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報道犯罪隠蔽の手口

朝日新聞社は、実務修習先として 司法修習生を積極的に受け入れ、裁判官の社会見学や実務研修に協力 し、その過程で、司法関係者にマルクス・レーニン思想を吹き込む努力を積み重ねてきた。共産主義者に牛耳られた法曹界(判事、検事、弁護士)が報道犯罪隠蔽に加担するのは、その成果だ。
◇「朝日新聞の戦争責任」(安田将三、石橋孝太郎著)は、朝日新聞社が著作権侵害を口実に発売停止に追い込んだ1994年リヨン社刊の復刻版だ。著作権の制約を意識している分、若干、鋭さに欠けるが、それでも、朝日報道の酷さを知ることはできる。
第一章と第二章は、実際に掲載された記事を紹介して、いかに戦意高揚を謀ったかを解説する。
第三章は、太平洋戦争前の朝日新聞記事の内容、朝日新聞社の戦争に関する責任のとり方等を紹介。
あとがきでは、朝日新聞社の体質が今も変わっていないことを指摘している。
太平洋戦争末期、日本が敗れるのがほぼ間違いない状況になっても真相を国民に知らせず、結果として戦争が長引いて多くの犠牲者を出したのは朝日新聞のせいだった。
◇戦時報道の責任をとって辞任した形の当時の社長や会長は、6年後に再び社長等に復帰し、部長級実務責任者はそのまま社に残ってその後も順調に出世した。 結局、誰にも戦時捏造報道の責任をとらせなかったことで、 捏造体質が脈々とそのまま受け継がれ、従軍慰安婦問題を捏造し、韓国を恥知らずの恐喝国家に仕立てあげる結果になった。 韓国の政治家や国をして、日本人が納得できる実証的な話し合いをしようとしても、ヒステリックに検証を拒否する以外の途を閉ざしたのだ。
戦時中の報道責任者のその後の昇進ぶり
氏名 戦前の社内における地位 戦後の主な経歴
村山長挙 社長 朝日新聞会長(1951-1960),朝日新聞社長(1960-1964)
上野精一 会長 朝日新聞取締役(1951-1970)朝日新聞会長(1960-1964)
緒方竹虎 副社長 衆議院議員、自由党総裁、吉田内閣副総理
原田譲二 代表取締役 貴族院勅撰議員、大阪観光バス社長
石井光次郎 代表取締役 衆議院議員、通産大臣
鈴木文四郎 常務取締役 参議院議員、NHK理事
美土路昌一 常務取締役 全日空社長、朝日新聞社長(1964-1967)
小西作太郎 常務取締役 日本高野連顧問
上野淳一 取締役 朝日新聞取締役、朝日新聞社主(上野元会長の息子)
杉山勝美 整理部長 朝日新聞取締役
長谷部忠 報道部長 朝日新聞会長(1947-1949,朝日新聞社長(1949-1951)
高野信 報道部長 朝日新聞取締役、テレビ朝日社長
荒垣秀雄 報道第二部長 朝日新聞論説委員
島田撰 欧米部長 朝日新聞論説副主幹
遠山孝 写真部長 朝日新聞取締役
飯島保 連絡部長 朝日新聞論説委員
戦時中の報道実例と解説(膨大な実例の中のほんの一例)
全滅したアッツ島戦当時の天声人語-神風賦。 「いやしくも日本人たる以上 、例外なく、玉砕精神がその血管内に脈打っている事実がここに立証せられた」と日本人が死を選ぶのが当然という主張をした。こうした報道姿勢が、 多くの人々に降伏を拒否させ、死に向かわせる結果となった。
このような朝日新聞の文章力が多くの人に自決を選ばせる結果になった。軍人に、このような文章の力で人を死に追いやれる能力などありえない。
この一点でも、朝日の戦争に対する積極的な関与が証明される。 また、このアッツ島戦で全滅の代用として玉砕という言葉を使う選語能力も遺憾なく発揮した。
「撃ちてしやまむ」「欲しがりません勝つまでは」は戦時標語の代表で、朝日新聞はこの標語の普及に当たり、紙面や催しを通じて大キャンペーンを実施し、 有楽町元日劇壁面には、左の兵士の写真を畳100枚分で展示した。紙面では13回にわたり、撃ちてしやまむのタイトル付記事を掲載。国民の戦意を掻き立てた。
あたかも朝鮮民族が徴兵制実施を待ち望んでいたかのように伝えている。今でこそ従軍慰安婦について 盛んに取り上げるのに、当時の記事には従軍慰安婦報道は全くない。朝日の記者は当時その存在を知っていたのだろうか?
当時26万人いた朝鮮人兵士は、もしも強制連行で自分の妻や姉妹が慰安婦にさせられていたとしたら、そんな国のために戦う筈が無いだろう。
実際には完敗したミッドウェー戦を勝利したように解説。戦果と味方の被害数字はデタラメ。 戦略的に重要でないアリューシャン戦の成功を強調。太平洋戦争覇権の帰趨を決したと論じ、社説ではミッドウェー戦結果で気を緩めてはいけない、などと解説した。
これらの報道は、総て、日本国に「 砕氷船 」の役割を果たさせた上で敗戦に追い込み、革命を成就させる為のプロパガンダだったのだ。
「わが新鋭部隊猛進 コヒマを攻略 敵空挺部隊攻撃も進む」
と、朝日新聞の第一面記事が称えた インパール作戦 (日本側作戦名: ウ号作戦 )は、牟田口中将が、1944年(昭和19年)3月に進軍を命じ、6月末雨期に入り泥濘の中飢えと寒さで退却が困難な状況になるのを待ち続ける「敗戦革命」だった。開始以来、第15師団および第31師団に、弾丸1発、米1粒の補給もないまま、ビルマからインパール(インド東北の辺境マニプールの首都)への進軍を命ずる無謀極まりない戦争史上最悪の愚劣な作戦だった。
物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」との電文を打って武器弾薬食料は送らず、各師団員達を死地に追いやった。
軍服を着たまま白骨となった死体が続いたジャングル内の道は、 白骨街道 と呼ばれた。日本軍は歴史的な敗北を喫し、最終的に投入された兵力8万6千人に対し帰還時の兵力は僅か1万2千人に激減、日本陸軍は瓦解し、朝日新聞社と牟田口中将による「敗戦革命」は成功した。
牟田口 廉也  明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日 佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。盧溝橋事件や太平洋戦争のマレー作戦、インパール作戦等において部隊を指揮した。インパール作戦における様々な失策や愚策についても、一貫して反省せず弁解じみた発言や態度に終始した。
食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断で コヒマ への撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。
この判断は全く正しく退却した部隊は助かった。しかし、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった。
インパール作戦への参加兵力  単に師団が少なく、兵力が小さいだけでなく、日本軍は食糧、武器の兵站に当初より著しく乏しく、2000m級のジャングル密林の山岳地帯をいくつも超える無謀きわまりないものであった。とくに装備面ではイギリス軍が航空機、戦車など火気弾薬で圧倒的に優れていたこともある。
日本軍 (  )内は秘匿号。

インド国民軍
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