李承晩は,1875年03月26日,没落両班の家に生まれた
朝鮮総督府による身分解放,教育改革,文化向上,宗教改革,造林等の諸施策は,庶民生活を向上させた反面,両班等の特権を奪う側面をもっていた.特権階級の深層心裡には,日本に対する恨みが蓄積しても不思議ではなかった
プリンストン大学留学中,ウッドロウ・ウィルソン総長の目に留まった李承晩は,朝鮮独立運動家としてアメリカで人脈を築き,数年後,合衆国大統領に当選した同総長(米国民主党)の後ろ盾を得て,米国で朝鮮独立運動家としての名声を高めていった
太平洋戦争終結後1945年09月09日に,米軍は朝鮮総督府から降伏文書の署名を受け,新設された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が朝鮮総督府の統治機構を一部復活させて直接統治を実施した
連合国は同年12月のモスクワ三国外相会議で,朝鮮半島の信託統治を協定し,1946年01月から京城府で信託統治実施に向けた米ソ共同委員会を開催した
しかし,共同委員会は信託統治受け入れに反対する李承晩,金九ら活動家の扱いを巡って紛糾し,米ソ対立から1947年07月に決裂した
アメリカは朝鮮問題を国際連合に持ち込み,国連は同年11月14日に国連監視下で南北朝鮮総選挙と統一政府樹立を行うことを決定した
1948年に米軍統治下の朝鮮のみで独立することが決まると,米軍は,独立準備に当たらせ,憲法制定国会を招集した
同年01月に国連はUNTCOKを朝鮮へ派遣し,総選挙実施の可能性調査を行なった
ソ連がUNTCOKの入北を拒否した為,アメリカ主導の国連は同年02月26日にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施を決定し,金九,金奎植ら活動家や北朝鮮人民委員会による南部単独での総選挙反対を押し切って同年05月10日に南部単独総選挙を実施した
その際,憲法起草委員会が新国家の憲法起草と共に新国家の国号と年号も決めることになり,同年06月23日の採決で,独促国民会が推す「大韓民国」が新国家の国号として決定された.制憲議会は同年07月12日に制憲憲法を制定し,同月20日には李承晩を大韓民国大統領に選出して独立国家としての準備を性急に進めた.実効支配していたのは朝鮮半島南部に限られていたが,憲法上は,鴨緑江,豆満江以南の「韓半島及び付属島嶼」全域を領土と定めた
同年08月13日,李承晩が大韓民国政府樹立を宣言し,大韓民国が同月14日成立し,同月15日独立祝賀会が行われ,実効支配地域を北緯38度線以南の朝鮮半島のみとしたまま大韓民国が独立国家となった
朝鮮半島の南北分断固定化反対を唱える勢力は,総選挙の実施に激しく抵抗し,半島南部は内乱の様相を呈した
済州島では数万人の島民が殺害されたが,その際,多くの共産主義者が日本に逃れて在日コリアンとなった
同年05月10日(米国の政権は民主党)に実施された投票の結果,米軍の威を借る李承晩が大統領に選出された
投票率
:95.5%
有権者数:8,132,517名(うち選挙人名簿登録者7,487,649名)
有効票:7,216,942票
初代総選挙党派別議席と得票
党派
|
得票数
|
得票率
|
議席数
|
占有率
|
無所属
|
2,745,483
|
38.1
|
85
|
42.5
|
大韓独立促成国民会
|
1,775,543
|
24.6
|
55
|
27.5
|
韓国民主党
|
916,322
|
14.5
|
29
|
12.7
|
大同青年団
|
655,653
|
9.1
|
12
|
6.0
|
朝鮮民族青年団
|
151,043
|
2.1
|
6
|
3.0
|
大韓労働総連盟
|
106,629
|
1.5
|
1
|
0.5
|
大韓独立促成農民総連盟
|
52,512
|
0.7
|
2
|
1.0
|
諸派
|
813,757
|
11.2
|
10
|
5.0
|
合計
|
7,216,942
|
|
200
|
|
正副大統領選挙(7月20日)の結果
|
大統領選挙
当落
|
候補者
|
得票数
|
得票率
|
当選
|
李承晩
|
180
|
91.8
|
|
金九
|
13
|
6.6
|
|
安在鴻
|
2
|
1.0
|
|
徐載弼
|
1
|
0.5
|
合計
|
195
|
|
|
副大統領選挙結果
候補者
|
得票数
|
得票率
|
李始栄
|
133
|
67.5
|
金九
|
62
|
31.5
|
李亀洙
|
1
|
1.0
|
無効票
|
1
|
1.0
|
合計
|
197
|
|
|
左派や中間派がボイコットした結果,右派勢力が圧倒的多数を占める結果となった.しかし,李承晩系の独立促成国民会や地主有産階級の韓民党はふるわず,改革志向の無所属候補が多数当選し,院内における多数派となった
総選挙後の
5月31日
に制憲国会が開会,議長に
李承晩
,副議長に
申翼熙
が選出された.日本による植民地支配から解放された
8月15日
に政府樹立を宣言する必要性から,
7月12日
に
大統領中心制
を基礎に
内閣責任制
を部分的に取り入れた憲法草案が国会を通過,
7月17日
に交付され,同日から
大韓民国憲法
が発効した.続いて
7月20日
に国会議員による正副大統領選挙が行なわれ,大統領に
李承晩
,副大統領に
李始栄
が,それぞれ当選した(就任は
7月24日
)
同年08月15日,朝鮮半島南部を実効支配する勢力が,大韓民国政府の樹立を宣言した
翌月9日,朝鮮半島北部を実効支配する勢力が,朝鮮民主主義人民共和国の建国を宣言した
大韓民国は「北進統一」を,朝鮮民主主義人民共和国は「国土完整」を唱え,それぞれが相手方を併呑する形での朝鮮半島統一案を提示した
1949年01月7日,李承晩は,対馬と九州の領有を主張し「李承晩ライン」を宣言したが,アメリカ高官の叱責を受け要求が通らないことを知って宣言を撤回した
初代総選挙は,
アメリカ軍政庁
統治下で行われた選挙であるが,2回目の総選挙は大韓民国政府が主管して行なわれた初めての選挙となった
1948年
5月
の
総選挙
で選出された初代国会議員の任期(初代国会議員は任期2年)が1950年
5月31日
で満了する為,第2代国会議員を選出する為の第2代総選挙は,
同年
4月12日
に公布された選挙法に基づいて同年
5月30日
に実施されることになっていた.しかし,
李承晩
大統領は,
責任内閣制
を含む憲法改正を支持する勢力が多数を占める可能性に危機感を持ち,選挙運動によって,緊急を要する予算案など山積している重大議案を審議する際の国会議員の出席率が悪くなると,いう表向きの理由でもって,11月末まで選挙を延期することを発表した.しかし,選挙延期に対して,
国連
の臨時朝鮮委員団が選挙延期に反対する通告を,アメリカの
アチソン
国務長官
が「選挙延期をした場合,軍事経済援助は再考せざるを得ない」旨の覚書を送るなど,内外から強い反対があった為,選挙は予定通り5月30日に実施されることになった
日本統治時代に日本に協力した「民族反逆者」に対する公訴時効が満了となった為,彼らにも選挙権及び被選挙権が与えられた.また,南朝鮮だけの単独選挙と単独政府に反対し,初代総選挙をボイコットした南北協商派及び中間派がこの総選挙に参加したことで立候補者数は2,000名を超え,激しい選挙戦が展開された
党派別得票と議席数
党派
|
得票数
|
得票率
|
議席数
|
占有率
|
無所属
무소속
|
4,397,287
|
62.9
|
126
|
60.0
|
大韓国民党
대한국민당
|
677,173
|
9.7
|
24
|
11.4
|
民主国民党
민주국민당
|
683,910
|
9.7
|
24
|
11.4
|
国民会
국민회
|
473,153
|
6.9
|
14
|
6.7
|
大韓青年団
대한청년단
|
227,537
|
3.3
|
10
|
4.8
|
大韓労働総連盟
대한노동총연맹
|
117,939
|
1.7
|
3
|
1.4
|
社会党
사회당
|
89,413
|
1.3
|
2
|
1.0
|
一民倶楽部
일민구락부
|
71,239
|
1.0
|
3
|
1.4
|
諸派
|
75,280
|
3.6
|
4
|
2.0
|
その他
|
174,109
|
2.5
|
0
|
0.0
|
合計
|
6,987,040
|
|
210
|
|
基礎データ
・
大統領
:李承晩
・改選議席数
:210議席
・議員任期
:4年
・選挙制度
:
完全小選挙区制
・立候補者数
:2,209名
選挙結果
・投票日
:1950年
5月30日
・投票率
:91.9%
与党系の大韓国民党及び国民会,大韓青年団などは57議席に留まり,過半数を確保することが出来ず,無所属が総議席数の六割を占めた.無所属議員の大部分は議長選挙において野党側の候補に投票するなど,反李承晩の姿勢を明確にし,第二代総選挙では李承晩政府に対する不信任の結果が示される結果となった
2年後任期満了時の再選を危ぶんだ李承晩は,人気挽回策として,対日戦意を煽り「対馬侵攻」を名目に精鋭軍を南下させ釜山に集結させた
手薄となった首都ソウルは,「国土完整」を唱える朝鮮民主主義人民共和国軍にとって,格好の餌食に見えた
1950年06月25日早朝,大軍による総攻撃が,青天の霹靂の如く,何の前触れも無く始まった
勘違い,誤報,意図的な偽情報が韓国中を飛びかい,何が事実なのか誰も分からなかった.侵攻が李承晩に知らされたのは,砲撃開始から数時間たった後であった.北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下をつづけ,開城はたった数時間で陥落.防衛ラインは次々と突破され,韓国軍はひたすら敗走を続けた
翌々日午前1時,韓国政府は非常閣僚会議で,ソウルを捨てて南にある水原への遷都を決め,李承晩は更に南の大田に逃れた.ラジオは「国連軍が助けてくれるから安心しろ」と大統領の肉声を放送し続け,新聞は事実と異なる韓国軍の反攻を伝えていた
画像は漢江大橋の爆破場面.アメリカ・NBCの従軍記者が撮影したとされる
大統領が逃げ,国民を欺き続ける中で,北朝鮮の南進を少しでも遅らせる為,韓国軍はソウルを東西に流れる漢江の人道橋を爆破した
画像は,漢江大橋の爆破後,浮き橋で川を渡る人々
韓国の聖公会大学教授,韓洪九氏は以下のように当時の状況を説明している
6月28日午前2時30分頃,総参謀長チェ・ビョンドク一行が漢江歩道橋を通過した直後,陸軍工兵監大佐チェ・チャンシクは漢江橋の爆破を命令した
市民に安心して生業に従事しろと言い残し,自分らが抜け出た後に橋を落とした.爆破当時,漢江橋には避難民が多数居り,五百~千五百人が命を失ったと推定されている.後に,橋爆破の現場責任者だったチェ・チャンシク大佐は,漢江橋爆破で莫大な車両と軍人が墜落し,無事な車両装備および軍需物資が敵に捕獲され,数万の兵力が渡江できない混乱を発生させた罪で処刑された
多数の民間人を犠牲にした作戦だったが,離れた場所に架かっている鉄道用の鉄橋は爆破に失敗し,北朝鮮軍の南進を防ぐ
効果はなかった
李承晩は,大田に逃げ,大邱に逃げ,先に精鋭軍を集結させていた釜山に,北朝鮮軍総攻撃開始から1週間後に到着した
同日,米軍機動部隊が大田に到着,防衛線を築いた
数日後,北朝鮮軍は韓国軍を攻め,それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した.韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ,それを北朝鮮軍が使い,米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった
しかし,李承晩は,韓国軍が前線に立つことを主張し続け,状況は改善されなかった
その結果,米軍主体の国連軍は敗北を重ね,8月末には,北朝鮮軍が釜山まで60キロメートル余の昌寧郡に迫った
9月2日,マッカーサー元帥が国連安全保障理事会に「国連軍の活動に関する第3次報告書」を提出し,国連軍増強の必要を強調した.また「北朝鮮軍がカムフラージュの為に民家や民間輸送機関を利用しており,軍事目標を識別することは著しく困難である」旨説明し,民間人・施設に対する攻撃の正当性を説明した
民家人を装い,或は,民間人に紛れ込んで,民間人が攻撃しているように見せかけるのは,共産主義者の常套手段.民間人の犠牲を材料とするプロパンガは,彼らの強力な武器となる
9月15日,国連軍は,仁川上陸作戦を成功させ,ソウルを奪回した
10月10日,国連総会の承認を受けた国連軍は,破竹の勢いで北進
10月20日,国連軍が平壤を占領
国連軍平壤占領と相前後して朝鮮に入っていた中共軍は,10月24日,韓国軍を攻め,それを崩壊させて横にいる米軍を包囲した.韓国軍は大量の米軍装備を放棄して逃げ,それを中共軍が使い,米軍の装備で米軍兵が殺害される状況になった
しかし,李承晩は,韓国軍が前線に立つことを主張し続け,状況は改善されなかった
その結果,米軍主体の国連軍は敗北を重ね,12月5日,中共軍が平壌を占拠
12月28日,中共軍が38度線南方3キロの開城市を占領
1951年01月,中共軍がソウル占領
同年03月,国連軍がソウル奪還
同年04月11日,マッカーサーが国連軍最高司令官およびGHQ最高司令官を解任される.後任は第八軍司令官リッジウェイ中将
その後,戦況は,一進一退を繰り返したが,国連は,粛々と休戦への道筋を作り,6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された
6月18日,李承晩は,国連決議を無視し,アメリカに何の予告も無く,抑留中の朝鮮人民軍捕虜二万五千人を北へ送還せずに韓国内で釈放させ,国際世論の非難を浴びた.この釈放は,不法に抑留した日本人の返還と引き換えに,常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として日本の刑務所で収監されている韓国人受刑者に対する放免・日本永住許可付与を要求した
手口
に相通ずる処がある
1952年5~7月,
釜山政治波動
(政変)が起こった
8月で任期満了する李承晩の再選は,絶望視されていた.第2代国会議員選挙で反李承晩勢力が国会の多数派を占めた上に,戦争中に発覚した行政の無策,国民防衛軍事件,居昌良民虐殺事件など不正腐敗が発覚したからである
李承晩は,大統領の選挙制度を国会議員による間接選挙から国民による直接選挙へと改正することで,自身の再選を確実なものにしようと,憲法改正案を国会に提出したが否決されたので,官製団体による国会解散要求デモ展開,臨時首都一円への戒厳令宣布,国会議員検挙などの改憲反対派弾圧を行った
その結果,7月4日,大統領の直接選挙制を軸とする憲法改正案,所謂「抜粋改憲案」が可決された
その後も,戦況は一進一退を繰り返していたが,
1953年07月27日に板門店で朝鮮戦争休戦協定が結ばれた.署名者は,アメリカ陸軍ウィリアム・ハリソンJr中将,朝鮮人民軍(兼中国人民志願軍)代表南日大将,国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将,中国人民志願軍司令員彭徳懐,朝鮮人民軍最高司令官金日成
李承晩は,統一を求めて休戦に反対し,署名には加わらなかった
その後,選挙の都度,不正を重ねて再選し続けたが,1960年03月の不正選挙で堪忍袋の緒が切れた学生や知識層を中心とする国民による
大規模デモが続発
し,軍部にも見放されて,ハワイへの亡命を余儀なくされた