目次
 昭和研究会と朝日新聞 
 レーニンの死後ソ連共産党の主導権を握ったのはスターリンだった。
 1928(昭和3)年7月、 コミンテルン第6回大会で説かれたのは、 共産主義者が為すべき 次のことだった。

(1)革命を成功させるため軍隊に 進んで入隊 し国家を 内部から崩壊 せしめる力を得て 自国政府の敗北 を導く

(2)ブルジョア的 合法性に依存せず 、公然たる組織以外の 秘密機関 を到るところに作り、 犠牲を厭わず 、あらゆる 詐術謀略 を用い、ブルジョア陣営内の 不和に乗じ て革命を達成する

 共産思想指導について、当時、日本の第一人者は 河上肇 (1879年10月20日~1946年1月30日)だった。
 河上肇は、山口県玖珂郡岩国町で旧岩国藩士の家に生まれ、東京帝大法科大学政治科を卒業し、読売新聞社勤務を経て、京都帝大でマルクス経済学を研究していたが、教授を辞めて 日本共産党 に入党した(1932年)。
 機関紙 赤旗 を編集したり政治パンフレットを作ったり コミンテルン発表32年テーゼ「共産党基本的活動方針」 を翻訳したりした。
 また、カール・マルクス『資本論』第一巻の一部の翻訳のほか、 貧乏物語 、第二貧乏物語、資本論入門、自叙伝等の著作がある。
 後に、治安維持法違反で投獄された。

  河上肇 に心酔して 東京帝大哲学科から京都帝大法学部に転校した 近衛文麿 の心酔ぶりを 昭和12年6月3日付 報知新聞 が次のように伝えている。
 大正三年の春、桜花爛漫と咲き乱れる京都帝大玄関先で痩身の帝大生が学生監と言い争っている…
 「どうしても駄目だ、願書の締切日から三日も経っているじゃないか」「何度お願いしても?」「勿論」「じゃ私も河上肇博士の社会科学が聞きたくて遥々東京帝大から転校して来たんだ、それを無情に追い帰すならヨシ私も男だ、死んでもここから動かないから」と玄関先へデッカと据えた信玄袋!  その上へ腰を下して学生監をグッとにらんだので、「まあ、待て、待て、君!」とスッカリあわてた学生監。
 信玄袋戦術が功を奏して東京帝大哲学科から京都帝大法学部へ転校を許されたが、その青年が文麿公だった。
 それからの大学生文麿は河上博士の講義にばかり出席し、「主義と目的のため放逐される位人間と生れてむしろ痛快ではないか」と博士がクロポトキンを讚えれば、「そこだ、先生!」と青年文麿は卓子を叩いて叫んだ…
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堀江邑一 :マルクス経済学者河上肇の一番弟子、『中央公論』『改造』に中国関連論文を多数発表「 昭和研究会 」嘱託、戦後 日本共産党 入党、日ソ協会顧問、日ソ図書館長や日ソ学園理事長歴任
尾崎秀実 朝日新聞 記者、第1次~3次近衛内閣内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員、近衛主催の政治勉強会「 朝飯会 」参加、ゾルゲ・ソ連スパイ事件の犯人、コミンテルン公認共産スパイ、1944年11月7日、巣鴨拘置所で 獄中記 を執筆。死刑執行
中野正剛 :日報社、 朝日新聞 記者、東方時論社社長兼主筆、元衆議院議員、初代東方会総裁、憲政会・立憲民政党と政党を渡り歩く。1939年には議会政治否定・政党解消を主張して衆議院議員を辞職、後の選挙で当選復帰。南進論・日独伊三国同盟を支持し、撃栄東亜民族会議を主催
 1940年、 大政翼賛会 総務に就任
 1943年10月27日、自宅にて割腹自決
風見章 :第1次近衛内閣書記官長就任。国際通信、 朝日新聞 記者、戦後の左派社会党顧問、日ソ協会副会長、日中国交回復国民会議理事長、ゾルゲ事件逮捕近衛元総理に既成政党を全て抹消するよう進言し、近衛から賛同を得ている。立憲政友会・立憲民政党の2大政党に内紛を起こさせて同党を解散に追い込む政治工作を行い、後の 大政翼賛会 の結成に至った。
赤松克麿 :「 大政翼賛会 」初代企画部長、衆議院議員、東洋経済新報社の雑誌「解放」の編集、日本産業協力連盟理事長、日本革新党 党務長、左翼活動家・国家社会主義運動家に転じた。
牛場友彦 :内閣総理大臣秘書官を務め、 朝飯会 を発足、尾崎秀実を近衛文麿に紹介、日本経済復興協会の理事、日本輸出入銀行幹事、日本不動産銀行顧問
三木清 :大谷大学、龍谷大学で教鞭。哲学者。 日本共産党 に資金提供し被逮捕 朝日新聞 論説委員、参議院議員、九州帝大法文学部教授、『九州日報』『改造』『中央公論』で執筆。熊本日日新聞社社長兼主筆、ゾルゲ事件発覚時に尾崎秀実関連記録隠滅

藤隆之助 大政翼賛会 の組織局長大日本連合青年団主事。「(1)現行憲法の範囲内で国内改革をする、(2)既成政党を排撃する、(3)ファシズムに反対する」の3点を根本方針とする 昭和研究会 設立趣意書を発表。蝋山政道、高橋亀吉、笠信太郎、尾崎秀実、三木清らを集めて、政治・経済・外交・文化等各方面に亘る国策研究を進めた。第1次近衛内閣発足時に、ブレーンとして組閣参謀を務め、戦後、 昭和研究会 の関係者を集めて「昭和同人会」を作った。
笠信太郎 朝日新聞 論説主幹。東京商科大学本科を卒業。同研究科退学。1936年1月 朝日新聞 入社、同年9月論説委員。近衛文麿のブレーン組織「 昭和研究会 」、 朝飯会 参加。1940年10月ヨーロッパ特派員としてドイツ駐在を発令され渡欧、戦後1948年2月に帰社後14年10か月間、論説主幹を勤めた。安保条約改定に反対し、1958年の 朝日新聞 には「世界連邦を日本の国是とせよ」という社説を書いた。
益田豊彦 :1900年5月22日~1974年7月11日。1924年、東京帝大法学部政治学科を卒業。高松高等商業学校教授就任。1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任。1934年、東京 朝日新聞 入社、東亜問題調査会に配属され尾崎秀実と出会う。1936年、 昭和研究会 に参加し、外交問題研究会委員となった。戦後は 朝日新聞 の大阪本社代表取締役、東京本社代表取締役を歴任。1965年に取締役を退任
蝋山政道 :1895年11月21日生。民主社会主義の提唱者。東京帝大法学部教授。1930年代、軍部台頭のなかで政党政治の行き詰まりを打破する為「立憲独裁」を提唱し、 昭和研究会 設立構想に参加。1942年、衆議院議員、 大政翼賛会 推薦で衆議院議員に当選。占領期に公職追放。中央公論社副社長、日本政治学会理事、民主社会主義研究会議議長に就任。日米安保肯定論で民社党の外交防衛政策を理論づけた。1980年5月15日、急性心不全で死去

 大正末期の治安維持法制定当時、マルクスやレーニンの翻訳本が爆発的に大量出版された。
 第一の理由は、1925(大正14)年1月20日のソ連との国交回復によって、大使館という情報調略工作基地を得たソ連が、すぐに日本の出版界や学界を牛耳り支配したからである。
 第二の理由は、日本人の知的水準や嗜好とよほど馬が合ったのか、猫も杓子もマルクスやレーニンに飛び付いたからである。
 それらの著作に対する需要は世界一だった。
 昭和初期は、宮沢賢治がカールマルクスを天才と讃える『生徒諸君に寄せる』の執筆に着手したように、共産思想が青年達の心を把んだ時代だった。
 1929年の米国での株の大暴落による世界恐慌で、翌1930年から、日本では、 神話『ソ連型の計画経済のみが日本経済を救済する』が絶対的に信仰された。
 だから、ソ連型計画経済を概説した著作は大人気で、官界でも陸軍でも、学界と同じく、大量に読まれた。…(中川八洋『山本五十六の大罪』p.259)  張作霖爆殺事件4か月前の1928(昭和3)年2月に日本国内で初めての普通選挙が行われ、このとき天皇制打倒を掲げた政党の躍進に脅威を感じた田中義一内閣は、 治安維持法違反による全国一斉検挙にふみきった。
 日本共産党、労働農民党等の関係者約1600人余が検挙され、484人が起訴された(3.15事件)。
 東京帝大等のエリート学生148名も共産主義者として検挙された。
 翌年4月16日には地下党員を中心に339名が検挙され、日本共産党は一旦壊滅したが、ただ単にソ連に憧れるだけの多くの日本人達は検挙されなかった。
 1938(昭和13)年に女優 岡田嘉子がソ連に憧れて演出家の杉本良吉とともに樺太からソ連に亡命したが、ソ連にたどり着くと2人は捕えられて厳しい取調べを受け、杉本はスパイ容疑で銃殺刑に処せられた。
 戦後のマスコミが北朝鮮を地上の楽園と報道して多くの日本人達を送り込んだのと同様、当時のマスコミはソ連を地上のパラダイスであるかのように煽っていたようだ。
 マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で「共産主義者の目的は社会秩序の暴力的転覆によらなければ達成しえない」と書いているのだが、この考え方に嵌ってしまうとあらゆる破壊行為が正当化されてしまう。
 昭和初期に日本軍人の間にマルキシズムが浸透し、軍命令よりもソ連の工作に協力することを優先し、日本軍の情報を漏洩し、コミンテルンからの指示で動く軍人が少なからずいたとしたら、彼等は戦争を終わらせる方向でなく、長引かせる方向に持ち込んで、体制の転覆に持ち込もうとしただろう。
 通史では昭和の初期において軍部が政府の命令を無視し、暴走したと書かれているのだが、彼らの「暴走」のいくつかはコミンテルンの工作指示に基づいたものだという記録も残されている。
 ノモンハン事件、ポートモレスビー激戦、ガダルカナル島激戦、インパール作戦等で、権謀術数を凝らして無謀な作戦が遂行されるように工作し、膨大な人数の日本兵達を死に追いやる企みのもと 敗戦革命論 を神憑り的に実践した 辻政信 は、戦後、著書『潜行三千里』を出版し慰安婦が軍属だったと主張した。

砕氷船理論 ヨシフ・スターリンが実行したと言われる戦略 (第二次世界大戦におけるドイツと日本の侵略を「砕氷船」として利用し、その対象となって疲弊した地域を共産主義陣営に取り込む)。
 近年では、在野の歴史研究家杉本幹夫が「興亜院政務部・コミンテルン関係一括資料」中の文書をもとに、第七回コミンテルン大会でスターリンが次のような演説を行ったと主張している。
 「ドイツと日本を暴走させよ! しかし、その矛先を祖国ロシアに向けさせてはならぬ。ドイツの矛先はフランスと英国へ、日本の矛先は蒋介石の中国へ向けさせよ。そして戦力の消耗したドイツと日本の前に、最終的に米国を参戦させて立ちはだからせよ。日、独の敗北は必至である。そこで、ドイツと日本が荒らしまわって荒廃した地域、つまり、日独砕氷船が割って歩いた後と、疲弊した日・独両国をそっくり共産主義陣営にいただくのだ。」

フランス左翼と日本サヨクの違い
 フランス革命後の1789年9月11日に開催された憲法制定議会で、急進派が議長席から見て左側の座席を占め、王党派が右側の座席を占めたことから、急進派を左翼と言い、王党派を右翼と言うようになった。
 オーストリアが、フランス革命に伴う債券失効及び革命の自国への影響を懸念し、フランスに干渉した結果、仏墺戦争が起こり、オーストリアと同じ危惧をもつ周辺国が対仏大同盟を結成してフランスに対抗した。
 これらの戦争で、 フランスでは、左翼も右翼も自国の勝利の為に努力 したのである。
    第一次対仏大同盟(1793年~1797年)
    第二次対仏大同盟(1798年12月24日~1801年)
    第三次対仏大同盟(1805年4月11日~1806年)
    第四次対仏大同盟(1806年10月6日~翌年7月7日)
    第五次対仏大同盟(1809年4月9日~10月14日)
    第六次対仏大同盟(1812年~1814年)
    第七次対仏大同盟(1815年3月25日~7月8日)
 しかし、 日本のサヨクは、当初から、 階級闘争至上思想 に洗脳された 敗戦革命論 実践者達 だった。

1924年東京ラジオ放送局発足時の初代総裁は、日ソ国交回復に尽力して「赤い男爵」と異名をとり、その後の日本を「 砕氷船 」として、中国国民党やアメリカとの泥沼戦争に向かわせる状況を作った人物だった。
1926年8月、東京放送局は大阪ラジオと名古屋ラジオを統合してNHKに改組された。総裁が逓信大臣に指名されることに屈辱を感じた後藤新平は就任せず、総裁職は空席となった。
1936年2月26日、資本家階級討伐の為「尊皇討奸」を掲げた陸軍青年将校らが千五百名弱の下士官兵を率いてクーデターを試み、高橋是清蔵相、斎藤実内務相、渡辺錠太郎陸軍大将、松尾伝蔵大佐らを殺害するとともに、鈴木貫太郎侍従長らに重傷を負わせた。
同年9月、十年間空席だった日本放送協会総裁に近衛文麿が就任し、国家社会主義的価値観に基づくプロパガンダ放送に注力した。同年11月、「昭和研究会」正式発足。
1937年6月4日、第1次近衛内閣発足(朝日新聞記者 風見章が内閣書記官長に就任。国内融和を図る為という口実で、治安維持法違反者、共産党員、二二六事件関係者等に係る大赦を主張)。1箇月後に盧溝橋事件勃発→北支居留民保護名目派兵→第二次上海事変交渉決裂→日中戦争(支那事変)拡大→「爾後国民政府を対手とせず」と発表、対中講和の道を閉ざした。
近衛内閣は、1938年4月に国家総動員法を制定して戦時体制を整え、同年11月には戦争目的に「東亜新秩序建設」を掲げる声明を発表した。また、新体制運動・大日本党結党の提唱が契機となって1939年1月に内閣総辞職したが、日本放送協会総裁の座は譲らず、ラジオ放送の実権を握り続けた。
1940年7月22日、第2次近衛内閣成立。同年9月27日に日独伊三国同盟締結。同年10月、大本営の責任者に杉山元参謀総長を据えるとともに、大政翼賛会を設置(朝日新聞記者 中野正剛が総務に、国家社会主義運動家 赤松克麿が企画部長に就任)した。
1941年4月13日、日ソ中立条約締結。同年7月28日、南部仏印進駐。
1941年9月~1942年4月、日本国内で諜報謀略活動を行っていたソ連のスパイ達(近衛文麿のブレーンら)が逮捕された。朝日新聞論説委員 佐々弘雄らは関連記録を隠滅した。
1944年3月1日、 アサヒグラフ 「撃て!この鬼畜米国!」発刊。
1945年8月6日原爆広島投下、同月8日原爆長崎投下、同日ソ連対日宣戦布告、同月14日に日本はポツダム宣言を受諾し翌15日に昭和天皇による「敗戦受諾の詔書」を全国放送した。蒋介石は抗日勝利演説を行った。
しかし、 敗戦革命論 実践者達による終戦引き延ばし工作( 宮城事件 )が行われ、それと呼応するかのように、同月20日の ソ連軍樺太住民数十万人虐殺 と同月25日のソ連軍樺太全土占領が為された。
朝日新聞 は、サヨク的論調で日本の軍国主義や非人道的行為を非難している。
 その手口は、戦後政治の主導権を握る為マカーサにいち早く接近するとともに、責任を総て軍部に押し付け、元凶である 昭和研究会 のメンバーを咎めようとしなかった近衛文麿の行動に通ずるものがある。
 元凶である 昭和研究会 のメンバーに 朝日新聞社 の重鎮が名を連ねているが、彼らは、軍国主義化・侵略戦争の元凶が天皇制・軍部・独占資本主義だったかのように歴史を改竄した。
 本多勝一は、 「南京大虐殺」写真の捏造 を行った。
 自ら悪事を為し他に濡れ衣を着せるのは、 朝日新聞 の常套手段 である。 サヨクが流行らせた幻像「 ネトウヨ 」は、我々に当て嵌まらない。軍国主義・侵略戦争賛美は、懐古的国家社会主義者に相応しい所業である。
 我々の立場は、中国国民党の支配を嫌い中国共産党を拒絶する 台湾天然独 に近い。これを土民派と称することができるなら、我々は ドミン である。

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