索引
青年日本の歌〔昭和維新の歌〕
作詞作曲した海軍少尉三上卓は、後に、
5・15事件
に参加して禁固15年の判決を受けた。
この歌は、
2・26事件
に連座した青年将校らにも歌い継がれたが、1936年、暴力を煽るという理由で発売禁止となった。
三上は、1941年3月、井上日召、四元義隆、菱沼五郎らと「ひもろぎ塾」を設立し、近衛文麿NHK総裁のブレーンとして活躍した。
更に、1943年には、大政翼賛会の傘下団体である大日本翼賛壮年団の理事に就任した。
(一)汨羅の渕に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く
汨羅とは現代の湖南省を流れる川であり、戦国時代の末期、楚の詩人・屈原は、主君である懐王とその子である頃襄王の対外政策に異を唱えたため宮廷を追われ、長江より南の汨羅江河畔の玉笥山に流された。屈原はこの地で生涯でも最も重要な作品である『離騒』などを書いた。これは後に編集された『楚辞』にも収録され、楚国の詩の代表作とされる。紀元前278年に楚の都・郢が秦軍に攻め落とされると、屈原は国を救う望みがなくなったことを感じ、旧暦五月五日の端午節に『懐沙』を書き、汨羅江に身投げしたと言われている。巫山とは巫山の夢に由来されており、同じく楚の懐王が高唐で昼寝をしていると、夢の中に巫山の神女が現れ、契りを結んだという故事から、意味は男女の情交がこまやかなことである。この 汨羅の淵に波が騒ぐとは世を憂いて自決する人が後をたたず 、男女の性交も乱れる混沌とした世の中に義に駆られて我がたてば血潮が沸いてくるおいう意味である。
(二)権門上に傲れども
国を憂うる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思う心なし
権門とは早い話が国家権力である。我々草莽の臣の行動たるは、『権門に媚びず 名利を求めず』をモットーにしている。 権力者が天皇に奢り高ぶり国を憂える誠が無いというのは、現代の民主党政権が天皇と皇室を奢り国を憂えて無いのと同じである。また、財閥富を奢れども社稷を思う心の社稷とは、社と稷の総称である。つまり経団連のような金儲け至上主義の輩が自然を壊し食料自給率も考えない心ぶりであるということである。
(三)ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり
人は裕福になり人権を謳歌して国は滅ぶ。何も考えない民が世間でいい憚り、世の中は繁栄と衰退の繰り返しであり物事が興れば亡びるのに似て世の中の移りは碁の一局と同じである。
(四)昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花
(五)古びし死骸乗り越えて
雲漂揺の身は一つ
国を憂いて立つからは
丈夫の歌なからめや
(六)天の怒りか地の声か
そもただならぬ響あり
民永劫の眠りより
醒めよ日本の朝ぼらけ
(七)見よ九天の雲は垂れ
四海の水は雄叫びて
革新の機到りぬと
吹くや日本の夕嵐
(八)ああうらぶれし天地の
迷いの道を人はゆく
栄華を誇る塵の世に
誰が高楼の眺めぞや
(九)功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう
(十)やめよ離騒の一悲曲
悲歌慷慨の日は去りぬ
われらが剣今こそは
廓清の血に躍るかな
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