(1)革命を成功させるため軍隊に 進んで入隊 し国家を 内部から崩壊 せしめる力を得て 自国政府の敗北 を導く
(2)ブルジョア的 合法性に依存せず 、公然たる組織以外の 秘密機関 を到るところに作り、 犠牲を厭わず 、あらゆる 詐術謀略 を用い、ブルジョア陣営内の 不和に乗じ て革命を達成する
共産思想指導について、当時、日本の第一人者は 河上肇 (1879年10月20日~1946年1月30日)だった。
堀江邑一
:マルクス経済学者河上肇の一番弟子、『中央公論』『改造』に中国関連論文を多数発表「
昭和研究会
」嘱託、戦後
日本共産党
入党、日ソ協会顧問、日ソ図書館長や日ソ学園理事長歴任
尾崎秀実 : 朝日新聞 記者、第1次~3次近衛内閣内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員、近衛主催の政治勉強会「 朝飯会 」参加、ゾルゲ・ソ連スパイ事件の犯人、コミンテルン公認共産スパイ、1944年11月7日、巣鴨拘置所で 獄中記 を執筆。死刑執行 中野正剛 :日報社、 朝日新聞 記者、東方時論社社長兼主筆、元衆議院議員、初代東方会総裁、憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩く。1939年には議会政治否定・政党解消を主張して衆議院議員を辞職、後の選挙で当選復帰。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催 1940年、 大政翼賛会 総務に就任 1943年10月27日、自宅にて割腹自決 風見章 :第1次近衛内閣書記官長就任。国際通信、 朝日新聞 記者、戦後の左派社会党顧問、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長、ゾルゲ事件逮捕近衛元総理に既成政党を全て抹消するよう進言し、近衛から賛同を得ている。立憲政友会・立憲民政党の2大政党に内紛を起こさせて同党を解散に追い込む政治工作を行い、後の 大政翼賛会 の結成に至った。 赤松克麿 :「 大政翼賛会 」初代企画部長、衆議院議員、東洋経済新報社の雑誌「解放」の編集、日本産業協力連盟理事長、日本革新党 党務長、左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた。 牛場友彦 :内閣総理大臣秘書官を務め、 朝飯会 を発足、尾崎秀実を近衛文麿に紹介、日本経済復興協会の理事、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問 |
三木清
:大谷大学、龍谷大学で教鞭。哲学者。
日本共産党
に資金提供し被逮捕
朝日新聞
論説委員、参議院議員、九州帝大法文学部教授、『九州日報』『改造』『中央公論』で執筆。熊本日日新聞社社長兼主筆、ゾルゲ事件発覚時に尾崎秀実関連記録隠滅
藤隆之助 : 大政翼賛会 の組織局長大日本連合青年団主事。「(1)現行憲法の範囲内で国内改革をする、(2)既成政党を排撃する、(3)ファシズムに反対する」の3点を根本方針とする 昭和研究会 設立趣意書を発表。蝋山政道、高橋亀吉、笠信太郎、尾崎秀実、三木清らを集めて、政治・経済・外交・文化等各方面に亘る国策研究を進めた。第1次近衛内閣発足時に、ブレーンとして組閣参謀を務め、戦後、 昭和研究会 の関係者を集めて「昭和同人会」を作った。 笠信太郎 : 朝日新聞 論説主幹。東京商科大学本科を卒業。同研究科退学。1936年1月 朝日新聞 入社、同年9月論説委員。近衛文麿のブレーン組織「 昭和研究会 」、 朝飯会 参加。1940年10月ヨーロッパ特派員としてドイツ駐在を発令され渡欧、戦後1948年2月に帰社後14年10か月間、論説主幹を勤めた。安保条約改定に反対し、1958年の 朝日新聞 には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を書いた。 益田豊彦 :1900年5月22日~1974年7月11日。1924年、東京帝大法学部政治学科を卒業。高松高等商業学校教授就任。1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任。1934年、東京 朝日新聞 入社、東亜問題調査会に配属され尾崎秀実と出会う。1936年、 昭和研究会 に参加し、外交問題研究会委員となった。戦後は 朝日新聞 の大阪本社代表取締役、東京本社代表取締役を歴任。1965年に取締役を退任 蝋山政道 :1895年11月21日生。民主社会主義の提唱者。東京帝大法学部教授。1930年代、軍部台頭のなかで政党政治の行き詰まりを打破する為「立憲独裁」を提唱し、 昭和研究会 設立構想に参加。1942年、衆議院議員、 大政翼賛会 推薦で衆議院議員に当選。占領期に公職追放。中央公論社副社長、日本政治学会理事、民主社会主義研究会議議長に就任。日米安保肯定論で民社党の外交防衛政策を理論づけた。1980年5月15日、急性心不全で死去 |
フランス左翼と日本サヨクの違い
フランス革命後の1789年9月11日に開催された憲法制定議会で、急進派が議長席から見て左側の座席を占め、王党派が右側の座席を占めたことから、急進派を左翼と言い、王党派を右翼と言うようになった。 オーストリアが、フランス革命に伴う債券失効及び革命の自国への影響を懸念し、フランスに干渉した結果、仏墺戦争が起こり、オーストリアと同じ危惧をもつ周辺国が対仏大同盟を結成してフランスに対抗した。 これらの戦争で、 フランスでは、左翼も右翼も自国の勝利の為に努力 したのである。 第一次対仏大同盟(1793年~1797年) 第二次対仏大同盟(1798年12月24日~1801年) 第三次対仏大同盟(1805年4月11日~1806年) 第四次対仏大同盟(1806年10月6日~翌年7月7日) 第五次対仏大同盟(1809年4月9日~10月14日) 第六次対仏大同盟(1812年~1814年) 第七次対仏大同盟(1815年3月25日~7月8日) しかし、 日本のサヨクは、当初から、 階級闘争至上思想 に洗脳された 敗戦革命論 実践者達 だった。 |