然発生的に様々な古代文字が存在したので、これをどれか1つに統一するのが物理的に大変だったのではないだろうか。だから、きちんと確立されたものとしての漢字を受け入れ、それに統一したのではないだろうか。
また、漢字は仏教の経典など中国やインドの書物、古典なども読む事が出来る。どうせ、それを勉強するのなら、それに統一してしまえというようになったと考えると、納得が行く。
GHQに押し付けられたものというと、多くの人が現在の憲法を思いつくし、ありもしない濡れ衣として汚名を日本人が被らされている事に従軍慰安婦や南京大虐殺などがある。
しかし、こうした事は多くの資料や、当事者の証言などで、次第に実態が明らかになって来ていて、日本人の中にも事実に対する認識が広がって来始めている。
その一方で、筆者が今日、上に書いた来たような事、歴史的な日本の生い立ち、文化、民族そのものというような事についても、GHQ史観で事実が歪められ、それに協力した数多くの日本人や、日本にいる非日本人の教授などの活動で、多くの日本人が知らないといけない事の多くが知らされておらず、逆に、日本、及び日本人が貶められている。
そして、それを今、率先しているのが文科省なのである。
先に書いたように、天皇に関係する事は、歴史的な事実から出来るだけ抹消しようというのが、文科省の基本的なスタンスであり、鎌倉幕府の開設の年を変更したのも、聖徳太子を教科書から削除しようとしたもの文科省である。
これらをいちいち変えて行くのは膨大なエネルギーが必要である。
だから、一番の解決方法は教育の自由化だと考えるのである。文科省のタガ、枠、縛りを外し、自由に事実を教え、データを検証する授業を認めるようにしていくのが一番早いと考えるのである。
筆者は何もカリカリの天皇論者ではない。
今の時代の皇室はどうあるべきか、逆に国民的な議論をする時に来ていると考えている。
今の皇太子妃の行状は非難されても仕方がない事が少なくないし、眞子様の婚約延期、そして、その他、宮家の女性皇族の行動への風評を聞くにつけ、皇族を存続させるなら、もっときちんと位置付け、どうあるべきかについて、徹底した議論をし、改革が必要なら改革をして行くべきだと考えている。
でも、その問題と、GHQ的な発想で、天皇隠しをしようとしたり、歴史的な事実を捻じ曲げて、国民に嘘を教えている文科省や、大学教授の姿勢の異常さは全く別問題であり、これは徹底的に批判し、改善しないといけないと思う。
今日、書いた事はほんの一部で、前に別の時に書いたように、百人一首の解釈を意図的に歪めたり、小学校の校庭から二宮金次郎の銅像を全面的に撤去して行っているのも文科省の指導である。
貧しい中、親孝行をし、働きながら勉強をするという姿勢を否定したいのだろう。折角あるものを全面的に撤去するように指導する文科省の姿勢は、そうとしか考えられない。
小中学校で、我々が子供の時に習った学校唱歌や童歌は、今はほとんど教えていない。文科省を非難する声が大きくなったので、言い訳ばかりに少し教えだしたが、ほんの言い訳程度に過ぎない。
筆者は今から十年くらい前に、横浜の山下公園に親戚の小学生と行って、歌に歌われている、「赤い靴」の少女の像を見て、「これが赤い靴の像だよ」と言った時、子供たちは「何、それ」と返事され、驚いたのを覚えている。
当時、びっくりして、小中学校の音楽の授業を見に行って、学校唱歌を全く教えていなくて、外国の歌ばかり教えているのを見て、文科省に怒りさえ感じた。
この話には余談があって、その翌年位に、親戚の子供の中学受験に協力して、いくつかの有名私立中学を一緒に訪ねた時の事である。
ある有名私立中学校の試験問題を見たら、ある学校唱歌の詩が書いたあり、問題は「これを絵に描いてください」というのだった。
山下公園の件があったので、「今は小学校で学校唱歌を教えていませんよね」と筆者が聞くと、教師が「だから、問題に出しているのです。日本人として当然、知らないといけない事です。今は学校で教えていませんが、お宅でそれをカバーして教えているかどうかを見る問題です」と言った。
学校は姿勢はさすがと思ったが、親が気が付いて教える家庭とそうでない家庭で、試験の合否に差が出るのだとわかり、複雑な気持ちになった。
教育格差という言葉があるが、家が貧しかろうが、豊かだろうが、きちんと教えるのが学校であり、それを指導するのが本来の文科省の役割だと思うが、文科省は逆の事をしているのだ。
20180407
国は国家戦略と外交防衛、中央官庁はシンクタンク、県市が行政の区分を明確に
森友学園問題は佐川氏の国会喚問で一段落と思っていたら、自衛隊の日報問題でまた、野党、マスコミが騒ぎ出し、国会は重要法案の審議を放り出したままで、また、日報問題で多くの時間と金を無駄にするのだろう。
これで、ネットの評判や、実際の国民の支持率はともかく、マスコミが発表する安倍政権の支持率は低空飛行のままだろう。しかし、一方で国民は、どうでも良い事を延々と取り上げる野党に対してもうんざりしていて、野党の政党支持率も各党とも1ケタ台の低支持率が続く事だろう。
今の日本の不幸は、この国民のうんざり感に野党の幹部が気が付いていない事だ。
いや、もっと悲劇なのは、野党幹部はそれに気が付いているが、国民の1割の支持さえ得ていれば、自分の議席は守れると考え、確信犯でバカ騒ぎをしていると思える事である。
そして、そのどうしようもない野党をオールマスコミが支援している二重の悲劇が日本にはある。
これまで、安倍叩きに組していた日経新聞が今日(4月7日)の社説でやっと、「国会はもっと重要法案の審議に力を入れろ」という趣旨を書いた。多分、他のマスコミと一緒に安倍叩きをして来た最近の日経の姿勢に、経済界などから批判の声が上がったためと思われる。
今のままで行けば、産業界にとって重要と思える法案の多くが審議未了のまま廃案、または継続審議になるのは必至で、産業界のロスは計り知れず、それでは、今の激しい国際競争に支障があるとの危機感が産業界をして、日経の幹部を突き上げたのだろう。
ただ、日経の紙面を見てみると、社説や政治部次長の署名入り原稿では、「国会は議論の場であり、重要法案の審議に力点を置け」と書いているが、その他の欄では、日報問題を大きく取り上げていて、幹部はともかく、現場レベルでは、日経は相変わらずオールマスコミの安倍叩きに組したままで、当分の間、オールマスコミの安倍叩きは変わらないのだろう。
しかし、筆者は不思議に思う。
官僚が天下国家を揺るがすような大きな問題でなく、そこそこのことでミスをした時、政権を担当する首相や大臣が責任を取らないといけないという事自体がおかしいのではないか。
首相や大臣に官僚に対する人事権、行政活動に対する指示命令権が明確に確立されているのなら、首相や大臣の責任というのもわからないでもないが、今は官僚の活動は事実上、事務次官がトップで、彼が官房長など他の幹部と一緒に組織を動かしていて、政府の意向は多少は斟酌しましょうという位な状態である。それで、官僚のミスの責任を大臣や首相に取れというのはおかしな話である。
極端に言えば、左翼や野党のシンパの中央官庁の末端の官僚が、意図的にミスをしたり、データ改ざんをして、それを野党に通報したら、首相や大臣が辞めるという事さえ可能になるのだ。
それはいち安倍政権だけの話ではなく、今の野党が将来、与党になった時にも起きる危険性である。だから、官僚の事と政治の事はもっと明確に分けないといけないのに、これが出来ていない。
自民党と社会党が二大政党だった時代に、閣僚は1年ごとくらいに変わっていた。
それは自民党内には大臣の指名待ちの議員が多く、短期間に大臣を代えないと、不満が出るという自民党内の事情がある一方で、少しの問題でも騒いで自分の点数にしたかった社会党の幹部の間で、大臣が責任を取って辞める事が得点になるということで、双方の利害が一致していたという事情があった。
だから、何かあると、大臣が辞任して事態を収拾して来たという悪しき習慣が残っているため、野党が直ぐに大臣、首相の責任と言い出しているのだ。
だが、今の時代、大臣がコロコロ変わる昔と違って、大臣は長く続けるものになって来た。
だから、余程の事がない限り、野党が追及しても大臣は辞めない。新しい時代に対応できない野党は「どうしてだ」という思いで、より追及をするし、大臣がコロコロ代わっていた時代を知っているマスコミのデスクも同じ考えなので、時代の変化に対応出来ないマスコミが野党を支援するという変な図式が続いているとしか思えない昨今である。
何回か書いたが、日本は明治以降、ずっと官僚が日本を支配し、事実上、国をコントロールして来た。民主主義の形を取っているが、実際は官僚独裁国家で、官僚が中心にいて国を動かして来たのである。
それは今も変わっていない。それを何とかしないといけないと、もがいているのが、今の安倍首相であり、それに対する官僚の反撃、非協力、足の引っ張りがボロボロ出て来る行政のミスなのだ。
明治時代には、国会は野党のガス抜きの場であって、政府の大臣や官僚は国会の意向と関係なく行政を行って来た。そして、野党は本来は自分は与党になりたかった人がなれず、仕方なく野党になっているので、言わば、嫉妬で与党を追及していた。
新聞社も利害を持っていて、政府を追及したり、政府の擁護に回っていた。
江戸時代の瓦版屋が新聞社に衣替えしたようにスタートしたので、騒ぐことで売上げを伸ばしたし、政府から少し利権や金銭をちらつかせられると、途端に政府擁護に回ったりしていた。
つまり、明治のスタートから野党もマスコミも、腹に一物を持つ人達が集まっていて、言う事、書く事を額面通りでは受け取れない状態が続いた。明治が進むにつれて、議会の比重が次第に高まった行くが、根本の図式は変わらず、その図式が今も続いていると考えると、今の野党やマスコミの行動パターンが理解できる。
明治初期の政府の幹部や主要官僚はそれでも、江戸時代に教育を受け、欧米先進国の植民地にならずに、いかに日本を無事に発展させるかという使命感、恐怖感があったので、国を考え、どうしたら良いかという事を常に頭に置いて、歴史や外国の先例などを学び、行動していた。
それが、国を挙げての努力と、日清、日露の戦争の勝利で、日本が世界五大国の1つになり、もっと言えば、自分は気が付いていなかったが、先進欧州の国が力を失い、日本が世界の1番目か2番目の国になってしまい、国力もつき、国も安定して来ると、官僚から使命感、恐怖感が消えて行った。
そして、目標の喪失は、官僚をして、自分本位、自己利益で行動するようにさせ、それが世界情勢を見誤る結果となり、展望を持たずに国を泥沼の戦争に突入させ、日本を惨めな敗戦に導いたのである。
敗戦後の日本でも、明治維新と同じ図式があった。
敗戦後の廃墟からの復興は、明治維新での欧米に追い付け、植民地にされないで、どう生きていくかという時代と同じで、官僚は使命感を持って必死に行動した。戦後の混乱期を知っている筆者は、よく理解できるが、当時の日本は本当に、全日本人が餓死するかもしれないという危険の上にいたのだ。
だから、国民も必死になって努力し、短期間に奇跡の復興が出来た。
それが、1980年代に、日本のGDPが世界の13%を占め、ジャパンアズナンバーワンと言われるような繁栄となると、官僚は目標を見失ってしまった。そして、欧米にモデルがなくなると、勉強して先進モデルと真似るという、それまで有効だった秀才君得意の方適式が使えなくなってしまった。
何もない所から、自分で考え出すという事が極めて苦手な東大法学部出身の官僚は、バブル崩壊から間違いに間違いを重ね、それが失われた20年となり、今もその延長戦上にあり、長引くデフレで国民に疲労感、閉塞感、絶望感があるのだ。
では、今の日本をどう変えたら良いのだろうか。筆者は答えは簡単だと思う。
現代で言う民主主義国家を本当に実現する事である。
現代で言う民主主義国家とは、主権者である国民の意思、考えで、国の方針、行政の内容を変えて行くのである。東大を出た官僚が、自分の頭で考えた事で国の方針を決めていくことではない。
国民のほとんどが別の職業を持っているので、普段は政治に関与できない。
関与できる唯一の機会は選挙である。だから、国民の意思で選ばれた国会議員が、国民の意思を代弁して、政治を行う。そして、大きなテーマで国民の意見が分かれた対立案件があった時には、国民投票を実施して、国民の多数決で物事を決する。それが民主主義である。
この根本が日本では忘れ去られている。
イギリスがEUから離脱を考えた時、国民投票で結論を出した。大分前だが、フランスはEUに加盟するかどうかを決める時、国民投票にかけた。結果は賛成51%、反対49%だった。それでフランスはEU加盟を決めた。
日本なら、51対49だと、マスコミや国民投票で負けた方が大騒ぎをして、政府は加盟を決められないだろうが、フランスは決めた。民主主義とは51%を取った方が自分の主張を通すシステムであり、フランスはごく当然のように、それを実行した。
でも、日本ではこの51%ルールをきちんと教えていないから、民主主義がわかっていない人が多い。
スイスでは毎年のように国民投票が行われる。つい少し前には、最低賃金を上げるかどうかで国民投票を行った。そんな事まで国民投票にかけるのかと思う人が少なくないと思うが、それが民主主義である。
国民投票については、日本ではよく経費が膨大にかかるので、大変だ。だから、憲法改正も慎重になどという訳の分からない論理を言う人がいる。
一番、効率的、経費節減な国の統治の仕方は独裁政権である。優秀なリーダーが即断即決で決めて行けば、時間も金もかからない。中国が戦後、急速に近代化して来たのは、共産独裁政権だったからである。
しかし、今の中国が問題だらけなように、独裁者はどれだけ優秀でも、次第に歪み、次第に利権まみれになって行き、国が混乱する事になるのは歴史が証明している。
今の中国では、共産党の多くの幹部が、いつ共産党政権が倒れても良いように、大金を溜め込み、子弟を海外に出して、自分が失脚した時の亡命先を確保し、金も海外の口座に作って備えをしている。
元々、民主主義とはコストがかかる制度である。でも、ベストではなくベターは方法だから、多くの先進国が採用しているのである。
ネットの時代で、ネットを活用して投票をするようにしたら、費用など大幅に縮小できるし、国政選挙や地方統一選挙の時に、合わせて国民投票をすれば、費用も大きく削減できる。
日本では、どんな問題でもそうだが、現状のシステム、事情を前提にして話をする人が多いが、不都合な点は変えれば良いだけである。
官僚が政策も決め、法律も作るという官僚中心国家から政治中心の国家にして、政治家と官僚の役割をどうするのか。これも簡単である。
政治家は国家戦略を決めて、その方向に国や国民を導く事と、外交と防衛で、国際競争の中、国益をいかに守るかという事を中心に仕事をしていくのである。
高度成長が終わった後の日本で一番欠けていた事、そして、今でも続いている最大の問題点は、国家ビジョン、国家戦略がない事である。
戦争中の軍官僚も同じで、中長期スパンで物を考えるという事をせずに、また、終わらせ方をどうするかを考えずに、戦争に突入して行ったので、惨めな負け方をしたのである。
政治家の一番の使命は日本の国の根幹はこれで、十年後、20年後、50年後の日本をこんな国にするというビジョンを国民に示し、それに向けて、3年計画、5年計画でこんな事をしていくという戦略、戦術を国民に示し、政権を取ったら、それを実行していく事である。
今の日本では、官僚が自分達の利益、利権最優先で物事を考え、そして、統一政府という発想がなく、各省庁ごとに考えているので、国としてのグランドデザインがないのである。省益を最優先に考える官僚に国全体のデザインなど書ける訳はないのだから、彼らに任せたら、失敗するに決まっているのだ。
外交・防衛は大きな仕事である。
戦後の日本は、永久占領を考えていたアメリカの考えで、憲法で武力放棄をさせられ、更に「世界の各国は皆正直で、真面目で、平和を希求していて、話せばわかる人達ばかり」とあり得ない絵空事を書いた憲法を信じさせられて来たが、そんな事が嘘である事は、中国のチベット侵略や北朝鮮の拉致などを見れば、誰にでもわかるはずである。
国連中心主義を言う人もいるが、国連に世界の警察の役割が出来るなら、中国のチベット侵略やロシヤのクリミア半島奪取など起きはしない。外交とは国益と国益のぶつかり合う場であり、いかに国及び国民に損をさせないように頑張るというのが外交であり、防衛なのである。
防衛とは武力で戦い事だけではない。今の時代、情報戦は大きな戦いであり、サーバー戦争は国の優劣を決める大きな場である。戦後の日本はこの分野で立ち遅れ、大きく国益を損なって来た。
戦後だけでなく、対中国との戦争でも、「日本は武力戦では勝ったが、情報戦で負けた」と言われるように、アメリカを舞台にした情報戦で中国に負け、それが日本の劣勢を決定づけたのである。
政府与党、国会議員はこの2つの事、国家戦略作りと実行、外交・防衛中心に国益が損なわれないようにするための活動をする。当然、野党は与党に対する対案を考え、国民にそれを示して、選挙を争う。こうすれば、重箱の隅を突くような事で、国会が長時間浪費するような事はなくなる。
そして、福祉や労働、教育など国民生活に直結する事は、中央政府が国会の議論を経て、大きな方向を決めるだけにして、実施の詳細は地方自治体にその権限の多くを委ねるのである。
今の日本では、学校の天井の高さから、窓の大きさや向きまで全て文科省が決めている。
こんな事は止めて、例えば、学校問題なら、極めて大きな枠、小中高はそれぞれ何年生づつにするかとか、年間の授業時間は何時間以上は必要などというような事を決めるだけで、その他については、地方自治体に任せるのである。
日本は狭いと言っても、各県ごとに気候も事情も異なるので、県単位で国レベルの大枠を逸脱しない範囲で、もう少し具体的な事を決め、実施細目は市単位に任せるのである。
市町村が力がなければ、県の方針をそのまま実行すれば良いし、市が大きく能力があるなら、市が自分の考えで、実施細目を決めて、行動していくのである。
江戸時代の旧藩は大大名も勿論存在したが、多くは大体人口十万人単位で出来ていた。住民に合わせて物事を決めて行くには丁度良い規模が十万人だと言われる。
日本の地方自治体をこの十万単位で集約し、人口が十万人いる市には極力、自治をしてもらい、住民の意見、考え、事情に合わせた行政を行うのである。
こうすると、国会議員は半分で済むようになる。県議会議員も半分になる。
そして、今は何をしているかわからないような市町村会議員が、自分達の地区の事は首長と一緒になって、自分達の地区の事を決めて行くようにするのである。
こうすると、その地区の住民の意思で、自分達の地区の教育、福祉、労働環境などが変えられて行くし、住民トラブルも速やかに解決していく。街並みも自分達の意思で変えられるし、シャッター通りも自分達の意見でなくせる。
ただ単に、政治に関心を持てという抽象的な事を言うのではなく、選挙民に自分達の選挙行動で政治が変わるという体験を積ませるのである。そうすれば、政治はより身近なものになり、有権者がより関心を持つようになる。これで、投票率も飛躍的に上がる事になるだろう。
今のように、ゴミ屋敷があっても、所有者が誰かわからない土地の木の枝が突き出ていても、地方自治体は何も出来ないという状態は様変わりし、地方自治体が当事者として解決できるし、解決しないといけなくなる。そして、その地方自治体を動かすのは選挙民自身だとなれば、皆が選挙により関与して来るよようになる。
原発の誘致も、工場の誘致も、大手スーパーの誘致も役人や業者が決めるのではなく、住民が決めるのだ。これが国民が主権者である民主主義である。
では官僚の役割が何かといえば、中央省庁の官僚がすべき事は、シンクタンクやデータバンクとしての役割をする事である。
役所には多くのデータ、情報が集まって来る。これを整理し、政治家が戦略を考え、政策立案をする際に、A、B、Cの選択肢があり、それぞれのメリット、ディメリットを政治家に示す事である。今のように、官僚が自らの政策を自分で作り、政治家に押し付けるのではなく、考えられる選択肢を挙げて、その選択は政治家、国会に委ねるのである。
官僚が強すぎるから利権が発生し、天下りは利権を得ようとする企業や、その他の組織が見返りに官僚を受け入れる取引なのである。官僚からその利権を取り除くのである。
それを官僚の役割を政策には詳しいが、そのどれを選ぶかには官僚は全く関与できないようにするのだ。こうすれば、利権や天下りは発生しない。
その分、政治家に利権が発生するかもしれないが、政治家は選挙で国民が当選も落選もさせる事が出来るし、贈収賄になれば、厳しい罰則が待っている。それこそ、検察や警察に厳しい目を光らせてもらえば良い。アメリカのように、地区の検事総長は選挙で地域住民が選ぶという制度を導入しても良い。
アメリカでは閣僚に任命される人は、国会で与野党の議員から、自身が丸裸にされた状態で、生活、信条、過去の業績などについての事細かな質問を受けないといけない。
日本でも閣僚の任命には同様な過程を経ないといけないようにしたら良い。
こうすれば、派閥順送りとか、政策にはほとんど知識はないが、議員歴が長いとか、顔が効くとかいった事で閣僚になりたいという人はいなくなるし、政策に強くない議員は活躍の場がなくなって来る。
官僚について言えば、中央省庁の部長クラス以上の幹部の人事は政治、政府が決める。
企業で役員になれば、2年ごとに再任されるかどうか、新規で役員になるかどうかは、社長次第になるのと同じである。中央省庁にとって、部長クラス以上が民間企業の役員レベルだからである。
中央省庁の役割がシンクタンクや政策の選択肢の提言という事になって来ると、政府や首相の意図に反して、消費税引き上げの大キャンペーンを財務省が展開する事もなくなって来るし、裁量労働に反対だからと言って、直ぐに嘘とバレるデータを政府に提出し、国会で追及されることもなくなって来る。
当然、官僚は自己利益のために、特定の企業、業界に利便を図る事もなくなって来るし、天下り問題も自然と話題にならなくなって来る。
こうした上で、データのIT化、行政活動でのブロックチェーンの活用を行えば、中央省庁の官僚も3分の1になる。県庁の職員も半分くらいになるだろう。逆に市町村の職員は増える事になるだろうが。
今の日本では、国会に法律を作るプロ集団がいない。だから、本来、国会の役割である法律作りが出来ず、官僚の好き勝手を許す結果となっている。
新しい時代には、この国会や県議会にこの機能を充実させ、今いる中央省庁の官僚で、政策立案や立法に関わりたいという人を国会、県会所属の事務局の所属とし、政治家のブレーンとして活動する場を与えるのである。
こうすれば、時代とともに官僚の数は減って行くが、当面は異動で失職する人は少なくて済む。
アメリカでは政権が変わると、中央省庁の幹部の多くの人が退職する。
しかし、彼らは民間のシンクタンクや大学教授との間をグルグル回る事をして、所属先は変わるが、仕事の内容は変わらないようになっている。日本でも、こういう風にすれば、良いのである。
日本のシンクタンクは欧米に比べると、不活発であり、かつ、現状は役所から仕事をもらう事で成り立っているので、役所の方針に異議を唱える論文など出す事が事実上、不可能である。これでは、シンクタンクの意味はない。
役所とは違う視点で、政策提言をしたり、問題点の解決策を提示したりする事が自由に出来るようになれば、注目も集まるし、民間のシンクタンクの存在価値も出て来る。
福祉や労働環境、教育などは地方ごとに、その地の事情に合わせて決める事は極めて大事である。
日本の現在は、地方の事情を全く知らない中央官庁の役人が事細かにルールを決めている。だから、その地域の事情に合わなくても、地域の人が変える事が出来ないのだ。
時折、勇気を持って中央省庁の役人が作ったルールを変えようとする県知事や市長などが出て来ると、反対派から裁判に訴えられるか、中央省庁からの指示で止めさせられる。手足を縛られているのだ。だから地方自治と言いながら、思い切った事が出来ないシステムになっているのである。
学校や保育所の給食問題1つでも、地方自治体が大きく改革しようとすると、中央省庁の法律、政省令、通達で改革ができないようになっている。でも、それはおかしな事である。
民主主義国家の政治は、主権者の国民が望む方向に、有権者が決めて行けないといけないのに、官僚独裁国家、日本では、本来、主権者である国民の望む事が実行できないのだ。
でも、筆者が言うように、制度が変われば、保育園の不足対策が住民にとって重大な事なら、地方自治体の首長は嫌でもそれを解決しないと、次の選挙で落ちる事になる。解決は国の責任ではなく、地方自治体の責任だからだ。だから、首長は最優先で取り組み、保育園不足問題は解決する事になるのである。
地方自治体に任せる主要な事に、福祉、医療、教育、そして、街作りなどがある。
福祉は日本全体で猛烈な勢いで支出が増えて行っていて、その対策が急務である。
でも、その解決に国の施策に待っていては、何年かかっても解決にはならない。
中央官庁の官僚にとって、当事者意識がないからだ。国会議員にとっても、地方ごとに事情が異なり、年齢層で利害が反する事に、答えを見つけるのは不可能に近い。有権者には若者も老人もいるからだ。
でも、地方自治体にとっては自らが当事者で、解決しないと財政がパンクする問題である。当然、今、厚労省がやっているような信じられないようなバラマキはなくなって来て、具体的な工夫は出て来る。
保育所不足は首相に対策を訴え、国会で議論する話ではない。公園を潰して保育所を作ろうとしたら、年配者が反対して、計画が宙ぶらりんになるというような話は、首相がいくら有能でも、解決のしようがない。地域の事情ごとに解決していくしかないのだ。「保育園落ちた。日本死ね」 という言葉を有名にしたのは立憲民主党の山尾志桜里だが、この言葉は基本的に間違っている。保育園は日本全体の問題ではなく、地域の話なのだ。
地方自治体の首長がその気になれば、保育園問題はほとんど解決する。但し、厚労省のルールを廃止する事が大前提であるが。
夕方の決まった終業時間を1分でも過ぎて、保育園児を預かったら、その保育園は無認可保育所となる。こうした事が厚労省のバカげた規則である。
今の規則では、園児何人に何人の保育士がいないと、保育園は運営できないようになっている。
でも、保育士の資格などなくても、子育てをした経験がある大人なら、保育士の役割位できる。地方自治体毎に運営ルール作りを任せれば、子育て経験者で保育士不足を解消するというアイデアも出て来る。
岡山のある市で、地域住民に健康体操を取り入れて、実行して行ったら、健康保険の受診回数、費用が大きく下がったという話がある。地方自治体に当事者意識を持たせれば、こうした工夫が出て来るのだ。
教育も、今の日本は文科省がバカげたルールを事細かに決めて、それを地方自治体に押し付けている。でも、現場の事情を知らない文科省のルールは止めて、教育は原則自由化するのだ。
勿論、教育のような影響が大きな問題を市レベルで自由にさせたら、とんでもない事が出て来そうなので、県レベルで自由化を始めるのである。
学校は公立を大幅に減らし、私立を原則にするのである。今、県や市が公立学校への費用として支出している金額を私立の学校への補助金として使い、私立の学校の運営を援助するのだ。
そうして、英語で授業をする中学、高校があっても問題ないし、大きな枠の範囲内であれば、美術や音楽、体育の時間を大きく増やす学校があっても良い。
こうすれば、どうしようもない先生がいる学校、おかしな事を教えている学校には生徒が寄り付かなくなるし、逆に、学校側はクレーマー、モンスターペアレンツには、「当学校の方針が嫌なら、他校に転校ください」と言う事も出来る。
校則もそれぞれの学校毎に決められるようにする。その校則が嫌なら、その学校に入らなければ良い。こうすれば、ブラック校則などと言う話もなくなって来る。
いじめも噂になれば、その学校に生徒は行かなくなる。だからと言って、隠せば、表面化した時には、学校は潰れる。市教委、県教委、首長の責任ではなく、学校の理事会、校長の責任で処理し、その処理の仕方を見て、教師や生徒が学校を選ぶのだ。
それこそ市場の競争原理に任せるのだ。
教育委員会というのは無責任な組織で、行政組織の一部であるかのようでもあるが、問題が起きても、誰も責任を取らない。ある意味では、責任逃れをするための組織でもある。こうした訳のわからない組織をなくすのだ。
教育委員会は行政組織で一見、日教組と対峙しているような姿にしているが、実際は教育委員会と日教組が手を組んで、物事を決めている。校長はつんぼ桟敷である。だから、校長は何も出来ないのだ。
教育の自由化で、日教組主導でコリコリの左翼教育をする学校があっても良いし、右翼教育をする学校があっても良い。
公立だと、それをどちらかの陣営が批判し、表面的には、偏向した教育は出来ない事になっている。しかし、実際は、左翼思想カリカリの教師は少なくないし、右翼教育をしている学校もある。
そして、それが表面化すると、どちらかの陣営が県や市を攻撃する事になる。こうした馬鹿げた表面的な公平論を止めるのだ。そして、親や子供に学校を選ばせるのだ。
ただ、左翼教育でも右翼教育でも良いが、反対側の思想も教える事だけは厳然として義務付けるのだ。7対3でも良いし、8対2でも良い。自分と違う主張の話や本も教育に取り入れ、比較しながら、教える事は義務付けないといけない。
そして、毎年、新学期の2、3カ月前には、学校授業を公開し、普段の教育内容を対外的にオープンにする事で、その学校の教育内容を生徒や親に知らせ、選択できるようにするのだ。
歴史上、意見の異なる説がある時は、その説が2割以上の支持がある場合は、理由を説明した上で、その異説も教えないといけない。
教科書は今のような薄いものではなく、様々な説を取り入れた分厚いものにする。
教科書作成委員会のようなものを作って、各科目毎に多くの人を考え、意見を集めて、様々な意見、説を取り込んだものを作るのである。こうすれば、教師が自分の主義主張に合うものしか教えないとしても、生徒は違った説、考えを知る事が出来るようになる。
外部の講師を講演会に呼ぶ時も、左翼系がいても良いが、右翼系もいないといけない。世の中には、複数の価値観があり、人によって違う事を教える事、そして、自分の頭で考える事を教えるのだ。
日本の今のテレビ番組のように、片方だけの意見の人を集めて、一方的な話にするのは厳禁するのだ。
学校の運営は市教委や県教委、市、県が責任を持つのではなく、民間学校の理事会が決定権を持つようにする。理事会は校長、教師、父兄、地域住民で構成し、多数決で意思決定する。
地区にいくつもの学校を作る程、人口や敷地がない地区では、1つの学校を3つの学校に分け、それぞれに校長や理事会を作り、独自に運営して、子供や親に学校を選ばせるのだ。
このやり方は、かつて、アメリカの学校が大荒れだった時に、ある州で教育長に着いた人が実施した改革で、こうして競争させた事で教育の荒廃はストップがかかった。
親や生徒に学校を選ばせる事で、生徒が集まらない学校の教師は失職の危機となり、必死になって自己改革する事で、生徒が戻って来たというアメリカの例を教訓にするのだ。
こうした自由化を言うと、教育内容が疎かになって、教育レベルが落ちてしまうという事を危惧する人がいるが、低い教育レベルを好んで選ぶ親や生徒がそういる訳ではない。そもそも、今の教育でも、大量の落ちこぼれはいるのだから、自由化をした事でレベルが落ちたという事にはならない。
戦後の日本は、アメリカに占領されて、GHQの作った嘘の歴史観で日本人は教えられ、それで育った人が教師になり、その教師に教わった人が更に教師になるくらいの時間が経った。
GHQは嘘の歴史を教えるのに、NHKのラジオを使って、繰り返し作られた歴史を流した。そして、その繰り返しの放送で、それまで家族、国を守るために戦争に行った父や祖父が、残虐非道な人というレッテルを貼られ、家族の中でも、地域でも存在場所がなくなり、非難される対象となった。
また、大学教授、代議士、ジャーナリストで数多くの人がアメリカの情報局、CIAから多額の金をもらい、GHQやアメリカに都合の良いような説を流布するための活動をするように求められ、実行した。
縄文人と弥生人は別の人達ではなく、同じ人達だったというのが、歴史的な出土品やDNA鑑定など科学の力で分かって来て、今の時代、真実に近いとされる。
それを別の人達であると理解させるために、本や教科書に載せる時に、縄文人の写真の目を吊り上がらせる加工して作り、それを弥生人として、全く別の人種であるかのようにして、並べて掲載したという経緯まで、当事者の話で明らかになって来ている。
日本人が渡来人を祖先に持つという作られた話を、多くの日本人に定着させるための操作であったのではないかと言われている。
南京大虐殺で何十万人の中国人が殺されたという話は、中国共産党シンパで、後に共産党員だった事がわかったアメリカ人ジャーナリストが書いた本の話で、それが広まって行ったのである。
本当に何十万人も殺されていたなら、ナチスのユダヤゲットーのように、大量の死体が発見されていないといけないが、そんな映像など存在しない。当時のアメリカは軍隊に多くのカメラマンを同伴していて、写真でも動画でも数多い記録を撮影している。しかし、南京の虐殺の画像など残っていない。
その何十万人殺害という話は、アメリカが広島、長崎に原爆を落とし、兵隊ではない一般市民を何十万人と殺害した事を批判された事への反論として、日本が先にもっと多い人を殺しているという話をする事で、原爆投下の罪を減殺する意図だったと言われている。
アメリカでは一定期間すると、公文書が公表されるので、こうした事がアメリカの公文書で明らかになって来ているし、CIAのスパイで金をもらって反日の活動をした人がその後、自分がした事を悔いて告白したりしているので、作り話が次第に明らかになって来ているのだ。
でも何故か、こうした話は大々的に公表されていない。
そして、GHQ製の嘘の話も、70年も語り伝えられているので、嘘も百回言えば真実になるの喩のように、今では嘘の話を真実と信じている人が多くなっている。
数日前に、ラジオのインタビュー番組で、4、50歳代のアナウンサーがゲストの国会議員と憲法改正の話をしていた時、そのアナウンサーが「憲法は権力者を縛るものでしょう。だから、改憲は慎重にしないといけないと思うのですが」と言っているのを聞いて、愕然とした。
このアナウンサーは別に左翼系の人ではない。
ごく普通の人から自然にそうした話が口をついて出たのだ。という事は、想像だが、小学校か中学校時代に、日教組の教師にそう教わり、その人にとって身についた常識となっているのだろう。
でも、法律を少し勉強した人なら知っているが、憲法は権力者を縛るという側面がゼロとは言わないが、少なくては憲法とは何かと言われたら、その国のあり方、方針、国民の考えを示すものであって、真っ先に「権力者を縛るもの」という話が出て来るのは明らかにおかしい。
筆者がそこで感じた怖さは、こうした間違ったというか、偏った事を教えらた人がそれを疑わずに信じて育ち、40歳代、50歳代になっている事である。
民主党の元の代表で首相を務めた鳩山由紀夫氏が中国や韓国へ行って、戦時中の日本の行為を謝罪し、土下座までしていて、売国奴だとネットでは非難されているが、筆者には鳩山氏が意図的に自分が売国奴的な行為をしているという意識はないと思う。
彼は、そういう反日宣伝教育で育ち、それを嘘か本当かと考えもせず、今でも信じて疑わないのだろう。そういう目で見ると、彼の行為が理解できる。でも、そう理解すると、それは意図的に日本を売っている以上に怖い話だという気がする。
間違った事、事実と違う事を教わり、それを信じて疑わない人が国会議員になり、首相までなっているという事実が怖いのである。
少し前だが、本屋で今の中学の教科書や参考書を見ていたら、中国の事を民主主義国家と書いてあり、本当に驚いた。1冊ではなく何冊もだ。共産党独裁国家で、一般国民に選挙権もない国がどうして民主主義国家なのか。そして、それが堂々と教科書、参考書に載っているのだ。
その中国だが、我々が小中学校時代に、世界の四大文明というのを教えられ、その中に中国の黄河文明というのが入っていたが、最近の研究では、この四大文明よりも古い文明の遺跡がいくつも見つかっていて、中国でも、上海を中心に長江文明が栄えていたと言われている。
また、一説では、日本の縄文時代の文明は、我々が学校で習った時のように、原始的な生活ではなく、女性は化粧もしていたし、ネックレスもしていた。木の実でクッキーまで作っていたという事までわかっていて、かなり進んだ文明で、世界四大文明よりも古いという説まである。
欧米諸国では、今では世界四大文明という事を教えるのを止めているが、日本はそのまま教科書に載せていて、最近、その四大文明よりも古い文明の遺跡が見つかっているという話は載っていない。
別の話だが、数年前に、文科省が鎌倉幕府の開設の年号を1192年から数年前に前倒しした。
文科省はその時に理由について、数年前に既に実権を持っていて、1192年とするのは事実と違うという説明をした。
だが、これを通すなら、徳川幕府の開設は1600年に関ヶ原の戦いで勝利した年としないとおかしい事になる。そんな矛盾だらけの理由にならない理由で、年号を変えたの理由は、天皇に開設の許可を得た年という、天皇に絡んだ年にしたくなかったからではないかと、言っている人が少なくない。
文科省は鎌倉幕府の開設の年を変更した時に、聖徳太子は実在の人間ではなかったのではないかとして、教科書から削る方針を示したが、こちらの方は猛反発に遭い、撤回している。
日本の国歌、君が代については、日教組や左翼系の人は戦争を代表している歌だという理由で、国歌斉唱を拒否している。
しかし、君が代は西暦800年代、今から千年以上前に、当時の天皇の第一皇子の従者である木工職人が自分の雇い主である皇子に対する挨拶、年賀のような気持ちで作った歌が元で、古今和歌集にも掲載されている。そして、その後、一般に年賀の挨拶として広く使われるようになり、江戸時代になると、結婚式などにも、祝いの歌として使われるようになって来た。
雇い主に対する君ではなく、君は「き」と「み」で男女を意味し、男女が結婚して子供、孫を作り、末永く反映するようにという意味であり、それが広く使われるようになった理由だというのだ。
それを明治維新になって、国歌が必要だと言われた明治の重臣、大山巌が天皇を中心の国家という意味に転用して、曲をつけて今日に至るというのが歴史的な事実である。
批判するにせよ、支持するにせよ、こうした歴史的な事実を教え、理解させた上で、自分で考えろと言わないといけないが、批判する人達は、歴史的な事実を無視して、否定だけしている。
もっとひどいのが百人一首の解釈である。市販されている多くの解説書のほとんどが、歴史的に語り継がれて来た話と、かなりかけ離れた説明をしている。
今の解説のままだと、何故、千年もの間、日本人に愛唱され、長く親しまれて来たかという理由がわからない。何故、百人一首が生まれたか、また、百首で1つの物語、主張になっているという説明などほとんどの解説書には書かれていない。
古い時代の話には、いくつかの説があり、そのどれが真実で、どれが真実ではないかは、正直わからない。しかし、いくつかの説がある場合、それらをきちんと教え、考えさせることが大切なのに、戦後の日本はそれをして来なかった。
いや、日本を尊敬できる話はほとんど無視して教えず、日本を批判する話を中心に教えて来た。そして、最近は、文科省は鎌倉幕府の開設の年号変更や、聖徳太子を教科書から削除しようとした事のように、ある意図を持って、歴史を改ざんしようとしているという気さえする。
こうした特別な意図をもって歴史を改ざんしようとする文科省の縛りから解放されるという意味でも、教育の自由化は必要なように思われる。
例え、日教組を中心に左翼系の教育が行われる事があっても、全体をおかしな価値観で抑え込まれるよりもましなような気がする昨今である。
教育の話が長くなった。話を政治と官僚、そして、国と地方の役割分担を変えて、明確にするためには、憲法の改正が必要である。
日本で何か改革をしようとすると、必ず、憲法改正に結びつく。
左派系の人が憲法を守ろうと言う事は、改革は止めろ、現状のままで良いと言っているのと同じである。憲法、法律の縛りで、大きな改革が出来ない。ここ何十年と日本を大きく変えようとした人は、この法律、憲法の壁にぶち当たり、挫折して来たのである。
左派系の人達は憲法改正に反対する事で、日本の発展を阻害して来た人達であり、それは他国の利益で活動しているか、戦後GHQ教育で間違った事を教えられ、それを否定する事は自己否定につながるからのどちらかである。
いずれにしても、日本の長引く不況に味方して、日本人を不幸に導いて来た人達である。
20180401
マスコミ、野党、官僚のお粗末さを国民に痛感させた森友問題
朝日新聞を中心とする反安倍、反政府のマスコミと、それと共闘状態にある野党による、でっち上げに近い問題提起で、1年半以上、国会を空費させた森友問題は、先日の佐川前国税庁長官の国会喚問で一区切りがついた。
野党は「佐川氏の証言拒否で疑惑は深まった」として、まだ、追及する構えを見せているが、多くの国民は、大騒ぎしても、安倍首相との関連性の証拠など何も出て来ない、この問題が茶番劇だと気が付き始めて来て、マスコミ、野党がいくら騒いでも、国民レベルでは、もうこれ以上、問題が大きくなることはないだろう。
国会の時間と経費を延々と無駄に遣ったのは、大いなる税金の浪費だと言えるが、森友問題の唯一と言っても良い収穫は、多くの国民にマスコミ、野党、そして、中央省庁の官僚がいかに好い加減で、ダメな人達であるかという事を痛感させた事だと言える。
野党の駄目さ加減は、2年半の民主党政権が本当にお粗末で、呆れた多くの国民が旧民主党を中心とする野党に政権を渡したら、日本は大変な事になると認識している事は周知の事実である。だから、先の衆議院選挙でも、「少なくても野党には政権は渡せない」と考えたので、自民党が圧勝したのである。
そして、民主党のままだと選挙に勝てないという思いから、多くの議員が自分の信念、信条を捻じ曲げてまで、小池百合子氏が立ち上げた希望の党に乗りかかったが、当選すると、約束した事など簡単に反故にした上、党まで乗っ取ってしまい、国民を呆れさせた。
希望の党に乗れなかった旧民主党・民進党議員は、立憲民主党を結成し斬新さを訴えて善戦し、一定以上の議席は確保したまでは良かった。
しかし、評判が良いと慢心したのか勘違いしたのか、二重国籍問題で話を二転三転させ、何一つまともに説明していない蓮舫氏や、ダブル不倫をしているのに、全く反省の様子さえ見せない山尾志桜里氏を早々と入党させただけでなく、極左集団と関りがあり、土地の払い下げでも、森友以上に疑惑だと言われる辻元清美氏を幹部に起用するお粗末さで、選挙後、立憲民主党の政党支持率は大きく下がっている。
だから、マスコミ挙げて安倍叩きしても、野党の政党支持率は少しも上がらないのである。
今回の佐川氏の喚問でも、追及される佐川氏にバカにされ、翻弄される姿が国会中継で露呈し、少しものの見える国民からは、「日本の野党の国会議員はこんなにレベルが低いのか」と嘆きの声が聞かれた。
野党議員のひどさは、佐川氏の喚問が終わって、テレビの中継のカメラが切れた途端、何人もの議員が安倍首相に対して、「こら、安倍いつまで居座っているんだ。好い加減に辞めろや」と罵声を浴びせて、現場にいた人をびっくりさせた事にも表れている。
主義主張の差はあっても、仮にも、民意を反映して選ばれた一国の首相に対して、同じ国の国会議員がこの態度を示す事は人間としてあり得ない行為である。それを何人もの議員がしたのである。
嘘を平気で書く朝日新聞だけでなくほとんどの新聞、元から偏っていたと評判だったTBSやテレビ朝日だけでなく、NHKも含めたほとんどの地上波テレビ、そして、週刊誌などの雑誌などを含めたオールマスコミとも言える媒体が、今、反安倍、反政府の姿勢を示し、大騒ぎをしている事の異常さに、かなりの数の国民が、何かおかしいと気が付き始めて来た。
物事はどんなことであっても、賛否は7対3とか、6対4というような反応になるのが普通である。
それが今の日本のマスコミのように、9対1、いや、9.5対0.5という感じになると、少し常識のある人は何かおかしいと皮膚感覚で感じるものである。
日本の近年の歴史でも、オールマスコミが一方の意見に統一したように騒ぎ出した時、結果がどうなったかは事実が示している。
戦争中には、最も過激に「鬼畜米英と戦え」と叫んで、国民を戦争に駆り立てたのは朝日新聞であるが、この朝日に引っ張られるように、オールマスコミが「戦争をして、アメリカと戦え」と叫んだ。そして、それが国民を惨めな敗戦へと導いたのである。
戦後になって、どうしてあんなに国民を煽る報道をしたのかと尋ねられた時、朝日新聞の役員から国会議員になったある人間はインタビューに答えて、「勇ましい原稿を書くと、販売部数が伸びたんですよ。反戦的な原稿を書けば、軍部だけでなく一般国民からも批判される。勇ましい原稿を書くしかなかったのです」と言っている。
この話はある面、本当である。過激な事を書けば、部数は伸びる。新聞社も株式会社である以上、経営にプラスの事をするのは仕方がないと言える。しかし、もう1つの面をこの人は語っていない。
戦争が終わって何十年も経ち、アメリカの昔の公文書が公開されるとともに、ソ連の崩壊でソ連の公文書も多く公開された。また、時間とともに、当事者が色々語り出した。
そこで明らかになったのは、戦前、戦中の日本の大手新聞社には、ソ連共産党が作ったコミンテルンの手先が多く送り込まれていたという事である。コミンテルンのある幹部はソ連崩壊後に「戦争中の日本のマスコミはコミンテルンの支配下にあった」とまで断言している。
ロシアで共産革命が起きて、労働者にとって良い社会が出来たという幻想は、欧米、日本の文化人、作家、芸術家、マスコミ人の間に広まり、共産主義を世界に拡散しようという意識が生まれた。
そして、多くの欧米の人や、日本人が社会主義的な思想を広めようと活動した。アメリカでも共産主義運動が盛んになったのだ。そうした様子はアメリカの映画「レッズ」などに描かれている。
しかし、「レッズ」の後半に描かれているように、ソ連を実際に訪れた人は現実に驚き、PRされている事と実態は違うとして、共産主義から離れて行った。でも、離れて行かずに、共産主義のために行動した人も少なくなかった。
戦争中、日本では、朝日新聞記者の尾崎秀実がスパイで逮捕されたが、スパイは彼だけでなく、もっと遥かに多い共産党の手先が色々な新聞社に深く浸透していたのである。
そして、そうした人達がソ連の指示で、戦争の遂行、長期化を実現するような原稿を書いたのである。日本のためではなく、ソ連のため、共産党のための行動をしたのである。
こうした人間はマスコミだけでなく、近衛首相の周辺にも集まり、戦中の日本の方針決定に大きく関与したのである。
今の時代でも、反自民ならまだ良いが、反日的な行動をし、日本に大きな損失となるような記事を書く記者がいるのを不思議がる人がいるが、思想的に凝り固まった人間は、平気で自国さえ売るのである。彼らにとって、国益などという発想はないのである。
戦後でも、日米安保改定の時、東大の教授達とオールマスコミが「安保改悪は日本を再び戦争へ引き込む」と叫び、それに踊らされた学生達は百万人という規模で、国会デモをおこない、自民党の岸政権は倒れた。
この時、当時の岸首相は「声なき声が私を支持してくれている」と言って、世論がオール安保改定反対と言える状態の中で安保改定を行い、事態の混乱を納めるために首相の座を去った。
この岸元首相の話は、いかにオールマスコミが岸首相を徹底的に叩き、首相が孤立していたかを示すものである。
でも、実態はと言えば、当時、反対運動をしていた人のほとんどが、安保条約の改定の中身を知らずに、マスコミや東大教授などに煽られて反対行動をしたと語っている。
また、この時の安保改定は、終戦直後、敗戦国の日本が無理やり飲まされた、日本にとって非常に不平等な内容を改定して、少しでも平等に持って行こうとして行われたものであるという事は、歴史的な事実として明らかになっている。
今、かつては保守的と言われたNHKや週刊文春や週刊新潮までを含むオールマスコミが反安倍、反自民、反日であるのはどうしてか。どうして、そんな風になってしまったのか。その理由を考えてみた。
元々、マスコミには反権力の思想がある。権力の暴走を抑えるという事で、それはそれで意味のある事である。しかし、かつての大手新聞社は、戦時中のソ連共産党のスパイの記者達は別として、戦後は少なくても、論理的に政府の問題点を突き、批判して来た。
それが、今の朝日新聞や毎日新聞、東京新聞などは、事実で批判するのではなく、平気で嘘を書くとともに、センセーショナルな言葉、写真などで煽るし、ダブルスタンダードで状況で言う事が変わる。
例えば、朝日新聞も毎日新聞も、今回の森友問題でも、紙面で反安倍のデモの写真を大きく載せる。だが、それと勝るとも劣らない安倍支持、支援のデモについては、全く触れない。
また、選挙で負ければ、「有権者の声を聞け」と言う一方で、選挙で自民が勝つと、「勝ったかと言って、それが民意だと思ってはいけない」と、平気で書くのだ。
こうしたマスコミの質の劣化にはいくつかの理由が考えられる。
その1つは戦後のGHQ支配下で行われた歴史の改ざん、日本文化の否定の教育が70年も続き、嘘の歴史が多くの日本人の血になり、肉となってしまったからである。
筆者のように、終戦前に生まれた人間にとっては、子供の頃、まだ、戦前に作られた本や雑誌、そして、そうした事を裏付けた史跡や銅像などがあり、戦後、学校で教えている事が少し違うという意識が少なからずあった。でも、今の60歳代以降の人にとっては、そうした要素は全くない。
特に、大手新聞社やテレビ局に入社する若者は偏差値の高い大学を優秀な成績で卒業した者達で、戦後の丸暗記教育で、「疑問も持たず、余計な事を考えずに、言われた事を言われたまま暗記しろ」と言われて、実行して来た人達で、それを否定する事は自分の否定になるのだ。
2つ目の理由は、1960年代に朝鮮総連や韓国系の民団が大手マスコミを攻撃して、在日朝鮮、韓国人を採用するように執拗な働きかけをした結果、各マスコミが在日枠を作って採用を始め、それで入社した人間が役員、幹部になって行き、自分の民族の後輩を引き揚げ、社内の要所要所にそうした人達が配置されるようになってしまった事である。
更に悪い事に、3つ目の理由として、元首相の宮澤喜一氏が鈴木善幸首相の官房長官の時、教科書の検定問題で、ある新聞社の記者が間違って書いた事で、中国、韓国が騒ぎ出し、それを受けて、宮沢氏が官房長官談話を出して、日本の教科書の検定にあたっては、中国、韓国などの近隣諸国の歴史観などに配慮するという「近隣条項」という発想が取り入れられた事が挙げられる。
そして、1982年から文部省は教科書検定でそれを実行していくことにしたのである。この結果、日本の歴史の事実を事実として書けず、逆に、それまで教えて来た事実が次々に書き換えられ、日本の歴史がどんどんねじ曲がって行ってしまったのである。
東大など主要大学の日本史担当の教授陣などに、在日の人や、その流れを汲む人が少なくなく、歴史の加工に拍車をかけたと言われている。今の記者達はこの間違った歴史を事実として信じ、そこが基本認識となっているのである。
4つ目の理由として、中国はマスコミの駐在員の交換にあたって、自国に批判的な記事を書く日本マスコミの記者を受け入れないというような態度を示し、日本の記者が中国、韓国に迎合する記事を書くようになって行った事が挙げられる。
優等生タイプの人間は、自分の上司に文句を言ったりしない。「疑問を持たず、言われた事を言われた通り覚えろ」 と言われて、それを十数年生徒、学生時代にやって来た優等生タイプの人は上司の言う事が絶対で、その通りに行動する。上司が反安倍、反政府、反日なら、それに従うのである。
個々のマスコミの話では、朝日新聞は上に書いた尾崎秀実のような共産党のスパイが組織の中に多くいた。そして、戦後もそうした人が幹部になり、論陣を張って来た歴史があるので、基本的に、反自民、反政府、反日なのである。
ただ、筆者が現役の記者時代には、反政府であっても、もっと事実で政府を批判していた。それが、戦後丸暗記教育で育った人間は、とにかく辻褄合わせが最優先で、どんな事でも、話をこじつけようとするのだ。だから、そんな論理は通用しないというような嘘、こじつけを平気で書くのである。
最近のメーカーのデータ改ざんと全く同根のものの考え方、行動パターンである。
朝日新聞と並んで反政府、反日の代表格と言える毎日新聞がどうしてそうなったかは、原点として、西山太吉事件がある。
若い人は知らないと思うが、毎日新聞の西山記者が沖縄返還に関連して、密約について特ダネを書いた。それは外務省でもほんのわずかな人しか知らない話で、彼は担当の外務省の審議官付の女性秘書官と性的な関係をもって、情報を獲得した。
しかし、この事で西山氏と女性事務官は罪に問われ、それで毎日新聞は部数を大幅に減らし、社員の給料も大きく減額された。
以来、毎日新聞の経営は当時のメインバンク、三和銀行(今の東京三菱UFJ銀行)に支えられて、どうにか持ちこたえているという状態となった。そこに三和銀行女性行員による公金横領事件が発生する。
毎日新聞の記者はこの事件を他社よりもいち早く知って、原稿を掲載しようとしたが、三和銀行の圧力に毎日新聞の社長が屈して、没とされるという事が起きた。
こうした事から、かつては良い新聞として評価されていた毎日新聞の記者の間に、次第に反権力の気風が強まって行き、それが反政府、反自民、反日へとつながって行くのである。
赤旗よりも左と共産党の幹部が言う東京新聞は、筆者が現役の頃は、他社にない独自原稿が載っている良い新聞だった。それが今は共産党より左になってしまったのだ。
この理由について、中日新聞による買収を挙げる人がいる。東京新聞は名古屋の中日新聞に買収され、幹部は中日新聞から来るようになった。
東京新聞自身は左翼新聞ではない。しかし、名古屋という風土は複雑な背景を持つ。
江戸時代、尾張徳川家は御三家の筆頭の家でありながら、将軍を一人も輩出していない。これが反中央、反東京の気風を生んだ。幕末に薩摩、長州を中心に官軍が出来ると、御三家でありながら、真っ先に官軍に寝返ったのである。
トヨタ自動車は今でこそ日本一の会社となったが、筆者が若い記者時代には、「東京のルールに従わない名古屋の田舎者」というように陰口を東京企業に言われ、浮いた存在だった。それは尾張徳川家の意識を受けているように筆者には感じられた。
そうした少し変わった意識の名古屋の人達が幹部として来て、従来いた人たちが冷や飯を食い出した。その結果、東京新聞の人達は中日の反中央、反権力の考えに影響を受けるとともに、更に中日新聞という権力に反発するという複雑な感情で仕事をするようになり、気が付いてみると、今のようになって来たのである。
かつて、保守の牙城のように言われたNHKが今日のように反自民、反政府、反日になった背景にNHKがかつて放送して大評判となったテレビ番組「シルクロードの旅」があるという。
この取材でNHKは中国に大きな便宜を図ってもらい、そこから、中国のテレビ局が支局をNHK内部に置きたいと言って来た時に、断れなかったという。
中国のテレビ局は中国共産党の広報宣伝部局の指揮、監督下になる組織で、言ってみれば、共産党の宣伝機関そのものである。その支局をNHK内部に設置させたのである。そして、求めに応じて、今は日本の国会中継のVTRは全部渡しているという。つまり、スパイ活動をする機関に全面協力しているのだ。
中国のテレビ局の支局の設置を認めたのを見て、今度は韓国のテレビ局が「中国に認めるなら、うちにも認めろ」と言って来て、NHKはこれも認めた。
2つののテレビ局には情報工作員がいるし、そうした人間と接する内に、社内がどんどん左傾化して行ったというのである。
NHKでは、そうした中国や韓国の影響だけでなく、大分以前から教育テレビの番組プロデューサーの中にかなりの左翼思想の人達がいた。こうした人が外部の左翼思想の人と協力して、首を傾げる番組を作っていたが、それが次第に社内に広がって行ったのである。
だから、ここ何年かのNHKの番組では、歴史的な事実と異なる趣旨の番組が多くなって来た。
少し前に、「日本統治下の台湾で、現地の人は大いに苦しんだ」という趣旨の番組を作り、しかも、インタビューした台湾の人が話した事と真逆の話を放送して訴えられ、裁判で敗訴した事がある。
こうした経緯があるのに、つい最近まで、多くの国民、特に年配者の間では、NHKはマスコミの中でも別格で、信頼が出来ると思っている人が多かった。それが、今回の森友問題や平昌五輪などでのNHKのあまりにもひどい放送の仕方を見て、NHKに対しておかしいという人が増えて来た。
NHKの大幅改革を叫ぶ人が増えて来たのは、森友問題の副産物としての大きな貢献である。
同じく保守系と思われていた週刊文春、週刊新潮の左傾化も著しい。
この理由について、読書層が年配者で、その年配者には反安倍、反政府が多いので、方針転換したのだという説もあるし、今の上層部の考えで、左に変えたのだと説もある。両週刊誌については、何故、今のような路線になったのか、その原因はいまだによくわからない。
日本人の東大出身の中央官庁のエリート官僚に対する信頼感は強いものがあった。
政治家に問題があっても、日本は官僚が優秀だから、任せておけば大丈夫と、多くの日本人が思って来た。その根拠は、戦後の奇跡の復興に官僚の果たした役割が大きかったという神話があった。
城山三郎の「官僚たちの夏」という小説などがその根拠となった。
しかし、その後、歴史的な事実をよくよく観察しみると、事実は結構違っていた。
通産省など戦後復興に力があった官庁がした事は、アメリカなど先進国のモデルの資料を取り寄せ、それを参考にして、日本版を作るとともに、監督下の民間企業の人の話を聞き、その要望に対して予算をつけただけだったという事がわかって来た。
官僚たちは、それを自分達が中心になって、日本の復興を成し遂げたのだと、自ら宣伝して来ただけだったのだ。
だから、日本が復興し、アメリカを追い抜くくらいの力を持ち、先行モデルがなくなるとともに、民間企業が力をつけて、役所の援助がいらなくなり、要望がなくなってくると、自ら考え出す力のない官僚は何も出来なくなって来た。
それだけでなく、バブルを一挙に破裂させ、日本を一気に不況の底に引きずり込んだのは官僚だし、その後の20年間、何も有効な対策を打つことが出来なかったのも官僚である。
それだけでなく、省益、私益のためにだけ動く組織となり、国や国民を考える発想は消え去ったのである。だから、信じられないような大蔵官僚による「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」や前川文科省事務次官の「淫行事件」が起きたのである。
筆者は今から4、5前くらいまでの十数年間、企業の採用の事実上の責任者の仕事を担当した。
その時に、東大、京大などの優秀な学生にも数多く会った。彼らの中には公務員上級職の試験に合格し、民間企業の採用面接を受けながら、官僚とも接触を持っている人が何人もいた。
そうした官庁も受験している学生で、筆者の目から見ても優秀と思える学生に、民間企業にするか、官庁に就職するかと聞くと、彼らはいずれも民間だと答えた。
筆者が理由を聞くと、彼らは異口同音に「今の官庁は魅力がありません。働いる人も楽しそうではないです。だから、優秀な人ほど、3年以内に辞めていきます」と答えた。
前にも書いたが、戦後、日本の政治は事実上官僚が支配し、政策も官僚が考え、実行して来た。政治家は官僚というお神輿の上に乗っていただけである。
戦後、政治家として有能で、大きな仕事をした人はいずれも官僚出身で、自分の経験から官僚が良くわかっているので、うまく使いこなすとともに、自分のビジョンも持っていたので、それを官僚に説明し、具体化の手助けをしてもらったのである。
しかし、今の日本の政治には、そうした政治家と官僚の一体感がない。
理由は簡単で、かつてのように、日本の復興、発展という共通の目的がなくなり、利害が相反するようになって来て、互いに争う存在になって来たのである。
東大出身のエリート官僚は子供の時から成績が良く、教師や親から大切に扱われて来た。だから、自分が中心で世の中が回って来た。その結果、プライドが高く、実際はそうではなくても、自分の考えが絶対正しいものだと思い、他の人間は自分よりも下だと考えている。
自分達がいなければ、日本は回って行かないと本音で信じている。
でも、今、官僚は組織、仕組みとして、彼らが中心では世の中は回らなくなって来た。
これだけ情報がネットなどで出回る時代になって来ると、官僚の考える事のアラ、問題点が明確になって来て、官僚の考える事が絶対ではない事がわかってしまうようになって来た。
また、高度成長時代のように、政治家と二人三脚で仕事をするという状態ではなくなって来た。力、情報、ビジョンを持った政治家に指示され、官僚はそれに従わないといけなくなったのだが、そのプライドの高さのために、それが出来ないのだ。
そして、上に書いたように、次第に優秀な学生が集まらなくなって来て、官僚のレベルが落ちて来た。折角、優秀な人が入っても、優秀であればあるほど、失望して短期間で辞めて行く。
もう大分前だが、農水省で新規入省の人に東大出がゼロという事態が出現した。優秀な東大君は若い内に1千万、2千万と稼げる外資などに行くようになってしまったのだ。
また、官僚は全国一律でものを考える。
例えば、東京と東北、九州では、家を建てる場合、窓一つとっても仕様が違うはずだし、家を作る基本的な構造が違ってしかるべきだが、現場を知らない彼らには、それが出来ないし、知っていても、そんな面倒な事はしたくない。それが官僚である。
だから、東京と神社、仏閣が多くある京都が同じ基準、規則になるのだ。
耐震建築対策でも、全国一律の発想なので、老舗旅館が何十億、何億の資金は出せないと廃業する所がいくつも出て来ている。その地区の地盤などの強さという細かな対応は彼らには出来ないのだ。
煮込み料理をする時、小さい火で長時間煮ないといけないが、今のコンロは消防庁の指示で、一定時間とろ火で煮ると、火が止まってしまうように作られている。また、鍋の温度が一定以上になると、コンロの火が種火になるように設計されていて、料理には不便この上もない。
日本は1千兆円を越える国の借金があるが、かなりの資産もあり、貸借対照表では決して、大変で借金を早急になんとかしないといけないという状態ではない。
では、財務省官僚が借金ばかりの話をして、資産の話をしないかと言えば、資産の多くが、彼らが天下りをする先の公社、公団、役所に関連のある組織が持っているからである。これを処分したら、自分達の天下り先がなくなってしまうのだ。
また、税収を増やすための措置として、消費税の引き上げだけを叫んでいて、他の税収を言わないのは、財務省、大蔵省の歴代のトップが消費税を中心に置いて来たからで、他の選択肢をいう発想は、先輩を否定するので、彼らは一切取らない。上司には逆らわないのだ。
でも、財務省のデータ改ざんだけでなく、年金機構の個人情報のデータ処理を中国人に下請けさせていた問題など、官僚がいかに好い加減で、杜撰な仕事をしているか、多くの事案が出て来て、国民も理解できるようになって来た。
そうした意味で、官僚神話を終わらせ、官僚独裁国家を終わら、主権在官から主権在民に切り替えるきっかけになったとしたら、森友問題をめぐる国会のバカ騒ぎは、極めて意義のある出来事だったと言える。
20180330
無能野党を改革・教育するために、政府案への対案の義務付けを
国会での佐川前理財局長・国税庁長官の証人喚問という茶番劇が終了した。
その様子を見ていると、佐川氏は神妙な顔つきではあるが、余裕があり、時折、笑みを浮かべ、野党のどうしようもない質問にも、エリート官僚特有の慇懃無礼な様子で返答し、恙なく終了させた。
当日、翌日のテレビ、新聞の見出しは、どこの会社も「佐川氏、証言拒否」だったが、これは基本的に間違っていて、視聴者、読者にそれこそ、間違った印象を植え付ける印象操作であると筆者は思う。
佐川氏は自民党の丸川氏の首相、財務大臣、首相官邸の補佐官達からの削除要請があったかという質問に対して、「ありません」と明確に否定している。証言拒否ではなく、きちんと質問に答えている。
そして、削除についての自分自身の関与や、どういう経緯で行われたかについては、大阪地検が籠池氏を逮捕し、自身も捜査対象で、現に佐川氏自身、大阪地検から任意の事情聴取も受けている事もあり、「発言は控えさせていただきたい」という趣旨の発言をしたのである。
つまり、他人からの働きかけは明確に否定するという言ってみれば、有額回答をし、自身については、証言をしなかったという2つの異なる対応をしたのである。
普通の刑事事件での警察での取り調べや裁判でも、基本的な権利として黙秘権は認められており、佐川氏は自身については、これを行使したに過ぎない。
マスコミの報道もお粗末だったが、証言が終わった後の野党の発言も、「証言拒否をするという事は、首相や官邸からの圧力があった何よりの証拠」「証言拒否で疑惑は余計深まった」というような本当に信じられないものだった。
野党議員には弁護士の資格を持ち、活動をしている人が何人もいるが、そうした議員は黙秘権という人間に与えられた当然の権利すら否定するという、法律、憲法を否定する発言をするのかと言いたい。
黙秘権は疑惑を認めたという事では全くない。単に「話したくない」と言っているに過ぎないのだ。
そもそも、野党は何かというと、国会喚問を言い出すが、過去の事例でも、国会喚問で問題の本質に迫って、事件、事案の解明に役立ったという例はまずない。当然である。野党議員自身、何も証拠もデータも持っていないのだから、真相に迫れる訳はない。
それなのに、マスコミ向けパフォーマンスで、何かあると、証人喚問と簡単に言うのだ。
更に、佐川氏への質問は2つの異なった事を聞かないといけないのに、その区別すらしていない野党議員がほとんどだった。
佐川氏に聞かないといけない事は、1つは土地払い下げに対する首相や官邸の介入であり、もう1つは文書改ざんの経緯である。この全く異なる事をくっつけて、何だ何でも安倍首相に結びつけようとするから、話が見えなくなるのだ。
首相、官邸からの土地払い下げへの介入は、過去1年あまり国会で散々野党が質問し、マスコミも散々さも疑惑があったかのように、煽る報道をして来たが、事実として、問題の土地がいわくつきの所で、地元の不動産業者が「タダでももらいたくない土地。1億円でも無茶苦茶高い」と言っている事でわかるように、首相が関与する余地のない事なのである。
だが、公文書改ざんは犯罪であり、これに焦点を当てて、首相、財務大臣の責任を追及し、財務省事務次官に今後の対応をきちんと聞けば、少なくても、公文書の管理についての前向きの回答は得られてはずであり、場合によっては、次官、大臣の責任問題とする話にもできたのでる。
だが、そうした詰め方を野党議員は全くしなかった。
森友問題に限らず、最近の野党のお粗末ぶりは目に余るものがある。
そのまま選挙になったら、所属議員の半分も当選しない、3分の1に激減すると言われた民主党の議員が、自身の議席を守ることが何よりも大事とばかり、安倍首相よりも右寄りと言われる小池氏の話に乗って、希望の党に入った。
そして、入党の条件である改憲の方針を守ると約束して署名したは良いが、当選後、前言を覆して、「そんな約束をしていない」という議員が続出した。そして、希望の党はついに、元民主党議員が大半を占めて、小池氏の立党の精神を否定し、事実上、党を乗っ取った。
希望の党に受け入れらず、仕方なく党を作った立憲民主党では、検事を辞めて議員になったは良いが、ダブル不倫で週刊誌に叩かれたのに苦しい言い訳に終始し、選挙に当選した後は「事情説明をしたこと自体する必要がなかった」と新聞へのインタビューで語る厚顔無恥の山尾議員を、何故か受け入れた。
立憲民主党は、二重国籍問題で散々批判されたのに、きちんとして説明もしない蓮舫議員を受け入れたし、それこそ、森友問題の出発点と言われる野田中央公園への市への事実上の無料払い下げに深く関与し、ほじくり返されたら、逮捕もあり得ると言われる辻元議員を党幹部にした。
辻元氏は公選法違反で議員の資格を失った人だし、彼女は極左集団や同和などにも深く関わっていると、とかくの噂がある人である。こうした人を入党させただけでなく、党の幹部に登用する枝野代表の気持が理解出来ない。問題が表面化したら、党が空中分解しかねない人を何故、幹部にするのだろうか。
旧民主党だけではない。かつてはテレビの討論番組などに出たら、屁理屈でも与党議員が論争に負けると言われた理屈に強かった共産党議員は、ワイドショーの司会をするお笑いタレントの質問にまともに答えられず、苦戦している惨状である。だから、議席が減るのである。
何故、野党議員がこんなにお粗末になってしまったのだろうか。
筆者は理由は2つあると考える。
1つはこれは自民党にも言えるが、小選挙区制度の結果、強い地盤などを持つ党では、党の承認さえ得られれば、かなりの確率で当選するので、議員自身が努力しなくなったのだ。
かつて、国会議員は与野党を問わず、週末の金曜日には選挙区に帰り、土日で支持者や選挙民が集まる集会に参加したり、選挙民と対話をした。
そして、地盤固めをするとともに、地元の様々な問題を見聞きする他、国民の不満、要求を理解し、それを中央省庁に問い合わせるなどして勉強をし、自分の活動の材料にしたのである。
それが、小選挙区制度で当選がほぼ保証されるようになるとともに、週末に選挙区に帰る議員が大幅に減ったという。選挙民との対話、地盤固めはせず、週末は東京でのんびり息抜きという人が増え、それとともに、情報収集も勉強をしなくなったのである。
野党議員がお粗末になったもう1つの理由は、今の日本の国会では、与党や政府の重箱の隅を突くような質問でも、「〇〇議員、政府を追及」とマスコミが扱ってくれるので、とにかく、嘘でも良いから、政府のアラを探すという形が普通になってしまったからである。
前にも書いたが、自民党が過半数の議席を持ち、社会党が3分の1程の議席を持っていた時代は、どうしようもない議員も勿論いたが、社会党でも民社党、公明党、共産党でも情報通で凄い情報を持っている議員は複数いたし、政策に強く、首相や大臣と論戦をしても、負けない論争をする議員が結構いた。
旧社会党には「爆弾男」と異名を持つ議員もいて、どこでどうして、そんな情報を手に入れたのかと思える情報を手に入れ、政府、首相に迫る議員もいて、彼が質問に立つと聞くと、政府や中央省庁の幹部は身構えたものである。
そして、彼らは細かな重箱の隅突きではなく、本質論で政府・自民党に論争を挑んだ。だから、政府・自民党も話を聞かざるを得ず、その主張を政府の原案に加えて、修正という事がかなり行われた。
マスコミは自社慣れ合いとか、料亭政治とか批判したが、少なくても、与党の原案を修正する対応を野党議員がしていたのである。現在の日本の福祉、医療制度の充実は、こうした社会党など野党議員の提案などが、政府原案に加えられ、実行されたものが少なくない。
そこで、筆者の提案だが、国会で一定の議席を持つ政党は、政府・与党に質問するだけでなく、政府案が問題なら、「自分の党はこう修正する」という修正案、対案を示す事を義務付けるようにしたらどうであろうか。
具体的な内容の詳細さはともかく、「わが党が与党なら、この問題はこう対応する。私が首相なら、こうする」という内容をつけることをしないと、いけなくするのである。
日本の教育では、東大の授業でも、教師や教授が言った事をそのまま書けば、百点が取れる。
これに対して、欧米の学校、大学では一定年齢に以上になると、教師、教授が言った事だけを試験で書いただけだと、7、80点しか取れず、他の資料、文献を当たって、自分の意見、異なった考えをつけ加えて、初めて満点が取れるのである。
教育現場の改革は急務だが、国会の場でも、その発想を取り入れるのである。こうすると、個々の議員も政党も勉強をし、政策にかなり強くならないと生き残っていけなくなる。そうすれば、今のようなお粗末議員はどんどん消えていくようになる。
もっと言えば、各政党のホームページや発行しているパンフレットに、主要問題について対するその政党の基本方針を書き込むことを義務付けるのである。財政問題、税制問題、防衛問題、憲法問題、福祉政策、地方分権、少子高齢化対策、対米・対中・対韓問題などなど。
そして、良い所取りではなく、きちんと財源、歳出などの骨格を示させるのである。更に、今の国会では、政府は野党の質問に答えるだけで、質問する政党の矛盾を指摘したり、過去の言動などを下に反論する事は出来なくなっているが、それを政府・与党に認めるのである。
こうした初めて、議員同士の本質的な議論が行われるようになり、新聞や週刊誌などの記事を示して、事実関係も知らずに質問をするような議員は、発言の場がなくなって来る。
国会では、全ての事は予算に関連しているとばかりに、予算委員会では、どんなことでも質問して良い事になっている。だから、予算にほとんど関係ない森友問題を予算委員会で長々と取り上げることになるのだ。
そして、こうした質疑が終わらないと、予算案の採決が出来ず、予算が成立出来ない。そこで、野党はいわば、「予算を人質」に、森友問題などどうでも良い事で延々と質問をし、時間延ばしをするのだ。長く質問時間を取らせたことが野党の勲章という発想があるのだ。
予算が成立しないと、国の活動がストップしてしまうので、政府・首脳は予算が成立するまでは、どうしても低姿勢にならざるを得なくなる。そのシステムが議論をより不毛なもののしているのである。
今の国会のシステムだと、議員が与野党を問わず、質問をする場合、事前に内容を通告するようになっている。そして、その質問内容は本質には関係ない細かな事を盛り込んでいる。
最近もあったが、バカな野党議員は憲法や法律の条文について、大臣に質問し、それに答えられない大臣をからかっていた。法律の文言を全て暗記している議員などどこにもいない。にもかかわらず、こうしたバカなパフォーマンスをする野党議員が本当に増えて来た。
首相や大臣は、膨大な政府、省庁の案件や行政の細かい事までは、当然、知らない。
そこで、質問への回答は事情を知っている官僚が書き、大臣や首相はそれを読むという事になる。
知らない事を説明するのだから、官僚のメモの棒読みにならざるを得ない。議論ではなく、メモ読みが大臣の仕事というのが実情である。
だから、読み間違え、言い間違いが発生する。そこをまた、野党が本質に関係ない細かな事を追及するから、大臣、首相はより官僚のメモに頼るようになる。
そして今は、筆者が現役の記者時代と異なり、質問する議員側の原稿も、官僚が書いているという驚くべき話を最近、聞いた。
これはかつて記者を務め、今では国会議員になった、ある人間の話だが、質問に立つことになり、質問項目を通告したら、官僚は具体的な内容をヒアリングに来るのではなく、その議員の通告内容を元に、「質問内容はこうだろう」と類推して、質問の文書も書いて来たというのだ。
その議員がびっくりして、「嫌、質問は自分の思ったような言葉で話すから」と言ったら、ヒアリングに来た財務省官僚は不思議そうな顔をしたという。
彼は2、30年記者をしていたので、国会内の事について取材経験はあり、国会内の慣習も結構知っているが、議員としては1年生で、そうした習慣が今の国会の常識になっている事を初めて知ったという。
その彼に財務省官僚は、「今は与野党の質問議員の質問内容を原稿にして、議員に渡すのは常識」という態度で接し、自分の言葉で質問をするという、その議員の話が理解出来なかったという。
もう何年も前から、大臣や首相の答えだけでなく、与野党の質問の文まで官僚が書くという習慣が出て来ていたというのだ。つまり、質問する議員の質問内容も、具体的な言葉も、それに対する大臣、首相の答えも、全て官僚が書くという事が行われていたのである。
以前はこんな事はなかった。
筆者は野党の議員から、こんな事を質問したいが、どう切り出そうかと質問をされた事は何度かあるし、質問のギリギリ前まで、質問文を添削している野党議員も目にしている。それが今は質問者の文まで官僚が用意しているというのだ。
与野党とも質問も回答も官僚の文書を読んでいるという事は、全て官僚の掌の上で物事が進んでいるという事である。政治の官僚支配が進んでいるひとつの表れである。そして、予算委員会を掌握する財務省は官庁の中の官庁として、より以上に政治を実質的に支配しているのである。
日本は官僚が何にもかも握り、政治、首相も大臣も官僚の抵抗に遭うと、何も出来なかった。
でも、本来の主権在民とは、国民が主権者であって、その主権者の国民に選ばれた議員が中心になって政治を行う事である。
戦前も、そして、戦後も日本は官僚が政治を実質支配して来た。
それが上手く機能すれば良いが、官僚は大きな所で大失敗をする。
戦後の日本の官僚は東大法学部出身者で構成されて来た。彼らには、十年後、20年後の日本をどうしようかというグランドデザインを書く能力はない。教育されて来たのが、細かな規則、条文の整合性や理屈などであって、大きなビジョンや地政学的に日本を考えるなどという発想は、基本的に皆無に近い。
戦後の混乱期から高度成長時代にかけて、官僚が曲がりなりにも機能したのは、欧米にモデルがあり、その資料を取り寄せ、官僚はそれを日本に置き換えて、同じようなものを作れば良かったからである。
また、民間企業も戦争で工場が焼けて、復興に懸命で金も力もなかったので、役所の予算や海外の情報が有用だったので、自分達がどうしても、して欲しい事は官僚に囁き、官僚がそれをあたかも自分の案のように見せて政策を作ったので、民間企業が望む政策が国の方針になったのだ。
しかし、1980年代から90年代にかけて、日本がジャパンアズナンバーワンと言われ、アメリカを凌ごうというような状態になり、他の国にモデルがなくなるし、参考書がなく、自分でアイデアを出せと言われた途端に、どうして良いかわからない東大法学部出の人は三流君に転落し、する事なす事すべて失敗で、日本は20年という長い不況に突入してしまったのである。
バブルの頃になると、民間企業も強くなり、官庁に頼らなくても、自分で海外の必要な所に人を出して情報を獲得し、時価発行で資金が調達できるようになって、国の援助はほとんどいらなくなって来た。
トヨタやソニーという強い会社の望みは「官僚はとになく、何もしなくて良いから、邪魔だけはしないでくれ」と変わったのである。
デザイン的にも予算的にも頼られなくなり、遣り甲斐のなくなった官僚が何をするようになったか。
それは自分の省、自己の利益、権益にだけ関心を持ち、国や国民をどうするか、どう導くかという発想が消えたのだ。日本を何とかしたいという高い心得、望みが消えたのだ。そして、それを象徴するかのように起きたのが「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」だったのある。
優秀な大蔵官僚、日銀官僚がこんな事をしていたのかという事が白日の下に晒されたのである。大蔵省、日銀で将来の次官候補、日銀総裁候補と言われている人が、金融機関の人から、恥ずかしげもなく、まさに、「ノーパンの女性」から接待を受けて、しゃぶしゃぶを食べていたのである。
勿論、しゃぶしゃぶを食べるだけでなく、二次会では女性の接待も受けていたのだ。
これは一過性で終わってはいない。文科省の前川前次官が出会い系のバーに週に3日通って、淫行をしていたというのも、ノーパンしゃぶしゃぶ事件と同じ図式である。官僚からモラルがなくなったのである。あるのは自分の金銭、利権、女への欲望だけである。
国会の話に戻ると、議論を正常化するには、まず、大臣の答弁は、野党議員に重箱の隅を突くような質問を止めさせるか、質問があった時に、「詳細な事は担当官僚から答えさせます」と言って、官僚に対応してもらえば、良いだけである。
そして、与野党の質疑は細かな枝葉ではなく本質の事を議論するようにするのだ。
現に、筆者が現役の時代には、そう言って、細かな事は官庁の局長や担当者に答えさせていた大臣はいくらでもいた。
ところが、今の野党議員は、大臣がそうやって担当局長などに答えさせようとすると、「私は大臣に質問しているので、大臣が答えて欲しい」と、本質と関係ない細かな事を大臣に答えさせ、揚げ足を取ろうとする野党議員が多い。だから、些末な事が議論の中心になってしまうのだ。
そして、先に触れたように、質問をする野党議員は、必ず批判、質問だけでなく、自分、自党の対案を出すように義務付けるのである。
こうなると、本質的な議論になり、枝葉はどうでも良くなる。
労働環境改革でも、裁量労働がサービス残業、過労につながるなら、野党はそれを規制し、うまく運営できるようにする修正案を提案すれば良いだけである。
労働生産性が先進国の中で有数に低い日本は、労働生産性を上げる事は国として生き残れるかどうかの大きな問題である。生産性を高めるためにどうするか、それによって生じるゆがみ、問題はどう対処するか、それを提案してこそ、野党の存在意義があるはずである。
国会の質疑でも、また、党のホームページでも、そして、党のパンフレットでも、きちんと財源や現実をベースに政策を描けば、矛盾は書く人間が一番わかる。
こうした積み重ねが、政権交代の時に、支障なくそれまでの野党が与党になっても、国が回っていくことになるのである。
最大野党だけでなく、それ以外の野党も良い所だけ書いたような政策や、口当たりの良い政策を言えば、財源はどうするのかという批判に答えられなくなり、自然に淘汰されていく。
日米安保は破棄、自衛隊もいらないというなら、国をどうやって守るのかという質問に答えられない。「国連中心の外交」 そう言ったら、領土を奪われても、国連は何もしてくれなかった国を例に出して、それでも、防衛力は要らないという党は、「他国に日本を売り渡したいだけの政党ですね」という反論には答えられない。
批判だけうまく、政権を任せたら、ことごとく失敗をし、良い事はことごとくぶち壊した民主党政権の2年半という、国民にとっての大きな不幸を良い経験として生かすためにも、普段から政策で理論武装し、与党と凌ぎ合いをするという習慣を野党に持ってもらう事が大切である。
そして、上にも書いたが、与野党を問わず、国会議員をダメにした大きな原因である小選挙区制度を以前のような中選挙区制度に戻す事が重要である。
マスコミ、学者の大合唱で始まった小選挙区制度は大きな弊害を生み、国会議員の劣化を招いただけである。小選挙区制度の導入の時は、今の森友問題と同じように、オールマスコミ、学者が百パーセント賛成、これで日本は変わるという報道のされ方だった。
森友問題もそうだが、オールマスコミが賛成という時は、裏に何かがあると思えば間違いない。そして、それを実行した時は、ほとんどが悲惨な結果となる。
消費税もそうだが、他の国がやっているからと言って、それが正しいという事にはならない。日本には不向きな事はいくらでもある。逆に、日本でうまく行っている事が外国では全く機能しない事もある。それがお国柄なのである。
20180328
老人貧困問題は国の責任というおかしな論理
最近、本やマスコミで老人の貧困が大きな問題として取り上げられ、マスコミや野党などでは政府の対策を強く求める論調が高まっている。書いている人の多くが、政府の対策の遅れを言い、もっと政府は早急に対応して、高齢者を貧困から救えと訴えている。
しかし、それらを書いた本や雑誌の中身、また、マスコミの取り上げ方を見ていると、筆者はこの議論に違和感を覚える。
というのは、貧困老人問題の根本的な原因分析をきちんとして、問題がどこにあり、どうしてそうなったかという現状認識を多くの国民がきちんと共有した上で、同じ失敗を今後繰り返さないようにするにはどうしたら良いか。また、対策として何をなすべきか、国や地方自治体が何ができるかという話の展開にならないといけないのに、「とにかく困っている人が多くいるのだから、政府が何とかしろ」という論調がほとんどだからである。
きちんとして原因分析と国民の間の共通認識を持つという事は同じ失敗を繰り返さないためにも是非必要な事だが、福祉に充実を叫ぶ人こそ、そうした基本を言わないのだ。
高度成長時代のように、政府の税収がどんどん増え、革新系の知事が人気取り政策として行った老人医療費の無償化などが出来た時代はともかく、今は税収も限られ、少ない金ををどう効率的に配分するかという時代なのに、発想が高度成長時代のままなのだ。
政府におんぶにだっこの発想は、今の時代に合わないのに、無理な事を国や自治体に求めている。
革新系の人は政府を厳しく批判する一方で、何かあったら、政府が対応するのは当然という発想で、政府や自治体に無謀な要求をする赤ちゃん的な発想の人が多い。
普段、「自衛隊は違憲で、人殺し集団」と言い続けていた教師が、災害に遭った時に、真っ先に食事などを配る自衛隊員の前に並びというのと同じ図式である。
政府を批判するのは良い。
でも、それなら、全体像を示して、「こう変えろ」と言うならわかるが、具体的な対案を出さずに、批判だけして、自分がもらう分については、人並み以上を求めるという頭の構造なのである。
筆者自身、70歳代前半で、正に取り上げられている対象の世代の人間だが、多くの友人知人の生活状況、老人医療や福祉の現状を見るにつけ、現状は明らかにやり過ぎ、異常な高齢者優遇な政策を国や地方自治体がしていて、これだと財政がパンクして当然だと思う事が少なくない。
今の日本では、1945年の終戦よりも前に生まれた70歳半ばよりも上の世代の人達で、貧困だという人については、批判を覚悟で言えば、9割以上が本人の責任である。若い時に、まともに働かず、老後対策もきちんとして来なかった人がほとんどと言って過言ではない。
彼らは高度成長時代からバブル時代に現役世代を過ごし、小さい会社でもきちんと定年まで務め、退職した人であれば、マイホームは手に入れていて、定年前か退職時の退職金でローンは完済され、貯金も一定額持ち、年金も月に20万円以上もらっていて当たり前という時代を生きて来たからである。
会社倒産とか、家が火事に遭うなど特殊な事例を除けば、普通に真面目に仕事をして、生活していれば、「家なし、貯金なし、年金なし」などなりようがなかった時代だったのである。
今の70歳代以上の人にとっては「自分の家を持つのは男の甲斐性」と言われた時代で、筆者も30歳代半ばで中古の家を買い、一度買い替え、更に、古い家を新築に建て直した経験を持つ。
大学を卒業した時の初任給は3万円台で、30歳代後半で買った住宅のローンの金利は、今では考えられない程高利の8%から十%というのが常識の時代で、毎月銀行にローンを返済しても、その7、8割が金利で、元本の借金がほとんど減っていない事を嘆いた経験を持つ。
それでも、中小町工場に勤め、大手銀行が金を貸してくれない人でも、真面目に仕事をしている人なら、労働金庫から金が借りられ、ささやかでもマイホームを買えた時代である。
筆者の経験でも、正直、社会人になって数年は結構、給料で生活はキリキリの時代だった。年収が百万円以下の時代で、いかに物価が安くても、やりくりは大変だった。だから、労働組合主導の賃上げを求めるデモに多くの日本人が参加した時代でもある。
しかし、20代後半から30歳代になると、給料も上がって少し余裕が出来、貯金や財テクを少し真面目にすれば、住宅ローンの頭金位貯まり、ローンを返済しながら、少しづつ貯金も出来て行った。
筆者は足りない金をどうしようかと考え、社会人2年目位から少しづつ貯めた金を株式に投資した。
高度成長時代からバブル時代へと日本が発展していた時代だったので、多くの上場企業が倍額増資や半額増資を頻繁に行っていた。だから、会社四季報を発売と同時に買い、倍額増資の予定を新規に書かれた会社の株を買っていれば、株は普通に値上がりしたという良い時代だった。
「会社四季報で金を儲ける法」といような本がベストセラーになった時代で、特別の知識がない普通の人でも、株式投資で金が増えて行ったのである。
筆者自身、初任給が3万円台であり、結婚が早く、子供も20歳代前半と早く生まれたため、妻は専業主婦だったが、社会人十年で、株式投資で1千万円貯めた。
列島改造ブームが起きる前の1940年代前半までなら、杉並、世田谷など東京の西側の区部で戸建住宅が2、3千万円くらいで買えた時代で、1千万円は今の数倍の価値はあったと思う。
筆者は四国の県庁所在地と大阪に5年あまりづつ勤務した後、東京に戻った。そして、地方の県庁所在地でも、大阪でも不動産を買おうと思って、勤めの合間、休日を利用して、不動産を数多く見て歩いた経験があるので、東京以外でも結構不動産の知識を持っていた。
地方の県庁所在地では、ターミナル駅から2駅位のJRの駅から徒歩件で、土地60坪付きの新築住宅で500万円位、大阪では、列島改造ブームの後だったが、中心部の淀屋橋まで電車で30分位の場所で、駅から徒歩数分の築後数年のマンションが1300万円位で売りに出ていたので、買う事を真剣に考えた。
東京に帰って来た時には、列島改造ブームの後で、土地や住宅の価格が大幅値上がりして、直ぐには東京区部には家は買える状態ではなくなっていた。それでも、東京に帰って1年程で、1千万円強の住宅ローンを組んで、駅から徒歩7、8分の東京近郊のベットタウンに2千万円程で45坪程の敷地の中古の家を買う事が出来た。
買ったベットタウンの家の隣の住人は、ご主人が地元の中小の町工場に勤める人で、そうした人が普通に家が買えた時代だったのである。
筆者の親世代の年齢の人を言えば、親戚の人で、十歳代で戦争に志願兵で行った大正末期の人間がいる。彼は当時の高等小学校(今でいう中学校)卒業で、戦後、町工場の工員になって、定年まで働き、夫婦で月額30万円からの年金を受け取り、最後は特養に入って80歳代で亡くなった。
彼は60歳で定年になり、家は持たなかったが、20年余りの老後の生活に不自由はなく、70歳代になっても、体が元気な内は、月に1回は鉄道会社が主催するバス旅行を楽しんでいた。
年金の話になると、厚生年金が出る会社勤めの人と異なり、国民年金だけの自営業者、個人商店主夫婦などの話が良く例に出される。月額6万円程の年金でどう生活しろというのだという話である。
だが、これも話が違うと思う。
筆者の1つ年上の知人で、関西地区の高校を卒業するとともに京都で理髪店に勤め、その後、少し金を貯めて、東京の区部で自分の店を持ち、数年前まで店を開いていた人がいる。
彼は店を訪ねて来た保険の営業の女性の話から、国民年金だけでは老後の日々の生活が難しいという事を理解して、夫婦揃って国民年金基金に入った。厚生年金部分に相当する部分を年金基金として積み立てたのである。
彼は70歳を過ぎて、奥さんが病気になって店に立てなくなるとともに店を閉じ、今では年金生活をしているが、店は自分所有の不動産だし、店から徒歩圏の住いのマンションも、今から20年以上前に新築で購入しているので、生活に不自由はない。
国民年金しかない自営業者の老後が大変だという話はよくマスコミが取り上げる。以前、長年、東北で洋服店を経営して、今は開店休業状態の人の話をテレビで取り上げていた。
この人は自分が客の服の寸法を測って、服を仕上げるテーラーの技術も持っているので、40歳代、50歳代には、近くに大きな会社が存在した事もあって店が盛況となり、従業員も7、8人雇っていたが、近くの大きな会社が閉鎖となって売り上げが減った。
そして、老後に妻が病気となって、長期入院をしたので、貯金も底をついて来て、生活が出来なくなって来たという話だったが、この話を先の理髪店の店主と比べると、老後をしっかり考える人と、そうでない人の差が出ているのがわかるだろう。
筆者も小さな会社を経営していて、多い時には8人の従業員を雇っていたので、中小、零細業者の事はよくわかる。小さくても会社や店を構えていると、保険の営業の人や銀行の人などがよく訪ねて来る。そして、理髪店の店員のように、年金基金や経営者保険などの話をしてくれる。
筆者自身、営業の人に勧められ、経営者保険という老後に備えた民間保険会社の保険に入った。仕組みは少し違うが、国民年金基金と同じような老後の備えである。
洋服店の店主は店が盛んだった時に、何故、経営者保険や国民年金基金に入らなかったのか、放送を見ながら、不思議に思った。
会社や店が盛んな時は、経費で保険料などは充分払えるし、備えをする精神的、時間的な余裕もある。そして、会社や店を経営していれば、景気に良い時もあれば、悪い時もあるという事は嫌という程、体験しているはずである。
近くに大きな会社があっても、それが閉鎖というような事は充分あり得るし、閉鎖はある日、突然ではなく、大きな会社であれば、ある程、閉鎖の話は地元対策もあるので、数年がかりで実現するもので、対策をする時間的な余裕があったはずである。
上記の理髪店の場合でも、近くに上場企業の工場があったので、彼はその地に店を開いた。高度成長時代やバブル時代は工員さんは3交代で、朝、夜勤帰りの工員さんが結構いたという。そこで彼は店を朝早くから開いて、こうした工員さんを客として確保したという。
こういう商売をしていれば、会社の社員と嫌でも話をする機会はあるし、工場の閉鎖や縮小などの噂はいち早く耳にすることができる。
現に、この理髪店の近くの上場企業の工場は、今は閉鎖され、工員さんのお客さんはいなくなった。その分、収入が減ったが、彼は東京区部にある工場は早晩、閉鎖になると考え、収入が多い時に、無駄使いをせずに、しっかり蓄えたので、工場がなくなっても、大きな打撃は受けなかった。
筆者と同じ年で、東京で小さな化粧品店を経営する人がいる。
彼は母親から店を引き継いだが、近くに大手スーパーが出来て、それまでの客を取られた。そこで、自分で手書きでチラシを作って、新聞に折り込んでもらい、売り上げを確保した。
そして、何年か前に、隣の店が売りに出た時に、借金をしてでも、その土地を買い取り、2軒分の敷地に1階は店、2回に美容サロンを作り、3階から十階までは賃貸マンションにした。「借金は大変だけど、自分が生きている間に返済する。そして、自分の子供や孫の代になっても、何とかやっていける基盤は作った」 彼はそう話す。
時代の変化や老後に備えをしないという人はものを考えない人だと筆者は思う。
上に、老人医療、福祉の現場がやり過ぎ、厚遇し過ぎだと書いた。
老人と医療の話となると、マスコミや学者の取り上げ方はもっと手厚くすべきという論が圧倒的だが、筆者が見聞きする実態は、明らかにやり過ぎ、老人甘やかし過ぎ、厚遇し過ぎである。
具体的な話を少し書くと、ここ1年くらいの間に、筆者の知人がそれぞれ東京と大阪でガンとなって、大学病院でガン細胞の摘出手術を受けた。1週間程の入院で、手術代、入院のベッド代、食費を入れて、2人とも支払いは3万円程だった。
筆者は親や親族、友人など何人もが以前、病院に入院して、見舞いに行く事を多く体験したが、今回、親戚が入院した東京の大学病院は、以前、筆者が見て来たものとは全く異なっていた。
以前は大部屋に6人、8人と入院し、互いに顔が見え、プライバシーは全くなく、少し金でも払って、少人数の部屋に移りたいと考えるような状態だったが、筆者が見た今の大学病院は1部屋4人で、しかも、以前に比べて、スペースが広く、通常カーテンで仕切っているので、互いに顔を合わせる事はないし、口をきく必要もない。
そして、70歳以上の高齢者となると、低所得者は入院手術を受けても、1カ月の支払代金が1万5千円、それより少し多いが、非課税対象者だと、1カ月2万4600円、納税する所得がある人でも、1カ月で5万7600円である。
筆者の親族の場合、病気が原因で体に水が貯まった事もあって、1カ月間に3回入院し、最後に手術を受けた。これで、入院手術代が2万4千円だったのである。食費は1食210円である。低所得者だと、これが1食百円となる。家にいるよりも安い料金で、病院で食事が出来るのだ。
所得が高い低いの基準は人によって見方が違うが、大阪でガンで入院手術を受けた人は、定年まで務め、厚生年金を受け取っている人で、自己所有のマンションも持っていて、普通の生活をしている人である。この人で、入院手術代が食費込みで3万円なのである。
筆者は今から十数年前、50代後半から60台にかけて、2回手術を受けた。1回は手首に軟骨で塊のようなものが出来て、部分麻酔の日帰り手術だった。もう1回は鼠経ヘルニアで1泊2日で手術を受けた。
手首の時の手術台は十万円、鼠経ヘルニアの時は15万から20万位かかったと記憶している。
この差は老人対応と現役世代の差である。
所得の低い人、金が払えない人に助成するのは良いとしても、70歳を超えると、途端に全員にこの厚遇はどうも理解が出来ない。
入院手術だけではない。
年を取って来ると、腰痛や体の痛みなど日常茶飯事となる。こうした時、年よりは形成外科でマッサージを受け、貼り薬や痛み止めなどの薬をもらう。見ていると、多い人は週に3日以上行く。
それでいて、病院に支払う金はというと、1回あたり、200円程である。
日本では国民皆保険が徹底していて、治療を受けても、全体の料金がいくらという事には頭は思いいたらず、自分が窓口で支払う金の事しか眼中にない。1回あたり200円なら、大した負担ではないので、週に何日も行くのである。
でも、入院手術でも、腰痛のマッサージでも、患者本人が支払う金額の何倍、何十倍の金が健康保険から支払われているのである。そして、その金は元気な現役世代が負担しているのである。
筆者は保険と医療の関係について、もっと抜本改革をすべきだと思う。
北欧では例えば、若い人が交通事故などで入院する場合と異なり、年を取って、自分で自分の食事を口から取れなくなった人には、点滴や胃ろうによる栄養補給はしない。自分で生きる事が出来る人だけ医療で援助するという発想である。
これに対して、日本では本人の意識も既になく、回復する見通しが全く無い痴ほうの患者でも、延々と点滴、胃ろうによる栄養補給をしている。友人知人、家族でそうした人を何人も見て来たが、筆者に言わせると、人間の尊厳に対する冒とくである。
こうした事に医者は「人間の命は地球よりも重い」などと言うが、筆者に言わせると、「医者が金儲けのために、言い訳をして、生かさず殺さずしている」だけである。そして、それは全部、保険適用となり、現役世代の負担になっているのである。
また、年配者でも、自分で健康努力している人と、そうでない人がいる。筆者は健康努力の具合をチェックして、それで、自己負担の度合いを変えるなどすべきであると考える。健康努力、普段から運動をしているとか、散歩をこまめにしているかどうかで、医療費が大きく異なるという統計は、色々な所が調査して公表している。
努力をしている人は病気にかかる度合いも少ないので、保険料を普通にし、努力をしていない人は2倍の保険料を払うなどすべきである。また、保険適用も、北欧のように、年を取って来て、自力で食事が出来なくなって来た高齢者には点滴、胃ろうなどの処置はしないとすべきである。
保険適用の病気も、例えば風邪の時など、診断は病院がするとして、薬は患者本人がドラッグストアで保険適用外で購入するようにするなど、保険適用とそうでないものの区別をしっかりすべきである。
医療だけではない。各地区で地方自治体が無料、または非常に低料金で老人向けのイベントを催しているし、老人が長時間過ごし、風呂などに入って来れるデイケアなども丸1日過ごして、千円位の料金である。所得に関係なく、年齢で一律に切って、こうしたイベントやサービスを破格の低料金でする必要があるのだろうか。非常に疑問に思う。
話を最初の老人貧困問題に戻すと、団塊の世代で年金未納者は3割、50台の人では5割が未納という統計がある。老人貧困問題を今のまま放置すると、近い将来大変な事になる。
筆者は発想を大きく変える必要があると思う。
今の高齢者は自分が支払ったものよりも遥かに多い年金を受け取っている。
厚生労働省も、政治家も老人のことを重視し、福祉充実という姿勢を見せないと、役所は攻撃されるし、政治家は選挙に落ちる危険性があるので、どんどん膨らせていき、あるべき姿以上に異常な厚遇になってしまったのである。
前に別の項目で書いたが、筆者は年金は自分が受け取るものは自分の勘定で積み立て、それをもらうようにすべきであると考える。後の世代が負担するという今の方式を一刻も早く改めるべきである。
こうすれば、自分がもらう年金が自分で計算する事が出来るようになるので、自分で計画が立てられるようになるし、今の高齢者のように、若い時にプー太郎をしていて、年金がもらえないからと言って、文句を言う人はいなくなるし、言っても、誰も相手にしなくなる。
何よりも、積み立てた分、自分の取り分となれば、年金未納問題はほとんどなくなる。どうせ、自分が受け取れないと思うから払わないのだ。
制度の切り替え時には、多額の金が必要だが、これも前に書いたが、政府紙幣の発行、公務員の大幅削減などと、積み上っている年金の活用で対応は可能である。
公務員の大幅削減は仮想通貨のシステム、ブロックチェーンの考えを役所に仕事に導入すれば、公務員ん数は3分の1以下になる。エストニアなど既に実行している国もあり、日本でも本格的に導入すべきである。勿論、雇用問題があるので、ある程度の年数をかけないといけないが。
もっと言えば、すべてを役人が取り仕切る年金方式を改め、3階建てくらいにして、1階は誰でも受け取る基礎年金部分として、これは税金から支払うものとする。そして、2階、3階部分は民間の保険会社に任せ、加入も本人の選択とすべきである。
そして、老後の生活の場をして、各地区ごとに過疎地の山の中などに、URなどに設計を頼んで、正に老人の憩いの村を建設し、仕事などをしないで生活している人は、基本的に、そこで寝泊まりしてもらうのである。
少し前にテレビで「安らぎの郷」という番組があったが、あれ程、デラックスなのは無理だが、基本的な考え方はああしたところで老後、死ぬ前の時間を過ごしてもらうのである。
入居者は1階部分の基本年金、月3万から5万円位の小遣いを受け取り、それを必要な出費、小遣いにあて、それ以外は住居、食費すべて、入居者にとって無料とするのである。経費を抑えるため、また、高齢者が元気でいるためにも、元気な高齢者は必要な作業に加わってもらうのだ。
「やすらぎの郷」がそうであってように、入居者は基本的に自分の財産は入居時に施設に寄付し、どうしても必要な時に、施設側がそこから必要分を捻出するようにするのである。
自分はそんなところに入りたくないという人は、それで構わない。しかし、そうした人も1階部分の基礎年金以外は受け取れないので、自分の生活基盤は元気な時に貯えないといけない。
こうした施設を作り、ほぼ全員が入居すれば、デイケアのような送り迎えも要らなくなるし、介護で家族が大変な思いをする事もなくなる。福祉、医療にかかる経費は大幅圧縮できる。
今、中年世代の無年金、年金未納問題は、これも前に書いたが、正規、非正規の区別をなくし、全員を正規にし、とにかく、自分の年金積み立てが出来るようにバックアップするのである。
こんな事を言うと、それこそ、朝日新聞や野党、マスコミ、学者が大文句を言うだろうが、では、実現可能な具体的な対案を出してくださいと言いたい。
今のままだと、明らかに十年後、20年後には日本はパンクする。
かと言って、税収を増やす事は、現役世代をより苦しめ、日本を今以上の不況、デフレにすることになる。消費税を上げるなど全くナンセンスである。
批判だけうまくて、自分が政権を取ったら、何も出来ないどころか、その前の政権が作り上げたものを全てぶち壊し、震災でもお粗末な対応で日本を不幸にした民主党の流れを汲む野党3党が多くの人が納得できる対案を出せるとは思えない。
これらの施策を実現するためにしないといけない事が3つある。
その1つは国の戦略作り、方針作りを、試験だけ受かって来た頭でっかちデ、庶民感覚から程遠い官僚から、選挙で国民から選ばれた政治家に移す事。2つは選挙の時の票を現役世代と引退世代で差をつける事。3つは、これらを実現するために、憲法を変える事である。
官僚が強力で岩盤のようであり、意識のある歴代総理が何人もその岩盤を崩す事に取り組んだが、いずれも失敗に終わった。自己利益しか考えない官僚から、強力な権力を奪う事が日本改革の第一歩である。
選挙の時に、現役世代に票を多く与えるという話は、外国では具体的に議論され始めている。現状の制度では政治家はどうしても選挙に行くお年寄り向けの政策を取らないと、選挙に落ちてします。だから、現役重視の票にするのである。
具体的には、現役世代は1人2票。結婚して子供が出来、子育てをしている世代には夫婦とも3票づつ与えるのである。高齢者でも年齢で切るのではなく、年齢が行っていても、現役で活動し、きちんと税金を納めている人には1人2票を与える。学生は20歳を過ぎていても、親に養われている人は1人1票である。
結婚、出産が今は大きなモーティベーションになっていない。でも、結婚して子供を作ったら、票が3票になるとしたら、大きな動機付けになる事は間違いないだろう。金を使わずに、動機づけをする。これが知恵である。2票、3票を持つ人は、票をばらして、別々の人に入れる事も可能であるようにする。
憲法改正は日本でどんな改革をしようとしても、必ずついて回る。
票に差をつけても、左派系の弁護士、学者は直ぐ憲法違反だと訴えるだろうし、高齢者を施設にまとめて住まわせると言っても、生活権の侵害だと訴えるのは必至である。公務員制度改革でも、法律違反だと訴えて来るだろう。
こうした事を実現するためにも、憲法改正が日本を改革する上で必要なのである。
憲法改正は、前にも書いたが、現行の文章を書き換えたり、その条項に書き加えたりしようとするから、話がまとまらないのだ。修正条項を最後につけ足していくというやり方で、憲法を修正するのだ。「憲法発布から70年余りが経ち、現状に合わなくなってきている条項が多くなってきているので、その時々の国民の意思で、修正条項を追加するという方式で、この憲法を修正していく。元も文と修正条項が矛盾する場合、修正条項が優先し、それに反する原文は修正されたものと解釈する。また、修正条項が現状と合わなくなった時、更に新しい修正条項で、前の修正条項を修正する事とする」 まず、このように書いて、その後、修正条項を足して行くのである。
修正条項でまずしないといけないのは、まず、権利だけを重んじて来た現憲法の問題点を改め、権利と義務が物事の表裏で、どちらかが重く、どちらかが軽いというものではないと書く事である。
生存権などについても、健康で文化的な生活を営む権利と義務を持つと書くのである。「国民は一生懸命努力をして自らの生活、扶養の子供や親の生活を自分で支える権利と義務を負う」とし、「懸命に努力しても、不可抗力で自力で支える事ができない時には、国および地方自治体がこれを支援する事が出来る」 こう書くのである。援助を受けて当然ではなく、恩恵として助けてもらう事が出来るという考え方にするのである。こうすれば、高齢者が集合住宅に住む事も、若くても生活保護を受けている世帯に対しても、自治体が住む場所を指定したり、職業訓練を義務付けたりすることも出来るようになる。
また、政治家と公務員の役割分担の明確化も絶対必要である。国民に選挙で選ばれた政治家が政策を作って行くようにしないと主権在民にならない。今は主権在官である。「官僚は、国では首相及び大臣、地方では首長の指揮・管理の下で行動し、部長級以上のポストの公務員の人事権は、国では首相及び大臣が有し、地方自治体では首長が有す。国家公務員は首相及び大臣、地方公務員では首長の命令、指示に違反した場合は、解雇や処分の対象とする」というように明記するのだ。
外国の民主主義国会では当然の事だが、わざわざ明記しないといけないところに、日本の悲劇がある。
国民投票についても明記する。「政府は衆参両議院で過半数の賛成で、重要課題について、国民に意思を聞き、決定してもらうために、国民投票を実施する事ができる。国民投票では投票者の過半数で意思決定をしたものとみなす」 具体的には、衆議院、参議院、地方統一選挙などの選挙の時に合わせて、国民投票を実施し、国民の意思を聞くことにする。国民投票の重要な点は、高齢者の票に恐れて、改革が出来ない政治家の背中を押す事である。
修正条項では、今、憲法で違憲か合憲か議論になっている事は何でも、そこに1つづつ書き込んでいく。1票の格差問題も、死刑制度問題も、尊厳死問題もすべて書き込んでいき、違憲か合憲かで揺れている問題はすべて憲法上で解決し、明確化していくのである。
当然、自衛権、自衛隊についても明記する。だが、それは今、議論されている目先の修正ではなく、根幹の思想をきちんと明記しないといけない。「日本国は武力で他国を侵略する事は国是としてこれをしない。
しかし、日本国は領土、領海、領空、国民のすべてを、他国からの侵略、攻撃、誘拐などから守り、これを侵す国、及び人に対しては、国際法上、適切な対抗策を講じる。
また、他国からの直接、間接の攻撃、侵略から国及び国民を守るため、不断の努力をするものとし、必要やむを得ざる時には、自衛のために武力を使う事も妨げない。
国土、国民を守るために首相を最高司令官とする自衛隊を設置する。
自衛隊は国連など国際機関からの依頼や、演習のために日本の外に出る場合は、国際法上の扱いでは軍隊として行動する」 このくらい具体的に書くのである。こうしたら、憲法論争が起きようがない。
国歌、国旗についても、意見が分かれているので、当然、憲法に明記する。そして、必要なら、国民投票で現状のものを変えるかどうか判断する。
世界のどこの国でも国歌、国旗は尊敬の対象であり、国民をそれを尊重する義務を負っている。一般国民はともかく、公務員、政治家など国を代表し、税金で給料を支払われている者で、国歌、国旗に尊敬の念を示さない者は解雇の対象となるのは当然だし、そもそも、公務員になる時点で、それを約束する書類に署名捺印をするのが当然である。
こんな世界で通用している常識をいちいち明記しないといけないところに、今の日本の異常さがある。
20180325
安倍退陣は消費税2割、官僚の天下り天国再来、世界での日本地盤沈下への道
1年以上に及ぶ野党やマスコミの森友問題などの安倍首相への追及で、ネット情報を見ない年寄り、特に中年以上の女性へのマスコミのPR効果、「嘘も百回言えば、本当になる」という図式が効き出して、安倍政権への支持率が下がって来てた。
マスコミは当初は、朝日新聞を中心とした一部の会社だけの執拗な、ほとんど問題がないところに火をおこす報道だったのが、最近はこれまではどちらかと言えば保守系と見られていた、NHKや日経新聞、週刊文春、週刊新潮、そして、経済雑誌を含むオールマスコミでの安倍政権批判、攻撃になって来た。
何でもそうだが、どんな話でも、賛成や反対が多くても、普通は7対3くらいである。それが9割位のマスコミが反安倍となると、そこに作為を感じてしまう。これをおかしいと思わない人が異常なのだ。
それはともかく、世界はアメリカのトランプ、中国の習近平という指導者の暴走などで、世界の政治、経済が大きく動いていて、早急に日本も対応をしないといけない状況である。
にもかかわらず、自分自身の議員としてのポストを守りたいという発想で動いているほとんどの野党議員は、国会でこううした問題について議論をして、政府の対応を迫るという、本来しないといけない事には見向きもしないで、この1年位、ほとんどの時間を森友・加計問題に使っている。
そして、遂には、詐欺罪で身柄拘束されている森友学園の元理事長に接見し、はったりを言うのは日常茶飯事、嘘を平気でつくという詐欺師特有の人の話を下に、「やはり昭恵夫人の関与はあった」と話すなど、夕刊フジが書くように、正に「三流政治パフォーマンス」を延々と続けている。
嘘百回で安倍支持率が下がっても、野党の支持率が上がらないのは、そうした三流政治パフォーマンスに多くの国民がうんざりしている事のためだが、今の野党議員にはそれすら認識する事が出来ないくらいの劣化状態なのである。
また、これまでは一枚岩のように見えた自民党内でも、派閥の長などを中心に、安倍長期政権に対するフラストレーションが貯まっていた事もあって、政権交代のチャンスと考える人が出て来た。加えて、今のままでは、来年の統一地方選挙が戦えないという地方議員からのいら立ちの声が出て来た事もあって、ここに来て党内から安倍政権運営に批判の声が出始めた。
更に、自民党と連立を組む公明党は、先の衆議院選挙で、自民党が圧勝した一方で、公明党が議席を減らした。また、憲法改正に賛成ではない創価学会からの安倍路線への不満などもあって、ここぞとばかりに安倍政権への牽制の言動をし始めた。
こうしたオールマスコミ、オール野党の共闘とも言える安倍攻撃は、それに公務員制度改革に反対する霞が関の中央官庁が乗って来て、マスコミ、野党、官僚総がかりで、安倍政権打倒の動きを見せ始めたため、安倍退陣という事も十分あり得る展開になって来た。
1つの節目は来週に予定されている佐川前国税庁長官の議会証言だが、多分、彼は公文書偽造というかなり重い罪で逮捕される可能性があるので、「捜査に影響があるので、発言は差し控えたい」という話の終始すると思えるが、思いもよらない爆弾発言もあり得る。
また、この証言とは別に、財務省がかなり裏で動いているようで、それがどうした形で影響して来るか。ここ1カ月位が正念場となって来た。
こうした状態を不安視し始めた海外の投資家から日本株の売りがかなり顕著になり、安倍退陣なら円高とばかりに、為替も急激に円高に向かい出した。
劣化が著しい野党については、書くだけ無駄で、あまり触れないが、自民党が過半数を占め、社会党が3分の1の議席を得ていた自社体制の時代には、社会党は裏交渉で、自分たちの主張をかなり自民党に飲ませ、自民党の当初の案を修正させて行った。
宴会政治と批判され、裏で手を握り、金で転んだなどと批判されたが、かつての社会党は自分たちの政策を自民党の政策、法案に反映させて来たのである。そうした事もあって、例えば現在の日本の医療制度、福祉制度は先進国の中では最も社会主義的と言われるような、国民にとって悪くない内容になっているのである。
しかし、今の野党は政府を批判するだけで、自分たちの主張、政策を政府自民党の政策に反映させようという発想がなく、ただパフォーマンスだけで、重箱の隅を突く質問、テレビ映りだけを考えた行動に終始している。
そして、同じような事を自民党議員がしたら、鬼の首でも取ったように、徹底批判をするマスコミが野党については、ほとんど批判らしい批判をしないので、野党議員は責任も取らないし、反省もしない。そして、そうした問題議員を選挙民がまた、当選させるので、問題議員が居直りだすのである。
マスコミついては、筆者が現役の時代には考えられないくらいオールマスコミが一体となって安倍批判、自民党批判、日本の利益に反する行動をしている。
マスコミで働く人に、日本国籍でない人が増えたとか、部門の責任者に非日本人が増えたとか、理由は色々言われているが、筆者には何故、オールマスコミがここまで変わったか今一つ理由がわからない。
ただ一つ言える事は、ネットでこれだけ事実がかなり詳しく報道されるようになって来た今、国民のマスコミ離れは森友問題で一層の拍車がかかるのは間違いないだろう。
そして、今後、経営が成り立たなくなったり、大きく形態が変わる新聞社も出て来ると思うし、放送権利を手放さざるを得ないテレビ局も出て来ると思える。政権を批判しているようで、その攻撃の刃がブーメランとして自分に返って来て、一番損をしたのはマスコミ自身という結果となるように思えてならない。
今のマスコミの森友問題の批判のストーリーは、「安倍首相が財務省に圧力をかけて、土地を不当に安く売った」というものである。
しかし、これはあまりに財務省、旧大蔵省を知らない人の論理展開である。
他の二流官庁は別として、財務省は政治家の圧力に屈して、土地を不当に安く払い下げたり、政治家のために、事実を捻じ曲げる改ざんをするなどは決してしない。
万一、政治家の働きかけがあったとしても、財務省は自分にとって利益がない事では決して動かない。それが大蔵省、財務省という役所の行動パターンである。
大蔵省の取材をして、多くの大蔵官僚と付き合った筆者からすると、官僚はそんなに弱くないし、多くの国民が抱いている程、中央官庁のエリート官僚は、真面目で実直な像ではない。
大蔵省、財務省のエリート官僚は、自分たちに信じられないくらいの自信を持ち、自分たちの考える事、やとうとしている事こそが最適な案であり、それを実行する事が自分たちの使命と考えている。財務省のエリート官僚の多くは不遜であり、政治家に使われているのではなく、自分達が政治家を使い、国を動かしていると、心の底から考えている。
だから、国会議員、例え、それが自民党の実力議員であろうと、官庁たちが考えている事と違う事を主張したり、その方向で政策を実行に移そうとすると、「先生のお考えは実態を少し違うので、少しご説明をさせていただきたい」と言って、分厚い資料、データを持って来て、議員を説得し、最後には自分達の説のシンパにしてしまうのである。
議員だけでなく、学者、評論家、記者に対しても同じで、財務省の政策に批判的な学者や新聞社の編集委員などを財務省の審議会の委員にして、1年位経つと、それまで財務省に批判的だった人が意見を変えて、財務省の主張をそのままする人に変わっていくという図式は珍しくないのである。
反対者を取り込むという事については、信じられない位の力を発揮するのだ。
日本の中央官庁はマスコミや学者が持っていないような、膨大なデータを持っている。そして、データを自分たちに都合の良いように加工し、自説に都合の良いようなストーリーを作り上げ、多くの人を説得していくのである。
民間にはデータがないので、これをされると、ほとんどの人が反論が出来ないのだ。
加えて、前にも書いたが、財務省は税務署、国税庁という逮捕権を持つ組織を持っている。だから、どうしても、自分達の説に従わない人や組織には、逮捕したり、手入れ・査察をすることで、信用を失墜させることが出来るのである。
彼らには怖いものなどないのである。
その財務省が戦後の政治史の中で、一番と言って良い程、抵抗され、言う事を聞いてもらえていないのが安倍首相なのである。
安倍首相は第一次安倍内閣で、公務員制度改革を実行しようとした。病気の問題もあったが、彼が第一次政権で退陣した大きな理由が、この公務員制度改革への財務省を中心とする中央官庁の猛抵抗がある。
実力首相として腕を振るった中曽根元首相は首相になる前に行政管理庁長官を務め、公務員制度改革に取り組んだ。しかし、官僚の猛抵抗に遭って、難しいとわかったので、中央官庁の改革は止めた。
しかし、行政改革はしないといけない。そこで、官僚との間で手打ちをして、外郭団体の改革をする事にしたのである。これで行われたのが、国鉄の民営化であり、電電公社の民間企業化である。
この2つのことだけでも、国にとっては大きな出来事だったが、中央省庁の官僚は改革から逃れる事が出来たのである。
本来、政治は国民に選ばれた国会議員が政策を立案し、国会で法律を作って、それを政権が実行していくものである。しかし、日本ではそうなっていない。
官僚が自分達の専門分野で政策を決め、それを政治家に進講し、政治家、政権の名前で実行させるのである。しかし、その案は自分達が考えたものであり、その線に沿って、法律も官僚達が作るのである。
そして、法律が出来ると、それを実行するための政省令を作り、通達を出し、自分達が思うようにそれを運用していくのである。政省令や通達は国会の審議も承認も要らない。
時として、政権の実力者が政策を強力に推進しようとする事があるが、表面的にこれに逆らえないと思うと、法律を作る段階で、文字を少しいじる事で、全く異なる運用が出来るようにしてしまい、結果的に自分の思う通りにしてしまうのである。
例えば、政治の肝いりで、東北の震災復興のために、国民に所得税を2%位税を上乗せして、震災復興の財源を作った。これは今でも続いている。
しかし、法律を作る段階で「…は」となっているところを、「…も」というように変えて、震災以外の事には使えるようにして、震災と全く関係ない事でも、予算を使えるようにしたため、ほとんどの省庁が震災と全く関係ない事にも復興予算を使い出したのである。
国民は今でも、震災復興とほとんど関係ない使い道のために、2%の税金を取られているのである。
前に書いたが、官僚は30歳前後で国を動かす政策を立案する。
自分の考えが国の政策として実行されていくのである。若い時は、給料は安いが、国を動かしているという満足感がある。自分が国を動かす原動力なのだから、強い誇りも持てる。
そして、50歳代になって、同期が次官や局長になる頃には、それになれない官僚は天下りをし、70歳まで国が面倒を見てくれる。次官、局長になった人間はより上位の組織の長になり、それこそ、死ぬまで面倒を見てもらえる。
この二重の事があるので、多くの東大君が官僚を目指したのである。
しかし、官僚の天下りは癒着を生み、利権となって不正を生んで行った。そうした批判から、天下りは規制され、次第に思うように出来なくなって来た。
また、官僚は法律で身分が保証されていて、解雇や降格などを大臣や首相がしようと思っても出来ないようになっている。これが官僚の人事に政治家、大臣が口を出せない大きな根拠で、それがあるので、幹部は大臣の言う事を聞かなくても、仕事をしなくても、身分が保証されているのである。
それは組織としておかしいという事で、民間並みに仕事の仕方で昇進にも差がつくようにし、出来ない人や問題を起こした人は解雇、降格も出来るようにしようとするのが公務員制度改革の1つの柱である。
議員は選挙という国民の選択を経て選ばれる。もし、その人に問題があれば、批判され、落選する。しかし、公務員は試験に通って役人になれば、国民のセレクト、審判の外にいる。どれだけ問題があっても、身分は保証されるのである。
そうした国民の審判を受けていない公務員が、政治家より事実上上位だというこれまでのような図式はどう考えてもおかしい。だから、改革をしないといけないのだ。
でも、この改革をされると、官僚が政治家の下に位置付けられるようになり、今までのように、事実上、官僚が実権を握り、政治家にそれを演じて実行したかのように振舞ってもらって来たという図式が崩れてしまう。
天下りの規制も官僚の大きな利権を奪うものである。官僚にしてみれば、この規制を何とか崩し、骨抜きにしたい。だが、安倍首相はこの天下り規制をより強化し、人事制度などにも手をつけて行こうとしたのである。
官僚にしてみると、これは自己権益を犯すもので、許す訳にはいかないのだ。
現に第一次安倍政権が倒れると、公務員制度改革への取り組みは緩やかになり、民主党政権では、完全に骨抜きになった。
第二次安倍政権は第一次で未完だった公務員制度改革に力を入れている。そして、規制を堂々と破り、警告されても、これを改めようとしなかった文科省の責任をとって辞めさせたのが前川前次官である。
前川氏はフェースブックで、次官の前の局長時代頃からも、信じれれないくらい極端に左翼的な発言をしている。
一部のマスコミや左派系の人達は前川前次官をヒーローのように扱って、講演でも引っ張りだこだという。そして、これはおかしいだろうという事で、講演内容などを問い合わせたら、講演活動に政治が圧力をかけたと騒いでいるのである。
財務省にとって、公務員制度改革とともに、安倍首相に長く政権の座に座って欲しくないもう1つの理由が、消費税についての姿勢である。
財務省幹部は何が何でも消費税を大増税したい。とりあえず、来年に今の8%から十%への引き上げを行い、段階的に数年で20%台に持って行きたい。
だが、安倍首相は現在の8%への引き上げでも疑問を呈し、財務省が「短期間で影響は消える」と説得して実施した経緯がある。安倍首相は財務省は信じられない、嘘を言っていると疑い、来年の十%への引き上げは、出来たら延期したいと考えている。
これが財務省には気に入らないのだ。
自民党内の次の首相候補と言われる石破氏も岸田氏も財務省の教育で、消費税引き上げ論者である。本来、増税に反対するべき立場にいる野党でも、立憲民主党の代表、枝野氏は増税論者だし、希望の党の代表の玉木氏は財務省出身者である。つまり、安倍氏が首相を降りれば、消費税増税は順調に進むと財務省は考えているのである。
消費税増税で国の大借金を返すのだと財務省は言っているが、これは実態と大きく異なる。
国には借金とおなじくらいの資産がある。言ってみれば、個人が3千万円の借金はあるが、貯金も3千万円あるという状態であり、資産を言わずに、借入だけの話をするのはおかしい。また、国の借金はほぼ全額、日本国民からのものであり、外国からの借り入れではない。
外国から大きく借金をしていたら事情は違うが、国民から借りているなら、極端に言えば、お札を増刷して、返済する事も出来るのであり、財務省がいう程、深刻な事態ではないのである。
にもかかわらず、大変な状態であることをPRして、大増税に突き進もうとしているのは異常としか見えない。ドイツの輸入依存度は5割、韓国は8割。これに対して、日本は輸入依存度は2割で、国民の個人消費がGDPの6割を占める。こんなに個人消費が大きなウエートである国で消費税を大増税したら、間違いなく大不況が到来する。
でも、財務省官僚はそんなことはどうでも良いのだ。自分達が自由に使える、振り分ける事が出来る金が増えれば、国民がどれだけ苦しんでも関係ないと考えるのが官僚なのである。
官僚は不況になってもリストラされることはないし、給料がカットされることもない。
第一次安倍政権の終焉とともに、公務員制度改革が緩み、民主党政権で完全に骨抜きになったように、安倍首相が退陣したら、間違いなく、公務員制度は消えてしまう。
そうなると、かつて、大問題となったような公務員の天下りが堂々と復活し、公務員の利権、不正がどんどん増えていくし、退官後の自分の利権確保のために、高級官僚が企業に便宜を図るというような事は次々と起きて来るのは火を見るよりも明らかである。
かつて、公務員の天下り先の確保という事で、公社公団が多く作られ、そこへ郵貯の巨額な資金が投入され、その3分の1くらいが焦げ付いていると言われた。
小泉元首相が行った政策については、それこそ朝日新聞がある事ない事書いて、アメリカの手先だったというような話を盛んに流したので、今、通説では批判される事が多い小泉氏だが、彼の郵貯に民営化はこうした公社公団に流れる郵貯の巨額資金にストップをかけようとしたものである。
財務省に限らず、中央省庁の官僚は自分の説を正当化するために、嘘でもいいのでストーリーを作る。厚生労働省の日本は人口が大きく減るのは必至で大変だというのも、官僚が作ったストーリーである。
日本は江戸時代に3千万人の人口だった。だから、自給自足が出来たのである。それが明治大正となって6千万人に増え、戦後の復興から高度成長の中で、1億人を超えたのである。
人口が1億人を超えたからと言って、別に問題はない。ドイツは8千万人だし、イギリスやフランスは6千万人、韓国は5千万人である。日本の人口が8千万人くらいになっても、別に問題はない。
人口が減ると、高齢者の年金を支える若者が減って大変という議論があるが、アメリカの401Kのように、自分の年金は自己勘定で管理するというようにすれば、人口が減っても問題ない。その切り替えの時に、整理のための金がいるが、これも、政府発行紙幣や国有財産の売却などであてたりすれば、問題はなくなる。
若い者が年齢者を支えるのではなく、自分が老後もらう年金は自分が積み立てるようにすれば、人口の増減に振り回され、移民を大量に入れないといけないという乱暴な議論をしないで済む。
官僚が大変だ、大変だと言っている時は、何か狙いがあるのだ。厚労省が人口減を言う時は、年金の支給年齢を遅らせるとか、年金の減額が頭にあっての話なのである。
財務省が「1千兆円を越える国の借金は先進国の中で最大で、放置すれば、大変な事になる」というのもストーリー、作られた話である。
財務省の話は2つの事がごちゃごちゃになっている。1つは単年度で国の収支をどう均衡に持って行くかという事。もう1つは過去の国の借金をどう減らしていくかという事である。これを分離・整理して話をしないので、おかしな議論になってしまっているのだ。
単年度の収支をいかにトントンにもっていくかについては、かつて、あるシンクタンクが試算をした事があるが、すべての所得に1割の税金をかければ、財政問題は解決するのだ。
個人にしろ、企業にしろ、宗教団体にせよ、税金をまともに納めていない人、組織があまりに多いのだ。これを収入の1割をきちんと納めさせれば、収支はトントンになるというのである。
勿論、今のような老人医療費の異常な厚遇ぶりを続けていれば、いくら税金が入って来ても足りなくなる。老人医療や福祉の適切な切り込みはきちんとしないといけない。この話はまた別に書くとする。
過去の国の借金を減らすという話は、以前も書いたが、日銀券ではなく、政府発行紙幣を出して、それを日銀に引き取らせ、その金額だけ日銀が紙幣を刷って、その金で国債を所有している人に返済していくのである。
国債を所有している人はこうして返済されても、ほとんどの人が受け取った金を使わずに、そのまま銀行預金にする。市場に出て来るのは1割位なものであり、大きなインフレの心配はなく、デフレが脱却して、経済が活性するくらいで済む話となるのだ。
今の時期に、安倍首相が退陣して、誰にせよ別の人が首相になるのは、日本にとって大きな損失である。今の安倍首相は世界的にも顔が売れているし、主要国のリーダーとも対応な議論が出来る。癖のあるトランプ大統領やプーチン大統領とも個人的に電話でかなり、本音の話が出来る。
こうした事は一朝一夕ではできない。時と経験の積み重ねが必要なのである。それが別の人に変わったら、ゼロからやり直しである。国としてのその損失は計り知れない。
首相として、サミットに何回か出席した元首相の話では、決まり事を理解し、私的な議論に噛む事が出来るようになるのに数年はかかるという。
東京五輪までかどうかは別として、今、混乱が始まった世界の中で、少なくても1年位は安倍氏に首相を務めてもらうのが国益である。
前にも書いたが、筆者の採点では、安倍首相は60点、70点である。問題点も多い。
安倍首相を補佐する官邸の幹部、警察や経産省からの出向組の官僚の評判があまりにも悪く、支えるどころか、足を引っ張っているし、夫人のお粗末さは多くの人が批判するところである。
だが、そうした点を差し引いても、ここしばらくの首相の中では良くやっていると言える。今の日本で、後継者として噂が出ている人だと、多分、その半分くらいの点しか取れないだろう。
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